神として生まれた人がいた。
神でありながら人としての業苦を受け、
人であるが故に神として畏れられた。
そして、
最後にすべてを失った人は鬼となった。
神の力で世を呪う鬼となった。
その呪詛は今も果てずに続いている。
海の底で、その八つの鎌首をゆらゆらと巡らせている……。
☆
遠い遠い昔の話。
それまでの過去がそうであったように、それからの未来がそうであったように……そこにもまた新しい歴史が始まろうとしていた。
日の昇る国――東の海の果てにある蓬莱の島では、神代より長きに渡って続いた天子の支配が力を失いつつあった。天よりの力の衰弱と、それを頂点とする権力構造の腐敗や権力闘争が加速度的に進み、求心力を失いつつあったのである。代わって朝廷内では新興勢力……二つの巨大な武門が力を蓄え、互いに覇を唱えて戦乱を繰り広げていった。
一方は西海の民。いち早く都の帝に取り入り、己が権力を謳歌した勢力。船を使ったいくさを得意とする雅の人々だった。
もう一方は東山の民。政略に負けて逃げ延びた東国から再起を図り、数々のいくさで勝ち鬨を挙げては都へと進軍していった。彼らは勇壮かつ剛胆で、丈夫な騎馬をよく使った。
二つの勢力はそのすべてを以て激突し、都を奪い合い、領土を奪い合った。もとより蓬莱の島はさほど広大なわけでもない。猫額の如き国土で滅亡を背にした殲滅戦が展開された。田畑は荒廃し、民は疲弊し、その心は光を失っていった。
この大戦の悲劇的な結末は現在に至っても詳細に伝わっている。山の民は若き軍略の天才を押し立てて連戦連勝し、海の民は涙で袖を濡らしながら西国へと落ち延び続けた。そして最後の決戦――激しく渦巻く海流で有名な水道において行われたいくさを経て、海の民は全滅する。趨勢が決まった申の刻限、一門は幼い主上もろとも、海の底にあるという龍宮を目指して身を投げた。天子の力の象徴として伝承されてきた神剣も共に水没したのである。
ただ、信心深き人はいう。神剣は元をただせば竜神の剣だった。幼き帝は実のところ龍神の変転した姿であって、自分の持ち物である神剣を奪い返すためにこそ降臨したに違いない、と。真偽の程はさておいて、帝に代わり武家が蓬莱の支配を始めたこの時代、神国の支柱の一つが失われたことだけは明白だった。
虚しい勝利の季節は過ぎ、神剣なきまま剣持つ者の政府が、討ち死にした無数の骸の上に打ち立てられた。
それは、神仏の加護の届かぬ時代の到来。
末法の世の始まりである。
さて、この乱世を駆け抜けた一人の武者がいた。寄せ手たる東国の出身である彼は、小兵ながら強弓の腕に優れ、敵味方なくその勇名を轟かせていた。彼の弓は波間に沈む太陽さえも射抜くと噂された。
彼はもののふのあるべき姿と称され、大戦の後、その戦功によって東国に置かれた新政府の中枢を担うこととなった。剣を持つ手に筆を握り、勇気を忍耐に変えて統治という荒地を耕す困難な仕事だ。だが……彼を実際に待っていたのは、不毛に尽きる権力闘争だった。
大乱によって国は荒れ果て、田畑に作物は実らず、民は一様に不満を訴えていた。古き仏教は我が身の安寧のみのために百姓からの搾取を企て続けていた。一方でその百姓達は勃興する新たな宗派の教えにすがり、今生を捨て極楽浄土への希望ばかりを口にする。守旧派は新興宗派の弾圧を迫り、新たな教えの始祖達は民を扇動して憚らない。武士達が戦功によって受け取った所領には意のままにならない民衆が溢れ、折からの天変地異に作物は立ち枯れ、疫病が蔓延し、戦以上に死が蔓延した。
その現実がありながら、しかし、新政権の内部においては派閥が入り乱れ、政事は一向にはかどる気配もない。同じ鎌の飯を食い共に戦った一門でありながら、利権の大きさ、地位の高さなどといった些末な理由で命のやりとりさえ繰り返す。剣持ち大義のために戦った日々、守護神に祈りながら鮮血の中を駆け抜けた日々はいったい何だったのだろう。これでは味方どころか、波頭に砕け散った敵の民すら哀れに思えて仕方ない。
件の武者は止めどなき政争に疲れ果て、程なく出家の道を選ぶこととなった。戦乱の中で専修念仏に目覚めた高僧に入信し、その教えを学んだ後、争乱で亡くなった両陣営の人々を弔うべく、あてどない旅に出たのだ。
人のためではなく、荒みきった自分の心を癒すための旅だった。
南 無 阿 弥 陀 仏
南 無 阿 弥 陀 仏
南 無 阿 弥 陀 仏
……旅の途中、彼はよく後ろを振り返った。
背後にたびたび人の気配を感じるからだ。
それは、切り立った崖の上で、
それは、生い茂った竹藪のさなかで、
それは、荒れ狂う磯の波を被りながら。
誰もいないはずの場所で、彼は幾度となく振り向いた。
自分を呼ぶ声がするような気がする。
最初は気のせいだと思っていた。しかし、歩んだ道程と比例するように、気配は強くなっていく。蜘蛛の糸を引っかけてしまったかのように粘りつく感触。
そしてまた、今もまた振り返り、
――何もないことを確認してまた、歩き出す。
ぼろぼろになった僧形で、
錫杖を握りしめて、
彼はひたすら歩んだ。
自分にすがるような気配を背負いながら、彼は歩いていった。
立ち止まり、振り返る頻度は日増しに多くなっていく。
立ち止まらなければならないほどに体が衰えてしまっていたのか、それとも本当に誰かがついてきているのか。彼にそれを識別する手だてはなかった。
南 無 阿 弥 陀 仏
南 無 阿 弥 陀 仏
南 無 阿 弥 陀 仏
それは決して、西方十万億土の彼方にあるという極楽への旅程ではなかった。ある意味では、駆け抜けた戦場以上に呪詛に充ち満ちた世界を往く。誉れのひとかけらもない死の大地。あるのはただ、無為な死ばかりだった。
盗賊に皆殺しにされたまま放置された村があった。骸骨をつつく痩せこけた鴉をみた。
流行病に冒されて襤褸くずのように転がった人々がいた。呼吸していなければ屍と区別がつかなかった。
はげ落ちた土壁の向こうに、柿の木で首をつった髑髏を見た。生温い風に揺れていた。
腐乱死体に何百・何千と群がる百足の群れを見た。翁も童も分け隔て無く死んでいた。
地平線まで立ち枯れた稲田をみた。
血潮のように深紅に染まった海をみた。
死、
死、
死、
どこにもかしこにも死が満ちていた。
夏の太陽はひび割れた肌を無情に焦がし、冬の北風は破れた障子から吹き込んで体温を奪う。濁った河は身を投げた人の列をわだつみの元へと導き、朝露の草枕に地平線まで死体の連なる悪夢が揺れる。人の訪れなくなった八幡様を倒れた大杉が唐竹割にしていた。森の中にひっそり立つ廃寺の中で、即身仏と成るべき僧が歯ぎしりしながら蜘蛛に喰われていた。
……それらは幻影だったのだろうか?
過酷な旅が彼に見せた地獄の有様だったのだろうか。
それでも、少なくとも、
彼にとってはありのままの現実だった。
すべては戦の余波だった。
太刀で切り裂き弓で貫いていたのは、敵将ではなく、己が住まう国土であり、そこに生きる人々そのものだった。自分に向かって呪いをなすり付けているようなものだった。
騎馬でなく、擦り切れた草履で歩く道。
藁が足の皮膚を裂く度に感じた。
現世に希望はなく、
ただ安らかなる死と、
極楽浄土への切望が渦巻いている。
彼に出来ることは何もなかった。
ただ、錫杖を打ち鳴らし、
笠を深く被って、
低く、朗々と唱えるのみ。
南 無 阿 弥 陀 仏
南 無 阿 弥 陀 仏
南 無 阿 弥 陀 仏
長い長い長い年月が経った。
いまやはっきりと、彼の肩を人の手が握りしめていた。肩だけではない……足にも、体にも首にも、伸びきった頭髪にも、いくつもの手が、乾ききった木乃伊のような白い手がまとわりついて外れない。
彼はそれを引きずって歩いていく。
高僧の如く悟りの境地を見いだすことなど出来なかった。彼は人を殺しすぎていたからだ。空虚な脳裏には今も血の朱が滾々とわき出してくる。
心は病み、自責の念が渦巻いていた。
分かっている。
彼らを殺したのは私なのだから。
彼らを浄土へ導く責務がある。
誰も彼も、神も仏も、主上さえも……この虚しき人々を救ってくれはしないのだ。
ならば、
私以外の誰が彼らを導くというのだ。
だから、
西へ、
西へ向かって連れて行かなくてはならない。
昼夜構わず、道無き道を彼は歩いた。
食事も摂らず、水も口にせず。
血走った目をぎらぎらと輝かせ、野獣のように歯をむき出しにして、奥歯を噛みしめて。
僧形だった筈の姿は変転し、いつのころからか戦の頃の大鎧をまとっていた。袖や直垂には折れた弓が突き刺さり、包帯を巻いた頭からは止めどなく血が流れ落ちる。草鞋が地面を踏むたびに、鮮血の足形がついた。
そしてその手には、戦の時にもっとも頼りにした強弓があった。真の盟友であり、幾多の名将を討ち取った死神でもあった。
西へ、
西へ、
太陽の沈む場所へ、
救いのある極楽界、仏国土へ。
負け戦から逃げ出した落人そのままの姿で、彼は死の行軍を続けていく、
西へ。
数え切れない時間と空間を後にして、彼は幾多の山々を従える峻険な霊峰の頂上に辿り着いていた。
そうして久しぶりに、彼は自分の置かれた状況を把握した。踏み出す陸地がもはや存在しなかったからである。
眼下の四方には、濃い深緑に眠る森が絨毯のように敷き詰められていた。空に溶け込んでいく遙か遠い場所まで樹海が続く。その上には高砂のような星空が広がり、地平線がうっすら、白々と色づき始めていた。
時は黎明、夜明け近く。
彼は魂の凝った息を吐く。
人間程度の力では所詮、仏のいる場所へたどり着くことなど不可能なのだ。だが今も聞こえる、呪詛が怨嗟が苦痛が、直接耳朶を通り抜けて脳味噌を焦がしている。
血走った眼で、登ってくる太陽を見据えた。
ならば、
ならば、この場所から……
空に最も近いこの場所から、自分が送り届けよう。
太陽の国へ、仏国土へ、
救われぬ魂を送り届けよう。
そうすれば阿弥陀仏も衆生の願いを聞き届けられ、安らかな世界へ連れて行ってくれるだろう。
どうやって?
「我の」
乾いてひび割れた唇が、震えるように呟いた。
「……我が弓は、日輪をも貫く」
彼は愛用の弓を取り出した。
天空に閃光が迸り、純白の輝きが大地を覆い始める。
武者はまぶしさに目を細めながら、きりきりと弓を引き絞った。矢はなかったが、彼にはとっては射抜くべきものも放つべきものも厳然と存在していた。
びぃん!
南 無 阿 弥 陀 仏
びぃん!
南 無 阿 弥 陀 仏
びぃん!
南 無 阿 弥 陀 仏……
救いを求める白い筋がいくつもいくつも、払暁の空に描かれていく。
それは一直線に太陽を目指すものの、一つとして届くことなく、山嶺のあちらこちらへ落下しては霧のように拡散していった。
武者は諦めなかった。
自分が諦めてしまえば、それで終わりなのだ。
戦で散った両軍の武者達、戦によって苦しむ幾多の無辜の民、希望のない未来に生まれくる新しい命。そのすべてが呪いの影に覆われている。
誰も我々を救いはしない。
ならばこの手で救うしかない……!
魔を払う鳴絃の儀式さながらに、彼は仏に祈り続けた。我が願いを聞き入れ給え、大地にあまねく存在するすべての呪詛を解き放ち、この狂ってしまった世界から極楽浄土へ我らを導き給え、と。
日が昇れば弓を引き続け、
日が落ちるまで繰り返し矢を放ち、
夜になれば身を擦る冷気に耐えて念仏を唱えた。膝をつき己の身を抱いて、やがてくる旭日の光芒を待った。いつか太陽を貫いて、救世の道を造り苦楚を堪え忍ぶ無数の魂を大往生へと送り届けるために。彼を支えているのは狂気と執念だった。もはや体は生命としての限界を超えているにも関わらず、彼は山の頂に存在し続けた。そして彼の弓は、薄白き矢を放つたびに蒼き霊気をまとうようになっていった。
いかほどの時が流れただろう。
その日も叉、武者は東の空に夜明けを見つけた。骨をきしませ、髪のそげ落ちた頭皮を烈風に晒しながら、ゆっくりと立ち上がる。威風堂々とした体格もすっかり衰えているというのに、体の各所から流れ落ちる鮮血は熟した酸漿のように紅い。白い湯気が立ちこめて揺らめく陣羽織のようだ。般若の如き双眸だけは一時も衰えることなく爛々と輝いて、打ち抜くべき目標だけをしっかと睥睨していた。
たなびくような朝の山かつぎが風に吹かれて西南へと吹き流されていく。藍から橙へ、そして白へと緩やかなグラデーションを映し出す。遮るもののない天空の中央で、朝日がゆっくりと、しかし確実に昇ってくる。天の取り決めに従う軌道に沿って空を往く。
まぶしさに目を細める武者。
と、光輝の中に不思議なものを視た。
流れていくはずの雲が留まっている。
いや――小さな影がいた。
ひらひらと舞っているようでも、くるりくるりと舞い降りているようでもある。
それは武者の方に向かって来る。
彼は戦士の本能で感じ取った。
それが、自分を害しようとする者であるということを。戦場に身を置いた者にしか分からない直感だった。
影は次第に大きくなり、
まるで羽ばたく蝶の様相を呈して、
ゆっくりと、ゆっくりと音もなく、
武者の上空に滞空した。
逆光になってよく見えなかったが、それは間違いなく童子の形をしていた。
黒々と長い髪を揺らす巫女。
手には榊。目に見えない翼を持つかのように、中空に留まっている。その身に天女の羽衣のような光をまとっていた。彼女の周囲を二つの不思議な球体が円を描くように旋回している。
美しかった。
なにより、威厳を備えていた。
日輪よりの使いと称しても不遜ではないだろう。
武者は戦場において克服した筈の、本能からくる畏怖を思い出していた。狩りをする虎と出くわした獲物の感情。生き残るために切り捨てなければならない怯懦。しかし、それを認めるわけにはいかない。彼には成すべきことがあるのだ。たとえ相手が神であろうが悪鬼羅刹であろうが、妨げられてはいけない。
心を奮い立たせるように彼は名乗りを挙げ、それから叫んだ。
「我は無数の魂のため、すべての尊き命のためにこの事業成さねばならぬ。面妖なる者、そこに立ちはだかり我が責務を妨げるか!」
「……私は」
少女は呟いた。
高山の烈風を超えて、その涼やかなる……しかし憂えた声は彼の耳元にささやく。
「私はこれら東の山と森とを永きに渡り鎮護する定めの者です。貴方は怨念を背負うあまりに自らの存在を失い、ただただ現世と来世への妄執と相成っています」
「東だと? 血迷うたか! 我は西へ、浄土へと向かって旅してきたのだ。妄言を弄して我を誑かすかあやかしめ」
「いいえ、ここは東国の山の中。いにしえの強力な呪詛によってうつつと幻が入り交じった土地。貴方はこの地に染み込んだ人間の呪いに導かれてここまで来た。貴方と貴方を構成する人々の執念と引き合い、呼び寄せられていたのです」
「黙れ黙れ! この荒ぶる想い、人々の希望への願いを呪いとぬかすか! 神も仏も渺茫の彼方にあって我らの願いは届かぬ。ならばこの、八幡大菩薩の加護を受けた我が弓によって願い聞き届けて頂くより他ないのだ!」
「もはやそれは願いではなく、不断の呪詛としか形を成していない。貴方の放つ弓は怨嗟の魂。貴方は既に、人の形をした悪鬼そのものなのだから」
「黙れ!」
言葉とは裏腹に、武者は気圧されていた。
全身が総毛立つ。目の前の少女の神聖さに心が激しく炙られている。少女の声が決して敵意ではなく、哀惜と同情を含んでいるからなおさら。唾を飲み込み、踵に力が入る。自分が打ち倒した西国の武将達は、剣を失い討ち取られるその刹那、このような感情を抱いたていたのだろうか。
「そして、貴方の弓が天へ届くことは叶わない。すべての呪詛は地に落ち広がり、大地と人々の混乱は果てしなく続く。貴方は自分で自分の愛する世界を呪っているのです」
「………………黙れ」
目を背けたくなる衝動に必死で耐える。
優しき声が呼ぶ逡巡を打ち払う。
……駄目だ!
ここで自分が諦めてしまったら、自分が視てきたすべての世界で、すべての人々が苦しむことを容認してしまうことになる。この世界が呪われていると認めてしまうことになる。それが許されようか。神仏とはそれほどまでに冷酷非道なのか。地上の出来事など劫という時間に比べれば些末な刹那でしかないのか。人はそれほどまでに些少な存在でしかないのか。
空を舞う鳥たちだけが自由なのではない。
人の想いは、空を貫き、
やがて、
その向こうの呪福へと導かれるべきなのだ。
そこへ導けるのは、
そこへと弓を引けるのは、
自分しかないではないか――!
弓の根本を握りしめると、指の間から魂が零れだした。
絃を引き絞ると、軋む音が断末魔の呻きに聞こえた。
数え切れない回数、聞いてきた音。
人を引き裂きながら、人に幸福を望む。
そうして自分は弓を引く。
空に浮かぶ少女に向かって。
その声から狂気が抜けていた。
「……巫女殿の言い様、或いはもっともやもしれぬ。確かに我は人の呪いを背負って戦をし、旅してきた。だが、我が責務を捨てることは出来ぬ。よって我は天を貫く。我らが意志を天へ届かせるため、非情な世の理を打ち破り、魂に安らぎを届けんがため……我は呪詛を以て天を貫く!」
「それもまた、人の有り様ですか」
「それなくして人はない」
武者の瞳に蒼い炎が灯り、
諦念と共に巫女は瞳を閉じた。
――次の瞬間、
鬼は弓の緊張を解き放ち、
天女は榊を振り下ろした。
矢と二つの珠が行き違った。
……人鬼が消え去った後も、彼が使い続けた弓は邪悪な気を湛えたままその場に残っていた。呪が具現化したそれは、いかなる神具の霊力を以てしても清めることが出来なかった。それほどまでに武者は、世に満ちる呪詛を背負っていたのである。
空を飛ぶ不思議な巫女――博麗の巫女は呪われし武具の消去を諦め、霊峰の山頂に強力な結界を設置した。付近一帯は近寄ることはおろか垣間見ることすら出来なくなり、あたかも富士の山の如く死火山の様相を呈するようになった。山頂付近には雲が停滞し、寒風が常に吹き荒れるこの世の地獄と化したのである。
博麗の巫女は幻想郷風土記にこの出来事を書き留めたが、それはよくある人妖の交わりの一つでしかなく、ほどなく過去の大河へと押し流されることになった。もとよりこの土地は、人々が重要とみなす歴史など、容易には残りようのない世界なのだから。
ただその中でも、博麗の結界だけは機能し続けていった。ほどんどの者に知られることなく、ひっそりと。
決して果たされない願いと呪詛を孕んで。
それは幻想郷が成立する、遙か以前の物語。
────────────────────
そらは寝間着のままで、外を見ていた。
雑木林のなかにある小屋の二階。
住み慣れた二階の部屋の窓。
膝をついたままそこに寄りかかっている。
障子を開けた向こうに高く広い秋空があった。
目の前の森は赤や橙や黄色に色づき、道は枯れ葉によって覆われようとしていた。その極彩色に埋もれるように、博麗神社の屋根が見えた。
櫛によって整えられていない寝起きの髪を、冷気を帯びた風がなでる。一階よりも二階の方が寒いけれど、風は気持ちいい。そらはぼんやりとそう思う。
一階から物音がしない。
清弥はもう起きて、神社へ朝食の支度をしにいったのだろうか。彼は自分よりもずっと早起きだった。起こしてくれるのは嬉しかったが、なんだか恥ずかしい気もした。できれば一緒に起きたいけれど、気づくといつも清弥が隣にいる。今日は布団の中にはいないですんだようだけれど。
まだ、頭の中がぼんやりしている。
多分、また同じ夢を見たせいだ。
……暗闇の中に延々と続く水滴の音。
鼻をつく薫りの風、だだっ広い世界。
その中央に自分がいる……そんな夢。
自分がいないような、透き通ったような、けれど何かがぴったりとくっついたような、不可解な気持ちに陥る。
そこでいつも上を見ようとして、夢から醒める。ゆるゆるとわだかまる周囲の冷たい感触を押しのけながら引き上げられていくような、浮上感。見知った人の手の暖かさを感じるような気もする。
…………………。
全ては、幻。
夢の中のことを全てしっかり覚えている訳ではない。
けれど、夢を見る都度、あの世界が近づいている。そんな気がする。
確信はないのに、体の奥が怯えている。
目覚めた瞬間に少しだけ震えている。
そんな時、いつも清弥の顔がある。
だから、少し恥ずかしいけれど、いつも嬉しい。
今日は清弥がいなかった。
でも、いると信じている。
だから嬉しい。
清弥がいることが嬉しい。
「そらーっ」
……ほら、清弥の声がした。
林の中央を分かつ茶色の道を、清弥と霊夢がこちらに向かって歩いてくる。清弥が手を振っている。
「起きたか」
「そらさんはいっつもお寝坊さんね。寝て暮らして勤まる次世代型の巫女さんを目指すつもりかしら」
「そんないい方ないだろ」
「でも駄目よ、食欲の秋を上手くかわせない巫女は博麗神社においてはおけないわ。魔理沙の弾幕よりもよっぽど強力なの。蒸かし芋とか茸ご飯とかはルナティックね。焼き芋はありがちで独創性に欠けるわ。見た目も美しくないし、後始末も面倒だし」
「訳が分からない」
清弥同様にそらもよく分からなかったが、それでも分かることもある。
また、いつも通りの一日が始まる。
清弥がいて、霊夢がいて、また魔理沙も来るのだろう。他の訪問者だってあるかもしれない。
いつも通りのにぎやかな一日。
茫洋な夢のかけらなど、朝露のように消え去ってしまう一日が。
そらは階下に手を振り返して、無邪気に笑う。
「おはよう」
紅い秋風が吹き渡る。
山を紅く染めていく風が。
小屋の軒先には、境内から植え替えた背の高い向日葵が、いまだ見事に咲き誇っている。
登り来る陽を待つかのように背を伸ばして。
夏の頃の姿となんら変わることなく。
こんなにも、
こんなにも、
秋が深まっているというのに。
|