氷雨傘



「あら、悪魔メイドじゃない。こんなところで何を企んでるの?」
 十六夜咲夜が振り返ると、右手に閉じた傘を握った博麗の巫女が、こちらへ向かってのんびり歩いてくるところだった。
「……会っていきなり悪魔メイドはないんじゃないの? 失礼ね」
「天使メイドは職業詐称だし、時計メイドは職人さんみたいだし、只のメイドだとイケナイものを目撃してしまう家政婦のおばさんみたいな気がするから」
「せめて美人メイド長ぐらいにしていただけないかしら」
「部下を働かせてるところ見たことないけどね」
「部下にやらせるよりは自分がやった方が早いんだもの、仕方ないじゃない」
 それなりの人々が往来する、人間の里の目抜き通り。結界外の近代都市ならいざしらず、幻想郷ではかなり珍しい遭遇形式だった。もっとも、二人の格好は周囲から浮きまくっているので、同じ場所にいれば気づかないはずもない。
「生きのいい生贄でも探しに来たのかしら? 不吉なこと」
「人聞きが悪いわね。変わった食材と食器と刃物を探しに来ただけじゃない」
「ほらね。真っ昼間の往来が似合う殺人鬼なんていないんだけど。きっと最近のトレンドは違うのね」
「うるさいわね。そういうあんただって、空飛んで変な宗教を振りまいて、善良な民百姓から金銀財宝を巻き上げに来たんでしょ」
「まぁ、ある意味そうだけど。意味的には金銀財宝っていえなくもないし」
 霊夢は傘を肩に背負いながら、農家の軒先に積まれた米俵を指差した。
「お餅を搗かなきゃ、年越しできないでしょう? 餅米を少し分けてもらいにきたのよ。今年は清弥さんとそらさんがいるから、少し多めにしなきゃ……運搬に馬を借りなきゃいけないわね」
「それはそれは難儀なことで。当家にはそういう仕来りはありませんから楽でいいわ」
「西洋の館だからってやらなくていいってことは無いと思うんだけどなぁ」
 蓬莱の習慣を面白がって無視する咲夜の主人が「今年こそ『もみのき』が欲しいの」と例によって駄々をこねたことは当然秘密にしておく。毎年毎年、「それは悪魔が準備すべきものじゃない」と懇切丁寧に説明しているのだが、主人は一向に理解してくれない。巫女には巫女の悩みがあるように、メイドにはメイドの秘めたる悩みがある。
「さてさて、井戸端会議してたら遅くなるわ。またね、脳天気さん」
「あ、レミリアにいっときなさいよ。神社に来るなら差し入れを忘れずに。特にお酒。うちの倉は無尽蔵じゃないんだから」
「湯殿を建て替えてあげたんだから、そのくらいは大目に見なさいよ。器量の狭い護り手ねぇ」
「時計をぶら下げてるくせに自分の記憶には正確じゃないのね、まったく」
「観測者にとってはそれなりに高性能なのよ。ごめんくださいな」
 ひらひらと手を振って霊夢に背を向けた。あかんべーをしているようだったが、この場で弾幕を披露するわけにはいかないから優雅に無視して里を抜ける。
 今日の買い物はつつがなく済んだが、館の仕事にきりなどない。どうやらワインの選定も新たな仕事に加わりそうな予感もするし。だから、帰宅の途ぐらい楽しみたいと思う。
 と。
 村境で変化を感じた。頬をすり抜ける冷気に応じ、荷物を入れた手籠に布を掛け、手を広げて曇天を見上げる。折りからの寒さに微量の水分を感じたような気がした。残念ながら少々急がなくてはいけないかもしれない。
 愛用している臙脂色のマフラーを濡らしたくはない。その気になれば時を止めて館への道を急ぐこともできるが、あえてそれをしないのが彼女を瀟洒なメイドたらしめる所以だ。心を少し逸らせながらも歩みのペースは変えず、まっすぐ森へ向かっている。
「雨傘は日傘と違って上品さに欠けるものね。あまり持ち歩きたくはないわ」
 森の小径を少し歩いたところで、両手に一度息を吹きかけて、ふわりと浮かび上がる。
 天に舞う。
 あとは一直線に紅魔館を目指すだけだ。館に近づくに従い、様々な色の落葉樹が杉を中心とした針葉樹の森へと、グラデーションを描いて変容していく。紅魔館の魔力が周囲に伝播した結果、洋館に相応しいシュバルツバルトへと転じていったのだ。魔は魔を呼ぶ。たとえ外見が幼き少女であろうとも、彼女の主人は自身が一つの世界たる紅魔卿である。
 枝々にまだらに隠れた道を辿って飛んでいると、
「……誰かしら」
 道を往く旅人がいた。
 雨はまだ降っていないのに、大きな傘を差して歩みゆく。紅魔館の方角ではない。幻想郷の更に端、博麗神社へと連なる小径だ。ほとんどの人間にも妖怪にも必要ない、ほとんど誰も通らない道。だが不思議なことに、その道が草に埋もれることは決してない。
「……………………」
 咲夜は一瞬考えたが、その傘をまぶたに焼き付けるように凝視してから、思い切り高く飛んだ。迂回しつつ高速飛行して、裏手から紅魔館の敷地に飛び込む。
 急ぎつつも几帳面に、外出着から普段のメイド服(といっても彼女以外に見分けのつく者はいない)に着替え、身なりを整えてから主人の部屋を尋ねた。珍しいことに、日中にも関わらずレミリアは起き出していた。
「戻りましたよ、お嬢様。先程そこで」
「間に合ってよかったわね。待っていたのよ咲夜……いま降り出したわ」
 ぱらぱらぱらぱら……。
 雨にしては大きな音を立てて白い線が落ち始めた窓際に、背を向けて立つ少女。見返ったその笑顔にメイド長は一瞬鳥肌を立てる。世界中でもっともこの悪魔と接している彼女であっても畏怖を禁じ得ない、それは甘美で完璧な美貌だ。
「お嬢様」
「すべて判っているわ。……始まるわよ」
 吸血鬼の白目に沸騰する狂気が漲り、幾筋もの血管が浮き上がる。無意識のうちに牙を剥きだしている。
「そう――永き運命の輪舞が」

      ☆

 降り出したのは氷雨だった。
 大地にしみいる雨でなく、
 大地を包む雪でもなく、
 ただひたすらに全てを痛めつける氷雨。
 打ち据えられた森の木々が悲鳴のようにバラバラと音を立てる。
 この年の幻想郷はまれにみる暖冬で、山地でありながら今だ本格的な冬の到来をみていない中、その異常気象の極致ともいえる天の仕打ちだった。
 霞を裂いて飛来するみぞれ交じりの小さな氷塊は、山肌にまんべんなく蒔かれていく。曇天で気温が低いゆえにそのまま溶けることもなく白き斑を形成する。鳥や動物たちは何事かと巣穴に潜み、魚たちは水面より深く沈降し、泳ぎ惑う。迷惑な天の気紛れを歓迎するものはいない。
 博麗神社に近い森の一角。
 先日、霊夢達が茸狩りの散策に出かけ、アリス・マーガトロイドの襲撃を受けた付近。もっと正確にいえば、在原清弥が魂魄妖夢の一閃をすんでの所で回避した場所。
 冥界の剣が抉った樹々の幹は精気を吸われ、生々しく年輪を露出している。歳月がその傷に色濃く降り積もるにはまだまだ時間が掛かるのだろう。
 幹に連続するいくつもの傷を辿り直線を描いたその先――すなわち、妖夢の剣尖が放った衝撃波の飛んだ先には、博麗神社を取り囲むように設置された、苔生す古き狛犬の一体が鎮座していた。清弥が初めて神社を訪れた時に目撃したのと同じ物だ。
 その狛犬にも剣士の衝撃波は影響を与えていた。首まわりに大きなひびが入り、不安定な状況のままかろうじて元の形を保っていたのである。
 そこへ、氷雨が降ってきた。
 通常ならば微塵の影響も受けないはずだった。狛犬は結界の要である。たとえどんな天変地異であっても、さしたる影響を受けないように配置されるのが要石なのだ。だが、少女剣士の鋭い一撃と、見えない悪意の籠もった激しい氷雨の襲来に、永劫の年月に渡って神域を守護してきた神獣は、遂にその役目を終えようとしていた。
 霰が一際強く降り注いだ後、妙になま暖かい風が一陣、強く山肌を駆け抜けた。
 そして。
 突然だった。
 ……ぼと。
 狛犬の首が落ち、しばらく山肌を転がった後に、杉の根に引っかかって止まった。その顔は腐葉土にまみれ大地に額ずかされ、最早外敵を見張ることも、空を推し量ることも出来なくなった。
 首無き霊獣の上を風が吹き渡る。
 呼応するように強くなる氷雨を吹き散らして。
 囁くような嘲笑にも聞こえる――西風が。


 清弥にも氷雨が降る光景は記憶にない。里へ冬支度の買い出しに行った霊夢のことが気になった。傘は持っていったものの、さすがにこんな天候になるとは想像していなかったろう。
 そらが欄干の先に手を伸ばして、落ちてくる氷の粒を受け止めている。妙な物だとでも思っているのだろうか。あるいは、天空から落ちるのは雨だけだと思っていたのかもしれない。
 最近は知らないことも少なくなって来たから、言葉数の少なさ以外は最早普通の娘と変わらない。だから、どこかおっかなびっくりで視線を上げる表情が、出会って間もない頃のそらを想起させた。
「中に入っていようか。吐息も白いし」
「…………霊夢は、大丈夫?」
「俺も気になるけど、今からじゃどうにもならないし。待つしかないよ……でも、やっぱり俺が急いで行った方がよかったかもしれないな。多分大荷物だし、待ってるよりは自分でやった方が気持ちも落ち着くよ」
 そらが小さく頷く。
「霊夢に顎で使われるのに慣れちゃったのかもしれないけどな」
 二人は顔を見合わせて笑った。
 今回の里行きは霊夢が珍しく自分で行くと告げた。毎年の行事らしいので自分が話をつけた方が早いらしい。そういわれれば清弥の出る幕はない。それに、そらの件もある。自分で護ると言った以上は相応の責任があるのだから。
 でも……安全が確保できるのなら、そらも里に連れて行ってやりたいと思う。そらが依然正体不明の存在であることは充分に承知しているつもりだが、現にあの十三夜以降、そらが妖怪に転じる兆候は皆無だ。逆に、そらを里に連れて行って人々に触れ合わせられるなら、眠っているだけかもしれない人外の本性を完全に封印し、人と変わらぬ生活を送らせてやれるかもしれないという期待もあった。ここでの生活がそらに基本的な生活の様式を教えてくれたことは間違いないし、また現状で際だった悪影響を与えているとは思わないのだが。まわりにいるのはあまりにも特殊な人間や妙な妖怪ばかりで、普通の生活というには少々憚られるものがあった。
 そらには更なる経験が必要だと思う。
 彼女自身のために。
(まぁそれは、今は単なる願望に過ぎないけどな)
 自分たちは居候だけど、博麗神社での生活はそれを忘れさせてくれるくらいに安逸だ。最近はアリスや少女剣士の件もあったし、霊夢との雰囲気が悪くなったりもしたが……それも一時的なことだろう。基本的に神社の中は今も安全なのだし。それらの問題を無事切り抜けられたなら、自分の企図もやがては可能なのではないか。清弥はぼんやりとそう考えていた。
「……じゃ、今日は俺がお茶淹れるよ」
「あ」
 そらが参道の鳥居の上空を指差した。
「どうした?」
「魔理沙」
「何」
 見上げれば、フードを被った黒ずくめが竹箒に横乗りして降下してくるところだった。マントが氷雨に叩かれて煙っているようにも見える。
 清弥は小さく舌打ちするが、そらの手前では声を荒げることも出来ない。もう無駄な気苦労や喧嘩はこりごりだった。
 霧雨魔理沙は外套の氷雨を払いながら二人の前に立ち、フードを脱いでポケットから出したトレードマークの三角帽子を被り直した。
「いやはや、氷雨とは珍しいぜ。どこかの誰かが悪さしたから北風が怒ってるんじゃないのか?」
「天気の神様を怒らせるような不届き者を俺は魔理沙ぐらいしか知らないけど。それに今吹いてるのは西風だ。奇妙なことだけどな」
 ブーツの紐をほどき、投げ捨てるようにして脱ぎながら、二人がいる本殿の廊下へと上がってきた魔理沙は、幾分顔が蒼白かった。
「顔色悪いぞ。寝てれば良かったのに」
「……魔理沙、大丈夫?」
「私は寒いのが苦手なんだよ。それでも、今日はこっちの方が旨い茶が飲めそうな気がしたから、頑張って飛んできた」
「こんな天気なのに、変なところで無駄に執着するんだな、お前」
「浅漬けは漬け物とは認めないのが私の流儀なんだ。手間暇掛けた物事の方が大体においてうまくいく。清弥みたいな大雑把過ぎる人生は化粧品の訪問販売並にノーサンキューだぜ」
「お前も人のことがいえないぐらいにはいい加減だと思うけどな」
 自分が予定していたお茶の手配をそらに頼んで、清弥は欄干にもたれた。そらと二人きりにしたら何を言われるか分かったものではない。アリスの一件以来、魔理沙とは音信不通だったのだから。それでも結構すらすらと言葉の出てくる自分に感心するぐらいだ。
「残念だけど霊夢は留守だぞ。里まで冬支度の準備にいってる」
「そんな気はしてたがな。最近は正直、そらのお茶の方が旨いから問題はないぜ」
「それ、霊夢の前でいえるのかよ」
「お前もそう思っているんだろうに」
 答える必要もない事実だった。
 ―――――――。
 沈黙。
 魔理沙は自分の肩を抱くかのようにして縮こまり、それなりに広い境内をぼんやり眺めている。そこには見慣れた景色しかないが、清弥もそれに倣うようにして視線を投げた。
 氷雨の立てる音が、二人の間にあるわだかまりまでもひっきりなしに叩く。蓮の浮いた池にも小さな水柱が立つ勢いで、水紋が無数に発生しては消えていく。
 魔理沙には魔理沙の思惑があるのだろうし、清弥にも清弥なりの矜持があった。今までも色々あったし、関係が目立って改善されているとは思えない。顔を見たくないとすら思う感情もどこかで燻っている。
 それでも、だ。
 要は、どこで折り合いをつけるかということだ。魔理沙がそらを気に入っていても別に構わない。自分は一定の距離を保ちつつ見守らなければならない。それが、そらがいる風景を護っていくことなのだろう。
 小さく息を吐く。音を立てないように。濡れた空気は肺に刺々しい。諦めたように声を掛けようとして、
「清弥」
「……なんだよ」
「あれから何もないか」
「お前が心配することは、何もない」
 自重しているつもりでも、言葉が鋭くなる。
 が、魔理沙の反応は顕著ではなかった。
「そう、か」
「お前、やっぱ調子悪いんじゃないのか」
「人に気遣いされるぐらいおかしくはないぜ。特にお前なんかにな」
「ああそうかい」
 反射的に吐き捨てつつも、魔理沙は何処か上の空だった。少なくとも清弥は、こんな霧雨魔理沙を見たのは初めてだった。そっと魔法使いの様子を窺うが、膝を抱えた彼女の表情はつばの長い帽子に隠れて見えない。癖のある金髪がなければ、丸まった黒い塊でしかない少女。いつもより何処か小さく見える。
「……お茶」
「ああ、待ってたぜ」
 お盆を持ったそらの声に、弾かれたように顔を上げた魔理沙は歯を見せて笑った。その表情はもう、いつもの性悪な彼女そのものだ。自分の心が淀んでいるから、魔理沙の姿さえ元気なく見えてしまうのだろうか。清弥はかぶりを降って、自分の湯呑みに手を伸ばした。
「ああ、旨い。この一杯のために生きてるって感じだぜ」
「その言葉は用法を間違えてる気がするぞ」
「茶の一杯のために生きられないような奴に風流を語る資格はないな」
「俺は風雅とかいう言葉とは無縁だ。余計なお世話だよ」
「あーあ、そらと初めて出会ったのが私ならよかったのにな」
「危険人物が増えなかったことを感謝して欲しいぐらいだ」
 そっぽを向いて皮肉を掛け合う清弥と魔理沙を見比べていたそらだったが、少なくとも喧嘩をしているようにはみえないと見て取ったのか、境内に降りると近くに立てかけてあった番傘をさした。
「そら、どこ行くんだ」
 どこにも、という風に首を振って、鳥居の方へ歩いていく。先程と同様、氷雨に時折手を翳しながら。
「おおよそ過保護だぜ」
「黒い鴉からも、そらを護らないとな」
 呟くようにいいながら、二人はそらを見つめている。
 ……一方のそらは、少し嬉しかった。
 今日は二人が喧嘩をしないでいてくれている。前に人形を使った妖怪に自分が襲われたせいで、二人の関係がもっと悪くなっていたと思っていたから。ここで、博麗神社で一番迷惑を掛けているのは間違いなく自分。だから、なるべく自分が迷惑を掛けないようになって、それで二人がずっと仲良くしてくれれば、一番いいと思う。
 だって――清弥も魔理沙も好きだから。
 彼女には、どちらかを選ばなければならない状況など想像し得なかった。彼女が見ている風景こそ、彼女の世界全てなのだから。
 二人を見遣ってから、また歩み出す。
 ……それにしても。
 この天気は何だろう。
 何度も何度も繰り返し手を翳す。
 手の中で融解し消えていく小さな粒。
 氷雨というのだと、清弥は教えてくれた。
 水じゃないものが天から落ちてくる。
 それを見るたびに、何故か心が粟立つようで。
 そらは、
 ――もう一度、神社の上の曇天を仰いだ。

 ゴオオオオオオオッッッッ!
 オオオオオオッッッ……
 オオオッッ……

 突然、
 背後から旋風が背中を強く押した。
 耳の中の残響は、風鳴り。
 そらの純白の長髪が激しく翻る。
 長い長い石段を一瞬で駆け上がったそれは、
 鳥居を飛び越えて境内に飛び出したのは、
 氷雨と共にそらに叩き付けられたのは、
 ……禍々しいばかりの妖気と、
 大きな傘。


 清弥にとってそれは、幻の白昼夢。
 瞬時に脳が関連する記憶を想起した。
 あの日、
 最初に博麗神社に訪れた日。
 池の畔に立った赤い傘の少女――博麗霊夢。
 そして、自分たちを追ってやってきた、緑の樹たる妖怪童女。
 あの時と全く同じように、
 前触れもなく現れた。
 ただそれは、霊夢が封じた妖怪ではなく。
 純白の髪を二つに分けて、
 少年のような軽装を身に纏い、
 悪鬼の面を額に載せ、
 大きな傘を振りかざした……少女。
 その顔に見覚えがある。
 見紛うはずもない。
 能面のようなその顔、その姿。
 いつも自分の近くにあった顔。
 自分が「そら」と読んでいる少女の、顔。


 そらは少女を視界に捉えた瞬間、思考の全てが凍り付いた。
 理解の一切を拒絶した。
 何故なら、
 自分の頭上を飛ぶ少女の顔は、いつも鏡の中にあるはずのそれだから。
 自分と同じ色の髪、
 同じ相貌、
 同じ瞳――。
 自分が、いる。
 自分の頭上を舞う。
 恐怖に凍り付いた思惟の奥から、吐息のような水泡を上げて何かが浮かんでくる。
 いつも無意識に考えまいとしていた、
 清弥に告げなければならないけれど、出来るならば告げないままでいたいと思っていた、真実。
 自分が持っている、唯一の過去。
 自分の「名前」が浮かんでくる。
 それが更なる恐怖を呼ぶ。
 もはや、叫ぶことも、
 清弥に助けを呼ぶことも出来ず、立ち竦む。


「馬鹿、なにしてる!」
 魔理沙の言葉に我に返る清弥。
 間髪入れず、魔理沙は湯呑みを放り投げて箒にまたがった。直角を二分割した角度をとって、一直線に侵入者へ離陸する。
「早くそらを連れて逃げろ!」
 地面に落ちて割れる湯呑み、
 ようやく動き出した清弥は欄干を飛び越え、立ち竦んだままのそらへ全速力で駆け寄る。溶けぬ霰が足の裏に突き刺さる。
「……ちくしょう、弓は小屋だ!」
 魔理沙はそらと侵入者の中央に割り込むような位置に浮かぶと、懐から使い慣れた四つの魔法球を取り出して浮かべた。
「生憎とこの神社の主人は留守だが、好き勝手されると後が怖いからな。だいたい覚悟してもらうぜ」
「……………………」
 そらの顔をした侵入者は答えない。
 ならば、手加減は必要ない。
 魔理沙が右手を敵に差し伸べると、四方に展開したマジックアイテムから星形の魔法弾が無数に発生し、一斉に敵を包囲する。無駄かと思われるくらいに多量に拡散させるのは、敵の行動を封じ込める狙いもあった。
 少女は傘を広げて魔力の流星を受け止め、そこから漏れる攻撃を柔軟な体術ですり抜けていく。それはまるで、深き湖の底に潜っていく練達の泳法を想像させる動きだった。
 それでも、魔理沙の攻撃は敵の行動範囲を徐々に狭めていった。
 魔理沙は読んでいたかのように突進すると、またがっていた箒を両手に持ち直し、脳天めがけて振り下ろし、
 一瞬にして傘を畳んだ少女は、着地して魔理沙の一撃を受け止め、片手で振り払う。
「くっ……! こいつは……」
 軽々と打ち上げられる形になった魔理沙が空中で体勢を立て直そうとして、
 瞬間、
 眼前に敵の足の甲が見え、
 脳裡にまばゆい星が散って、魔理沙は本殿の屋根に叩き付けられた。瓦葺きの屋根にめり込む。砕けた瓦の破片が散乱する。
「魔理沙!」
 階下で、茫然自失しているそらの手を引いた清弥が絶叫する。無為にひっくり返ったそらの傘は、既に氷雨を集めつつあった。
「早く行け、馬鹿野郎っ」
 ショックでぶれた視界の上方から、下突きの構えで落下してくる少女。
 慌てて屋根の上を数回横転し、

 ズドォン!

 少女はそのままの姿勢で屋根をぶち抜き、濛々と白煙を上げて姿を消した。
 箒を杖代わりに屋根の上に立つ魔理沙を確認してから、清弥は決然とそらの手を引く。そらは人形のように反応しない。清弥だって混乱して、事態の推移が把握できない。だがこの場にいてはいけない。武器もいる。
「こっちへ……急げ、そら!」
 裏手の小屋へと走り出す清弥と引きずられるようなそらを横目で確認して、魔理沙は痛む横っ面を押さえながら浮上した。
 煙で視界の全く見えない本殿の入口から、襲撃者がゆっくりと出てくる。
 上空から何本も迸る光線魔法、
 予想通り傘がそれを四方へ弾き、
 その防具を頭上へ持ち上げた瞬間、魔理沙は頭から飛びかかって少女の手首にとりついた。
「この距離ならどうにもならないだろう!」
 そらと同じ顔が、相変わらずの無表情のまま、開いた手で魔理沙の首をしっかり掴んだ。
「……!」
 気道が狭まり、視界が一瞬暗くなる。
 魔理沙は顔を真っ赤にしながら、背後から魔法球での攻撃を繰り返す。しかし少女は自由にならない腕の先で軽々と手首を返し、傘での防御は鉄壁だ。色鮮やかな魔法が無為に弾け、閃光ばかりが明滅した。
「こぉんのお!」
 魔理沙は少女にも魔法使いにもあるまじく、両足で近くの欄干を蟹挟みにし、体全体を使って少女を投擲する。が、魔理沙を掴んだ手は殺人的な握力を弛めることなく、結果的に二人は絡み合ったまま池へ向かって飛んだ。
 と、池から何かが相次いで飛び出した。
 それは小さな、
 小さな妖精で、妖精の人形で。
 複数の人形が細剣を頭上に構えていて。
 時間差で傘の遣い手へ鋭く切れ込む。彼女は魔理沙を投げ捨てて、傘で人形の剣を一つ一つ受け止め、払いのける。
 妖精人形たちはその場で自爆するが、その爆風をはね除けて少女は上空へ、
 そこへ金と青の旋風が急降下、
「やっと見つけたわ!」
 はためくスカートもそのままに、人形の主……アリス・マーガトロイドが右足を突き出して体重そのままに蹴りおろす。
「覚悟しなさい!」
 が、傘の少女はその攻撃をも開いた傘で受け止めると瞬時に畳み、一回転してアリスの後頭部に打ち付ける。予期はしていたものの完全には防ぎきれず、アリスも又空中に跳ねとばされる。主人を追って出現した新たな人形が、主人の体を支えるべく飛来する。
「アリス……邪魔、するなよ……!」
 ようやく起きあがった魔理沙が苦しげに喉を押さえながら上空を見上げる。 
 襲撃者がいない、
 振り向く暇はなかった。
 襲撃者はアリスを攻撃した反動で空中で一回転すると、海底に没するイルカの動作そのまま魔理沙の死角に入り、落下の勢いを保ちながら魔理沙の胸と腹部とを蹴り上げた。
「……………ぅあっっ!」
 魔理沙は確かに、自分の胸腔で何かが鈍く折れる音を聞いた。その衝撃に比べれば、埃まみれになってゴム鞠のように境内を転がる痛みなど苦痛の内に入らなかった。
「魔理沙っ!」
 体勢を立て直したアリスが悲痛な表情でグリモワールを開く。魔力が漲る。
「葬列『ドロイドアミュレット』!」
 アリスの背後に大きな尼僧の影が浮かび上がり、その中にアリス自身の姿が溶けるように消えていく。虚空に修道士を模した等身大の人形が出現した。その下部には鋭い鋼鉄の針が突きだして、立て続けに落下してくる。
 それはまるで礼拝に並ぶ人々の列。
 空中に二十三十と増え続ける人形は次々と墜落する。傘遣いの少女を踏みつぶすために。だが、まるで風にたなびく柳の枝を避けるように悠々と、少女は体を入れ替える。境内は無為に折り重なる人形の墓場へと転じていく。
 と、少女はおもむろに空を仰いで、折りたたんだ傘を空中の一点めがけて投擲、
 何もなかったその場所で閃光が炸裂し、アリスが傘にみぞおちを突かれもんどり打ってはじき飛ばされる。人形達の影に潜んでいた動きは完全に見破られていた。
 傘が閉じたままくるくると回転し、
 それを掴もうと少女が飛び上がった、
 瞬間、視界の隅に黒い影。
 左手で胸を押さえながら、右手で懐から引き抜いた一枚のカード。
 帽子が脱げ、あらわになったその顔。
 苦痛と狂気の笑みに彩られたその顔。
「恋符、『マスタースパーク』!」
 魔理沙が叫んだ瞬間、一瞬空気が収縮し、

 ズドォオオオオオオオオオオオ!

 虹色の極太閃光が、落ちてくる氷雨と初冬の大気を切り裂いた。濁る水蒸気を纏いながら一直線に少女を襲う。
 届く寸前で開かれた傘、
 さすがに片手では支えきれず、両手でしっかりと絵を握りしめる。
 悪魔の光は鏡貼りの部屋のように乱反射した。
 傘の角度によって細かく分散された光線は、
 神社の屋根を焼き、
 境内の土を穿ち、
 鎮守の森の木々を薙ぎ払った。
 その圧力に、じりじりと押し返されていく。襲撃者は初めて顔をしかめ、全力で傘を押し込む。それでも足りない。彼女が初めて相対した予想外の力だ。
 閃光に飲まれる――
 その危険性を認めざるを得なくなった瞬間、
 不意に空気から熱が消えた。立ち上る水蒸気が急速に冷却されていく。
「…………………」
 衝撃が完全に無くなったところで、少女は傘を持ち上げ、肩に担いだ。
 眼下には、無惨に焼けただれた博麗神社と、あちこちで燻る小さな煙と……前のめりになって力尽きている魔法使い。昇華しきらなかったスペルカードの切れ端を握ったままだった。視界の端では、楠の幹に叩き付けられて気を失った人形使いが、梢の奥に引っかかっていた。
 そのどれにも、少女の瞳は興味を浮かべていない。自分が成したことにも関わらず。
 それはただ、
 ……ただ、一瞬の出来事だった。


 魔理沙の切り札が放たれる直前、清弥は愛用の魔法弓を持って小屋から駆け出していた。清弥の背後には、混乱と空白そのままに力無く寄り添うそらがいる。
 でも、護るとしてもどうやって?
 何処へ行けばいいと言うのか。周囲を森に囲まれたこの場所で、博麗神社よりも安全な場所などあるのだろうか。木陰や岩陰に身を潜めてやり過ごすことは出来るのか。
 清弥は致命的に迷っていた。
 考えまいとしても、襲撃者の姿を思い浮かべるたびに迷いは増幅される。
 護るべきはそら、
 だが、襲撃者の貌も叉、そらなのだから。
 その時。
 博麗神社の方で閃光が炸裂した。
「……魔理沙なのか!」
 あるいは、敵の一撃なのか。
 轟く地鳴りと熱風。地震のような衝撃。
 放心状態のそらを庇うように抱く清弥の背中は、総毛立つような気分のまま動けない。そらはまるで人形のように、されるがままになっている。
 ほどなく閃光は止み、熱気は氷雨によって急速に冷やされていった。魔理沙が気懸かりだが、見に行くべきだろうか。
 いや……それよりも、そらを護らなければ。
 一瞬の逡巡が彼から選択の余地を奪った。

 ゴオオオオオオオオオオオッ……

「な、なんだっ」
 再度、叩き付けられる西風。
 氷雨混じりの西風。枯葉混じりの悪意。
 そして。
 大きな傘を担いだ少女が飛来する。
「くっ!」
 そらを離し、弓をつがえる、
 がもう遅い。
 少女の傘が閃いたと思うと、清弥の頬をしたたかに薙いだ。
 首を引きちぎってしまうような衝撃のあと、清弥の体は付近の欅の幹に叩き付けられた。
 それでも、かろうじて意識は残った。
 奥歯の奥から血の味が染み渡ってくる。
 少女は返す刀でもう一閃、
 放たれた衝撃波はそらの頭をかすめ、
 その向こうに立っていた狂い咲き向日葵の花を切りとばし、
 ただ一撃で、
 たった一撃で、
 あろうことか、二人の小屋を真っ二つにして飛び去った。袈裟切りにされた建築物はずるずるとずれてゆき、遂に大音響を立てて崩壊した。
「あ…………ぁあ……………」
 清弥と暮らした場所が、
 煙の中に、
 幾度となく清弥とくぐった扉が、
 柱がメキメキとへし折れる音、
 眠る前に見上げた天井が、
 バリバリと崩れる壁、
 悲鳴と粉塵を巻き上げながら、
 一瞬にして瓦礫の山へと還元する。
 そらにはどうしようもない。
 どうすることもできない。
 いつも頼っていた、いつもそばにいてくれた、
 清弥を、
 清弥を振り返り、
「清弥ぁっ!」
 放心していたそらが、目の前の惨事にようやく自我を取り戻し、清弥に駆け寄った。
 清弥は答えたかった。自分は大丈夫だと。だが、口が動かせない。鼻から血が流れ落ちるが、それを拭おうとする指が一本も動いてくれない。
「せいやぁ、せいやぁああっ!」
「…………………」
 喉の奥から血が湧いてきそうで、息をすることすら難しい。
 必死になって清弥を抱くそら。
 その上から影が覆い被さる。
「…………ぃっ!」
 恐怖に打ち震えるそら。
 だが、清弥の体は離さない。
 逃げない。逃げられない。
 清弥以外の全てを一瞬で失ってしまった。
 ただ無為に、ただ無為に。
 動かない少年の躯を必死で抱く。
 自分の顔を持つ少女が、清弥を一撃で倒した。自分たちの場所を崩壊させた。その事実はもはや、そらの四肢を縛って離さない。
 ――そして。
 少女は優しく手を差し伸べた。
 清弥を打ち払ったその手で。
 「そら」と呼ばれる自分の似姿に手を差し伸べた。
「私の名は……氷雨。氷雨、追沫(ひさめおいまつ)」
「……………………」
「お迎えに、参りました」
「ひっ」
 びくっと肩を振るわせるそら。
「私たちの作り手が、貴女を待っています……さぁ、帰りましょう――闇の海の護り手よ」
 意識の混濁していた清弥が、聞き覚えのある単語にうっすらとまぶたを開ける。
「う………み………」
 そらは硬直する。
 自分でない自分の手がそらに近づいてくる。
 涙をこぼしながら、いやいやをしながら、動かぬ清弥をかき抱き、そらは縮こまる。歯の根をがちがちと振るわせながら。狂乱の、哀願の表情で。
「……………………」
 襲撃者は何故か怪訝な表情を浮かべながら、それでも手を差し伸べて、

 ざざざっ!

 一瞬の後、少女は天空に舞い上がっていた。
 落ちてくる傘の影。
 少女の立っていた場所には、数本突き立った極太の針――退魔針。
 そして、赤と白の幻影が揺れる。
「そらさん、そこから絶対動かないで!」
 上空から降ってくる、聞き覚えのある声。
 二つの影は幾度となく交差しながら、森を高く越えて遠ざかっていく。
 戦いの響きが森の静寂に飲まれていく。


 清弥は意識を失っていた。
 彼の頭を抱くそらもまた、抜け殻のように動かない。
 二人を打つ氷雨は、いつの間にか雨に変わっていた。だがそれは、氷雨以上に激しくて容赦ない。飛沫が上がっている。
 そらは放心したまま、
 清弥を抱いたまま、
 ただ天を、
 天を仰いでいる。


 水溜まりに、落とされた向日葵の花。
 先程まで元気に咲き誇っていたはずのそれは、完全に枯死していた。