泉幻想



 何処かで不如帰が鳴いている。
 それ以外は全て、降り続く雨の音。
 夜の帳のように暗い森の奥深くで皐月の涙が零れている。木の葉を打ち、水たまりを打ち、岩を打ち、砂に解け、流れに変わる。しとどに濡れた世界は皆、低く垂れ込めた雲と同様に、暗灰色に染まっている。


 灌木と草木が幾重にも折り重なった暗き地の底に、意志を持った視線があった。
 それはただ一筋のみ意識を集中し、目標とすべき存在に注がれている。
 林立する木々の中、腐り落ちかけている一本の巨木。その雨露からひょこっと顔を出す……一羽の野兎。用心深く耳を立て、鼻をひくつかせながら周囲を窺っている。距離にして十間ぐらいはあるだろうか。こちらに気づいた様子はなく、暫くすると近くの雑草をかじり始めた。
 獲物に気づかれないように、そっと体を動かす。幹と幹の間、敢えて難しい射角を取る。大丈夫だと心中に念じ、己を疑わず両足の重心を移動させていく。右手を背に回し、矢筒から鋭利な矢を抜き出す。荒削りだが、触り馴れた感触。鏃の先を確かめる。鉄のひんやりとした冷たさに、自分の行為を確かめる。
 泥まみれの地面に寝かせてあった弓を握り、静かに構える。矢を添え弦をゆっくりと引き絞っていく。
 微かに音がする。きりきりきり、心を引き絞る軋みが漏れる。
 射線上の視界が一瞬にして絞られ、自分が射抜くべきもの、それだけが大写しにされる。
 絶えず口を動かしているウサギが、はたと動きを止め、こちらを向いた。
 目があった、
 刹那、

 びぃん――

 獲物は正確に首を貫かれ、巨木の幹に縫い付けられた。付近にいたらしいウサギの群れが一斉に四散し、がさがさと草をかき分ける音、土を蹴る音がして……再び雨音が全てを包み込む。
 哀れな獲物は血を流しながら痙攣している。音もなく立ち消えていく命。
 狩人はすっくと立ち上がり、全身を覆う雨具の内、頭巾の部分だけを脱ぐ。少年。まだ頬が柔らかな曲線を描くものの、精悍さをも備える表情。瞳は澄んでいたが、何も映していなかった。
 両手には弾いた命の痺れが残っている。


「……やれやれ」
 在原清弥(ありわら せいや)はねぐらに辿り着くと焚き火を熾した。湿気かけた燐寸によってなんとか炎が揺れ始めると、雨合羽を着たままどっかと腰を下ろす。この時期は狩りをするのも一苦労だ。雨音が気配を消してくれるのはありがたいが、その分多大な忍耐力を必要とする。森の深淵に入り始めて二年、命を託すべき弓の腕前もまだまだ熟練とは言い難い。巡り会いやすい野兎ぐらいは容易に狩れるようになったが、それ以上になると得る物と労力が釣り合わない。
 担いできた麻袋の下辺が紅く染まっている。これから血を抜いて臓腑を抜き取り、毛をむしらないといけない。梅雨の時期は黴ののせいで食物の保存もままならないのだ。しかし今は、疲労でそれだけのことをする気力もない。雨に打たれ続けるだけでもかなり消耗する。里で暮らしていた頃は想像もしなかった経験だった。
 竹の水筒を取りだして、口をすすぐ。
 どこか血の味がする。
 ねぐらとはいっても、たまたま見つけた崖下の洞穴だ。人工物といえば持ち込んだカンテラぐらいなもので、あとは何枚かの衣類と道具類。生きていくために必要な最低限の品物だけが備わっている。こういう場所を、清弥は何個か確保していた。もう長い間、森の中を旅してきたのだ。
 壁に背を預けて、降りしきる雨の空を見上げる。
 ……気楽だが、辛く寂しい生活。
「里に降りてみるかな」
 呟いてみる。人恋しさが募る。最近は一日の節目に一度は考えるようになっている。
 それでも清弥は、結局こうしている。
 自分でも、自分が何故こんなことを続けているのか分からなくなる瞬間がある。もちろん、この生活に入る契機はあった。それは、清弥の短い人生に於ける大きな分岐点といえるだろう。それでも、自分がここまで固執する理由はないと思う。森に入った前も後も、自分は変わらず自分であり続けていると思っているから。
 ただ、生きるためだけに生きる日々。
 それはたとえば、人を取って喰う獣や、或いは――
 そう、妖怪。
 彼女ら異形の存在となにも変わらない生活なのではないだろうか? どうなのだろう。その境界線が曖昧になってくる。
「飯は、喰わないとな」
 言い訳めいた言葉と共に、もそもそ動く。
 それでも、獲物には向かわず……代わりに懐から横笛を取り出す。美しい若竹を選んで切り出された、優美な直線を誇る小さな横笛。一瞬躊躇って、唾を飲み込み口に添える。


 それはまるで、安らかな音の羽毛のように。
 洞穴内に広がっていく、哀しい旋律。
 ゆっくり、ゆっくり。
 遥かから定められた音の式。


 名も知らぬ作曲家が編み揃え、口伝で現世へ伝わった古代の曲を、今ここで清弥はひとり、誰に聴かせるでもなくただ吹き鳴らす。
 それは、清弥という少年なりの境界線だった。
 人間とそれ以外の存在の間に生きる、形の決まらない自分が、人間の側にいるための境界線。記憶が紡ぐ自分自身の形。生きていた存在を糧として生きる際の、人間なりの弔い。
 誰のためでもなく、ただ自分のために。
 そうすることで、一時の心の安らぎを得るために。
 独奏は続いていく。

 パチパチパチパチパチパチパチ。

「……………!」 
 弾かれたように顔を上げる清弥。
 それは間違いなく、拍手だった。
 洞穴の周りを取り囲む森の中から拍手が響いてくる。心なしか、風が強くなったような気がした。妙な生暖かさを帯びている。
 笛をしまいバケツで焚き火を消し、弓矢を身体に帯びた。油断無く周囲を見渡しながら、洞穴の端に立つ。
 そして、少しだけ苦笑いする。
(これじゃ、俺はさっきのウサギだな)
 拍手の音が止んだ。
「ねぇ、笛上手なのね。私、ちょっと聞き惚れちゃった」
 声がした。
 森が悪意を抱いてあちこちに反響させ、どこから聞こえてくるか見当も付かない、その声。
 あどけない少女の声。
 まるで市中で友達にあったかのように、気楽で自然な。雨音を貫き通して耳に届く。それがこの場所でどんなに不自然なことかは、改めて説明するまでもないだろう。
 それでも清弥は答える。油断無く、しかし不敵に。
「……そりゃ、ありがとう。だけど別に、人に聴かせるために鳴らしてた訳じゃない」
「あら、それだったら今度は私のために何か聴かせてくれないかしら。とっても良い響きだったんだもの」
「それじゃ、タダ聴きってのもなんだし、一応駄賃をわけてくれるってのはどうだ? こっちも食うに困ってるからさ。もともと人外に聞かせる笛なんてないんだから、大盤振る舞いってことで」
「よくいうわね。最近この森にやってきては動物達を狩り漁っているじゃない。ここら辺は私の縄張りなのよ。対価って物が必要だと思わない? 人間は人間らしく、村で固まってるか、食べられるかしなさいよ」
「俺は食っても美味くないぜ。欠食児童だからな」
「もう児童は卒業じゃないの? 年齢詐称は偉い人に怒られちゃうんだから」
「忠告として聞いておくさ。ところで妖怪は食料には向かないのか?」
「多分、食べても美味しくないんじゃないかな? 食べたことないけど」
「百聞は一見に如かずっていうぜ。食わず嫌いはよくないし、実践してみることをお勧めするが?」
「人間の共食いは見たことないから、遠慮しておくわ」
「そうか。残念だ……な!」
 タイミングを窺っていた清弥は、抜く手も見せず矢をつがえると、
 高らかに弓勢響かせて矢を放った。
 一瞬の静謐、
 雨すらも凍り付いてしまうかのような刹那、
 一閃は黒々とした森の中にひょうとすいこまれていき――

 ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴッッ!
 
 森からまるで壁のような突風が吹き付けてきた。無理矢理横殴りになった雨と共に。清弥は必死で岩肌にしがみつく。
 その風に乗って、鬼火のような緑や青の揺らめきが押し寄せる。物の怪の行使する攻撃……妖弾だ。奴らの意志のままにばらまかれるそれは、人間を簡単に死に追いやってしまう。清弥自身も見るのは久しぶりだった。
 それらは岩肌にぶち当たり、邪悪な火焔を上げては消し飛んでいく。
「ちくしょう、結構な大物だぜこりゃ。こっちにいるとは聞いてなかったんだけどな」
 食事はもう摂れそうになかった。この場を逃れられなければ、あの血染めの麻袋の中にいるのは自分だ。御免被る話だった。
 つかの間、風が和らいだ。
 大きく深呼吸して、森の中に駆け込んでいく。動き回って逃げないことには仕方がない。自分の俊足だけが頼りだった。
 ぬかるんだ地面に足を取られそうになる。
 狭まってくるような木々を避けるのに弓が邪魔だったが、武器であり商売道具であり相棒でも形見でもある品を手放すことだけは絶対出来なかった。
 無作為に飛んできていたような木の葉や妖弾。その乱舞には、一定の法則がある。それが彼女達の意思表示なのである。
「ほんっと、妖怪ってのは遊び好きだな。そんなのに構ってられないんだよ!」
 駆けながら、懐をまさぐる。ちらりと見える白い御札。数が少ない。
「補充をさぼってたから残りが少ないや」
 容赦なく打ち込まれる攻撃。
 そして敵の姿は依然として見えない。
「こらぁ、どこいくのよ。暇なんだから遊んでよ」
「こっちは暇じゃないんだよ! 人の食事を邪魔しやがって、祟ってやるぞ」
「じゃ、ねんごろに祀ってあげるから大人しく食べられなさい」
 冗談じゃない。
 一瞬足を止め、牽制のためにもう一矢をつがえる。
 その瞬間、
 周囲を鬼火の円に取り囲まれていた、十重二十重。
 自分の立っていた足下があっという間に隆起し、体勢を崩し、
 それは無花果のように裂け、中から無数の妖弾が弾け出した。
 三半規管が麻痺した。
 周囲の木々をなぎ倒すかのような突風を叩き付けられた。
 もう何がなんだか分からない。
 必死で弓だけは離さないように試みていた。身体のあちこちが痛む。
 目を開ける。
 なんと、空の天井が森だった。
 雲が敷かれた地面に向かって落ちていく。
 豪雨が下から背中を叩く。
 逆さまになった世界の中央で、清弥は空へと落下していく。
 森の方から声が轟く、
「緑符、『グリーンレクイエム』!」
 天井林から深緑の巨大な両腕がぐんぐん伸びて――
 いや、それは手のように見える妖弾の大集団だった。五本の指を大きく開き、木の葉のように吹き飛ぶ清弥を、まるでいとおしく抱き留めるかのようにするすると伸びてくる。
 巨大な腕だけが。
 それは、死の抱擁。
 赤子を永遠の安寧へと導く母の手。
「呪符まで使ってくるのか……辺境の奴らは無駄に豪勢だなっ!」
 ままならない姿勢制御をしながら、清弥は再び弓をつがえる。
 敵の攻撃は強力だったが、派手に発動してくれたおかげで攻撃地点を特定できた。そして――弓につがえさえすれば、矢は真っ直ぐに飛ぶ。
 呪符を出す暇はなかった。
 自分の勘を信じた。
「いけぇぇぇぇぇぇぇ!」
 絶叫と共に弾く、
 伸びてくる緑の両手をかいくぐって矢は的へと伸びる、
 森の中に消えていく、
 そして、
 絶叫のような、地鳴りのような轟音が森全体を響かせ、
 緑の両手は一気に霧散し、風と雨に巻かれて吹き飛んでいく。
 瞬時に回復する平衡感覚、
 錐揉みしながらも、天地を把握する。
 だが自分はまだ空に投げ出されたままで、このまま地に落ちればその時点で死の門を潜り抜けてしまう。
 冷や汗を覚え、
 視界の端に川が見えた。あそこは通ったことがある、確か外見以上に流れが速く……そして深い。
 苦労して雨合羽の端を握り締め、
 落下時の空気で膨らませる。
 落下速度の減退には至らないが、落下方向を少しだけ変えることが出来た、と思う、
 自分の判断を信じるしかない。
 右手で弓を抱き、 
 左手で顔を覆った。
 あとは度胸だ。
「おおおおおおおおおお」
 なんとか地面には叩き付けられなくて済むか、そう考えた、


 林の中を辿る一筋の流れに、大きな水柱が立ち上がった。それを追うようにして、森のあちこちから風が吹き付ける。
 疾風が行き渡りいずこかへ去ると、雨がまた、何事もなかったかのように降りしきる。
 すべてが雨に覆われていく。
 暗灰色の空の下。

      ☆

 とぼとぼと歩いていた。
 散々だった。
 腹が減ったし、身体も傷だらけだった。盛大に水に叩き付けられたのも効いている。妖怪を完全に撒けたとも思わない。どこかでしつこく探しているだろう。憂鬱だった。
 水没したまま下流まで泳いでいったが、ある地点からとって返して、川に沿って注意を払いながら上流を目指した。安易に人里へ逃げると、危険な妖怪を連れ帰ってしまうことになる。しばらくは身を隠すしかなかった。
 妖怪にその程度のごまかしが通用するかどうかは謎だったが、怨念の転じた幽霊と違い、大概に於いて妖怪は物事に拘らない。だからこの遊びに飽きてしまえば、襲われる心配は少ない。もちろん、清弥の一撃が傷を負わせてなければ、の話であるが……。
 今までも時折妖精や精霊に出会うことはあったが、ここまで力をつけた妖怪に出くわしたのは初めてだった。警戒していなかったわけではないが、疲労が気の緩みにつながったかもしれない。自分がまだまだ未熟なのを痛感させられてほぞを噛む思いだった。
 きゅうと、腹が鳴る。
「は、はらへったぁ」
 当たり前だ。それを確認しただけでもっと腹が減る。言わなければ良かったと思った。
 情けない声を上げながら、清弥はとぼとぼと歩く。
 森の中を続く流れが、一旦途切れようとしていた。まとまった水が揺れている。周囲を木々で囲まれた泉のようだ。
 草をかき分けながら、ほとんど無意識的にそこへ進み出た。水を飲もうと思ったのかもしれない。よく分からなかった。
 草をかき分け、泉を目の当たりにして、
 その光景が広がった。


 そして、清弥は硬直した。
 泉の中央に、一人の少女が立っていた。


 真っ白なドレスを纏い、腰まで伸びた純白の長い髪を泉に浸していた。
 少女は濡れそぼっていた。
 ただ、天を見上げていた。
 表情は、長い髪が隠していた。
 人形のように細い腕、白い掌。
 少女の周りには紫の花菖蒲が幾重にも咲き誇っている。蛍のような不思議な、まぁるく蒼い光が、少女の周囲を浮遊していた。
 彼女からわき起こる水紋がゆらゆら、ゆらゆらとゆらめいて、雨の水紋と共鳴しながら清弥の立つ岸にまでゆったりと届いていた。
 その中で少女は、
 腕を広げるでもなく、
 情念を滲ませるでもなく、
 ただそこに少女の形(なり)としてありながら、
 真っ直ぐに立って、空を仰いでいた。
 灰色にたれ込めた、雨空の下で。


 清弥は硬直していた。
 弓を構えようとする手が、途中で動かないまま宙を掻く。
 相手が何者なのか、自分が何をすべきか、一切考えることすらできずに。
 その光景に心を奪われていた。


 夢幻のような光景だった。