抜け落ちたかのような蒼穹の下、雪を踏む音がやってくる。
どこまでも輝く新雪を、遠慮無くずっぽずっぽと踏み抜いて。
身長が身長だけに、持ち上げたスカートの裾の下で黒い雪靴が埋まってしまいそうになっている。足音の主はその苦労をむしろ楽しみながら、白い息を吐き続ける。
左右を取り囲むのは満開の白い光華。腕一杯に雪を乗せて白銀に輝く櫻の木々。あと数ヶ月もすれば頬を桃色に染めて着飾る者達も、今は黙して白い化粧を身に纏っている。
それは、生まれたばかりの太陽を迎える時間。
眩しい朝だった。
「おーい、霊夢ぅっ、おおーい……あいつはどこいったんだ、まったく」
独り言の内容とは裏腹に、雪の中を進む彼女の顔はニヤニヤと笑っている。
まるで今生全ての事象を楽しむかのような、楽天的な表情を浮かべて。
その顔が、ちょっとした発見に綻ぶ。
「お」
彼女の視線の先で、まるで浮かび上がったかのように忽然と、人間の足跡が始まっていた。ここまでの道程で存在しなかったことを考えれば不自然きわまりないのだが、彼女もまた常識に囚われて生きる人間ではなかったので、特別に驚くべきことでもなかった。もし雪が天に舞い戻る光景があったとしても、彼女には驚嘆の念を抱かせられないだろう。
彼女は、『こちら側』の人間だった。
「おーい霊夢、探したぜ」
みれば、ひとつの櫻の巨木の下の雪だけが無数の足跡によって踏み固められ、一部では無惨にも濡れた土肌が露出している。その即席の広間をせっせと動き回っているのは、訪問者と同じぐらいの背丈の少女だった。白と朱のめでたい衣装を纏い、白い息を丸めながら、せっせ、せっせと―――
雪だるまを作っていた。
「……何やってるんだ霊夢」
「こたつに入って蜜柑を食べているように見えるかしら?」
「雪を掻くなら神社の屋根にしろよ。ありゃ放っておくとつぶれるぜ」
「うるさいわね。うちは年季が入っているのよ。そう簡単につぶれたりはしないわ」
「賽銭は少ないんだから強がりはやめておけよ。再建なんて出来ないぜ? 博麗が十三代目で終わるのも間抜けな話だ」
「そのへん、魔理沙は気楽で良いわよね。跡継ぎなんて考えなくて良いもの」
「魔法使いの知識体系はデータベースだからな、誰かがいつかどこかに辿り着くんだよ。もちろん私だって諦めちゃいないけどな」
「よくわかんないわね」
「得体が知れないのはお互い様だ」
博麗霊夢は、丸めた雪玉を、あらかじめ作ってあった少し大きめな雪玉の上に載せる。
その向こうには、ほとんど同じサイズだが、もう少しだけ身長の小さな雪だるまが寄り添うように立っていた。どちらにも装飾はなく、ただ白い塊のまま。
霧雨魔理沙は、出来た雪だるまを検分するかのようにしげしげと眺めた。
「私も結構上手でしょ。頑張ったら出来るのよ」
「玉じゃねーなこれは。雑すぎる」
「もう手が真っ赤なのよ。手袋も濡れちゃったし」
「せめて綺麗な球になるまで作れよ。オーパーツとして発掘されるくらいじゃないと私は認めないぜ」
「贅沢は敵だわ」
「……まったく」
魔理沙は自分の手袋を取ると霊夢に預け、雪だるまの粗い表面を手肌で整え始める。
「折角作ったってのに、最後まできちんと作らないと可哀想だからな」
「いいのよ別に。どっかの雪の精が仕上げてくれるわよ、仲間なんだから」
「黒幕ってのは自分では手を下さないもんだ。これだけ豪毅に雪を降らせたんだ、今は休憩中かも知れないしな」
「妙なところで真面目なんだから」
「お前が不真面目すぎるんだよ」
溜息をついて、霊夢も魔理沙を手伝い始める。自分が始めたという認識は既に霧散してしまったらしい。それが彼女らしいと、魔理沙は思うのだった。
程なくして、二体の雪だるまは完成した。
櫻の木の下で寄り添う二つの雪像。少女達は軽い達成感と共にそれを見つめる。
「ま、こんなもんだろ」
「顔は省略でいいわよね。材料ないし」
「まぁな。残念だが」
「立派すぎるわよ」
「そうでもないぜ……あ、これ忘れてた」
魔理沙は懐をごそごそとまさぐると、長い棒きれ……もとい、鏃の付いていない羽矢を取りだした。紅白の飾りが施された破魔弓である。
「あー、それうちの売り物じゃない」
「どうせ新年の参拝客なんて来ないんだから、大事にしまっておいても意味無いぜ。よっと」
魔理沙が矢を、大きな方の雪だるまの腕代わりに刺す。妙なデコレーションのおかげで、少しだけ時候に合わせたものになったのかもしれないが、それはなんというか……端的にいって、奇妙な雪だるまだった。
「これでよし、と」
「後で代金払ってよ」
「無い袖は振れないんだよ。年越しの金も持ってない。理想的な新年だな」
「天下無敵の無一文ね」
「お、上手いことをいう」
「ところで魔理沙も雪だるまを作りにここまで来たの? それならそれでいいんだけど、魔理沙、寒いの苦手なはずよね」
濡れた手をハンカチで拭っていた魔理沙が一瞬きょとんとして、
「あぁ……ついつい夢中になっちまったぜ。悪い癖だな。香霖がお前のこと呼んでたんだ。『なんで新年早々、霊夢の家で炊事なんぞしなきゃいけないんだ』って、怒ってたぞ」
霊夢は魔理沙の手袋を着けながらしれっと、
「仕方ないじゃない。私、料理はそれほど得意じゃないもの。霖乃助さんのほうが上手に出来るんだから、別にいいじゃない」
「料理が苦手なら客人に家を任せても良いのか、博麗のしきたりでは。客人をもてなすという発想が皆無だな」
「餅は私がついたわよ」
「その言葉にも若干の疑念を挟みたいところだが」
「あらそう。文句言うなら魔理沙は食べなくていいわよ」
「それでなくても食べられるかどうか心配だけどな。本殿はもう客で埋まってるし。もうレミリアから幽々子からどこぞの狐まで千客万来」
「あぁもぅ。なんで新年早々、幽霊や吸血鬼の相手をしないといけないのよ。ここは目出度い神社なのよ? せめて暖かくなるまで眠ってなさいよ。ついでに魔法使いも穴蔵に籠もってるといいんだわ」
「ひどいな。そういうことは巫女が巫女らしく仕事をしてからいうもんだ。新年の行事が雪だるま製作なんて神社、少なくとも私は聞いたことないぜ」
「特殊な神社だから別にいいのよ」
「ああそうかい」
文句なのか何なのか、テンポだけの会話を吐き捨てながら、仕方なく霊夢は神社へと歩み始める。魔理沙は肩を竦めて、その後を追おうとする。
と。
「霊夢っ」
二人の背中に声が飛んだ。
霊夢は振り向かない。
魔理沙は振り向いた。
踏み荒らされていない雪のカーペットの上に、一人の少女が立っている。
ウェイブの掛かった髪に紅いカチューシャ。ビイドロを思わせる澄みきった瞳は、何かの覚悟に揺れている。いつも腕に抱いていた、トレードマークの魔導書がない。両手は少し震えながら、スカートの裾を握り締めている。
「新年早々何やってるんだお前」
魔理沙が呆れたように声を掛ける。
「………………」
「そんなに気合い入れると疲れるぜ。なぁ、霊夢」
霊夢もまた答えない。再び歩みを進めようとして、
「………霊夢………」
今度の声は、少しだけ力無く、
少しだけ―――怯えていた。
「霊夢、」
「……私の人形を返してくれたのはアリスなのかしら? まるで新品みたいに綺麗にしてくれたことには、お礼をいっておくわ」
「――――!」
名を呼ばれた少女が踏み出す、一歩を。
「……ねぇ、アリス」
霊夢の瞳がすぅっと細くなる。
押しとどめるように、強く、優しく。
言葉を紡ぐ。
「『ここ』にはおおよそ何もないわ。時計を持ったウサギも、優しい目覚めも訪れない。多分、永遠に」
魔理沙が、
少女が、
聞く。
受け止める。
それぞれの表情で。
それぞれの記憶と共に。
それぞれの、決意で。
「………それでも」
永遠の巫女が言葉を紡ぐ。
「ずっと、」
それはまるで、神から伝えられた託宣のように。
「そのままでもいいのなら、」
そして、霊夢が振り向いた。
「……あんたも一緒に来ればいいんじゃないの? 今更人妖の一人や二人増えたって、何も変わりはしないわ。ねぇ魔理沙」
その表情から陰りは消えていた。いつも通りの脳天気な、博麗霊夢の表情だった。
大きく息を吐き出した魔理沙も、普段通りの意地悪い笑みで、『人形遣い』の少女に目配せする。
「……まったくだ。夢から醒めちまった奴を呼び戻すなんて、神様にも出来ないからな……いこうぜアリス。香霖が雑煮作ってるからさ」
少女は脱力し、
少女は微かに涙を浮かべ、
少女は喉に詰まったものを吐き出すように大きく大きく息を吐き、
そして、アリス・マーガトロイドはいつものように、挑戦的に笑って駆け出した。
「ま、いいわよ別に。こういう新年の過ごし方もたまには乙なものよね。私お雑煮が好きだし、霊夢が作るんじゃなきゃなんだって美味しいわよ。徹夜明けでお腹減ってたのよね」
「都会派が雑煮かよ」
「都市と農村の格差を是正するってのも悪くはないわ」
「目を擦りながら口にする科白じゃないぜ」
「霊夢よりは高尚な魔法使いですもの、」
「……なんでうちのお客様はみんな、こうも高慢ちきなのかしらね」
「それは霊夢が、客に対してもてなそうという誠意を抱かないからじゃないのか?」
「あらそうかしら? うちは年中千客万来よ」
「うそつけ」
「魔理沙、たまにはいいこというわね」
「アリスと気が合うなんて、新年早々ろくな予感がしないぜ」
「それはそうね」
「左右から文句言わないでよ。私は厩戸皇子じゃないのよ……あ、そうだ。レミリアが来てるならあの時計メイドも来てるんじゃない。あいつに料理やらせればいいのよ」
「新年早々弾幕ごっこか。雪崩起こさないように注意してやってくれよ」
「難しい相談ね。アリスお願い」
「髪の毛くれたら考えるわ」
「乾いた藁なんてあげないわよ」
……笑いながら、雪を踏みながら、魔理沙は思う。
去年はいろいろあったが、おおむね良い年だった。
今年も、おそらく良い年であろう。
それはきっと、ずっと変わらないような気がした。そうであってほしいと思った。
三人が肩を並べて歩み去る。
雪の上に残る、長き三つの足跡の始点、白き櫻の園の真ん中で、寄り添う二体の雪だるま。その向こうを、鶴のつがいが西に向かって飛び去っていく。
空は澄み、いよいよ蒼さを増している。
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