――そういえば。
アリス・マーガトロイドははたと思い出した。
目の前には不揃いの石で積まれた長大な階段と鳥居が、上へ上へと微妙に歪みながら続いている。遙かに遠く大鳥居の影。晩秋の弱い日差しは柔らかな木漏れ日となって、苔生した地面に不揃いのまま落ちてくる。
「そういえば……何時以来かしらね? 博麗神社に来たのは」
やれ花見だ宴会だと盛り上がったのはどのくらい前だったか。成り行きに任せて毎日のように上がり込んでいた昔日は遠くなり、今年に入ってから境内に足を踏み入れたかどうかも定かではない。必要のない事柄まで記憶しようと努力するのは人間ぐらいなものなのである。仮に残すべき知識があるとするなら、グリモワールが自動書記してくれるはずなのだから心配はいらない。そもそも、妖怪は季節を感じることはあっても時間の経過に注意を払う必要性が薄い。まぁこれに関しては、幻想郷の一部の人間にも十分当てはまるのだが……。
とりあえず、なんと理由をつけて訪れようか。正直に不審な奴を捜しているといっても、あの博麗霊夢が普通に対応してくれるとは思えない。
「ええいいわよ。私の目の前にいるけどね」
などと切り返されるのが関の山だ。
ならばこっそり潜入するか。人形を使役して偵察するのもいいかもしれない。あの昼行灯のことだ、いつものように縁側で昼寝でもしていてくれれば御の字だろう。
だけど……そうやってこそこそしていて万一発覚したらどうする? それこそ、この神域での探索は二度と不可能になるのではないか? 第一、霊夢の動向を窺って行動するなどと納得がいかない。なんで自分がそこまで卑屈にならなければいけないのだろうか?
要は霊夢に自分の目的を悟らせないまま、あの少女を捜せばいいだけのこと。なんだったら霊夢自身を使ったり、魔理沙を唆したりすればいいだけのことじゃない。自分が思い悩んでも損をするだけだ。
――あれこれと考えているうちに、アリスは神社の参道を登り切ってしまっていた。森を抜けいきなり青空の下に出たので、なお一層吃驚してしまい、膝を摺り合わせてそわそわしてしまう。堂々とするのはいいとしてまず第一声、霊夢にどうやって声を掛けて丸め込むかまではまだ考えていないじゃない、
ああもう、
「ええと、あの……ひ、久しぶりね霊夢。呼ばれないけど来てやったわよ」
脳裡に閃いた言葉が口をついて、瞬時に思いっきり顔をしかめた。これは魔理沙のフレーズではないか。
苦笑いして取り繕って周囲を見回すと、
誰もいない。
……………………
気まずい。一人で気まずい。
自分を見上げるような格好の人形を外に向けて抱き直して、アリスは照れ隠しに咳払いをした。
「相変わらず不用心な神社ね。そのうち妖怪に占拠されて恥をかくといいんだわ!」
乾いた風が石畳に枯葉を打ち寄せる。幾日も降り続いた雨はまだ完全に乾ききっていない。水溜まりがいくつも残っていて、漣と共に椛を押し流していた。
人形遣いは急ぐことなく、ゆっくりと歩みを進める。扉の閉じられた本殿を横目に玉砂利を踏み、母屋の戸に手を掛けるが中からつっかえ棒がしてあって開かない。この建物に関しては戸締まりをしようがしまいがセキュリティの向上には繋がらないので、施錠してあるということはすなわち、家主の留守を示している。妙に緊張していたアリスは小さく溜息をついた。
裏に回ってみるが、勝手口にも人の気配はない。そこから渡り廊下をたどって裏手に回る。魔理沙が嫌がらせのように入り浸る書庫があり、見慣れない新築の建物がある。周囲の建築物に比べて妙にモダンで西洋風で、周囲の光景から浮いていた。あそこは確か、湯殿だったはずなのだが。
あのぐうたらな巫女が改築したなどとにわかには信じがたいが……とりあえず関係なさそうなので放置しておく。
霊夢がいないのではここにいても仕方ない。家捜しのような真似は足がつくだろうし、大体自分のプライドが許さない。出直そうか、と小さく呟いて、
……森の中に黄色い何かを視た。
雑木林の少し奥。秋の森に相応しくない、明るい黄色の原色のまま風に揺れている。
なんだろう。
歩み寄ると、森へ続く獣道が踏み固められ、明らかに人間の生活道に変わっていた。
「この先には確か、汚い物置小屋しか無かったはずだけれど」
注意を払いながら近づく。
黄色の正体は程なく分かった。夏に太陽を拝礼すべき向日葵が小屋の脇に植えられてあり、いまだに背筋を伸ばしていた。いかに茎が丈夫だからといっても、もう狂い咲きという表現が相応しいのではないか。
「…………………」
アリスは二階建ての小屋を見上げる。
扉は閉じられているものの、壁の穴はきちんと修繕され、屋根も葺き直してある。第一、ここにはまごうことなき人の生活臭がする。
二階の障子窓が少し開いていた。
グリモワールが蒼い燐光を放つと、アリスの体は音もなく舞い上がった。滞空したまま、音を立てずに障子をもう少しだけ開けてみる。
暗い部屋。
隙間から差し込む光が一条、掃除の行き届いた畳敷きに線を描く。部屋の隅には並べられた数冊の本、火のついていない燭台に、折りたたまれた布団、その上に仏蘭西人形。
……仏蘭西人形?
「あれは、確か霊夢の」
人形師は一度見た人形についての記憶に相違を覚えない。それこそ、布のしわ、針穴一つにいたるまで全てを覚えている。
それは霊夢の人形だったが、霊夢以外の何者かによって手入れされ、愛されていることは明白だった。
…………。
手の中の人形が、アリスの意志を窺うように見上げている。彼女はそれに答えないままで、燃え尽きんばかりに褪せる森の上空遙か、広がり遠ざかっていく鱗雲へと視線を遠ざける。少し強い東風が幾分くせのある金髪を押し流そうとしていた。
☆
欅の古木の雨露に半ば入り込むようにして、清弥は顔を出さないように注意しながら、下方をのぞき見る。夜目がきくから暗い森の中でも苦労することはない。しかし、獲物の目は更に利き、鼻は人の比ではない。
いくつもの茂みの先で、猪が茸を食べ漁っている。この貪欲な哺乳類は常時雑食の限りを尽くし、目に入るもの全てを口に入れようと作物を食い荒らす為、人里に集団で現れると大変な騒ぎになる。食肉用に捕まえようとしても、小賢しい知恵と外見を覆す敏捷さで幾重もの罠から易々と逃れるから憎たらしい。一面で古来から神とも崇められるのは伊達ではなかった。ただ、その食性を利用して狩人が尾行するのはさほど難しくない。いわば猪をきちんと仕留められることが一人前の狩人の証ともいえるのだ。
若い雄は食事に夢中で清弥に気づいていない。鋭敏な鼻は茸の甘い匂いで利かなくなっているだろうし、清弥も森の匂いを染み込ませた服を纏っている。これ以上遠くなられたら厄介だし、決断すべきだった。
雨露から出て立つ。矢筒から矢を刈り、紅葉重ねに弓を握って打ち起こす。右手をひねりながらゆっくりと引いていき、弦の音を立てないように細心の注意を払う。この段階で照準は定まっている。
唾を飲み、視界を一点に絞り込む。
もうこれ以上弦を張れない時点、
会――
清弥の意志から解き放たれた右手と左手は、もう何千回と繰り返してきた筋肉の反射を反復して、三枚羽根の死を放った。
ガッ!
猪の僅かに右、張り出した木の根に矢が突きたった。
弾かれたように走り出す獲物、
舌打ちする間もおかず第二射、
今度は猪の左の幹に突き立って再び方向転換、
その瞬間、砂埃と共に転がり落ちる衝撃音が響き、周囲の樹から鳥達が一斉に舞い上がった。後には何が起こったか理解できない猪の鼻息ばかりが響いている。
近寄ってみると、人の背丈ほどもある陥穽の中で荒縄の網が絡まった猪が無為に藻掻いていた。こうなってはいかに跳躍を試みても徒労だろう。
それでも清弥は落胆を隠さない。
「……また外した」
弓を直視していると、背後からオヤジの拳骨が振り落とされそうな気がする。彼は大きな溜息をつき、近くの木に背を預け、哀れな獲物のいる大穴へと小石を蹴りこんだ。
その日、博麗神社の面々は近くの山地へ茸狩りに赴いていた。
「キノコといえば私の出番だろう」
予定も教えてないし誰も呼んでいないのに、朝一番に籠をしょって現れた霧雨魔理沙のせいで、若い狩人は仕事を採取から狩猟へと切り替えなければならなくなった。魔法使いとの無用な衝突を避けるためとはいえ、最近なにかと調子の悪い清弥にしてみればたまったものではない。
「なにかあったら大きな声で俺を呼ぶんだぞ。なにか、があったらなっ」
魔理沙を睨み付けながらそらにしこたま注意を促したが、魔理沙は平然と鼻歌を歌っている。もちろんそらは例によってどうしていいか分からない顔で小さく頷くだけだ。
「人の噂は七十五日というけれど、人の喧嘩はこんなに長持ちするものなのね」
霊夢が素直に感心するのがなんとなく悲しくて、清弥は森の中へすごすごと消えていった。
「正義の魔法少女の勝利だな」
「そのフレーズだけは似合わないから止めた方がいいと思うんだけど」
「正義に似合うのは閃光と爆発だって、どっかの本で読んだことがあるぜ。まるで私にぴったりじゃないか」
「そんな正義の味方に救われる世界が可哀想だけどね」
こうして、意気揚々と歩く魔法使いを先頭に、少女達は夕食の彩りを探し始めたのである。切り開かれていない峻険な道程を三人は……もとい二人がすいすいと歩き、それにもう一人がなんとかついて行く。
「……きのこもそろそろ旬を過ぎてるんだけど、まだまだ生えてる奴多いからな。見かけたらまず私に聞いてくれ。食べられない奴でも教えてくれると私が喜ぶ。とにかく喜ぶ」
魔理沙の気合いの入りっぷりは初めてみるくらいで、そらは少したじろいでしまっている。
「そらさん真面目に聞かなくていいわよ。魔理沙は今年もう何度も森に入って乱獲してるんだから……なによ魔理沙その籠、大きすぎなのよ。毒きのこも一緒に放り込むつもりでしょ」
「当然だろ。家に帰ってから選別するのが楽しいんだ。それに毒きのこっていったって、おおよそ薬や実験材料になるんだから、無駄にはしないって」
「ほらね」
いつもの巫女服ではない、多少大きめのブラウスとズボン(もちろん紅白)を身につけた霊夢がウインクする。
「大丈夫、普通の椎茸だけが生えてる倒木の場所覚えてるから、それの収穫を手伝ってくれればいいからね」
「霊夢は探求心も向上心も欠如してるな」
「枯れ葉にまみれた成長ならお断りなのよ。清く正しく美しくってね」
「最後のは解せないな」
「香霖堂にあるらしいわよ、真実が映る鏡」
「怖くてのぞけないのはそっちだろ」
いつも通りのやりとりを聞きながら、よく分からないまま微笑みながら。そらは、森に消えた清弥の方を窺い続けていた。
「……清弥さんについていければいいのにね、そらさん」
そらは首を振って否定するが、どこか力無い。
「でもまぁ、狩りについて行くのは無理よね。残念だけど」
「残念でも何でもない。それに今は私たちがいるだろ? どうせいつも一緒にいるんだし、たまには離れてみた方がいいんだよ」
「ちょっと気にしすぎじゃない? 魔理沙」
「我慢するよりは気にしすぎの方が私のためだし、向こうのためでもあるんだよ」
そっぽを向いて不機嫌に呟く魔理沙。
霊夢はやれやれと眉をひそめるが、いつものことなのでさほど留意していないようだ。
もちろんそら自身も、出来るならついていきたいと思っている。だけど、実際こうも山歩きが不慣れでは叶わぬ願いだった。料理や掃除とは訳が違う。たとえ今から訓練しても清弥に追いつくなんてとても考えられない。
清弥は、すごいと思う。
霊夢達に口では文句をいっても必要なことはちゃんとやってくれるし、自分のことにいつも気を払ってくれるし、望むなら自分一人で生きていくことさえ出来るし、現に昔はそうしてきたらしいし。
清弥と霊夢には今までいろんなことを教えてもらってきたけれど、それは清弥達がいるから出来るのであって、自分一人で放り出されたらどうなってしまうか想像できない。
一人で。
……………………。
懐の中に今もある清弥の笛を握りしめ、染み出してくる記憶を脳裡の水面の下へと押しとどめる。
……だから、
だから、まだまだいろいろなことを知りたいと思う。
いろんなことが出来るようになりたい。
最近は霊夢の人形と遊ぶのが好きだけれど、それだけじゃなくて、もっともっとたくさんの、目に見える数多くのことが知りたい。出来るようになりたい。
そうすれば、清弥の役に立てるし、清弥が喜んでくれるから。
「そらさん、遅れてるわよー。猪鍋にきのこが足せるかどうかは私たちに掛かってるんだから。魔理沙はいらないみたいだけどね」
「だれもそんなこと言ってないぜ」
「じゃ猪汁の猪抜きね」
「偏食は美容と食育の敵だぜ」
「はいはい」
「………………うん」
背負い込んだ雑嚢をもう一度担ぎ直す。濡れた枯れ葉に足を取られそうになりながら、それでも一生懸命ついて行こうとする。
清弥について行けるようになりたい。
小さくそう願いながら。
委曲を尽くして説明しようとする魔理沙のレクチュアがなかなか終わらないので、霊夢が腹を立ててスペルカードを構えたところで茸狩りは本格的にスタートした。最初のうち、そらは霊夢や魔理沙を手伝いながらあたふた体を動かしていたが、徐々に飲み込めてくると余裕が出てきたのか、森の中を窺うのが楽しく感じられてきた。まるで競争をするかのように籠の荷物を増やしている二人から、少しずつ離れていく。
とはいえ視界の利かない森の中、そうそう遠くに行かないようにという注意をあらかじめ含められている。そらも二人の忠告に背くつもりはなかった。
魔理沙に教えてもらったばかりの判別方法を頼りに、わかりやすい茸を籠の中に放り込んでいった。
「……これは椎茸、これは……ええと、少し裂いてみて……紫の筋が通ってるから月夜茸、だから、毒があって食べられない……」
顔がくっつきそうな距離でまじまじと見つめ、目を皿にして木の根元や倒木に注意をそそぐ。腕につり下げた手籠の中、霊夢と一緒に取った椎茸の上には、カラフルな色の茸が振りかけられている。これではどちらにしてももう一度霊夢たちに手伝ってもらい、きちんと選別する必要があるだろう。
額にうっすらかいた汗を拭う白い手は、土に汚れている。
でも……この作業は面白い。とても。
褐色の枯れ葉で染まった秋の森に、こんなに豊かな色彩が散りばめられているのは意外だった。普段ほとんと室内にいて、意識して森の木々に注意を払うことなんてしなかったからだろうか。
特に茸は独自の主張を絶えず発していて驚かされる。白く曲線を描く衣笠茸とか、木の根本にちょこんと立つ天狗茸の鮮明な赤に驚かされる。食べられはしないものの、森の中でその一点が特異点のように存在していて、思わず体を引いてしまうぐらい。怖い訳じゃなくて、知らないことばかりだ、と。本や話で聞くだけでは何も分からない。草履で草を踏みしめるたびに思う。
ここに自分がいる。
ここで清弥が生きていた。
そして、今も――
ぽこっ
……地を這う気が溜息をついた。
風ではない。
しゃがみ込んでいたそらが、引き寄せられるように顔を上げる。
ぷくっ、ぽこっ……ぱちん。
耳を澄まさないと聞き逃してしまうような透明の囁き。
呼んでいる。
自分を呼んでいる気がする。
導かれるように歩き出す。
まるで意志無きもののように。
程なく、その場所にたどり着いた。
泉。注意を傾けないと単なる水溜まりにしか見えないけれど、絶えず地下から湧く源泉が清涼な水を通している。柔らかな陽光を頼りに呼吸する水棲植物が、虫達よりも小さな息をするたび、地の奥底から湧く清水とともに持ち上げられ、泡となって弾ける。正確に真円を描き広がっていく水紋。
水面で太陽のかけらが一粒、金剛石のように輝く。一瞬、また一瞬。
その光景に、そらが立ち尽くす。
充溢していた心はたちまち抜け殻のようになり、ただその水のたゆたいを見つめている。
いや……見ているわけではない。
目が離せないのだ。
彼女は微動だにせず佇む。
あたかも彫像のように、
それが定めのように。
「――みつけた!」
突如、
森の天蓋が真っ二つに割け、陽光がそらを浮かび上がらせた。
風、
吹き付ける烈風は壁、
「…………………っ!」
声にならない悲鳴を上げてよろけるそら。虚ろな心に恐怖が流れ込み、覚束ない左足が泉に落ちて服を濡らす。
森の中央を一直線、まるで見えない砲弾が通り抜けたかのように、風の塊ともいうべき意志がそらに叩き付けられる。
無数の楓が旋風を成して舞い上がる。
そらの純白の髪が大きく翻り、腕の籠を吹き飛ばす。まき散らされる茸。
思わず腕で顔を覆ったそらが、薄目を開けて垣間見たその姿、
風と一緒に現れた影、
胸に抱くべき赤ん坊のような、
背中に蜻蛉の羽を羽ばたかせ、
人工的美の極致たる顔には碧玉の瞳、
それはすなわち、
「………………にん、ぎょう?」
恐懼と空白に侵されるそら、
ホバリングして微笑する人形、
秀麗にして邪悪なその笑顔、
その向こうから、大きな本を抱いた影がスカートをはためかせて躍り出る。
無意識に寄りかかろうとした、
このままでは倒れてしまうから、
でももたれるべき場所はなく、
もたれ掛かるべき人はいない、
だから、
ただ、
頭に浮かんだその名前を呼ぶ――
「……清弥ぁっ!」
「……………………」
狩りを続けていた清弥は、はたと振り向いた。誰かに呼ばれたような気がした。森の呼気の微細な変化が、聞き慣れた笛の音のように聞こえなくもない。森は自分の感覚を否応なしに鋭敏にしてくれる。
「そらか?」
三人が向かうおおよその場所は聞いてある。獲物の処理はまだ終えていなかったが、胸騒ぎを覚える清弥は駆け出した。
と。
突然、異様な冷気が肌を刺した。
明らかに昼間の雰囲気ではない。まるで騙し絵のように、木々がうっすらと光を帯び、今まで明るかったその隙間が闇に閉ざされる。一斉に閉じられるカーテンのように、周囲の状況が変転していく。
「また妖怪か!」
舌打ちして矢をつがえる。呼応するように、一つ二つ三つ……蒼白き菊のような鬼火が自然発生して清弥を取り囲む。
観 自 在 菩 薩 行
深 般 若 波 羅 蜜
多 持 照 見 五 蘊
皆 空 度 一 切 苦
厄 舎 利 子……
炎の一つが漢字の一つ、音の一つへと刻印され、清弥を包囲していく。狭まる圧迫感。逃げ場がないという錯覚。動じてはいけないと思いつつ、愛用の武器を構える両手に冷や汗を覚える。
相手の意図が分からない。
このまま押し包み、心身まとめてつぶす気なのか、それとも。
判断に迷う暇はなかった、
一瞬時間が凍り付き、
眼前で大輪の桜がゆっくりとほころぶ瞬間を視るような、
そんな幻が脳裡を埋め尽くす。
迫り来る呪言をかわせる気がしない。
体が鉛の塊のように重くなっていく。
そんな空気の中で、
――来る。
何かが来るのだけが分かった。
それを避けなければいけない、
でなければ……死ぬ。
それだけが分かった。
分かっているのに、体がいうことを利かない。
足の裏が地面に張り付いて動かない。
来る、来る、来る、
「獄界剣――」
誰かそう呟くと、
しゃらん!
錫杖を打ち鳴らす音が、
抜刀する鞘なりが響いて、
……来た!
森の奥からそれが来た。
信じられない光景だ。
それは見えない刃。地面に平行に飛ぶ一本の線がこちらに向かって直進してくる。周囲に林立する樹齢何百年の大樹たちの幹に、斧で打ち込まれたような深い傷がぱっくりと、立て続けに抉られていく。
舞い散る木屑。新鮮な木の匂い。
その刃は鋭く、周囲を飛び回っていた鬼火を十把一絡げに真っ二つにする。切り刻まれた魂は悲鳴を上げ、鮮血のように真っ赤な妖弾へと転じて清弥に殺到する。
死が詞を殺して屍へ誘う。
その絶体絶命の瞬間、清弥は何も出来ない。
何も出来ないが、
ただ目を剥いて、まっすぐ立って、
刃を放った相手を探して、
探して、
――最後の瞬間、決断した。
全ての攻撃衝動を抑制して、全神経を己の足に集中し、飛び上がった。
その直後、
剣風が清弥がいた空間を薙いだ。
清弥は矢を捨て、開いた片手で近くの枝を必死に掴み自分の体を押し上げると、ムササビのような敏捷さで枝から枝を飛び移る。追ってくる妖弾を背にしながら、清弥は必死で体を動かした。
――妖怪がいるなら、守るべきは己よりもそらだ。
その決断が、最後の最後で彼自身を救った。生死を賭ける一撃よりも己の身を、ひいてはそらを案じたことが、結果的に必殺の一撃から身を護ることになったのだ。そらと出会う前なら差し違えても妖怪に反撃していたのだが……勿論、今の彼にそれを振り返る余裕はない。
一刻も早く、
一歩でも近くへ、
そらの元へ……!
傷ついた大樹の影で、刀を鞘にしまう音が二つ。影はまもなく闇に溶けた。
☆
「怯えた振りなんてしても無駄よ! あの夜の決着をつけてあげるわ!」
泉に片足をつっこんで茫然自失の少女……香霖堂で奪った少年の記憶そのままの姿。武器の傘も持っていないようだが。
だが、躊躇わない。
――里の祭りの闇の中、正確に記憶したその顔。あれから三ヶ月も探し求めた相手に間違いない。確信する。
少女の周囲にホバリングする人形が魔法陣を浮かべ、反撃を許さぬように襲いかかったその瞬間、
アリス・マーガトロイドの目の前でまばゆい光芒が連鎖して炸裂した。
星形の弾が跳ねながら砕けて、森に一足早い夜の魔法を描き出す。アリスはたまらず着地し、閃光から顔を背けた。
「……またアリスなの。久しぶりの人形劇にしては乱暴にすぎるんじゃない? いつものことだけれど、スケールの小さな悪事なんて気分が悪いわ」
「それに、残念ながら今日は非常にご機嫌麗しくない。それなりに覚悟してもらおうか」
飛行する少女人形は人形師の元に還り、白い髪の少女の前には紅白と黒の幻想が立ちふさがった。一方の手にはお払い棒、もう一方の手には竹箒。言葉通り、どうやら両者ともに機嫌はすこぶる悪いようである。
目的の少女は知り合いが駆け付けたのに少し安堵したのか、霊夢の背に隠れるように立った。霊夢の方が背が低いので少し滑稽に思えるが。猫を被っているのだろうか? しかし、何故霊夢達があの少女を庇うように立つのだろう。
「お揃いで久しぶりだけど、何も考えてなさそうなところは相変わらずで安心したわ」
アリスの代わりに人形が頭を下げる。
「気取った嘘が下手くそなところにはブランクを感じさせないぜ」
「そっちこそ何よその籠。強突張りもいい加減にしないと、あんたの小さな小屋が本と泥で一杯になったあげく、菌類に寄生されて巨大冬虫夏草になるんだから」
「それはそれで面白いからいいが、生憎といまは心の棚にそんな余裕がない。そらを襲った訳を聞かせてもらおうか。理由によっては本気で消し飛ばす」
いつになく凄みのある魔理沙と、いつもの調子で様子を窺っている霊夢。両方一度には戦えないし、ここで戦うのは得策とは思えない。なんとかこの場を切り抜けなければ。
「……そちらこそ奇妙な話じゃない? 人里に入り込めるような危険な人妖を霊夢たちが庇うなんて。霰でも降るのかしらね……ねぇ」
そらの肩がさらに縮こまる。だが、その顔には演技でなく当惑が浮かんでいる。霊夢は胡散臭そうな顔を浮かべて憚らない。
「あら、アリスは何を言ってるのかしらね? そらさんは人里はおろか、香霖堂にだってまだいったことないわよ」
「博麗の巫女ともあろう者が、人妖のために嘘をつくというの? それとも嘘を見抜けないのかしら。ちょっと以上に見損なうかもしれないわよ」
「理由のない嘘をつくなんて難しいことを私がするわけないじゃない」
「……首の落ちた六地蔵に注釈を付けて里人を安心させたのは霊夢でしょう? あれを落としたのはそいつよ。私も荷担していたけれどね」
指を差されて顔面蒼白になるそらだが、それは的中されて焦っているというより、自分の知らない場所で展開する事態に巻き込まれる恐怖が勝っているように、指摘する側のアリスですら受け取れた。
おかしい。
何かが噛み合っていない。
魔理沙が凄みをきかせながら鼻で笑う。
「語るに落ちたなアリス。残念ながらあの日は私がそらと博麗神社で留守番をしていたんだ。私がアリバイにならないならそれを証明できる安楽椅子探偵でも紹介してくれよ」
「嘘でしょ」
愕然とする。
魔理沙の憤慨は、そらと呼ばれる少女以上に虚偽の介入を許すものではなかった。彼女の性格は長い付き合いでよく分かっているのだ。
「獲物を襲うために人間に言い訳するような妖怪なんて存在価値無いぜ。さ、ここでさっさと消し飛ばされろ」
魔理沙がずいと体を乗り出し、スペルカードを抜きはなった。
「待って、そんなのいつでも出来るじゃないの。それよりもその時の話を聞かせなさい」
「エネルギー充填百二十パーセント問答無用だぜ」
「相変わらずの人間薬缶ね! 鬱陶しい!」
もう逃げられはしまい。
アリスも否応なしに展開される弾幕に備えて距離を取った、その瞬間、
ヒュッ!
人形師の前でまさに戦闘態勢に入ろうとしていた少女人形が、飛来した矢によって胸を射抜かれ、欅の大樹に縫いつけられた。
「お前、あの時の!」
切り立った斜面の上から落ちてくる怒声に聞き覚えがある。香霖堂で記憶をかすめ取った少年だ。覚えてくれていたのは光栄だが返事を返す余裕はない。
「清弥、手出しするな!」
「魔理沙は黙ってろ! 妖怪、今すぐそらから離れろ!」
第三者の介入により、魔法使いと人形師の数メートルに形成されていた緊張が解けた。その隙を見落とす筈もない。
アリスが流し目を送り、指をぱちんと鳴らす、
途端、縫いつけられた人形がけたたましくもおぞましい笑い声を響かせ、
爆発した。
威力はない。ただ、閃光で各自の視界が潰され、その場に留まらざるを得なくなる。
「そらさん見ちゃ駄目っ」
「…………………っ」
「くそっ! 清弥の馬鹿野郎! 逃げるなよアリス!」
「妖怪めぇっ!」
もちろん、それらに応じる義理はない。
アリスは上空高く舞い上がり、西に傾き始めた陽に向かって飛翔する。自分の住処は皆に知られているから、隠れ家に一時避難して体勢を立て直すより他ない。ただし、残された少女達以上の混乱をその胸に抱いたまま。優雅であることを旨とする精神に背いて、下品に大きく舌打ちをした。
「……一体、どういうことなの?」
陽が稜線に沈みつつあり、木々の影が長く長く伸びていく中。深い森に囲まれて四人の影が立ち尽くしたまま。
一人は弓を握りしめながら思い人の頭を強く抱き、
一人は濡れた服のままで狩人の胸に頭を預け、震えは今だ留まることを知らず、狩人の服を涙で濡らし、
一人は箒を握りしめ、少し離れた場所からその様子をじっと見つめていて、
最後の一人が腹を押さえて小さくぼやいた。
「今日の晩ご飯、一体どうなるのかしら……」
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