人形師



「………………」
 じぃっと覗き込む。
 「それ」は自分が持っているものと同じ形をしていて、
 「それ」は自分が持っているものと同じような光を湛えていて、
 自分の持っているもの以上に、綺麗に透き通っているのというのに。
 「それ」はただ明度を下げて、逆光で薄暗い部屋の姿を……その中央にいる自分の顔を歪めて映しているだけ。「それ」から視線を外し、隣にある三面鏡に向かって同じように相対してみる。見返してくる三対の「それ」は、さっきまで見つめていた「それ」と、いったい何処が違うのだろう?
「なんだ? そんなにその人形が気になるのか?」
「………………」
 人形?
 ……そう。今、自分の眼前に鎮座するのは可愛らしい衣装を纏った人形。
 人形に備わった「それ」は、蒼い瞳。
 理解はできる。清弥も霊夢も、今隣にいる魔理沙だってそういっている。だから、これは人形なのだろう。人に似せて作られた玩具。人の形をさせられた物体。美しい瞳として嵌っているのは只の硝子玉。
 魔理沙は重々しく腕を組んで見せる。
「まぁ、この仏蘭西人形自体を論評するなら、別段不出来な訳じゃないし、取り立てて立派に豪勢に作られてる訳じゃない。何処にでも在るようでここにしかないような、そんなどうでもいい人形だな。主人に媚びを売ってないところは人形としちゃ落第点だが、ある意味で美徳かもしれない」
「……媚び?」
「ただ、厄介な点があるとするなら、この人形の持ち主が霊夢だってことだ。人形は持ち主に影響されるからな。ほら……そう指摘されると、もともとは整った顔立ちだったものが、なんだか性悪に思えてくるだろう? こいつに原罪は無かったというのに、不憫なことだぜ」
「…………?」
 もう一度、瞳のクリアブルーを凝視する。
 そこに映るのは、奇妙に湾曲した自分の顔。この人形は霊夢に似ているのだろうか? そういわれればそう見えるような気にもなるし、全然似てない気もする。
 やっぱり、分からない。
 どうして?
 こんな風に惹き付けられるのだろう? 
 目を離せないのだろう?
「まぁあれだ、人形を大切にする奴にはまともな奴がいないってのが巷間の定説だな。逆を言えば、その辺りが正常でいられるための境界線ともなっているわけだが。そらもその辺、うまく見分けられるような奴になってくれば、清弥なんて変な奴に引っ掛かることもなくなるわけだ。精進しろよ」
「………………」
 どう答えていいか分からないまま、口を開けようとして、
「……霊夢」
「へ?」
 魔理沙が振り向くよりも早く、裏表を紅白の日の丸であしらった、やたら目出度いデザインの団扇が魔理沙の頭をペチリとはたいた。
「オイ何するんだよ霊夢、いきなり」
 巫女装束の腕をまくり上げて、汗をダラダラとかいた霊夢が腕組みをしている。珍しく本気で不機嫌なようだ。
「人の部屋に勝手に上がり込んだ挙げ句、人の人形にぐちぐちぐちぐち文句垂れるなんていい度胸ね。そんなに暇なんだったら、あんたのあの小屋の、埃まみれで趣味の悪い物品を伊呂波順に紹介してあげればいいんだわ」
「私はプライベートと仕事をわけるタイプなんでな」
「ふぅん。巫女の部屋を荒らすのも仕事なわけね」
「無闇やたらと異界送りにされないための護身術をそらに教えるのは有益だと思うがな」
 そういうが早いか、魔理沙は霊夢の腕をすり抜けて廊下を駆け去っていく。
「あ、待ちなさい! あんたも食事の準備を手伝うのよ!」
「どうせ全部清弥にやらせてるんだろ」
「言い訳無用よ!」
 魔理沙を追って霊夢の姿が消え、
「そらさんもー、いつまでも私の部屋にいないでよねー。さっきから清弥さんが呼んでるわよー」
 誰もいないのに、霊夢の方に向かって律儀にうなずくと、そらは歩き出し、
 鎮座する人形をもう一度見つめた。
 人形の表情は笑ったまま凍り付き、
 蒼い瞳は何も答えないから、
 ……やっぱり、よく分からない。

      ☆

 ここで暮らし始めて数週間が過ぎた。
 その早い段階で、清弥にはおおよその確信が芽生えていた。博麗神社におけるヒエラルキーについてである。
 霊夢と魔理沙は同格だ。霊夢がこの社の主であるにも関わらず、魔理沙は霊夢に遠慮することなく振る舞い、霊夢と同じように食べ、霊夢と同じように文句と嫌味を言い続ける。どうやら二人は遠慮の垣根を取り払うぐらいには相当長いつき合いらしい。この分だと、いずれ現れるであろう霊夢の友人達もみな同じような性格を備えているだろうと容易に想像できてしまって、なんだか憂鬱になる。
 そして、その下にいるのがそら。何もできないから、みんなが遠慮するが、何もしないから、みんな適当にしか相手をしない。「そら」というこの仮の名前は言い得て妙だといえた。
 その下……最下層が、言うまでもなく自分だ。多分この図式は、ここを宿としている間はずっと変化しないのだろう。彼女達の性格につけいれるなんて、とても出来ないだろうから。
 彼女達は善悪の判断で行動しない。彼女達が望むことが結果なのだ。不毛な会話を繰り返すたびに、それを痛感させられる。居候を決め込んだことを後悔したのだって既に二度三度ではない。
 今回だってそうだ。
「……で、なんで俺がその、こう……」
「香霖堂」
「そう、その香霖堂。そんな店まで出向かなきゃいけないんだよ」
「だって、一味が切れちゃったんだもの。折角、清弥さんが猪鍋の準備をしてくれたっていうのに、私好みの味が付けられないんじゃ価値半減だわ」
「水屋の奥に七味が沢山あったぞ。あれでいいじゃないか」
「じゃ、清弥さんが七味から、山椒と柚子の粉と青のりと胡麻と麻の実と罌粟の実を取り除いてくれるのね?」
「何日かかるんだよそれ……」
「さぁ? 魔理沙は地道な作業が得意っぽいから、頼んでみるのもいいんじゃない?」
「……嫌味にも程がある」
 肩を深く落として溜息をつくと、炊事場に当の魔理沙とそらが入ってきた。魔理沙は立ち込める水蒸気を見た瞬間に露骨に顔をしかめ、咄嗟に逃げ出そうとして、霊夢に襟首を掴まれている。
「私はお客で食うのが専門なんだぜ」
「今日から鍋の温度管理専門に格上げよ」
 霊夢の顔は本気だ。魔理沙は渋々と土間に降りてくる。
 そらが清弥の側に駆け寄ってきた。ぐつぐつと煮えたぎる鍋の熱湯を覗き込みつつ、
「……清弥、呼んだ?」
「あぁ、別に用事じゃないんだけどな。そこの黒いのに変な知識を吹き込まれてないかってちょっと心配だったから。暑かったら外に出てればいいから、近くにいろよ」
「………………」
「私は有意義な講義しかしてないぜ」
「魔理沙、鍋にあと五十センチ近づきなさいよ」
「力ずくでも逃げたい」
「今の私には勝てないわよ?」
 霊夢は勝手口のドアを開けて清弥に手招きすると、乱雑に描かれた地図を渡した。
「遠いかもしれないけど、馴れれば結構近いから大丈夫よ」
「馴れれば、ってことは今後もお使いをさせるつもりか……それに、霊夢達は空飛べるからいいだろうけど、俺は森の中を走らないといけないんだぜ?」
「私達の中で一番足が速いのは文句なしに清弥さんだわ」
「いやだからそういうことではなく」
「それに、私が神社を留守にすれば、魔理沙やもっと悪い子が悪戯するに決まってるわ」
「じゃぁ魔理沙に行かせればいいだろ」
「逃げるな確実に。私なら」
「………………」
 堂々と言い放つ魔理沙の姿には、無駄な自信が溢れんばかりにみなぎっていた。
「だから、あなたが行くしかないのよ」
「俺も最初にいわれた時から分かってたよ」
 またも溜息をつく。
 魔理沙はいつものようにニヤニヤと笑いを浮かべ、そらはきょとんとして霊夢とのやりとりを見つめている。
 これがここ最近の、当たり前の光景だった。


 もちろん霊夢に指摘されるまでもなく、脚力には自信がある。
 しばらくの後――狩人の装束を纏った清弥は森の小径を疾走していた。空を舞う力があればと彼女達を羨む気持ちもないではなかったが、叶わぬ望みに胸を痛めることはない。常に全力を尽くしていれば、別の歓びも感じられるから。彼は徒に人をねたむような心の歪みとは無縁の少年だった。
 森の中に無言でたたずむ狛犬の結界を越え、蝉の声がジィジィとかしましい、苔生した獣道を辿って駆ける。緑の天蓋からきらきらと、降り注いでくる青空の欠片。暗い森のあちらこちらで、白い天の梯子が釣り下がっているのが印象的な光景だ。足下に淀むのは夏の底を這う心地よい冷気。
 素人がみれば同じように延々続く森でも、清弥のような狩人達には、木々の構成や配置、獣道の分岐、また水気の分布など、様相を大まかに判別することが出来るのだ。
 だが、博麗神社で暮らし始めてからというもの、清弥には別の意味での森の変化に鋭敏になっていた。五感だけでは感じられない、肌を内側から撫でるような感触。
 博麗神社付近の森は、いつもどこか、空気が張り詰めている。博麗の巫女が護るという結界の影響だろうか? 単に自分が敏感になっているだけなのだろうか? それが、先程の狛犬達の領域を越えると、普通の森の雰囲気に戻る。清弥が長い間暮らしていた森の中の空気だ。
 さらに深く分け入ると……再び、森の様相が変わり始める。神域とは正反対の、何処かに止めどなく落ちていくような感触。それはどこか、単なる肉の塊になってしまった獲物を捌く時の感触、無感動さにも似ているような……気も、する。
 これらの些細な――しかし知ってしまえば明確な――変化を感じ取るようになれたのは、つい先頃の話だ。何故これまで察知できなかったのだろうと訝しんでしまう。妖気ともいえるこれらの感覚を感じ取れていれば、妖怪のテリトリーに踏み込むこともなかっただろうに。知らず知らずのうちに、巫女である霊夢に影響されているのだろうか?
 ただ、出会いの日以来、霊夢が巫女らしい祭祀を行った日は皆無なのだが……。
 ともあれ、霊夢に渡された地図に載る店……香霖堂は、この森の外れにあるという。急いで抜けなければならない。もしここが本当に闇に近いのなら、なおさら。
 背に担いだ弓を一度強く握り締める。
 ……そらには出立前に、あまり魔理沙にくっつかないように注意してきたが、そらは理解してくれただろうか?
 魔理沙自身が本当に悪い奴ではないと、清弥は既に認識を改めてはいる。ただ、だからといって簡単に接し方は変えられない。むしろ素直に態度を変える方が難しい。だからそらが魔理沙と仲良さそうにしているのを見ると、意固地になって反発してしまうのだ。
 困ったことに、魔理沙はどうやらそらを気に入ってしまっているらしい。そして当てつけのようにそらと遊んでみせる。
「……何考えてるんだ、俺は」
 雑念を払うように、更に速力を上昇させる。その姿が白い霞のようになる。韋駄天という表現がふさわしい姿。
 心の奥で浮かび上がる雑念を振り払って、彼は森の奥を見据える。その感情がなんなのか――清弥は今だ自覚していない。


「本当に店があるなんてな」
 霊夢には悪いが半信半疑だったので、忽然と現れた小さな店舗を発見した時、清弥は驚きを隠せなかった。霊夢の地図だって適当がミミズのようにのたくった有様で、見つかるかどうかも定かでなかった。
 しかし、森に溶け込むようにしてひっそり立っているそれは、まるで数百年も前からここにあるような、そんな不思議な佇まいを浮かべている。
「……人、いるのか?」
 ドアノブに手を伸ばすと、軋む扉は音を立てながらゆっくりと開き、

 カランカラン。

 驚いて一瞬手を離しそうになる。部屋の中に暗き静寂のみ。何故か緊張して、努めて静かにドアを開ける。ドアベルをこれ以上鳴らさないように……何故か。暗い屋内に明るい日差しと清弥自身の影が伸びていく。
「すいません、あの……」
 無人だった。
 静かに踏み込む。
 目が慣れてくると、空間の多くが雑多な何かで占められているのが分かる。それは洋燈や木彫りや絵画の額といった調度品であったり、沢山の分厚い本の羅列であったり、生物をそのままの形で封印した剥製であったり、大地を球に封じ込めた地球儀であったりする。それ以外にも鉄の塊やら履き物の片方らしき物とか天辺に鏡の付いた長い棒だとか(下に数字と矢印が示してある)、何をどう使うのか清弥にはさっぱりなガラクタが所狭しと並んでいた。
 不思議なことに、視線を巡らせるとそれらの物品が理路整然と並んでいるようにも、或いは子供が玩具をぶちまけたかのように雑然と転がっているかのようにも見える。店の中にいるのに、見知らぬ森の中で道を失って立ち竦む頼りなさを追体験させられるような。
「間違いだろ、これ」
 戸惑いの極致にあった清弥はとりあえず一旦店の外に出ようと決めて、ドアノブを握り直し、

 カランカラン、

「あぁ……お客ですか。ちょっと待って下さいよ」
 店の奥から声がした。意外なことに、若い男性の声だ。またも不意打ちのように鳴ったドアベルを恨めしそうに見上げながら、清弥は観念して店の中に入り、ドアを閉めた。
 ごそごそとう物音の後、パチリという音と共に部屋が明るくなった。見れば天井に明かりが灯っているが、炎ではないようだ。それなのに炎以上に明るく、また優しいクリーム色をしている。
「いや、調べ物に夢中になっていて気づくのが遅れました。この店はお客自体がほとんどないもので。申し訳ありません」
 そういいながら現れたのは、清弥より少し年上ぐらいの色白な青年。背格好の割に落ち着いた雰囲気を窺わせている。眼鏡を掛け直し、髪を無造作に掻いて。清弥が知らない種類の男性だった。
「い、いえ」
「それに男性の客はもっと珍しい。これは錆び付いた商売が上向き始める契機なのかもしれないですが……それで、わざわざこんな辺鄙な場所まで何をお求めですか? 数は少ないけれど、名品珍品の品揃えには、幾分、いいえほんの僅かですが定評がありまして」
「あぁ、いや、その……」
 切り出しにくい。
 店の雰囲気にも青年の口調にも、清弥は飲まれていた。獰猛な獣や悪戯好きな妖怪にも物怖じしない少年だったが、商売人という未知の相手の対処法は備えていなかった。
 しかもこの店は。
「あの……聞きたいんだけど」
「なんでしょう」
「この店って、その、古道具屋、ですよね」
 主人が美しい眉に疑念を載せて歪める。
「そうですけれど」
「それじゃ、その……一味」
「はい?」
「一味とか、売って、ないですよね?」
 一瞬流れる沈黙。
 どうやら説明は不用だったようだ。
 青年は暫く沈黙し、呆れ顔で肩を竦めた。
「……ウチは乾物屋じゃないって、霊夢には前に云ったんだけどな」
「霊夢のこと知ってるんです、か?」
「彼女に困らせられる者同士なら、うち解けるのに時間はいらなさそうだ。しかも同性とは。さてさて、これは面白い縁になりそうだ」
 青年の顔に多少の笑みが浮かんでいる。


 森近霖乃助――彼はそう名乗った。
「博麗神社に居候か。よっぽど訳ありか、よっぽど度胸があるかのどちらかだな」
「どっちもにしてくれると嬉しいけど」
「そうか。彼女がへそを曲げないで何日も続いてるってことは、それ以外の理由もあるんだろうが……ま、その幸運がこれからも続くことを願ってるよ」
「先が見えないから困ってるんだけど」
「適材適所は世の常だよ。たとえ君自身がそう思ってないとしてもね」
「そんなもんなのか」
「難しく考えるべき事とそうでない事は一緒になって存在しているんだ」
 そういいつつ、霖乃助はカウンターの奥の棚をごそごそと探している。
「前に霊夢が一味を買いに来たことがあったんだが。僕が『七味もあるけど一味でいいのか』と聞いたら、霊夢は七味と一味を見比べて、『沢山ある方がいいに決まってるじゃない』って嬉々として七味をたんまり買って……いや、持っていったんだけどな」
「それなら水屋の奥の方で眠ってた」
「だろうな。霊夢ならやりかねない」
 全く同感だった。
「霖乃助さんが霊夢に悪さされてる光景がなんだかくっきりと頭の中に浮かぶよ」
「霖乃助でいい。……それはあれだ、清弥がそれだけ霊夢におもちゃにされてるってことなんだと思う」
「……否定できない」
 霖乃助は振り向き、悪戯めいて笑う。
「ただ、七じゃなくて一を選ぶってのは霊夢らしいと思わないか? 『ひとつ』ってのは一と違って、数えられない唯一の存在で、対する七っていう数字は数えられる最大の数字だから。一週間の数にしても、七福神にしてもそうだ。七は完璧な数字といわれる由縁だな。だがこれが八になると聖邪を問わず無限の膨大な存在になる。霊夢が『ひとつ』を求めるってことは、どこかで八を求める存在が今まさに蠢いてるってことかもしれない。八味なんてものが無くてよかったな」
「……よく、分からないんだけど」
「まぁそれはいいさ」
 独特な話法の青年。清弥に語って聞かせているのか、独り言を呟いているのか――そのどちらにも当てはまりそうだった。
 カウンターの前に立つ清弥は、どうにも居心地が悪かった。
「おかしいな。この辺りに入れておいたはずなんだけど。別の所に仕舞ったか」
「ないのか」
「霊夢がどうせ取りに来ると思ってそれなりに準備しておいたんだ。あぁ、霊夢に伝えておいてくれよ、ウチは雑貨屋でも乾物屋でもないと何度言ったら分かるんだって」
「う、うん」
「ちょっと探してくる」
 そういうなり、霖乃助は店の奥に消える。足音が遠ざかると、店内は再び静寂に包まれた。
「どこか変わってるな、あの人も」
 まぁ、変人でなければこんな場所に店を構えることもないだろう。変わってはいるが悪人ではない。あの青年が何故この店を切り盛りしているのだろうと、多少の興味も湧いてきた。
 改めて、もう一度店の中を見聞しようと振り向いて、


 目の前に人形がいた。
 その人形は屹立していた。
 蒼く輝く一対の瞳が殊更に煌めいて、


 ――一瞬で取り込まれた


 ……彫り抜かれぬままの真っ白い顔
 するすると髪の毛が伸び
 足下からは泉が滾々と湧き出してくる
 店の中にいたはずなのに
 周囲は奥深い森に包まれ
 まるで闇の中にこだまする水滴のように
 無音のままで雨は降り注ぐ
 無音のままで雨は降り注ぐ
 裸足の足をくるぶしまで濡らし
 無数の波紋を浮かべながら
 それをじっと見ている


 泉の中央に立ち尽くすのは人形
 それを見ているのも自分のはずなのに
 それはいつの間にか人形になっていて
 いつものように弓を構え
 いつものように足は大地を掴み
 狙いはしっかとつけて違えることもなく
 無音のままで雨は降り注ぐ
 無音のままで雨は降り注ぐ
 目の前の得体の知れない人形に向かって
 呪符の付いた矢を一直線につがえ
 きりきりと弓を引き絞る


 その弓は放たれてはいけない
 その弓を放ってはいけない
 殺意を押しとどめたいのに
 気持ちのこもらない腕は
 樫の木で出来ていて
 勝手にあの人形の心の臓をつけねらう
 無音のままで雨は降り注ぐ
 無音のままで雨は降り注ぐ
 やがて天に向かって
 八匹の白き龍は立ちのぼり
 自分を付け狙わんとする刃に向かって
 顎をひろげ
 それを迎え撃つべく指は
 指はは
 指ははな れ


「どうした清弥。何かあったか」
 暖簾を押し上げて、霖乃助がこちらを見ている。
「あ、え、」
 言葉が出てこない。
 身体が硬直していた。自分は何を口走ったのだろうか。背筋を滑り落ちる冷えた汗と共に、ゆっくりと唾を飲み込む。
 猫背になりつつ、ゆっくりと霖乃助を見る。
「あ、お、俺……」
「……やれやれ。幻想にいちいち煙に巻かれるようでは、この森ではうまくやっていけないぞ」
「幻想……幻だったのか?」
「どんな幻だったんだ?」
「いや、あれは……人形が……」
「人形?」
 その時、部屋の隅で、ほんの小さな、

 ガサリ

「誰だ!」
 咄嗟に弓をつがえる清弥。
 室内灯に照らされて、大きく影が跳躍する。
 部屋の明かりが消え、ほぼ同時に霖乃助が一つ火の灯った蝋燭を翳した。
 捉えるべきくっきりとした影が浮かび上がる。
 それは揺れる少女の影、
「店の中なんだぞ!」
 霖乃助の言葉をきちんと聞く余裕を残していたことを確認してから、
 狙いを定めて放った。
 影から影が分離する、
 それは小さな――日本人形。
 まるでスローモーションのように必殺の矢を抱き留め、長い黒髪で絡め取る。
 矢は床に落ち、
 人形は主の腕に抱かれ、
 影は虚空に飛びすさったまま。
「久しぶりに来たけれど、相変わらずガラクタだらけの店ね。面白い物なんて一つもありはしない。私のコレクションを見習うといいわ」
「言ってくれる。それに――これらは商品だ。価値は僕ではなく、お客が見いだしてくれる」
 霖乃助が言い放つ。

 カラン!

 ドアが開け放たれる。
 空中の影が真っ白い日光の中に立つ。
 まるで人形のように美しい……少女。
 右手には太古の本を抱いて、
 フレアスカートが緩やかに舞い降りる。
 金髪を押さえつける赤いカチューシャ。
 水晶玉以上に透き通る瞳が、矢返しとばかりに清弥を真っ直ぐに射抜く。
「……あまり霊夢と親しくしない方がいいわ。ろくなことにはならないわよ」
 そう言い放つと、燦々と降り注ぐ日差しの中に消える。
「ま、待てっ」
 清弥が慌てて追い掛けるが、暗い部屋に馴れた目に午後の直射日光は厳しく、思わず腕で目を守った。もちろん、少女の姿は何処にもない。
 構えようとした弓を中途半端なまま降ろす。
 夏が満ちあふれる森の中。
 遠く吹く風鳴りが、少女の秘やかな笑い声のように聞こえていたのは、気のせいだろうか?
「昼間に堂々とでてくるとはな」
「霖乃助……あいつは?」
「アリス・マーガトロイド。人形を弄ぶ妖怪、厄介な魔法使いだよ。まったく、いつの間に入り込んでいたのか。霊夢以上に気紛れな奴で、僕も困らされている」
「あのさ、博麗神社にも黒い魔法使いがしょっちゅう現れるんだけど」
「あぁ……まぁ、あの子も相当たちが悪いな。我慢してくれとしかいえないけれど」
 どうも魔法使いとは巡り合わせが悪いらしい。清弥だけでなく霖乃助も空を見上げ、溜息をつく。
 日がほんの僅かずつ傾き始めている。
 だが清弥は……吐いた息のその奥の、小さな震えを今だ、止められないでいる。


 俺は一体何を見せられたのだろう。
 彼女に一体、何を見られたのだろう。

      ☆

「えっくし」
「どうしたの魔理沙、夏風邪? お鍋に唾飛ばさないでよね」
「誰かが地上最強の魔法使いの噂をしてるぜ」
「地上最強っていっても、魔法使い自体が絶滅危惧種なんだから自慢にはならないわよね。大型爬虫類と同じ辺りがお似合いよ」
「それじゃ地層最強じゃないか。それに最近は多少増加傾向にあるって二百年前の文献に書いてあったぞ」
「それ最近なの?」
「魔導書の世界では最近だな。まぁ魔導書ばかりが爆発的に増えた時代だったが」
「ところで清弥さんはどこまで買いに行ったのかしらね」
「だから、香霖堂だろ」
「遅いじゃない。私もうお腹と背中がくっつきそうよ」
「まぁそれには同意だけど……あれ、あいつはどこいった?」
「そらさん? あれ? さっきまでそこにいたのに」


 障子の向こうは夏。蝉の声はいまだかしましい。
 山からの風が時折戸を小さく揺らす。無人のはずの霊夢の部屋。
 薄暗闇の中で、そらが人形に向き合っていた。
 瞳と瞳、視線を絡ませる。
 人形の瞳の中には、いまも、何も見えない。
 では人形はそらの瞳の中に、何を見るのだろう。
 ――どうしてだろう。
 自分は笑っていないのに。
 表情のない人形が笑っているような気がして、やまない。