手の中には持ち馴れた竹の横笛。
口元から離しているというのに、その音色が耳の奥で消えないような気がする。何故だろう。
外がやけに明るい。なのに、障子の嵌った部屋の中も何故か明るい。眩しいという感じはしない。部屋が自ずから光を纏っているような、そんな様相。
六畳間がなんでこんなに広く感じるのだろう。視界の端が、霊媒師の水晶玉を覗き込んだかのように捻れている。歪んだものは大きく、真っ直ぐなものは小さく。
不思議な感じがする。
清弥はそのようにして、畳敷きの部屋の中央に座り込んでいる。ぼんやりと佇んでいる。
障子戸の隙間から、妙に優しい光が滲んでいる。光加減からすると、もう日も昇って久しいのだろう。遠方から蝉の鳴き声が、水中にいるように低く聞こえてくる。
「行かなくちゃいけないな」
そう呟いてから、自分は何処に行くのだろうと、少し悩んでみる。己がどうも頼りない。
笛を仕舞い、ぼろぼろの草鞋をつっかけて玄関を抜けると、見慣れた長屋が左右にしばらく続いていた。人影はないのに足音はする。さほど離れない場所に雑踏の気配。影のようにゆらゆらと頼りなく。水桶で野菜や洗濯物を洗ったり、打ち水をしている音が聞こえてくる。立て掛けた簾に絡まるように延びた朝顔がいくつも咲いている。夏の熱気に混じるように、麦飯を炊く香りが漂ってくる。遠く近くなる笑い声。道の先に陽炎が揺れる。
妙に空気が白い気がした。
でも、夏の日差しというには弱い。そして、蝉の声はまだ遠い。
何処かで猫が鳴いている。
自分は一人でここにいるらしい。
寂しくはない。いつものことだから。
目的地を決めて、走り出す。
自分で編んだこの草履もあちこちすり切れて、そろそろ替えるべき頃合いだった。家には新品の編みかけが転がっている。真面目にやれば今晩には完成するだろう。単純な作業は必要だけれど、やっぱり好きじゃない。
長屋通りを通過していく。今日は近所の人に頼まれた仕事もない。それに、多分今日ぐらいにはオヤジが帰ってくるだろうから。
根拠はないけど、そんな予感がした。
普段はなるべく考えないようにしている。待てば待つほど長く感じられるから。忘れはしないけど、四六時中考えていれば寂しさも募るし、自分はそれほど強いわけでもない。
「……あれ?」
しばらくして、清弥の速度は落ち、ゆっくりと立ち止まった。
長屋の軒が切れるあたりに、一本の桜が立っている。取り立てて立派でもないが、人の目を楽しませるには十分に桃色を着飾ってくれる。春になればその下に人々が集まって、ささやかな宴会が催されるのだ。
妙に白い夏の日。
蝉の声が遠い夏の日。
「昨日は葉が生い茂っていたのに……」
不思議なことに、夏だというのにその桜は満開で、薄桃色の花びらを纏い、時折数枚が風に乗ってゆらゆらと音もなく舞い降りる。
「………………」
そして、それを見上げている少女がいる。
初めて見る人だった。見慣れない薄青の着物を纏い、変わった帽子を被って、ただじっと桜の木を見上げている。
清弥は言葉を失う。なんというか、言葉を出してしまうと、簡単に弾けてしまうような……シャボン玉のような雰囲気。奇妙な桜の木は気に掛かったが、この場はとりあえず立ち去ろうと決めた。
通り過ぎざまに、ちらりと横顔を覗き込む。整った顎の線。前髪に隠れて表情を窺うことは出来なかったが、何処か幼さを残した口元。桜と古くからの縁故であるかのように親しみを込めて……穏やかな沈黙を守っている。たおやかな笑みを浮かべている。
風が吹き、
桜の花が静かに舞う。
それが何故か、少女を花と見間違って舞い降りる無数の――蝶のようにも見えた。
いつまでも後ろ髪を引かれる思いだった清弥は、走り始めてふと考えた。
「綺麗すぎて、怖いな」
長屋を抜けて暫くすると、鎮守の森にさしかかる。森の小径を一気に通過して丘を登る階段へ。不揃いな石で遙か昔に積み上げられた長い長い階段を一段飛ばしで駆け上がり、沢山の鳥居をくぐり抜ける。
最後の大きな鳥居をくぐり抜けるとそこは、向日葵が咲き乱れる博麗神社の境内だ。
手水舎で口と手をすすいで、社務所にいくと、いつもは暑さにぶーたれながら転がっている霊夢が、なにやらせっせと作業している。
積み重ねられた蝋燭。
紙で折られた雛人形。
「……珍しいな、仕事してるのか」
「そろそろお盆だからねー」
霊夢の言葉に力は籠もらず、上の空だ。
「あー。清弥さんも、そんなにダラダラしてていいの? 暑いからって怠けちゃ駄目よ」
「霊夢に言われたくないな。それに、今日はいいんだよ。特に仕事も頼まれてないし、そろそろオヤジが帰ってくる頃だろうから。美味いもの作って待っておくんだ」
顔を上げ、怪訝な表情を浮かべる霊夢。清弥の顔をまじまじと見つめ、それからまた作業に戻っていく。
「なんだよ。何かあるのか?」
「ううん、別に……ふうん、それはよかったわね」
よく分からない霊夢の態度に首をかしげながらも、清弥は気になっていたことを口にした。
「……それよりもさ。夏に桜が咲くってこともあるかな」
「狂い咲きってのはあるかもしれないけどね……ま、どっちでもいいけど」
霊夢は溜息をついて、
「朝には目覚めた方がいいわよ。折角啼く鶏もご飯にされるだけじゃ可哀想だわ」
「なにいってるんだよ、おかしいな」
肩を竦める霊夢の向こうに、陰陽のかたちを模した大きな玉が気配なく転がっている……清弥はそれにようやく気づいた。
しばらく霊夢の所で話をしてから、長屋通りに帰ってきた。
と、清弥は目をごしごしと擦らずにはいられなかった。八分咲きの桜が完全な葉桜になっていたからだ。葉の間から漏れる木漏れ日がキラキラと輝いている。
「……………………あれ?」
さすがにあれを見紛うということはないと思うのだが……もちろん現在の桜の姿の方が正しいのは間違いないとしても、だ。霊夢の言うとおり寝惚けているのだろうか? それなら少し悔しい。
葉桜の下には、先程の麗人ではなく、白い髪をおかっぱのように纏めた少女がきょろきょろと、周囲を窺っている。自分と同じくらいの年だろうか。もちろん清弥が知らない人物だ。可愛らしい背格好には似つかわしくない、二振りの立派な太刀を提げているのが、少し異様だった。
少女は時折地面にしゃがみ込んで何かをつまみ上げたりしていたが、清弥に気づくとパッと明るい表情を浮かべ、ぱたぱたと駆け寄ってきて、
「あのぉ、すみませんけど」
「……何?」
「この辺で、のほほーんっていうか、ぼんやりっていうか、そういう感じの女の人を見掛けませんでしたか? 普段からなーんにも考えていないような、そんな様子の」
「………………?」
舌っ足らずな口調が幼さに拍車を掛ける、そんな印象だ。彼女自身は結構真面目なのだろうが。清弥は回答に困る。
この辺で見掛けた女性といえば、さっきの……あの咲き誇った幻の桜の下に立っていた麗人しか思いつかない。今となっては自分の見間違いかもしれないし……それに、少女が捜している人物とはかなり印象が違うような気がする。
清弥は黙って首を横に振った。
「……そうですかぁ。まったく、幽々子様はいったい何処に行ったんだろ。見張っておかないと何をしでかすか分からないんだから」
少女は腕を組んで頬を膨らませ、しばし瞳を閉じて考えたのち、清弥にぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございました。私行きますね」
「うん……」
「それでは」
軽快な足取りで少女は掛け去っていく。
清弥は黙って立ち尽くす。別に似ているわけでもないのに、陽炎の向こうに消えていく少女の後ろ姿が、あの麗人にどこか共通しているように感じるのは何故だろう。
地面に目を落とす。
日光を遮って斑の影を落とす葉桜の下に、桃色の花びらが数枚散らばっている。
家に帰ると、閉じたはずの戸が開かれ、土間には大きな草履が脱ぎ捨ててある。
清弥の顔がパッと明るくなる。
「オヤジ!」
「……おう、何処に行ってたんだ坊主。家を空けて不用心だな」
「やっぱり帰ってたんだな」
「やっぱりってなんだおめぇ」
「虫の知らせって奴かな」
「坊主が偉そうにいうな」
清弥が一人でいると大きく感じる部屋が、こんなにも狭く感じる。すまして側に立つと、清弥の頭をすっぽり包み込むような大きな手が、清弥の髪を乱暴にぐしゃぐしゃと撫でてくる。血と汗と木々の入り交じった森の臭い。
「ちょっとだけ出てたんだよ。オヤジがそろそろ帰ってくるって思ってたから、今夜は美味いもの作って待ってるつもりだったんだ」
「お前が作るようなもんじゃ腹一杯にはならねーよ。猪を持って帰ったから、後で捌いてやる。ちょっと待ってろ」
「……うん」
「もうちょっと大きくなったら森に連れて行くんだがな。一人は辛いか?」
「ううん。寂しくはないさ、でも森へは行ってみたい」
「力を付けないと駄目だ。里の結界を越えるってことは、妖怪に相対しても大丈夫ってことだからな。喰われても文句はいえねぇ。自分で自分のケツをふけるようになるまでは、窮屈でも我慢するこった」
「………………」
頷く。本当は、一人は嫌だ。里の人々は親切だけど、オヤジのことを陰で悪くいっているのを知ってるから。妖怪が跳梁するこの世界では、好んで森に通じる人々は疎まれる。彼らから得られる産物を享受しながら、なおかつ彼らを疎ましく思う。そういう矛盾に清弥は敏感だった。孤児だった生い立ちがそうさせるのかもしれない。
自分を拾ってくれたオヤジは「名前は必要だから」と、在原清弥という名をつけてくれた。でも、オヤジが在原という名前なのかどうかも分からないし、オヤジ自身も清弥のことを「坊主」としか呼ばない。狩人として長く一人で生きてきたせいか、自らの力で生きることを旨とし、その価値観を清弥に提示している。だから、清弥も一人で生きられることを目指しているのだ。独り立ちをしてオヤジに認められたいから。
「……でもオヤジ、俺もけっこう弓も上手くなったんだよ。あとで見てくれよ」
「動かない的を定めて放つのは弓が上手いとはいわないぜ、坊主」
「そういうのはちゃんと腕を見てからいってくれよな」
「ま、暇つぶしには丁度良い余興かもな」
「真面目に受け取らないと腰抜かすよ」
壁に、オヤジが愛用している弓が立てかけてある。これは弓だけではなく、呪符すらも打ち出せる破魔の弓だ。神代の遺物。オヤジはそれを扱える技術も持っている。だからこそ、危険な森や山を一人でも渡っていけるのだ。自分も早くそうなりたい。清弥は今、それだけを望んで生きている。
「まぁ、今日は早く寝るがいいさ。俺がいりゃあ不用心なことなんてないからな」
「まだ昼間じゃないか。寝る話なんて」
「子供は早く寝るもんだぞ、坊主」
いつまで経っても、どんなに背が伸びようと、オヤジは子供扱いしかしてくれない。今も庭に面した座敷にどっかと座り込んで、煙管を旨そうに吸い始めた。ちょっと悔しいが、それでもオヤジがいてくれるのは嬉しい。
「……珍しいな、あんな蝶が舞い込むなんて」
狩人が一人ごちる。
清弥もそれを観る。それは桃色に染まった蝶で、夏の白い日差しには似合わぬように、ひらひら、ひらひら優雅に舞う。清弥は既視感を覚える。これに似た光景を最近見たような気がするが、思い出せない。
それを思い出すかのように、清弥は蝶を凝視する、
視線を絞り込み、
絞り込み――
ひゅん!
トスッ!
妙に白い夏の日。
煮えたぎる空気を切り裂いて、矢が飛んだ。
放った清弥は、的を鋭い面持ちで凝視したまま。着物の片腕をはだけ、素足で土を掴んで。
的といっても、森から切り出した丸太を突っ立ててあるだけだ。今まで何十、何百と突き立った矢の痕が残っている。
妙にやる気のない拍手が響く。
「結構な腕よね。その集中力を他のことに生かせないのかしら?」
「神社の仕事は真面目に手伝ってるだろ? 文句ばっかりつけるなよ。今じゃ家事の大半は俺がやってるぞ」
「ほら、昔から言うじゃない。怖いものといえば『地震・雷・家事・親父』って」
「字が違うだろ」
ニンマリ笑う霊夢に清弥はあきれ果てる。
博麗神社の片隅につくらせてもらった射場で、清弥は長い時間訓練を続けていた。森に入れない以上はこうやって鍛えるしかない。正直いって今では、動かない標的に関しては言葉以上の自信があった。それでも、オヤジの背中を観るたびに、足りないと思わせられる。昔何度か見せて貰ったその弓勢を思い出すたびに戦慄が走るのだ。そして、自分の貧相な腕や練習用の弓が、いかに貧弱かを思い知るのだった。
「修行を欠かさない態度は立派だわ。私は楽しいことしかしたくないけど、清弥さんは自分に向き合うのも必要かもね」
「よくいうよまったく……そんなんでよく巫女が勤まるな」
「ここはね、相当特殊な神社なんだって……あなたが考えてる以上にね。さて、なんとなく仕事でもしようかしら。急がないと、そろそろ盆がきちゃうわね」
「盆に何があるんだ?」
「恒例行事。夏に帰ってくる人を丁寧に送り返すのは、お釈迦さん達だけの仕事じゃないのよね、これが。特に最近、幽霊が激増しているし。ガラの悪いのも増えたわね」
そういうと霊夢は、清弥に流し目を送りつつ社務所へ歩み去っていく。
「ま、清弥さんも頑張ってねー」
「…………おう」
霊夢が変わっているのは今更のことではないのだが……とりあえず人の心配をするべき時ではない。的に集中し、矢筒から矢を抜き、鏃の先から的の中央に向かって真っ直ぐな線描く。
ひゅっ
トスン!
「ちったぁ様になってるようだな」
震える弦の響きが消えない内に、背後からオヤジの声がした。びっくりして振り向く。
「なんだよオヤジ、来たなら声を掛けてくれよ」
「集中している時に声掛けるのも悪いだろう」
「黙ってみてる方が悪いよ」
「いっておくが、俺らにとって弓は競うものじゃない。確実に獲物を仕留めるための手段だからな。格好が綺麗なのに超したことはないんだが、その軌跡をいかなる状況でも再現できねぇと意味がない」
「……………分かってるよ、そんなの」
「俺が下手くそっていわないってのは珍しいんだぞ、素直に喜べ」
「使えないんじゃ意味ないだろ」
オヤジの言葉が正鵠を射ているから、なおさら膨れっ面になる。
「いいから続けてくれ。もうちょっとお前の腕前が見たい」
そういわれれば断る理由はない。今できる最善を尽くそう。もしかしたら自分の技量に驚いて、短い期間でも山に連れていって貰えるかもしれないし。今できる全てでもう一度、的の中央を射抜こう。
年季の入った練習用の弓に矢をつがえる。左手に芯を込め、右手を持ち上げて引く。もう何百、何千と行ってきた同じ動作。身体が、指先が感覚を覚えている。
視線は真っ直ぐ、矢の通る道を辿って既に的を射抜いている。
きりきりきりきり……
へし折れるぐらいに反った弓、
握り締めた拳に浮かび上がる血管、
狭まっていく視界、
その向こうの的に―――
何かが邪魔をするように舞っている。
あれはなんだろう、
桜? 桃色の欠片が風に舞う。
いや、ひらひらと浮かび上がる……
それは蝶か?
それとも、上から下へとひらりひらり、
廻りながら落ちる扇子なのだろうか。
捉えるべき的の中央が遠ざかっていく。
一度瞳をギュッと瞑り、再び開く。
桜吹雪がどんどん増える、
蜜を求める蝶が沢山、沢山増える、
――何故あの蝶達はあんなに色づいているのだろう、
……聞いたことがある、戦で死んだ者が流した血溜まりに蝶が群がると。鮮血をたっぷり呑んで赤く染まった蝶は信じられないぐらいに美しいのだと。
やがて清弥は戸惑い始める。
いったい自分は何を狙っていたのだろう。
それでも、後ろではオヤジが見ているのだ、
失敗するわけにはいかない。
今まで繰り返してきた練習とは違う。
震えよ静まれ、的の中央を射抜け、
あと少しだけ、弓よ耐えろ……
念じるように視界を狭め、
ひゅっ
風切り音の幻聴を聞いて、清弥は目を開ける。
外がやけに明るい。なのに、障子の嵌った部屋の中も何故か明るい。眩しいという感じはしない。部屋が自ずから光を纏っているような、そんな様相。
六畳間がなんでこんなに広く感じるのだろう。視界の端が、霊媒師の水晶玉を覗き込んだかのように捻れている。歪んだものは大きく、真っ直ぐなものは小さく。
不思議な感じがする。
清弥はそのようにして、畳敷きの部屋の中央に座り込んでいる。ぼんやりと佇んでいる。
障子戸の隙間から、妙に優しい光が滲んでいる。光加減からすると、もう日も昇って久しいのだろう。遠方から蝉の鳴き声が、水中にいるように低く聞こえてくる。
炊事場の方から、いい香りが漂ってくる。いつもオヤジが作ってくれる水団のにおいだ。オヤジの草履は土間に転がっている。さっきまで吸っていた煙管もおいてある。煙草の香りがわだかまっている。
なのに、オヤジの姿は何処にもない。
立ち上がってオヤジを捜す。こんな狭い家のなか、何処にも隠れる所なんてないのに。厠の扉を叩いても返事はない。
そうしていると余計に家が大きくなり、孤独が降り注ぐように身を包む。
「オヤジ……何処にいるんだよ」
答えはない。
答えの代わりに、ひそひそと小さな声が聞こえる。真っ平らな顔から発せられる、真っ平らな噂が低く小さく。
………神隠し? 里のど真ん中でか?……妖怪にも対処できるんだろ、あの狩人は……それにそんなはずはないさ、里には人を護る結界だってあるんだ……そうじゃない、あいつは山から来たから、山に帰ったんだよ……もともといつも里にはいないんだから……そうに違いない……実は妖怪だったんじゃないのか? ……捜すことなんてない、山に入って妖怪に目を付けられたらこちらが大変だからな……
大人達の言葉に、清弥は立ち竦むだけだ。自分の自然な感想がどんなに子供の心を傷つけるかなんて、大人は考えもしない。それが人間の人間たる由縁なのかもしれないが。
……障子の向こうがやけに明るいのに気づいた。
清弥はすがるように、勢いよく、両手でそれを開いた――
そこは、一面の桜の苑だった。
視界の全てを桜の森が覆い、冷たくも優しい風が吹くたびに、満開の花びらが宙を舞う。空気までもが薄桃に染まった世界。
その木の下に、あの薄青の服を纏った麗人が立っている、
――振り向く。
笑う口元を美しい扇子で隠しながら、流し目を清弥に送ってくる。
その少女は涼やかに笑っている。
何の力もない無力な子供の清弥を笑っているのだ。
無数の蝶と戯れながら、佇みながら。
「お前が……お前がオヤジを……」
それ以外のことは考えられなかった。
手には、オヤジの……いや、オヤジから受け継いだ破魔の弓があった。自分の掌に吸い付く。もう矢も、呪符もつがえてある。腕にだって自信はある。俺はあの時の、オヤジがいなくなって一人で震えていたあの頃の俺じゃない。妖怪とだって戦える、生きていける。
お前にだって復讐できる――
迷うことなく、桜の苑に飛び込んでいく。
美姫は苑の奥へと遠ざかっていく。
誘うように、舞うように。
視界を遮るように、無数の蝶が、花びらが降り掛かってくる。それは清弥の命を奪う妖弾でもある。無我夢中でかき分けながら、清弥は全力で追いかける。
今だったら、
今だったら絶対失敗しない、
俺は、
俺には力が、
もう一人でも大丈夫な力が、
桜の苑はどんどん深く、白くなっていく。
空気が乳白色に濁っていく。
息苦しいぐらいに舞う桜の風。
後ろで誰かが呼んでいるような気がした。
今は構って欲しくなかった。
今だったらオヤジを攫った妖怪を倒せる、
でも背後から自分を呼ぶ声がする。
清弥、清弥と。
オヤジが付けてくれた、その名を。
それでも――
それでも一歩、二歩、
桜の世界へ踏み込んでいく。
少しだけ、戸惑いながら。
……あれはいったい、誰の声なのだろう。
────────────────────
夜の帳に、ゆらゆらと灯籠の炎が揺らめいている。
博麗神社から程ない、森の中を流れる小川。
岸辺には何十という灯籠や提灯が並べられて、暗い漣にその光を映している。遠くから聞こえる流水の響きが、下流の彼方へと流れ落ちていく。
霊夢が、準備した送り雛を手に持ち、川面へゆっくりと浮かべ始める。盆に現世へと帰ってきた霊魂を送り返す、素朴で小さな儀式。夢と現が下界とは違う混ざり方をするここ幻想郷にあっても、生と死の境界は保つべき神聖な境だった。普段は常に無駄口を叩く魔理沙も、霊夢の後ろで神妙に見守っている。
岸辺に座り込み、それをぼんやりと見ているのは清弥とそら。川向こうは暗くてよく見えない。
そらは清弥に身体を寄せて、光弾く水面と流れゆく人形をじっと見つめている。
清弥はまだ、夢の中にいる気分がしていた。
夢中になって桜の苑を駆けていたつもりだった……が、気づいたら涙目のそらが自分の名を連呼しながら、必死に抱きついていた。自分は境内の端の敷居を乗り越えて、切り立った崖の向こうに転がり落ちそうになっていたのだ。
人外の何者かにたぶらかされていたらしい。迂闊な話だった。
霊夢にも後で諭されてしまった。
「清弥さんって、自分のこと信じすぎなんじゃないの? 懐かしい味を真剣に思い出してみたら、案外美味しくなかったりするのも忘れちゃ駄目だわ。もちろん好き嫌いは駄目だけどね」
今回に限ってはぐうの音も出ない。
ただ……それでも、幼かったあの頃のことを鮮明に思い出して、忘れかかっていた顔に再会したような気持ちだった。今この時間、奇妙な縁で他人と暮らしているからこそ、そう思う。幼かったあの頃が、オヤジの手の大きさを全身で感じたあの頃が、遠く遠く感じられる。懐かしい。
「………………そら」
隣の少女がこちらを見る。相変わらず無表情だけれど、緊張を解き素直な面持ちで、清弥の瞳を覗き込む。
「何? 清弥」
「うん……ありがとうな、そら」
小さく頷くそらの頭に、自分の掌をそっと載せる。いつか自分は、オヤジのような大きな手を持つことが出来るのだろうか。
「……ふーんだ。あんなもんで幽霊がすごすご帰るなら、警察なんていらないんですよー」
「幽々子様、ゆゆこさまぁ。さっきから博麗霊夢がこっちを見てますよう。絶対ばれてますって」
清弥達のいる場所から川を挟んで対岸の木立の陰に、死者の都の姫君たる西行寺幽々子と、その従者である魂魄妖夢が隠れていた。二人の周囲を不定形の霊魂が二個三個、つかず離れず飛び回っている。
幽々子は春になると活発に活動する亡霊であるが、どうやらこの年は顕界の桜が散っても眠りにつくことなく、現世のあちこちを浮遊しているらしい。妖夢は半分は幽霊だが半分は人間なので、幽々子には正直ついていけない部分もあるのだが、ついていかないともっと大変なことになるので、渋々供を勤めているのだった。
……ぺちり。
「……それにしても面白い二人ね、妖夢。特にあの男の子は優遇して死に招くに値するわ。私の誘いを断るなんて」
「そう簡単に境界越えさせちゃだめだっていってるじゃないですか。また博麗霊夢に白玉楼めちゃくちゃにされちゃいますよ」
ぺちり。
「それに、義理とはいえ親子二代に渡って死に招くなんて、罪深いにも程があります」
「何を言っているの、妖夢? あの狩人は手に掛けていないわよ。何処かの下っ端妖怪が人間の結界に入り込んだんでしょうよ。私はそれほど暇ではないわ。あの男の子なら別だけど」
じと目で睨む妖夢に、魍魎の美姫は肩を竦める。
「………………」
「人を疑うのは良くないわね」
「じゃなくて、年中暇じゃないですか幽々子様。そこを訂正して下さい」
「あら妖夢。私の言葉に適当はないわ」
「どの口がそんなことを云うんですか!」
ぺちり。
「それよりも、さっきからの『ぺちり』って音は何なの? それこそあのおとぼけ巫女に見つかってしまうわよ」
「半身が蚊に刺されるんですよぉ……あああ、かゆいぃ、あ、また刺してる」
「完全に死んでみる? そんな苦労とも永久におさらばよ。お盆だし、今ならお勧め。サービスするけど」
「結・構・です!」
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