春が本格的に待ち遠しい季節へ移ろいつつある、冥界。生気が無い場所故に、今年も又厳冬になるだろう。生者の活動が多少なりと雪を遠ざけているからだ。霊魂それ自体の感覚は生者より鈍くなっているものの、豪雪を迷惑に思うのは死んでも変わらないらしい。大体、死んでしまっては雪かきもできないのだから。
そうはいっても誰かが雪を除去しないと生活には困るわけで。冥界で暮らす者として、魂魄妖夢は避けられぬその時期を思うと憂鬱になる。庭師としての本分は雪下ろしにあるのではない。唯一の救いといえば、どんなに雪が積もっても冥界の桜は折れないので、それに気を払う必要が無いことだけだった。
「何故溜息をついているの? 妖夢」
嘆息していると、いつのまにか彼女の主人が縁側に座ってお茶を啜っている。幽霊だから足音がしないのは当然なのだが、修行不足なので妖夢はいつも驚かされてしまうのだった。
「い、いつの間にいらしたんですか」
「いると思ったらいないと思いなさい。いないと思ったらいるかなぁと窺いなさい。それが亡霊の基本よ」
「一匹見たら三十匹はいると思えってことですね」
「私には触覚も黒い羽もついてないんだけど。で、何をそんなに溜息をついているの」
雪のことを答えようとして……つい、本音が出てしまう。
「幽々子様は何故、ああいう方法を望まれるのですか」
「あの少年のこと?」
「人間としてはそれなりに手練れかもしれませんか、あのとき彼の魂を奪うことは容易でした。彼は私の不意打ちを見抜けなかった。しかし幽々子様のご命令ですので手には掛けませんでした」
「…………………」
「魂を本当にご所望なら、即刻切り捨てるべきではなかったのでしょうか」
「剣は火で打ち水で穿ち鍛えていく物。それは人の魂も同じ。混迷の極みにあってなお成長を目指す清濁入り交じった魂魄こそ、私が手に入れるに相応しいのよ」
「しかし」
妖夢は立ち尽くす清弥を思い出す。彼は未熟だが、その立ち振る舞いに卑怯なところはない。彼をいたぶる行為は正しいのだろうか。
「妖夢は回答を求めすぎているわ。それは貴女のためにもおおよそならない」
「……もし本当に私のことを思ってくださっているなら、なおさら一度で決めさせては頂けませんか?」
「?」
「一回襲って、また白玉楼まで戻って幽々子様のお世話をして、それからまた地上に降りて……って、ものすごい勢いで大変なんですけど」
「これも修行ですよ妖夢」
「本当ですか?」
「本当よ。妖夢がこれからわたしのために団子を準備するのも修行」
「……………………」
「三分待つところを二分五十秒で頂くところに極意があるのよ」
「それ何の話ですか」
少女庭師兼剣士としては、時折主人の言動に疑念を抱くことがないでもない。ただ、自分が未熟なことに間違いはないので頷くより他ない。弓を構える少年の姿を思い出しながら、出来れば剣で対等に勝負してみたいと願う妖夢だった。
☆
「なんだよ、それ」
夕食時間に並べられた膳はいつもより一つ多かった。隣に座ったそらの向こうに、楠の葉を皿代わりに設えた食事の準備。そこには人の代わりに霊夢の人形が、足をそろえて座っている。
どう答えていいか迷っているようなそらに代わって、向かいに座った霊夢が差し箸で答える。
「いいじゃない別に。そらさんと料理してたらちょっと作り過ぎちゃったから、その子の分の準備もしちゃえって私がいったのよ。さっきまで一緒に着せ替えて遊んでたからね」
「食事の時ぐらい遊ばずにきちんとした方がいいんじゃないのか?」
「清弥さんは堅いわね。神様にお供えするのだってどうせ後で自分たちで食べたり捨てちゃったりするんだから」
「人形は何もしてくれないよ」
突っ慳貪に答える清弥に、そらが少し項垂れる。
……そらがアリスに襲われて以来、どうしても言葉に刺が混ざってしまう。抑え損ねた鬱屈が漏れだしてしまうことが間々あって、結果的に一番近くにいるそらへとぶつけてしまう。そらに罪があるわけはないというのに。次に襲われたらどうしよう、自分はそらを、そして自分自身を守れるのだろうか――不安は尽きない。
アリスについては霊夢は、
「放っておけば大丈夫。多分何かと間違えたのよ」
と軽く請け負ったが、そう易々と疑念が晴れるわけではなく、心は一向に穏やかにならない。弛められない緊張感。自分が嫌になる。
――無言。
清弥は無理矢理気味にがつがつと、そらは清弥を窺いながら少しずつ、そして霊夢はいつも通りにゆっくりと食事を進める。光景だけみればいつもと同じなのだが、張りつめた雰囲気はどんどん険悪になっていく。
清弥は人形の方を忌々しげに見ていたが、ふと膳の一番隅に添えてある小さな白い花に気づいた。
「そら……その花は柊か?」
「……………………あの」
「そらさんが取ってきてくれたのよ。可愛いでしょ」
「境内に柊なんて植わってたか?」
「桜の林を抜けた向こう、崖の近くにあるの。ちょうど枝が垂れ下がっている部分があってね」
「霊夢が一緒にいったのか」
「ううん」
「あそこはもう神社の外れじゃないか! どうして一人で行ったんだよ! また妖怪に襲われたらどうするんだ」
語調が荒くなる。
そらは目を大きく開けて驚き、箸を置いて一層俯いた。
「アリスのことなら大丈夫っていってるじゃない。昨日の今日で襲ってくる程、剛胆でも捨て鉢でもないわ。それにあそこはまだ神社の結界内よ」
「そりゃ霊夢は大丈夫かもしれないけど、そらは大丈夫なんかじゃない! 霊夢は自分の力で自分を守れるから判断の基準が甘くなるんだよ。そらに対してはもう少し気を払ってくれてもいいんじゃないのか。人間や妖怪や人形を一緒くたに考えるのはやめてくれよ」
「……事実かもしれないけれど、あまり気持ちのいい物言いじゃないわね」
さすがの霊夢も気を悪くしたのか、幾分鋭い視線で清弥を見据える。
「そこまでいうのなら、清弥さんが四六時中そらさんから離れなければいいじゃない」
「出来ればそうするさ。でも仕事の分担があるし、第一俺よりも霊夢の方が力はあるし妖気なんかにも敏感なんだから」
「都合のいいところだけ自分の身を引いて人任せっていうのはどうなのかしらね」
「霊夢……!」
そっぽを向いて食事を進める霊夢に片膝を立てる勢いの清弥だったが、そらが今にも泣き出しそうな顔で見ているのに――その向こうで人形が仮面のような笑みを浮かべているのに気づいて、汚い言葉を飲み込み座り直した。
「……そらも、遠くへ行くなら俺か霊夢を呼んでからにしろよ。あと食事中は人形と遊ぶのは控えてくれ。ママゴトは別に構わないけど、遊んでいい時と悪い時があると思うぞ」
「…………………」
頷かずに服の裾を握りしめたままのそら。
「全部一緒にして叱るなんて、年取って頭の固いお坊様みたいよねー」
「………………!」
怒ってはいけない。実際は一人で場を掻き乱している。霊夢はいつも通りなのだ。ただ自分だけが苛立たしい気持ちではち切れそうになっている。
本当は不安で仕方ないから。
認めたくはないけれど、
自分が一番悪いのだ――
そらを確実に守れないかもしれない、情けない自分が。
半ば怒鳴ってしまったためその後も言葉を掛けづらくて、小屋に戻る時も終始無言だった。晩秋の冷たい風の中、提灯がゆらゆらと揺れ、二人の影を林に投影する。それはまるで妖怪の行脚にも見える。始終不安を覚えるのは自分に余裕がないせいだ。自嘲するよりほかない。
清弥は小屋に戻ると囲炉裏の火を熾した。建物の中は風がないだけで、外気と同じように寒かった。天井の一部が格子状の吹き抜けになっているので、囲炉裏を炊いていればそのうち温もりが二階にも到達する。普段であれば火を囲んで一日のことを話して、建物全体が暖まった頃にそらが就寝のため二階に上がるのだが。今の彼女は立ち尽くしたまま、ぼんやりと清弥の行動を見ていた。
清弥は座り込み、いつものように弓の手入れを始める。ただ、火を囲み、そらに背を向けて。
沈黙が心苦しい。そらと言葉を紡ぎたい。そらが今、自分をどういう風に見ているか気になって仕方ない。
でも、食事時に自分の言ったことも間違ってないと思うし、霊夢の考えはあまりにも無責任だとはっきり思う。もう半年近く暮らしているにしては突き放した言い方ではないか。だからといってそらにぶつけてしまったのは自分の修行不足だとは思うけれど……ここで簡単に謝ってしまうことは出来ない。実際にそらは狙われている。そらに関しては妥協してはいけないのだ。
霊夢たちの常識を認めることは、つまりそらがそちらの世界の住人だということを認めることになる。自分の届かない存在だということを認めなくていけなくなるから。
認められるはずもない。
だから、このままではいけない。
これは喧嘩じゃないけれど、そらとの間に感情のしこりを残すなんてまっぴらだ。
すぐに、いつも通りに戻るだけでいい。
でも、どう言葉を掛ければいいんだろう……?
里でも深い人間関係を構築しなかった清弥にとって、それは未知の領域だった。
清弥の逡巡が募る背後で、気配がゆっくりと動き始めた。板張りの床を踏み、階段の方に向かう。清弥は耳をそばだてることしかできない。まだ振り向けない。
足音は階段の一段目を軋ませて止まり、一端間をおいてから登り始めた。弾かれたように振り向くと、足音が響き終わるのと同時に、小さく、
「…………おやすみ、清弥」
声が降ってきた。
顔をしかめる。喉の奥に苦いものを感じる。
天井から足音、布団を敷く音、窓代わりの障子を閉める音、何かが横たわる音などがしばらく続き……五分もすると無音になった。
清弥は動けないまま、燃える薪を眺めている。火の粉が舞い、つり下げた薬缶を炙る。能面のようになった清弥の相貌も赤く炙っている。手が届くような距離にいるのに、そらの存在が遠く感じられて仕方ない。同時に、力無く開いた両手の頼りなさに呆然としていた。
「おやすみ、そら」
誰にも届かない言葉にさえも炎が伸び、まるで絡め取られる薄紙のように炭化していく。清弥はそれをただ見つめるのみ。
暖気が十分に回ったのを確認してから、清弥も床に就いた。隙間から入り込む北風が気になって、なかなか眠れなかった。
☆
翌日。
目の下に隈を作った清弥が、小屋の前に立っていた。息が微かに白く丸まる。脳天気に咲く向日葵を指でつついた後、大きく背伸びをして、二階の窓を見上げる。
昨夜はほとんど寝られず、憂鬱は変わらない。あの階段を上がる勇気はない。己の弱い心に呆れてしまう。
だけど。
起きがけじゃなく、きちんと相対したら、ちゃんと言葉を掛けよう。決心が鈍らないように、普段の仕事にはきちんと打ち込もう。謝った上でもう一度注意を促そう。自分もそらの動向に注意を払おう。喧嘩腰じゃなくきちんと話せば、霊夢だって考えを改めてくれるかもしれない。
そう心に決めて布団を抜け出したのだった。
朝の淀んだ空気を大きく吸い込んで、清弥は二階に小さく声を掛ける。
「おはよう、そら」
小屋に背を向け、神社に向かって走り出した。今日は香霖堂へ買い付けに行かなければならない。それが終わったら、あとはそらと一緒にいよう。爪が食い込むぐらいに拳を固める。
――他方、二階の部屋。
薄暗い正方形の隅で、膝を抱き布団にくるまったそらがうっすらと目を開けている。胸の中には霊夢の人形。眠ってはいない。睡眠量は清弥と同じくらいだった。透き通った早朝の大気は、起き出した清弥が小さく呟いた挨拶を彼女の耳に届けていた。呼応して、まるで自動人形のように唇だけが動く。
「おはよう」
音にならぬ挨拶の後、人形を強く抱く。
空洞のように光のない――瞳。
「よくしらんのだが、そういうのは喧嘩というんじゃないのか」
「喧嘩じゃない」
「じゃぁあれか、家庭内不和」
「………………」
霖乃助の口調にからかうような調子は感じられない。本当に知らないのだろうか。確かに、この辺りの人や妖怪にとっては、他人との距離で悩みを抱えることなど、無縁なのかもしれないけれど。
久しぶりに訪れた香霖堂は、あたかも時が流れぬように変化がない。ここが商店であるなら、物品の増減があってしかるべきだろうが、そういう兆候は皆無だ。唯一変わったといえば、カウンターの奥の霖乃助の席の周りに、外界からの漂流物だという謎の暖房器具が設置されていることぐらいだった。まだ火は入っていないが。
霊夢に頼まれた荷物を受け取った清弥は、話の流れで霖乃助に今回の顛末を大まかに説明していたのだった。
「確かにお前の心配も分かるし、霊夢の脳天気さは度を超えているというのも頷けるんだけどな」
「アリスって奴が厄介な妖怪だっていったのは霖乃助だろう」
「確かに。ただ、妖弾なんかで直接危害を加えられるという段階では、僕にはあまり縁がないからな。理解は出来ても感情移入までは出来ないかもしれない。霊夢だってきっとそうだろう」
「それは……分かってるよ」
「それに、皆は少し霊夢を買い被りすぎているようだしな」
霖乃助は遠い目をして呟いた。
「なんだって?」
「……いや、なんでもないよ。お前は霊夢の対応が納得できないんだろう? 理論的にではなく、感情的に」
頷くしかない。
「それから、人形という要素が感情に与える負荷も大きかったのだろうな。相手が人形師ということをのぞいても、人形は人を模して作られたが故に周囲の人間に与える影響の大きな物品だ。武器や楽器同様にな。それが在ることによって心の動作に振幅する負荷が生じる。そらといったか、件の少女が人形に惹かれたのもそのせいだろう」
「……俺はそらのこと、随分と分かった気になってたけど」
「人は往々にしてそういう間違いを犯すからな」
――そういえば。
そらが人妖であることは誰にも話せないにしても、前々からそらについて気になっていることはある。博識な霖乃助なら知っているかもしれない。そう思いついた清弥は、思い切って訪ねてみることにした。
「その、そらのことなんだけど」
「なんだ?」
「博麗神社の書庫にあった外界の本に興味があるらしくて、いつも手元に置いて見返してるんだ。しゃしんしゅうっていったっけ」
「ああ、写真集か。外界には風景をそのまま紙に焼き付ける機械があってな、そうしてできた絵を本にしたのは写真集だ。こういうのだろう?」
清弥が戸棚から数冊の本を出す。どれもこれも、筆では到底描けない緻密な、それこそ風景を切り取ったような絵が並んだ本。頁をめくるとそれは緑無き異形の街であったり、ありえないほど多い人並みであったりした。
「この店から霊夢が神社に持って帰ったのか、あるいは元から神社にあったのかな。記憶にはないが」
「それの中に、巨大な湖、じゃなくてもっともっと大きな、世界が果てるまで水が広がってる絵があったんだ。そらはそればかり見てた」
「それは海だ」
「うみ?」
「きちんと説明しにくいが、幻想郷を含めた蓬莱は海に取り囲まれた島だといわれている。現世全ての世界の内、その七割は人が立てない水の世界らしい。その大半が海だ。人の立ち入れない水と神の世界。水自体が結界となって働くらしい。清めてあるらしく、その水は塩辛いんだそうだ」
「海……」
幻想郷は結界と山嶺に囲まれた小さな世界だ。平地を想像することすら難しい清弥にとっては、見渡す限りの水の世界などとは、理解の範疇を超えていた。ただ、言葉としてそう捉えるしかない。
「でもなんで、そらがそんなに気にするんだろうな」
「それは判らんが。お前が一番近くにいるんだから、お前が判らんものは誰にも判らないだろうに」
「そうだけど」
答えつつも、そらについて思い出している。 そらには妙な癖があった。何かしら水に関する状況で挙動不審になるのだ。何の変哲もない水溜まりを覗き込んだり、食事の際にぐるぐると味噌汁を回してみたりする。霊夢も言っていなかったか? 風呂の時だけは手が掛かる、と……。
そして、思考は源泉へと戻るのだ。
あの泉の邂逅へと。
虚無を浮かべる波紋の少女へと。
若き店主は、清弥の心を見透かすかのような言葉を紡ぐ。
「人間、判っていてあえて重要な要素を考慮の対象から外していることが多々ある。お前がその気になれば、きっと回答はそう遠く無いところにあるはずだ」
「ああ……そう、だろうけど」
「なんだったら、他の写真集を持っていって、反応を確かめるといい。写真集自体に興味があるだけかもしれないし。商売にはならないが貸してやってもいいぞ」
「考えておくよ、ありがとう」
その時。
しゃらんしゃらんしゃらん!
軽快な鈴に続き、何かが網で藻掻くような音がする。
「なんだ、あの鈴は」
「お、珍しく罠に掛かったな」
素早い身のこなしで店を出る霖乃助を追った。
香霖堂に影を落とす大樹につり下がった丈夫そうな緑の網の中には、なんと赤い服を着た少女が入って四苦八苦していた。
「おい、人間じゃないか!」
「違うよ。あれは猫又だ」
「妖怪なのか?」
「大丈夫だ、弓を構える必要はない」
霖乃助が近くのロープを弛めると、網は地上にゆるゆると降りてきた。網から顔を出したのは、まるで人間と見分けがつかない少女……頭に大きな猫の耳が乗っかっていることを除けば、だが。
「なんだ、式神の式の方だ」
「危険じゃないのか、霖乃助」
「アリスほどにはな。おい、大丈夫か」
「目が回るよぅ……」
網から出してやると、妖怪は頬を膨らまして服の埃を払った。清弥の肩ぐらいしか身長のない小妖だ。手には油揚げをしっかりと握っている。これが罠の餌らしい。
「藍さまにいいお土産見つけたと思ったら、罠だもんね。人間なんて信じられないよ」
「今時人間を信じる妖怪なんぞいないだろうに。それに、用があるのはお前のご主人のご主人様だ。呼んだ時には出てこないし、来なくていい時に黙って入ってくるから始末に悪い」
「紫さま? 今年はあまり寒くもないってのに、早々にお休みになられたけど。寝言で春が待ち遠しいっておっしゃってるって、藍さまがいってた」
「……そうなのか。しばらくは無理だな。尋ねたいことがあったんだが」
確かに毒気の全くない猫又だが、清弥は毒づかずにはいられない。
「妖怪とも取引があるんだな。さすが商人というところか」
「要は付き合い方だよ。お互いの領域を踏み越えなければ適当に付き合える。むきになって排除すれば面白がってくるし、そこそこに監視できれば悪さも見つけやすい。お前の夫婦喧嘩よりは軽い問題だよ」
「茶化すなよ。また気分が悪くなる」
「すまんな。こういう時じゃないと使えない言葉だから、ついつい試してみたくなっただけだ。普段じゃ有り得ないからな」
「なんのことー? 橙、もう帰る……」
「しばらくは罠を仕掛けないから安心していい。掛かりたくなかったら、ご主人の動向を知らせに春にでも店を訪ねてくれ。詫びと土産に油揚げと岩魚の塩漬けでも持って帰るか?」
「本当に?」
「人間の半分は真実だから大丈夫だ」
「半分だけなのか」と清弥。
「多めに申告して嘘を見破られたら報復が怖いからな。こいつのご主人達はアリスどころの騒ぎじゃない」
霖乃助と、すっかり機嫌を直してスキップになっている猫又少女を見ながら、清弥は溜息をつく。
そらとそこまで気軽に付き合うなど到底出来ない。単純な利害関係ではないし、思慕まで抱いているというのに。霖乃助との会話で気分は晴れたものの、結局は自分で決着をつけないことには決着しないのだ……たとえそらの正体が何者であろうとも。
「…………………」
「どういうこと?」
霊夢は溜息をつきながら、突き出された人形とそらの顔を見比べた。質問しながらも、予想した通りというような表情。反対にそらの顔からは感情が失われ、数ヶ月前に戻ったような感じだ。
霊夢の部屋の前でのこと。
「返す。今までありがとう、霊夢」
「どうして返してくれるの?」
「清弥が怒ったの、これのせいだと思うから」
「そうかしら」
「柊を摘みにいったのも、人形に添えたらいいかなと、思ったから」
「それって、その子が教えてくれた心配りじゃない? 誉められても怒られる理由にはならないわ」
「……………だけど」
霊夢は突き出された人形を、そらの腕ごとそらの胸に押し返した。
「似合ってるわよ。私が抱くより可愛いんじゃないかしら。ちょっと悔しいけど」
「…………………」
「清弥さんもそらさんも一緒なのね。自分が悪い悪いって思ってるからうまくいかない。そらさんが言葉を紡ぐのが苦手だから、清弥さんがああいう言い方になっちゃっただけなの。気にしすぎなのよ。人のことを思ってるようで、実は自分のことしか考えてない」
「…………………」
「その子だって、変な理由であちこち移動させられたら迷惑かもしれないじゃない。自分の我が儘が相手に必要な時もある、って霖乃助さんがこっそり言ってたわ」
「こっそり?」
「魔理沙に聞こえると調子に乗るからね」
きょとんとするそら。清弥がその場にいたら、「霊夢に聞こえたことも、霖乃助は後悔してるかもな」と評しただろうが。
「そういうわけで、その子はまだ引き取りません。大事にして、もっと綺麗にしてあげてね、そらさん」
「……………………」
「大丈夫。きちんと話せば清弥さんもわかってくれるわ。その必要も無いような気がするけどね」
「……?」
「さぁさぁ、お茶にしましょ。昼間に暇な時はお茶と煎餅に限るのよ。みんなピリピリしすぎよね。魔理沙も『そらを外に出すな』ってやたら念押しするし。ま、いないんだから何言っても駄目だけど。こういう時こそきちんとのんびりしないと」
後ろ手で頭を支えながら歩み出す霊夢を追うそら。手放そうとした人形をもう一度しっかりと抱きしめて。ただ、彼女の耳に霊夢の呟きが届いたかどうかは定かでない。
「まぁその、清弥さんも認めたくないでしょうよ……人形にヤキモチを焼いてるなんてことをね」
香霖堂から帰ってきた清弥は、庭に面した縁側でお茶を飲む二人を見るなり、
「そら、ちょっといいか。霊夢もお茶の途中だけれど」
「私は構わないわよ」
「…………………」
「柊のところへ案内して欲しいんだ」
「…………うん」
「いってらっしゃい。清弥さんもお茶準備しておこうかしら?」
「あ、あぁ、よろしく」
歩き出したそらの影を踏むようにしながら、清弥は森への道をたどった。
当該の木は葉を落とした櫻並木の向こうに立っていた。確かに博麗神社から少し離れている。向こうは切り立った崖で、その縁には立派な楠がある。注連縄を巻かれた神木だが、いつ枯れたのだろう、葉を全くつけず乾いた枝々が虚しく天を掴むような有様だった。大きく開いた雨露から幹にひびが入っている。自重に負けて折れてしまうか、崖をえぐり取って落下するか。どちらにせよ終焉が迫っているのは間違いなかった。
淡い白に色づいた美しい柊と、不吉な大樹の組み合わせがどこか異様で、清弥は少しだけ悪寒を感じた。そらは清弥の意図を推し量るようにじっと立っている。
清弥はしばらく柊を見つめていたが、やがてそらに向き直り、鼻の頭をかいた。
「ごめんな、そら。昨日は怒ったりしたし、ちゃんと挨拶もしなくて」
弾かれたように顔を上げるそら。
「ううん……わた、わたしも……ごめんなさい」
「ただ、ちょっと注意して欲しかったから。こうやって柊を見ても、俺は膳に飾ろうとは思わないけど……そらがそういう気になったってのは判るんだ。大きな声を出さなくても、余裕があればちゃんと話すだけでよかった筈だから」
「心配かけて、ごめんなさい。清弥はいつも、わたしのこと心配してくれるから、だから」
「いいよ。本当はずっと不安だった。そらを、それに自分自身を強力な妖怪から護れるかどうか。霊夢達から比べれば、やっぱり自分は無力だし……だから、何処かで霊夢を頼りたいって思って、ついあんな言い方をしてしまって。自分が努力しなきゃいけないのにな」
「…………………」
「それでも、俺はそらのこと心配してたいから。そらが俺のことで我慢するよりは、そらがどんなに危ないことをやっても自分の好きにしてくれたほうが、俺は楽だ。もちろん、その時はそばにいて、そらを護る。だから、出来る限り近くにいて欲しい」
「……………………」
「それから、人形遊びはやっぱり場所を弁えた方がいいと思う。しつこいかもしれないけど」
「うん。ごめんなさい」
「いいよ。さて、霊夢にも謝らなきゃな。お茶にお清めの塩とか入れられても困るし」
声を出さずにそらが笑ってくれた。
情けないけれど、嘘はついていない。
これだけの言葉をいうのに思い悩むのだ。でも、もうどうでも良くなってきている。何も解決していないというのに。本当に、人の心は季節よりも移ろいやすい。
清弥が軽く胸をなで下ろすと、そこに差し伸べられた白い手。黙って握り返す。しばらくは繋いでおこう。霊夢に見られたら気恥ずかしいから、林の中だけで。
―――――――。
枯れた大樹の幹の向こう側、崖下に隠れるように浮いていた少女がいた。金髪の人形師。
どうにも納得できなかった。
二人の遣り取りはまさに、恋心に目覚めた若者そのままだった。猜疑心を向けること自体が馬鹿馬鹿しくなってくるような。
しかし、そらと呼ばれる少女は間違いなくあの傘の襲撃者と同一のはず。それでも、人を拐かす化生の誘惑にはどうしても見えないのだが。
「なんなの、あの二人は」
苛立ちを口にするアリスの言葉には、妖怪にあるまじき余裕のなさが滲んでいた。
熱いお茶を淹れ直した。勘だけれど、そろそろ二人が帰ってくるはず。こういうタイミングを何故か霊夢は間違えない。
櫻並木の向こうを思い出しながら、ふと、枯れた楠のことを思い出した。霊夢の記憶には、あの木が青々とした葉を茂らせていた姿がしっかり焼き付いている。それが、いつの間にか枯れていた。不思議な話だ。
この間から、どうも何処かの結界が切れているような気もするのだ。気のせいだといいのだが、調べなくてはいけないかもしれない。
自分の分の湯飲みを取り上げると、浮かぼうとしていた茶柱が沈降していく。
少しだけ、瞳が細くなる。
「立ち枯れの神木なんて……なんだか不吉ね」
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