愛宕山



 灰色の天井を突き刺す深緑の針が一本、マゼンタとイエローに燃える森を睥睨している。
 泰然とそびえ立つ杉の大樹。
 その先端に人形がいる。
 金色の髪をした少女の人形がいる。
 眠る樹海のその先の、丘の一点を射抜くように見つめている。

      ☆

「こんな天気じゃ迷うわね」
 霊夢がそういうと、清弥は天を見上げた。
 もしかしたら、そらの今の心はこんな感じなのかもしれない――。
「何を迷うんだ?」
「おめかしの衣装を悩んでいるように見えるの?」
「俺が知る限り、霊夢が服を迷う必要なんて皆無だと思うけど」
「あら、どうして?」
「霊夢がその服以外の格好したところなんて見たことないからだよ」
「昨日は白味噌が多い気分だったのよ。風も冷たかったし。戦う前から降参気分」
「なんだよそりゃ」
 答える代わりに霊夢は、竹箒を持っていない方の手を広げてみせた。分厚い雲が垂れ込め、時折山嶺から吹き下ろす風が髪を揺らす。秋の終わりには珍しい、湿った東風だった。
「だって、こんなお天気じゃいつ雨が降ってもおかしくないじゃない。濡れた葉っぱが地面に落ちてすぐにまた汚れてしまうと分かっていても、お勤めはするべきなのかしらね」
「そんなこといってると、明日の掃除はもっと大変になるぞ」
「明日のことを今日考えると、明日考えることがなくなっちゃうわ」
 やる気を微塵も感じさせない声を残し、箒を担いで階段を下りていく霊夢を見送ってから、清弥も境内の掃きそうじを再開した。
 原色の紅葉が参道をまだらに染めている。今は美しくても、雨が降ると色が濁って汚れてしまう。やるなら急ぐべきだろう。ただ、口ではああいったものの、泣き出しそうな曇天の下で突っ立っていれば、霊夢の言葉にこそ説得力があるのは自明の理だ。
「自分で言ったからにはやらないとな」
 気合いを入れ直して箒を使う。埃と一緒に楓や欅や山紅葉を追い落とす。
 空を見ないように集中して。
 その、つもりで。
 何故なら、灰色の空は様々なことを思い出させるから。深く冷たい梅雨空の下を、遠ざかる雲間を押しのけるように広がっていった青空を、そして……白き満月の支配下に起こった出来事を。
 ………………。
 しばらくするとまた、箒の動きが鈍る。
 どうしても思惟に、あの夜の出来事が忍び込んでくる。考えまいとする度、その努力は徒労に帰す。
 ……蛍のように飛び交う不思議な鬼火。
 静かに舞い上がる二人の体。
 そらを抱く自分の手の震え。自分にしがみつくそらの手の暖かさ。
 月影に彫り抜かれた、白く黒く際だつ世界。暗緑色の稜線の向こうで大地にうごめいていた無数の光、その先の鏡面のような世界。自分では決してみることのない世界。そらと一緒だからこそ垣間見た世界……。
 ――あの夜から、決定的に何かが変わってしまった。
 自分が正面から見つめようとしていなかったこと。自分が認めたくなかったこと。
 そらが、人間ではないということ。
 知ってしまった。
 いや……本当は最初から知っていた。そらが人間とはどこか違う存在だということを。認識をずらし、直視していなかっただけに過ぎない。
 彼女は妖怪なのだろうか?
 それとも妖精?
 たとえそうであろうとも、そらとの距離は今も変わらない。そらへの想いは減退するどころが、日を追って増す一方。そらへの畏怖、そらへの思慕。これから先に待っている彼女の運命。あの夜以降もそれまでと変わりなく、魔を封じるという博麗の巫女、博麗霊夢を欺き続けているという事実。ここがいかに妖怪すらも迎え入れる希有な社であろうとも、秘密にしておくにはあまりにも大きな罪。霊夢にもそら自身にも確かめることなく、一人で抱え込む自分。心のどこかで、そらに対する裏切られたという思いが、決してそれを認めない拒絶が膝を抱えている。迷いが膨らむ度、清弥は己を叱咤する。何を馬鹿なことをと、情けなく思う。
 混沌を抱えた生活は続く。
 一人でいる時が辛い。最近は、弓を引く瞬間にすら迷いを感じる。獲物を捕らえる寸前で心の脆弱さが身に沁みてくる。逃したのも一度や二度ではない。
 強くありたい。強く願う。
 自分は、平生を保たなければいけない。
 それが、そらのためだから。
 たとえ人外であろうとも、気の知れた友人と一緒に暮らせるのなら、それでいいに決まっている。霊夢や、気にくわないが魔理沙や……そして、叶うなら自分とも、一緒にいてほしい。一緒にいたい。
 離れたくない。
 だから何も変わらないで欲しい。
 これ以上、何も……。
 顎を上げ、天を仰ぐ。
 呼応するように、厚い雲からひとひら、涙が落ちて頬を濡らした。
「っ」
 まるで剃刀のような鋭さで肌に弾け、集めたばかりの枯れ葉の山に染み込んでいく。そう感じるのは自分の心が細く萎れているからなのだろうか。
 あっという間に無数の水滴が大地を打ち始めた。関節が白くなるくらい、箒を握りしめる。
「……降り出したか」
 ――――――。
 小豆を揺らす竹籠の中のような音を立てて、白い飛沫が見えるほど篠突く雨が神社を叩く。
 清弥が神社の軒先に駆け込んで水滴を払っていると、階段の下から現れた霊夢が、大鳥居をくぐって猛然と駆け寄ってきた。雨が降り出して間もないというのに、頭の上のリボンは濡れそぼっている。
「……もう! やっぱりじゃない。濡れた枯れ葉じゃ焚き火にも使えないわ」
「西の空が明るいからすぐにでも止むんじゃないか?」
「それとこれとは話が別よ」
「俺が悪かったよ」
「謝らないでいい方法を考えて行動するのもいいんじゃないのかしら?」
「霊夢、さっき先のことは考えないっていってたじゃないか」
「明日のことは考えなくてもちょっと先のことぐらい考えないと簡単に痛い目を遭っちゃうわよ」
 つややかに光る髪をかき上げ、濡れた裾を絞りながら霊夢はぼやいた。また適当なことをと思う清弥だったが、霊夢の服が肌に張り付き透けそうなので目をそらし、首に掛けてあった手ぬぐいを渡す。
「ありがと」
「どっちにしろ掃除は終わりだな」
「そうね。私のいう大概のことは当たってるらしいから、気を付けた方がいいらしいわよ」
「……凄い自信だな。嫌味なくらいだ」
「私がいった訳じゃないわ。今のも伝聞形式だったでしょ」
「じゃ、誰がいうんだよそんなこと」
「周りにいる人たち、かしらね」
「無責任な」
 霊夢はそれに答えず、髪を拭いながら白く濁る境内を見ている。伺い見たその表情が輝く鏡面のように端正で、清弥の感情を欠片も受け止めてくれないみたいで。
(霊夢の言うことは正しい、か)
 口の中で呟く。心に募る小さなわだかまり。
 やがて霊夢の言葉がそらを裁く日はくるのだろうか。
「そういえば、そらさんは?」
「そ、そら?」
 彼女のことを考えていた時に名を出されて、清弥は僅かに狼狽えた。
「あ、俺が掃除を始める前は母屋の客室にいたみたいだったけど。雨が降り出す前に小屋に帰ったかな」
「そう。外にいて濡れてないといいけどね」
 雨とそら。
 響き合う無数の波紋
 出会った日を彷彿とさせる取り合わせ。
(霊夢の言うことは正しい)
 もう一度、その言葉を想起する。
「……濡れてないといいけど」
 まるで自分に言い聞かせるような重さの言葉を吐く清弥。それをしってかしらずか、霊夢もぼやく。
「まったくよね。そらさんはいろんなこと覚えてくれたけれど、なぜかお風呂の世話だけは今でも私がしなくちゃいけないんだから。水遊びになると急にだらしなくなるんだもの。今日はもうお仕事はやめにして欲しいわね」
 清弥は苦笑するが、その笑みは何処か虚ろだった。
 寒さに腕を抱えながら、霊夢と清弥は母屋へ上がった。二人の濡れた足跡が廊下が小さく残る中、霊夢の部屋へ曲がる角を突き当たったところで、
「あ、そらさん」
「……そら?」
 二人の声に、薄暗い廊下に立つ影が顔を上げる。こぼれ落ちる長い白髪が川面のように光を鈍く弾いた。
「なにしてるの? こんなところで」
 そらは霊夢を見、その後ろの清弥を認めて少し微笑み、首を振った。
「…………………」
 何でもないという仕草だが、霊夢の部屋の前に立っていたそらに、清弥は微妙な違和感を感じていた。
 霊夢の部屋の障子は僅かに開いている。
「あー分かった。そらさんまた私の人形見てたのね」
「人形?」
 一瞬困ったような表情を浮かべ頬を染めて俯くそらを庇うように、霊夢は苦笑する。
「私の部屋に飾ってある仏蘭西人形なんだけど、なんでだかそらさんが気に入っちゃったみたいなの。前に魔理沙と見てたことがあったんだけど、それから後も気になるみたいで。部屋の前で中を窺ってるのを見たことがあるわ」
「そうなのか」
「……うん」
 人形に興味を持っているなど清弥は全く知らなかったので、ちょっとショックを受ける。そらのことは多く把握しているつもりでいるから、滅多にない不意打ちには弱い。
 下を向いたままのそらを横目に障子を大きく開け放つと、霊夢は暗い部屋の中から問題の人形を持ってきた。
「そんなに気になるなら貸してあげるわよ? もちろん可愛がってくれなきゃ嫌だけど」
 慌ててそらは首を振るが、霊夢はそらの胸に人形を押し当てた。なんとか断ろうとしつつも興味を押さえきれないのか、そらの腕はこわごわと人形をかき抱く。霊夢は多少恥じるように微苦笑して、人形の頭を撫でた。
「取り立てて可愛いとは思ってないけれど、嫌いって訳じゃないの。大事にしてね」
「………………」
「さぁ私は着替えるから二人ともどっかいってね。冷えたからお茶の準備をしてくれると嬉しいわ……今日は紅茶でよろしく」
 そういうと二人の鼻先でぴしゃりと障子戸は閉じられ、洋燈の仄明るい光が障子の向こうで朧に灯った。
 慣れない仕草で人形を抱くそらが、伏し目がちに清弥を見上げる。人形の件を知られてしまったこと、人形を託されたのが予想外でどうしようかと助けを求めている瞳にも見える。
 ただ、清弥としてはそら以上に、目の前のそらの有様に驚くばかりで、どういう表情を浮かべていいのか迷ってしまっていた。結果、ぎこちない笑みが張り付いている。

      ☆

 幻想郷は煙雨の中にたゆたいながら、誰そ彼れ時を迎えようとしていた。
 ここ紅魔館は、いつもならばこれからが精気と活気に満ちる時間なのだが、今宵に限ってなら、数少ない扉が夜空に向かって開かれはしないないだろう。強い雨は吸血鬼にとって歓迎すべきものではない。メイドにしたって、雨空の下で洗濯や掃除をして無駄な忙しさを倍増させる選択肢はない。
 巨大な館にふさわしい鉄扉の横には、巨大な館には似つかわしくない守衛小屋がひっそりと建っていて、その中で机に突っ伏して安穏と船をこいでいる大陸衣装の少女がいた。紅魔館の門番、紅美鈴である。
「雨って暇よね……」
 寝言のように呟く。
 正確には、年中暇だ。お嬢様に用事のある奇特なお客様は門など飛び越えてさっさと玄関ホールに向かう。それ以外の客などがあるはずもない。ここは悪魔の館なのだから、妖怪だろうが人間だろうが、ある程度の思慮があれば近寄りはしないのだ。ということで、出来ないことを数える方が簡単なメイド長が実質的な館の警備責任者であって、美鈴は館の門に何の因果かとりついた妖怪でしかなかった。彼女自身はそう思ってはいないのだろうが……。
 暇を持てあましたり、雨が降ると憂鬱になるという彼女は、妖怪よりも人間に近いメンタリティを持っているのかもしれない。
 美鈴は紅魔館が活動期に入る宵闇に床に就き、朝が来ると目を覚ます。紅魔館はそれ自体が魔でもあるので、活動期にはそれこそ警備などいらないのである。それに加えて今日は雨が止まない。よって今夜は、早々に寝入ってしまおうかと、今日十何回目かの欠伸と伸びと共に美鈴が考えた時、門のチャイムに連動した呼び鈴が、守衛小屋に済んだ音色を響かせた。
「……こんな雨にお客様?」
 驚いて飛び起きると、壁に立てかけてあった愛用の鉾を持って門の前に立った。覗き窓から外の様子を窺うが、誰もいない。
「あの、お嬢様はお会いにならないと思うので……」
 常日頃考えている定型文を呟きながら左右を見るが、暗い上に霧雨で視界が悪い。首をかしげていると、正面にふわっと傘を持った人影が浮かび上がった。その人物の周りを、不定形の塊がゆっくりと飛び回っている。
「な……!」
 柄の悪い妖怪なら撃退すべし。門の脇にある使用人用の扉を開けた瞬間、
 突如、
 目の前に逆さになった顔が落ちてきた。
「うらめしやー」
「ぎゃああああああああ、でたおばけええええええええええええええ!」
「あら、貴女も妖怪ではなくて?」
 真っ白になって硬直して水溜まりにしりもちをついた門番の前で、桜色の髪をした幽霊は怪訝そうに首を傾げた。


「で、これから色々楽しもうとしていたところに不躾な押しかけ幽霊という訳? 一回きちんと死んだ方がいいんじゃないかしら」
「死んでるからこういうことになるのだけれど……そういう言葉は一度死んでから使ってみるといいと思うわ」
 紅魔館、謁見の間。
 長机の端、ステンドガラスを背にした一際豪奢な席に着席する館の主――レミリア・スカーレッドが睥睨している。その膝に縋り付くようにして妖しく笑っているのは、彼女の実妹フランドール・スカーレット。そしてその横にはメイド長である十六夜咲夜が完璧な表情で控えている。
 髑髏に飾られた燭台を挟んでテーブルの逆の端、その椅子の背後には来訪者・西行寺幽々子が口元を扇子で隠したまま。従者である魂魄妖夢は館の主の前であるというのに礼を取らず、二本の刃の柄を握って離さない。
 周囲を取り巻く無数の蝋燭は、青白くか細く輝いている。
「博麗神社への道は間違いようがないんじゃなくて?」
「博麗神社への裏道はこちらのほうが近いかもしれないじゃないかしら?」
「なるほどね……それにしても、お客様が着席しないことには落ち着いて話もできないのだけれど」
「私には椅子に座るという習慣がないの」
「それは残念。咲夜であっても、この部屋を一瞬で畳敷きにすることはできないわ」
「いや、出来ますけど」
「安心して咲夜。わたしが許さないから」
「そうでしょうね」
「西洋の習慣に慣れるよりは、立っていた方が十分に楽なの。亡霊に足なんて飾りだもの」
「幽々子様、私はぬかるんだ道を延々と歩いて疲れてるんですが。靴下も濡れちゃったし」
「妖夢ったら、なんで空飛んでこなかったの?」
「幽々子様が門番を脅かすっていって協力させられたんじゃないですか!」
「お化けにはお化けの生き様があるのよ?」
「いや死んでますけど。私は半分死んでませんけどね」
「クラウンの練習をするためにわざわざ雨の中おいでになったかしらね?」
「お姉様、ああいうのわたし知ってるよ。『馬鹿は死んでも治らない』っていうんだよねー? クスクスクス」
「あらフラン、わりと博識ね」
「!」
 刹那、
 妖夢が抜剣し、
 咲夜が時を止めた。
 二つの旋風が太極図のカーブを描くように旋風を巻き、閃光だけが空間を焼く。
 次の半瞬、
 お互いの刃がテーブルの中央上空でがっちり咬み合い、一瞬火花が散る。妖夢の二刀と咲夜の双振りにかかる力が均衡している。
 四つの腕が微妙に震えている。
「言葉の強さは場にも拘わるわ。そちらが控えるべきよ」
「幽々子様は忘我だが愚鈍ではない」
「それに満月ならお前は死んでる」
「斬る前に結論を出すな」
「相手が私であったことを喜びな」
「斬る――」
 妖夢の頭上を越えて、もう一人の妖夢が咲夜に袈裟切り、
 しかし虚空だけが真っ二つになり、次の瞬間妖夢は腹をしたたかに蹴られて紅魔館の壁に叩き付けられている。
「くっ」
「妖夢、そこまでになさい。冥界ならともかく、此処では勝てないでしょう?」
「しかし!」
「悪魔の犬を斬って楼観剣が鍛えられるとも思わないわ。来年の桜が心配な私の身にもなりなさいな」
「相変わらず口の減らない幽霊ね」
 いち早く定位置に戻った咲夜が皮肉げに笑うと、扇子で口許を隠した幽々子は流し目を送る。
「貴女のように汚れた魂は白玉楼にいらないもの」
「最大限の賛辞とさせて頂きますわ」
 歯噛みしながら幽々子の横に立った妖夢を待つように、レミリアは手で押さえながら大きな欠伸をした。
「それで、こんな暇な芸を見せに来られたのかしら? わたしは忙しいし、妹は興奮するしでいいことないわ。雨が降っていなかったら今頃カタストロフよ」
「そうなるようになっていたのよ。今宵は雨が降るように、私がここに訪れるように」
「でも運命を司るのは幽霊ではなくわたし。そこを間違えてはいけないわ」
「死後の定めまでは視られないでしょうけどね」
 不意に横の壁がこちらに向かって開き、ネグリジェを纏った紫の髪の少女がてくてくてくと歩いて、レミリアに近い方の席に座った。一時的に扉になった場所はすぐに何の変哲もない壁に戻った。呼応するように少女は、抱いていた分厚い古書を机の上で広げる。
「パチェ、図書館から出てくるなんて珍しいわね」
「……新しい契約の気配がしたから、書き留めておこうかと」
「確かに悪魔と幽霊の談合なんてそうそうありはしないでしょうね」
 そういってレミリアが笑うと、幽々子も優美に目を細めた。
「じゃ本題をお願いするわ、亡霊の姫君」
「……博麗神社の居候」
 吸血鬼が口の中でゆっくりと、犬歯をなめた。飲み込む唾の味に血を思い出す。
 フランドールが、
 咲夜が、
 パチュリーが、
 そして妖夢が、
 それぞれの視線を絡ませ合う。
 それぞれの思惑を込めて。
「そうやって最初から単刀直入にすれば良かったのに……で、どちらかしら」
「少年の方。彼が欲しい」
 幽々子の周りに飛び交う二つの幽体が、いっそう桜色に、いっそう血の色に染まる。付近を冷気で包みながら。
「好きにするといいんじゃないかしら?」
「後で手出しをされると困るわ。そこらの半端な妖怪ならばともかく、ここの方々に手を出されると少し厄介だもの」
「わたしじゃなくて、霊夢じゃないの? 問題になるのは」
「それもあるけれどね。木を殺すには火を掛けるよりも土に毒をまく方がいいこともある」
「あの娘は?」
「与り知らない場所で起こる事象に興味はない」
「そう。人の幽霊らしい淡泊な衝動ね」
「どうせ貴女は手出しするつもりなかったのでしょう」
「わたしはただ、あの二人の運命の行方を見届けたいだけ。妨げるものは排除するわ」
「私の衝動は妨げにならないと?」
「それを決めるのはあの二人よ」
「卒塔婆に戒名を書くなんて貴女には出来そうにないですからね」
「信教の自由はこの国の特徴らしいけど」
「クニが醸成するのは人間の思想じゃないわ」
 レミリア・スカーレットは目を細め、西行寺幽々子は視線を流した。
 ……こうして幻想郷でもっとも力を持つ妖怪のうちの二人が、幻想郷を守護する博麗の巫女のいない場所で密約を結んだのである。太陽にも月にも隠れた場所での短い時間であったが、幻想郷に住まう人間や妖怪にとって、これぐらいの凶事はない。
「ともあれ、これで用事は終わったわ。お手間を取らせて済まなかったわね」
「あらそう」
「幽々子様が人に気遣うなんて……」
「いやいや妖夢。話には終わらせ方というものがあるのよ。お茶漬けだされたら帰らなきゃいけないけど」


「そうだ、話はまだ終わっちゃいないぜ」


 その場にいた者全員に緊張が走った。
 その場にいないはずの者が喋ったから。
 咲夜は手近な電話の受話器を引ったくった。
「美鈴!何やってるの」
『すいません、また突破されました……まだ腰が痛くて……』
 呆れて受話器を返しながら、冷徹なメイド長は門番の分の食事を作らなくて済むと断を下していた。
 一方、やぶにらみの幽々子は妖夢を睨む。
「……妖夢、つけられたわね?」
「す、すいません……一体いつから」
 侵入者は中空から悪魔の宴を見下ろす。
「それにしても、おーおーなんだこのフル面子。まるで愛宕山だな」
「まだ日本の地理に詳しくないんだけど」
 吸血鬼の王女が笑うと、
「悪党の天狗が集会する場所っていったら、鞍馬山か愛宕山と相場が決まってるんだよ。で、牛若丸はいそうにないから愛宕山。私が八艘飛びをやってもいいけどな」
 暗い部屋に、霧雨魔理沙が箒に乗って浮かんでいる。黒い帽子に金色の髪。彼女の周囲を紅黄碧翠の金属球が見えない正方形をなぞって運動している。
「それはともかく、降りてお茶でも飲んだらどう?」
「状況が状況なんで、こっちもフル装備で対応させてもらうぜ。こっそり埋められたり殺されたり食べられたりしたらかなわないからな」
「そんなこといわないで遊ぼうよ、魔理沙」
「すまんなフランドール、今夜はそういう気分じゃないんだよ。お前だって月が出てる時の方が楽しいんだろう?」
「そうだけど」
「それに目の前の悪い奴に釘を刺しとかないといけないみたいだからさ」
 張りつめる空気が緊張の度合いを増す。
 幽々子の扇子が畳まれ、その瞳が閉じられる。
「これは……音速の比較実験とか二度と出来ないようにした方が……いいかしらね?」
 幽々子が淡泊に呟くと、妖夢が大剣の鞘を払って深く腰を落とした。一方で咲夜は既に何本ものナイフを構えているし、パチュリーだってその気になれば無詠唱で魔法を繰り出せる。窮鼠なのは無謀な侵入者の方であることは疑いようがなかった。
 だが。
 魔理沙は意味ありげに笑うと、意外なことに展開した魔法を全て解除して床に着地した。長机に近寄り、ポケットの中の魔法球や呪符も全て、置く。
 最後に箒を投げ出して、
「テーブルが汚れるから止めてくれない?」
と咲夜に突っ慳貪な苦言を投げられて、慌てて手に持ち直した。
 幽々子が再び扇子を開いて見せる。
「どういうことかしらね」
「突然だが私は今日、ここに来なかったことにさせてもらう」
 レミリアが軽く目を見開いた。
あんたらが何を企んでいるのかはしらんが……好きにするがいいぜ」
「言われなくても好きにするけれど……居候の片方は魔理沙のお気に入りじゃなかったのかしらね?」
 レミリアがフランドールの頭を撫でながらいうと、
「あのお姉さんの方なら、わたしも嫌いじゃないよ」
「ああそうだ、私も嫌いじゃない。というかむしろ気に入っている。だから男の方は邪魔なんだ、なんて考えないこともないわけだ」
「ほほー」
 幽々子が面白そうに微笑む。
「本心かしらね」
「本心だろうぜ」
「死人の観点でも、残された彼女が喜ぶとは到底思えないけれど」
「死人にゃもう、生者の心の振幅なんぞ分からないだろ? お前がどうしてあの弱っちい野郎に執着するのかこっちにもわからないけどな」
「…………………」
「…………………」
 しばらく虚無の瞳で魔理沙を覗き込んでいた幽々子だったが、
「いいわ。どう転んでもこちらに損はない。闖入者の思惑通り、死人が鞭打たれてみましょうか」
 潮時とみたのか、悪魔も妹と共に立ち上がった。
「ならば今夜は終わりね。今度は満月の夜に皆を招待するわ」
「当然遠慮するけどね」
「そういわずに」
 そうしてその場にいた者達が三々五々と散っていく。最後に残っていたパチュリーが、長い卓をじっと見ていたが、彼女もやがて壁の一部を押し開け、暗い図書館へと消えていった。
 ……残ったのは、魔理沙一人。
「やれやれ」
 机の上の魔法具をポケットに入れようとして、指先が紅い魔法球を滑らせて床に落としてしまう。
「おいおい、何やってるんだ私は」
 見ると、掌が汗をかいている。
 どんな人妖にも臆することのない魔法少女の指が小さく震えている。
 高鳴る鼓動は今もって鎮まらない。
 大きな帽子に隠された表情。ただ、口許だけは笑っている。
「――そらを守るんだろう? だったら、これくらいは簡単に払いのけてみせろよな。私や霊夢なら楽勝だぜ」
 歯を見せて笑う。余裕を見せるつもりで。
 感情は言葉にならないと実感しながら、ただひたすらに噛みしめる暗き夜。
 外の雨脚はなおいっそう強くなっている。

      ☆

 森の中の小屋も雨に打たれていた。
 その二階、そらの部屋。
 自分の櫛で仏蘭西人形の髪を梳るそら。
 その様子を落ち着きなく見ている清弥。
 時折吹き込む湿った隙間風が蝋燭の炎をゆらゆらと蠢かせ、二人と一体の影を襖に描き出す。
 少年の影は、どこかぎこちない。
 人形の瞳が、その様子をねじ曲げて映している。


 闇夜の天井を突き刺す深緑の針が一本、濡れそぼった森を相変わらず睥睨している。
 ――泰然とそびえ立つ杉の大樹。
 その先端に人形がいる。
 少しくすんだ金色の髪から絶えず水滴を落とすの人形の少女がいる。その手に抱いたグリモワールは何故か濡れていない。
 ……幻想郷中を探したが、あの夜の少女は見つからなかった。残る場所はここだけ。一番可能性がありそうで、一番可能性がなさそうな場所。予測がつかない場所。そして、手に負えない場所。
 人形は眠る樹海のその先の、丘の一点を射抜くように見つめている。
 そこには、世界を分かつ境界――博麗神社がある。