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 魔理沙があんまり神妙な表情でいうものだから、逆に現実味がなくなってしまった。逆効果という奴だ。悪戯はほどほどにということなのだろう。
 と、命は考えておくことにした。
 まだ恋らしい恋をしたことがないという事実をずばり射抜かれて、ちっぽけなプライドがまたも傷ついたことを気取られないためにも必要な措置だった、と思う。恋占いの的中は避けて欲しいが、どうも女の子絡みの話はこれからもつまずくことが多そうで、命は眉間にしわを寄せて唸ってしまうばかり。
 ……そんなこんなで会話は尻窄みに終息した。今はまた、小さなテントの中で三人、川の字になって横たわる。魔法使いがページをめくる音も途絶えた。命は眠れないまま、両手を枕にして天井を見上げる。
 一眠りして疲労を取るべきなのだろうが、睡魔は一向に訪れない。
 外の風は低音で響きながら、テントを揺らそうと懸命だ。もちろん、魔理沙の魔法は有効なままだが、こんな状況ではおちおち眠れない。少女達の見かけと反比例する図太い精神が心底羨ましかった。
「少しでも寝なきゃ……」
 なんだか徐々に寒くなっていく気もする。命は縮こまって、無理矢理瞳を閉じる。
 と。
 遠方から、重低音が轟き始めた。
 地面に振動が響いてくる。最初に連想したのは、街を踏みつぶす巨大怪獣の足だった。幼い頃に父親に映画館に連れ込まれ、わんわんと泣いて帰った記憶がある。
 その音は、一歩ずつ近づいてくる。
 床を襲う震動も大きくなり始めた。
「ねぇ魔理沙、霊夢も!」
「わかってるぜ」
 揺り起こすまでもなく飛び起きた魔理沙が、中央の柱に立てかけておいた箒を掴んだ。
 途端、耳をつんざく破砕音と共に、上下一メートルぐらいの縦揺れがテントを襲った。三百六十度が冷気と白色につつまれ、耳の機能が麻痺する。躯の感覚が前後不覚に陥った。
「つかまれ!」
 声のした方に必死で手を伸ばすと、箒の柄があった。あれほど頼りなかった樫製の棒がこれほど安心させてくれたのは皮肉な話だ。
「うああああっっ」
「舌噛むぜ」
 垂直上昇、
 風が吹きすさぶ。ようやく目が開けられるようになって……命は瞠目した。
 吹雪は収まり、氷結した湖面は鏡のように鋭く輝いていた。遙か彼方から、テントに向かって正確な直線が引かれている。それは湖面から突き出した逆さ氷柱の列で、テントがあった場所にぶち当たって止まっている。そこは念入りな悪意が込められていて、雲丹状の巨大な花を咲かせていた。引き裂かれた布きれが天辺に引っ掛かっている。
「とんでもないな」
「ちょ、魔理沙、霊夢がいない!」
「多分まだ寝てるさ、あの氷の柱の下でな」
「そんな! 早く助けなきゃ」
「安心しろ、あいつは死んでも死なないから」
「でも!」
「いいから自分の心配をしろっ」
 出来るわけがない。
 全身が総毛立ち、箒にぶら下がったまま食い入るように見下ろす。掌の汗が止まらない。
 今、自分は不明瞭な灼熱を抱え込んでいる。その大半は無力な己に向けられていたが。
「早く降りよう」
「それよりも先に、あのお客さんを何とかしないと……いや、注文の多い料理店に入り込んだのはこっちの方だろうが」
 魔理沙が片手をポケットに手を差し入れる。
 前方に、蒼い服の少女が浮かんでいた。
 踊るようにくるくると回りながら。輝くような素足と、背中で鳴る蜻蛉のような翅が、彼女が異形の一族に連なる者である証明となっている。
「ねぇ、恋ってどんな感じかしら」
 少女は歌うようにつぶやく。
「胸がきゅうんって、きゅうんってするんだよね? どんな感じ? 水が一瞬で凍り付く感じ? 固い決心は、ずっと溶けない永久凍土みたいな感じかな?」
 こちらに差し出した掌の中に、囀る哀れな小鳥。
 口元に運び、ふうっと吐息を吹きかける。
 次の瞬間そこにあるのは、命だった物の形をした氷でしかない。
 爪の先でつんとつま弾くと、それはぱっと弾けて虚空に飛散した。
 妖精は、魔理沙と命の周辺をおどけて飛び回る。
「でも、ほぅら……恋は儚いもの。一瞬で砕け散って、あとは融けて消えるだけ。そんな悲しい、切ないもの……だから恋は綺麗、ずっと綺麗」
「湖がこんな広いのもお前のせいだろ」
 魔理沙に向かって両手を広げる。
「ええ。わたしはチルノ、可愛いチルノ。氷のように切ない恋を夢見る乙女。いつまでも変わらない湖上の妖精。だけど、男の子がいればきっと、もっと冷たく美しい恋が出来るはずだわ」
 命を指さして妖艶に微笑み……いきなり凄惨な牙を剥く。
 魔理沙は鼻で笑っている。
「私が察するに、お前は自分がモテると思ってる間に結婚適齢期を越えるタイプだな」
「……ここは通さないよ、へぼ魔法使い!」
「そんなに必死な妖精にゃできないぜ。ま、恋に恋しながら永遠に凍り付いてろ」
「なんだとぉ!」
「ほら、本音を指摘されたら地が出やがった。いっぱいいっぱいな奴」
 舌戦はそこまでだった。
 チルノは甲高い叫びを挙げながら両手から白煙を吹き出す。そこから鋭利な氷の刃が無数に解き放たれ、浮遊する箒に向かって殺到する。
「魔理沙っ、僕の初恋の相手ってあの子じゃないだろうね!」
「とりあえず今回は責任持って対処してやるから安心しろっ」
 魔理沙が余裕を持って回避行動を取るが、ぶら下がったままの命は必死である。滑る手を離せば遥か下方の氷塊にぶち当たって御陀仏なのだから。もちろん、バランスを取りづらいのは魔理沙も同様だ。
「やばいな、命のせいで反応にラグが出てるぜ」
「な、なに、魔理沙ぁ?」
「気にするな」
 冷気を纏ったチルノが哄笑する。
「ほらほら、逃げてばっかりじゃ状況が悪くなるばっかりだよ? この際だから冷凍して輸出して外貨獲得の手段にしてやるわ!」
「なんかこの話題多いな。そんなに魔法使いの氷漬けは需要があるのか」
 氷柱に混じって、半径一メートル前後のジャガイモのような氷塊が飛んでくる。魔理沙はあらかじめ予測して避け、命は必死に躯をひねる。結果的に攻撃はぎりぎりをすり抜けていく。
「魔理沙、もう限界だぁぁぁぁぁぁ!」
「こっちも必死だな」
 その状況は妖精の思惑通りだった。
「じゃ、終わりにしましょ」
 一度小さく手を打つ。
 と、超高速で飛び交っていたあらゆる氷の構造物が、空中で静止した。
 凍結物の再凍結、
「おっ! とっとっとっとっ!」
 魔理沙が慌てて躯をひねる。くるくると回転しながら、何とか激突は回避した。
 が、
「まりさああああああああああああああっっ!」
「しまった」
 ついに命の手が離れてしまった。
 慌てて後を追おうとする、
「いかせないよっ!」
 チルノは再び氷の猛攻を開始する。全力で回避しないと殴打と串刺しのダブルコースだ。
「ちっ、調子に乗りやがって」
 魔理沙がポケットから呪符を取り出す。
「お前にゃ恋なんぞ分不相応って言葉を教えてやるぜ」
「やってごらんよチンチクリン!」
 その瞬間、
 下方で湖面の氷が炸裂した。そこから赤い閃光が直上に駆け登り、
「なっ!」
 チルノが驚いた時には、もう足首を捕まれていた。反撃する暇もない。
「なにするのぉ、離せええっ!」
 赤い影は答えない。
 そのまま急速下降し、恋する妖精を道連れに湖面に激突、
 轟音と共に厚い氷を叩き割る。
 水中に没する、代わって透明な水柱が構築され、
 約一秒の沈黙。
 世界全部が揺れ始める。
 地鳴りが地平線までも響き、
 そして。

 ドオオオオオォォォォン!

 巨大な瀑布が屹立した。間欠泉は雲まで立ちのぼり、払いのける。湖面の氷は全て一瞬で昇華し、膨大な雨滴が一瞬で天に舞った。
 雨がスコールのように降り始める。
「少しは加減しやがれ!」
 真っ白な視界に閉じこめられた魔理沙も、悪態を付くのと姿勢制御とで精一杯だ。
 ………。
 やがて、俄雨は去った。
 静寂が空からしずしずと降りてくる。
 偽りの白き空間はあやかしの夜の帳に包まれ、紅き月の支配が再臨した。
 霧がまた、ゆったりと世界を覆い始めた。
 静かな湖上は滔々とした水を湛え、本来の大きさを取り戻していた。
 月映える湖面の上空……さっきまで間欠泉がそびえ立っていた場所には、瞳を閉じた博麗の巫女がいる。その直下から波紋が絶えず生まれて、湖全体に広がっていく。
 霊夢の周囲には、従者のように付き従うソフトボール大の衛星が二つ。陰陽を表す表象が描かれた球が、正確に軌道運動をしている。やがてそれはするすると小さくなると、霊夢の両手に一つずつ収まった。最終的に胡桃ぐらいのサイズになり、服の裾にしまわれる。
 なんとか態勢を立て直した魔理沙が、服の水を払いながら霊夢に近づいていく。箒の先までずぶ濡れだ。
「……めちゃくちゃだな」
「あっちがめちゃくちゃなのよ」
「だからってめちゃくちゃにしていいってことはないぜ」
「それは知らなかったわ」
 眠りが深い分、寝起きの霊夢は機嫌が悪い。毎度のことなので驚かないが、魔理沙はやれやれと自分の肩を揉む。
「で、あのバカ妖精はどうなった」
「面倒くさいんで湖底に通じてる地脈にぶつけてきたわ。三年ぐらい反省しててくれるといいんだけど」
「石の中にも年が降ればいいんだけどな……」
「でも、霧を出してた夜の主はあいつじゃなかったみたいね」
「あんな小物だったら苦労はいらないんだが……おっと、だがこいつはしめたかも。龍脈の流れが変わったとすると、ウチの方に首を向けられないかな。今年の冬こそは家の下に溶岩流引っ張って、暖房にする計画を実行に移すぜ」
 言うが早いか水晶玉を取り出し、確認のため湖にかざそうとする魔理沙に、霊夢が問いかける。
「ねぇ魔理沙」
「んあ? どうした霊夢」
「あんたのところの暖房は喜ばしい話だけど。命はどうしたの?」
「あ」
 少しだけ冷たい風が残っていたようだ。
 吹き抜ける名残を感じながら、魔理沙はぽりぽりと頭をかいた。
「私の忘却力はいいほうだぜ」

        ☆

 死を覚悟する暇なんてこれっぽっちもなかった。
 たとえ幻想郷が不可思議な楽園であっても、重力の法則は容赦なくその腕を伸ばしている。
「うああああああああああああああ!」
 高いところから落ちる人間はなぜ大声を出すのか、映画とかで見てもいまいち理由が掴めなかったが、実際体験してみると理由なんてどうでも良いことだけは理解できた。
 叫ばないとやっていられない。
 こんなのが辞世の思考なんて嫌だと念じた刹那、目の前が真っ白になって、何も分からなくなった。強烈な力で吹き飛ばされる。
 もう何も出来なかった。
 考えることすらも。
 頭を抱えたまま、次に来るはずの衝撃を待つだけ。
「あああああああああああああ!」
 待つ。
「ああああああああああああっっ」
 待つ。
「ああああ、ああああ……」
 待つ……?
「あああ、あれ?」
 その時はいつまで経っても来ない。
「あんた何やってるの?」
「なかなか興をそそるぜ」
 もはや聞き慣れた声がする。
 頭を抱えたまま恐る恐る目を開けると、霊夢と魔理沙に見下ろされていた。片方は腕を組み、もう片方は箒にまたがっている。
「あ、あのー」
「何よ」
「僕、死んだ? ここ、天国?」
「……踏むわよ」
「介錯ならしてやるぜ」
「でも、僕落ちたのに」
 手を突いて起きようとして、それが叶わないことに気づいた。
「え」
 宙に浮いていた。
 真下には、ゆったり波打つ湖面が広がっている。
 二人は自分に触れていない。
「魔理沙が、僕に魔法を掛けた?」
「役に立つ魔法を覚えるのは最後にしてるもんでな、残念ながらまだ未習得なんだ。私じゃないぜ」
「じゃあ、霊夢……じゃないか。勝手に飛べるようになったっていってたし」
「私の気持ちが二割八分六厘ぐらいは分かったかしら?」
 霊夢が手を差し出す。
 確かに……飛べるようになってしまえば、こんなものは何でもなかった。どう動かせばどうなるか、考えるまでもない。
 むしろ、幻想の世界にどんどん順応していく自分自身の方が怖かった。考えるとどつぼに嵌ってしまいそうなので、とりあえずこの問題は棚上げしておくことにする。
 空中で体を起こし、霊夢の手を取った。
「ありがとう、霊夢。そっちも無事でよかった」
「……心配するんだったら、今度は先に私に声を掛けるのよ。いい?」
「あ、うん」
「なんだ、霊夢起きてたのかよ。ひどいな」
「起きるまでは寝てたわ」
「そりゃそうだ」
 にっこり微笑む霊夢と、げっそりする魔理沙。対称的ないつもの二人に、命はようやく充足する思いだった。
「はぁ……しっかし、命のこれは先方の魔法かね。それならそれで、最初から飛べるようにしててくれればいいんだ」
「箒の二人乗りも希有な体験だったんじゃない?」
「そんな珍妙なネタじゃ、魔導書にはならないなあ」
 いつの間に拾ったのだろう、魔法使いの背には例のリュックがあった。
「魔理沙、荷物持つよ」
「もういい。自分の身の処し方を覚えてくれ。護衛しながら動き回るのはきつい。小太刀だけは返しとく」
「う、うん。その、努力はする」
「あと五、六回は死ねそうね」
「全弾装填のロシアンルーレットだぜ」
「……洒落にならないから、それ。やめてくれよ」


 冷たい風が夜霧と共に吹き抜ける。
 醒めきった刃のようなそれに、軽口は遮られる。
 三人は目的地を目前にしていた。
───湖の中央の小島。
 月の光を浴びて紅に染まっている、その巨大な屋敷。