紅魔館



 酷暑。大地の水は干上がり、街の人々が涼を求めてビルの陰を彷徨する不毛な光景が「この国」のあちこちで展開される季節。これらは主に自分達の必要によって自分達の街を拡大したことが原因なのだが、苦肉の策としてビルの屋上に緑地を作るなどとは、本末転倒も甚だしい。人間はそこに憩いを見るかもしれないが、妖怪にとっては失笑の対象にしかならないだろう。
 もちろんそれは現世を惑う人間の話で、幻想郷では暑い夏ほど涼しい水系と樹陰が際だってくる。
 水無月に梅雨の来る結界の外と違って、水無月は本当に水がない季節なのだ。この世界では未だ、太陽と月が手を取り合って暦を進めている。闇と月光の方がより強き支配力を及ぼしている。
 そして数多くの夜の間には、月が気紛れに紅い衣を纏って力を揮う――そんな日があるのもまた、必然なのかも……しれない。

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 博麗神社に程無い建物。
 二人の客人が寓居としている小さな小屋。
 清弥が板張りの床に己の道具を並べて、順に手入れをしている。その様子をじっと見つめているそら。
「……これは?」
「それは鏃。数が少ないから、滅多なことじゃないと使わない。代わりに木の枝で矢を削り出す。返しは一応つけるけど、一撃で倒せるなら特に必要ってわけじゃない」
「………これが、弓?」
「そう、弓の本体。今は外れてるけど、弦は先から……こうやって、張る。この弓はちょっと変わってて、釣り竿としても使えるし、火も熾せる。前の持ち主も誰かに貰ったっていってたな」
 清弥の瞳が一瞬遠くなる。
 中央の持ち手が特殊に加工された弓は、明らかに遠い年代が窺える窺える逸品だった。弓の中央に魔力を籠めた札を挟み込んで魔法陣を展開するギミックがついていて、その中央を打ち抜くことによって、神罰の如き一撃を生み出すことが出来る。もちろん歴代の遣い手がそうであったように、清弥によっても常日頃から絶え間なく整備され磨かれて、今も輝きを失わない。
「で、これがいつも使う革袋に、呪符(スペルカード)。呪符はそろそろ切れかけてるから補充しないとな。手順があって面倒くさいんだけど」
「………じゃあ、これは?」
「あぁ……それは竹笛だよ。調べを奏でるのに使うんだ」
「調べ?」
 そらが差し出した笛を口に当て、息を吹き入れる。一番下から上まで、音の階梯をゆっくりと登ってみる。
 空気に滑らかな墨を入れていくような――その旋律。
 そらは目を大きく見開いた。彼女には珍しい顕著な反応に、清弥もまんざらではない表情を浮かべる。
「気に入った?」
 答えは不必要だった。そらの目が、更なる演奏を求めているのは間違いなかった。それに答えようとして……ふと、思いとどまる。
「……………清弥?」
「……実はさ。一曲しか知らないんだよ、俺」
 これを奏でていたのは、孤独の影に抱かれていた頃だった。自分の指は一人で生きるための曲しか知らない。そらや霊夢達と一緒に生活する今の自分には、あまりそぐわないのではないか……それは贅沢な望みなのかもしれないが。
 見慣れぬ清弥のそぶりに、そらは怪訝な表情を浮かべている。
「ごめん。また、必ず聞かせるからさ」
「………………」
 清弥はぎこちない笑顔と共に、笛をそっと置いた。そらの視線は依然、小さな竹笛に注がれている。
 今の自分には……そらに旋律を届けるために、新しい曲が必要なのかもしれない。
「それ、気に入ったなら持っておいていいぞ」
 そらはおずおずと、竹笛を手に取り眺め始めた。清弥は彼女の様子を静かに見守っている。
 と、小屋の戸から影が差し込んできた。
「ん? 霊夢か?」
「聞き覚えのない音符が舞う場所には、見知らぬ人々が住んでいるのね。前に来た時は只の納屋だったのに、手品みたいじゃない」
 知らない女性の声がした。影もいつもより長い。
 清弥とそらが顔を向けると、逆光の中に長身の女性が立っている。表情は見えないが、不敵に笑うような声と気配だった。
「誰だ」
「警戒すべきじゃないわね。だって、貴方の時間では遅すぎるから……それよりも、あの年中昼行灯の巫女は何処かしら? 神社にはいなかったみたいだけど」
「霊夢ならさっき、暑いからって水風呂に入るっていってた」
「言い訳は水垢離にするつもりかしら? よくよく堕落しているわね」
「あんた、霊夢の友達か」
「私ならあの巫女との友情を断ち切るためだけに、悪魔と契約しても惜しくはないわね。もうしてるから無理だけど。ありがとう」
 そういうと、女性は白日の中に消えていく。召使いのような、見慣れぬ衣装だった。
「……誰だろうな」
「………………」
 そらは沈黙したままだった。先程見せた感情は一変し、能面のように乏しい表情に戻っている。むしろ先程の表情の方が稀なのだ。初対面の相手に緊張するのも無理はないと思いつつ、清弥が道具の手入れに戻ろうと手を伸ばした矢先、

 ドオオオオオオオオオオオオオン!

 もの凄い轟音が本殿の方から響き渡った。森の鳥達が一斉に飛び立つ。
 即座に弓を握って弦を掛けた清弥が、
「ここにいろ、そら」
 彼女の反応を待たずに飛び出した。
 境内から植え替えた向日葵の道を通り抜け、森から飛び出す。
 空には見事な虹が架かって――
 いや、それは順序が逆だ。湯殿から……正確には湯殿が存在していた場所から水柱が立ち上り、建物を構成していた木材は四方に飛散していた。
 その上空には、裸の人影が浮かんでいる……霊夢だ。周囲を二つの球体が旋回している。霊夢の使う式だろうか? その向かいには、さっきの女性が浮かんでいるようだった。挑発するかのように腕を組んでいる。彼女の周囲にもまた、複数の飛行体が飛び回っていた。
 明らかに友好的な雰囲気ではない。
 清弥は霊夢に極力焦点を合わせないようにしながら、二人の対峙を見つめている。
「……………清弥?」
 背後から声がした。
「来るなっていったのに……俺の後ろにいろよ、そら」
 歩み寄ってきた少女を庇うように立ち、二人して上空の対峙を見上げている。
 と、
「清弥さん」
「お、おう」
 霊夢の呼びかけに応じ、清弥が侵入者へと矢をつがえようとして、
「違う」
「え?」
「バスタオル取ってきて」
 当然の要求だった。


 そらは最近になって、お茶の淹れ方を覚えた。毎日こなすたび、少しずつだが作業効率も向上している。彼女がこうやって、少しずつでも日常作業に興味を抱き始めたのはいい傾向だと、清弥は考えていた。
「うわ、なにこれ。真夏の日中に熱いお茶なんて。これがお客に対する礼儀?」
「私達も熱いお茶飲んでるからいいでしょ。それに暑い時に熱いお茶飲むのが健康にいいっていうのは、階段でジャンケンする時にはチョキで勝つべきだと同じぐらい、当たり前の事象なのよ」
「パーでも変わらないわ。ぱ、い、な、つ、ぷ、るでしょ」
「どうでもいいけど、俺は冷たい方がいいな」
「清弥さんは手水舎で水飲んでて」
 そらがお盆で運んできた煎茶を、向日葵畑を眺めながら四人してずずず……と啜る。
「……で、お誘いには応じてくれるのかしら。お嬢様をこんな強い日光の下に出すわけにはいかないんだけど」
「受けざるを得ないでしょ、今回は」
「今日は気前がいいのね」
「冗談じゃないわよ。お風呂がもののみごとに壊れちゃったじゃない。このままじゃ毎日が焦熱地獄だわ」
「表現に語弊があるわね。貴女の家の湯殿を壊したのは貴女自身ではなくて? それに巫女なら巫女らしく、滝にでも打たれにいけばいいんじゃないの? お嬢様はともかく、私は歓迎なんてしないわよ」
「あんた全然責任を感じてないな。お風呂で溶けてる所にいきなりナイフが落ちてきたら、きっと清弥さんでも吃驚するでしょ?」
「たとえそれが事実でも、びっくりはしても風呂を木っ端微塵にはしないと思う」
「あら貴方、ちょっといいこというわね」
 メイドはしれっとした顔で湯飲みを傾けている。憎たらしいほどに冷静で、おまけに汗一つかいてない。霊夢が受けた危害なんて決して起こしそうにない表情。にっこりと笑って、
「……そうね。貴方達も一緒に来ないかしら?」
「え? 俺たちも……?」
「うちのお嬢様って楽しい人間には興味津々なのよ。私が説明すればきっと喜んで下さるわ」
 清弥は少し考える。そらは、自分がいこうといえば断りはしないだろうが。目の前のメイドと霊夢とはおおよそ微妙な関係が窺えるが、彼女自身については何故だかそれほど悪い印象は受けない。それこそ、自分に悪意をぶつけて喜んでいる魔理沙などに比べれば。
「あの、まず貴女のことを」
「………このお茶、美味しいわね。珍しい」
「珍しいって何よ」
「貴女が淹れたのね」
 メイドはそらに向き合った。そらは表情を変えないが、少し下を向く。ほめられているということは分かるらしい。
 図らずも、その一言が清弥の背中を押すきっかけになった。
「で、まだあなたの名前を知らないんだけど」
「そうだったかしら。私は名前はね、」


 ナイフのような三日月が紅い空を登っていく。
 夕闇迫る灼けた大気の下に、その洋館はひっそりと建っていた。博麗神社から歩くこと数刻。湖畔の一角に聳えている。この場所も博麗神社同様、人界遠い秘境に溶け込んでいた。誰も気づかないかもしれないが、誰が知らなくてもこの館は存在している。
 視えぬ運命の理によって。
 神社からこのかた、頬を膨らませっぱなしだった霊夢が溜息をつく。
「……やっとついた。飛んでいけばあっという間なのに、わざわざ暗い森の中を抜けるなんて。闇の中を歩くのはいい気持ちがしないわ」
「闇を照らすのが巫女の仕事でしょうに」
「お天道様が勤務中は構わないのよ」
「それじゃ食前のいい運動になったってことにしておきなさい」
「どうせ嫌がらせの精進料理でしょ」
「悪かったな、空飛べない俺達のせいで。なぁそら」
「………………」
「あー。正義の巫女の悪者化反対。はんたいはんたーい」
 メイドは完璧な微笑を浮かべたまま。
 鉄柵に沿い始めた道を辿ると、やがて巨大な鉄門に辿り着く。蝙蝠の紋章に掛けられたノッカーをメイドが二度ほど叩くと、門は軋みながら静かに開き始める。
 真正面に壮大な建物が鎮座している。壁という壁を真っ赤に塗られた館。古く、異国の情緒を滲ませる外観。淀む何物かの気配。窓が少ない。夕日に染まってバケツの染料をぶちまけたようになってしまった灌木。振り向けば夕日は遠く山脈の向こうに霞み、蝉の鳴き声は重く遠くひび割れる。夜と昼とが契約を交わす場所。
 夜の色が早送りのように描き代わり、刻の砂が零れる毎に館が大きくなり、蘇芳色に輝くように……清弥には感じられていた。
 心細くなったのか、そらは清弥にすがりつき、清弥はその反対の手で相棒の弓を握り締めた。
「な、なんだよここ」
「レミリアお嬢様のお屋敷よ。私の職場でもあるわ。綺麗でしょ」
「こんなでかい建物、見たことない」
「知らないことは罪ではないれけど、今度からは覚えておいてね」
 その言葉に何故か、唾を飲み込む。
 霊夢はきょろきょろと周囲を見渡す。近くにある番屋が無人である。
「あれ? いつも暇そうにしてる門番、今日はいないわね」
 メイドが黙って空を指さした。
「あーあー」
 清弥達が見上げれば、灼けた雲の向こうで時折、虹のような光芒が放たれては消えている。一定のペースを保ちつつ、変幻に可変しながら飛翔を繰り返す。虹の向かう先から、時折黒き稲光が反撃しているようでもある。
「私が博麗神社に出掛ける頃から侵入者と戦っているらしいんだけど、まだ決着がつかないようね。負けるようなら一週間は食事抜きだと申しつけてあるから、大丈夫だとは思うんだけど」
「……なんだか二週間ぐらいはご飯にありつけなさそうな雰囲気ね。神様に武運をお祈りして上げましょうか」
「あんたが祈ると逆効果だからやめてね」
「まぁね……どうしたの清弥さん」
「黒い閃光?」
「深く考えることはないわ」
「……………………」
 清弥は、自分の想像が的中しないことを切に願った。


 待機部屋に通されると、霊夢とそらは早速バスルームを使いにいってしまった。清弥も勧められたが、遠慮して水桶とタオルで済ませる。霊夢は馴れた振る舞いだったが、やはり得体の知れない状況を簡単に受け入れる気になれなかった。
 身支度が終わって暫くすると、軽快なノックの音が響いた。
「どうぞ」
 入ってきたのは例のメイドだった。
「汗は拭ったみたいね。レミリア様の食卓に出るのであれば、少しなりと身なりを整えてもらわなくてはいけないの」
「すみません」
「しかし、霊夢のところに居候なんて、よくそんな気になれたわね。感心するけど」
「……なんか出会った人みんなにいわれてます」と苦笑い。
「私としては、ナイフをスプーンに変える奇術より難しいと思うわよ」
 女性はそういうと、清弥の目の前に拳を突き出して、手を開いた。
 一瞬の後、指の間には三本の鋭利な短剣が挟まれて、清弥の眼前で煌めいている。
「…………………」
「驚かないのね。珍しいわ。人間なのに」
「人間以外とは、結構縁があるから」
「そう? それなら誘った甲斐があったわ」
 空中に飛んでいたメイドを護り、霊夢を驚かせたのはこれらしい。ようやく腑に落ちる。なるほど、屋敷の薄暗さと相まって氷の如き刃のよく似合う女性だなと、思う。何故かここに至ってもまだ、最初に感じた良い印象は消えない。消えないけれど……それと同時に「またか」という暗い感情が影をさす。
「霊夢の周りは、本当に百鬼夜行だな。でも、俺達は食われたりしないぞ」
「俺達、ね」
 微笑と共に呟いてから、
「どうこうするつもりならもう死んでるわよ、貴方。貴方は自分の時間に無頓着すぎるもの……たとえそれが、少年の特権だとしても」
 死の刃を翳す掌を一度降ると、次に現れたのは古風な懐中時計だった。午後七時半を示して、時を刻み続ける。
「それに私は人間だから、滅多に人間を襲ったりはしないわ」
「……滅多に、かよ」
 懐中時計を胸元に仕舞うと扉を開いて少年を招く。
「さて、お待たせしたけれど、そろそろ夕食の時間。あの二人もそろそろ帰ってくる頃ね」
「レミリア様、ってのは妖怪なのか」
「私の名前の通りよ。私は、あの方について自分で判断することはないわ」
 教えて貰った彼女の名を、清弥は胸中で反芻する。
 ――その名、十六夜咲夜。
 満月の脇に控える、血と懐中時計の奉仕者。


 夜の帳が舞い降りてくる。
 館の少ない窓が、夜空に向かってぱたぱたと開かれていく。
 パタパタパタ、
 蝙蝠の羽音も同様に、パタパタパタ。
 館自体が意志を持って覚醒する――そんな逢魔が時。


 巨大な広間だった。
 紅い三日月を浮かべている。大きな天窓。闇を縁取るように、いくつもの燭台が並び立ち、まぁるい炎を浮かべていた。
 荘厳な世界。
 が。
「霊夢ぅ〜。待ってたのよぉ〜」
 その場を統べるべき館の主は、その場に相応しいとは到底言えなかった。予想外の事態に清弥は軽い頭痛を覚えている。
「お嬢様、お客様とのお食事なんですから、最初ぐらいはきちんと席について下さい」
「霊夢と一緒がいい」
「駄目です!」
「私も……できれば一人がいいんだけど」
「そんなぁ」
 メイド長……十六夜咲夜が怒ったりなだめたりする相手。あるいは、霊夢がこの上なくうんざりするその相手。
 自分のために準備された椅子の前で立ち尽くす霊夢に、まるでダッコちゃん人形のようにべったり抱きついたその少女こそが、
 夜の支配者、
 闇の統帥者、
 魔物達の女王、
 ……たるべき、
 純白の紅少女、レミリア・スカーレットだった。
 のだが。
「やだ。霊夢と一緒がいい。咲夜がお出かけするなっていったから、今まで我慢してたっていうのに?」
「十尺も離れる訳じゃないんですし」
「じゃぁわたしの席をここに持ってきて」
「それでは館の主としての威厳保てませんから」
「そんなもの、竜王の一匹でも倒せばいつでも借金帳消しに出来るじゃないの」
「レミリア様は印度へ経を取りに行くお坊様の弟子ですか?」
「……だからここに来るの嫌だったのに」
 霊夢は心底うんざりしているらしい。清弥もそらも、きょとんとして二人の様子を眺めている。
 ―――数分後。
 咲夜が四苦八苦した結果、どうにか落ち着いたレミリアがようやく席に着いて、空気が静寂を纏った。
 再び、晩餐の準備が始まった
瞬間に清弥達の眼前には暖かい料理が列を成して並んでいた。上座のレミリアとその横に控える咲夜は全く動いていない。なのに、湯気を挙げて食欲をそそる大皿の数々が、蝋燭の明かりに照らされている。
 大きな椅子の片側の肘掛けに寄りかかって、レミリアはにっこりと微笑んだ。
 彼女は精緻な美そのものだった。
 美しすぎた。
 怖いほどに。狂うほどに。
「霊夢のほかにもお客様がいたのに、気を遣わずにごめんなさい。咲夜が腕によりを掛けた料理、きっと美味しいと思うの。わたしには分からないけれど……さぁ、一緒にこの夏の夜を楽しんでくださいな」
 レミリアの小さな手には大きなグラス。咲夜がワインボトルを捧げ持ち、真紅の液体を半分だけ注ぐ。その色が紅すぎて、気が遠くなる。
 カチャ、
「どうしたの清弥さん。食べないと損よ。どうせ神社じゃこんな食事は食べられないんだし。これは人間用だから大丈夫よ」
 向かいに座った霊夢が、ナイフとフォークを器用に使って、川魚のソテーを口に運んでいる。縁がなさそうなのに、どうやって正しいマナーを覚えたのだろう。
「これは、って。霊夢……」
「ほら見て、このナイフ銀製よ。いい根性してるわよね、レミリアも。ほらこれ、ニンニク炒めてあるし」
 夜の王女はワイングラスを傾けている。
 そして、ゆっくりと口元を拭う。
 顎に垂れる紅い雫が、
 口元に光る長い牙が、
 ……紅い瞳がこちらを見ている。
 俺がレミリアを窺っていることを、レミリアは承知で笑っている。
 ………………。
 茶番だと思った。
 闇を誅すべき巫女が、紅い月に照らされた洋館の中で、闇を広げる存在と食卓を囲む。いかに常識外れが凝り固まったような霊夢でも、これはありえない。
「……清弥?」
 いつものように袖を引くそら。
 無理にでも笑顔を作ろうとする清弥。過程はどうあれ、何も知らない彼女をここに連れてきたのは自分だ。
「そらは、食べればいいんだよ」
「食べ方分からない」
「私の真似するといいよ。そんなに難しくないから」
 そらは霊夢の方を見遣り、清弥の方を見遣り……食器に手を伸ばそうとして、ゆっくりと引っ込め、下を向いた。
 そんな二人を遠目で眺めながら、レミリアはそっと咲夜の名を呼ぶ。
「なんでしょうか、お嬢様」
「……面白い二人ね」
「そうでしょう」
「わたしは怒っているのかもしれないわよ」
「それでも構いません。お嬢様の時間が潤うのなら、それで」
「今日が三日月で良かったわね、咲夜。今夜は長い夜になりそうで……楽しみだわ」
 レミリアはゆっくりと盃を傾ける。
 鉄の味が、一層しっとりと舌の上に残る夜だ。


 食事が終わると同時に逃亡を図った霊夢は、速攻でレミリアに捕まった。
「一緒のパジャマで寝ようね、霊夢」
「寝るつもりなんてない癖に!」
「わたしの決めた運命からは逃れられないのよ」
「たーすーけーてー」
 断末魔のような叫びと共に、二人の少女は屋敷の奥へと消えた。
「大丈夫なのかアレ」
「どちらかのパワーバランスが崩れない限り大丈夫よ。万一の時は、屋敷が丸ごと吹っ飛ぶか、世の中が魔界になるぐらいだから、気楽に考えておけばいいわ」
「……それは無理だ」
 清弥とそらは、咲夜によって客人用の寝室をあてがわれた。ベッドが二つに、洗面所、鎧戸の入った窓が一つ。燭台に浮かび上がる部屋は、気が滅入るぐらいに豪奢だった。
「朝が来れば起こすから、部屋からでないようにね。貴方達の為にならないから」
「そういうことをいうと何かが拙いことがおこってしまうのが定石だと思うんだけど」
「人間の好奇心は罪作りよね。手品の種なんて知っても詰まらないだけでしょうに」
 咲夜はそういうと不敵な笑みを浮かべる。
「さぁ、今から忙しいので失礼するわ。お休みなさい、素敵なお客様達」
 完璧な微笑みと共に風のように去ったメイドを見送って、清弥は溜息をつく。
「……そういいながら、鍵も掛けさせないんだぜ。襲いますと言わんばかりじゃないか」
「清弥? 襲う?」
 疲れたのだろうか、目を擦っているそらが、小首をかしげる。
「あぁ。ここは化け物屋敷だ。霊夢がいたから影響されてたけど……油断しちゃいけない。彼奴らは人間をからかうことを生き甲斐にしてるんだから。ごめんな、こんなところに連れてきて。それでも今、そらを守れるのは俺だけだ」
「清弥?」
 武器を持ってきて本当に良かった。弓の弦を張り替えながら、清弥はそらにベッドを勧める。
「俺は眠くないから、大丈夫。ここで起きてるから、そらは安心して寝てくれ」
「清弥……………」
「どうした?」
「………………」
 そらはじっと清弥を見ていたが、やがて促されるようにベッドに入った。
 一本一本矢を取りだしては確かめつつ、清弥は声を掛ける。
「安心して寝ろよ。……おやすみ、そら」
「………………………おやすみ、清弥」
 いつものように挨拶を交わし、
 ――暫くして、静かな寝息が聞こえ始めた。
 安堵と共に緊張も高まる。
 本当に、そらを守れるのは自分だけなのだから。
 ぐぅぅ。
 腹の虫が鳴った。身体にも疲労を感じる。
「強情張らずに、飯は食っておくべきだったなぁ」
 色んな意味で、長い夜になりそうだった。

      ☆

 こつ。こつ。こつ。こつ。こつ。こつ。
  こつ。こつ。こつ。こつ。こつ。こつ。
こつ。こつ。こつ。こつ。こつ。こつ。
  こつ。こつ。こつ。こつ。こつ。こつ。

 規則正しい音に、そらは目を覚ました。
 蝋燭は燃え尽きていた。鎧戸の隙間から、紅い光が漏れている。廊下に繋がる扉の隙間からも、薄く白い明かり。
 静かにベッドを降りる。
 鎧戸には鍵が掛かっていなかった。
 ゆっくりと開いた――
 巨大な三日月が夜空に浮かんでいた。
 夜空そのものが紅月だといってもいい。
 紅い月光を受けて、屋敷も一層輝いている。妖しい霊気を漲らせているかのように。
 ベッドの向かいを見ると、弓を抱いた清弥が小さく舟を漕いでいた。外から入り込む冷気が気になる。自分が使っていた上布団を掛けてあげた。

 こつ。こつ。こつ。こつ。こつ。こつ。

 連続して響く乾いた音は、廊下の方から聞こえてくるようだった。何だろう。清弥は自分のことを護ってくれるといった。自分から危険なことをするわけにはいかない。それは清弥のため。
 でも、あの音がどうしても気になる。

 こつ。こつ。こつ。こつ。こつ。こつ。

 少しだけ。
 少しだけ――確かめてみよう。
 この扉の向こうに、何があるか、だけ。
 誘われるように、
 そらはドアノブに手を掛け……回した。