薄暗い。
屋敷の中にも深い霧が掛かっている。
窓は大きくて高くて届かない。
そこからじわり滲んでくる灰色の光。
時折遠くで自分の名前が呼ばれる。その声は別に嫌いじゃなかった。心地よかった。
……ではどうして、家を捨てる気になったのだろう?
そう自問した自分は既に一人で森に囲まれている。他には誰もいない声も聞こえない場所。周囲の木々は一様に背が高く梢を触れ合わせ葉擦れを響かせ自分を取り囲みまるでこれは、
かごめ かごめ
かごのなかのとりは
いつ いつ であう
よあけのばんに
つるとかめがすべった
うしろのしょうめん……
振り向く。
木々が手を離したように視界が広がる。
霧に煙る池。
その中央に立っているのは、
寄り添うように立つ、清弥とそら。
胸が空っぽになる。スカートの裾を掴む。
振り返っても自分の家はないから振り向かない。別に今まで不便を感じたこともないし感傷を覚えたこともないしこれからもきっとずっとそうだろう、だけど、では。中途半端に遠く幻のように浮かぶ二人の姿に焦燥を感じる胸の奥の空虚さは何だというのだろう? 或いは自分は人との距離を感じなかったのじゃなくて人との距離を感じたくなかっただけじゃないのか、とか。不断の思惟の隙間からこうやって時折現れる認めたくない事象が得てしてこのような真実に相似を成していると納得しているからこそ感じる孤独。こんなのは普段の自分じゃないからこんなの認められるはずもなく知らないから答えられるはずもなくでも答えないとそれは否定に繋がることもなくだから、
薄暗い。
部屋の中央の古めかしいストーブの上で、ブリキのポットが怒ったように湯気を上げていた。ベッドの上でそれが見られるということは、誰かが部屋をさわってカンテラに火をつけ、あまつさえ寝床を取り囲んでいた賽の河原の石塔のような本を片づけてしまったということだ。勝手にするなよ、と呟こうとして喉から声が出てこない。暑いのに体の奥が氷のように冷たくて軋む。生温い汗が噴き出て気持ち悪い。
「目を覚ましたか」
奥の扉が開いて、洗面器を持った霖乃助が入ってきた。その後ろに体を隠す、アリスの金髪が光ってわずかに眩しい。
今だぼんやりと霧に閉ざされた思考。無意識に体を起こそうとして胸骨に激痛を感じ、少しだけ悲鳴を漏らしてしまった。
「ほら、無理するな」
「………………」
「なんだ」
「ぼうし」
顔をしかめながら、積み上げた百科事典の上に引っかけてある黒い三角帽子を指差す。霖乃助が溜息をつきながら渡すと、深々と被って、また動かなくなる。
「それじゃ額にタオル載せられないだろう」
「私は病人じゃない」
「怪我人じゃないの?」とアリス。
「うるさい」
霧雨魔理沙は痛みを堪えながら吐き捨てた。胸の上にそっと手を置くと、ぐるぐる巻きの包帯の上からおろしたてのパジャマが着せてある。霖乃助またはアリスの仕業だろうが、自分の部屋を好きに触られたかと思うと感謝の前に怒りが燻ってしまう。蒐集癖に憑かれた少女にとって、この小屋は彼女そのものを体現していた。ある意味で、裸体に触られるよりも嫌悪感を感じてしまうのだった。
今や記憶は完全に回復していた。
「……あいつは。あの、傘の奴は……」
「お前の思ってるとおりだよ、魔理沙」
帽子の奥で奥歯を思い切り噛みしめる。
「霊夢か」
――まただ。
また、自分は霊夢に届かない。どんなに努力してもあいつには届かないのかと思うと、気が遠くなる。
だけど、今は、今はまだ。
表情を抑制できることを確認してから帽子を取ると、目の前にコップが差し出された。傷に障らないよう不自然な姿勢で伸びたストローをくわえると、喉に冷たい水が落ちてくる。また少し、脳裡が鮮明になった。額の上に濡れタオルが載せられる。
「霊夢のせいで、僕が今から里に荷物を取りに行くことになった。襲撃に気づいたのは用事の途中で、荷物を置きっぱなしなんだそうだ。すぐに発つ」
「誰かいてくれなんて頼んだか?」
「魔理沙に依頼される時は代償が必要だからな。商売人としてタダ働きは御免被りたい」
「……ま、そうだろうぜ」
「それに、今回僕は助っ人だ。お前を連れてきたのも最初に手当てしたのも僕じゃない」
「当然、私でもないわよ」
奥を見れば、アリスが背を向けて部屋のガラクタを眺めているふりをしている。妖怪のくせに嘘が下手くそな奴だと、魔理沙は思う。
「じゃ、誰かさんに向けるべき感謝の念は樽の中に詰めて、危険な魔法の実験用に醸成することにするぜ」
いつもの調子が戻ってきたのを見て、道具屋の主人は小さく肩をなで下ろし、椅子から立ち上がった。小声で、
「お前を心配する奴がいないと思うのは間違いだからな」
無駄だとは分かっていたが、視線を逸らさずにはいられなかった。霖乃助も魔理沙の意図を察したのか、心残すことなく扉に向かう。
「お嬢さん、奇特にももう少し魔理沙に付き合う気があるなら、たまにタオルを変えてやってくれないか。あとストーブの火も加減してくれ。こいつは寒いのが滅法苦手だ」
「そんなの常識以前の弱点でしょ。どんなに頭の悪い妖精だって知ってるわ」
「それを聞いて不安になったが、まあいい」
ベッドに少しだけ流し目を送ると、青年は扉の向こうに消えた。カーテンの閉まった窓の外で、足音が遠ざかっていく。
重苦しい沈黙。カーテンが閉じたまま窓を向いた魔理沙。人形を抱くアリスの手の青白さ。勢いよく湯気を立てるポット。暗い部屋。
ぽつりと魔理沙が呟く。
「あいつが、お前が追ってた奴なんだな」
「………………」
「妖怪が獲物を間違うなんて間抜けな話だ」
「今日は茶化した話し方しないのね」
「怪我してる時の余裕は自分専用だぜ」
アリスの声に、切迫感が籠もる。
「魔理沙だって、私が間違える訳ないことぐらい分かるでしょ? 『あの二人』は同じ。間違えるわけないわ。顔や形だけで判別したりしない。魂の色は翳らない。多分、作られ方が違うだけ……そう、違う服を着せられた同じ人形のように」
「奴とお前がどういう因縁かは知らんが、奴とそらとは全く違う。そらはここ半年、博麗神社で霊夢や、あのいけ好かない清弥と暮らしてきたんだ。霊夢が居候を許すと思い至らなかったお前がどう思おうが知らんがな」
「博麗の巫女が敵を住まわせるなんて思い浮かべる方が難しいでしょうよ……それに、どんなにカモフラージュしたって、霊夢には」
魔理沙が髪を乱して叫ぶ。
「だから、そらに悪意は無いといってるだろう! そらはそらだ。何者だろうがな」
「いやに必死になるのね。魔理沙がそこまで必死になるなんて、寡聞にして聞いたことがないけれど」
「魔法と妖怪の性分のみで判断するお前には解らない」
「そうかしら。わざと視界を歪め狭めているとしか思えないけれど」
「……お前こそ、やけに突っかかるな。いつもは誰にでも淡泊なくせに」
「おあいにく、私は感情によって判断が左右されるほど脆くなんてできていないのよ。ただ真実を知りたいだけなんだから」
「その自覚のなさがお前を象徴してるぜ」
アリスは目の前の少女の意固地に、普段絶対感じることのない不安の振幅を感じる。自信喪失した魔理沙など魔理沙ではない。
「怪我人は有事の際のベッドのありがたみを再確認すべきなのよ。黙って寝てなさい」
「アリス」
「…………………」
背を向けたアリスに、押し殺した声が届く。
「……傘の奴には私が熨斗をつけてお返しする。だから、そらには絶対手を出すな。清弥にもだ。興味本位で近づくな。手を引け。これからどうなろうと、事態が悪いように推移するなら、容赦しない」
「必死なのね。珍しい」
「嫌だったら私にとどめを刺していけ。そうでなければ後で絶対後悔させるぜ」
「その状態じゃ一向に説得力がないわね」
「窮鼠が噛んだら、猫は間違いなく死ぬぜ。病気になるからな」
まただ。
これもまた、普段の魔理沙には絶対ない声。
戦慄を感じる。この私が。
情けない。
人形を抱く手に力を込め、いなすべく振り返ろうとして、ふと顔を上げる。
気配――
瞬間、アリスの姿は陽炎のように立ち消え、代わりに音もなく部屋の扉が開く。吹き込む風。
闇の中から現れたのは、紫の髪の魔女。
「……よぉ。お前が図書館から出ることがあるんだな」
「出歩きすぎると怪我をするわ。喉にも悪いしお肌も焼ける。服も汚れる。血を流してベッドのお世話になるのは嫌だもの。それにシーツが必要以上に汚れるし」
「で、その実践者を観察に来たのか」
「その確率はさほど高くないわね」
パチュリー・ノーレッジは軟膏の入った壺と小さな頓服薬をテーブルに置いた。
「それなりによく効く薬よ。早く治して敵に備えなさい」
「敵? 誰のことだ」
「そこまでは私の関知するところじゃないわ。たとえ塔のアルカナでも、めくってみるまでは確率の向こうの予兆でしかない」
不吉に笑ってあっさり背を向けるパチュリーに、魔理沙は追いすがって尋ねる。
「なぁ。レミリアは今回のこれも『視て』いたのか? 私がこうなることも、襲撃者が訪れることも。いったい、あいつには何処まで見えているんだ?」
「……………」
「教えてくれ。何が始まってるんだ」
「……己の浅薄さを示すのはいいことじゃないわね、二階調の愚者よ。そのくらい解ってたから、あんたはあの時契約したのではなくて? 悪魔と結ぶ契りの重みからすれば、その怪我など痛痒にも満たない。これからもあの巫女の強大な力に保護されてただ生きていくだけなら、構わないけれどね」
魔理沙が答えられないのは、傷のせいか、あるいは。
知識と日陰の少女は、僅かに暗い箪笥の影にも流し目を送る。
「力無き者が出しゃばって、事態を掻き回すのも誉められた事じゃないわ。繰り糸はどこにもない。己が嗜好するものを愛して己の時間を生きなさい。そして、自分の意志ではこの世界の何処にも干渉できないのだという無力を自覚しなさい。博麗霊夢は必要とされるけれど、あなたを求める者は誰もいないのだから」
影が、僅かに形を変えた。
古き魔女は不機嫌そうに小さく咳をした。
来訪者と一緒に吹き込んだ風の名残が時を追って冷気を増していく。
☆
ドドドドドドドド、
崩落する激流が叩き付けるは深き淵。
雨は止んだものの、波頭は白濁している。頬を撫でる霧混じりの風は、低い体温の肌よりなお一層冷たく。半分だけ血の通う生温い体から、鋭利に鍛えられた細身の心を引き抜く柄のように。
魂魄妖夢は渦巻く急流に浮かぶ大岩に屹立し、飛沫絶えぬ滝を見上げていた。高い崖から流れ落ちる水が、彼女の白い髪をしっとりと濡らしている。
その周囲を分身たる蒼白き幽魂が舞う。
――風が変わった。
主はそういった。
急ぎなさいとも。情勢を見届けるまで帰還の必要はない、とまで。
口調こそいつもどおり間延びしていたが、その言葉に普段以上の冷気が籠もっていた。始終一緒にいる妖夢が戦慄を覚えるほどに。
だが、何を急ぐべきなのかまでは示してくれなかった。
急いであの弓の遣い手のところに向かい、以前指示されたように精神的に追いつめていけばいいのか。一度でいいのか。あるいは、波状に襲撃を繰り返すのか。それとも、状況の変化に応じて彼の命を奪い、その魂を主人に持ち帰ればいいのか。
回答は、主の愛用する優雅な扇子の向こうにしかない。自分で見つけるしかないのだ。
西行寺幽々子が何を求め、何を提示するのか、未熟な妖夢には理解しかねる場面も多い。だが、その脈絡のない行動のほとんどが真実へと繋がっていることもまた事実。先代の庭師にして妖夢の師匠であった魂魄妖忌ならば、それらを余すことなく悟った上で、先手を打って適切な行動を取れるのだろうか。そうしていたのだろうか。
幽々子はどのような結果であろうと、妖夢を叱責することはないだろう。だがそれがまた、少女剣士を混迷の園へと導く。
人間の部分が迷いを畏れ、幽霊の部分が迷いへ入り交じる。引き裂かれた私。引き裂く二振りの剣。
五十六億七千万年の先にも、多分私の悟りはない。
妖夢はそれに気づいている。それでも、己の剣に鍛える余地のある間は、先代のように旅に出ることも、自尽することも許されまい。死に近き場所にありながら、死の意味すらも計りかねるこの未熟さ。
「……すぅ」
ゆっくりと目を閉じる。呼気を整える。
轟音が響く闇に、鋭利な鏃そのものといった少年のまなざしが浮かぶ。
――今はただ、自分の気持ちに素直になろう。刃を振るう己を信じよう。その結果がどうあろうとも。そして、幽々子様にありのままをご報告しよう。起こったこと、みたことを包み隠さず。それが、今出来る自分の全てなのだと。
双刀の柄をしっかり握り、落ちてくる滝に聴覚を集中する。重力とブラウン運動とに縛られて分裂する水滴一つ一つの音と、滝壺全体が上げる轟音とを聞き分ける。
音それ自体を「視る」。
時間を平面上に切り取る。
次にくる流水の一番厚い部分を刹那に捉え、
「幽鬼剣――」
呟きと共に瞼をカッと見開き、
楼観剣の鞘は桃色に染まり、
白楼剣の鞘は白く滲み、
しゃがんだと同時に全身のバネを使って飛び上がり、二振りを同時に抜刀して天空へ斬撃を打ち上げる。
滝の水は見事に真っ二つになり逆流し、宙に舞う妖夢を中心にして左右へ、高く高くそびえ立っていく。雪崩のように霧散していく。大気が水浸しになる。一時的に水を失った滝の岩肌は露出した。剣から放たれた強烈な衝撃波はそれさえ抉って水と共に飛礫を散す。
滞空する剣士は、低く垂れ込めた重き雲間に光を探す。
救い無き天に光明はない。
浄土遙かな幻想郷。
だが既に、魂魄妖夢は一時的に迷いを断っている。
――次に彼にまみえたら、必ず斬る。
☆
遺棄された胎児のような廃墟の前には白い少女。夕刻が迫っているはずなのに、不吉な黒雲が低く敷き詰められていて時刻は容易に知れない。雨脚は遠ざかったが、身を刺すような北風が濡れそぼった森へと吹き降ろしている。
少女は身じろぎもせず佇立する。
雨に晒されたまま、生乾きの躯。
表情は無く血の気が引いている。
手の中には汚れた仏蘭西人形。
目の前には残骸と化した小屋。
昼間までは居候たちの家だった場所。
見る影もない。
小屋の周りの樹木も何本か倒れている。そのすべてが少女の形をした旋風の襲来によって引き起こされたものだ。
――自分と同じ顔を持つ、白い少女によって。
その記憶が記憶の淵に浮かび上がる度、彼女は小刻みに震える。脳裡が真っ白になる。それがあまりにも受け入れがたいものであるが故に。
「……清弥」
呟く。
返事はない。
梢から時折落ちる雫の音だけが空虚に響く。
先程まで瓦礫の中から数少ない荷物を掘り出していた少年は、神社の方向へ姿を消している。頭に包帯を巻いてはいたものの、機敏な動きだけはいつもと変わらないその背中を見つめるのが辛かった。
「そら」
もし今そう呼びかけられたら、きちんと答えられるだろうか? 自信がない。
だって、
自分は「そら」ではないから。
自分がずっと秘密にしてきた「名前」が、向こうから姿を現したのだから――そう、自分で彼に告白する前に。もう、取り返しはつかない。彼は自分をどう思っているのだろう。そらと呼ばれたら、どう答えればいいのだろう。
わからなかった。
凍えるような木枯らしが、空洞になった心を吹き抜ける。その後、少しの間だけ訪れる無風状態。
焦点の合わない視界に、
ふわり、ふわり、
音もなく、
……ゆっくりと舞いおり始めた。
白い少女は空を見上げる。
低く黒く汚れた灰色の天から、無数に舞い降り始めた軽い、冷たい、小さい、何か。汚れた地上に似つかわしくない、純白の。
これは何――?
いつもならすぐに答えてくれる少年はいない。淀んだ瞳は舞う白の欠片をただ無為に映している。それを受け止めることの出来ないまま、白い少女は冬の訪れのただ中に孤立する。
障子の前に立つと、中から声がした。
「どうぞ?」
開ける。燈火の灯った仄暗い部屋の中央で、霊夢は火鉢に火を入れ、火箸で炭をつついていた。隅を転がすたびに火の粉がぱちぱちと上がっている。
「いよいよ寒くなってきたわね。まだ点けたばかりだけど、暖まるといいわよ」
訪問者は黙ったまま。部屋に入ると音を立てないようにして、障子を閉めた。
霊夢は顔を上げない。
「片づけは終わったのかしら?……本当に災難だったわね。さっき見てきたけど、結界の一部が刃物で切られてたわ。あれなら妖の類も容易に入り込むでしょうよ。本当なら、自力でここに入り込むなんて不可能はなずなんだけど。ま、一応応急処置はしておいたから当面は大丈夫。だけど、きちんとした結界はもう少し時間が掛かりそうね。儀式とかもいるだろうし。誰がやったかについてはおおよそ見当はつくけど。まぁでも、呼ばれてないのにわざわざ懲らしめにいくのもお門違いかしら。まだまだお呼ばれじゃないし」
「……………………」
「どうしたの清弥さん? 座らないの? 私だけ喋ってたら一層疲れて眠くなっちゃうわ」
「なんで」
清弥は知らぬ間に拳を固めていた。
額には血で汚れた包帯が巻かれている。
「なぁに?」
「なんで、そんな平然としてられるんだ? 神社はボロボロになっちゃったし、魔理沙は骨折までしてるのに……まるで他人事みたいじゃないか」
「そうかしら? ここまで困ってるのは久しぶりなのよ。そらさんにお料理教える時も、妖怪と弾幕をやり合う時も、こうもあれこれ考えなきゃいけなくはないものね。基本的に一日で解決できない厄介事は御免被りたいし……もしかして、みんなにもお疲れ様っていって回らないと駄目なのかしら。そういうのは事件が解決した後にしない? お茶会の時とかに」
「……そういういい方ってないだろ? 今までそんなに冷たい言葉遣いなんてしたことないのに、なんでいきなりそんな風なんだよ」
「およそ私には、清弥さんがただ、私にいって欲しいことがあるだけのように思えるけどね」
「そんなこと」
「門限を過ぎちゃって、言い訳を考えながら玄関の前をうろうろする子供みたい」
「……………………」
「どうかしら」
パチン、
灼熱した炭が又、音を立てて爆ぜる。
逡巡が焼けただれている。
それでも、
まだ迷いつつ、
清弥は口を開く。
「………………どうしたらいいのか、分からないんだよ」
「何を?」
「これまでのこと。これからの、こと」
「……誰のこと?」
「そらの、こと」
隙間風が入り込んで、清弥と霊夢の陰影を僅かに揺らす。
「そらさんに、何かあったっけ? 入り込んだ奴の方が問題じゃないの?」
「あいつは、だって……じゃ、ないか……」
苦悩をありあり浮かべた清弥は、床にどっかと座り込み、固めた拳で畳を軽く叩いた。
「……あいつが、襲ってきた奴があんな顔をしていなきゃ、こんなに悩みはしない」
「……………………」
「霊夢は、怒っていないのか? そらのことを……そらが、妖怪かもしれない、って、隠していた、ことを」
絞り出すような、震えるような、声。
出来れば誰にも喋りたくなかった事実。
でも、もう後戻りは出来ない。半壊した神社や、傷ついた魔理沙や、霊夢と戦った相手は否定できないのだから。
霊夢は答えず、小さな熾火をぼんやり眺めている。
清弥は厳かに語り始めた。まるで祈念にも似た、神妙な声で。
「……俺もずっと、そらが妖怪じゃないかって……いいや、多分そうなんだろうって思ってた。梅雨に森の中の池で出会った時からずっと。最初は不安だった。でも、ここに置いてもらって一緒に暮らしていく間に、まるで嬰児みたいだったそらは、いろんなことを覚えて、普通の……そう、普通の人間みたいになっていった。それは霊夢も認めるだろ? いつまでも居候じゃいけないと思ってたし、いつか里に連れて行って、普通に暮らせればとも考えてた。そんな希望を持たせるぐらい、そらは成長してくれた。嬉しかったんだ。人妖であっても、人間と一緒に暮らせるなら、それが一番いい……ここで霊夢が、他の妖怪達とそうしているように」
「あら、別に私が呼んでる訳じゃないんだけど。あの子達に関してはね」
「でも実際そうじゃないか。勿論不安はぬぐえないし、今だって俺やそらを付け狙ってる奴もいるみたいだけど……でも、そらが上手くやっていけるかどうかはまた別のことだと思うんだ。人間と変わりなく、幸せに暮らすことだって出来るだろ? 霊夢もそう思うだろ?」
霊夢が顔を起こす。清弥を直視する。
清弥はそれを受け止める。
言葉に熱が籠もる。
「きちんと説明しなかったのは悪いと思ってる。霊夢は『博麗の巫女』で、あの時も神々しい力を眼前で見せられたから、驚いたし、そらの真実を言いにくくなったのも本当だけど……でも、今だったら何でも話せるから。だから……だからそらを護って欲しいんだ。そらがこれまで通り、これからもずっと普通に暮らせるように、助けて欲しいんだ。俺では……そらを護れない時だって、あるかもしれない、んだし……」
歯噛みする。最後の方は呟きになってしまった。
「そんなお喋りな清弥さん、初めてかも」
「……嘘はいってない」
「本当のことかもしれないけれど、いってくれてないこともあるみたいだけど?」
「そんなことはないよ」
「じゃ、どうして清弥さんはそらさんのことばかりをいうのかしらね?」
「だって今は、そらを護らないといけないからだろう? 奴はそらを狙ってきたんだし、それにあいつの姿は」
「私は、そらさんを護る為にここにいる訳じゃないんだけどね」
「なんだって」
「意外とそらさんは、迎えに来て貰って嬉しいんじゃないのかしら」
「……霊夢……!」
「清弥さんはそらさんに確かめたのかしら? 清弥さんが思ってることが、本当にそらさんの思っている事なのかしら。清弥さんの言葉は、畢竟、誰の言葉なのかしらね」
脳裡が沸騰していく。視界が赤く白く泡立つのを必死で抑えつつ、霊夢を睨み付ける。霊夢の意図が分からない。どうしてこんなに自分を苛立たせるのか。普通に答えてくれないのか。
ただ、霊夢の瞳はいつもにもまして透き通っていて、彼の感情を受け流してしまうよう。
「……そのくらい、今からだって、確かめられるさ。そのくらい。たとえそらが本当に妖怪でも、俺はそらを受け入れる。そらと一緒にいる。そらを引き留めておける。霊夢が他の妖怪達を受け止めるのと同じように」
「同じかしらね」
「違わないさ! 霊夢に会ってから、俺だって妖怪のことを少し理解してきたんだ。村にいる時は単なる恐怖の存在だったけど、奴らには奴らなりの判断や感情があるのも分かってきた。本当に害を成す時を見極めれば、付き合うことだって出来る。霖乃助も前にそういってたんだ」
「……………………」
「それに、霊夢はあいつらが嫌いじゃないんだろう? だから本気で祓ったりしない。あいつらも霊夢が嫌いなんじゃない、だから――」
激昂しつつ迸りそうになった言葉の意味が不意に弾けて、思わず口をつぐむ。
本当か?
……本当に、そうなのか?
あいつらは本当に霊夢を慕っているのか?
或いは――圧倒的な霊夢の力に屈服しているだけではないのか?
霊夢が呟く。心底不思議そうな声。両の瞳が徐々に半眼になっていく。
「私って、そんなに真面目に見えるのかしらね? わりと不本意なんだけど。ここは、態度を翻してみるべきなのかもね」
「…………………」
熱によって部屋の空気が循環し、炭が照り返す温もりが肌を炙っているというのに、何故か背筋に氷塊が滑り落ちる。
霊夢と自分とのこの距離は何だ?
今のは本当に霊夢の言葉なのか。
いや――
博麗霊夢とは、誰なのか?
今の今まで気軽に話しかけていた少女は、一体誰だったのだろう。目の前の少女は一体誰なのだろう。当たり前に「霊夢」と呼びかけていたことに突然の違和感が無数の亀裂を呼び起こす。
「……霊夢じゃ、ないのか……? それとも、霊夢が……」
歩いて一日掛かる距離の里にいたはずの巫女は、一体何故、そらと同じ顔の少女の襲来を察知し、一瞬のうちに駆け付けることが出来たのか。霧雨魔理沙とアリス・マーガトロイドをあっけなく撃破した人外を、いとも容易に追い払った能力は一体何なのか。気楽な表情に時折浮かぶ眼光の鋭さは。一夜にして植生の変わる神庭の花々や、池に浮かぶ蓮の花の気持ち悪いほどの鮮やかさや、今日まで咲き続けていた向日葵の、枯死。
自分を取り巻いていた事実が、収束して目の前で紅白の衣装を纏って座っている。
一度考えると、焼き鏝で刻印されたように強い印象になり、水門を開けたかのように小さな猜疑の用水路に浸透して繋がっていく。
「……霊夢……あんたは一体……」
弾かれる。
怯えるように後じさり、立ち上がる清弥。
「おかしい……普通じゃ、ないよ……」
燈火の光に照らされて、二人の影が揺れる。
小さな巫女は大きく、強き少年は小さく。
「……一体、何なんだ……」
「………………………」
「何なんだよ!」
バタン!
前触れもなく、襖が勢いよく開いた。
「やめて」
大きく開いたまなこからは、既に大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちている。それを止める術を知らないまま、そらが絶叫した。
「もうやめてぇ、ケンカしない、で…ぇっ!」
「そら!」
「そらさん」
「もう、誰にも、魔理沙にも。霊夢にも……迷惑、掛けたりしない、から……わたしが、わたしが……わた……」
清弥は駆け寄り、しっかりとそらを抱いた。
「お願い……せいやぁ……れいむぅ」
「大丈夫だ、そら。俺はここにいる……ケンカなんてしてないから」
「うぁあ、清弥ぁあ……」
あとは、声にならない嗚咽が続く。
抱きすくめたら折れてしまいそうな躯。
梅雨の日の邂逅が、
十三夜に舞った夜風と、光の世界が、
あの小屋で二人過ごした時間が、
すれ違いながら絡まった感情全てが、甦ってくる。
この頼りない暖かさが、自分の全て。
自分を取り囲む世界全ての中で、唯一の真実だと、清弥は思う。
それがどんなに脆い物であろうとも。
たとえ霊夢と――幻想郷の支柱とは相容れない存在であろうとも。
自分は、護らなくてはならない。
この、唯一の存在を。
暖かさを。
全てを賭して。
……そらの肩越し、欄干の向こうには、
ほとんど視界の無くなってきた薄暗い天空より音もなく舞い散る、
遅い初雪――
「そら。そら」
「……………………」
「ここを、出よう」
「……………………」
「里にも結界はある。ここよりも安全とはいえないけど、それでも……あいつをやり過ごすことはできるかもしれない。いや、きっとうまくいく。一緒に生きていけると思う。だから、雪が積もって動けなくなる前に行こう。今、すぐに」
「ゆ、き……」
「心配することはないよ。俺はいつも、そらと一緒にいる」
震えながら頷く、そら。
「……うん……清弥に、ついていく……」
そらを抱きしめながら、空を見上げながら、清弥は小さく強く語る。
「霊夢……今まで、ありがとう。俺たちはここを出るよ」
「出て行けなんていってないんだけど」
背後から返ってきた霊夢の声は、いつもの調子だった。怒りもなく、嘲りもなく。少し安心しながらもまた、悲しい。
そう――逃げ出すんじゃない。
俺たちは自分の意志でここを出て行く。
間違った選択を繰り返しながら、
そらと一緒に。
「分かってる。多分、このままでもいいと思う。霊夢はずっとここにいさせてくれると思う……だけど、きっとこのままじゃ駄目なんだ。それがどうしてなのかは、今は、言えないけれど……」
次第に増える雪。
戦いの傷跡を埋めるかのように。
「ただそれが、今になっただけのことなんだ……きっと、多分」
そらの頭を抱きながら、語る清弥。誰に向けるでもなく、ただ自分に刻み込むかのように、深く、長く、息をつく。
博麗神社を訪れた時、清弥とそらは着のみ着のままだった。だから、此処を発つ旅支度があっという間に終わったのはいわば必然だった。違うのは、背中に背負いきれない程の思い出を抱えていることだけ。
清弥はいつもの狩人装束に、藁で編んだ蓑を纏い、愛用の魔法弓と小さな革袋。松脂を塗った松明。雪靴の準備は間に合っていた。
そらに至っては、服も霊夢の物をそのまま着ている始末だった。そろそろ必要になるだろうと取り出していた緑の外套は、そらには少し小さくて、手首が見えてしまっていた。大きなリボンを施した揃いのミトンも提供して貰った。懐には清弥の笛が大切にしまわれている。
雨の後の雪はただびちゃびちゃと汚れるが、夜になれば凍り付き、その上にしんしんと降り積もってゆくだろう。幻想郷の冬は人を拒絶する。清弥も重々承知していた。だから、慌ただしい出発は間違いではないのだ。
そらの手を引いて境内を抜け、階段へ。
未練を残したくなかったので、あの廃墟へはもう赴かない。不用意に振り返ってはいけない。
今まで自分たちを包んでくれた場所が本当に暖かいことを、
これから自分たちが踏み込む闇が、本当に冷たく深いことを、知っているから。
「清弥さーん、そらさーん」
と、後ろから水溜まりを踏む足音が近づいてくる。陰陽の交わりを示す紋を刻んだ提灯が揺れながら近づいてくる。
清弥は足を止めた。そらが倣う。
折しもそこは鳥居の真下。
眼前には森へと続く灯籠の階段。
背後には傷ついてもなお、幻想郷を守護する小さな社。二つの世界の境界線上。
「別に急ぐのは止めないけれど、別の理由で邪魔するのは構わないわよね。まだ境内だし」
相当急いだのか、珍しく霊夢の頬が上気していた。なるべく顔を見ないようにしながら、清弥が要件を問う。
「夜道でお腹減ったらいけないでしょ。残ったご飯で焼きおむすび作ったから。凍らないうちに食べてね」
「……ありがとう」
「眠くならないようにお清めの塩、多めに入れておいたからね」
「………………」
その口調はどこまでもいつもの霊夢だから、清弥はどんなに努力しても、その顔を直視できない。
「……神社の修理、手伝えなくて、ごめん」
「いいのよ、いつだってどうにかなってきたんだから……それから、そらさんには、これ」
霊夢はそらに差し出したのは、あの仏蘭西人形だった。応急処置ではあったが、泥を落とされ冬服を着せられて綺麗になっていた。
「……霊夢、これ……」
「私、まだ返して貰ってないもの。今はまだ、そらさんの方が大事にしてくれると思うからね」
「………………」
必死に頭を振って拒絶するそらだったが、霊夢は気楽風に笑う。
「このくらいはいいでしょ、清弥さん」
霊夢の語調に初めて努力の意志を感じ取った清弥は、完全に背を向け、天を仰いだ。
何かを怖がるように。
一段だけ、階段を下りる。
「……ほら、いいって」
「……………………」
「私の代わりに、里のいろんなものを見せてあげて。お願い」
押しつけるようにして人形を渡す霊夢、
力無く受け取るそら、
その胸に、
一瞬だけ、一瞬だけ、
霊夢がもたれ掛かる。
黒髪に隠れた表情は見えない。
赤いリボンが蝶のように激しく揺れている。そらの白髪が雪交じりの風に煽られて翻る――目尻から零れる輝きを金剛石の欠片に変えながら。
苦労しながら、清弥が絞り出す一言、
「いこう、そら」
それが最後の言葉。
少女達の影が二つに分かれる。
少年は松明を掲げ、もう片方の手を差し出す。白い少女は人形を抱き、もう一つの手でしっかりと少年の手を握る。
彼らは参道を下り始めた。
階段を下りる度、黒き森は光を覆い隠し、
いつまでも鳥居の下から消えない提灯の明かりを小さく、小さくしていく。
二人は振り返らない。
己の選択をただ歩みゆくその足音を、
テンポの違う二組の足跡を、
幾重にも降り積もる雪が、かき消していく。
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