年の瀬が近づいていたが、幻想郷に訪れた寒波は例年ほど強烈ではなかった。雪が降らないのは皆無だったが、吹雪く日もあれば綿雪がたまに舞い降りるだけの日もあった。
人間を守護する半人半獣の少女・上白沢慧音によって人界との接触を拒絶された清弥とそらは、直後に起こった妖怪同士の争いの混乱に紛れ、這々の体でその場を脱出し、寄る辺もないまま森へと逃げ帰った。しかし、最も安全であろう博麗神社への道は自らの判断で閉ざしてしまっている。他の縁故といえばあの風変わりな店――香霖堂ぐらいだったが、霊夢が立ち寄る可能性の高さを考えれば、選択肢に入れられるわけもない。また、森の中の建築物であれば、例の傘の少女に見つけられる危険性もある。霊夢によって撃退されたものの、調伏されたのではないのだから。今もそらを追っているのは間違いない。
やむなく清弥は、前年越冬に使った根拠地にそらを連れて行った。彼らが辿り着くまで、冬は猶予を与えたのだろうか。山間部だとというのに、旅路のあいだ天候が劇的に崩れることはなく、雪は比較的天に留まっていた。
そこは森の奥――切り立った崖に隠れるように穿たれた横穴だった。前年、清弥が四苦八苦して丸太を組み、雪にも耐えられる間に合わせの扉が設けていた。妖怪など外敵から見つかりにくいよう、遠くから見れば岩肌に見える色彩を施し、周辺も岩や瓦礫で覆っている。
奥はそんなに広くはないものの、二人が寝るには十分の広さだった。しかし、なにしろ長い冬を過ごす場所だから、清弥の体臭は勿論のこと、捕らえた獲物の血肉の臭い、汚濁や木炭の匂いが沁み込んでいる。不衛生な場所にそらを迎えるのは断腸の思いだったが、他に術はなかった。そらが決して文句を言わないのを知っている自分が後ろめたかった。
実際、そらはどんな状況についても一言も不満を口にしなかった。
その日から、二人だけの生活が始まった。
未熟な狩人として一人で旅をしていた頃と同様の、ただ生きる為のみの生活。それも今回は、保護の対象を養いながら生き抜かなければならない。苦労は数倍になった。
前回の越冬の際はそれなりに充分な準備を整えていた。暖を取る炭も獲物の減少に備えた保存食もきちんと準備していた。それらがほぼ皆無だ。不足していないのは水だけだった。
昼間の大部分は食料の確保に追われた。
獲物を求めて山中を流離う。寒さのおかげで食料の保存について考えなくていいのは助かったが、動物を見つけること自体が非常に困難だった。もともと、冬籠もりしない動物たちは移動範囲が広いので発見に苦労する。
ここでも障害となるのはそらの存在だった。日がな一日洞穴に隠れているよう指示をし、そらは忠実にそれを守っていたものの、清弥に結界を張る技量などないのだから、五感以外の力で人妖がそらを探しているのなら防壁は無いに等しい。遠出は不可能だった。それが、狩りの成功率を大幅に下げた。
また、他にもすべきことは多かった。
松の根を掘り返して火種に使う。枯れ木は雪の下に埋まってしまっているので生木を折り、乾かして薪に使う。倒木を見つけても斧を使えば音で森に波紋を起こしてしまうから慎重にならざるを得ない。結局のところ、絶やしたくない火を使える時間がなかなか伸ばせない。燐寸だって貴重だ。
毎日一定時間は雪掻きの必要もあった。あまり雪を整えてしまっては人跡を晒すことになるが、入り口が雪で覆われて閉じこめられては生死に拘わる。崖は屋根の様に張り出しているし、そこまで極端に降ることも稀だったが、降り止まぬ雪を窺えば不安にならない日があるはずもない。
そらとも仕事を分けあって、忙しく一日を過ごした。食糧事情など、いくつかのささやかな幸運が重なり、溢れんばかりだった絶望とは裏腹に、洞穴での暮らしは比較的淡々と続いていった。人妖の襲来も訪れない。それが、緊張感を徐々に削り取っていった。
夜。
小さな窓の向こうの雪空を窺いながら、ささやかな焚き火を囲みながら。清弥とそらはその日も静かに同じ時間を生きていた。そらは元より、清弥も言葉数が少なくなっていた。だが、二人の顔からは微笑みが消えない。
自分の為でなく、相手の為の笑み。
心配を掛けてはいけない、ただその一心で。
言葉を紡げばまたそれが悲しみの原因になる。
だから二人は、微笑み続けていた。
霊夢の……いや、今はそらが所有者である仏蘭西人形が足を投げ出したまま、静かに暮らす二人を虚ろに見つめている。
一方――
二人が座る洞窟の天井付近。尖った岩肌の、死角になって光の届かない奥まった影。ちょうど台座のような張り出しがある。そこに、頭に大きなリボンを付け、金髪を植え付けられた少女人形が座っていた。天井近くにある為に煙の煤だらけだったが身じろぎ一つしない。丸々と広がった硝子の瞳が、常に二人の様子を観察している。
その瞳を通じて、覗き込む者がいた。
洞窟がある切り立った崖の一番上。
雪の積もった小高い丘に、昼夜天候を問わず立ち尽くす孤影。
雪の積もったブロンドの髪。
手には己の為の魔道書。
アリス・マーガトロイドだった。
博麗神社を離れて以来、アリスは二人をずっと追跡してきた。正確には、赤く燃える秋の森でそらと邂逅してから、ずっと。他人の営みにこれほど執着するのは初めてだった。
何故、自分はあの二人をかくもしつこく追いかけてきたのだろう。
勿論、関わった行きがかり上で少女の正体も知りたいし、近くにいれば苦杯をなめた本来の仇と再戦できるかもしれないという目論見もある。
でもそれ以上に、二人の事が気になった。
目が離せないのだ。
非合理的で、ことごとく愚かな選択をし、
自ら生きる術を放棄するかのように振る舞って、世界にさえ裏切られながら、
それでも互いを求めて微笑む二人。
人妖でありながら、人間としてのまっとうな生活を望み続ける二人。
彼らにあって自分にないものは一体何なのか。彼らになくて自分にあるものは一体何なのか。そして――この胸を突く奇妙な思いはなんなのか。
魔理沙には釘を刺された。パチュリーにはプライドを叩頭させられた。そして自分は感情に流されないはずだ。正確な把握。
確かに自分の力量を上回る事態が何処かで進行している気がする。彼らはその歯車だ。もう拘わるべきではないのかもしれない。保身は勝利の為の手段であって、卑怯でも臆病でもない。そして自分は博麗霊夢ではない。悔しいが、自分は世界を変容する力など持ってはいない。
それでも……どうしても見届けたい。
この二人がどういう結末を迎えるのか。
手に手を取って黄泉津平坂を降りていくのか。それとも――
あの幼い吸血鬼のお嬢様の言い草ではないが、運命が示される瞬間を見たかった。
だからこうして、何日も雪の森を見下ろしている。半ば雪に埋もれながら、ソドムとゴモラを振り返り、塩になった愚者のように。
破綻は肉体的なことから始まった。
清弥が高熱を出したのだ。
洞窟に来て以来、不定期に咳をするようになっていた清弥だったが、不寝番の回数を多く努めて睡眠時間を削り、なおかつ食料を探して雪山を歩き回っていたため、遂に限界が訪れた。
その日の朝も狩りに出ようとして、清弥は洞窟の前で雪に足を取られ、不自然に倒れ込んだ。そのまましばらく動けない。
見送ろうとしたそらが小さく悲鳴を上げ、慌てて清弥を抱きかかえた。白く濁る息は熱に霞んでいる。
「清弥!」
「……ごめん……大丈夫、だから」
「大丈夫じゃない! 大丈夫なんかじゃ、ないじゃない!」
そらの言うとおり、清弥はそれから数日、躯を横たえたまま動けなくなった。
少ない食料でなんとか賄えていたのは、そらはもとより、清弥があまり口にしていないせいだった。鍛えられていた躯はやせ衰え、頬は痩けていた。自分では無理しているつもりはなく、心底食欲が起こらなかった。
慧音に己のアイデンティティを否定され、精神状態をずたずたにされてしまったのが主な要因だった。人妖の襲来がないことで、緊張感が弛緩したために、脳裡で衝撃が繰り返し反芻されていた。今までの自分の記憶は実は幻想で、今いる自分の拠り所はここにしか、そらとこの洞窟にしかない。そんな錯覚すら幾度も覚えた。
結果、今まで精神で無理に維持していた体の機能低下が一気に噴出した。
そらの絶え間ない看病も虚しく、体調は一向に良くならない。初めての経験だった。いうことを聞かない自分の躯。止めどない無力感が全身を支配していた。
混濁する思惟は、ひたすら逡巡していた。
或いは……そらだけでも、博麗神社に連れて帰るべきではないのか。雪は深くない。今ならまだ間に合う。年を越せば本当に動けなくなる。それに、霊夢は無碍に断りはしないだろう。
だが――
微笑んでくれるそらの顔をみる度にその一言が切り出せない。自分が連れ出しておいて、一人で帰れといってもそらは決して飲まないだろう。
いいや。
結局、自分はそうあって欲しいと願っているだけなのではないか? 煮え切らないのは自分の矜持だけ。あるいは自分の我が儘。恐怖。そらがいなくなってしまうこと、そらの心が自分から離れていくのではないか、そらが心を失い妖怪になってしまうのではないか。
そらは決して文句をいわない。だけど、そらの本心は? 実は自分に呆れ果て、単に惰性で言いなりになっているのではないのか? そらにだって他に術はない。
自分でも、精神的に余裕が無くなっていると感じている。そらが決してそういうことを考えないと知っていて、尚不安を覚える。自分が人間であることにさえ疑念を抱くのだから当然だろう。もはや信頼に値するものなど何一つない。
そらにさえ、不安を覚えているのだから。
もし――
寝ている間にそらがいなくなってしまっていたら。
もし妖怪に変じて自分を喰らうとしたら。
……いや、いっそそれがいい。黙って消えてしまうよりは、そらに殺された方が。
そのくらい愛しいのだ。そばにいて欲しい。離れたくない。
高熱に浮かされながら、それでも微笑む。
自分の横にいるそらをみる度に。
ただ、そらのためだけに。
にじり寄る狂気。
……ピチャリ。
……ピチャリ。
壁に寄りかかっていたそらが、ゆっくりと瞼を開ける。
光の届かない洞窟の奥底から、一滴、一滴……五秒に一度ぐらいの間隔で、水滴が岩に落ちる音が響いてくる。かすかに。最初は気づかなかったが、今は明瞭に聞こえる。外が吹雪いていても聞こえる。一夜ごとに大きくなっていく気がする。
忘れていた感覚が甦る。
水に引き寄せられるのか、水を引き寄せるのか。思えばいつも、水のある場所に執着していた。清弥たちと暮らすことで紛れていたが、こうして一人で夜を過ごしていると、冴え冴えとした響きが頭の後ろから全身に広がっていく。まるで自分が湖面になったかのように。
自分を氷雨追沫といった、自分と同じ顔をした少女。清弥を傷つけた少女。
彼女はあの時なんと言った?
「……闇の海の護り手」
自分のことをそう呼んだ。海とは、清弥が前に教えてくれた、水しかない広大な世界。自分はそこから来たのか? 彼女もそうなのか? 自分を待つ、自分の「作り手」とは。
そして……自分はそこへ戻らなくてはいけないのか。
清弥が自分の立ち位置を見失っているのと引き替えるように、そらは自分自身の変容を自覚していた。
一向に寒くない。体温を失っている。翳した掌の上の雪がいつまでも溶けない。しばらく前まで、霊夢に貰ったミトンの手袋をしていたから気づかなかった。今はもう、外套さえ着る必要がない。何も感じないのだから。
お腹も減らなくなった。清弥は自分の為に無理して食事を減らしていたようだけど、そんな必要はなかった。口に入れて噛んでも食べている気にならない。だから食事をする必要もない。
自分は人間ではない。
それは以前から知っていた。だが、それが自分に何をもたらすのかまでは考えたことがなかった。今も分からない。それでも、化生への変容に怯えはない。まるで以前からそうであったかのように、普通に受け入れてしまっている。日に日に強くなっていく。
まるで、覗き込んだ井戸のような自分。
多分、清弥に会う前の自分はこんな感じだった筈だ。
自分のあるべき場所へ、あの始まりの池へ、その奥底へ、
落ちていく、
落ちていく、
だけど――
それを引き留めているのは、眼前に眠る清弥の存在だった。
……また、清弥が苦しそうに寝返りを打つ。
汚れた手ぬぐいを濡らし、額の上に載せ、一つしかない毛布を掛け直す。本当は触れてあげたいが、自分のことが清弥にばれてしまうのが不安で、最近は手も繋げない。
自分が妖怪でも受け入れてくれると言い切った清弥だが、それでも恐い。今この時間に至っても、清弥に自分の「本当の名前」を打ち明けられないのと同じように。
この気持ちは一体いつまで続くのだろう。
終わりはあるのだろうか。
……時折、考えてしまう。
自分がもしがらんどうのまま、あの梅雨空の日に、清弥に会わなかったら。清弥と一緒に、梅雨明けの真っ青な空を見上げていなかったら。こんなに苦しい思いはしなくてすんだし、清弥をこんなに苦しめなかっただろう。
多分、清弥は考えているはず。
自分だけでも博麗神社に戻すべきだと。何かを言いたげな顔で自分を見ていたのも二度三度ではない。
だけど、今はどうしてか、博麗神社には帰りたくない。清弥がいいだせない気持ちも分かる気がする。あの懐かしい場所が、酷く遠く感じられる。何故なのだろうか。完全な妖怪になりつつあるからなのだろうか。
「そら」
譫言に、清弥が呟く。
「清弥」
答える。届かないかもしれないけれど、清弥に覆い被さる様にして。清弥の顔を見つめて。
清弥が愛おしい。
清弥と別れたくはない。
でも、もう……清弥を苦しめたくもない。
いっそ自分が、完全に妖怪なら。
最初から単なる妖怪であったなら。
清弥と関わりのない世界の住人なら。
こんなに近くにいても清弥を苦しめるなら、
もっと遠くへ、
そう……海のような、完全に違う世界にいたほうが……きっと、よかった。
……ぴちゃり。
又一滴、水が滴る。
自分を呼んでいるような、そんな気がする。
……変な音がした。何かが漏れているような音。
清弥はうっすら目を開けた。
いつもと変わらない洞窟。扉の隙間から光が差しているから、外は朝か昼か。雪も止んでいるようだ。
「……そら」
「清弥……大丈夫?」
「うん……あ、……ああ。なんだか今日は少し楽になったよ。狩りにだっていけそうだ」
「駄目。ぜったい、駄目」
「分かってる」
早くも涙目で必死に首を振るそら。自分は大丈夫だから、寝ていて欲しいと懇願する。清弥は笑って、手入れのされてないそらの白い髪を手で梳いた。ついで、そらが持っているものに目が止まる。
「それだったのか」
「………………?」
「いや、なんか変な音がしてたから」
そらが握りしめていたのは、預けたままの自分の笛だった。
「吹こうとしたのか」
「……うん。清弥、喜ぶかなって」
「そうか。確かにちょっと驚いたけど……息を通してるだけだったな」
「……………うぅ」
「ま、練習したら吹けるようになるよ」
「うん」
「ありがとう」
「ううん」
はにかむそらを見上げていた清弥は苦笑したが、しばらくすると力を込めて躯を起こした。思ったよりもいうことを聞いてくれてほっとする。
「清弥」
「大丈夫……だよ。ちょっと貸して」
心配そうなそらだったが、躯を起こして一息ついた清弥を確認してから、横笛を手渡した。
長く触れていなかった自分の持ち物は、大切にされていたのだろう、傷一つ入っていない上、丁寧に磨かれていた。
「吹いてあげる……疲れて途中で止めちゃうかもしれないけど」
「ううん、それでもいい」
かつて二人でなんどもそうしたように。
清弥が静かに口を当て、震える息を通し、幾分細くなった指を使う。
そらは躯の力を抜き、メロディに揺れるが如く静かに耳を済ます。
お互いだけを求めて音に抱かれたあの日と何も変わらない音色が洞窟に木霊する。
それはまるで、安らかな音の羽毛のように。
洞穴内に広がっていく、哀しい旋律。
ゆっくり、ゆっくり。
遥かから定められた音の式。
在原清弥はそらを見、
「そら」と呼ばれた少女は清弥を見た。
いつもと変わらない変わらないように。
これからもずっとそうであるかのように。
そして――
二人だけで過ごした時間は、唐突に終わりを告げた。
突然の……避けられぬ来訪者によって。
「見つけました」
ゴオオオオオオオオオオオオオオオオッ!
洞窟に圧倒的なな旋風が吹き荒れた。
小さな扉は外に吹き飛んだ。
周囲のあらゆる物が飛礫と共に風に舞う。
壁に叩き付けられた清弥は、激痛に一瞬呼吸方法すら忘れる。握りしめた笛だけを頼りに、ただそらの名を呼ぶ。
薄目を開けると、逆光の中に人の影。
右手には大きな傘。
そして左手には、藻掻いているそらをしっかりと抱き寄せている――
「清弥! 清弥!」
「そら!」
少女は、そらと全く同じ声で清弥に告げる。
「この方は本来あるべき世界へと連れて行きます」
「やめろ! そらを離せ!」
「貴方はこの方の特別な存在なのでしょう。本来であればより完全な世界構築の為に未練を断ち切って頂きたいところですが、負の感情よりも自らの選択でお戻り頂きたい。己の判断の上での、自由意志の発露として。それをあの方も望んでいらっしゃる……分かりますか」
「なんのことだ!」
「聡明にも、この方は既にそれに気づいていらっしゃる……そうですね」
まるで鏡のように、少女は少女に問いかける。
氷雨追沫の腕の中で叫んでいたそらは、弾かれたように氷雨を見つめ、清弥を悲壮な表情で見る。悲哀に満ちて見開かれた瞳。明らかに、来訪者の言葉に鋭敏に反応していた。それが意味するものは、すなわち――
「そら………?」
「………………」
「そらぁっ!」
ゴオゥッ!
今一度、旋風に翻弄される清弥。体力を失っている躯が、それに抗う術はない。
それでも必死で立ち上がり、風の向こうへ遠ざかる少女たちを追いかける。
外は深い白銀の世界。
久しぶりに使う足が震える。こんな状態でなくても、深い雪を踏み越えて追跡するのは不可能に近い。そして、まばらに浮かぶ雲の切れ目に、氷雨と、抱えられたそらが飛翔していく。
「畜生……くっそおおおおおっ!」
雪に拳を叩き付ける清弥。
その背後に影が舞い降りる。
「さぁ立ちなさい! 立って、武器を取りなさい! あの子を取り戻す気があるなら、今回だけ手伝ってあげないこともないわ。でも今日は私とっても短気だから、今決めなきゃ機会は二度とないけどね」
振り向く。
雪上に金色のオーラを纏って浮かび上がる金髪の少女。赤いカチューシャはそのままだったが、顔にも服にも傷が生々しく彫り込まれている。
「お前……あいつと戦っていたのか」
「いろいろとつけたい決着があってね。魔理沙がいないのが好都合だわ」
アリスが指を洞窟の方に向けると、そらの仏蘭西人形と、清弥の魔法弓と矢筒が見えない手に引かれて飛んできた。清弥は笛をしまい込み、弓をしっかりと握る。途端、萎えそうになった気力が湧き上がるのを感じていた。
躯の震えを抑えながら、頭を下げる。
「あんたも信用できないけど……今は、頼む。俺には、そらが全てなんだ。だから」
「それくらい」
そらの人形を抱くアリスはついとそっぽを向いた。
「そのくらい、誰だってしっているわ」
アリスが清弥を背中から抱いて、林の中を高速飛行していく。護衛の様に周囲を飛ぶ、アリスとそらの人形。雪景色で風景は一変していたが、慣れ親しんだ森の様子を清弥が忘れるはずもなかった。
「……あの方向は」
「何か分かるの?」
アリスが問いかけて、ふと思い出す。自分がこの少年からかすめ取った記憶にあったではないか。少年と少女の邂逅。そこは森の間に隠された泉だった――。
「左を見ろ、アリス!」
と、左方向、林の中を併走する雪煙が突如発生した。モグラの這った後のように、盛り上がった雪が塚を成して接近してくる。
「奴か? 戻ってきたのか!」
「いいえ、あいつはまた、厄介な」
盛大に雪煙を蹴立てながら、新たな来襲者は双剣を抜刀する。
シャラン!
「――畜趣剣!」
二本の剣が大地を穿ち、その勢いのまま雪の衝撃波を形作る。アリスは回転しながら襲いくる波を次々にかわし、なおも低空で飛び続けた。衝撃波の勢いを誘導し、古木の幹で減退させつつ、自身の飛行速度は落とさない。
「またあいつか!」
「……ここで足止めするわ。あの子を追いなさい。すぐに後で追いつくから」
「分かった……頼む」
「簡単に妖怪を信用しない方がいいわよ」
「もううんざりするほどそう思ってる」
アリスは答えず、ほとんど勢いを殺さないまま、清弥を放り投げた。雪の中に突っ込み、ごろごろと転がる清弥。が、なんとか立ち上がり、雪の少ない場所を選んで疾走を始めた。場合によっては枝を掴み、枝を飛び渡って目的地を目指す。
自信の無かった手足はそれでも何とか答えてくれる。今はただ、追うしかない。そらを取り戻せるなら、この身などどうなってもいいのだから。
走った。
全力を尽くして。
一方――
残った二人の人妖は、飛行しつつ幾度となく激突した。エネルギーを蓄積したまま動く振り子模型のように、攻撃を繰り出してはまた距離を取りながら、森の中を行き交う。
深緑の服を纏った少女剣士が、平行して飛ぶアリスに向かって怒声を挙げる。
「一度ならず二度までも……何故私の邪魔をするか、人形使い!」
「それはこっちの科白よ、魂魄妖夢。直情径行も度を過ぎると面倒くさくて仕方ないわ。剣などという、結果を求める道具に拘るから、大局を見て物事を捉えられないのよ」
「なんだと」
「桜の下に埋まってる死体だって、あんたみたいな庭師に手入れされたら成仏なんてできないわね。死に触れながら死を知らぬ、境界線上の未熟者が」
「く、斬るっ!」
「というか、一回退きなさいって、邪魔なんだから! 今本当に忙しいんだから!」
「うるさい!」
妖夢の振るう楼観剣をアリスの人形が長大な細剣で、白楼剣をアリス自身がグリモワールの背表紙で受け止める。
その瞬間、二人は枝一杯に雪の積もった樹に突っ込んだ。まるで爆沈する戦艦の様な水しぶきならぬ雪の柱が立ち上り、白き森を揺るがしていく。
「ここに道があります」
「………………」
見覚えがある場所だった。
忘れようもなかった。
あの場所だ。
梅雨の終わり、自分が茫洋としながら独り立ち尽くしていた、森の間から現れた清弥に弓を向けられた、そしてあの小さな妖怪が現れた……全ての始まりの泉。
今は完全に氷結している。
そらと氷雨追沫はその中央に立っていた。
「何故このような場所に道が出来てしまったのかは分からないのだそうです。ただ、私では通り抜けられなかったので、主様の御力を借りて新たに道を固定して頂きました。私たちが戻れば、道は完全に閉ざされるはずです」
「…………………」
「どうかお戻り下さい。貴女を待つ多くの魂が下方から照明を求めています。そして貴女の、ひいては『世界』の完成こそ、主様の求める唯一にして最大の願い。主様の完全なる愛の有り様なのですから」
「…………………」
いわれていることの意味は分からない。
ただ、自分が決断を迫られている。もう取り返しのつかない決断だ。
いいのだろうか。
このまま肯定して、それでいいのだろうか。
何も分からぬまま、正しい世界へ。
寒さを感じないはずなのに、手が、全身が震える。
……清弥。
答えて欲しい。
もう無理かも知れない、だけど。
もう一度、清弥に会いたい。
清弥にいわなくては。
清弥の声が聞きたい。
「清弥……」
「そらーっ!」
清弥の声がする。
「そらーっ!」
幻聴ではなかった。
そらは顔を上げた。
そして清弥は、あの時と同じように、木々の間から顔を出した。大きく白い息を吐く。木の幹に縋る様にして背を預ける。
その姿を見ただけで、涙が堪えられない。
ゆっくりと弓を構え、自分に……いや、自分の後ろに立つ氷雨に狙いを定めている。
あの日と全く同じだった。
「そら、から、離れ……ろ」
「本当に大切なのですね。『世界』以外の場所は尊き理念の枠から離れた驚異に満ちています」
「そらから、離れろ。今だったら、俺は何だって出来るぞ。絶対に敵わない相手だって、殺せる自信がある」
「………………」
氷雨追沫は表情を変えぬまま、そらに背後から囁く。
「貴女が決断なさるまで、私はいつまでも待っています」
そして、音もなく浮かび上がり、森の上方へとゆっくり登っていく。怪訝な顔をする清弥だが、それでも弓を構えたまま、一歩、また一歩、張り付いた水面へ足を進める。
「そら」
「…………………」
「そら……帰ろう」
「…………………」
「そら」
「……来ちゃ、だめ」
清弥の足が止まった。
しかし、清弥よりもむしろそら自身の方が、自分の口をついた言葉に驚いているようだった。
「…………そ、ら……?」
「行かなきゃ、いけないんだって」
「そんなこと、ないだろう?」
「ううん……もう、ここには、いられない……たぶん……」
「どうして……なんでだよ!」
清弥は信じないだろう。
自分はまだ、あの微笑みを浮かべているから。
「清弥……」
それでも、いわなければならない。
「清弥が、好き……多分、ほかのどんなものよりも大好き。清弥のおかげで、いろんなものを知って、いろんなものを好きになって、大切な物も沢山増えた……でも、一番好きなのは清弥。清弥だけ」
「……………………」
「だから、もう、清弥を苦しめたくない」
「苦しんでなんかない! 俺は、そらがいればそれで」
「清弥は絶対に、苦しいとかいわない。私を守ってどんな相手と戦っても、どんなに傷ついても、絶対私を叱らない。誰にも聞こえないように、こころの中にしまっておく……でも、それが辛い。それが私のためだって、知っているから。清弥は私のためなら、なんだって、出来ないことだってやってくれるって、信じているから」
「そら」
滂沱は止めどない。
冷気にも凍り付かない熱い雫が、少女の頬を伝って氷上に落ちる。
「でも……そんな清弥でも、私は怖い。私が一緒にいるような、ふつうの子じゃないって、この場所にいちゃいけないって、分かってしまったから」
「誰がそんなことをいったんだよ! そらはいつまでもここにいていい! ここにいて欲しいんだ! 俺が無理することがそらを傷つけるなら、それも避ける。そらの望みがなんであろうが、俺はそれを叶える。一緒に傷ついても構わないんだ。俺は、そらが、そらのことが」
「違う」
ぽつりと、そういった。
全身にはしる震えが止まらない。
怖かった。
自分も、清弥も、全てが怖かった。
でも、告げなければならない。
もう、止められない。
「何が違うんだよ!」
「違う……私は、『そら』じゃない」
「……そら? なにを、いって……」
「最初からずっと知っていた。最初はそれが名前だって知らなかったから、分からなかったけど、その言葉は最初からずっと頭の中にあった……何度も何度も、清弥に言おうとした。でも、清弥が『そら』って呼んでくれるたびに、嬉しくて嬉しくて、怖くて、いえなかった。清弥が、私が人間じゃなくてもいいっていってくれたのに、いえなかった……」
呆気に取られる清弥。
対して自分はこんなに泣いているのに、顔は笑っている。自分が嫌いになった。酷すぎると思った。それでも、告げなければならない。
「私は、『そら』じゃない。最初からずっと、清弥を騙していた……だから、もう帰る。きっとこれは、清弥を傷つけた、罰だから」
「………………そら」
そして――
力無く弓を降ろす清弥に向かって、
「そら」と呼ばれた少女は、
零れる雫そのままに、
つぶやくように、
愛を囁くように、
――自分の名前を告げた。
ザザァン!
雪の塊が木々の間から真横に飛び出してきた、
「くっ、これだから他人の人形はいうことを聞かない! 特に霊夢の人形だから性悪なのね!」
「覚悟、人形使い!」
いまだ継戦中だったアリスと妖夢が、もつれ合いながら泉の直上に飛び出してきた。
「また邪魔をするのですか、弱き者よ」
梢の向こうから急下降してきた白い少女が、巨大な傘をアリスにつき入れる。
「嘘でしょっ」
避ける暇もない、
日頃のスタイルで敵前に差し出した人形は、使い慣れないそらの仏蘭西人形だった。
氷雨追沫が突き出した傘は、人形の腕を貫き、引きちぎる。そのまま胸を突かれたアリスはもんどり打って湖面に叩き付けられた。氷に蜘蛛の巣状のひびが入る。
「なっ、どういうことだっ!」
「貴女も邪魔です」
返す刀で傘を振るう氷雨、
事態を掴めないまま双刀でそれをがっちり受ける妖夢が、続けざまに呪符を投げて唱える、
「天上剣!」
「なに」
桜の花びらがふわりと舞い、
全ての事象が妖夢の刹那に取り込まれる。
一瞬動きだしの遅れた氷雨の傘は真ん中当たりで斬り飛ばされ、次いで氷雨の強烈な蹴りがカウンター気味に妖夢の頬を痛打した。妖夢は高い樹高の樹の枝々に吸い込まれて、雪煙をまき散らした。
そして、斬り飛ばされた傘の半分は、
くるくると回転しながら、
湖上へ、
そこに立つ清弥の、
弓と笛とを叩き折り、
襤褸同然の服とその下の肋骨を引き裂き、
心臓を潰し、
左胸を抉りながら突き立った。
一瞬を置いて、
鮮血が、噴水の様に吹き上がった。
清弥に把握のための時間は与えられなかった。
ただ目の前が白く、そして紅く――
耳の奥では、そらが最後に呟いた言葉が、ようやく知った自分の愛する娘の本当の名前が、子守歌の様にいつまでも、いつまでも響いていた。
そして、
白い少女が絶叫した。
「うあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
長大な髪を逆立てて絶叫する少女を中心として、湖面に激しい亀裂が無数に走る。それはランダムではなく、決められた法則を忠実になぞりながら、氷上に記号を描いていく。
よろよろと立ち上がったアリスは、惨劇に息を飲み、そして水面の不思議な文様を一瞬で察した。
「これは……エノク語、天使文字!」
無数に走る線が岸にまで広がった瞬間、
亀裂が下から盛り上がり、そこから神々しい光が溢れてきた。
そしてその光が衰え、
続いて激しい地響き、
まるで大地をしたから突き動かしているかのように、強烈な震動が二度、三度、
――弾けた。
硝子さながらに砕けて飛ぶ氷の欠片、
少女が立っていた場所から、巨大な水柱が立ち上がった。真っ直ぐ立ち上がった後、水として崩壊せず、それは一瞬にして八つに分かれた。その一つ一つがまるで意志持つかのように周囲の大地を喰らい、木々をなぎ倒していく。
八つの首を持つ巨大な水龍。
破壊衝動を具現化した怒りの権化。
ある者は黒炎を吐き、凍った森を絶対零度でなぶってはバラバラに崩壊させていく。
ある者は紫電を纏わせた聖なる閃光を放ち、遙か遠くの森まで一直線に大地を穿つ。
冷たい水に浸かったまま、アリスは震えた。心底、恐怖を感じた。
逃げようと思っても竦んで足が動かない。屈辱すら感じなかった。
初めての経験だった。間違いない。
あれは……もはや別次元だ。
自分の手に負える存在ではない。
周囲を完膚無きまでに崩壊させ、池も森も原型を留めないぐらいほど抉り取った八龍は、しばらくすると一本に絡み合い、割った氷の間にするすると消えていく。
その後にはただ水も氷もなく、黒々とした大穴が残っているだけ。
白い少女たちの姿は消え失せていた。
こうして。
「そら」と呼ばれた少女は、あっけなく幻想郷から去った。
ただ。
厳しい冬でさえ、最後に流した涙を凍らせることはできなかった。その暖かな雫は、儚げな水晶と化して静かに大気に溶け込んでいった。
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「……なんだろ、あの地響き。迷惑よね。餅つくならもうちょっと静かにするべきだと思うんだけれど。雪崩が起きちゃうじゃない」
そう呟く。
返事はない。
博麗神社、土間。暗い。火に掛けられた飯炊き釜。ぐつぐつと煮え、白い泡を垂らしている。
小さな巫女が柱に寄りかかってそれをぼんやりと眺めている。ぽりぽりと頬を掻き……随分と時間が経った頃にまたぽつりと呟いた。
「あ……またご飯を炊き過ぎちゃったわ」
すぐ横の水屋には、同じ大きさの茶碗が三つ、重ねて片づけられている。
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