人形幻葬



      I


(俺は、誰だ)
 私はアリス。アリス・マーガトロイド。闇の森の人形使い。
(俺は、どうなってる? ここは、一体)
 死は完全な闇。だけど、ここはまだそんなには暗くない。視ようと念じる意志さえあれば、周囲は把握できるはず。貴方がまだ、死と無気力とに籠絡され、深き昏睡に投げ込まれていないのなら。
 ……目は開けられる。開けてみたいと思う。だから、うっすらと、ぎこちなく。
 ――そこは森のただ中だった。
 葉を全て落とし、痩せた木々が立ち並ぶ。
 見たことのない樹。薄暗さに目が慣れ、徐々に焦点が絞られて、そのおぞましい実態が明らかになってくる。
(ここは……これは……)
 そう、ここは私の場所。私が見せる私の世界。私だけの楽園。
 木々だと思っていたものは、複雑に絡み合った人形達だった。顔が彫り込まれていない木製のマネキンが、マエストロによって精巧の妙を尽くされた関節を使い抱き合い、絡み合い、手を広げ、足を曲げ、何体も何体も何体も、無数に。死屍にも見える裸の人形で構成された樹木が立ち並ぶ、陰鬱な森。
 人形の森。
(なんて……世界)
 不毛かしらね? 見方を変えれば、世の中はみんなそうなのに。全てを細かに分解していけば、単一な物へと辿り着く。大きな球体と、それを中心に回転する極微の球体が世界の全て。結界の向こうではそう考えられていると本で読んだことがあるわ。この森も一緒なの。見方を変えれば、現世は同じ色になる。
 そして、最後に残るのは二つだけ――作る者と、作られる者。
 彼は呆気に取られながら、人形の森を進んでいく。
 ……到着。ここが私の家よ。
 森の中に忽然と現れる小さな小屋。
 扉が内側から独りでに開いて、客人を招き入れる。
 彼の意志は躊躇した。戸口の奥の闇が、冥府に直結している。そう錯覚する。本当に錯覚だろうか。静められぬ恐怖。彼は盛り上がらない感情の片隅で震えた。恐怖を覚えた。
(一体、俺に何を見せるつもりなんだ)
 それは――私のこと。私の、秘密。
(お前の……?)
 貴方は、私について知らなければならない。その後で、私は貴方について答えてあげるわ。もはや貴方の運命を囲っているのは私なのだから。否定も逃避も許さない。
 まるで底の抜けた桶の様に、戸口が彼を引き寄せる。躯なき意志は一層恐怖を覚えるが、もはや叫びを上げる権利さえも与えられず、闇は彼をゆっくりと飲み込んでいく。


 狭い空間に無数の人形が並んでいる。
 仏蘭西人形、
 オレルアン人形、
 和蘭人形、
 倫敦人形、
 露西亜人形、
 西蔵人形、
 京人形、
 上海人形、
 蓬莱人形、
 ……そして数多の、無数の、人形。
 およそ人の世に人を模して作られた、ありとあらゆる人形の数々。人形という名の世界。
 名も無き名工に作られた人形、所有者の愛を失いうち捨てられた人形、病弱な少女が回復を祈念しながら死の間際まで作り続けた人形、呪詛を一心に浴びながら頭と胸に五寸釘を打ち据えられた人形。全ては混沌とした現世の記憶だった。彼女たちは悲しくも、人の形を以て生まれたからこそ、いつまでもその記憶を保ち続ける。無責任に忘却の彼方へ押し流す人間の代替として、いつまでも、いつまでも。
 彼の意志ある視線はそれをぼんやりと眺めている。もう判断することは許されない。案内人であるアリスにそう宣告されたから。今はただ、事実を事実として受け入れることを強要されているだけ。
 人形と同様、そこには無数の書物が所蔵されている。聳えて倒れかかってくる趣の書棚。その本のうちの一冊が、何の前触れもなく本棚から浮かび上がり、空中で静止した。ぱらぱらとページがめくられ、ある頁が開かれると、そこに描かれているのと同じ魔法陣が空中に光を以て示される。ゆっくりと回転しながら。
『…………Nihil sub sole novum. 』
 彼を導く小屋の主の声。
 さぁ、進みなさい。この奥に真実があるわ。
(真実とは、何だ。何故俺は、これを見なければならない)
 それは、すべてを視た後に語るべき科白よ。
 彼女は断言した。彼はそれに従った。
 魔法陣を通過していく。


 長大な地下通路が続いていた。人一人が背をかがめて歩けるかどうか。左右には大理石が積み重なり、貴人の墓所の玄室にも似つかわしい。明かりはないのに視界は保たれている、不思議な場所。
(……これはどこへ通じているんだ)
 大地の臓腑へ。幻想郷においてもっとも孤独で暗い場所の一つへ。そこは恐らく……博麗霊夢の力の及ばない場所の一つ。
(霊夢)
 その名に聞き覚えがあったが、誰何することは許されない。彼に許されるのはただ、その全てを目撃することだけ。
 冷たい回廊は進めば進むほど暗くなっており、もはやそこが道なのか分からない。むしろ、自分が進んでいるのか戻っているのかさえも判別できなくなっていく。
 もはやまったき闇のただ中に取り残され、彼が再び恐懼に囚われそうになった瞬間、

 パッ

 スポットライトの様な光が天から差し、湖面の月さながらにゆらゆらと波打つ。彼の意志は突然の光に目を細める。その光源が何なのか、彼には分からない。
 もはや回廊ではなく、渇く部屋、だだっ広い場所の中央。光に映し出されているのは、丸くて大きな、何回も使い込まれて錆び付いた、血糊さえ染みこんだ――手術台。複雑な模様の魔法陣が彫り抜いてある。
 載せられているのは木製の精緻な骸骨だ。 身長は子供ぐらいの大きさだろうか。
 遠くから足音が近づいてきた。
 スポットライトの中に踏み込んでくる。
 光が映し出すその姿は、人の形を遣う人形師、アリス・マーガトロイド。
(お前が、アリス……)
 彼女は答えない。
 右手に抱えていたバスケットを降ろし、左手の魔道書を置き、手術台の前に立つ。骸骨をいとおしむように撫で、綺麗な歯並びの口に軽く接吻をした。
 製作開始の儀式として。
 骨格に綿を詰め、薄手のフェルトに裏から油脂を塗って皮膚と成し、その中に真綿を込めていく。詰め物は多岐にわたる。バスケットから取り出す材料。見たこともない金属に、花崗岩に、息を吹き込んだビニール袋。心臓の位置には石油を精製したハート形の容器。中には金剛石から瑪瑙に至る七色の宝石を一杯に詰めた。明らかに外界から流れ込んだ異物もあった。
 アリスは黙々と作業を続けた。
 一通り形が整うと、細心の注意を払って運針を進めていった。より真っ直ぐに、より綺麗に。糸の目が揃わないと、ほどいて最初から何度でもやり直した。肌を模した布と同じ色の糸によって縫い合わされていく。アリスの卓越した技が昇華するたび、人形からは人工物の異質さが消え、より精緻に、より自然になっていく。完成部位の一つ一つから、表情といったものすら感じら始める。
 頭にブロンドの髪を縫いつけられ、瞳に巨大な水晶玉が固定されたところで、作業を見守っていた意志は驚きの感情を浮かべた。
(これは)
 アリスはまだ、答えない。
 躯に備わったあらゆる関節の動きを丁寧に確認し、指先のしなやかさを確かめる。
 人形師の額には、大粒の汗が浮かんでいた。
 苦悶の表情。作業をする指先が震えている。
 最後にバスケットから服を取り出し、裸体を晒していた少女に着せていく。アリスが着ているものとお揃いの、ゆったりとしたワンピースだった。
 今やアリスは完全に疲労困憊の極みにあった。全身が震え、呼吸さえ辛そうだ。
 目の前に横たわる人形の両手を胸の下に組ませ、最後に自分のカチューシャを外して人形の頭に刺した。
 ほどなく人形は完成した。
 それは――
(これは、)
 それは瞳を閉じて穏やかに眠る、アリス・マーガトロイド自身の模写人形だった。アリスと寸分変わらぬ姿も服も。一卵性双生児でもここまでそっくりにはならないだろう。彼女たちは全く同じ「物」だった。
 アリスは満足げに息をつくと、がくりと膝から崩れ落ちた。手術台の上に、自分の人形の上に折り重なって、そのまま動かなくなる。
(おい……)
 疲労で眠ってしまったのかと接近してみても、呼吸もをしていなれば瞼を閉じてもいない。虚ろな瞳は僅かに開いたまま。意志を失った筋肉は重力に従い、その口をゆるゆると開かせていく。涎がこぼれ落ちる。
 完全に事切れていた。
 死んでいた。
(…………………)
 言葉がない。
 眼前で短時間のうちに起こった出来事は、彼の理解の範疇を超えていた。
 だが、彼になにもできない。
 不可避の事実を思惟に刻み込み、折り重なる二つの少女を見つめるだけ。


 いかほど時間が流れただろう。
 静かな呼吸音が聞こえてきた。
 伏している方ではなかった。アリスによって作られた、もう一人のアリスが……人形の胸が静かに上下を始めていた。作り物のはずの顔や手足には血の気が通い、瑞々しい潤いが全身を満たしていく。反対に、動かなくなったアリスの方はどんどん作り物めいていく。痩けた肌は萎びて紙にしか見えないし、指の骨が肌だったものを食い破って外に突き出してくる。衣類は周囲の湿気を吸って汚らしく凋れていく。
(……………………)
 作られたアリスが作ったアリスの精気を吸い取っている。そうとしか考えられなかった。
 そして――
 眠っていたアリスがゆっくりと瞼を開く。
 躯を起こし、倒れ込んだアリスから抜け出すと、手術台を降りて靴を履く。
 それから、アリスの亡骸……いや、壊れたアリス人形を抱き上げて、ゆっくりと歩き始めた。スポットライトの明かりを抜け、暗い道をゆっくりと。
 ――見ていた? 最初から最後まで、ずっと。一瞬も逃さずに。
 アリスの声が響く。どこか寂しげに。
(どういうことなんだ)
 ……私は、魔法使いにして人形遣いであるこのアリス・マーガトロイドは、それ自身、かつて誰かに作られた人形なのよ。
(誰か?)
 ……ずっとずっとの大昔。私は、私の記憶にすら残っていない時代にどこかで生まれた、幼い人形だった。でも、何時の頃からか私は自由になった。決して誰にも縛られない、自律行動が出来る人形になった。どうしてそうなったかも分からない。誰かに捨てられたのかもしれない。それらは全部、失われた記憶の向こうにあるんだと思ってるわ。
(………………)
 ただ、人形として作られたが故の定めは残った。人の形を以て人を振る舞うことを許された代わりに、私は自分自身を作り続けなければならなくなった。人間の一生よりも遙かに短いサイクルで。自分の躯に限界が来れば、こうやって作り直されなければならない。誰に愛される人形でもないから、一つの個である必要はないのよ。
 妖怪の様に気楽に長久の時間を享受できないし、人間の様に転生に希望を持つことも叶わない。アリスは未来永劫にアリスで有り続ける……そう、死に続け、作られ続けることによって。
 天に魔法の太陽が灯る。
 そのまぶしさに彼は顔を背けた。
 自分の躯がどこにあるのかすら分からないというのに、長く闇に慣れた目には、しばらくの時間が必要だった。
 そして、彼は知る。
 地下に広がる巨大な洞窟だった、そこは。
 同時に巨大な墓地でもあった。
 林立する無銘の墓碑は、賽の河原の石塔にも似て。
 真新しい墓碑が、アリスの目の前にあった。深々と穿たれた墓穴。目の前で朽ちていく自分の人形……何百回目の死を墓穴に横たえる。その上に、スコップで土を掛けていく。
 アリスという少女は、こうやって何度も何度も自分を埋葬してきたのだ。誰に知られることもなく、一人で、気が遠くなるような永い歳月を経る無限の遍歴として。
 足で土を踏み固め、スコップを地に突き立て、魔道書を抱く。長い影が新品の墓に落ちる。捧げる祈りはない。魂は作り物の心臓に閉じこめられたまま。
 ね、いったでしょう? この世にある事象は、極論すれば二つのものに分けられる。作る者と作られる者。それは巡り合わせ、律法、永遠法。噛み合う運命の歯車。意志ある者は常に、その二つの立場を往来している。破壊だって殺戮だって作ることには変わりないもの。完成品が死体や瓦礫の山であろうともね。
(だからお前は、誰とも交わろうとしないのか。孤独に流転を繰り返して、誰にも真実を告げることなく)
 私は繰り返し生まれては死ぬ。そのサイクルを誰にも干渉されたくはない。だから、


 人形を作ることは、自分を作ること。
 人形を作ることは、誰かを呪うこと。
 人形を作ることは、欲望を満たすこと。


 人形を作ることは、支配すること。
 人形を作ることは、束縛すること。
 人形を作ることは、魂を削ること。


 私はアリス。
 目覚めることのないアリス。鏡の向こうへ戻れないアリス。時計ウサギを見失ったアリス。
 アリス・マーガトロイド。
 人形を作る人形。
 ……だから私こそが、世界を形づくる全てなのよ。
(そうだろうか)
 正しい気もする。ただ、疑念を差し挟んではいけない筈なのに、何処かで何かが違和感を訴えている。抵抗は出来ない。先程のアリス人形の製作過程そのままに、アリスの論理が自分の思惟の中にぎゅうっと押し込められ、運針によって縫い込まれていく。間違いではないはずなのだ。だけど、何かがおかしい。おかしくはないか?
(頼む、アリス)
 この違和感の正体を教えて欲しい。
 声は出ない。
 今までわだかまっていた疑念も抜き取られてしまうような。
 意識が希薄になっていく。
 落ちていく。
 闇の底へ落ちていく――
 底に背が触れる。横たわる。

 カッ

 突然の眩しさに、死にかけた目が微細に振動した。まともに機能していない。
 天に月の様な真ん丸の照明。そこに影が差す。覗き込む一人の少女が影を落としてくる。逆光で判りづらかったが、見覚えがあった。
(ここは、どこだ)
「私の家よ」
(俺は、一体)
「死に往く途中ね。残念だけど手の施しようがないわ。貴方は助からない」
 言われるまでもない。躯はすでに死んでいる。残ったのは、先程まて見ていた幻覚とほぼ相違ない、虚ろな視界。死に引き込まれているというのは事実だろう。痛覚は限界を超え、もはや何も伝えてこない。
 ……さっまでのあれは幻覚だったのだろうか。
 しかし、考えるのも馬鹿馬鹿しかった。自分はまさに今死のうとしている。今更真実を望んで何になるというのだろう。
「儀式は無事に終わったわ」
(儀式……?)
「これから貴方を使って人形を作るの。前から作りたかった人形があるから。その下ごしらえの儀式、というところね。私が制御しやすいように、相互に意識の一部を撚り合わせたの」
(……………………)
「最後は結局、私が貴方を手に入れた。いろいろ付け狙ってた奴らを出し抜いたってこと。ま、貴方の手助けまでしたんだから、当然の権利としてしかるべきかしら」
 唐突に、自分が載せられている場所が、あの手術台であることを悟った。だが、それもどうでもいい。自分はここで死に、魂を奪われ、人形使いの人形になる。死んだ後のことなど興味はない。
 しかし、ここまで公言されれば嫌味の一つも言いたくなる。
(他の妖怪や、霊夢たちに恨まれても襲われても、文句を言えないな)
「即断即決よ。人が手をつけたご飯には、誰だって口を付けたくないでしょう?」
(俺は構わないけど)
「私は都会派で上品が信条なのよ」
(…………でもそのポリシーも、一人でいるなら意味はないだろ)
 答えはなかなか返ってこなかった。
 待つ間に考えるのも億劫になってきた。意識を闇が浸食していく。早く楽になりたかった。
「……でも、人形に諭されるのも人間なのよね」
(…………?)
「いいわ。最後の望みを告げなさい。成就はしないけれど、せめて私が聞いてあげるわ」
 アリスの言葉がやけに優しく聞こえた。
 もう何もかも面倒だった。早く闇に飲まれて楽になりたい。だけど、アリスの最後の言葉の響きが気になった。まるで余韻残る笛の響きのような。
 その余韻が闇を、新しい色で染め上げていく。
 駆逐していく。
 ……これは。
 これは、夜明けを過ぎた東方の朝の色。
 世界を見事なグラデーションに染め上げていく、澄みきって清冽な、
 真っ青な、
 ただ真っ青な、
 ――手を伸ばしたい欲望が膨れあがり、ボロボロの指先がぴくりと震えた。もう何も映さない瞳の端にみるみるうちに雫があふれ、川となって流れ落ちる。喉の奥でくぐもる声がひび割れて、ただ一言だけ、意味のある音を成した。
「そ………ら…………」
 名前を隠していたことなんて、どうでもいいんだ。
 気づいてあげられなかった自分が悪いのだから。
 だから、そんな小さな事で悩んでいたそらにも笑って、
 そんな事を気づけない自分も笑って、
 だから、
 もう一度、
 もう一度だけ、そらに会いたい。
 もういいんだよって、
 怖がらなくていいんだよって、
 頭を抱いて、撫でながら
 ただ一言、
 一言だけ、
 そらに、
 そらに――


      II


 年の瀬を迎えた幻想郷は、ほぼ例年通りの沈鬱な冬に包まれていた。山も里も一様に白い衣装を纏って沈黙している。
 その更に辺境には密度の濃い森に囲まれた、秘境ともいうべき小さな集落がある。せせらぎを遡る果てに幸運を以て辿り着けるという場所。濃密な妖気が立ちこめ、そこに棲む者たちも最早人間では有り得ない。
 決して帰ってこられぬとの噂から、人間にマヨイガと呼ばれるところ。
 集落の一角に、始終紫煙のような霧に包まれてその姿を隠す屋敷がある。平城のような大きな土塀を辿っていくと、それなりに立派な総門。閉ざされた扉には吊された注連縄。
 その内側で、降りしきる柔らかな雪と戯れる少女が一人。赤い服に赤いマフラー、藁で編んだ雪靴に、頭上の猫の耳をぴくぴくとせわしなく動かす童子。いつぞや香霖堂の罠に引っかかった、化け猫の橙である。
「今年はあまり積もらないなぁ。積もりすぎても面倒だけど、積もらないのもつまらないのよね。不便だなぁ。自分で雪を降らせればいいのに」
「これ橙、あまり濡れた手を放っておくと、霜焼けになるぞ」
「はぁい」
「ああそれと、上がって躯を温めた後でいいから、蔵の蜜柑をひとやまほど、居間に持って行ってくれないか。そろそろ切れる頃だから」
 聞こえてくる声の指示に忠実に迅速に従う橙。主人の喜びは自分の喜びでもあるし、誉められたら素直に嬉しい。極めて優良な主従関係だった。
 あとは、主のそのまた主が厄介事を起こして、主をあまり困らせないといいのだけれど……でも、春まではお休みになられているらしいから、大丈夫かな。
 大籠に蜜柑を一杯詰めて廊下を歩いていると、小さく門を叩く音がする。
「あれ……藍さまぁ、お客様ですよぉ」
「なんと、こんな冬に珍しい」
 主人が現れる前に橙は門に駆け寄り、隣の小さな木戸を開けた。
「どなたですか?」
「……すみません、ここは八雲紫様のお屋敷ですよね」
「うわ、怪我してる……大丈夫?」
「傷はたいしたことないのですが」
 あちこち破れた服。両脇に刺した双刀。
 肩を押さえ立っているのは魂魄妖夢だった。目をぱちくりしている橙の背後に長身の影が立つ。
「これは白玉楼の。ご無沙汰しております」
「八雲、藍殿……突然のご訪問、どうかお許し下さい」
「あ、藍さま」
 現れたのは、道服に身を包んだ人妖の女性。大きな二股の帽子を被り、背中からは金色の七尾が大きく開いている。凛とした表情は、少女というよりは男装の麗人といった趣きだった。
「我が主は春まで休んでいるので、ご用件は私が掌握しておりますが……火急のご様子のようですね」
「……すみません。出来れば暫時、私を留め置いて頂けませんか。治療など結構です。数日の間でいいので……どうか……」
 妖夢の表情に陰りを見て取った藍は、目を細くして微笑む。
「このような場所にいるのを西行寺様に見つかっては怒られるのでしょう?」
「そうかもしれません……が、今の私には省察の時間が必要なのです」
「何かを迷っておいでで」
「………………………」
「まぁ、それは妖夢殿が決着をつけるべきことですね。西方の書院をお貸ししましょう。我が家と思ってごゆるり逗留なさいませ。橙、案内を」
「はぁい」
「ありがとう、ございます……」
 心身に傷を負った剣士は、深々と頭を下げた。

      ☆

 紅魔館という名前だからといって、その全ての物品が赤とは限らない。それはメイドの努力と魔女のわがままとそれ以外の些少な要因が混合した結果な訳だが、こうやって雪が降り積もってしまうと、もはや紅の魔の館の威名も台無しで、赤白が微妙に混じり合ったやけにおめでたい館に成り下がっている。ただ、紅の発色が妙に悪い理由はどうもそれだけではないようだ。
 館の地下に広がるヴワル魔法図書館の一角で、例によってパチュリー・ノーレッジが本の山に埋もれていると、多すぎて幾つあるか判らない扉の一つがノックされた。
「どうぞ」
「……うわ、ここも寒いですね。暖房入ってないんですか?」
 門番をしているべき紅美鈴は入ってくるなり文句をいって、早速パチュリーの不興を買った。
「あ、いや、文句いった訳じゃないですって。端的に事実を述べたまでで。それに寒いのはここだけじゃなくて、館中がそんな感じだから」
「……あらそう。出て行かないから判らなかったわ」
「出て行かなくて正解です。暖かい烏龍茶持ってきましたから」
「それなりに殊勝な心がけね。許してあげる」
 美鈴がポットを持ち上げると、パチュリーが本に付箋を貼って閉じる。器だけはかなり優雅なマイセンで、烏龍茶をずずず……と啜る二人。妙な取り合わせである。
 頃合いをみて、美鈴は恐る恐る聞いてみた。
「やっぱこれって、お嬢様や咲夜さんがいないせいなんでしょうか」
「その二人だけならいいんだけれど」
「……………………」
 なるべく考えない様にしながら、美鈴はふぅふぅと茶を冷ましている。
「それよりも、あなたは冬は苦手かしら?」
「へ? ええと……あまり寒いのも困りますが、とりたてて嫌いというわけでも。守衛小屋は吹き抜けですから慣れてます……」
「じゃ、雪の中で動き回ったり、立ち回っても平気かしら?」
「ええまぁ、それなりに。体を動かすのは得意ですからね」
 パチュリーは設問の無意味さを反省していた。この娘はなんでも肯定してしまうだろう。こんなに前向きな人妖は本の中の知識にも存在しない。
「でも、何でそんなこと聞くんですか?」
「何でもないわ。気にしなくていいの」
「もしかして、パチュリー様は冬は得意なんですか。暖房入ってないし」
 ギロリ、眼光が鞘走る。
「自慢じゃないけれど、私は春夏秋冬いつだって苦手よ」
「す、すみません……」
 調子に乗った挙げ句に縮こまった門番に、紫の魔女は溜息をついた。ふと、先程まで読んでいた本に目を落とす。古い装丁に刻まれた文字はラテン文字――ディオニュシオス・アレオパギテス、『天上位階論』。

      ☆

「よう、元気にしてるかい」
「……はい。そちらも寒いのに精が出ますね」
「あと少しで年越しだからな。仕事を納め、汚れを落として正月を迎えたいもんだ」
「そうですね、お互いに」
 顔見知りの男性と挨拶を交わして道を歩く。せがむ様にして付きまとう子供たちをあやしながら、周囲を観察し続ける。師走の里は活気に満ちていた。誰もが疲労を隠し、来年への希望を力に変えている。
 彼らは自分をみると目に留めるが、次の瞬間には忘れている。いるようでいない、いないようでいる自分。
 何故なら、私が上白沢慧音だから。
 影にあって人間の歴史を守る者。
 里の活況とは裏腹に、胸裡に膨れあがる不安を抑えきれない。大気に邪悪な影が広がってくる。それが何かも判らない。妖怪であればもっと簡単に見分けが付くはずなのに。
 森から聞こえた轟音の正体も気になったが、危機ならばより一層里を離れるわけにはいかない。幻想郷の人々が妖怪に対して単に畏れを抱くだけの弱き存在でないことを承知しつつも、この度の脅威はその度合いが知れない為にいつになく不安をかき立てられる。
 心が静まらない原因が、今一つ。
 先日追い払った少年少女の悲壮な瞳を繰り返し想起しているから。その正体を看破して里へと進入を禁じたものの、行く末が気懸かりで仕方ない。人妖であってもなにやら深き因縁に縛られていたのは間違いなかったので、手荒に追い払うことは避けたのだが。
 ……あるいは本当に、人間だったのか?
 それは有り得ない
 有り得ない筈だ。
 しかし――
 正しい歴史を護るとは、未来への視点を確保する作業でもある。
 もし彼らが闇によって深き宿業に苛まれていたとしても、正道を通っていればやがては見果てぬ頂に到達も出来よう。
 未来永劫果てぬ呪いなどあっていいはずがない。いずれ罪は許される時がくる。それを忘れない為にこそ、正しい歴史を護るのだ。
 あの二人にその力あらば、何時の日か発現の刻も訪れるだろう。自分がそれを願うことに決して罪はないはずだ。
 何か思うことがあるのか、慧音は眠る冬の森へと視線を投げ、沈黙する。
 己の信念に想いを馳せる。
 …………………。
 今はただ――己に課した責務を果たす、それのみ。
 拳を握りしめ決意も新たにしながら、慧眼を秘める少女は雑踏の中を駆けていく。
 降り止まぬ雪を見上げて。
 無限に続く人間の営みを支えながら。

      ☆

「こいつは……何が起こったんだ」
 霧雨魔理沙はその惨状に呆然と立ち尽くしていた。
 昨日に轟音と地響きが森を揺るがした、その中心地点。怪我は少し前に全快していたのだが、この少女は寒さによって極端に身体能力の低下するがために、日頃の出不精が輪を掛けて悪化していた。だから事件の予感にも関わらず、先程までぐずぐずとベッドで蹲っていた。
 しかしながら、あまりにも気になったので、背に腹は代えられない。滑稽なほど着膨れしてマフラーをぐるぐると巻き、震えながら家を出たのだった。
 だが、久しぶりに乗った箒の上で身を切る風に震えていたのも、現場を見るまでの話だった。
 薙ぎ倒され、吹き飛ばされた大木。まるで舗装でもしたかのように一直線に消滅している木々。そして、池であったであろう場所には氷も水も存在せず、底の見えない大穴が黒々と口を開けている。
 寒さではなく、戦慄に肩が震える。そこらに棲む雑魚の妖怪にできる所行ではなかった。
 しかし、この周辺でこんなことが出来る強力な奴は限られている上、いまでは大体が顔見知りである。奴らにこれをやる理由があるだろうか……? 考えにくいのだが。
「あるいは、あの傘の奴か……もう霊夢はいっちまったのかな」
 穴を覗き込みながら、考える。
 なにか大事が起こると妙なアンテナで受信してさっさと解決するのが博麗霊夢という少女である。話の全貌が見える前に終わってしまっては面白くないので即座にでも飛び込みたいところだが……怪我を治す間は自宅に籠もってしまい、長く神社にも行っていない。そらや清弥についても気懸かりだった。
「ま、急がばスーパー大回転だぜ」
 箒に乗った魔理沙は、神社に向かう前に上空から大穴を垣間見る。そうそうお目に掛かることのない漆黒の闇。
「まるで、地獄に繋がっていそうな感じだな」


 博麗神社は、氷雨追沫の襲撃前と同じ光景を取り戻していた。屋根に穴がいた本殿も、乱反射した魔砲が抉った玉砂利の境内も、みな修復されて元通り。放っておいても元に戻るのがこの神社の奇妙なところだった。
 意外なことに、魔理沙の予想は外れた。
 境内の一角、拍子抜けした魔理沙の前で、霊夢は餅つきをしていた。袖をたすきで縛り上げて、時折手の甲で汗を拭っている。
「……なにやってんだ霊夢」
「見ればわかるでしょ、お餅ついてるの」
「いや、判らないと思うけど」
 餅つきとはいっても、霊夢は杵と臼を同時に使っているわけではなく、香霖堂から借りてきた外界の道具を動かしているだけだ。壺の様な形をしていて、炊いた餅米を入れて蓋をしてスイッチを押せば、ういんういんと面妖な音をたて、餅米がうねうねと捏ねられるという妙な代物。
「……外の世界って、一体どうなってるんだろうな」
「さぁ? でも、一人でもお餅が準備出来るのはいいことよね。お正月の準備が捗るわ」
「まぁ、そんなことはどうでもいいんだよ。それより霊夢はあれを見てないのか」
「あれ?」
「あの大穴」
 茣蓙を広げ餅取り粉を蒔く霊夢は、迷惑そうに振り返った。
「なによ、それ」
「ここの神社の境内ぐらいある大穴が、北西の森に開いてる。異界にだって通じてそうな感じで、実際妙な魔力が」
「ふうん。ま、たいしたこと無いんじゃない? こんな寒い時期に悪さする奇特な妖怪もいないでしょうし」
「なんだよそれ、えらく淡泊だな」
「こっちは年越し準備で忙しいのよ」
「なんだよ、そんなの清弥にやらせればいいじゃないか。面倒事は年越前に済まそうぜ」
「……………………」
 霊夢が答えない。黙々と作業を続ける。
「……清弥の奴、どっかいってるのか? そういや、そらも見当たらないけど」
 そこで魔理沙は、自分の発した言葉の意味をようやく察知する。
 神社は元に戻っていたのだ。居候たちが住み着く前のあの、生活感に乏しい、人気の少ない、どこか神秘的な――
「霊夢、お前」
「二人で里に下りたわ」
「な、なんだと! この寒空、しかも奴の件だってまだ決着ついてないのに……いつの話だ」
「あんたが重傷を負った日の晩よ」
「……!」
 絶句する。
「里の結界で妖怪をやり過ごすっていってたわ。私や魔理沙にも迷惑掛けちゃったし、って。急がないと雪で道が無くなっちゃうから、仕方なかったみたい」
「……どうして、止めなかった」
「理由がなかったもの。出て行くってのを止められないでしょう? 喧嘩した訳じゃないんだし」
「そんな言い方ないだろう!」
「そうかしらね」
 餅つき機から取り出した熱い餅を千切っては投げ、ころころと丸めていく霊夢。その声は極めていつも通りだから、それが魔理沙を苛立たせる。体中が沸騰していた。もう微塵の寒さを感じない。すぐに箒にまたがって浮かび上がる。
「お前を見損なうほど買い被ってもいないけど、今回ばかりはしばらく顔も見たくない」
「ご自由に。あんたの分の餅は最初から無いし」
「私は和食派だけど、高カロリーで消化の悪い食い物はごめんなんだ!」
 言い捨てて急上昇する。結局霊夢は振り向かなかった。
 長い付き合いだから、魔理沙にだって分かっている……ああいう言い方をする時、霊夢は違う位相で何かを「視て」いるのだ。博麗の巫女にしか見えない何かを。でなければあの大穴のことも、あっさり二人と袂を分かったことも説明が付かない。
 だが、それにしたって――我慢できないじゃないか!
 魔理沙は全速力で飛びながら、大きく悪態を付く。霊夢の冷淡な対応へ、清弥の頼りなさへ、そらの泣けるほど従順な心へ、そして……自分の計り知れない迂闊さへ。


 霧雨霖乃助は少し後悔していた。
 霊夢にせがまれてあの外界の道具……自動餅つき機……を貸し与えたのだが、やはりあれは封印すべき代物だった。人の出来ないことをさせるならいざ知らず、人の手によって成せる仕事を安易に代替する機械など、眷属を使役する悪魔の発想ではないか。あんなものが幻想郷に流れ着くということは、結界の外の混沌は悪化の一途に違いない。不安が的中しなければいいのだが。
 正月が終わったら回収し、分解して他の使い道を探そう。仮にもここは商店なのだから、店の方向性にそぐわない物を陳列すべきではない。

 カランカラン!

 激しくドアが開け放たれ、冷たい外気が流れ込む。
 奥で外界由来の暖房器具を抱く様にしていた霖乃助だったが、突然の来訪者に多少驚き、次いで諭すようにしながら立ち上がる。
「魔理沙か。怪我は良くなったみたいだが途端に元気が有り余るのも困るな。冬にドアが壊れることの重大さをお前は」
「清弥とそらは来なかったか!」
「……こんな冬空に使いっ走りをさせるほど、霊夢は薄情なのか」
「違う違う違う! 最近来なかったかと効いてるんだ! ここ二、三日、いいや、一ヶ月ぐらいでもいい」
 カウンターに乗り出す魔理沙はいつになく感情的で、焦りが滲みだしている。
 それはそうだろう。事態は最悪の展開を見せつつあった。危惧したとおり、どの里にも清弥とそらはいなかった。最悪だった。血色の良い魔理沙の表情は紙のように青白くなっている。一縷の望みを託して訪れたのは、森の畔の小さな道具屋だった。
 早速徒労に終わった訳だが。
 無論、霖乃助にその辺りの状況は分からない。
「結論からいうと、雪が降る随分前から、清弥たちとは会ってないが?」
「……そうか。邪魔したぜ」
「理由と状況ぐらいを説明してくれないのか」
「霊夢に任せる。どうせあいつは神社から離れないからな。責任もあいつにある」
「雪の中、わざわざこちらから出向けというのか」
 答えはない。
 雪まみれのまま箒をかつぎ、悄然と店を出て行く魔理沙。少なくともこんな霧雨魔理沙を見た覚えが、霖乃助の記憶にはない。

 カラン……

 いつも通りの霊夢の様子。
 いつの間にか消えた二人の居候。
 昨日だったか、森に響いた異様な轟音。
 そして、何かを隠している魔理沙。
 寂しく鳴ったドアベルの音が響き終わっても、店主は閉じた扉と濡れた床を見つめている。眼鏡の奥の瞳はいつになく鋭利だ。


 もう手掛かりはないのか。
 考えろ。
 考えろ。
 箒に乗って森を睥睨しながら、魔理沙は脳味噌を空転させている。考えることを強制的に念じる故に、逆に思考停止状態に陥っている気がする。寒さは感じない。だが実は、寒さで既に自分は氷結していて、何も感じられないだけだとしたら? 全てが徒労に感じられる。向かい風は強くなる一方。
 目を細めながら舌打ちをする魔理沙の前方に、前触れもなく天啓の如き記憶の浮上が訪れる。
 自分が負傷してベッドに寝かされた、あの日。
 清弥とそらには手を出すなと自分が念を押した相手は、誰だったか。
「まさか」
 そんなはずはない。
 だが、自分の言葉も信じられない。
 急降下。周囲の雪を吹き飛ばしながら、森の中を低空に飛ぶ。
 それでなくても圧倒的に速い魔理沙の飛行速度は普段のリミットをあっさりと超えた。普段ならば諸手をあげて喜んだだろうが、今の彼女にその余裕はない。
 闇の森の奥にひっそりと立つ小屋が出現すると、箒から飛び降り、勢いそのままに扉を蹴り開ける。
「出てこいアリス!」
 薄暗い部屋には、例によって無数の人形と本がすし詰めになっている。少ないドアを一つ一つ開けていく。いない。アリスも誰もいない。もぬけのからだ。
「…………………」
 倒れかかってくるように湾曲した左右の本棚の間に立って、魔理沙は目を閉じた。
 気づいた。
 何かが隠蔽されている。
 いきなり両目をカッと見開いて右の棚の三段目、並んだ本をばらばらと抜いてはばらまき、その奥に寝かされていた一冊の本を取り上げた。
「私あまりを馬鹿にするなよ、アリス!」
 ぱらぱらとページを捲り、その魔法陣が描かれた部分で開いて右手に掲げ、左手で星形に印を切る。


「イィラ・フロル・ブレウィス・エスト!」


 魔法の執行に応じ、闇の奥に新たな扉が開く。
 魔理沙は本を投げ捨て、水晶球に魔法の明かりを灯し、その奥の闇に踏み込み、
 ――程なく、それらを見た。
 血が滴る丸く大きな手術台を。
 襤褸になった、見覚えのある男物の服を。
 選別され、散乱した残り少ない人骨を。
 無惨に叩き折られた魔法弓の残骸を。
 人形師の所業を。
「やっちまいやがったな、アリス」
 血溜まりに指先をつけてみる。
 いまだ、生暖かい。
 暖かくも酸鼻で甘美な香りがする。魔法使いはより魔に近い場所に生きる人間なのだ。それを改めて実感する。
 ……闇の中に、溜息とも、獣の唸りともつかぬ声が、きつく結んだ少女の口から漏れている。奥歯を割れんばかりに噛みしめる。固めた拳は骨が透けて見える程白くなっていった。