3
吹き荒れる短剣の旋風を打ち払う金属音の連続。
霊夢と命の防衛戦は続いていた。
「次は右っ」
「わ、わかった」
再び暗黒の廊下を通過する二人。ナイフの猛襲は絶え間なく続く。その間も、突発的に現れる───むしろ、生成されるという表現が正しい───扉や階段や鉄格子がひっきりなしに二人の行く手を阻む。まるで館自体が意志を持って活動しているかのように。
霊夢は的確な指示をもって命を導く。
ただ、あまりの攻撃の激しさに、霊夢の周囲で自動的に防御行動を行っている陰陽玉ですら、撃ち漏らすナイフも出てきている。命はそれをかわし、ある時は鞘に入ったままの小太刀で打ち払う。あの牢獄で投げ捨てなくてよかったと、心底思いながら。
角を曲がったところで、霊夢はいったん廊下の床を蹴って勢いをつけた。左右から来る攻撃を長大な針で貫き落とす。
「手持ちの武器が少なくなってきたわ。そもそも、巫女は戦いに向いてないのよね」
一瞬反論し掛けた命が顔を上げる。
「霊夢、向こうに光が」
「わかってるっ」
二人は長い廊下の突き当たりに向かって飛翔する。
「ねぇ、霊夢、誘蛾灯って知ってる?」
「しらないけど、あんまり良いものじゃなさそうね」
「……蛾じゃない僕らには関係ないよ、きっと」
「そうかもね」
そうであって欲しい、と命は微かな希望を切に願った。
直線距離にして百メートル。空間の歪んだ館の廊下を一瞬にして駆け抜ける。
その先の光は、見慣れた紅のフィルターに掛けられていた。
出口を通過する───
巨人の国だった、そこは。少なくとも、命はそう錯覚した。
或いは、ここは紅魔館における単なる一つの廊下に過ぎないのかもしれない。そのスケールを勘定に入れなければであるが。
幅は優に三十メートル、右と左には遙かに地平線。
遠い地上には今までと同じような絨毯が敷き詰めてあり、天井には巨大なシャンデリアが吊り下げられている。そして、右手には巨大な窓が連なっていて、紅の月光を窓の形に切り取り、地面に描き出している。
窓がある場所以外の壁面には、普通のサイズの扉が無数に張り付いている。それも、上下左右が滅茶苦茶に。命は理科の実験で観察した、植物の葉の裏面にある気孔を連想して、生理的な嫌悪感を覚えた。
その巨人の為の廊下の中央に、一つの魔法陣が……それを背負って浮かぶ少女の姿があった。腕を組んで斜に構え、二人をじっと見つめている。
十六夜咲夜。
紅魔館のメイド長にして、主に使える最強のしもべ。
「……ここは『待っていたわ』っていうのが常套句かしらね」
「悪役らしくていいんじゃないの? でも、ここまでずっと攻撃を仕掛けてきてたんだから、待ってたわけじゃないわよね。言葉は正しく使うべきだわ」
「本気で攻撃したら狭い廊下が血で汚れちゃうもの。掃除する身にもなりなさいよ。それに引き換えここだったら、消し飛ばせば何がなんだか分かんなくなって手間も省けるわ」
「メイド長がそんないい加減でいいのか」
「いざとなれば建て直せばいいだけだし」
「あんたの心がひねくれてるから、屋敷がこんなにねじ曲がってるのね」
「そういうあんたみたいな頭の持ち主がメイド長だったら、屋敷はいつもお花畑よ。掃除するのに困るわ」
「それはそれで楽しいわね」
「物には限度ってものがあるわ」
両者は適当な会話を楽しみながら、ゆっくりと浮かび間合いを計っている。霊夢の後ろで命は小太刀を握り締める。
「命」
霊夢が小さく呟く。
「あいつが止めていられる時間は無限じゃないわ。だから、距離を詰められないようにして、ずっと離れていて」
頷く。最初の失敗を繰り返さない為には、そうするしかない。小太刀は折れ、己を護る術を持たない自分には。
陰陽玉を軌道運動させながら、霊夢が咲夜に笑いかける。
「……もうちょっと話してたいんだけど、先を急いでるの。悪いけどここは通るわよ」
「お嬢様ならもうお休みになったわ。遊びに来るなら明日にして」
「明日が来るならそうするけど」
「じゃ、諦めることね。なんならメイドとして雇ってあげるわよ。お嬢様と毎日遊べる係と、迷子を捜す落とし物係」
「いってることが支離滅裂だわ。メイド長を返上して、子守からやり直した方が良いんじゃない? ま、時給がいいなら考えなくもないけど。うちの神社貧乏してるし」
「ではさっそく、採用試験を始めましょうか」
咲夜の右手が見えないスピードで振り下ろされた。霊夢の黒髪が数本舞い飛んでから、命はその攻撃を把握した。
「命、動いてっ」
ほとんど金縛りだった命を、霊夢の声が揺り動かす。巫女と少年は反対方向へ散った。
次の瞬間、メイドは二人の距離の丁度中央に出現し、無数のナイフを均等に放つ。霊夢には陰陽玉、しかし命には何もない。
霊夢が退魔針で咲夜を牽制する。
咲夜の注意は霊夢に向けられたが、ナイフの一群は最初に与えられたエネルギーを保持しながら命に殺到する。
自分が、霊夢に迷惑を掛けるわけにはいか
ない───
判断する、
殆どのナイフはブラフで、直撃するのはごく僅か。神社で霊夢が言ったことを思い出す、
『動くだけ無駄よ』
見えた。
打ち払うべきは一本だけ。
そのナイフを、小太刀によって受け流した。
両手が痺れる、
他のナイフは錐揉み状に回転し空気を裂きながら、命の脇を通過していく。
一瞬驚いた表情を見せた咲夜に、霊夢が勢いよく組み付く。そのまま遠くまで押し流す。逆手に構えたメイドのナイフを、玉串で受け止めている。
「一般人にあの試験は難しすぎるわよ」
「何事もボーダーラインを高くしないとね」
咲夜が右手に力を籠める、
忽然と出現する煌めき。魚群のように鱗を煌めかせるナイフが霊夢の背中を襲う。
「霊夢っ!」
離れながら見守る命が叫ぶ、
視線で陰陽玉を使役する巫女は、ナイフを残さず撃墜し飛散させる。
第三弾は命の周囲に出現した、今度はナイフによって描かれた黄道が出現、その軌道は命を十重二十重に包囲している。ブラフではない。解き放たれれば全て少年を串刺しにする。
命はやるべきことを把握していても、その圧倒的な殺気に気圧されてしまう。
脳裏では、やはり自分が霊夢の足手まといになっている、そのことばかりが明滅して集中力を削ぐ。
霊夢に組み付かれたまま、咲夜は妖艶と笑う。
「今度の問題はちょっと難しいかしら」
「不当な試験官には抗議する権利があるわ」
「働いたこともないくせに」
「職業巫女は人生の墓場よ」
咲夜の瞳が一瞬紅く染まって、
ナイフが一斉に動き出した。覚悟する暇など無く、
命の回りで二つの星が飛び回り、その全ての殺意を鎮めている。
助けられた。
自分の生死よりも重要なことが脳裏で灼熱する。
ほんの数瞬であっても防御の手段を失った霊夢が咲夜の確保を諦め、距離を取る。そこへ第四陣の短剣が出現、これまでの中で一番多い。回避という概念を消失させるほど密度の高い弾幕だ。
霊夢は懐から札を抜き取り、念じて翳す、
「散!」
燃焼するマグネシウムが放つ閃光のように目に焼き付く、閃光。弾幕を巻き込んで、周囲に巻き散らかされる。紅の支配する戦場に、瞬きのように描かれる白と黒の陰影。
命が思わず顔を背け、
黒い影が迫っていた。
その両手には研ぎ澄まされた刃、
肩口の傷が弾けて疼く。
「さぁ、お休みの時間よ……迷子の坊や」
咲夜が眼前に覆い被さる。
咄嗟に構える小太刀は既に刃を失い、
悪魔の力によって死の軍門に下るよりほかなく、
しかし依然としてその実感はなく、
まるでスローモーションのように振り下ろされるナイフを見ながら、
咲夜が背中からのけぞっていた。覆い被さるような影はいつの間にかもう一つ増えてい
て───全速力で飛来した霊夢が、咲夜の背
中を思いっきり蹴飛ばしたのである。
遥か下方に向かって墜落する咲夜、
のはずがいつのまにか霊夢の後ろについていて、再び短剣の狙いを首筋に付けた。
霊夢はまだ反応していない、
命がようやく反応した、
だが既に短剣は振り下ろされ始め、
とんでもない轟音が館全体を包み込んだ。
地が叫び、絨毯が裂け、そこから光と闇が一緒くたになって噴出した。どこまでも直線的なそれは、紅魔館の壁を吹き飛ばし、大穴を開け、それでも飽きたらず夜の空を真っ直ぐに真っ直ぐに、貫き通し天涯へと伸びていく。
そんな光の柱が何本も何本も、地底から伸びて咆吼を繰り返す。地震は止まず、館はその責め苦に苦悶を押し隠すことなくのたうち回る。
死闘を繰り広げていた三人もその光に包まれた。何が起こったかすぐには把握できないメイド長、ただ呆然とするばかりの命、そこへも全てを滅する光が伸びる、
霊夢が命に抱きつき、そのまま壁面に激突する勢いで押しつけた。すかさず札を四枚投げ、結界を構成する。
「命! 命! びっくりしてないで!」
「こ、これって一体、」
「魔理沙だわ」
「え?」
「まぁ際限なくぶっ放しちゃって、この分じゃ自分のことすら考えていないわね」
霊夢は言葉を一端切ると、少し考えてから手近な扉を開けた。中に光はなく、冷え冷えとした闇が広がっている。
「……命、ここから先に行ってなさい」
「っ」
突然の言葉。
「わかるでしょ、多分、命がいると勝てないわ。命が死んでも良いなら別だけど……私、仕事でも命のお葬式やりたくないもの」
うん、わかる。理性では理解できる。
だけど、
「だけど霊夢、怪我してるのに」
「命だってズタボロじゃないの。鏡みたら笑えるわよきっと」
そういって霊夢はにっこり笑う。悪戯っぽい笑みを浮かべて。今までの中で、一番人懐っこい表情のような気さえした。
「……多分、お嬢様は命には手を出さないわ。だから大丈夫。先に行って、私を待ってて。今度は直々に、お嬢様にお茶をおごって貰いましょ」
「霊夢……」
「さすがにこれ以上、私の我が儘いえないもの。命は特殊な一般人だし。それに……迷子は家に帰らなきゃね。私も命のこと、嫌いじゃないし」
「でもっ」
「早く、結界が持たない───」
強引に扉の中に押し込まれる。自分と同じくらいの小さな女の子に逆らえない。
光の柱はやがて収縮を始めた。
その光をバックにして、こちらに向かって躍り出る影、両手に構えた武器を投擲し、
「早く!」
自分をかばうように扉を背にした霊夢を見て、命は総毛立つ。
自分が手当てした傷をまじまじと見る。
そこから流れ落ちた血は膨大な量で、背中から袴にかけてをびっしょりと、どす黒く汚していた。暗闇と戦闘のせいで全然気づかなかった。
言い訳だった。
「れいむっ!」
応答の代わりに木製の扉がバタンと乾いた音を立て、ついで向こう側から鍵を閉める音がした、
ドカカカカカカカカカカカッ!
扉に何かが突き立つ。
何かが。
そして、騒乱の響きは途絶えた。
完全なる闇の中で、命は拳骨をドアにぶつけた。
「……………………く…っ」
空が飛べるようになっても、
偶然剣を使えても、
たまたま長く一緒にいられても、
ここでは命は異邦人で、一般人だった。
解っていたことだ。最初から全て。
だけど。
だけど、何でこんなに納得がいかないのだろう。
奥歯をぐっと噛み締める。
傷だらけになった小太刀を握り締める。
「ガキだよな、僕…………」
その悔しさの行き場はなく、ただただ徒労に終わる。
涙が浮かばない。
自分はなんて無力な人間なのだろう。
ぼうっ
炎の匂いがした。
背後に人の気配がしている。
急速に襲い来る疲労困憊に毒されつつ、ゆっくりと振り向く。
茫洋と広がる闇の中、うっすらと光り輝く階段が、高く高くへと伸びている。頂上の部分は高すぎて見えないが、紅ではなく白く光っているように見えた。
その階段の始まりに、三つ又の燭台を捧げ持つ一人のメイドがいた。蝋燭の炎が紅くちろちろと揺れている。同じ色をした長髪が、鈍く光を帯びている。
「………君は」
「覚えてくれていたのね。美鈴よ、門番の」
神妙な顔をして、美鈴は階段を指し示した。
「咲夜さん……メイド長の命令で、貴方を待っていたわ。これから、貴方をお嬢様のところに案内します」
懐中時計の作動音が聞こえる気がした。
この展開も、咲夜の掌の中の時間だったのだろうか。あるいは、この館の主の意志か。
悄然としながら、命はゆくべき道を見上げる。もうこれしかない。自分が迷い込んだ幻想郷の終着点。そこで霊夢を待つ。もうそれしか、自分に出来ることはなかった。
美鈴が階段を登り始める。
命は消沈したまま、それに倣う。一段一段、力無く踏みしめる。
白く彷徨える魂が時折飛び交う中、真の闇のなかを、暗黒の天上へと、階段だけが続いている。
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