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力無く頭を垂れた博麗の巫女。
その着衣の至るところにナイフが突き刺さり、背後の扉にしっかりと縫い付けられている状態のまま。
死闘の舞台と化した大広間が幻影のようにゆらりと霞み、紅魔館のメイド長は暗い空間にゆっくりと降り立った。そこは直線の廊下で、両側に窓がある。左手上方には巨大な月、右手上方には時計塔。時計塔の文字盤には針がない。
博麗の巫女は動かない。
彼女を完璧に守護していた二つの陰陽玉も動き出す気配はない。咲夜が視線で貫くと、忽然と現れたナイフが二本、空中で機敏に踊り見えざる手によって投擲され、それぞれの球体を床に串刺しにする。続けざまに十本、二十本、三十本と軌跡を描く。無数の短剣に串刺しにされ陰陽玉は、針を刺しすぎて本体の見えなくなった針山のような状態になってしまった。
「さあ、この夜を楽しみましょうか」
瀟洒なメイドは微笑みを絶やさない。
「私は咲夜、十六夜咲夜。あなたは頑張りすぎて、いつの間にか目的地を通り過ぎてしまったみたいね。あなたは満月に至ることが出来ないのよ。だってここは十六夜、消えゆく月を永久に見守る場所」
「………………」
「迷子は早く家に帰るべきだけど、でもまだまだ遊び終わるには早い時間だわ。いくらでもつき合ってあげる。いくらでもね」
「………………」
霊夢は答えない。先ほどの戦闘で大きな傷を負ってしまったのだろうか。
咲夜は毅然と宣告する。
「―――私にとってお嬢様は全て。だけど、お嬢様が望むことと、私が望むことは違っている。お嬢様はあなたを望んでいるわ、私にも解らない理由でね。でも、私の望む理由は明快で簡単」
咲夜は抜き手も見せずナイフを投擲。
空気を裂いて、霊夢の喉の寸前で突如、静止する。
「私にとってお嬢様は全て。だから、あなたはお嬢様のところに行かせない。たとえお嬢様がそう望まれても……お嬢様を突き動かすあなたを、私は認めるわけにはいかない」
「……迷子」
巫女が呟く。誰に答えるでもなく。髪に隠れてその表情は窺えない。
「何?」
「誰が、迷子なの?」
「迷子はあの子。結界を越えてやってきた不幸な男の子。お嬢様のお考えは私には解らないけど、あの子はただの人間。お嬢様になんら影響を与えることはないわ。お嬢様を脅かすのは博麗の巫女。お嬢様を突き動かすのは博麗の巫女。だから……私は」
「いいえ。迷子は私。迷子は、あなた」
霊夢の口調は変化していた。
呟くように、詠うように。
その『霊夢』がゆっくりと顔を起こす。
表情の存在しない人形のようなその顔。瞳は澄んでいた。透き通りすぎて何も映していない。覗き込んでも何も見えない深い深い井戸のように。投石すれば、しばらくの後に跳ね返ってくるのはただただ、静寂と共に浮上する反響と波紋だけ。
「あなた……」
「ねぇ。あなたはいったい、何処にいるの? あなたは、何処に行きたいの? あなたは、何を探しているの?」
何も映さない瞳のまま、『霊夢』が囁く。
その不気味さに咲夜は初めて戦慄を覚えた。それは永く感じなかった感情だ。必殺の一撃は巫女の喉を簡単に寸断できる場所に位置し、遣い手の命令を忠実に待ち続けている。だがその遣い手は、なぜか口の中に溜まった唾を飲み込まなければならない。
なぜ?
絶対的な優位にありながら、底冷えする感情。誰にも負けない自負心を支える銀のナイフが、懐中時計が、それを携える二本の腕が、矜持が、有り様の変わりゆく巫女に、圧迫され気圧されている。
何を迷っているの。私は私の仕事を完遂するだけ。紅魔館のメイドとして、レミリア様の従者として。
「……さっさと何も考えなくて良いようにしてあげるわ。さようなら、脳天気な巫女さん」
手の中の懐中時計を握ろうとして、
『あなたは誰を捜しているの?』
頭蓋骨を透過し直接大脳を優しく撫でるようなその声に、咲夜は憤る。
「やめて」
『あなたは何を求めているの』
「やめて………お願い」
『私にはわかる。あなたの願うもの』
「わかりはしない、だって」
『わかる』
「わからない、わからない!」
咲夜は叫びたくなる衝動に駆られ、必死で頭を抑える。脳に入り込むその声はあくまで優しいから、だから……受け入れてしまいそうになる。
『わかるわ』
「わからないわよ……だって、私にも………わからない、もの」
脳裏を紅白の蝶が舞う。
いつか何処かで見た、幻想蝶。
そこに重なる風景。夏の蒼空、爽やかな風、溢れる木漏れ日、そして笑い声。
白日の下の微笑。
自分も笑っている。
誰かを見守りながら、楽しく笑っている。
イメェジが、封印された記憶が彼女を侵食していく。
「わからない、わからない、わからない!」
髪をかき乱しながら、咲夜は両手に四本ずつナイフを構える。指の間に挟まったそれは、月光の洗礼を受け血の生贄を求める。
祭壇は目の前にある。
もう迷うことなど何もない、
「死ね、博麗の巫女!」
両手を抜き放…………て、なかった。
眼前には異様な光景が展開していた。
霊夢の破れた服の隙間から、まるで吐き出されるかのように無数の札が、文字通り流れ落ちている。神代文字を描いたそれは、生き物のように這い回り、廊下にぞわぞわと広がっていく、
「くっ」
巫女の喉元のナイフを動かそうとして、それが叶わないことを咲夜は悟り愕然とする。ゆっくりとナイフは方向を変え……一条の閃光となって咲夜の元に戻った。主に背き、主の腕に一筋の紅を創って、それは闇の向こうへ消え弾ける。
「…………なんなのよ……」
『博麗、霊夢』
巫女を繋ぎ止めていたナイフが勝手に抜け落ち、ばらばらと床に落ちる。陰陽玉も戒めを解かれ浮き上がる。いくら咲夜が指令を送っても、その剣はもう咲夜の刃にはならない。
一瞬の逡巡の後、咲夜は今度こそ攻撃を再開した。
新たに投擲されるナイフは、一瞬で十六本になり、六十四本になり、二百九十六本になって霊夢を襲い、
霊夢は一枚の札を振り上げる。と、床に散らばった無数の札が、まるで意志を持ったかのように連なり一本の蛇になり、霊夢の持つ札に吸い付く。即席の鞭がしなり、襲い来るナイフを全て弾き返す。
「無駄よ。あなたの時間は私の物」
咲夜は懐中時計を握り締める、
鞭を振るう霊夢が彫像のように動きを止める。その間に、彼女の直上と死角からナイフを無限に降らせるように配置する。
握った拳をほどく、
半分ほどの攻撃は弾かれ、残り半分は誰もいない床に連続して突き立つ。
同時に窓硝子が割れた。
庭に飛び出した霊夢を追って、咲夜は飛翔する、
霧で巨大に霞む紅月を見上げ、懐中時計を握り締める。
こちらに長大な針を投げながら地面を這おうとする霊夢が硬直している。
ナイフの数は四百を超え、
握った拳をほどく、
巫女が放った針はその瞬間にナイフによってへし折られ、巫女へと降り注ぐ斜光は血に飢えたナイフへと還元される。その数は千と六百六十六、
それでも霊夢にナイフは届かない。
巫女は真紅に染まる噴水をかすめ、紅魔館の壁を駆け上がる。その後を次々と短剣が着弾する。水飛沫を上げ、壁を削り、土煙を上げて、ナイフの墓標が無数に誕生する。
おかしい。
咲夜は焦った。
時間を止めて先読みの攻撃を出しているはずなのに、霊夢には全く届かない。
攻撃は鈍らせずに投擲、投擲、
もはやガン細胞のように無限増殖するナイフがシャワーのように降り注ぎ、
霊夢は同様に無限の札を振りまいて反撃、
咲夜が時間を止め、
刹那をちりばめて二人の位置は入れ替わり、
何度撃ち合ってもお互いに決定的な打撃を与えられない。
「どうしてっ」
こうなると、自分の力に絶対的な自信を持っていた咲夜の方が脆い。
相手の思考が読めないのだから。
相手を掴めないのだから。
「時間を止めているのに」
飛び道具を諦め、右手にナイフを持ち替えて再度、時を止める。
虚ろな瞳で札を放つ瞬間の霊夢の彫像の完成、
一瞬で距離を詰め、その心臓に、確実に攻撃を打ち込む、
時は動き、時は流れ、
勢いよく吹き出る鮮血は何処にもなく、
赤と白に輝く札ばかりが舞い散る。
霊夢の姿はない。
呆然として見上げる咲夜の頭上に立ちはだかるのは、絶対の威厳を以て存在する時計塔。
その時針と分針は、午後十一時五十五分を示している。
午後十一時五十五分を示している、
「そんな」
咲夜は自分の目を疑う、愕然と。
時計塔の文字盤にもう時は刻まれないはずだ。この時計塔が時を刻んだことはない。
誰が時を刻もうとするの?
私以外の誰が、いったい───
時計塔の中腹で、闇に消える紅白の少女。
………許さない。
私は時を司る者。私以外の誰も、この紅魔館で時の流れを決めてはいけないのだ。
すべてはレミリア様の……「あの子」の為に。
そして自身の為に。
もう誰も、迷子にならないように。
霊夢とおぼしき少女を追って時計塔に飛び込む。
そこは正確な直方体の建物で、中はがらんどうだった。時計など何処にもありはしない。すかさず頭上を見上げると、霊符が鋭利な刃となって無数に降り注ぐ。
自分の能力の限界までありったけの数字を想像し、ナイフを放出する。床を蹴って巫女との距離を詰める。振り上げる短剣を、巫女は玉串で受け止める。背後の気配は陰陽玉か、これも無限ナイフで対応する。これだけ近寄ってしまえば攻撃することも出来ないだろう。
「もうそろそろ家に帰りな! こっちも後片付けが大変なんだよ」
「……………」
短剣を振り上げた右手を巫女はすかさず掴み、足を折り畳み渾身の両足でメイドの鳩尾を蹴り飛ばす。たまらず咲夜は空気を吐き出し、躯をくの字に折り曲げる。
巫女は離れて四方の壁に結界を貼り、安全な場所を確保する。たとえ効果時間が短くても、この結界の中にいれば何人も霊夢に害を為すことは出来ない。そこから更に無数の霊
符による攻撃を下そうとして───
彼女の喉に深々とナイフが突き立った。
肩の骨を砕き、肋骨を削りながら、確実に心臓を貫く。
生暖かい血が噴水のように噴き出す。
その返り血を浴びながら、瀟洒なメイドは妖艶な笑みを浮かべる。
「少し遅かったわね。云ったでしょう? あなたの時間はもう私の物……幻は踊り儚み、やがて霞となって消えるのよ」
茫然とした表情の巫女のうなじを鷲掴みにして、空中に放り投げる。
次々とナイフを現出させ、躯のあらゆるところを貫き通していく。手の平、腕、足、腿、胸、顔、頭。攻撃が巫女の躯を貫くたびに彼女は衝撃で踊る。咲夜が意図するままに、まるで幼い少女に手足を動かされる人形のように、滑稽にもの悲しく。
咲夜は時を止め、時を動かし、ナイフの量を調節する。いかに動かせば、人形はより人間に近くなるだろう。いかに動かせば、見ている子は楽しんでくれるだろう。そう考えながら、咲夜は一身に人形を操り続ける。降り注ぐ返り血を浴びながら、優しい表情を浮かべながら。
『それが、あなたの望み?』
声がする。
人形で遊びながら、咲夜は答える。
……そうよ。
レミリア様を……迷子の子を探し出して、また一緒に遊ぶの。今度は迷子にならないように、二度とそばを離れないように。楽しいでしょう? お人形遊びは楽しいでしょう? 一緒にいれば、こんな風にずっと楽しくしていられるわ。
だから、
だからお願い、
ずっとそばにいて。もう二度と迷子になんかならないで。
ずっと一緒にいるから。
ずっと、そばにいるから。
『でも、時間は誰にも止められないわ』
いいえ、止められる。
私なら……私だけが止められるの。
そのための力なの。
私の力なの。
あなたを護るために。
『いいえ』
なんで、そんなことをいうの?
『だって』
―――脳裏を、紅白の蝶が飛んだ。
『だってあなたが止められるのは、あなたの時間だけだもの』
……それは、紅の中で見た記憶。
爆ぜる炎によって飛んだ、時と分と秒の針。
午後十一時五十五分で歩みを止めた、私の時計。
咲夜は我に返る。
手にはナイフを持ち、突っ立っていた。
ここは、何処?
周囲を重い駆動音に取り囲まれている。
歯車の生み出した、機械という名の運命。
歯車は動く。
与えられた運命に従って、無限の円運動を続ける。
ここは、時計塔。
その心臓……機関部。
「………………結……界?」
自分が飛び込んだ結界は、既にもう一つの結界によって取り囲まれていたのだ。その動かし難き定めを、無言の歯車がその動作によって朗々と読み上げている。
目の前に、博麗霊夢が立っていた。
不敵な表情。ぼろぼろの姿だが、瞳にいつもの光が戻っていた。
「どうして」
「時間は誰にも止められないわ。どんなに力があっても、時間だけは……誰にも」
「どうして」
メイド長の問いに返すべき答えはない。
代わりにあるのは、時を止めた罪に対する代償だけ。
――二人を取り囲む博麗の結界の中には、十六夜咲夜がこの夜に放ったナイフの全てが封じ込められ浮遊していた。
争いの当事者である二人に、ありったけの狂気の刃を向けたまま。
「…………どうして」
咲夜は途方に暮れたまま、ぽつりと呟く。
正しい答えのない問いを続ける子供に、せめて暖かい毛布をそっと被せてあげるかのように。
………無数の短剣は戒めを解かれ、二人をめがけて殺到した。
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