プロローグ



 ………与一、目をふさいで、「南無八幡大菩薩、我国の神明、日光権現・宇都宮・那須のゆぜん大明神、願わくばあの扇のまんなか射させてたばせ給へ。これを射そんずる物ならば、弓きりをり自害して、人に二たび面をむかふべからず。いま一度本国へむかえんとおぼしめさば、この矢はづさせ給ふな」と、心のうちに祈念して、目を見ひらいたれば、風もすこし吹よわり、扇も射よげにぞなったりける。与一、鏑をとってつがひ、よっぴいてひやうどとはなつ。小兵というぢやう、十二束三ぶせ、弓はつよし、浦ひびく程ながなりして、あやまたず扇のかなめぎは一寸ばかりおいて、ひぃふつとぞ射きったる。鏑は海へ入りければ、扇は空へぞあがりける。しばし虚空にひらめきけるが、春風に、一もみ二もみもまれて、海へさっとぞ散ったりける………

                     「平家物語 巻十一 那須与一」より  岩波文庫版





「お、いたいた」
 そいつは俺の顔を見るなり、嬉しそうな顔を浮かべて大股で近寄ってきた。スニーカーが静寂が守られるべき図書館に相応しくない、軽快な足音を踏み鳴らす。
「相変わらず定位置だなお前。この席そんなに気に入ってるのか」
「大きなお世話だ」
 目を戻そうとする俺から文庫本を取り上げて、ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべる。
「よくねぇよ、この文系理工学部生。岸本先生が怒ってたぞ、俺の研究室に黴臭い時代の軍記物なんて持ち込むなって」
「教育者の言葉じゃないよな」
「俺も先生に同意するがな。古文の原典なんか工学部生がすらすらと読むものじゃないだろ、普通。俺は入試以来お目に掛かったことないぜ」
「……やっぱ一般教養課程の削減は愚策だな。こういう無教養な奴がやたらと増殖するからさ」
「うるせぇよ馬鹿。お前の方が異端なんだよ。身の程を知れ」
 ニンマリと笑う悪友の向こうで、海岸から吹き寄せる秋の潮風が、古い窓枠をがたがたと震わせている。
 ――大学に入ってからは、長く平穏な日々が続いている。危惧していたほどドラマティックでもなく、予想していたほど暇でもない、そんな生活の積み重ね。俺を安堵させ、また常に僅かな寂しさを感じさせる日々。
 あれから――
 人を想う心を失ってから、もう二年。
 それは、失恋なんていうボロ雑巾のような言葉とはかけ離れた経験だった。俺はあの日、自分の一部を完全に喪失した。今でも疑わない。幸か不幸か自分の裡に引き籠もることも絶望に逃げ込むこともなくこうして毎日を送ってはいるが、それはきっと、恋にまつわる全ての回路が機能不全を起こしているから。
 だから、今の状態が別におかしいと想わないし、知り合いが幸せそうに恋愛を謳歌するのを見ても、焦燥を感じたり、寂寞に胸を焦がしたりすることがない。
 過去には俺のそんな様子を心配してくれた友人もいたが、俺が地元から遠く離れた大学に入学することによって人間関係もリセットされてしまった。彼らの心遣いには感謝しつつも、正直鬱陶しく感じる部分もあったから内心では多少の後ろめたさと共に安堵している自分がいる。
 ……だから、きっと。
 こうやって数多の本に没頭するのは、別に現実逃避というわけじゃない。たとえ言い訳に聞こえても、俺はそう確信している。
 或いは――己の感情が干潮に至った分だけ、知識としての恋に興味があるだけなのかもしれない。無感動な人間が恋に綴られた言葉を追うのは馬鹿げた話だと自分でも思うのだが、活字中毒者の言い訳ということにしておく。壊れたロマンティストを気取っても、いいことなどなにもないのだが。
 そんな俺にとって、二流大学に相応しくないこの風格ある図書館との邂逅は存外の喜びだった。そして――それにくっつくようにして巡り会った意外な縁が、目の前にいる悪ガキのような青年の出会いだ。
 何故こいつとつるむようになったのか、今となってはよく分からない。気が付くと長年の友人のように言葉を投げつけ合う関係になっていた。俺はこんな性格だから、いつも素っ気ない態度で周囲の人間を白けさせ、集団の輪から少し離れた場所が定位置になる。多分、こいつだって初めのうちは俺の性格に面食らっていたはずだ。意外だったのは、こいつがそれでも飽きずに俺にまとわりついていたこと。
 もちろん、奴にとって俺だけが特別という訳じゃない。それが証拠に、こいつの交遊関係は男女問わず広範囲に渡るらしい。つまり、何処に立っていても人の輪の中央に位置してしまう、俺とは正反対の人間。ただ、こいつの強引さが原因で俺自身のつき合いがなし崩しに広がったかというと、そうでもない。俺の過去を問いただすでもない。俺がこいつと気楽に喋れる理由の一つでもある。
 開けっ広げに全部をさらけ出すようで、弱さを売りにしない。笑いを絶やさない中に、時に鋭い言葉と視線を持つ、そんな油断の無さ。
 誰からも頼りにされ、誰からも好かれる。
 だけど軟派ではなく、浮いた話もない。
 おかしな奴だと、つくづく思う。
 ただその距離は心地いい。欠落した自分の心の一部分のように、いつかまた失ってしまう可能性を秘めているとしても……こいつと交わす言葉は何処か、心の隙間に吹き込んでくる気がする。悔しいが、こいつにはそういう魅力があると思う。
「……で、今日は何だよ。代返ならやらないぞ。こないだ他の奴が教授に公開処刑されて以来、かなりぴりぴりしてるから」
「違うって」
 そいつは目の前にどっかと座ると、ショルダーバッグから一枚の磁気ディスクを取りだした。
「フロッピーとは今時古風だな」
「中に小説が入ってるんだよ」
「小説? 誰の?」
「それがさ」
 そいつが先頃、高校時代の先輩の知人と一緒に宴席を設ける機会を持った。件の人物は既に就職しているのだが、趣味で民俗的怪談や説話を蒐集していて、それを元に文章を綴っているという。その席でも二、三、妖怪や伝承にまつわる面白い話を聞かせて貰ったようだ。休日の度に誰も訪れないような田舎の村や山に出掛けてはフィールドワークに明け暮れているそうだが、別に研究者や作家を目標にしている訳でもないらしいのだ。郷土史家とでもいうのだろうか、若い割には枯れた趣味の、仙人のような人物である。
「で、実際どんなものなのか尋ねてみたら、『私が話すよりも実際に読んで貰った方が早い』って、その場でノートパソコンからこれを渡されてな」
「へぇ。で、お前読んだのか」
「まだ」
「何やってるんだ。お前に渡されたものだろ、先に読むのが礼儀ってものだろ」
「もちろん読むつもりだけど、いろいろ頼まれ事が溜まってるし……その人さ、お前に雰囲気が似てるんだよ。だから趣味も合うんじゃないかと思ったてさ。半分はお前のために貰ってきたようなもんだ」
「趣味って……女と付き合うんじゃないんだから」
「そうか? お前は本が彼女みたいなもんだから、出会いを供給してやらんといかんって義務感を覚えてな」
 俺は自然と浮かぶ苦笑を押さえつける。
「大きなお世話だこの野郎。人のこといじってないで、自分のことを先に片付けろよ」
「俺はもう間に合ってるよ」
 さらりというので、聞き流すところだった。
「あ……何?」
「何でもねぇ」
「何でもないことないだろ。いつから」
「まぁいいじゃねーか」
「よくねーよ。教えろよ」
「どうするかな……じゃ、それ読んだら教えてやるよ。感想聞かせてくれ」
「おい、ちょっと!」
 立ち上がったそいつの裾を握って、ついつい大声をだしてしまった。周囲の机から向けられる非難の視線が十重二十重と俺達を包んでいる。
「………………」
「………………」
 俺は口を押さえて席に座り直し、
 そいつは肩を竦め、俺の頭をぽんぽんと叩いた。陰険にも人差し指を口に当てて諭すような仕草までしやがる。
 俺としては、憤懣やるかたない。
 そのまま立ち去ろうとして、
 くるりとこちらに戻り、俺に耳打ちする。
「言い忘れてたが、それ、恋の話らしいぜ」
「嫌味か」
「向学したまえ、若き青年」
 チェシャ猫のようににんまり笑うと、そいつは振り向くことなく、スキップ寸前の飄々とした足取りで玄関の方へ消えていった。
 これもいつものことだ。
 唐突に現れ、忽然と消える。
 突拍子もない行動に馴れてはいたが、今日の対応は少し釈然としなかった。いつもにもまして浮ついていて、演技めいていた。
 ラベリングされていないフロッピーをまじまじと眺め、一つ溜息をつくと、重ねた本の上に置く。そのまま読んでいた本に戻ろうとして……顔を上げる。背もたれに体重を掛けていく。
「恋の話、か」
 呟きは音にならない。
 海に近い場所にキャンパスがあるから、ここにはいつも何処からか、微かに潮風の香りが漂ってくる。隙間風のせいだろうか……今日はそれが、何故か少し強く薫るような気がしていた。


 変わらず窓は軋み、時折がたがたと震える。
 空は高くなり、海が深まっていく。


 秋が、深まっていく。