「それじゃ、あとのことはよろしくね。神社の外に出ない限り、妖精や精霊はもちろんのこと、妖怪も手を出して来ないはずだから」
まだ夕暮れも遠いというのに、太極図の描かれた提灯をぶら下げて、霊夢が振り返る。博麗神社の境界を護る大鳥居の下で、清弥とそらは一様に頷いた。
「留守は任せてくれ」
「……いってらっしゃい」
「帰ってきたらどのくらい綺麗になっているか楽しみだわ。見違えるってぐらいが理想だけれど、見間違えると困るわね。他人の家だったりして」
「霊夢の部屋は掃除しないから安心しろって」
「賢明な判断ね」
軽く手を振る二人に背を向けて、霊夢は長い階段を降り始めた。もちろん彼女は普通に空を飛ぶことが出来る訳で、こんな風に歩く必要は毛頭無い。だけどもこうやってきちんと見送られると、出掛ける実感みたいなものを感じてなんだか妙な気分になるのだった。
「面白いとは思うのよ。良いか悪いかは別として」
博麗霊夢は後悔をしない人間である。換言すれば、過去を反省したり、未来を見据えたりすることがない。風が吹けば髪をかき上げ、雨が降れば傘を差す、そういう生き方をしてきた。これからもそうだろう。そんな彼女にとって、時間の流れを生き急ぐような清弥達との生活は、面白くもあり、また面倒でもあった。今はただ、その窮屈さをまだ捨てる気にはなれないというだけのことだ。これも霊夢的には珍しい感情だったのだが。
「……面倒くさいことはさておいて、息抜きは必要よねお互いに。そろそろ私のいない夜に困った妖怪も蠢いてるだろうから……いつも夜に出るとは限らないけれど」
階段を降りきったところで、霊夢は脇の茂みにやぶにらみの視線を投げた。
「――庭の剪定ならあいにくと間に合ってるわよ。桜の木もまだまだ青々と茂ってるしね」
ざっと茂みが揺れた。性格的も霊魂的にも、どこまでも隠し事が苦手とみえる。無造作に手を突っ込んで襟首を掴む。逃げる間もなく引っ張り出されたのは、幽冥楼閣の半幽霊少女・魂魄妖夢だった。
「あ、あのその、別に幽々子様にあの二人を監視するお使いを命じられたっていうわけじゃなくてその……勝負、そうだ勝負だ! 博麗霊夢!」
「首根っこ掴まれていう科白じゃないわね。まったく幽霊って奴は何処にだって現れるし、あまりにも空気を読めなくて困るわ。お望み通りもっと離れたところで結界の隙間に落としてあげる。白玉楼に帰れなくても文句いわないでよ」
「そ、そんなぁ……私は半分は人間なんだから幽霊ほど空気読めないわけじゃ……って問答無用なの博麗霊夢? あの、たすけて、たぁすけてください、幽々子さまぁぁぁ」
ずるずると引きずられる妖夢の周辺を、白い半幽霊がひたすら困った様子で飛び回っていた。
「ん? 今霊夢以外の誰かの声、聞こえなかったか?」
「………………」
首を横に振るそらを見て、清弥は訝りながらも傾けていた首を戻した。
「……まぁいいけどな。じゃ、仕事を片づけてしまうか。そらは台所と廊下、こっちは本殿を終わらせるから。そのあとは書庫にいる」
頷いたそらと別れて、本殿の欄干に掛けてあった雑巾を水桶につける。霊夢が出掛ける前から掃除は続いていた。もちろん、今朝からの作業に霊夢は手を付けていない。
「よし」
気合いを入れ直し、雑巾掛けを始めた。
――霊夢は周囲の人間が評するほどぐうたらというわけではない。自分達が住み着くまで、博麗神社で一人で暮らしていたというのも、彼女を知ってしまえば頷けない話ではなかった。彼女は料理だって掃除だって、もちろん巫女としての神事だってきちんとこなせる能力を持っている。問題は、彼女がその気にならないと、全ての事柄は推移しないということだ。掃除をする気分にならなければ何日でも放置するし、料理を決してやらない週もあった。その判断基準がどうにも掴めなくて、清弥やそらを困惑させるのだったが。
息を吹きかけては欄干や柱を磨きながら、清弥は先程の、火の灯らない提灯を下げた霊夢の姿を思い出す。
(あれじゃ本当に昼行灯だろうに)
普段の安穏とした様。何も出来ないようで、しかし何でも出来る。気軽に踏み込めば本気で怒られるし、遠慮をすれば不思議がられる。
気楽に言葉を交わす間柄になって久しいのに、清弥は霊夢との適正な距離をきちんと把握できないでいた。人間関係なんてこういうものだと思わなくもないし、霊夢だけが特殊だとも思える。ま、霊夢の周囲に集まってくる人妖のラインナップを見れば、彼女が普通に普通ではないとは窺えるのだが。
馴れた手つきで本殿の清掃を手早く終了すると、掃除用具を手入れして社務所の裏手に回る。
青空は紅く灼け始めていた。
勝手口近くに掃除用具を仕舞うと、扉の向こうから芳ばしい香りが漂ってきた。ぐつぐつ煮える白米やお玉でゆっくりかき回される鍋の中の味噌汁が、脳裏に鮮明に浮かぶ。
「美味くできてるか、そら」
木枠の入った網戸ごしに声を掛けると、割烹着を身につけたそらがわざわざ勝手口を開けて顔を出し、小さく頷いた。頬が紅潮しているのは熱気の暑さと、自分一人に任された責任と自負だろうか。いつも以上に目がキラキラしているようだ。
「味見、する?」
「いいよ、そらを信用してる。書庫にいるから」
そらは再び大きく頷く。何を教えても砂地の水もかくやという感じで見る間に吸収するそらだったが、こと料理に関しては、霊夢もねたむぐらい急激に腕を上げていた。人参や馬鈴薯の切り方がかなり不揃いだったりするのはご愛敬としても。
いちいち手を振るそらに頷き返して書庫へと向かう。習い事だけではない。そらは見違えるように明るくなっている。快活というわけでもないし、表情は幾分ぎこちなかったりする時もあるが、前のように清弥に依存する回数も減った。言い換えれば、普通に付き合えるようになってきた、ともいえるのだが。何事にも一所懸命なそらの態度に、頼もしさを感じる反面、今までの保護者のような気持ちが齟齬を来しているようにも感じられる。
つまり、
(今まで何も知らなかっただけの、こんな優秀な少女を、自分はきちんと護ってやれているのだろうか)
霊夢の奔放な振る舞いやそらの急激な成長に、今の自分はどこか気圧されているのかも知れない。なるべく考えないようにはしているが、彼女達との時間の折々で、清弥の感情は複雑に絡み合うのだった。
書庫とはいっても、博麗神社のそれは倉庫に毛が生えたようなもので、本来であればさほど手入れを必要とする訳ではない。清弥が敢えて立ち入るのは、霊夢よりもここを溺愛する部外者がいるからだ。当該の人物はここに居座って、あろうことか自分の都合で並び替えたり、読んだ本を床に積み上げたまま帰ったりする。その分類基準は霊夢の行動以上に意味不明で乱雑だった。霊夢は気にしないだろうが、深々と帽子を被ったそいつが箒に乗って飛び去った後、清弥は一人イライラとさせられるのだった。
だからいわば、これは報復。
清弥自身はさして文字や書物にお世話になっているわけではない。だから、本棚に必要な物はある程度きちんとした整頓だけだと思っているので、伊呂波順に並び替える単純作業を無造作に進めていく。
扉は開きっぱなしだったが、延びる西日が闇に溶け込みつつあったので、備え付けられていた釣り灯籠を灯した。ほんのりとした光が暗がりまで届いて、狭い奥行きの部屋を微妙に広げたような錯覚を起こす。
「あぁもう、こんなに散らかして……あのマックロ魔法使いめ」
積み上げられた束を持ち上げる。と、バランスを崩して数冊の本が床に落ちた。自分のせいなのだが、それも併せて今はいない少女に呪詛を吐いておく。
取り上げようとして、ふと手を止める。
偶然開いた本の挿画に目が止まったのだ。
本の名は「幻想郷風土記」。代々の博麗の巫女が記した幻想郷の記録、らしい。もっとも、霊夢がこんなものを書いているのを見た試しはない。それを無礼にも、以前本人に直接指摘したことがあったのだが、当人曰く、
「文字で書かれたものが全部正確なら、神様は多忙で目を回した挙げ句、南国へバカンスに逃げ出しちゃうわよ」
とのことだったので、信憑性はかなり怪しいのだろう。博麗の巫女が皆、霊夢のような性格だったかどうかは、考えない方が身のためということにしておく。
とにかく、その「幻想郷風土記」の一節だ。
それは古の伝承のひとつ。
高い高い山の上に、恐ろしい形相をした一人の鎧武者が立って、立派な、しかし禍々しい強弓を引き絞っている。戦の最中なのだろうか、美しい兜や甲冑には弓が突き立ち、体の彼方此方から血を流している。
その矢が向く先には、雲に乗った美しい巫女が中空に浮かんでいて、御幣を武将へと差し向けている。太極図を模した二つの玉の神具(実物を霊夢に見せて貰ったことがある。陰陽玉というらしい)を周囲に従えていることから、彼女は何代目かの博麗の巫女なのだろう。
何故、彼女は必死の形相の武者と対峙しているのだろう。彼が妖怪だとでもいうのだろうか。
そして、巫女の後ろに山脈と、そこからまさに顔を出そうとしている陽の姿が描かれていた。何故日の出だと判別できるかというと、そちら側の頁の端に朱入りで「東」と書かれているからだ。
見開き一杯を余すところなく使って描かれたその絵には、清弥を惹き付ける何かがあった。もちろん、自分が普段から弓に慣れ親しんでいるという理由もあるが。それだけではないような、そんな強烈な印象を放っている気がするのだ。
見惚れるようにしてしばらく、その絵をじっと眺めていた。
「清弥」
顔を上げると、そらが書庫の入り口から首を傾げてこちらを見つめていた。逆光の中、瞳だけが潤うように輝いている。
「終わったのか」
頷く。胸には一冊の本。
「それ、どうしたんだ」
「霊夢と字の勉強の時に使った本」
書庫に上がり、本を丁寧に返すそら。それから、もう一度別の大きな本を引き出して、大事そうに抱え込む。表紙は極彩色で、水面のような蒼い装丁が施されている。明らかに幻想郷内部の産物ではない。
「それは?」
「しゃしんしゅう、っていうんだって。後で読むから」
幻想郷の外からたまに流れ込む物品があるのは、清弥も知っていた。ましてこの近くには香霖堂のような怪しい店もある。外界の本が書庫に一冊や二冊並んでいても不思議ではない。ただ、そらがそういうものに興味を示すとは知らなかった。何を求めているのか、後で一緒に見てみるのも悪くないだろう。
「片付け、終わった?」
「……ああ。ま、このくらいにしておくか。急いでる訳じゃないし」
釣り灯籠の明かりを吹き消す。「幻想郷風土記」を持ったままだったが、またいつでも読むことは出来るだろう。清弥は例の絵をもう一度眺めてから閉じ、棚に返した。
夕闇が博麗神社の上を覆い被さっていく。昼と夜との境界線が遠ざかり、鮮やかな藍色が支配する時間。
応急対応の風呂(外の世界の言葉でいえばドラム缶風呂)に浸かったそらが、自分を落ち着かせるようにゆっくりと息を吐き出す。溢れた水が火に掛かって濛々と水蒸気を挙げる。そらはそれを避けるようにしながら微笑む。長い髪はくくって頭の上に持ち上げて。石の台座で燻る熾き火の様子を見る清弥。近くには一杯にした水桶が数個並んでいる。
「熱かったら水差してやるから」
律儀にそらが頷くのを横目でちらりと確認してから、足を拭いて屋根のついた廊下に上がった。灯籠の下には、広げた筆と墨、短冊にされた奉書。その前に正座をする。もちろん吹きさらしのままなので、お互いの様子を見ることは出来る。清弥は意識してそらを見ないようにしていたが。
親指の先を短刀で小さく切り、垂れてきた鮮血を数滴、硯に落として墨と混ぜる。剣印の中指と人差し指に筆を挟み、受け継がれてきた秘密の文言を呟いて、その言葉が空気に消え入る前にすらすらと神代文字を書き入れた。最後に短冊を捧げ持ち、
「急々如律令」
すると文字は一瞬赤黒く灼熱して、瞬く間に乾燥し木札のようにしっかりとした完成形を取った。それは既に数千年前に描かれたかのような威厳を放つ。
スペルカードである。
自分が使う魔法弓は養父から受け継いだものだが、呪符にまつわる魔法行使を教わる前に別離となってしまったために、清弥は今もって弓の正式な使い方を知らない。唯一放てるこの呪符も、失踪前の養父が行っていた儀式を、一人になったのち見よう見まねで習得したものだ。この成功によって、清弥は森に入る決心をした。
実際のところ、清弥は妖怪を打ち負かすほどの霊力を備えてはいない。ただ、この呪符が様々な折りに自分を救ってくれているのは間違いなかった。本来なら魔法弓はもっと強力な力を行使するはずなのだが(義父は数種類の呪符を持っていた)、ない物ねだりをしても始まらない。今の自分に出来るのは己が技量の研鑽のみである。
「…………………」
一方そらは、繰り返し小さな儀式を続ける清弥を湯船からじっとみている。清弥は自分にいつも笑顔を見せていてくれて、それはとても嬉しいのだが、ああいう真剣な表情の清弥を見るのも好きだった。どういうことを考えているのかは解らないが、その横顔に視線が吸い寄せられる気がする。見つめているとなんだかぼんやりしてくるのだ。
どんなことを考えているのだろう。
自分が見ていない時、自分が寝ている時――清弥はこんな顔をしているのだろうか? それとももっと違う顔?
変な気持ちだった。
数枚の呪符を作って顔を上げた清弥と目が合う。
「大丈夫かそら。顔真っ赤だぞ」
「…………………う」
頷こうとして一瞬後頭部が重くなる。視界に湯煙が増えたようにぼんやりする。
「そらっ」
「……大丈夫……今出るから」
駆けつけようと欄干を飛び越えた清弥は、立ち上がったそらを眼前にして慌てて目をふさぐ。
「ちょちょちょ、ちょっと待て、ちょっとだけ待て出るな後ろ向いてるから」
「………………?」
湯船から出て小さな脚立を降りたそらは、小首を傾げた。
「髪を梳かすぐらいは自分でやらないのか」
「霊夢がやってくれるから」
「霊夢にとっては本当に大きな妹だな……」
「……?」
「あいつは悪くは思ってないよ、大丈夫」
頷く。
「ほら、真っ直ぐ向いて」
頷く。
「そうやって頷いてたら髪がばらけるだろ」
頷く。
清弥が苦笑する。
……いつもの服に着替えたそらが庭に降りる階段に腰掛け、その後ろで清弥がそらの長い髪をゆっくりと梳る。そらの白い髪は細く長く柔らかく、しかも拭ってさえ僅かに水分を帯びて艶やかに光る。藍色になった天空の下、廊下に並べられた碇型の蝋燭がゆらゆらと揺れて、優雅に曲線を描く紅い櫛と滝のように流れ落ちる髪とを橙色に染めている。
もちろん、清弥にとっても女の子の髪を解くなどと初めての経験なので、どうしたものかと最初は戸惑ったのだが……要はまっすぐに整えればいいのだと覚悟を決めた。
「綺麗な髪、だよな」
「………………」
「答えようがないか。ごめん。俺は綺麗だと思ったから」
「………………霊夢も、きれい」
「そうなのか。こんなに近くでみたことないからわからないけど」
頷く。
「そうか」
廊下の下から蟋蟀の鳴き声がする。一秒、いや二秒間隔か。いつもより大きな音色のように聞こえるのは気のせいか。
櫛が髪を通してたてる、静かな囁き。
「……霊夢と一緒にいると、楽しいか?」
そらが頷く。
清弥がそれによってばらけた髪を整える。
「ここに来れて、良かったよな。偶然だったけど」
頷く。
清弥はしらずに言葉を選んでいる。二人きりという状況がそうさせているのだろうか。
核心的な話題には触れない。
清弥も、そらも。
たとえば、そらが何処から来たのか。
自分達はこれからどうなるのか。
ただ、今はまだ大丈夫だから。答えを求めなくてもいいから。
「……でもやっぱ、霊夢がいないと少し寂しいな」
苦笑する清弥。なにかをごまかすかのように自分の頭を掻く。
そらは、一瞬の間をおいて、今度はゆっくり頷いた。
背中に流れる髪が、首の動きに従って二つに割れる。露わになるうなじが髪と同じような白くて、なおかつ湯上がりでほんのり上気していて、清弥は言葉を失う。櫛を持った手が止まる。
「………………?」
「あ、ごめん。こんなもんでいいのかな」
頷くそら。自分で髪を整えられない彼女は、鏡も確認せずに即答した。
清弥は正面に回り込み、一旦前髪を全部降ろすように梳いて、額の中央で軽くわけ、流す。これで清弥が見慣れた、いつも通りのそらだ。
そらが小首を傾げる。
清弥は整えた髪を崩さないようにゆっくりと、そらの頭の上に手を置いた。心地よさそうに瞳を閉じるそら。まるで猫のような仕草。
「そろそろ飯にしよう。いい具合に蒸れてる頃だろ。俺、腹減ったよ」
「………………うん」
少女は声を出して答えた。
陽はとっぷりと暮れ、星々が絨毯のように編み込まれた天井となる。ただ、夕焼けの焼け残りが山嶺の境界線に蟠っているようにも見える。白日の残滓のような時間。
弓弦を右の腕に掛け、左の腕に大きな箱を抱えた清弥が、博麗神社へと登る階段を一段ずつ登っていく。その足下を照らすのは、昼間霊夢が持って出たのと同じ意匠の提灯。油紙越しに輝く炎が、それを持つそらと、清弥の姿を森の木々に大きく映し出す。
清弥は箱から蝋燭を取り出しては、参道の左右に一定間隔をおいて並ぶ灯籠に命を灯していく。
森から博麗神社へと続く、光の道。
最後の一本を点け終わると、ちょうど階段を上りきり、二人は神社前の境内に立つ。
不思議な庭。あれほどまで向日葵が咲き誇った場所は、別に刈り取ったわけでもないのに忽然と姿を変え、神社らしく静かで何もない沙庭になっている。庭の隅に荻の花がひっそりと群れている。まるで秋を迎える準備を整えたかのように。
階段を降りる前に灯した古めかしい石灯籠が、その境内のあちらこちらに点在していて、ゆらゆら、ゆらゆら、神の社をぼんやりと浮かび上がらせる。光は決して強くなく、闇の勢いは強い。そのせいだろうか、社は大きく得体の知れない存在にも見え……また、天に瞬く白き斑の世界が冴えて広がっていく。
これで一応、霊夢から託された仕事は終わったことになる。不寝番などは言付かっていないから、あとは寝るまで二人の時間。
それからようやく、そらが準備した食事を二人で食べた。のんびりしすぎていたせいか、普段より少し遅くなってしまったようだ。
いつも三人のところが二人なのは若干寂しい食事風景だったけれど、霊夢にせよ清弥にせよ、もとより食事中はあまりぺちゃくちゃとしゃべる方ではないので(そらに関してはいわずもがな)、静けさに関しては普段と変わらない。清弥が箸を運ぶ際にちゃかちゃかと音を立てるか、そらが無音で十粒ほどの米粒を口に運ぶかの違いである。
料理の出来に関してはもはや言及する必要がないだろう。
……普段なら食事後の片づけが終わってしばらく経つと、清弥とそらは自分達の仮住まいである森際の小屋に帰るのだが、今夜は留守を預かることもあり、本殿に布団を敷いて寝ることにしていた。
清弥が簡単に風呂を使う。
そらが本殿に布団を並べて敷く。
そして、必要以外の場所の明かりを消してまわり、意味はないと理解しつつも人間的な几帳面さによってきちんと戸締まりをしてから、二人は寝間着で本殿に向かった。
明かりが消えてしまうと、闇が一層深くなる。ただ、星明かりによって建物の中よりは外の方が仄かに明るい。人間よりは物の怪達の方が親和性のありそうな不気味な美。だが、森の中で孤独に暮らしていた清弥にとっては重要な道しるべでもあり、馴染み深い夜空だった。
本殿の入り口にある太い柱に背を委ねて空を見上げている。
頭の上には雲のような星の集団が煌めき、正面に一際輝く彦星が見える。七夕はとうの昔に終わってしまったが、今も力強く輝く。思い人と邂逅を果たせたからなのだろうか。
部屋の中に首を巡らすと、灯籠の光の横にそらがうつぶせの格好で転がっている。たてた肘で顔を支えながら視線を落としているのは、書庫から持ってきた異界の本だ。ときおり目を擦りながら、ぼんやりと眺めている。
「そら」
「………………」
清弥が近づくと、そらは体を起こした。はだけそうになっている胸元を整えてやる。そらは僅かに微笑む。
そらが開いていたページは、灯籠の光で濁った色になっていたが、一面が蒼いページだというのは解った。だが、それだけではない。見開きの横半分で、青の種類が変わっている。上半分は見慣れた色……大空だ。下半分に比べれば少し薄い色をしていて、城のような巨大な雲が立ち上がっている。
そして下半分は、濃く強い碧。下の方から地平線に当たる中央に至る間に、色はどんどん強くなっている。間違いなく、これは水だ。それも膨大な量の水。湖だろうか。それにしては鮮明に過ぎる。
これが風景を切り取った特殊な絵だとすると、空の下一面全てが水ということになる。清弥はこんな途方もない世界を知らなかった。
「……………なんだろうな、これ」
そらも首を横に振る。
「でも、この絵が好きなんだろう」
もう一度横に。嫌いなのではなく、自分でもよく分からないのだろう。ただ、知らないものに惹き付けられるという感情は解らなくもない。こんな世界がもし本当にあるのなら、清弥自身も見てみたいと思うが……少なくとも、山と結界に囲まれた幻想郷の中では望み薄なのではないだろうか。
「こんな場所、世界の何処かにあるのかな?」
そらは夢うつつに惑うかのように、首を横に振る。
彼女は清弥がしらない、澄み切った地下水のような瞳を浮かべたまま、その絵を眺めていた。少年がどうしても思い至ってしまうのは、泉の中での最初の邂逅――人形そのものだったあの頃の表情だ。
いつも自分のいうことに素直に反応してくれるそらが、今こうして、こういう表情をしている。
引き込まれる反面、不安になる。
得体の知れない何かが、この時間を壊してしまいそうで。
思い出す。そらに出会うまで、一人でいた頃の自分。雨音や葉擦れの音ばかりを相手とし、人間と妖怪の境界を気にしてばかりいた頃の自分。あれからまだ数ヶ月しか経っていないというのに、人間はこんなにも変われるというのだろうか。あの時間が遠い気がするというのに、なのに、そらは――
「そら」
軽く声を掛ける。
そらは本から目を離し、清弥に答える。いつも通りの表情で。
「……俺の笛、持ってるか」
少し目をぱちくりさせて、そらは頷いた。懐から取り出し、清弥に手渡す。
「一曲しか知らないけど、ちょっと暗い曲だけど。それでもいいなら、聞かせるよ。がっかりしないでくれ、な」
そらの表情が咲くように綻ぶ。ずっと手放さずに持っていたのだ、きっと待っていたのだろう。
清弥はさっきと同じように、本殿の入り口に座り込んで柱に背を預けた。本を閉じたそらがそれに寄り添い、膝を崩して座る。
そらが始終抱いていた横笛は、まだほんのりと暖かかった。
久しぶりに持ち主に返った笛を握り締め、蒼白い夜空を眺める。
……今は違う。一人で吹いていたあの頃とは違う。今は聞き手もいる。聞かせてあげたいと思う。だったら、同じ曲でもきっと違って聞こえるだろう。聞こえて欲しい。自分が吹くのと同じ心が、そらに届くといい。
試しに三音を鳴らす。
上へ、下へ、最下層へ。
「………………!」
そらの目が大きく開かれ、ゆっくりと頬が上気してくる。
こんな小さな筒からこぼれ落ちた音の雫で、そらの瞳が潤うのさえわかった。
清弥はなんだかもう、それだけで胸がいっぱいになる。
だから瞳を閉じ、唇と指とに集中する。
同じようにそらも目を閉じ、始まる旋律に身を委ねるかのように力を抜く。
鳴き渡る虫の囁きさえも、二人に遠慮するかのように静まりかえり――
誰もいない神社の片隅に、
ひとつだけのメロディが、
緩やかに、密やかに……夜を結ぶ。
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