月下祭



 そして、十五夜がやってきた。
 とはいっても、博麗神社の様子が取り立てて変わるわけではない。夜空に皓々たる月を眺めながら、澄んだ酒をこくこくと飲み干す宴が続くだけだ……いつものように。これを祭とするのなら、普段の夜も祭だろう。
 永続的な祭、断続的な祭。
 妖怪は境界に潜むかもしれないが、妖怪自身は境界を必要としない。妖怪の存在に境界を見いだし、物事にあれこれと設定を押しつける、なんて面倒なことを好んでやるのは人間ぐらいなものである。博麗神社で神妙な祭事が行われているとばかり思い込んでいる人間達にとっては吃驚仰天だろうが、森の住人達が知ったことではない。
 この夜が唯一いつもと違うとすれば、華やかな月夜に相応しく、境内に押しかけた面子が通常よりも多少増えていることくらいであろう。
「あー霊夢、もう酒ないぞ」
「こちらにもないわよ」
「こっちもー」
「まったく、気の利かない巫女ね」
「そのとうりだぜ。咲夜にしては良いことをいう」
「そうよ、私はいつも完璧なの。種が見つからなければその手品が謎のままなのと同じようにね」
「それでも種は割れるから種なんだけどね」
「幽々子様、静かにしてくださいよ……」
「あんたら……」
 頭を抱える霊夢のまわりには、おおよそ見覚えのある連中が雁首を揃えていた。オールスター勢揃いといっても過言ではない。境内に敷かれた茣蓙の上にはもはや、礼儀や遠慮などひとかけらも残っていない。乱雑に喰らわれた団子は散乱し、卒塔婆のように銚子が林立し、脱ぎ捨てられた履き物は乱交めいて目も当てられない。当然ながら皆一様に顔を朱に染め、ふやけた表情を浮かべている。
「そこのメイド! 一緒になってくだを巻かずに適材適所を発揮しなさいって!」
「メイドといえど今日はお客。レミリア様と同じ待遇でなければ困りますわ」
「あら咲夜。あなたの夜は明日ではなくて? 満月の夜のわたしと同じように扱われるのはそれなりに大変なのよ?」
「仮にレミリア様が無敵ならば炊事も洗濯も掃除も無敵でしょう? 私はいらないではないですか」
「それらは敵なのかしら……」
「敵を知り己を知ることが勝利への近道だと、昔の偉い人もおっしゃっていますわ」
 空いた徳利をひっくり返してはぽたぽたと落ちる酒の滴を恨めしげに眺める十六夜咲夜の言葉には、説得力が甚だ欠けていた。
 その隣には、大きな徳利を抱いてこくりこくりと船を漕ぐ紅魔館の門番・紅美鈴がいる。彼女の膝の上には頬をうっすら赤らめたパチュリーが顔を埋めて寝息を立てていた。馴れない酒を勧められた哀れな犠牲者だ。美鈴の口から零れそうな涎が巨大図書館少女に危機をもたらしているが、それに気づくものはもはや誰一人としていない。
 宴席の隅っこでは、一際目立つ格好の二人組が酒を酌み交わしている。一人は鷹揚に、一人はこそこそと。何故目立つのかといえば、二人のまわりにふわふわと霊魂が飛び交っているから。一目瞭然である。
「もぅ、幽々子様は飲み過ぎですよ。それでなくても博麗霊夢に見つからないように忍び込んでるんですから、もうちょっと……」
「どこがどう過ぎているの? どこがリミットなのか教えてもらえるかしら、妖夢」
「顔が真っ赤じゃないですか!」
「顔の真っ赤な幽霊かもしれないじゃないの。貴女の目が月に毒されて赤くなっているだけよ。こんなに真っ赤にして」
「わた、わたしは全然酔ってませんよ」
「いや、貴女じゃなくて半身が真っ赤。まるで大きな鬼灯みたい」
「………………」
「まぁまぁ、妖夢も怒りっぽくならないで呑みなさい」
 盃を空けた妖夢が肩越しに後ろを見る。酔っぱらって更に険悪になった霊夢の視線と合致してしまって、慌てて首を引っ込めた。
「あわわ」
「それで妖夢、あの脳天気な巫女には見つかりそうなの?」
「今のところは大丈夫です、そろそろ限界ですけど……帰りましょうよ幽々子様ぁ」
「こんなに月が綺麗な日を逃すことはないわ。まるで誰かが独り占めしようと企みそうな、奇麗な月夜だもの。とっても勿体ないわ」
 白玉楼の君は、懐古に浸るような笑みを浮かべて、酒中に揺れる月を眺めている。その微笑は死者でありながら上代の姫そのままにたおやかだった。
 広がっていく酩酊に呆れながら、霊夢は持っていた徳利を呷り、ごくごくと音を立てた上、服の袖で口元を拭った。最初は少女らしく盃をちまちまと舐めていたのだが、人間酔っぱらってしまえばこんなものである。
「……宴会にしてしまうのは毎度のことかもしれないけれど、土産を持ってこないなんて不平等で理不尽よね。うちは酒蔵じゃないのよ? 狙うなら何でもある魔理沙の家か、大きさだけは一番のお嬢様の屋敷にいけばいいんだわ」
「うちが危険があぶないけれど、それでもいいなら歓迎するわよ、霊夢」と、レミリア。
「私は行かないから関係ないもの」
 霊夢がやり返せば、
「巫女のいない祭に何の意味があるの?」
「それはそうですね」
「幽霊だけの祭なんてつまんないわ。それを観る人がいないと」
「わたしわぁみえますぉ? 半人半霊ですからぁ」
 一斉に指摘されて面食らう巫女の前に、酒をなみなみと注がれた朱塗りの盃が差し出される。もちろん金髪とモノトーンの魔法使いの仕業だった。
「こいつらにしては正しいこというぜ。何処へ行っても四方八方から引っ張られるんだから、引っ張り返すのも楽しいだろ霊夢」
「………………もう!」
 霊夢は盃を半ば奪うように受け取ると、月の輝きに背を向けて一気に飲み干した。博麗大結界の外では許されざるべき行為だが、幻想郷の守護者が守るべき掟などこの世界には存在しない。巫女の飲みっぷりにまた、少女達の輪がどっと盛り上がる。
 ――そんならんちき騒ぎを、少し離れた場所から眺める二人がいた。
 本殿の階段には、薄が花瓶に生けられている。その下には奉書がしつらえられた三方が据えてあり、月見団子が九・四・二の順番でピラミッドを形成していた。
 その横に立つ、在原清弥と森近霖乃助。
「やれやれ。やっぱり僕がいてもいなくても一緒じゃないか。来るのではなかった」
「俺は霖乃助がいて助かった。あの中に巻き込まれたら、命がいくつあっても足りない」
「清弥も酒は結構いけるようだけど?」
「そういう意味じゃない。ありゃ魑魅魍魎で百鬼夜行じゃないか。まるで神域とは思えない」
「清弥が今更そんなことを気にしているとは思わなかったが」
「これでも正真正銘人間なんで、身の危険をひしひしと感じるんだよ」
 清弥の後を受けるかのように、背後で大樹に繋がれた神馬が小さくいなないた。ほら見たことかという視線を清弥が送ると、霖乃助は黙って肩を竦め、御猪口を傾けるのみ。
 もちろん、清弥の不満の理由はそれだけではない。いつもなら彼の側を決して離れないそらが、忙しく動き回っているせいだ。
 決して手際が良いとはいえないそらだったが、霊夢を始め一同が酔っぱらっているがために、宴の雑用を一手に受け持ってしまっている。やれ盃が汚れれば杯洗で洗い、やれ酒が足りなくなれば母屋にいって一所懸命探す(それでもないものはない)。おまけに運悪く誰かに捕まってはお相伴させられる。断る術をしらないそらは、盃を空けては見る間に増加する仕事をこなす。飲ませるべきでない相手と解っていて勧める泥酔者の悪癖は、幻想郷内外問わず全世界共通らしい。
 そらの様子をじっと見ている清弥に、霖乃助は呆れたような口調でいう。
「気になるならいってくればいいだろうに」
「俺が行くと何かのきっかけで喧嘩になる。どいつもこいつも気を許せる相手じゃないし……」
 相性の悪い奴、得体の知れない奴、なんだか寒気まで覚えてしまう奴もいる。
「……でも、喧嘩になるとそらが悲しむから。そらとも約束したし」
「なるほどな。殊勝な心がけというわけか」
「お前こそ、そこまでいうならこなけりゃよかったのに。お前があの店から出ることなんてないかと思ってたぞ」
「そういう訳でもない。知識を得、商品をしいれる為に自分で歩くこともあるさ。それに、これもまた商売人としての取引の一環なんだからな」
 うそぶくように呟く霖乃助に向かって、彼を神社に呼びつけた魔法使いが盃片手に寄ってきた。隣に立つ清弥を殊更に無視するように向き直り、
「香霖、姿が見えないと思ったらこんな所にいたのか。日陰に立ってたら酒もまずくなるぜ。一緒に呑もう、そらを紹介してやる」
「こんな月明かりの真下にいるのに日陰もないだろう。大体日陰という表現はおかしい。僕は理性的で常識的だからな、サバトに参加するにはまだまだ修行が足りないよ……それよりも魔理沙、約束の魔法具は持ってきたんだろうな」
「そういう無粋な話は宴が終わってからにしようぜ」
「酔い醒ましだといって闇夜の散歩と洒落た挙げ句、何処かの不幸な妖怪と一戦交えて閃光魔法をぶっ放したせいで、件の品を落としたかぶっ壊した――なんて弁解を延々と並べられて、手に入らなかったら大損だからな」
「いい案だが今回はやめておくぜ。それに酒宴に出ただけであれだけの物を手に入れられるんだから破格の取引だろ。ローリスク・ハイリターンの代償だと受け止めろよ。まったく、アリスの奴みたいなみみっちい考えは止めた方が大物だぜ」
「……早くも渡さないつもり満々だな」
 のらりくらりと言葉を繋ぐ魔理沙だったが、しばらくは香霖堂の店主を酒の肴にする心づもりらしい。清弥は彼の肩をポンと一つ叩くと、本殿の下を離れた。
 そのまま真っ直ぐ歩いて、母屋の屋根の下に腰を下ろす。
 霖乃助は迷惑そうにしながらも、魔理沙を邪険には扱っていない。彼の「取引」とやらにも邪魔になるだろうし……清弥はそう思って、二人から視線を外した。
 御猪口に少し残った酒には、まんまるの月が浮かんでいる。頭上の大きな月も、掌の中の小さな月も、同様に純白に輝いているのが奇妙だった。その光が、少女達の笑い声も、虫の囁きも、低く吹き渡る小さな風の囁きさえも鎮めてしまうような錯覚さえ覚える。
 口の中が寂しい。もう少し酒を注いでおくべきだったか。
「霊夢、お酒まだぁ?」
 清弥の気持ちを代弁するかのように、誰かが催促する。完全に投げやりになっている霊夢が渋々と立ち上がった。
「もう、仕方ないわね……ねぇそらさん、一緒に来て」
 お盆に何本ものお銚子を載せたそらが、霊夢と連れだってこちらに近づいてきた。
「あら清弥さん、こんな所で独りぼっち?」
「誰かさんがそらをこき使わなければ、一人じゃないんだけどな」
「ごめんなさい、今晩はずっと貸し切りみたいなの。今夜ぐらいそらさんがいて良かったなって思った日はないわよ、いままで」
「……清弥」
 悲しそうな表情をするそら。酒のせいで紅潮したそらの表情は幾分誇張されているようで、寂しさが彼女の美しさに華を添えているように感じられた。身贔屓かもしれないなと思いながら、清弥は笑いかける。
「大丈夫。宴が終わったらゆっくりしよう。忙しいんなら、手伝おうか?」
 それでも気丈に、首を横に振るそら。彼女も清弥の配慮を知っているから頑張っているのだ。
「……ありがと、清弥」
「少しはそらさんも甘えなさいよ……じゃ、清弥さんもお酒運ぶのぐらい手伝ってね。もう面倒くさいから隠してあるの全部持っていくわ」
「まだそんなにあるのかよ」
「妖怪が神社の酒を全部呑み干すなんて恥曝しな昔話を後世に残さないための自衛策よ」
「無駄っぽいけどな」
 清弥は残った酒を飲み干すと、霊夢とそらの後を追って歩き始めた。
 もう一度、天空の月と神社を見比べる。
 真っ白の、巨大な月。
 真っ白に染め上げられた神社。
 二階調になって彫り抜かれた月影。
 強力な月光の織りなす魔法。
 胸をきりきりと苛む孤独感は、そらが近くにいてさえ止もうとしない。
 確かに、
 確かにこれは――
 人には強すぎる光なのかもしれない。
 世にあまねく、全ての夜の中のあるじたる夜。幻想郷を包み込む夜。
 酒に酔わなければ越えることの出来ない、特別な夜だ。

────────────────────

 一ヶ月後――。


 再び望月の日がやってきた。十五夜ではなく、十三夜。森に紅葉の便りが届き、空気は冷気を帯びて時折人の肌を刺す。
 里の人々がそうであるように、博麗神社でも再度、月見の準備を始めた。もちろん神馬は里に返しに行ったし、特別な準備もほとんどない。霊夢がいうには迷惑な客もいない静かな祭だということらしい。清弥は大きな薪を切り出して篝火の準備をしながらその理由を霊夢に尋ねたが。
「あの妖怪達も、月見には博麗神社が一番とかいってなかったか?」
「里では片月見は不吉だっていわれなかった? 妖怪や幽霊が人間の真似をして験を担ぐ必要はないわよね」
「魔理沙や咲夜さんは人間だっていってたけど」
「特殊な、っていう枕詞を忘れてるわ」
「……確かに」
 前回と同じように本殿の三方に捧げられる団子は、たったの三つだけで正三角形を構成している。薄の代わりは実った稲穂。秋は豊かな季節なのだ。
 そうこうしているうちに日は暮れ、代わりにまんまるの月が昇り始めた。一ヶ月を経て圧倒的な月の力が復活し、夜を支配し始める。

      ☆

 湖の畔の紅魔館では、例によって数少ない窓が盛大に開け放たれていた。湖面からの冷気が強くなっているのもお嬢様の好みだったから、十六夜咲夜としては過ごしやすい季節になってくれて嬉しい限りである。もちろん彼女は完璧で瀟洒なメイドであるから、気候の変化に泣き言をいうなんて失態は決して犯さない。
「……咲夜、ここのカーテン」
「はいはい。もう既にお嬢様の好きな緋色にしておきましたよ」
「違うの。わたしはアレがいいの」
「またアレですか」
「そうアレ」
「そこまで形にこだわらなくても」
「満月にはアレが似合うのよ」
 お嬢様の我が儘には可愛い時と可愛くない時がある。可愛くない時に何か注進すると一層機嫌が悪くなる。そういうのに限ってお嬢様は自信満々だったりする。特に満月の日などは決して逆らうことが出来ない。そんな時、咲夜は自分がメイドなんだなとしみじみ実感する。
 隅々まで洗濯の行き届いたカーテンをさっさと外し、代わりに酷く薄汚れて赤なのか黒なのか判別不可能な布を取り付ける。ガイドレールに取り付ける金具がなければカーテンだということすら察することのできない代物だ。吊り下げてみると、大穴がいくつも開いていて、そこから白い月光が洩れてくる。
 どうせ地下の図書館で中途半端に仕入れた情報なのだろうが、この「即席古城化アイテム」をお嬢様はいたく気に入っていた。廃品利用はエコロジーなので咲夜としても全否定するつもりはないが、連綿と続く永き吸血鬼の歴史には汚点を残しているかもしれない。
「これでいいですか」
「ええ。フランはどうしているの?」
「お休みになっていらっしゃいますが」
「こんな満月の夜に寝るなんて吸血鬼の風上にもおけないわね。寝る子は育つといっても、これ以上成長して貰っては困るというのに」
 左右のカーテンは半ばまで閉ざされた。月光が窓枠を通して十字架の影を作り、揺り椅子に腰掛けるレミリアの額を白と黒に切り分ける。
 頭上には巨大な満月。
 白き支配者。
「白すぎますね。窓に赤いセロファンでも貼りましょうか、お嬢様」
「余計なことはしなくていいの。月を紅く染めるのはわたしなのだから……それに、今日の月はとりわけ良い月よ、咲夜」
「そうでしょうか」
「そうよ」
 レミリア・スカーレットの微笑がゆっくりと広がっていく。口元の端にほんの僅かだけ、鋭利な牙の先端が輝く……月に負けないように、白く妖艶に。
「これは――運命を照らす月だから」


 白玉楼。
 長い長い長い長い階段の上にある世界。
 死者が集いし、天空の都。
 成仏できない魂の住まう場所。
 揺らぎながら存在する幽雅な楼閣。
 ……生死の境界は本来自由に行き来してはならない定めだが、物には何事にも例外があるわけで、霊界の封印をあっけなく消し去ってしまう人間もいれば、顕界と冥界を自由に行き来できてしまう幽霊もいる。空想を昇華し続ける幻想郷の豊かさというべきか。
 そんな場所にも月は分け隔てなく昇る。
 冥界の月の方がより一層白いかもしれないならば、生ある風流人は嫉妬を覚えるのだろうか。確かに死後において花見も月見もできるのなら、現世を生きるのとたいした差異はないような気もしないでもないが……事実を知るためには実際に逝ってみないと解らないので、結局は何も解らない。
 そんな白玉楼の階段に腰掛けて、冥界の姫君たる西行寺幽々子は月を見上げていた。
「幽々子様、こんな所にいらっしゃったんですか」
 長大な二本の剣を提げて、幼さを残した少女が駆け寄ってくる。桜雲広がる厖大な冥界の苑を管理する庭師・魂魄妖夢だった。いまいち未完成なところもあるが、師匠譲りの剣術は最近風格を漂わせ始めていると、幽々子も感心していた。将来を感じさせるのはいいが、彼女は生まれつき半分が幽霊なので、成長の伸びしろも半分しかない。それに彼女自身が気づくのはいつなのだろう。
「お屋敷でもお月見はできますよ? そろそろ寒くなりますし、戻りませんか?」
「私の心配をしてくれているの、妖夢」
「幽々子様以外の方の心配をしているのですよ。またふらふらと彷徨いだして、寿命前の人間を満月パワーで呼んじゃうんだから……大体、なんで幽霊の心配をしないといけないんですか」
「変な風に伸びしろを使ってしまわないか心配だわ」
「何の話ですか?」
「いやいや」
 幽々子は月をじっと見つめる。
 この月は確かに美しいが、自分には何ももたらさない。亡霊となってしまった自分には、何も。
 ただ、この圧倒的な月光に魅了される人間は多いだろう。月は人を惑わす。自分の欲する人間が、自分の目の前で手中からすり抜けてしまうとしたら……それは悲しいことだ。そして、幽霊となった自分に悲哀を甘んじて受ける人間的な情緒は残っていない。
 取りだした扇子を開き、口元を隠す。
 まるで見られてはいけない笑みを隠すかのように。
「……妖夢。あなたは私の望む物を斬ってくれるのかしら?」
 一瞬怪訝な顔をした妖夢だったが、一瞬の後には双刀の柄を握り直していた。
 妖夢にも自負がある。
 自分は未熟だが、
 自分はそのために存在している。
 自分は、幽々子様のお世話を任されている。
「――もちろんです、幽々子様」
「たとえそれが、若き命の炎であっても?」
「気は進みませんが、真に御命とあらば」
「たとえそれが、一度は切れなかった紅白の蝶だとしても?」
「我が刃にて僅かに入ったひびを二度と見逃すことはありません」
「たとえそれが、悲しき古の定めであっても?」
「歴史の輪の向こう側から全てを断てるのは、彼岸を越えて存在する者だけですから」
「ではあなたを信じるわ、妖夢」
「任せて下さい。私は幽々子様の刃ですから」
 そして妖夢は、厳しくなった表情を改めた。
「……でも、そんなにくどい幽々子様は、初めてかもしれませんね」
「月光を浴びてふわふわ分が消し飛んだからかしら」
「ではずっとそのままでいて下さいね」
「その代わりドロドロ分が増えそうよ、お化けらしいでしょ。ひゅーどろどろどろ」
「なんだかベタベタですね……」
 そっと瞳を閉じた幽々子が、胸の前で手を組み……それをそっと月へ差し上げる。
 その中には光を纏った一頭の幻蝶。
 幽々子の手を離れ、白き魔力を受けて夜空を舞う。
 ――今は、まだいいわ。
 この手の中に還るその日まで、無限の空を舞うといい。
 ただ、この手からは逃れられない。
 死という掌からは、決して。
 それをゆめゆめ忘れないように――美しき若き強き、そして脆き少年よ。


 ――梟の鳴き声に足を止め、振り返る。
「……やっぱ霊夢の所に行くべきだったかもな」
 魔法の森の道筋を辿る、霧雨魔理沙。
 歩みを止めて木陰の向こうの巨大な満月を睨んでいたが、しばらくすると月に背を向け、再び歩みを再開した。
 霊夢に来ないようにと諭されていたが、来るなということは来いということだ。来いということは恋ということでもある。このところ自室に籠もって魔法研究に打ち込む日々が続いていたから、冷やかしにいくのも悪くはないだろう。手に持った箒にまたがれば、数分と掛からずに神社の鳥居を飛び越えて乱入できる距離だ。
 ただ。
 今は昔ほど気楽に博麗神社を訪れなくなっていた。研究が一つの山場にさしかかっていたこともあったが、もちろん神社に居座ってしまった二人の居候の存在を考えずにはいられなかったからだ。
 そらを構うのは面白かったし、清弥を適当にからかうのも悪くはない。ただ、二人がいつも真剣なのが気に入らなかった。正確には、二人の繋がりが真剣そのもので、幾分気圧されてしまうのだ。その分、自分は無理をして振る舞わなくてはならない。努力をするのは嫌いではなかったが、多少なりと自分の感情にまで負荷を掛けるのを魔理沙が好むわけはなかった。
 魔理沙自身でさえ、それに驚いているのだから。それなりの時間を生きてきて、彼女が初めて体験する感情だった。
「……まったく、月が綺麗すぎて妖怪の一つも出やがらねぇぜ。里で大暴れしてても私の責任じゃないからな」
 悪態をつく。
 呼応するように、森に鳥の羽音が響く。
 さっきの梟だろうか。
 ペキン、
 靴が枯れ枝を踏みしだく。冷たい風が頬を撫でて、酒も入っていないのに林檎のように染め上げる。魔理沙の苦手な季節が再び訪れようとしていた。彼女は寒いのがからきし苦手だった。自前の暖房魔法の腕前を再確認する必要を思い出して、顔をしかめる。
 やがて月夜の黒魔法少女が、黒い帽子のつばを上げた。
 森の影が切れようかという場所に、一軒の店が建っている。かろうじて闇に飲み込まれずに済んでいるのは、窓から洩れる光のせいだ。外の世界のテクノロジーを勝手に解釈して使っている、炎以外の人工光。
「奴には蛍雪の功ってな言葉は眼中にないんだろうぜ。こんなに月も明るいっていうのに」
 つかつかと戸口の前に行き、扉を強い調子で叩いた。
「よう香霖、呼ばれてないけど来てやったぜ」
「……鍵はしないって知っているだろう。お前はお客じゃないから門前払いもできるんだがな」
「今夜は月が綺麗だから、茶の一杯でも淹れてやるぜ」
「どうせうちのお茶だろうけど」
 呆れた口調の店主ははなから諦めているらしい。魔理沙はドアノブに手を掛け、
 ……一瞬だけ、もう一度だけ神社行きを逡巡してから、
 それから、ノブをひねった。
 ドアベルの音と共に、ライムイエローの光が月の魔力に逆らって夜を照らした。典型的な魔法使いのシルエットを地面に描き出したそれは、ドアが閉まると同時に再び、闇の世界に溶け込んでいった。


 一方、同じ魔法の森の奥深くにて。
 自分の小屋に閉じ籠もったアリス・マーガトロイドは、普段の夜がそうであるように、今夜もまた人形作りに精を出していた。月の魔力が溢れる日は、自分の魔力もまた満ち足りる気がする。そんな日に人形を作らずにいつ作るというのだろう。
 細かく針を貫いては、糸を通していく。
 その繰り返しが夜を紡ぐ。
 天球を白道に沿って進む月のように正確に。


 人形を作ることは、自分を作ること。
 人形を作ることは、誰かを呪うこと。
 人形を作ることは、欲望を満たすこと。


 打ち寄せる波のように、繰り返し繰り返し続く運針が、手を足を身体を頭を形作っていく。それは神の御業の邪悪な模倣でもある。
 ――脳裏には、あの祭の夜が浮かび上がる。
 大きな傘を構えて立つ謎の少女。
 追いつめたつもりだったが、仕留めることは出来なかった。こちらも無傷とはいかなかった。そしてあれ以来、彼女の姿を捉えたことはない。人里には現れていないようだったが、それほど広大でもない幻想郷で完全に足取りを消すのもまた難しいはずだった。あの少女は幻想郷にあってなお異質だったから。
 それがなにがと問われれば、自分にも説明できなかったが。
 フレアスカートの模様に精緻を籠めていた所で、一旦手を休め、窓の外を見る。
 真っ白い月が流し込む光が、窓を白く切り取っていた。室内に明かりは灯していない。この人形はアリスによって形作られ、月光に抱かれて生まれるのだ。彼女は祝福されるのだろうか。彼女は呪われているのだろうか。


 人形を作ることは、支配すること。
 人形を作ることは、束縛すること。
 人形を作ることは、魂を削ること。


 誰もいない場所で呟かれる呪詛は、一体誰に向けられているのだろう。
 思い出す。いつか霊夢の部屋で見たあの仏蘭西人形。二年前か、もっとずっと前だったか、それともこの春だったろうか。最近とみに人形とばかり暮らしているから、時間感覚が狂っている。だけど、狂っているのはそれだけだろうか? あの霊夢の人形が、この部屋に無数にある人形よりも魅力的に、記憶の中でワルツを踊る。誕生寸前の手中の人形が急にみすぼらしく思えてくる。
 長い間、誰にも会っていない気がする。
 人間に限らず、妖怪にも。里に紛れ込むことはあっても、目的を持って人と対面することはない。香霖堂を訪れたのが最後だろうか?
 別に、それは構わない。
 構わない。全く不自由はない。
 自分の魔力を高め、
 欲しいものを蒐集する。
 そうやって自分の時間を過ごしてきた。
 これからもそうだろう。
 さしあたって今はこの人形を作り上げて、
 あの少年と傘の少女を探し出して、
 見つけ出して……。
 それから、どうするのだろう。
 いや、別にどうもしない。
 面白いことが始まるなら、それでいい。
 それだけ。
 ――だとしたら、この気持ちは何だろう。
 人形達に囲まれていても依然としてただ独りのままの、この気持ちは。
 あるいは、あまりにも白いこの月の色は、
 魔力を与えるだけでなく、
 妖怪の心にさえも狂気を植え付けるというのだろうか。
 ……再び針を動かそうとして、動かせない人形師の時間は止まったまま。
 もう少し。
 もう少しの間だけ。

      ☆

「そら、準備できたよ」
 清弥が中に向かって声を掛ける。
 二人が暮らす小屋の前。
 茣蓙の上に座布団を敷いて、冷たくならないようにする。夜気はかなり寒い。そのせいか、月は一層冴えているかもしれない。
 階段を降りてきたそらは、いつもの服の上に打掛を羽織っていた。艶を帯びた長い髪が夜風に流れる。月の光に少し目を細めながら、土間を抜け、清弥の隣に腰を下ろした。
「……寒いか? 酒、あった方がよかった?」
 首をふるそら。何処か困ったような微笑みを浮かべた。
「ま、酒はこのあいだの月見でしこたま飲んだものな」
「うん」
「俺も気がついたら、結構飲んじゃってたもんなぁ。里から補充分を持って帰るの大変だったよ」
 あの夜は散々だった。月が沈んでも阿鼻叫喚の宴は止むことなく、神社中の酒を飲み干した挙げ句に、少女達はばたばたと眠り込んだのだった。寝ている間に素戔嗚尊に首を落とされても文句はいえまい。呆れた森近霖乃助がいつの間にかいなくなっていたのは英断といえた。
 あの光景を思い出して、そらが笑う。
 つられて清弥も笑う。苦笑になってしまう。
 そんな、月夜。
 一ヶ月前にこういう風に過ごしたかった、でも過ごせなかった時間。いまはただ二人、白と黒の世界に包まれている。
「…………霊夢は?」
「仕事があるんだって。篝火に火を付けてきたんだけど、何の準備をしてたかまでは確認してこなかった」
「そう」
「呼んできた方が良かった?」
 そらは少し考えて、
「清弥がいるから、いい」
「…………そうか。ま、独りに飽きたらこっちに来るかもしれないしな」
「うん」
 二人は自然と、月を見上げた。
 少したりとも欠けることのない満月。
 人や動物や植物や、そして妖怪に何千年も何万年も力を与えてきた光。太陽と対になる巨大な力。
 沈黙が辺りを支配する。普段は夜を彩る蟋蟀や鈴虫の声さえ遠くに控えている。声を出すのも憚られるように、静かに息をする清弥。月光が、まるで呼吸をしていない人形のような、そらの輪郭を描き出している。
 沈黙。
 それは苦痛ではなく、
 近くに自分の望む人がいる、
 ただそれだけのことが与えてくれる安らぎ、
 それゆえの沈黙。
 そらの衣類が、清弥の手の甲に当たる距離。
 僅かな風に流された吐息が、相手の頬を暖めるかもしれない距離。
 ――最初に出会った時、少年は少女に弓を向けていた。
 最初に触れあった時、片方は妖怪から逃れるために一所懸命に手を引き、もう片方はされるがままになっていた。
 少女が少年を望んだ時、この場所に……博麗神社に辿り着いた。
 あれから数ヶ月。
 他の人や妖怪との出会いや経験を越えて、二人の距離は今、最も近くなっていた。それまでは一年以上も森の中で孤独と暮らしていたというのに、清弥は今、そらがいない日常など想像すらできない。この圧倒的な月の魔力にも断ち切れない不可視の絆が、清弥とそらの間の十五センチを繋いでいる。
 前回と同じ満月のはずなのに、その色は幾分優しく見えさえしていた。
 そういえば、月には兎が住んでいるという。
 月の住人は、今こうして月を見上げる自分達を想像しながら、こちらの世界を眺めているのだろうか。自分達と同じように、大切な人を傍らに置いて。
「清弥」
 そらの呼びかけに、清弥は視線を降ろす。
 彼女は懐から小さな横笛を取り出した。
「吹いて」
「わかった」
 小首を傾げて微笑むそらからゆっくりと受け取る。唇に当てる。馴染み深い感触。
 昔は自分のためだった調べ。
 今はただ、そらのために奏でる。
 ゆっくりと、
 ゆっくりと、息を吹き入れる――


 薪がぱちぱちと燃える。
 時折燃え落ちた木が折れ、火の粉がパッと上がる。
 その乾いた音に、いずこからともなく笛の音が響いてきた。まるで竹の囁くような、まるで鍾乳洞に響く水滴のような、そんな響き。
 博麗神社、境内。
 二つの篝火の中央で、白き薄衣と紅き袴を纏った博麗霊夢が、ゆっくりと手を延べ、足を踏み出す――まるで、在原清弥の演奏を待っていたかのように。
 右手には五十鈴、左手には扇。
 風になびく蘆のように、
 清水を流れる紅葉のように、
 二つの篝火の中央でゆっくりと舞う。
 瞳はほとんど開いていない。
 正面には鳥居、その上には望月。
 月へ捧げる奉納の舞い。
 幻想郷を守護する秘密の祭。
 幻想に力を給う月へ祈るかのように、
 博麗の巫女は静かに舞う。
 歴史は夜に作られるのかもしれないが、
 幻想は夜に昇華する。
 さまざまな空想が人の気づかぬ間に幻想へと流転する。
 その瞬間を見届けるのが月であり、
 その瞬間を導くのが博麗の巫女だ。
 笛の音が、霊夢の手や足に操り糸を結わえているかのように呼応する。
 呼んでいるのは霊夢なのか、
 笛なのかすら定かではなく、ただ、
 ゆっくりと、
 ゆっくりと、
 霊夢は舞う。
 まるで紅白の蝶が、現実世界と幻想郷の境界に羽を休めるかのように、
 ゆっくりと、
 …………ゆっくりと。


 笛を吹き鳴らしていた清弥が目を開ける。
 そらはいつの間にか瞳を閉じ、自分を抱くようにして縮こまってきていた。
「…………そら?」
 怪訝な表情を浮かべる清弥。
 苦しいわけではなさそうだった。でも、身じろぎもしないのはおかしい。
「そら? 寒いのか? 大丈夫か?」
 そらは強く首を振る。でも顔を上げない。
 清弥は笛を取り落とした。
 こんな兆候は初めてだった。清弥の顔から血の気が引き、慌ててそらの肩を抱いた。
「外に長く居すぎたんだ。早く中に入ろ……」
 そういって、ふと周囲を見る。
 蒼い燐光がふわり、と飛んだ。
 ………………蛍?
 いや、違う。蛍の光より冴えて、もっと蒼い光。それが一つ、二つ……見る間に増え、自分達を取り囲んでいる。
 そこで、悟った。
 光っているのは周囲ではない。
 そらが、
 そら自身が、蒼く淡く輝いているのだ。
 月光に波長を合わせて、強くなったり、弱くなったりしながら。
「そら…………」
 驚きで声のでない清弥の首に、そらが瞳を閉じたまま手を回してくる。
「清弥」
 冷たく温かい手。肌の温度が光の波長と同調しているようだ。飛び交う燐光もまた、一定間隔で強弱を織り交ぜて――
 風が、
 清弥とそらを中心にして風が巻き起こる。
 そのままゆっくりと、
 無音のまま、
 そらの身体が浮かび上がっていく。
 清弥は逡巡なく、そらの身体を抱きしめた。
 やがて清弥の足も、
 踵が、
 爪先が……地表を離れる。
 何かに引っ張られる感じではなく、
 二人が立った小船が浮かび上がっていくような、そんな感触だった。
 ゆっくりと、しかし見る間に、二人は闇夜の空へと登っていく。月へと目指して登っていく。
 自分達の暮らす小さな小屋が、
 そこを取り巻く鬱蒼たる森が、
 篝火揺れる博麗神社が……どんどん小さくなる。
 対して月は大きくなる一方。
 月面の白い場所と黒いくぼみがはっきりと確認できる。このままいけば月に墜落してしまわないだろうか……そんな錯覚まで覚えてしまう。
 二人は天高く登っていく。
 誰にも遮られることなく。


 在原清弥は上空の強い風に目を細めた。
 起きていること自体に不思議と恐怖は感じなかった。
 抱きしめる温もりが全てを包み込む。
 疑念はあった。邂逅からこの方、ずっと。
 ただ、目を瞑っていただけ。
 ――そらは、人間ではないのかもしれない。
 里を出て以来欠けていた他者との関係を、この満月のように満ち足りたものにしてくれた、そら。彼女はもしかしたら、自分とは違う世界の存在なのかもしれない。
 人妖の境界がやがて立ちはだかり、別離の定めが待ち受けているのかもしれない。
 だけど、
 それでも、


 そらと呼ばれる少女は、少年の暖かさを抱きしめていた。
 月を眺めていたら、笛の音に身体を委ねていたら、躯の奥から何かが湧き出してくるような止めどない感覚が溢れて――
 ……気づいたら、自分達は夜空にいた。
 清弥は自分に疑念を抱くだろうか。
 私もしらない、私の真実について。
 私は私について何も知らない。
 でも、私は一つだけ清弥に隠している。
 自分に与えられた名前があることを、
 私が「そら」ではないことを、隠している。
 それを思うと、こころが疼く。
 だけど、
 それでも、


「そら」
 少年は呼びかける。
「……清弥」
 少女は答える。
 二人は互いの温もりだけを信じた。二人なら、一切の疑念と嘘と罪を越えられるはずと信じた。
 それがどんなに脆く細い糸かもしらずに。
 それがどんなに過酷な運命を招くかもしらずに。
 だから、二人はお互いを強く抱く。
 見つめ合う。
 月の描き出す陰影の中で。
 月光に輝く片方の瞳に喜びを浮かべて、
 月影に沈むもう一方の瞳に不安を隠して。 蒼く輝く光に彩られながら、二人は星空の世界へと登っていく。
「………………そら」
 少年が少女を促す。
 二人は世界を見下ろす。
 幻想郷の黒々とした森。そこに幾筋も走る光の道。
 月光が輝かせる龍脈。
 月光によって活性化された精霊達。
 幻想郷の幻想そのもの。
 視線はその先へと延びていく。
 森を越え、湖を越え、山脈を越え――
 その向こうに、様々な光が見える。
 ぴかぴかと明滅する光、
 立ち並ぶ巨大な光のモニュメント、
 地面を這う白と赤の光の列。
 まるで地上の銀河、天の川。
 ……さらに、その先。
 月を映すような蒼き瞬きが地に広がる。
 夜空を映し込む鏡のような世界。
 あれは何処かで見たような気がしたけれど、
 幻想郷の何処にも無い世界だ。
 あれはいったい何なのだろう。
 自分達はあそこまで行けるのだろうか?
 ……いや。
 自分達なら行ける、
 多分、きっと。
 二人は手に力を籠めた。
 決して離れないように、
 決して離さないように。
 ――二人に妖しい力を与え続けるかのように、月はなお一層白くなりながら、天に掛かっている。


 博麗神社、境内。
 二つの篝火の中央で、白き薄衣と紅き袴を纏った博麗霊夢が舞い続ける。
 演奏者がいなくなった今も、笛の音は静かに流れ続けている。
 右手には五十鈴、左手には扇。
 風になびく蘆のように、
 湖面に浮かぶ蓮の花のように、
 二つの篝火の中央でゆっくりと舞う。
 瞳は柔らかく閉じている。
 正面には鳥居、その上には望月。
 月へ捧げる奉納の舞い。
 幻想郷を守護する秘密の祭。
 博麗の巫女は静かに舞う。
 ゆっくりと、
 ゆっくりと、
 霊夢は舞う。
 まるで紅白の蝶が、すべての事象を幻想郷に引き寄せるかのように、
 ゆっくりと、
 …………ゆっくりと。

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 幻想郷の片隅。
 何処ともしれぬ崖の先端。
 白き満月を見上げる者が、ここにもいた。
 博麗神社の居候と同じ顔を持つ少女。
 雨も降らぬというのに、背負った傘は開いたまま。その陰に何を隠すのだろう。
 その目は何を愉しむのか、細く笑っていた。
 何を探しているのか、
 何かを待っているのか、
 何を求めているのか。
 閉ざされた口はいまだ何も語らず、
 ――ただじっと、月を眺めている。