こつ。
こつ。
こつ。
こつ。
こつ。こつ。こつ。こつ。こつ……
「そらーっ!」
バン!
「そら、そらっ!」
バン!
扉を一つ開けるたび後悔が頭をもたげ、名を一度呼ぶたび孤蔽に焦燥は募る。いつの間にか呼び慣れて当たり前になっていた「名前」、成り行きでそう呼び続けていただけの「名前」、けれど。
その名の真偽はさておいて、他者の名をこんなに懸命に呼んだことなんてない。自分の声が遠く遠くまで響き、無為な残響となって吸い込まれるたびに、心が氷結するかのようだ。
……視界の消失点の向こうまで真っ直ぐに伸びる緋色の廊下。外見からは考えられないほどのアーチ窓が無数に並び、どれも皆コピー機で複写されたかのような三日月を映している。
その廊下を、清弥は駆け抜けていく。
ドアを乱暴に開きながら、迷い子の「名前」を呼びながら。
「そらーっ!」
空気に濃密な紅そのものが充満しているのにも、あちらこちらで微かに白き鬼火が飛び交っているのにも、もう馴れた。自分が通り過ぎた後にそれらが朧な人の形……メイドの姿をとり、狼狽する自分の後ろ姿をクスクスと笑っている。囁き合っている。無性に頭に来る。癪だ。けれども、いちいち構ってはいられない。振り返る暇なんてない。
ほんの僅かに鼻孔をくすぐる、芳しき――血の匂い。
自分が狩った獲物が流す赤が、頭の中にフラッシュバックされる。狩り終えた瞬間の恍惚と沈降。汗が冷えた掌に残酷な感情が蘇る。あの瞬間、心の奥の何処かに確かに――殺戮を歓ぶ自分がいたのではないか? そうだろう? 認めてしまえば楽になる。
「………そーらーぁっ!」
――自分は誘惑されている。
明らかに、魔の境界を越えないかと誘われている。背中を押されている。当然だろう。この場所では、清弥の方が異端なのだから。
この――紅の魔の館では。
「そらーっ」
「らーっ」
「ーっ」
「………………っ」
放っておけば際限なくあふれ出すであろう自分への呪詛を口の中で押しとどめ、代わりにそらを捜す。
そらから目を逸らした眼球を刳り抜いて嘆きたい。覚悟を備えぬ自分をなじりたい。でも、今は何を言っても始まらない。
探さなくては。
後悔ならそのあとで、いくらでも出来る。
「そらーっ! そらーっ! 聞こえたら返事をしてくれ、そらっ!」
喉の奥がひりひりとしている。もう声が涸れ始める。そんなに長い間探しているのだろうか? 耳朶を打つのは自分の足音と声だけ。
自分の足音と、声だけ。
……やがて、館は清弥を翻弄し始めた。
彼を迷わすのは三叉路であり、十字路であり、行き止まり。一部屋に何十とある扉も、見上げるだけで気が滅入る螺旋階段も。確かに通ったはずの通路が、戻ってみれば形状を変えている。同じような窓が、三日月が、緋色が、清弥の拒絶の隙間から忍び込む。小さな人間が、少年の心が抗うには荷が大きすぎる、巨大な悪意。
「……しょう……ちく……しょぉ……」
自負する俊足が、とぼとぼとした歩みに取って代わり、遂にその動きを止める。肩で息をしながら途方に暮れる。
諦めない。諦めるつもりはない。
でも、窓の外にはあの三日月が浮かんでいる。迷い続ける自分をせせら笑っているのだ。
両腕で顔の汗を拭く。やたら冷たい。暑くて苦しいのに寒気がする。最悪だった。何もかも。
と。
前方に明かりが見えた。あれは禍々しい妖気ではなく、物が燃える灯火だ。まだそれを判別できるだけの意志は煌々と輝いている。
「――っ!」
一縷の望みを繋いで、駆け出す。
「……廊下を全力疾走なんて、お行儀が悪いわね。先生に叱られたことはないの?」
膝に手をついて息をする清弥の前には、三つ又の燭台――ただし灯っているのは左側の蝋燭一本だけ――を持った十六夜咲夜の姿があった。相も変わらず落ち着いたポーカーフェイスである。
「それに物騒ね、弓矢なんか振り回して。部屋にいれば心配事なんてないでしょうに」
「…………………」
「どうしたの? いいにくいこと?」
「……そらが、いなく……なった」
メイド長は表情を変えない。ただ、一つ火の映し出すその白い顔は、端正な顔の彫りを深くして、不思議な圧力を醸し出す。
「それは困ったわねぇ」
「知らないのか?」
「初耳よ。この館のことで私の耳に届かないなんて、異常事態だわ」
困惑とはまったく無縁の口調が、清弥の心を苛立たせる。
「この館は月が指し示す時刻によって姿を変えるの。特に夜なら、不定といってもいいくらい……だから、迷い人を探すのはとっても困難なのよ。たとえそれが、レミリアお嬢様のお客様であってもね。だから外に出ないでっていったのに」
「……忙しいっていったのに、今は暇そうじゃないか」
「だったら変わってみる? 紅魔館の一日メイド長ってことで。勤まれば、結構楽しいかもしれないわよ」
「………………」
精一杯の皮肉だったが、傷つけたのは自分自身の心だけだった。
「とりあえず、私も捜してみるわ。一般人にうろうろされたら、お仕事の邪魔ですものね」
「……お願い、します」
「でも、放り投げたトランプに投げたナイフが、ハートのエースじゃなくてスペードのエースを貫いた時は、覚悟をしないといけないわよ。分かってるわね」
「俺のことはどうだっていいんだ。そらが無事なら」
「見つけたらすぐ教えてあげるわよ。変なところに入り込んでいなければ」
清弥は黙礼して振り向きざま駆け出す。その次の瞬間には廊下の奥に消え去ろうとしている。一刻たりと無駄にはしたくないようだ。
咲夜は、あそこまで必死な人間を随分と久しぶりに見たような気がしていた。愛用の懐中時計を取りだして一瞥し、再び胸のポケットに仕舞うと、燭台を窓の桟に立てかけた。
「……ここに来てからというもの、誰もかれもが余裕綽々だから、たまにはああいうのも悪くはないわね。あまり騒々しいのも勘弁して欲しいけれど。走れば埃も立つし」
今度はスカートのポケットからトランプの一式を取りだして、さくさくとシャッフルを始める。カードの裏には赤い髑髏が見事な筆致で描かれている。
「さてさて。私が分からないということは……撒いたパンはもう誰かに食べられてしまったのかしら? それとも、手の上にあったのはパンじゃなくてお茶だったのかしらね。生憎、うちには魔女を焼く竈はついていないというのに」
おもむろにその中の一枚を空中へ投げ打つ。と、虚空から突然出現したナイフが閃光となって、
ターン
壁に突き立った。咲夜は微動だにしないままそちらへ流し目を送る。
いまだに震える短剣が縫い付けたそのカードは、三日月の光を受けて輝く切っ先の先のカードは、
ジョーカー。
すなわち――紅き悪魔。
「そらーっ!」
一日にこれだけ、そらの名前を呼んだのも初めてだったような気がする。無口できょとんとして、少し離れれば自分からてくてくやってきて。彼女はいつも自分の側にいた。最近では一日中を通して、離れる時間がほとんど無くなってしまっていた。名前なんか呼ばなくてもいい距離にいつも存在していたのだ。当たり前のことを気づくのはいつも、それが当たり前でなくなってからでしかない。
咲夜と別れてから、咲夜と出会う前の数倍は捜した気がする。迷路の館の一角で交わした短い会話が、何年も前だったような錯覚。足の裏が熱くなるほど駆け回り、指の指紋が消えてしまうほどドアノブを回し続けた。
館の嫌がらせは続いていた。
あるドアを開けると、奈落の底まで闇は続いていた。踏み抜けば永久に落下する羽目になるところだった。
あるドアを開けると、優しい陽光が燦々と降り注ぐ草原が広がっていた。しかし何故か、太陽があるべき場所にあの三日月が浮かんでいた。
ドアの一つ一つが異界に続いていた。無理もない。この館自体が一つの異界なのだから。霊夢と一緒に大きな門をくぐったではないか。……霊夢? そういえば霊夢は何処にいったのだろう。孤独が心に浸みると、親しかった者の名すらも違和感を訴えてくる。
今、必要なのは一つの名前だけ。
空腹も疲労も絶望もはねのけるのは、蒼く浮かぶ一つの名前だけ。
「そらーっ!!」
「……うるさいわね。こんなに紅い夜であっても、もう少し静かであるべきだわ」
熱に浮かされたような清弥の感覚が、冷笑混じりの言葉によって、重き現実へと引き戻される。
そこは最初に清弥が出発した部屋の前と何一つ変わらない、長い長い廊下の中央だった。左には絵のない額が並び、右には三日月を映すアーチ窓が連なっている。
廊下に備わった扉の一つがゆっくりと開き、中から見知らぬ少女が現れた。帽子に月を模したティアラをあしらい、紫の長い髪は滝のように流れ落ちる。ネグリジェのようにゆったりとした服、抱いた巨大な本には遺失文字、小さな素足は宙に浮かんでいた。
「……誰だ」
「それは住人がいうべき言葉じゃない? 不法侵入者さん」
「一応、こっちはお客様なんだけど。『メイド長』さんに聞いてくれ」
「あらそうなの。で、マナーを弁えないお客様はどたばた走っていったいどちらへ? 一日でテーブルマナーから埋葬方法まであらゆる作法仕来りを覚えられる本は黒いのに貸し出し中なの、ごめんなさい」
「もう問答はいい。迷子を捜してるんだ。そこをどいてくれ。どうせあんたも協力してはくれないだろうしな」
「消極的にでも協力はできるわよ。だって、ここから先は行く必要がないもの。誰も通ったことはないし、誰も通してはならないし、行けば帰って来られない。ここから先は、そういう場所」
少女は三白眼を眠そうに擦りながらそう宣告した。
「……それが、本当だという証左はあるのか。あんたも悪意を持っているんじゃないのか」
「貴方が認めればいいだけよ。まぁ実際行けば分かるのでしょうけど、私は決して通さない……例外は何事にも付き物だけれどね」
そういう少女の背中に、白い魔法陣が浮き上がる。ゆっくりと回転し、乾いた風を風を呼び覚ます。
魔力を熾す、月夜の風。
清弥は唾を飲み込んで弓を構え、矢とスペルカードをつがえる。
「例外になる方法は、貴方自身が求めることね。私の書庫で私の日記を探すぐらいに難しいでしょうけれど」
「力の差は認めなくちゃいけなくても、妖が俺を恫喝することは出来ない。これまでも、これからも」
「レミィがお客にしたがるわけだわ。貴方はとても面白いもの。でも乱暴は止めてね、散らかすと咲夜が怒るの」
ゆっくりと浮かび上がる少女。髪が風で広がり、彼女の目の前で魔導書がぱらぱらと捲られていく――
「さぁお聞きなさい。私はパチュリー・ノーレッジ、知識と禁忌の守護者。今夜は喘息の調子もいいから、いきなりだけどとっておきの魔法、見せてあげるわ」
そういうと、取りだしたスペルカードを中空へと投げ上げる、
「月符『サイレントセレナ』!」
その眩しさに一瞬だけ顔を覆い、
世界は紅から白へと還元を遂げた。
切り出したばかりの大理石で構成された、ような世界。その中央で闇を駆逐すべく、魔女は女神の白き吐息を解き放つ。
光自体が鋭利な刃となって、緩やかに清弥に注ぐ。あまりに優しいが故に、音もなく枝垂れ掛かってこようとするが故に、近づいてみたい誘惑を感じる。だがそこにあるのは死神の鎌だ。
清弥は成すべきことを忘れない。
ただしっかりと、
しっかりと、
ここをくぐり抜けて、
そらを探し出すために、
強力な魔女へと弓を引き絞っていく。
奥歯を噛み締める。
☆
こつ。
こつ。
こつ。
こつ。
こつ。こつ。こつ。こつ。こつ……
部屋で聞こえたあの音には、一向に近づかない。むしろ少しずつ離れていくような気がする。へそを曲げているドップラー効果。幻想郷では物理法則さえうまく機能しないのだろうか。
呼ばれるまま歩いていては、たとえ一本道しかないといっても、いずれは迷子になってしまう。なにしろこの屋敷は広大すぎた。部屋を離れれば離れるほど不安は募る。それに自分がいないと、清弥は驚いてしまうだろう。清弥を悲しませたくはない。出来るなら、早く帰りたい。すぐにでも。
でも、今は出来ない。
どうしても、あの音が気になるから。
……そのようにして、暗い通路をそらが歩いていく。灯火なく窓なく、遥か廊下の先にぼんやりと光が浮かび上がっているように見える。右の壁に手を当て、それを唯一の手がかりとしながら、音もなく歩いていく。
見知らぬ場所で、手を引いてくれる清弥もいない。獲物を籠絡する罠など防ぐすべもない。とても心細いのに、なのに――何処か心地よさを感じている。根拠のない懐かしさを覚える。この感覚はいったい何なのだろう。
自分の手も、
自分の顔も、
自分の姿も、ここでは見えない。
……ならば、自分は誰なのだろう?
なぜ、こんな気持ちになるのだろう?
「………………清弥」
答えてくれる人は、ここにはいない。
手の中が冷えるような気がする。
だけど歩く。清弥がいるはずの場所から遠く離れて。
しばらく歩くと長大な一本道は途切れた。目の前には何でもない扉が一つ。ただ、その扉自体が光苔のように生物的な光を浮かべている。闇の中でないと分からない光があるとするなら、こういう揺らめきではないだろうか。
こつーん……こつーん……こつーん……
あの音はやけに遠くゆっくりと広がっていて、扉はそれに合わせて寄せ返す強弱の光をわだかまらせる。それは安らかな睡眠時の鼓動にも似ていた。
ドアノブに手を掛け、ゆっくりとひねる。
ゆっくりと。
静かに扉は開いていく――
こつーーーん………
こつーーーん………
こつーーーん………
そこは見渡す限りの大広間だった。深き闇のために距離感が失われていたが、今までの狭い通路ではなく、だだっぴろい場所に行き着いたのは明らかだった。
上方斜め上に、紅い月夜を映したアーチ窓が立ち並んでいる。高速道路に並ぶオレンジ色の照明のように、一定間隔で同じ光を注ぐ窓。そこから伸びる紅き月光の斜線は、パイプオルガンの管のように不均等に整列していた。魚眼レンズを通したように歪んでいる。
闇のせいで床と壁の区切りを付けられないが、天地の境界を示すかのように、そらの眼前から消失点の先まで、一対の燭台が等間隔で配置されて、橙色の道を形成している。どうやら床は紅い煉瓦が敷き詰められているようだった。
そこから視線を上げていくと、
こつーーーん………
闇に時計が浮かんでいた。
壁掛け時計。満月ほどもあろうかという、振り子時計だった。丸い円盤状の重りがスローモーションの如く左右に揺れ、そのたびに、
こつーーーん………
文字盤には無数の文字が示されている。この時計は一から十二までを延々と繰り返させられる責め苦を受け続けてはいない。普通の時計であれば一時の場所によく似た形を取った時針の先に書かれている数字は、
――四百九十五。
「………………」
不思議な場所だった。
そらは魅入られたかのように、ぼんやりとその光景を見つめていた。忘我の心境。声を出せば何かが変わってしまうような、変えてはいけないような、そんな気持ち。自分の中がからっぽになって、自分ががらんどうの筒になってしまったかのような――ふと、そんなことを考えた。
「…………そこにいるの、だぁれ?」
蝋燭の炎が一斉に、こちらに向かって揺らめいた。湿った風がそらの長い髪を少しだけ解きほぐす。
「………………」
幼い少女の声だった。
そらの百尺あまり前方、伸びる燭台の道の中央に、幼子が立ち上がった。しばらくの間はそらをじっと見つめていたが、やがてまたかがみ込み、ごそごそと動き始める。
「………………」
そらは少し迷ったが、道を辿ってゆっくりと少女の方に歩き始めた。理由なんてなかった。ただ魅入られたかのように、覚束ない足下で、微妙に揺れながら。
接近すると、時計の音に加えて、小さく壁をひっかくような音が続いているのが分かった。
少女は膝を折り曲げて、チョークを使って床に落書きをしていたようだ。一心に、手を休めることなく。紅い煉瓦の上には、今まで描いていたであろう、ぐにゃぐにゃ曲がった線が踊っている。
「……………………」
そらはそれをじっと見つめ、それから少女を見つめた。紅い瞳に金の髪。背中からはカラフルな宝石が生った棒のようなものが二本伸びていて、少女が動くたびに蝋燭の光を反射していた。カラフルに輝いていた。
食事の時に上座にいたあの少女にどこか似ているな、と思い至る。
不意に、少女が顔を上げた。自分の絵を指さして、
「……できた。じょうずでしょ、これ」
「………………」
「これ、霊夢。そっちは魔理沙。しってる?」
頷くそら。少女は顔を綻ばせ、歯を見せた。
「……これは?」
「それはね、人のしんぞう」
「これは」
「こわれちゃった高い塔」
「これは」
「内側から見たがいこつ」
どれもこれも、同じように歪んでいて区別が付かなかったが、嬉々として少女がおこなう説明を、そらは神妙に聞いていた。
「おねえさんは、どうしてここにきたの?」
不意に少女が、そらの顔を見る。そらに興味を覚えたらしい。
「……よく、わからない」
「ふうん」
幼子が立ち上がる。決して背が高いとはいえないそらよりも、もっとずっと小柄だ。見上げるようにして立ち、ゆっくりと、ゆっくりと手を伸ばす。なんの屈託もない、純粋な表情のまま。
「………………」
それが、そらの細い首に伸びる、
伸びる。
そらは動かない。ただじっと、少女を見つめる。その細い手が、毒々しいまでに紅い爪がそらの首に掛かる、
――寸前で、手を動かすベクトルは急に方向転換し、そらの服の腰のポケットをポンと触れた。
「なんか入ってるね」
「………………うん」
そらがポケットから取りだしたのは、小さな竹笛だった。自分達の小屋で触れてから今までずっと持ち歩いていたのだ。そら自身も雰囲気にのまれていたのか、そのことを少しの間だけ忘れていた。
「おねえさんの?」
そらは首を振る。
「ううん。清弥の」
「……ふぅん。ちょっと欲しいけれど、大事そうだからそのままにしておくね。大事にしてね」
そらはもう一度頷いた。両手で握り締める笛は、何故か暖かい。
「もう帰った方がいいよ。清弥ってひと、きっとさがしてる。ここは『とおい』からね」
こつーーーん………
少女の声がやたら遠くなった。両者とも動かないのに、少女の姿も遠くなる。不思議だったが、その通りなので頷いた。清弥の元に帰らなければならない。でも。
「……寂しくないの? 一人で」
「あたしはさびしくないよ。だって、姉様が遊びに来てくれるもの」
「そう」
そう答えた少女から、先程のような風が届く。何処か不吉で、何処か湿った、生ぬるい風。蝋燭の炎がまた一様に揺れる。
そらには見えなかったが――
弱い炎は、一瞬だけこの世界全体を照り返した。
この狭き無限世界全て……床にも壁にも天井にも、隙間無くびっしりと、四百九十五年分の全てを示した無数の落書きが――あることを。
だが、真実を示す炎がこの世界に満ちることはなく、また闇が全てを包み眩ます。
「……楽しかったわ、おねえさん」
そらは頷いた。不思議な少女だが、怖くも嫌いでもなかったから。
「ありがとう。わたしはフランドール。あなたは?」
だから、そらは竹笛を握り締めて、
喉が震えるその通りに、
――自分の「名前」を答えた。
☆
十六夜咲夜が仲裁に入った時点で既に、戦いの趨勢は決していた。調子の悪い時ならいざ知らず、本気で力を揮うパチュリー・ノーレッジに勝てる者など、幻想郷全体に於いても数少ない。おまけに清弥は重力にすら縛られているただの人間なのだから。籠の中で回転器具を必死に回すハムスターと、それを外から愛玩する人間ほどの差ともいえるだろう。
「……パチュリー様、お役目とはいえ少し容赦なさ過ぎるのではないですか?」
「貴女に似合う科白じゃないわよそれ。どこかの悪の組織の中級幹部みたいじゃない」
「メイドは完全なヒエラルキーの中にしか存在しないんですよ。服さえ着てればメイドって訳じゃないんです」
そういいながら、隙を見て駆け出そうとする清弥の腕を引っ張る。
「もう。こんなに傷だらけで走り回ったら、それこそ簡単に死んでしまうわよ」
「そらを、捜さないと、いけないんだよ、俺、は……!」
「直情径行は相手するの疲れるわね。いい勉強になるわ」
歯噛みしつつも力無く項垂れる清弥。悔しいが咲夜の云うとおり、今の自分には何の力も残っていない。咲夜の腕も払いのけられない。意識すら朦朧としている。でも、諦めるわけにはいかない、諦めたくない、諦めない。そらに会いたいから。そらを守りたいから。
……何故か耳の奥で、笛の音が聞こえた。
自分のやるせない気持ちを鎮めてきたあの小さな竹笛の音。人妖の境界を示すあの寂しげな響き。幻聴だろうか。でもなぜ、今聞こえるのだろう。
一瞬、音が遠ざかるような気がして――
目の前の何でもない扉が開き、中からそらが出てきた。
幻覚だろうか。
「………………………清弥」
幻覚では、ない。
驚く紅魔館の住人達の中央を抜けて、清弥の惨状を理解したそらが、崩れ落ちる清弥を抱き留めた。
「黙って、どっかにいって、ごめん……ごめん、なさい」
なんだかそらが泣いてるような気がした。
それがどうしてこんなに嬉しいのだろう。自分では笑って、気にするなといったつもりだったのだが、聞こえなかったのだろうか。だったら、聞こえるようにもう一度伝えよう。 ――そらが何処に行ったって大丈夫だよ。
俺が何回でも見つけて、必ず守るから。
客人二人を連れた咲夜の姿が消えると、パチュリーの隣に入れ替わるように影が立った。この館の主でもある、紅の少女である。
「レミィ。霊夢と遊んでたんじゃないの?」
「もう夜も明けるからね。人間は朝帰りの時間なのよ。それよりもパチェ、無力な相手をいたぶるなんて貴女らしくないのではないかしら?」
「本当に無力ならね」
魔女は自分の頬を指し示す。そこに残った一本の血の筋。掌でそっと拭うと、そこには疵一つない、病的に白い肌。
「ふうん。それなりに面白いお客だったわね。またゆっくり話をしたいわ」
「霊夢が? それともあの少年が?」
「パチェ、貴女は全ての真実を日陰に求めるのでしょう?」
「日向にしかない真実もまたあるものよ。それはさておいて、レミィは夜明けなのにまだ寝ないの?」
「今日はこれから『日更かし』なの。ちょっと悪い子になっちゃいそうだわ」
「ちょっと?」
夜と血の王女はクスリと微笑を残して、そらが開けた扉に消えていく。
「――フランドール、お久しぶりね。元気にしていたかしら?」
「あ、レミリア姉様。聞いて聞いて、さっきね、とっても面白い人にあったんだよ」
「ふぅん。どんな人?」
「女のひとで、なんだかフランに似てるの」
「……確かに、面白いわね……」
こつーーーん………。
姉妹の笑い声が、揺れる古時計の音と共に遠ざかっていく。いつの間にかアーチ窓に映る空には藍色と朱色の境界線が生まれつつある。パチュリーはそれを眩しそうに見つめながら、ゆっくりとドアを閉め、鍵を掛けた。
────────────────────
……さて、まだ書いておくべきことは多いが、既に夜は明けた。その後の流れだけを簡単に記しておく。
清弥とそらは程なくしてほぼ監禁状態だった霊夢(目の下の隈は無惨としか言い様がない)と合流し、這々の体で家路を辿った。また、紅魔館の哀れな門番は予想通りというべきか、黒い魔法使いの侵入を許してメイド長から厳しい罰を授けられたらしい。黒い魔法使いは実際の所、借りた本を返しに来ただけだったのだが、手の込んだ意地悪に一意専心するところが、彼女の彼女たる由縁だろう。
なお、三人はすっかり疲れ切っていたので、何故あんな洋館に行かなければならなくなったかすっかり失念していたらしい。振り出しに戻ったその怒りを霊夢の叫びに代弁させて、この章の結びとする。
「早くお風呂の修理に来なさいよ、あの年齢不詳メイド!」
|