魔法の森の奥深く。
瘴気に阻まれ、人が立ち入ること叶わない、深い深い闇の集積地。木々が邪悪な意志を持ち、十年二十年と大地に覆い被さっているため、いかに夏日がじりじりと大気を焦がそうとも、そこに恵みをもたらすことは不可能だった。
地表全てが深く苔生した、異形の世界。
そんな空間に、アリス・マーガトロイドの小屋は建っている。
「…………Nihil sub sole novum. 」
薄暗い部屋の中心で、秘密の言葉が灯る。
ぽぅっと浮かび上がる、魔導書のルーン文字。それが、四方の壁によって区切られた世界をほのかに浮かび上がらせる。
人形。棚という棚、床という床に詰め込まれた、人の形の模型。それは陶器製であり、藁製であり、布製であり、あるいはかつて生物の骨格を成していたカルシウムであったりする。蒼い瞳の人形、腕や首がもげた人形、天井から吊り下げられた人形。製作途中の物、その過程で製作者の愛情を失った愚か者もいる。
魔導書に翳された掌がゆっくりと動くと、光がやや強くなり、スポットライトのように部屋の中央を照らし出す。
食卓の上で乱雑に投げ出されていた二つの人形が、突然繰り糸を引かれたようにひょこっと立ち上がる。ほぼ同じ背丈の人形。
一つは少年の人形。きりきりきりと弓を構える。
もう一つは少女の人形。真っ白な髪で真っ白なドレスを纏い、髪に隠れた顔は天を向く。
不思議なことに、少女人形が立つ場所から、滾々と水が溢れ始めた。それは少年の人形を濡らし食卓の隅を越え、柱を伝って床を浸していく。
少年の人形は動けない。
少女の人形は動かない。
ただ、湧き上がる水だけが静かに染み渡っていく。
魔導書に翳された手が、ぴくっと震える。
……香霖堂で掠め取ったあの少年の記憶を再現する、仮初めの劇場。浮かび上がった新たな一幕。その唯一の観客の視線は、悦楽と落胆の狭間を漂う。
人形は、人の真似をするけれど、
人形は、人の心を語らないからだ。
人形とつき合い馴れた人形師だからこそ、既知の事実に少しだけ……少しだけ、いらだたしくなることもある。
人形の瞳はずっと、同じ光しか浮かべない。
────────────────────
「これでどうだ!」
「あたらねぇぜ」
地上から打ち上げられた矢が残像の尾を引いて、箒に乗った黒い影を目指して飛ぶ。が、敵の姿は溶けるように消え、必中の一撃は虚空に飛び去る。反対に木々の隙間を縫って帚星のエチュードが無数に降り注ぐ。陽光をプリズムに分解しながら、くるくると回転しながら、様々な曲線を描き木立を抜けて、一斉に清弥を追いかけてくる五角形――
「くそっ」
清弥は並び立った二つの幹をジグザクに蹴り登ってその弾幕を避ける。張り出した枝に体重を掛けると、折れそうなくらいしなって……その反動を利用して、枝々を次々と飛びすさる。高度は見る間に増加する。空を飛ぶ力を持たない清弥にとってこの高さからの落下は致命的だが、それでも彼は全く臆さない。生き抜くために鍛え抜かれた身軽さだった。
幹に吸い付くように立ち、素早く判断して、
「……後ろか!」
振り向きざま放った矢は、猛然と迫る黒い影に当たる……と思った瞬間、目の前が緑色の魔法弾で一杯になる。
「うわっとっとっとっとっ!」
身体をひねって直撃を免れる。音塊とも表すべき衝撃が髪や着衣をかすめる。
「空が飛べない割によくやるな」
「空が飛べるくせに大したことないな」
「大したことあるようにしてやるぜ」
虚空に浮かんで挑発の笑みを浮かべるのは、典型的黒魔法少女を自認する霧雨魔理沙。人物としての好き嫌いはどうあれ、清弥も実力は認めている。相手にとって不足はない。
両者は各々の得物を手に、再び攻撃態勢を取る。
――両者が対峙する森の下。樹々の隙間の青空を眩しそうに見上げて、不安そうに見つめている、そらが立っている。
☆
巡る因果は星の数というが、阿僧祇の偶然を越えて果たした出会いが良縁ばかりという訳ではもちろんない。とりわけ、在原清弥と霧雨魔理沙の間に横たわる悪しき因縁は、さぞかし根深いものなのだと容易に想像できる。
「なんだよまたお前かよ! そらのまわりを彷徨くなっていってるだろ。このクソ暑いのに真っ黒な格好しやがって……魔法使いって人種はどこか頭の作りが間違ってるんじゃないのか?」
「よくいうぜこの居候の甲斐性なしのトントンチキが。燕雀いづくんぞ鴻鵠の志をしらんやってな、私がそらに一から十までいろいろと教えてやってるのも、魔法使いが伝統的にこういう格好しているのも、お前にゃ永久に理解できないんだよ。カレーライスとライスカレーの区別も付かないような奴に何を言っても無駄だぜ」
「それ、どっちがどう違うの? 魔理沙」
「粒あんとこしあんぐらいには違うな」
「そうかしら」
「どっちでもいいんだよそんなこと」
今回の喧嘩だって発端が何だったかはもう忘れ去られている。魔理沙はわざと清弥を怒らせて喜んでいるフシがあるので、その辺り作為的だと清弥も分かるのだが、どうにも我慢出来ない。
ただ、いつも間に立って口論を聞かされるそらとしては、哀しくなるばかりだった。清弥はもちろんのこと、何かとかまってくれる魔理沙が嫌いではなかったから。
で。
その日の昼下がりに、木陰を辿りながら神社の階段の草抜きをしている霊夢の側に、長い影が立つことと相成った。
「……霊夢」
「あら、珍しいわね。そらさんから私にお話なんて」
小さく頷いてから、
「清弥と、魔理沙がケンカしないようにするのはどうしたらいい?」
「あ。あー。……最近どーも自分の立ち位置を見失って、しっくりこないなぁと思っていたんだけれど。その原因が、今唐突に分かったわ」
「?」
「清弥さんとそらさんが来てから、私なんだか我が儘を言っていない気がするのよね。どうして私がケンカの仲直りを取り持ったり、こんなに真面目に神社のお仕事をしてるのって。これってやっぱり私らしくないと思うの」
「………………」
「そらさんが悪い訳じゃないし、私も楽しくない訳じゃないんだけどね。でも、ワンテンポ遅れて考えなきゃいけないのって、私には似合わないわ。そう思わない? そらさん」
「………………………」
「そんな泣きそうな顔しないでよ。玉葱の微塵切りを教えてあげた時以来の顔よ、それ」
強力な妖怪と弾幕で戯れ、時にはあらゆる境界を越えて神遊びに興じる博麗の巫女も、泣き出しそうな真剣さでお願いされるなど、確かに前代未聞であろう。泥に汚れた手で、霊夢はぽりぽりと頭を掻いた。
「まったく」
数日後、霊夢の取りなしによって和解の茶会が執り行われることになった。当の二人にとっては、しどろもどろなそらの願いを汲むこと以上に、青筋を浮かべた霊夢に恐れを成したといった方が正しいのかもしれないが。
ただ、霊夢としても想定外だったのは、森の小径を歩く面々の数が予定より多くなってしまっていることだ。
「れいむー」
「くっつかないでよ。暑い。むせる。頭に血がのぼる」
「そうですよお嬢様。こんな奴は茹だってしまう前にさっさと血を吸って、その辺にほっぽって行きましょうよ」
「私はジュウス瓶なのね」
「激しく振ったら泡が飛び出したりしてな」
「魔理沙?」
「絞ったら蓬汁になりそうだけど」
「清弥さん?」
なんでまた同じ役回りをしてるの……と、ぶつぶつ喋る霊夢を先頭に、吸血鬼レミリアとその従者の十六夜咲夜、そしてそらを挟んで魔理沙と清弥。魔理沙は勝手に香霖堂の店主まで誘ったらしいが、
「あの人滅多に店から動かないから無駄よ。だれもよばない、よばれていない、よんでもこない、ってね」
「おかしいぜ。霊夢が珍しい物品発掘した現場だぞって念を押したのにな」
「気づいてる? 魔理沙の嘘って結構バレバレよ」
「霊夢は発掘調査なんかしないだろ……」
「どこぞの狩人は自分の仕掛けた罠にはまって化石になった挙げ句、数千年後の考古学者を狂喜乱舞させそうだけどな」
悪意ある視線がばちばちと絡み合う中央で、そらは相変わらず困惑しきった表情を浮かべている。
「あれ? そういえばパチュリーも来るって話じゃなかったっけ? どっかで落としてきたんじゃないの?」
「霊夢達が歩いていくって話したら、一人で飛んでいくからって。パチェは貧血で貧弱なのよ。わたしもだけど」
「日中に出てくるのだけでも奇跡的だけどね……それよりもそこの時間メイド。あんたいつになったらウチのお風呂直しに来るのよ」
「そうね。時間がある時に」
「うわすごい嫌味。無駄に止められるぐらいあるんだからすぐにしなさいって。今日できることを明日に延ばすのはメイド失格よ」
日傘を持ったメイド長は、その影に入った紅魔館の主人と目を見合わせ、微笑を浮かべる。
「でも、さっき博麗神社を覗いたら、屋根はないけど立派なお風呂あったじゃない。あれで十分でしょ。ねぇお嬢様」
「そうね。趣味ではないけれどちょっと面白そうだったわ」
「なによその態度は。あれは、いつまでもお風呂に入れないんじゃ困るから、霖乃助さんに貸してもらっただけよ」
霖乃助が持ってきたのは、人が一人入れるぐらいの大きさの鉄製の円筒で、中はがらんどうだった。なんでも、外界ではこれに水を注いで野外で風呂にすると、「自然」を「満喫」できるという触れ込みで大評判らしい。「自然」ってのもよく分からないし、得体の知れないものを満喫するより先に心細さが先行してしまうこと、またなんだかやたら錆が浮いていたり、油くさかったりするので、博麗神社ゆかりの女性陣には甚だ不評だった。
「どれくらい不便か、一度使ってみればいいんだわ」
「やめといた方がいいぜ、神社はいつの間にか男子禁制じゃなくなってるしな」
「どういう意味だよそれ!」
「……清弥ぁ」
「そこケンカするなっていってるでしょ!」
その後、霊夢の一喝によってパーティは古いRPGの隊列のような不自然な一列縦隊に編成された。先頭が魔法使い、しんがりに狩人、そしてそらは中央に配置された。
霊夢が額に手を当てると、ニンマリ笑ったレミリアがその耳元に囁く。
「疲れる……」
「悪い血を吸ってあげようか? 元気になれるわよ」
「あのケンカっ早い二人の血を減らしてよ、頼むから」
「わたしは美食家なのよ」
「………………」
霊夢が一行を案内したのは、クロロフィルと光輝の柱廊、と表現すべき場所だった。
「おー。私もここ、初めてだぜ」
「今まで誰にも教えてなかったんだから当然でしょ」
年月が刻んだ樹高数十メートルの木々。それらがおよそ等間隔で並んでいるが、互いの枝が触れあうのを遠慮するかのように成長したためか、幾分和らいだ日光が森の中に多量に降り注いでいる。明と暗が混在する場所。眩しくもないが、妖怪を引き寄せる闇もまた、ここには存在しない。
緑の天井から、幹伝いに視界を降ろしていくと、根を張った大地のあちらこちらに、蛇行した小川がいくつも筋を作っている。全体が湿地になっているわけではなく、陸と水との境界線はくっきりと分かたれている。この場所がこんなにも明るいのは、流れ込んだ光を水面の大蛇が幾重にも反射しているという理由もあった。
ひんやりと涼しい空気が足下にからみつく。苔ではなく、背の低い芝が敷き詰められたいくつもの島。酷暑を忘れるには文句なしのリゾートといえた。
「おかしい」
咲夜達が早速茶会の準備を始めると、魔理沙がなにやら顎に手を当てて考え込んでいる。
「なんかあったの、魔理沙」
「こんないい場所を霊夢が知っているのに、毎日遊びほうけていないのはおかしいぜ。なにやら犯罪の臭いがす」
「てい」
ドボーン!
「ぶはっ! は、うわっつめた! 何するんだよ、霊夢」
「こんな所に毎日いたら、夏の温度を忘れちゃって、これでもあつーいなんて言い出すに決まってるのよ。たまに来るからいいんじゃない。折角だから徹底的に冷やして、無駄に活発な脳味噌の働きも穏やかにするべきね」
「ざまぁみろ」
「小声で言っても聞こえてるわよ清弥さん。涼しいから落ちてみる?」
「……ごめん」
「そこの騒々しい人間達。咲夜のお茶が飲みたくないのならいつまでも遊んでいるといいわ」
緑の島に陣取った吸血姫が、呆れたような口調で樹にもたれている。足を投げた子供そのままの少女に諭されるのが、清弥には堪えるのだろうか。すこし頬に赤みが差しているようにも窺えた。
「俺、ちょっとその辺見てくるよ」
「清弥」
「そらは霊夢達とここにいろな」
言い捨てるようにして清弥は小川を軽快に飛び越え、森の奥へと駆けていく。スカートの水を絞っていた魔理沙がそれをジト目で見送る。清弥を留めようとして叶わなかったそらの肩に、霊夢がポンと手を載せた。
「だいじょぶだいじょぶ。事態はおおよそ好転してるわよ」
「………………」
「私達が美味しそうにお茶飲んでたら、羨ましくなって帰ってくるから」
そらは胸の前で小さく手を握ると、まるで自分を納得させるように僅かに、頷く。
レミリア達が陣取った樹陰に入ると、目の前にハンモックがぶら下がっている。よく見るとそれは、紅魔館の図書館少女だった。そらも顔だけは知っている。
「パチュリー様パチュリー様、お茶淹れましたよ。ローズマリーも入ってますよ」
「…………………すぅ」
「今時分は普段なら寝ている時間なのだから、無理ないわよ。パチェの分はわたしが食べておいてあげるから大丈夫」
「なにが大丈夫ですか。お嬢様はかなり特別なアレなんですから、特別なクッキーしかありません」
「栄養が偏ると大変だもの。寝込んだら皆勤賞が貰えないじゃない」
「吸血鬼が心配することじゃないよねそれ」
結局、ハンモックの周囲に円を組んで少女達は座り込んだ。そらは夏草の生い茂る地面を撫でる。お返しとばかりに、木々を抜けてくる風は心地よい涼しさで頬を撫でてくれている。青々とした緑の床は踏青の宴に相応しい舞台といえた。
「あー、魔理沙ったら行儀が悪いわよ」
「うるさい」
霊夢の後ろから手を伸ばした魔理沙が、ティーカップとクッキーとお銚子を鷲掴みにして、近くの島にジャンプすると、こちらに背を向けて座り込む。
「ねぇ、そらさんはお茶にする? それとも般若湯?」
「…………」
「じゃ、私のお薦め」
清弥の消えた方角を眺めながら、気のない返事をしたそらの手に、濁酒を注がれた紅い盃が手渡される。ぼんやりとしながら啜っていると、喉の奥が猛烈に熱くなって、そらは思わず縮こまった。
「……………!」
「美味しいでしょ。最近の中じゃ結構自信作なのよ」
にっこり笑う霊夢の頬には、早くも朱が差し始めている。
「せっかく私が暖かいお茶を淹れたというのに、自前の酒で盛り上がろうなんて不埒で不謹慎な巫女ね。種なし手品ですり替えてあげようかしら」
「そういう咲夜は、紅茶の中に何注いでるの」
「私専用の気付けですわ。メイドの仕事はいつも大変ですの」
「咲夜も嘘をつくの下手だったのね」
「私はわざとですから」
「でもいいの? お嬢様ラッパ飲み」
いつの間にか、レミリアがブランデーの瓶を頭の上まで持ち上げている。
「お嬢様! ちゃんと日傘持っててくださいな!」
「突っ込むところはそこじゃないでしょ」
「わたしに向かって分身殺法とはひどく挑戦的ね、咲夜」
「……吸血鬼もお酒に酔ったりするのね」
一頻り感心しながら盃を傾ける霊夢の前の小川を、紅い漆器がゆっくりと流れてくる。霊夢とそらが顔を見合わせて、そらがゆっくりと漆塗りの逸品を取り上げた。その中には短冊が入れてあって、あまり流麗とは言えない字が綴ってあった。
こころなく やでいぬかうと おろかもの
小川の上流を眺めると、差出人であろう黒い濡れ鼠が、そっぽを向いたままお銚子をぐい飲みしている。
「……ここから流したんじゃ誰も詠まないじゃないの。こういう企画するならもうちょっとばらけて座るべきだったわね」
そういいながらも、霊夢は筆を取りだして短冊にさらさらと書き入れ、そらに放流を促した。最近読み書きの手ほどきを受けているそらは、口の中で追加された下の句を詠んでみる。
かがみをのろい しとどにぬれる
「ちくしょう、魔理沙の奴……」
その頃。清弥は霊夢達の茶席から少し離れた楡の大樹の枝にあぐらを掻き、盛大な八つ当たりをしていた。魔理沙との遣り取りが不快だったのもあるが、霊夢はもとより、得体の知れない少女達にイニシアチブを取られっぱなしなのも癪だった。自分だって好きこのんで交戦状態を続けているわけではない。感情を押さえようと努力はしているつもりだし……もちろん、そらが今の状況を悩んでいるのもしっている。だけど、向こうが面白がって突っかかってくるのに火の粉を払わないのはただの莫迦だ。自分を曲げてまで迎合するという考え方は、彼の中には存在しない。
詮無い矜持が彼を安穏とさせないのだった。
「喉乾いた……」
(俺だってそらと一緒に茶の一杯も飲みたいよ。まったく)
そう思いながら、腕を組んで唾を飲み込む。遠くから快い風に乗って、少女達の転がるような笑い声が聞こえるような気がする。その中にはそらの声も混じっているのだろうか。いきおい、耳をそばだててしまう。
げしっ。
突然、清弥のいる樹が大きく揺れた。大きく震動し葉を散らし、翼を休めていた小鳥達が一斉に飛び立つ。
「おっ……! なんだいったいっ」
枝にすがりつきながら下を見ると、幹に蹴りを入れたはしたない格好のままで、諸悪の根元がこちらを見上げている。
「な、なにしやがる魔理沙!」
「こんなところにいたのか、いじけ虫。茶の一杯も付き合えないとは礼儀知らずも大概だな」
(こ、こいつっ)
せっかく鎮まりかけていた心が途端に噴火活動を再開する。それでも残り僅かな自制心が交感神経に働きかけようとする。相手は子供だ、挑発に乗ってはいけない。
「今は欲しくないんだから別にいいだろ。お前こそ独りぼっちで、遊んで貰う相手を探してるのか。不憫な奴だ」
「ばかっていう奴がばかなんだぞーレベルの切り返しだな。ま、狩人は野生の勘は磨いても知的センスまでにはメンテナンスされないんだろうぜ。同情はしてやる」
「…………………!」
睨み付けると、待ってましたといわんばかりに魔法少女が歯を剥く。
「じゃ、お前の得意分野で勝負しようぜ。おりてこいよ」
「挑発にはのらねーよ。だいたい、人に向ける弓はない。お前は腐った卵で不幸を呼ぶ鴉だけど、一応そらや霊夢の友達だしな」
「真面目腐った奴は損しかしないぜ。任せろ、こんなこともあろうかと、香霖からいい物貰ってきた」
魔理沙が差し上げて見せたのは、奇妙な矢だった。鏃の代わりに柔らかい吸盤がしつらえてある。目以外なら何処に当たっても危険はない玩具らしい。
「ここらでどっちの発言が尊ばれるべきか、白黒決着を付けるべきだと思わないか?」
「それならお前が黒で終了だ。自分が魔法使いであることを恨むんだな」
「あいつらこっち見てるぜ。そらの前でも同じことが言えるか? 優秀な護り手さんよ」
頭にカッと血が登る。そらのことを考えた瞬間、自分を押さえ込もうとしていた冷静さは弾け飛び、力のまま自分の愛弓を握り締めた。枝から飛び降り、
「……後悔するなよ。負けた方は今後一切逆らわないんだよな」
「大悪魔の光を賭けてやってもいいぜ」
「わかった」
差し出されてた矢筒を、清弥はしっかりと握り締める。
魔理沙はいつになく屈託のない笑みを浮かべていた。
光溢れる森の最中に、真昼の銀河が浮かび上がる。交錯するように空を翔る二つの影。一つは箒に腰掛け、一つは決して留まることなく疾風と化している。
時折響き渡る、金属を撃ち合うかのような音と煌めきは、解き放たれた花火にも似て美しい。川面はそれを幾重にも乱反射している。
――そして、二人の対決が始まってからしばらくの時が流れた。無尽蔵に七色の星を放出する魔理沙と、決められた数の矢しかない清弥では攻撃の応酬に歴然とした差があったが、とりたてて清弥が押されているわけではない。むしろ、的確な攻撃によってきちんと牽制して、魔理沙の行動範囲を制限しているのは見事だった。清弥に空を飛べないハンデがあることを考えれば、互角以上に戦っているといえるのではないだろうか。
悲しげに戦況を見上げているそらの袖が、ちょちょいと引っ張られる。
「………………」
「立ってると見えないわよ。私達が」
いい感じに出来上がっている霊夢達が、そらを……その向こうの決闘を見上げていた。
「でも」
「ルールを決めて遊んでるみたいだし、おそらく大丈夫よ。いつもの喧嘩よりはずっと健全だわ。冷静な分だけ規模はでかくなってるけどね。それよりも、一緒に座って観戦しましょ。お酒にはいいおつまみだし。どちらを応援してるのかは告げ口しないから安心して」
霊夢がそういうなら、断る理由はなかった。少なくとも、霊夢の言葉に今まで嘘はなかったから。力無く座り込むと、再び盃に潤いが満たされる。今度は透き通った清酒だった。
「……なんで」
そらの呟きに、顔を緑の天井へと巡らしていた一同が反応する。
「なんで、仲良くできないの? 二人とも」
「まぁ見解の齟齬はよくある話よね。特に魔理沙はスーパー自己中だし」とは霊夢。
人のことはいえないだろう、という視線を投げかけながらも、咲夜がその言葉を継ぐ。
「……それに、相手のことを全て分かってしまったら、楽しくないじゃないの。お互いの違いを嘆くよりも、お互いの違いを楽しむ方が有意義だわ。ここじゃ違ってない人なんていないしね」
「………………」
「パチュリー様が寝てるからいうけれど、知ってしまうことは案外つまらないことよ」
レミリアはティーカップを傾けながら、咲夜と俯くそらをそっと窺っている。咲夜が続けた。
「貴女、本当に喧嘩が嫌だったら、あの少年にきつくいえばいいのよ。貴女がいうことなら『食べさせて』といったって自分を差し出しそうな雰囲気じゃない? 彼」
そらは慌てて首を振るが、何処か力無い仕草だった。盃に映る自分の姿が、いくつもの川面に映える自分の顔が冷たい瞳で見返してくるようで、そらは辛かった。
「本当に止めたいの? それとも、弱みを握られてる? ……あるいは、彼にいえない何かがあるの、かしらね?」
霊夢、レミリア、咲夜。ハンモックに揺られっぱなしのパチュリーすらも……いつの間にか薄目を開けて、そらの挙動に神経を払う。
そらは水面の自分を見つめていた。
確かに、清弥にいえないことは、ある。
それは――自分の名前。
最初はそれが自分の名前だとは思っていなかった。名前という概念すら知らなかったのだから。でもそれは、心の奥にしっかりと刻印されている。今ならばそれが解る。
でも。
今、今更、清弥には告げられない。告げたくない。もし自分が「そら」ではなくなってしまったら。これまでの生活が、大好きな時間が変容してしまったら。清弥はそれを受け入れるだろうか。清弥だけではなく、霊夢や魔理沙や、その他全てが崩れないだろうか?
今や数ヶ月の強固な思い出を手に入れたそらにとって、失うことは恐怖だった。自分の過去が現在の自分を壊しかねない、そんな恐怖。それ以前に何もなかったことを知っているから。
たった一つの、でも唯一の名前によって。
かけがえのない自分の証によって。
水面に映る自分を見遣る。
喉の奥に残る酒の感触が痛く、熱い。
「……………………」
「ま、なんだかんだいっても、気にした方が負けなんだけどね、この世界。考えなくていいことなら忘れちゃえばいいのよ」
「あら、霊夢にしてはいいこというじゃない」
「博麗だからいってるんだけどね。ほら、そらさんも飲みなさい。沢山持ってきたんだから」
「あんた飲み過ぎ」
「盛り上がってるところ悪いけれど」
レミリアが頭上を指さした。
「クライマックスよ」
「さぁいくぜ、魔符『スターダストレヴァリエ』!」
霧雨魔理沙が差し上げた呪符を中心として、森の直上に偽りの銀河が出現する。
溢れる光は夜空のためのものなのに、午後三時の太陽さえ圧倒して輝き誇る。
もちろん、渦の中心点は目標とする狩人、在原清弥だ。無数にたなびく星は行く手を完全に遮り、清弥の自由な行動を封じ込めた。
一瞬どう動こうか躊躇したのが拙かった。
清弥は飛び降りることも魔理沙に向かうことも出来ない。大きく舌打ちして懐から呪符を取り出し、魔法弓にセットして構えた。
一呼吸、
「天符、『天乃羽矢一隻と歩靫』!」
狙いは天ではなく、地――
一つだけ放ったはずの矢は、地面に向かって届く前にU字の逆放物線を描きながら分裂し、二十にも三十にも枝分かれしながら、淡い銀河を幾度も突き上げる。ただ、夜空の彼方で衝突する銀河同士において実際にぶつかる星がほとんどないのと同じように、二つの魔法はお互いの威力をかき消すことなくすり抜けて、正確に術者めがけて狙撃を続け――
「くのっ」
「避けてやるっ」
パシュバシュバシュッッッ!
ネズミ花火が回転する時のような音が幾重にも重なり、森は強烈な閃光によって白と黒のコントラストで深く彫り込まれる。
地上で見守る少女達も、その光芒に顔を背けた。吸血鬼を主人に持つメイドは、日傘で主人を護るのに四苦八苦している。
やがて、ゆっくりと森が平穏な空気を取り戻し始めた、
その瞬間。
ひゅうううううううう……
ドボーン!
黒い物体が続けざまに落ちてきたかと思うと、茶席のすぐ近くに大きな水柱が二つ屹立した。そらはずぶ濡れもお構いなしで、弾かれたように駆け寄る。
死んだように浮かぶ二つの黒い影が流れに乗ってゆっくりと動き、
「清弥ぁ……魔理沙ぁ……」
いきなりガバッと立ち上がる。びっくりしたそらの目の間で、向かい合って目を剥いて、
「負けた訳じゃないぜ!」
「負けた訳じゃないからな!」
唾を飛ばし、口の開け方まで六十分の一秒単位でシンクロさせて言い放つ二人。客席ではパチュリーも含めて皆が三白眼のように目を歪ませている。霊夢が一言、
「みっともないわね、お二人さん」
「……人を無闇にバカにするのはよくないぜ、霊夢」
「そうだよ、悪いのは魔理沙なんだからな」
「ひねくれるのもいい加減にしろ」
「はいはい、一生やってなさい」
少女達が失笑するのも無理はない。威勢良く啖呵を切ったのはいいが、魔理沙の額には吸盤付きの矢が突き立ったままになっているし、清弥の髪の毛は爆風で激しく逆立ったまま濡れているのだから。
最初はきょとんとしていたそらだったが、必死に湧き上がってきたものを堪え切れず、遂に吹き出した。鈴の転がるような声で、大きな口を開けて。酔った勢いなのかもしれないが、清弥と魔理沙を見比べながら、涙を浮かべて笑い続けた。
釣られるように霊夢達も笑い始める。
毒気の抜かれた表情で、それを眺める濡れ鼠の二人。もちろん彼らは、見物の対象でしかないのだが。
――爽やかな残暑の風が、少女達の笑い声を森の奥へと運んでいく。
────────────────────
深い夕闇が、小さな窓の外で滲んでいる。
乱雑な部屋の中は、熱と闇とが沸騰寸前で淀んでいた。埃の位置すら変化しないまま、日暮れの瞬間を待ちわびている。
部屋の中央の二つの人形は微動だにしない。
その周辺で無作為に散らばった縫いぐるみの中に、寝ころんだアリスが埋まっている。まるで自分が人形の一体になったかのように、無造作に。
「……また夜なのね」
倦むように呟く。
――その妖怪は孤独と闇を好んだ。
しかしながら、大好きなものを退屈に感じてもてあます時間が、人間の専売特許というわけでもない。
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