二人道



 ざっざっざっざっ、
 とっ、とっ、とっ……ととと、とっ、とっ、とっ……
 ざっざっざっざっ、
 とっ、とっ、とっ……ととと、とっ、とっ、とっ……

 二組の足音が雪降る夜道を急ぐ。
 先を行く大きな歩幅。
 それについて行こうとしながらも、徐々に遅れていく小さな歩幅。遅れているのに気づくたび、前の足音は速度を弛め、後ろに同調する。進めばまたずれてくる歩調。そして調整。その繰り返し。
 二人の吐く白い息だけが繰り返しわだかまっては消えていく。
 言葉数は少ない。
 左右に連なる木々の枝や幹は黒く、その間の闇は果てしなく深い。一度道を外れれば夜の迷路に飲み込まれて戻る術がない。
 先を行く清弥はそらと並んで歩いているつもりなのだが、焦燥に逸る気持ちがつい、そらを置き去りとしてしまい、その都度猛省を繰り返す。
 一方のそらは清弥の歩みについて行こうと必死なのだが、こんなに急いで歩いたことも、こんな夜道を歩いたこともない。道と言えば聞こえはいいが、深淵の森に微かに穿たれた獣道は判別が難しい。木の根は張りだし高低差もある。倒木すら一度や二度ではない。清弥ならばいざ知らず、そらにこのペースを維持させるのは無理な注文だった。
 二人を照らすのは清弥の松明、
 二人を繋ぐのはお互いの手。
 大きな牡丹雪は一刻ごとにその量を増しているが、鬱蒼とした常緑樹の梢が屋根となって、さほど落ちてはこない。急がなくてはいけなかった。雪に行く手を阻まれる事態だけは避けなければ。
「……寒くないか、そら」
「うん」
 同じ会話をするのは何度目だろう。
 眠気を払い不安を拭う為にも、少しでもそらに声を掛けてあげたい。そらが、自分を何度も窺っているのをひしひしと感じている。なのに、言葉にならない塊がすんでの所で喉に詰まったまま。うまく言葉を継げない。
 闇を睨み先を往く清弥の頬は、冷気と体内の熱によって真っ赤に染まっている。単独で越冬した経験を持っていても、初冬にしてこの寒さは身に染みた。ましてや冬にも夜歩きにも慣れていないそらにとっては過酷にもあまりあるだろう。
「この辺は単に暗いだけじゃない。闇の森は妖精達の領域だし、たちの悪い妖怪だっているかもしれない。人の目を奪って惑わせる夜雀もいるとも聞く」
「…………………」
「だから、今は多少無理をしても先に進むべきなんだ。里に近づけば森の密度の下がる。そこでならきっと休めるから」
「………………」
「ごめんな、無理をさせて」
 返事はない。雪風が自分の声を遠ざける。まして、そらの小さな声が抗いようもない。夜の旅路は悪意に満ちている。
 そらの顔を見ても、頷いているようにも、そうでないようにも見えてくる。ただ、しっかりと握り合った掌の感触だけは、神社を出た頃から変わりない。それだけが救いだった。
 ……もちろん、自分が間違っていたとは考えていない。いずれ避けられない事態だった。選び取るべき選択だった。
 それでも自分は、感情に突き動かされ浅薄な意固地によって、大切なそらを危険に晒している。積雪への対応があったとはいえ、出立を待つことも出来たのはないか。霊夢に自分の言葉の非礼を詫び、暖かくなるまで待つことが賢明ではなかったか。
 博麗神社から遠ざかるほどに、その思いが加速度的に膨らんでいく。そしてそのたび、大きく頭を振って迷いを振り払う。
「……里に行ったら厩でもいいからまず屋根を借りよう。雪が収まれば、ちょっと遠いけど俺が育った郷里へ足を伸ばすんだ。多分、俺の家は今でも無人だから、家に困ることはなくなる。口の悪い奴らはお化け屋敷なんていうけれど、周囲の人たちは悪い奴じゃないから。憎まれ口を叩いてくれるぐらいには普通に付き合ってくれるよ」
「…………………うん」
「平屋で、あの小屋より少し小さいけれど、囲炉裏もあるし、暖を取るには困らない。あ、でも板張りじゃないから冷たくない。畳の匂いがして、庭もそれなりにあってさ」
「……………………」
「神社ほど広い場所は少ないけど、里はいいところだよ。あの手水舎よりも深い井戸があって、でも池はなくて……水は、ちょっと貴重だから、蓮とか、水辺の花を見るのは遠出しなけりゃいけないかな……また向日葵を植えよう、でも今度は『この子がいつまでも咲いてるから、冬が来ないじゃない』なんて、文句を、言われることも……ない、から……」
 言葉を継ぐのが難しい。
 清弥とそら、二人のどの記憶にも博麗神社に流れていた豊穣な季節が充ち満ちていた。梅雨の雨、初夏の晴天、盛夏の日陰、彼岸の風、初秋の雲、晩秋の木枯らし、その全てに。
 その横にはいつも、泰然としながら箒を持った、小さな巫女の顔がある。その顔から皮肉めいた、しかし小気味よい笑顔が失われることはない。決して。
 自分が思っていた以上に、あそこは己の場所になってしまっていたのか。
「………………」
「清弥。清弥……」
「……そら」
 繋いだ掌が強く握ってくる。
「けんかした訳じゃ、ないんだよ。霊夢は、霊夢はね」
「……分かってる……分かってるよ……ありがとう、そら」
 そらはううんと首を振る。そして微笑む。
 清弥が、自分の為に今も笑ってくれるから。笑おうとしてくれるから。
 ――そらもまた必死だった。
 清弥は自分を気遣って、歩みのペースを落としては振り返り、寒くないか、怪我をしていないかと声を掛けてくれる。風に紛れて声が届かない時もあるけれど、口の動きで何を伝えようとしているかがよく分かる。その度頷き返し、大丈夫と答えているが、清弥に自分の声は届いているだろうか。
 正直にいうと、寒気など感じる余裕はなかった。清弥についていくだけで大変だった。それほど、自分と清弥の身体能力には違いがあった。だけどそれよりも、振り返る度に微笑む清弥の顔をみるのが辛かった。清弥が、自分の為だけにその顔をしてくれているのが……本当は泣きたいくらい辛い思いをしていると容易に察せられたから。
『……たとえそらが本当に妖怪でも、俺はそらを受け入れる。そらと一緒にいる。そらを引き留めておける。霊夢が他の妖怪達を受け止めるのと同じように』
 障子越しに清弥の決然とした声を聞いた時、涙が止まらなかった。
 清弥は無条件で自分を受け入れてくれる。その直前には、もう一人の自分に……あの恐ろしくもなぜか懐かしい、自分と全く同じ顔をした来訪者によって、怪我すら負わされているというのに。
 たとえ自分が人間でなくても、それをそら自身に問いただすことすらなしに。不安も恐怖も訴えることなしに。
 今も体の芯が恐懼に充ち満ちている。
 あの白い少女に対面して以来、何かが根本的に変わってしまったのではないか……いや、いまも変わりつつある可能性、言い様もない恐怖と不安。博麗神社を崩壊させ、魔理沙や清弥に大怪我を負わせたよりも、もっと不吉で不可避な何かが静かに推移しているのではないのか……紙に染み込んでいく漆黒の墨のように。
 怖い。怖い。
 それでも清弥は、そんな自分を支えてくれる。
 そんな自分の手を引いてくれる。
 だから、もう、
 清弥だけでいい。
 清弥がいれば、何もいらない。
 清弥の負担になりたくない。清弥を苦しめたくない。
 だから、清弥について行く。置いていかれないように。
 ぎこちない笑みを浮かべる。
 清弥を不安にさせないように。
 ここには自分と清弥しかいない。
 それでもいい。それでいい。
 清弥がいてくれるのなら、それで。


 風に紛れて、遠くからニホンオオカミの遠吠えが聞こえてくる。幻想郷の外では絶滅してしまったとされる、蓬莱固有の肉食獣の群れ。ただ、妖怪と同様に大きな脅威であることは間違いない。
 せかされる様に二人の旅人は夜道を急ぐ。
 幸運なことにあやかしの襲撃もなく、また雪の勢いも一時よりも収まりつつあった。分厚い雲は強い風によって吹き流され、僅かに月光が森を照らし始める頃、清弥達は闇の影響下にある山肌を抜け、なだらかな山麓に広がる落葉樹の森にさしかかりつつあった。道は広がり、多少とはいえ明るくなった場所で、清弥は行軍の速度を抑えた。
「一息つこう、そら。今はもう、そんなに急ぐ必要はないから」
「……うん」
「疲れたろ? あの雲なら雪もしばらくは大丈夫だ。仮眠だって出来るけど」
「ううん、大丈夫」
 本当は急ぎたいところだった。昼間降っていた雨が凍って、その上に雪が駆け足で降り積もりつつある。高山に囲まれた幻想郷では、身の丈まで降り積もるのも日常茶飯事だった。一刻たりと無駄には出来ない。ただ、絶対に文句を言わないそらの表情にも、隠しようのない疲労が滲んでいる。先頃からたびたび転倒を繰り返し、膝や手に雪がこびり付いていた。これ以上無理強いするのは不可能だろう。
「しゃがみ込むと動けなくなるから、立ったままで……あ、歩きにくいと思ったら」
 清弥が松明を持ったまま、しゃがみこんだ。片手で器用に靴紐を直している。
 そらはその様子を眺めていたが、ふと、舞い散る雪を見上げた。
 今まで繋いでいた手を夜空に翳す。もう一方の手は霊夢の人形をずっと抱いたままだ。
 音もなくしんしんと降り積もる雪が、
 手袋の上へ、
 一粒、また一粒。
 松明の光をまぶして、きらきらと。
 梢や道に降り積もるのと同じように、そらの掌を白く染めていく。
 じっと見つめる。体の中の温もりが内側から冷え込んでいくような、不思議な感覚。
 そう……いつも水を眺めている時に感じるあの妙な。がらんどうの井戸を覗き込むような、どこまでも暗く深く、そして……。
「そら……雪まみれじゃないか」
「あ……清弥」
「あ、じゃないだろ。やっぱり眠いんじゃないのか」
 立ち上がった清弥が弱く苦笑して、そらの頭や肩の雪を払った。白い髪は雪に呼応してなお一層白くなっていくかのよう。
 清弥の優しい顔に呼応して、引き戻されたそらの口許がほころぶ。
「ありがとう……大丈夫」
「あんまり雪にまみれてると、寒さで眠くなって来ちゃうからな。自分でも少しは気をつけろよ」
「……うん」
 微笑みつつそう答えるものの、寒くも眠くもならないし、むしろ覚醒の度合いを強めていく。躯に気力が満ちているというよりも、躯の一部が欠落して軽くなっている気がする。錯覚なのだろうか。
「いこう」
 頷く。清弥の後をしっかりと歩き始めるそら。先程よりも力を込めて、一歩一歩。
 ――まるでなにかを畏れるかのように。


 清弥の不安が形になったのは、やはり森が切れる前だった。誰かの視線を頻繁に感じているような気がしていたのだ。道すがら、何度も何度も振り返っては、少しでも先を急いだのだが。
 もっとも、現れたのは清弥が想像していた形での襲撃ではなかった。
 そこは左右の枯れ木が等間隔に立ち並ぶ、妙に広い道だった。
 明らかに不自然だった。
 まるで、何かの舞台として準備された様な場所。清弥の記憶にもこんな光景はない。
「……そら、ここは拙い。道を逸れよう」
 だがその時すでに、人妖は待ちかまえており、清弥は自分の判断が遅すぎたことを瞬時に悟った。
「待っていました、勇敢な森の住人」
 幼さと瑞々しさを備える少女の声。
 叢雲の向こうから僅かに落ちてくる月光によって伸びる小柄な人影。両手の双刀は既に抜き放たれ、蒼き光を集めていた。
 寄り添うそらを庇うように立ち、清弥は松明を投げ捨てて弓を構える。
 肩で切りそろえられた髪。
 黒いリボンの妙な曲がり具合。
 そして、背後に飛び回る大きな幽魂。
 清弥は少女に見覚えがあった。
「お前は……以前、博麗神社の宴会にいたな」
「こちらはそれ以前より知っていますけど」
「先頃、秋の山中で俺に暫撃を仕掛けてきたのもお前か」
「ご明察です」
「霊夢が怒ってたぞ、結果的に博麗神社の結界が切れてしまったからな」
「え……は、博麗霊夢が……いやでも、あの神社の結界が切れるとは、腕がちょっとあがっちゃったかな」
 少女は己の力にまんざらでもない様子だった。妖怪のこういった緊張感の無さには油断は怠ってはいけないものの、何処か懐かしさまで感じてしまう清弥。
「あ、すみません。きちんとお話しするのは初めてでしたね」
「きちんと話が出来るような妖怪にはあまり巡り会ったことがないんだけど。お前は例外なのか」
「その点はご心配なく。私は半分は人間ですので」
「そりゃ便利だが」
「そうでもないですよ。人間の方が冷えて仕方ないんですけど。寒いから」
「寒空の下、こんなところで待ち伏せとは穏便じゃないな。目的はそらか」
「いいえ……目的は貴方です、勇敢な少年よ」
「俺?」
「多岐亡羊たる状況の中、どこまでも己を鍛錬し前進しようとする貴方の澄み切った魂を、私の主人が御所望になられているのです」
「妖怪に買い被られるのは初めてだ」
「ご自身の置かれた立場の重要性を伝えてあげたいところですが、怒られちゃうだろうし……もっとも、ここで私に討ち取られれば結局それまでですけど」
「無論、俺もここでむざむざと負けるわけにはいかない」
 清弥は相対した少女に少しだけ感嘆を覚えた。
 真っ直ぐな心。今まであったどの妖怪少女とも違う。己の力量を頼み、主君の命を迷うことなく遂行する。老獪な企図や指向はなく、切れ味鋭い一閃そのままに。
 この身一つならば、礼を取って相対するのもいいだろう。だが、今はそらを護らなければならない。自分が死んでは、そらを護る者がいなくなる。死ぬわけにはいかない。
「そらには手出ししないか」
「確約は出来かねますが、努力を約束します」
「では名前を聞こうか、剣士」
「冥界の住人、白玉楼の庭師、亡霊蝶の右手を自負する者……魂魄、妖夢」
「俺は在原清弥。出自卑しい森の狩人だ」
「魂の輝きは運命に比例せず、ただ何度も熱く灼かれ打ち据えて鍛えられた物のみに宿るなり……いざ、参る!」
 瞬間、雪煙と共に妖夢の姿が消えた。
「そら、離れるな――」
 縮こまるそらに躯を寄せた瞬間、背後で高らかに打ち据える錫杖の音、


 しゃらん!
「人界剣―――」


 剣風一閃、
 妖夢の剣は一瞬前まで清弥が立っていた場所を正確に薙いでいた。約定通り、清弥だけを狙った攻撃。必殺の衝撃波が周囲の木の幹を次々と傷つけて、熱く覆われた氷と表皮を削り飛ばしていく。
 一瞬の判断でそらを抱えたまま道に倒れ込んだ清弥は、背後を振り返って息を飲んだ。
 なんと、妖夢の一撃は空間そのものを切り裂き、まるで蝦蟇が大口の開けた如き亀裂が空中に浮かんでいる。そこから無数にはき出される白い妖弾。触れれば魂を抜かれる死の呪詛だ。
 立ち上がり場所を変えようとすると、妖夢が元いた場所に陣取って太刀風を振るう。紅い気流と共に放たれるそれは、必殺だった第一撃となんら遜色ない。
 単独で演出する絵に描いたような挟撃。
 紅い死の風を避けようとすると、白い妖弾が行く手を阻む。かといってじっとしていると、剣によって首をはねられてしまう。
 あどけない少女の放つ攻撃とは到底思えない。清弥はそらを抱きながら、繰り出される攻撃の軌道を必死で観測し、そらに耳打ちする。
「……そら」
「………………」
「いいか、俺の合図で右に一歩を踏み出すんだ。紅い風の通る道の中央に足を出せば、そらの影が一瞬だけあいつの死角になる。そうすれば俺が何とかするから」
 清弥の言葉の意味を理解せぬまま、そらは震えながら小さく頷く。
 この瞬間また、
 剣士の右の剣が閃いた、
「いくぞ……、今だ!」
 清弥の手をすり抜けたそらが、勇気を振り絞って清弥の前に立つ。
 一歩だけ、
「くっ……邪魔をするな! 」
 妖夢は慌てて剣の角度を変更する。鎌鼬は軌道を乱し、そらと清弥を避けて飛び去る、
「天符、『天乃羽矢一隻と歩靫』!」
 夜空を光芒が切り裂く。
 突然現れた光に、妖夢が目をしばたたかせる。
 清弥の魔法弓から放たれた何本もの光矢は、妖夢をすり抜け、様々な種類のカーブを描いて、周囲の木々と地面に突き刺さった。
 轟音と共に、積もった雪と土が濛々たる煙となって舞い上がる。
 月光をきらきらと弾く、ダイヤモンドダストのように。
「うぁああああ!」
 魂魄妖夢の視界が一時的に失われる。
 身を捨てる覚悟であっても、元より容易に妖怪を倒せるとは思えない。今はこの機を逃さずただ、早く身を隠すのが先決だった。
「女性には手を出さないと約束したのに! 正々堂々と勝負しろ、在原清弥!」
 裏表のない妖夢の性格を利用した作戦だから上手くいったが、後ろめたい気がないわけではなかった。答えたいのを我慢して、清弥はそらを抱きかかえ、森の奥へと一心に逃げ込む。
 自分を呼ぶ声を背にして、清弥は駆ける。
 今は、生き延びなければならない。
 なんとしても。

      ☆

「――そんな」
 喉の奥に何かが引っかかったように、言葉が出てこない。飲む込むこともできない。口の中がからからになる。
 手を繋いだそらが、不安な視線で清弥を見守っている。とても言葉を掛けられそうな雰囲気ではなかった。
 無情にも、網膜に刻まれる光景を否定することが、清弥にはできない。
 夜は明け、朝が過ぎ、昼を回り、今は夕方。
 雪は本降りにはならなかった。何度か追撃してきた魂魄妖夢をやり過ごしながら、ここまで辿り着いた。
 ようやく目的の場所へ、
 里に到着した。
 はずだった。
 目の前にあるのは、なのに、
 荒涼として広がる雪原――
 雪がなければ茫洋たる荒野だったろう。
 ただ、冷たい風だけが吹き渡っていく。
「清弥……?」
「そんな……そんな……」
 緊張と戦闘とで疲労の極致にあった清弥は脱力し、思わず膝を地に突いてしまった。握力の抜けた手が、そらのそれからするりと抜ける。彼女は心配そうに見守るものの、眼前の事態を理解出来ない。
「なんでだよ……なんで……」
 一夜にして、雪が全てを覆い隠してしまったという訳ではない。田も畦も道も手入れされた林もない。家も、立ち上る煙もない。これは見紛うこともなく、もう何十年、何百年と人の痕跡を示さぬ漠々とした世界だ。
 晩夏には霊夢と一緒に訪れたはずの場所なのに。人の声が溢れ、活気と生活臭に満ちて。
 どうしてしまったのだろう。
「ちくしょう……どうしてなんだよ……」
 血の気の引いた顔を両手で押さえる。大声でわめき散らし蹲ってしまいたい。だが、そらを護らなければという強迫観念だけが、震える足を再び動かしていく。このままではいけないのだ、このままでは……。気力を振り絞ってゆっくりと立ち上がっていく。
「……清弥、あれ……」
 か細い声で注意を促したそらが、清弥の影に身を隠す。清弥は弓を握り、力無く顔を上げていく。
 雪原の向こうから、少女が歩いてくる。
 妖夢ではない。
 背を伸ばし、凛としたその表情。
 僅かに雪交じりの風に、浅黄色の髪をなびかせている。賢者の帽子を高く被り、蒼の衣を隙なく身につける。溢れる叡知を湛えた瞳が来訪者たちを厳しく捉えている。
 清弥の記憶が仄かに疼く。霊夢と歩いた里の祭。軒先の間から、自分をじっと見つめていた少女がいたような。周囲の人々と明確に違う雰囲気を保っていた、その姿。
「秘められし人界に何用だ、凛冽たる冬に迷い出でし森の子らよ」
「……お前がやったのか、この有様を」
「そうとも。時折こうして彷徨い出る邪悪から人の歴史を守ることこそ、私の――上白沢慧音の使命なのだから」
「……上白沢、慧音」
 清弥は記憶の糸を辿る。
 過去に義父と住んでいた里で聞いた伝承。博麗の巫女とは別に、幻想郷の人間と、彼らが培ってきた歴史とを守護する幻獣がいるという。普段は巷間に紛れ姿を隠すが、真に危険が迫った時に顕現し、綿々と連なっていく歴史を導くといわれる存在。
 月下の本性には妖怪すら怯えるという、その尊き姿……。
「前回は人々が祭礼に従い受け入れた巫女に免じて見逃したが、此度はまかり成らん。お前達はもはや、人間の歴史と交われない。幻想郷のあらゆる人間の歴史には隠蔽を施した。何処へ往こうが、何を望もうが、お前たちの前に広がるのはただ、寂寥の世界のみだろう……闇の森へと帰るがいい」
 傲慢ともとれる口調。
 だが、慧音の言葉には威厳に満ちた迫力があり、口答えを許さない。清弥は身じろぎをしながらも、躊躇をはね除けて懇願した。
「もし……もし、貴女が人を守護する貴人であるならば、確かにこのような形で里を訪れたことに不信感を抱くのは当然だろう。そらは人間ではないかもしれない。だけど、決して人に害を加えたりはしない! もしそういうことがあるならば、俺が責任を持つし……おおよそありえない。絶対に」
 守護者は眉一つ動かさない。
「……だから、だから、許して欲しい。ここまで一昼夜歩いてきて、俺もそらも疲れているし、今も厄介な妖怪に追われているんだ。冬を越せれば里を離れる。妖怪をやり過ごすことが出来さえすればいいんだ。それでも不審なら、夜の雪を防ぐ屋根を今晩貸してくれるだけでもいい。もう夜も迫っている。だから――お願いだ、人間の守護者よ!」
「お前の言葉が正しいなら余計に不可能な話だ。安易に里に逃げ、妖怪を里に近づける迂闊さを認めるわけにはいかない」
「ではどうしろと! 実際に何度も命を狙われている! 俺たちには人として生きる権利はないというのか!」
「生類全て、己の意志と知恵とで己の歴史を生きていくもの。当然の事実。それに権利など有りはしない。それが正道だから……ただ、お前は自分の歴史を見誤っている可能性があるな」
 間違いではない。
 上白沢慧音は間違いなく、未熟な狩人を指差した。
「そう、『在原清弥』と名乗りし魂よ。お前は本当に、人の間で暮らすべき存在なのか? お前の歴史は、お前が人間であることを完全に証明してくれるのか?」
「何をいって……」
「お前が里で育ったことが、お前が人間であることを証明するのかと尋ねている。お前も知るとおり、結界を超えて忍び込む妖怪はいるものだ。お前自身がそうでないと、どうして言える……血で繋がった親を持たぬ者、正しき血の継承を持たぬ者よ」
「嘘だ」
「ならば、お前の名は誰が付けた」
「………そんなの、嘘だよ」
「お前の名を付けた者は何処へ去った」
「…………………」
「お前は何故、あのように人間達との生活に違和感を覚えていた? お前はどうして、その未熟な技術を以て森の暮らしに適応した? お前はその人妖と心を響き合わせ、闇の森近くで魂の安堵を得ていたのだ? そもそも、お前が暮らした里とは、本当にあった物なのか? お前の記憶が正しいと証明出来るのか……?」
 信じられない。
 ただ、否定もできない。出来るわけがない。
 言葉の形をした短刀が閃き、立ち尽くす少年の心をめった刺しにしていく。もはや血も流れ落ちないぐらいに、徹底的に。
 清弥の定まらない視界にそらが映る。
 今も不安そうに清弥を見つめるそら。あの笑顔を浮かべて、自分を心配させまいとしている。
 だが、今の清弥はそらの信頼に答えられない。自分の拠り所がまた一つ失われていく。都合のいい時だけ普通の人間であろうとした傲慢さをあっさりと打ち砕かれて。
 現在白き荒野に立つのは、少年の形を象った無力そのものだった。
「私がどうしてここを通さないか、遅まきにも理解しただろう。私は人界の歴史を守る者。だが、闇の歴史はしかるべき場所に於いて紡がれていくべきだとも思っている。なぜならば表裏一体、全ての事象は連動して推移していくのだから」
 人間の守護者は背を向ける。
「……森へ帰れ。何者であれ、どのような道であれ、求める限り可能性の扉は開かれよう。そこからまた歴史が始まるだろうから」
 決して急がずに歩み去る慧音。だが、少女が長く続く足跡を残して雪原の向こうへ消えても、清弥は身じろぎさえしない。そらが握ってくれる手の感触さえ分からない。
 否定されてしまった。
 自分全てを。
 自分は変質したのか?
 それとも慧音がいうように、本性が闇の者だったのか?
 それについては確かめようがない。
 今言えることは一つだけ。
 自分たちは人との接点を完全に失った。
 もはやこの場所に、希望はない。


「……ようやく見つけたわ! 覚悟!」


 頭上から声が落ちてくる。
 薄暮の空に剣士が舞っていた。
 追いついてきたらしい。本当に殊勝な剣士だ。応戦しなければならない。気力が湧かない。弓は背中にくくりつけたまま。矢は残っていただろうか。確かめる気にならない。そらの気配が遠い。雪原はどこまでも、慧音の足跡がどこまでも続いている。平地に立っている気がしない。世界が揺れる。
「清弥、せいやぁっ!」
 怯えるそらの声が、どこか遠い。
 唐竹割りを試みる魂魄妖夢、
 いまだ天を見ない清弥、
 彼を必死で揺さぶるそら、


 二者を分断する様に、
 前触れなく閃光が走り、
 ついで轟音と共に巨大な爆発が起こった。
「くっ」
 妖夢が慌てて空中に静止する。
 四散する煙の中から妖夢に突撃してくる小さな影、
 それは、大降りの剣を振りかざす、羽の生えた小さな少女人形――
 妖夢が楼観剣でその剣を払う、
 さらに二体、三体と出現しては切り込んでくる人形に、妖夢は舌打ちを隠さない。
「これは……邪魔をするな、人形使い!」
 無人の荒野に、襲撃者の叫びが響いていく。