博麗神社



「…………………」
 空から絶え間なく落ちてくる水の欠片を全身で受けながら、清弥は硬直していた。言葉の使い方を忘れてしまったかのように。心の臓が早鐘を打っている。努力をしなければ呼吸の方法さえ忘れるかもしれない。
 だって、息をしたその瞬間、張り詰めた空気も目の前の幻影も砕け散ってしまいそうだから。
 合羽の帽子は脱いだまま。濡れそぼった短い髪の先から雨滴がしたたる。息を吐く度に白く丸まるような、冷め切った、水分の飽和した大気。
 彼の視線の真正面。
 泉に咲く幻―――彫像のような少女は天を仰いだまま、動かない。いや、彼女は本当に人工物なのかもしれない。そう疑いそうになる。頭の奥が痺れていく。
 少女から響き届く波紋が、雨音と共に清弥の耳朶を打つ。自分が緊張しているのがはっきり分かる。寒さに震えているのに体が熱い。濡れた足下の支えを求めるかのように重心をずらすと、砂粒がそっと泉に転がり落ちた。
 小さな小さなその波紋が、少女が起こす波紋と干渉する。雨の波紋と干渉する。
 そして、白い幻影へと届いた。
「………………」
 人形が動く。
 傾け続けていた首の角度を、清弥の方へとゆっくり巡らせる。
 清弥は息を飲む。
 露わになる貌。
 天の配剤といった美しい面。顔の造作に欠点を見いだすことは出来ない。逆にいえば、あまりに整いすぎていて個性の感じさせない、そういう顔だった。光さえ透過してしまうような表情。
 ただ。
 白い髪の奥に揺れる瞳だけは。
 感情も意志も浮かべぬまま灰色に濁っていた。少なくとも清弥の視界には、そう映った。
 経験したことのない美に打ちのめされていた清弥は、その瞳を見て、ふと我に返る。
 ……これは、人間の目じゃない。少なくともこんな目をする人間を自分は知らない。脳裏でもう一人の自分がそう囁く。
 反射的に清弥は弓を構えた。矢をつがえ、引き絞っていた。訓練された動作。機械的なギミックを備えた弓には呪符が差し込まれている。
 動悸を探られないようにしながら、声を絞った。
「お前が、さっきの妖怪か」
 それでも声が震えた。恐怖からではない、はずなのに。
 少女は黙したまま。
 ただじっと清弥の方を向いた、まま。
 自分が矢を向けられていると認識してすらいないのかもしれない。
「答えないなら、放つだけだぞ。今度は普通の弓じゃない」
「………………」
 少女は沈黙を保つ。意志を示さずに。
 先程まで自分を狙っていた妖怪とは全く正反対の趣の少女。もちろん、妖怪は巫山戯た遊びが大好きだから、自分を陥れようと芝居をしているのかもしれない。それに彼女は、人外の美を纏っている。森の奥深くに、か弱い乙女が一人。どれもこれも、警戒を払うには十分すぎる理由だ。
 だけど、
 清弥はそれでも、自分を信じられない。
 狙いを定めて矢をつがえてから、迷った経験はなかった。それは自分の死に繋がるからだ。弦の響きは死の響き。放てば相手の命を絶ち、放たねば自分の命を絶つことになる。
 それが今―――清弥は逡巡の中にいた。
 それでいいのか?
 彼女は本当に妖怪なのか?
 いや……仮に妖怪だとしても、目の前のこの美しい少女を仕留めることが自分に許されるのか? それは大それたことではないか?
 心臓の動悸が収まらない。
 もっともっと激しくなっていく。
 自分は魅了されてしまったのだろうか?
 頭の中が熱い。
 自分は一体、どうしてしまったのだろう。
 少女は清弥を見ることに飽いたのか、再び空を仰ぐ。
「………っ!」
 首を二、三度振り、清弥は弓を引き絞る。
 キリキリキリ、絃が悲鳴を挙げる。
 理性が衝動を抑え込む。あがく。
「悪く思うなよ、っ……」
「……………ない………」
 声がした。
 目の前の少女が、微かに呟いたのだ。
 隙間風のような微細な残響。
 雨の音に消え去りそうになりながら、清弥の耳に染み込んでくる。
「……………え?」
「ない………」
 たったそれだけのことで、今まで必死で奮い立たせた心が萎みそうになる。
 清弥は両手の力を緩め、
 しなった弓が蓄えた「死」が、解き放たれぬまま空しく消え去ろうとして、

 ゴオオオオオオオオオオオオオッ!

 いきなり旋風が森の中を吹き荒れた。
 前触れは皆無だった。
 清弥は思わず顔を隠し、
 無理矢理ちぎられた木の葉は乱舞し、
 泉に乱暴な波が沸き立つ。
 雨は再度横殴りになり、
 清弥をめった打ちにする。
 それでも少女はまっすぐ立ったまま、空を見上げているのだ。風に煽られても、すぐ元の位置に戻って、同じ姿勢で、同じ顔で。
 まるで、この世の何事にも興味がないかのように。
 まるで、自分自身についても興味がないかのように。
 その背後の森の奥から風が叩き付けられる……聞き覚えのある、あどけない声と共に。
「見ぃつけたぁ! さぁ、そろそろお昼ご飯の時間なのよ、大人しく殊勝に食べられて森に還元しなさいっ!」
「くっ……」
 森を駆け抜ける疾風は形を成し、木立を抜けてその姿を顕現する。
 泉の上空で滞空する。
 ワンピースを纏った幼い少女だった。
 服は緑の楓を継ぎ合わせたかのようだ。袖やスカートの端からは木の枝が伸びている。注意して見ると、両手両足から直に生えているようにも見えた。少女のような木とも、樹から削りだした人外ともいえた。
 それが、森に住まう妖怪の姿だった。
 肩口には先程清弥が放った矢が刺さったままになっているが、彼女は気にしていないようだった。
「あらら? なんか二人に増えてるじゃない。全部食べきれるかなぁ? でも残しちゃ駄目よね、好き嫌いは不健康の元だから」
 少女は無垢に……或いは凄絶に、笑った。その判断に、人間的な善悪や道徳は存在しない。純粋な感情を阻害する理由など、彼女の思惟には存在しない。
 清弥は迷わず、泉へ踏み込んだ。
 同時に妖怪が、両手から風と妖弾を打ち出す。
 緑と青の入り交じった鎌鼬になって水面を滑る。
 泉の少女は立ち尽くしたまま。
「危ないっ」
 間一髪で清弥は少女に覆い被さった。
 立ち上った水柱を鎌鼬は真っ二つにし、
 そのまま背後の木々を、樹齢何百年という太い幹を幾本も真っ二つにしていく。
 倒木の響きは幾重にも続き、鳥の群れが雨天へ飛び立ち、地鳴りが続いた。
「往生際が悪いわよ! ほら、次っ」
 妖怪少女が両手を大きく広げた、
 その瞬間。
 水没していた清弥が水面をたたき割った。
 既に弓は全力で引き絞っている。
 迷いは霧散していた。
 古来より受け継いだあやかしの伝承を言霊に――破魔の力に変換する。
「天符、『天乃羽矢一隻と歩靫』!」
 神弓から発射された御札に神々しい光が宿り、清弥の前面に真円の結界を作り出す。
 その中央をめがけて、
 地上に輝く雷光のように。
 清弥は呼吸を吐き出して、

 びぃん!

 矢を放った。
「な、なによ?」
 妖怪は一瞬目を細めた。
 もちろん、弓の角度を自然と把握して回避行動に入っている。
 しかし、光矢は何処までも追ってくる。
 それも、時を追う毎にその数が増えていく気がした。
「嘘っ」
 嘘ではなかった。
 彼女が知らないだけだ。
 地上から伸びる光が、妖怪を掴もうとしていた。
 それは古き神の掌だった。
 西方の伝説に残る物語。自分の力を見誤った妖猿は釈迦の両手の間から逃れられなかった。まして、生まれて間もないような森の精が同じハードルを越えられるべくもない。
「私は食べても美味しくないよぉっ!」


 一瞬の間をおいて、光芒は四方八方から緑の妖怪に突き刺さる。
 森は地上にありながら、その一瞬だけ、太陽の同等の輝きを手に入れた。

      ☆

「来いよ、早く」
 清弥は振り返った。
 少女は立ち止まってしまっていた。ここまで手を引いて導いてきたが、握っていた腕がするりと抜けてしまったのだ。そのまま再び、石像のように微動だにしなくなる。
 背後を……さっきまで立っていた泉へと頭を巡らし、立ち尽くしている。
 清弥が放った光矢の一撃が、妖の森をいまだ大きくうねらせていた。ただ、次第に樹々は静寂を取り戻しつつある。
「さっきの妖怪はまた襲ってくるぞ、一撃で倒せる相手じゃない。あの手の奴らはそう簡単に死なないんだから。さぁ」
 ぴくりともしない。
 清弥の声が彼女の耳元に届いているのかすら定かではない。少女が立っている場所から再び滾々と水が湧き出して、先程の泉と同じ光景が現出するのではという想像すら、頭をもたげてくる。
「………………」
 清弥は再び迷っていた。
 妖怪が目の前の彼女と別にいたのはいい。だけど、この雰囲気はやっぱり異常だ。この少女が別の妖怪ではないという確証はないのだから。
 ……このまま置いていってもいいんじゃないのか?
 彼女自身もそれを望んでいるかのような振る舞いをしている。もっとも、彼女に意志があると仮定しての話だが。
 だが、それでいいのか?
 本当にいいのか?
「……………………くっ」
 さっきまでの動悸を思い出す。
 自分は何故、こんなに迷っているのだろう。
 大きく深呼吸し、両手を握り締める。
 ……後悔は後ですればいい。今、この迷いを払うためには、自分に素直になること……ただ、それだけ。
 いつも思考はそこに戻る。
 在原清弥は、そういう少年だった。
 覚悟を決めた。
 弓を背負って肩で止め、落ちないように結わえる。そして、少女の眼前に駆け寄った。
「ごめん」
 少女をひょいと持ち上げる。
 抵抗はなかった。
 疲れ切った身体でも、ほとんど重さを感じない。想像の範疇を越えていた。
「あ……」
「………………」
 少女は少しだけ、こちらを向いたようだ。何物も映さない透明な瞳のままで。濡れた白い服から、うっすらと肌が透けている。肩口や、胸や、太股のあたり。
 表情を浮かべない少女は、がらんどうのまま――なのに、清弥は赤面してしまうのだ。
「ごめん……あの、後で、ちゃんと謝るから」
「………………」
 少女は答えない。だけど、なんだかそれ以上、少女の顔を見ていられない。少女に目を落とすことなく――そう努力しながら――清弥は森を駆け始めた。そうしなければならなかったから。
 そう。
 これで、自分以外の者に対する責任を背負い込んだのだ。
 生きなくてはいけなかった。なんとしても。


 幾らかの時間を逃避行に費やして、
 ふと、違和感を覚えた。
 同じような風景が続く森。もちろん、その微細は狩人としての経験から判断できるが……しかし、先程からこの辺りは、雰囲気が明確に異なってきているのだ。獲物を求めてくまなく彷徨ったはずなのに、初めての場所のような気がしてならない。
 ……いや。
 これはそういった類の差異では、ない。
 張り詰めた空気の質。
 雰囲気。
 あるいは、霊気。
 不可視の部分からゆるりゆるりと、本質的に何かが「違ってきている」。自分が霊感といった類の能力に秀でているとは思っていないが、それでも明らかに……肌を伝う何かがひりひりしている。
 雉の声が響く。遠くで。
 距離感が歪む。
 立ち竦ませるような緊張感。妖怪のそれとはまったく違う、
 人間が触れられないような――なにか。
 耳の奥で小さく、金属が共鳴するような音が続いている。もう少しオクターブが高ければ、頭痛となって清弥を悩ませるのだろう。
「………………なんか、おかしくないか?」
 答えがないと知りつつ、呟いてみる。
 案の定、少女は何も感じていないかのように、そのまま。だけど、両腕に抱いた名も知らぬ少女の暖かさが、不思議と安心感と冷静さを与えてくれるのだった。
 と。
「あれ……?」
 山毛欅の巨木の根本に、深く苔生した狛犬が祀ってある。注意深く観察しないと狛犬かどうかも判別できない。よく見るとそれは、森の奥まで延々と点在していた。彼らは太古の昔よりここにあって、神域を侵す者を見張っているのだろう。
 その向こうに、木々が遠慮をするような空間が続いている。
 清弥は慎重に、足を踏み入れていく。
「………………」
 道だった。獣道ではなく、人が形作ったもの。森が左右から手を差し伸べて、枝々のアーチを形成している。
「こんなのがあったら、絶対に気付いてるはずなのに」
 清弥は曲がりなりにも森で二年は暮らしてきた狩人の端くれである。森の意志や、そこに住まう動物達の営みについて推し量りながら、その一部をわけて貰って生活している。だから、道などの明確な異物があれば即座に見分ける自信はあった。
 だが、自分達が今いるこの森は……感覚を研ぎ澄ましても感じ取れない深淵を備えているのだろうか?
「いくしか、ないよな」
 目の前の少女の表情は変わらない。
 自分一人が不安になるわけにはいかない。
 清弥は歩みを進める。


 道はやがて、石積みの階段に辿り着いた。
 連なる鳥居が、客人を神の庭へと招いている。
「こんなところに……?」
 階段はあり合わせの石を積まれたように不揃いだったが、掃除は行き届き、落ち葉の一枚、雑草の一本もない。雨は弱くなっているのに、空気は重さを増している。
 清弥は迷っていた。
 もしこれが神域なら、妖怪の追撃をかわせるかもしれない。妖怪の住処と化した廃社なら、自ら怪物の顎に飛び込むのと同義だ。二つに一つ。このまま森を彷徨うのは得策ではないのも事実だった。自分の体力も限界に近づきつつある。
 ちょっと考えて、腕の少女を降ろした。
 少女は表情こそ浮かべないが、されるままに立って、清弥の顔をじっと見ている。
「ちょっと階段の上を見てくるから、ここで待っててくれ。すぐ戻る。木陰にじっとしていて。もしかしたら雨と、さっきのあいつをしのげるかもしれないからさ」
 努めて明るく言う。少女は頷かないが、一旦決めて迷うのも時間の無駄だった。自分の意図が伝わっているのを信じた。
 背中の弓を抜き、階段を駆け上ろうとして、
 何かがそれを妨害した。
 振り向く。
 表情を浮かべない少女が、小首をかしげている。
 その右手が、清弥の雨具をそっと握っていた。
「……お前、」
「………………」
 少女は黙したまま。
 泉の中で咲いていたままの顔。
 けれど、
 今でも清弥の両腕には、彼女のぬくもりが残っている。小一時間も抱いていたのだから。
 清弥は、自分が久しぶりに笑みを浮かべているのだと実感した。
「一緒に行こう」
 力強く手を引く。
 自分のぬくもりも向こうに伝わって、少しでも暖かくなればいいと、そう思った。


 二人で長い階段を登った。
 少女が付いてこられるように加減しながら。
 鳥居をくぐる毎に、空が明るく、近くなっていくような錯覚がする。
 用心は怠らない。左右の森に、背後の……階下の世界に気を配りながら。
 しっかり握った手の温かさを感じながら。
 焦燥感と予感に焦がされながら。
 やがて、最後の鳥居を迎えた。
 やたら古くやたら大きな鳥居。正面上に掛かった文字は色褪せながら、しかし太く鮮やかに、こう記されている。

『博麗神社』

「………………」
 清弥は言葉を失った。
 この世界――幻想郷の住人なら誰もが知っている。だが、その多くには関わることがない。それはある意味で伝説と化している。
 それは世界の端っこにあって、
 世界の形を決め、
 世界をあるべき姿に区切る場所。
 紅白の蝶に護られる場所。
 知らず知らずのうちに、清弥は世界の境界線上まで至ってしまったらしい。
 とはいえ、その認識とは裏腹に、博麗神社はどの集落にでもあるような、小さくてこじんまりとした、何の変哲もない神社だった。
 正面の本殿は小さく、永き時を経て色褪せていた。灰色の雨模様の中で、それは本当に色を失っているかのように。
 対照的なのは庭に広がる池だった。様々な色を浮かべた蓮の花はつぼみを膨らませている。その岸辺には、見事に咲き誇った紫陽花が雨の滴を化粧にして歓喜を歌う。
 そのほとりに、鮮やかに赤い傘がこちらを背にして立っていた。
 その傘が一度、くるりと回転して、
「なぁに、こんな雨の日にお客様?」
 こちらを向いた。
 清弥とその連れよりも少し幼げな、人懐っこい笑みを浮かべた少女だった。灰色の風景の中でやたら目立つ、赤と白の衣装――巫女装束に身を包んでいる。雨が傘を打つ音に包まれて、少女が肩を竦めた。
「まぁ個人の趣味にどーこーいうつもりはないけれど、雨の日は傘か、合羽を使うものよ。お兄さんの方は頭ずぶ濡れだし、お姉さんは顔真っ白じゃない。美白美人にも限度ってものがあるわよ」
「お前は、ここの人か?」
「初対面でいきなりお前ってのはないんじゃない? 気を損ねて出てけっていわれても仕方ないわ。年齢がどうあれ、礼儀ってものは大切だと思うんだけど」
 頬を膨らましてこまっしゃくれた科白をいう巫女に、清弥は思わず面食らう。
「ああ、ごめん……」
「謝るんだったら最初からしないことね。無駄遣いにもTPOってのものがあるのよ」
「よく分からないけど……とりあえず、俺は在原清弥。えっと、こっちは……」
 紹介しようとして、言葉を飲み込む。
 泉の少女は例の、仮面の如き表情のまま、境内の池の水面をじっと見つめている。ただ、清弥の手を離そうとはしない。
「……まぁ、後でいいや」
「あら、訳ありさん? それはそれで面白そうね」
「面白がることじゃないだろ」
「いいじゃない。私は年中暇してるんだから、お茶を飲む以外の時間が増えるのはいいことだわ」
「それよりも」
「分かってるわよ、自己紹介よね」
「いや、そうじゃなくて」
「私の名前は博麗霊夢よ。この田舎神社と同じ名前だから覚えやすいでしょ? 二度とはいわないからね」
 この少ない情報交換で清弥は、目の前の少女がとんでもなくマイペースな人生を送っているらしいということだけを悟った。
「わかったよ。じゃあ、霊夢……俺達さっきまで、たちの悪い妖怪に追われてたんだ。ちょっと匿ってくれないか? 神社なら寄りつきにくいだろうし。それに雨もしのがせて貰いたいし。察しの通りずぶ濡れでさ」
「厄介事は歓迎するけど、人外はお断りしたいなぁ。一応人間のための場所だしね、ここ」
「俺達のどこが人外に見えるんだよ!」
「あら、あなたにはいってないわよ?」
「!」
 振り向いた瞬間、

 ゴゥッ!

 旋風が石階段を一瞬で駆け上がった。
 鳥居を飛び越えて境内に飛び出したのは、
 緑の樹の妖怪、
「ご飯見つけたご飯〜! 昼ご飯がそろそろ夕ご飯になりそうだわ、でも三人に増えたからちょうどいいかも」
 にっこり笑って両手を振りかぶる、
 弓を構える暇もなく、
 驚く暇さえない、
 ただ清弥は咄嗟に少女を抱き寄せる、
 その視界の隅で―――


 紅白の幻影が揺れ滲み、
 雨を弾いて純白の空気を孕み、
 赤い傘が灰色の空を緩やかに舞った。


 一瞬、
 落ちてくる雨滴がその場で静止するかのように――
 全ては空中で決まっていた。
 旋風を巻き起こすはずの妖怪の手はそのままの形で硬直し、一本角の代わりに木の枝の生えた額には、黄色い御札が張り付けられていた。
 その背後で、紅白の蝶が揺れる。
「封」
 一言、
 そのたったひとことで、妖怪は青い風と転じて四散した。
 境内に叩き付けられた突風を何とかしのいで少女を支えきると……清弥は、薄目を開けた。
 その目の前に、空を舞っていたはずの傘があった。さっきと何も変わらないままで傘を担いだ霊夢が、何処から出したのか、もう一本の傘をこちらに差し出している。
「たちが悪いっていうよりは質が悪いって感じかしらね。濡れた枝じゃ薪にもならないわ。風邪引くわよ?」
 そういってにっこり笑う巫女から、茫然とした清弥が傘を受け取るのに、かなりの努力を必要としたのはいうまでもない。
 言葉で答える代わりに、少年の腹が盛大に、ぐぅぅと鳴いた。