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「この湖って、こんなに広かったかしら」
「そそその前に突っ込むととところがあるだろろろ、霊夢」
「そうかしら? 白雲郷でないことは確かみたいだけど」
「こここ、ここは未来永劫ただだの湖だぜぜ」
 相変わらず不機嫌そうではあるが、霊夢は寒さ自体についてはそれほど気にしている様子はない。三人とも夏服だというのに霊夢だけ平然としている。
 命は寒そうに腕を抱きながら、横にいる漆黒の寒がりを見遣る。彼女は冗談抜きで寒いのが苦手らしく、蒼白になりながら震えていた。
「今って夏よね。もう忘れちゃいそうだわ。やっぱり、巡る季節のある国は最高よね」
「うううう寒い寒い寒いぃぃぃ」
「そんなんで飛べるのかしら? 魔理沙」
「ととと飛ばなきゃ屋敷に辿り着けないだだろうががが。やや屋敷じゃこここ紅茶のいぱぱぱいも出してくれるん、だだだろうな」
「それは一杯? それともいーっぱい?」
「旨けけりゃどどどっちでもいいい」
「無駄を承知で、一応命にも聞いてみるけど、どうしたらいいと思う?」
 最初から無駄だと決めつけられるのは癪だったが、事実なので否定できない。仕方がないので、無難に答えた。
「食事する時は、まず嫌いな物から食べるな、僕だったら」
「そういうことね」


 甘かった。
 巫女と魔法使いは持てる能力の全てを速度に傾けて飛行した。魔理沙にへばりついている命は引き剥がされそうになるのを何とか堪えるばかりだった。にもかかわらず、前方に揺らぐ屋敷は一向に近くならない。むしろ引き離されているような錯覚さえ覚える。
 おまけに、進むに連れて進行方向から雪や雹が容赦なく吹き付けてくる。幻想郷に天気予報があったら、観測史上最低の寒さだと連呼していることだろう。桃源郷といわれるぐらいだから、あるいは他の何処かでもっと超然とした現象が起こっている可能性はあったが、命には知る手段がなかったし、ともあれこれ以上最悪な状況を想像しようがなかった。
「さーむーいー!」
 魔理沙が叫ぶと、近くを密集隊形で飛ぶ霊夢もうんざりとした様子で、
「さすがにコレは厳しいかもね。寒いというより眠いわ」
「そりゃヤバイって霊夢……い、いつになったら着くんだよ……魔理沙も、もっと速く飛ばさなきゃ」
「うううるせぇぇ命ぉ! もも文句があるるなら前後ごごをかわっってって欲しいいいいこここは吹きさらしししだだだ」
「無理だよ、僕は飛べないんだから」
「一般人はこれだから使えないわよね」
 いったいどうしろというのだ。
 やがて、
「あああああああ、もう無理絶対無理。寒いぜ寒いぜ寒くて死ぬぜ」
「ここで死んだら鳥葬にも出来ないわね。凍り付いちゃって、氷河期のマンモスみたいに掘り出されて展示されるわよ、『これが一万年前の魔法使いです』って」
「冗談は主食の前にしてくれ」
 言い放つが早いか、突如魔理沙が、大氷河に向かって急降下を始めた。
「ちょ、魔理沙、まだ着いてないよ?」
「ビバークして吹雪をやり過ごす」
「って、湖じゃないのここ?」
「構うもんかい」
 魔理沙は目を剥いていた。
 命にはもともとどうしようもなかったし、霊夢も呆れ顔で後に続く。
 激突するような急角度で純白の湖面に舞い降りる。かろうじてぶつからない理性だけは残っていたらしく、一瞬ホバリングしてゆっくり着地した。命もなんとか無事に箒を降りる。
 魔理沙は箒を両手で握ると、氷の上を掃き始めた。その動きには一定の決まりがあるようで、命の乏しい知識でも思い当たることがある。
(魔法陣を描いてるのか……)
 最後に、作業の終わった場所を大きな円で囲むと、ポケットから取り出した小さなカードをその中央にのせ、聞き取れない言葉を唱える。
 と、氷がそこだけ一瞬にして七色の星になって飛び散り、褪色の土の表面が露わになった。
「凄い、地面になっちゃった」
「元からここは小島なんだよ」
「そんなこと、上から分かるんだ……」
「私も見えたわよ」とは半眼の霊夢。
「……どうせ僕は一般人です」
「くだらんお喋りしてないで、鞄を早く渡せ」
 雪の舞い散る中、魔理沙はリュックをごそごそと漁り、まず布の貼ってない傘の骨のような物を取り出した。広げると、テントの骨格標本のようになった。魔法陣の上に設置する。
 次に、幾何学模様の入った布をずるずると引き出す。これを先ほどの骨に被せると、簡易テントの完成だった。
「こんなのどうやったってこのリュックには入らないだろ」
「説明略」
「まりさー、はやくー。眠くて死にそうだわ」
「略」
 三人は肩や頭や帽子につもった雪を払い落とすと、出来たばかりのテントにわらわらとなだれ込んだ。魔理沙がカンテラを灯して天井から吊す。内部は結構広くて、三人が横になって寝てもまだスペースがある。外は一層風雪が強くなっているようだったが、中に入った途端、寒さはおろか、風すらもテントを揺るがさない。床も絨毯状になっている。全くもって便利な異世界のテクノロジーであった。
「やっと人心地着いたな」
「そうね。確かにまだ冷凍肉にはなりたくないものねぇ」
「……霊夢、お前さっき、私に酷いこといってなかったか」
「あら、何のことかしら。学術的に先進的な事をいった記憶はあるけど」
 霊夢の瞼は垂れ下がってきている。
「…………まぁいいや」
 と、魔理沙はまたリュックを漁ると、タオルケットを霊夢に渡し、もう一枚にくるまってさっさと横になった。
「ちょっと休憩させてもらうぜ。もう少し暖かくなるまでは動かないからな」
「相変わらず勝手ね」
「お互い様だぜ」
 そう言い捨てると、外側を向いて帽子を顔に載せた。割り込む余地はなさそうだった。
 命はいきなり手持ち無沙汰になってしまった。胡座をかいて溜息をつく。
「……しっかし、あのリュックは一体どうなってるんだろうなぁ。四次元ポケットか、なんかかな」
 と、シャツの裾を引っ張られた。ほとんど三白眼といえる、寝ぼけ眼の霊夢に。暖かくなったことと魔理沙への羨望が、眠気の堤防を決壊させたらしい。
「霊夢?」
「私も、寝る」
「うん、分かった。僕はもうちょっと起きてるから」
「なんで?」
「いや、眠くないし。寒くもなくなったから大丈夫だから」
「私が寒い」
「?」
「いいから」
 引っ張られた。なすすべもなく身体のバランスを崩す。
「あ、ちょっ、あの、れ、霊夢?」
「私が寝るまででいいから」
「だから待って、別に僕じゃなくても、魔理沙でいいだろ」
 何をする暇もなかった。
 タオルケットが舞い降りてきて、驚くばかりの感情を静かに包んでいく。
 ごそごそと動く体が止まり、やがて、テントの外の風の音だけが聞こえるようになる。
 天井のカンテラが僅かに、僅かに……ゆっくりと揺れている。それを見上げながら、命は硬直して転がっている。
 同じタオルケットの中に、少女の吐息を感じながら。
 動けるはずがなかった。
「あ、あの、霊夢……?」
 霊夢は答えない。
 どくん。
 とくっ。
 どくん。
 とくっ。
 どくん。
 とくっ。
 二つの心音がハーモニーを奏でる。
 霊夢は抱きついてこそいないが、目を閉じ、頼りない命の胸板に頭を預けている。タオルケットは小さくて、命の躯は半分以上はみ出していた。なのになぜか、命は暑くて仕方ないのだった。
 幼稚園に通っていた頃、昼寝の時間に先生に本を読んでもらったことを思い出す。ミルクのように甘い匂いのするタオルケット、どこまでも予定調和なウサギとカメの物語。言葉を聞いているといつの間にか夢の中を走り回っている。あの頃も、夢と現実の境界は曖昧だったが、会って間もない少女と一緒に床についているという事態は、それ以上に現実離れしていると思った。
 少女の頭の上の大きなリボンが眼前にある。
 柔らかい髪が流れ落ちていて、その表情は隠されている。
 何しろ緊張で躯を動かせない。ただ、跳ねまくる動悸を押さえるべく、命の理性と道徳心と欲望とが不毛な殲滅戦を繰り広げていた。

        ☆

 ……いかほど経ったろう。
 計測すれば十分かそこらかもしれないが、命にとっては永劫の時間のように感じられた。不純な気持ちを浮かべないように考えれば考えるほど、背中に冷や汗をかく。
 霊夢は静かに寝息を立てている。本当に眠っているのだろうか。早くこの緊張状態から脱したい。静かに霊夢のそばを離れたいのだが、起こして文句を言われるのは御免被りたい。こういう事例では、少女が寝ぼけていたというのは罪の理由にならない。そして、男は誤解によって一方的に責められるのが常套の手順である。いかにこの少女達が適当で昼行灯とはいえ、後で何をいわれるかしれたものではない。
 そっと、体重を移動させる。さしあたって、胸の上の霊夢の頭の重さを床面に移動させなくてはいけない。もちろん、痛くしないように。腕に力を込め、頭に手を添える。
 ゆっくり、ゆっくり、ゆっくり───
 霊夢の寝顔が露わになった。
 何の邪気も感じられない、柔和そのものの顔。逆にいえば、誰であろうと向けられるはずの、平等で血の通わない穏やかな笑顔。そう、観音像のような。没我ともいえようか。
 そんな少女が、自分の腕を枕にしている。
 彼女は今、どんな夢を見ているのだろう。 命は本来の目的も忘れて、人間離れしたその寝顔に見惚れていた。魂を奪われかけた。

「……可愛いだろ」

 叫びそうになった。
 慌てて自分の口を塞ぐ。そうすると片手では霊夢の頭を支えれず、慌てて腕を差し入れる。霊夢は起きそうにない。もうなにがなんだか分からないまま、とにかく冷や汗だらけだ。 
 背後から、くっくっくと人の悪い笑い声がする。なんとか霊夢を静かに横たえ、タオルケットを掛け直して睨み付ける。魔理沙は横になったまま肘を立てて顔を預けていた。
「お、起きてたのか。それならいえばいいのに」
「いや、少しは寝たが。十分もすればリラックスできるからな。それで目的は達してるぜ」
「そ、そうなの」
「それに……不寝番がいないと、神聖な巫女に手を出すような不埒者も現れるしな」
「………………!」
 顔を真っ赤にして、あれこれ言い訳しようとする命を、魔理沙は押しとどめる。
「分かってるから心配するな。どうせいつものわがままだろ。こいつは眠くなると制御が効かなくなるから」
「そうなんだ」
「しかも、眠るとなかなか起きないぜ。ま、巫女だから仕方ないとも言えるが」
「なんで?」
「寝てる間に神に躯を貸すのも、巫女の大事な仕事なんだよ。だから、あいつの眠りは強烈に深い。不便なことだぜ」
 潮来みたいなものかな、と命は考える。
 魔理沙は体を起こすと、リュックの中から鉄製のコップに小さな三脚、理科の実験で使うアルコールランプにそっくりの灯を取りだした。さらに水筒を取り出し、コップに水を注いで火に掛ける。リュックの中がどうなっているかなんていう野暮な質問は、もうしないことにした。魔理沙の言葉ではないが、確かに考えるだけ無駄である。
 火種は先程と同じ、トランプサイズのカードだった。なにやら文様が描いてあるが当然読めない。小さく破いて呪文を唱えると、ゆらゆらと火が灯る。
「さっきから使ってるカードは何?」
「これは呪符といって、あらかじめ起動した魔法を封印して手続きを省くものだぜ。何かと便利だからな。この世界じゃ人間妖怪問わず、自分が得意な魔法をこうやって封じ込めてる奴は結構多いんだ」
「ふうん」
「霊夢の札も、いってみりゃこれと同じようなもんだ。原理は違うがな」
 ほどなく、コップの湯が沸騰し始める。魔理沙はリュックから大きな本を取り出して広げながら、命にそれを勧めた。
「あ、ありがとう」
「白湯でもうまいぜ」
「うん」
 鉄の味はしたが、躯の奥が暖まる感じがして、ありがたかった。
 しばらく、ページをめくる音と湯をすする音だけが響く。その間を霊夢の寝息が流れている。命の視線は、目の前で揺れる小さな炎に注がれている。
「なぁ、命」
 ふと、魔理沙が声を掛けてきた。
「え、何?」
「霊夢のこと、どう思う?」
 彼女を見遣ると、さっきのやりとりが頭の中で繰り返されて、やたら恥ずかしくて。命は湯を一度すすって、息を吐き出す。
「……ちょっと、変わってるって思うけど。でも、なんかとんがってる、ような気がする」
「そうか?」
 魔理沙は本に目を落としながら微笑む。
「普段の霊夢は、もっとのんびりしてるんだぜ。黙ってたら一日中、空を見上げてお茶飲んでるぐらいには」
「それは……今の霊夢とは、なんかちょっと、印象が違うな。今回の、僕の件とか、神社が襲われたこととかで、やっぱり怒ってるのか……」
「どうかな」
「魔理沙は霊夢の友達を長くやってるんだろ? 霊夢のことはよく分かってるんじゃないのか?」
「実は、最初は私も霊夢と戦ったんだ」
「え?」
 驚く命に、魔理沙は顔を上げ、帽子の上から頭をかく。
「博麗神社に伝わる秘伝の宝物があって、それを狙ってたんだが。これが見事に返り討ち。もうこてんぱんにやられちゃってな……ま、実際のところ、博麗の力が想像してたような物じゃなかったって理由もあったんだが」
「へぇ……それで、何で友達に?」
「面白かったからな」
 苦笑しつつ、魔理沙は霊夢を見遣る。
「戦って負けたけど、悔しいとかそういう気持ちにさせないんだこいつは。喧嘩した次の日に顔を見に行っても『しょうがないわね』ってぼやきながら、拒絶しない。なにもかもどーでもよくしてしまうんだな。汚れた水が流れ込んでも、永い時間を掛けて綺麗にする河みたいに……それに、ちょっかい出して手軽に反応する奴は面白いんだから、放っておく手はないだろ」
「そうなんだ」
 魔理沙の言葉は、多少の照れ隠しに受け取れた。今の説明以上に、魔理沙は霊夢を気に入っているのだろう。
 確かに、自分の時もそうだったような気がする。霊夢には人を惹き付ける何かがあるのかもしれない。少なくとも、命が今まで出会った少女の中に、霊夢のような不思議な女の子はいなかった。
 とはいえ、それをいったら魔理沙も同様なのだけれど。
「……でも、こいつがこれだけ感情を露わにするのって私も見たことないから、正直いって命には感謝してるぜ。珍しい現象を拝ませてくれたってことで」
「なんだか嬉しくない感謝だな」
「誉められたら黙って受け止めるもんだぜ」
 そこで魔理沙は、意地悪っぽく口元を歪めた。
「おぉそうだ。感謝ついでに、命の運勢も占ってやる」
「いや、いらないよ。僕、占いとか信じないし」
「今なら鑑定料はタダだぜ」
 そういいつつ、魔理沙は既に懐から水晶球を取りだしている。
「だーかーらー」
「まぁ私も知りたいし、一回つきあえ。勉強しても試す機会がなくてな」
「それが本当の理由だろ!」
「まぁまぁ」
 魔理沙が水晶に手をかざすと、玉の中央が蒼く神秘的に光り始める。さすがに本物っぽい。やめる気配がないので、命は仕方なく、魔理沙に向き合った。
「仕方ないなぁ。で、魔理沙の得意な占いは何?」
「私の専門は恋占いだよ」
「へ?」
 命はきょとんとして、それからぷっと吹き出した。
「……失礼な奴。こっち方面じゃかなり修行してるっていうのに」
 だが、幼い少女にしか見えない、男言葉の魔理沙が恋占いといっても、説得力にはなはだ欠ける。たとえ、今まで数多の神秘を行使してきているとはいえ、である。
「よし、それならいいよ」
「……なんか納得いかないが」
 膨れっ面をしながらも、魔理沙は水晶球をなでるかのように手を動かす。光は徐々に強くなり、魔理沙と命の顔をゆっくりと照らしていく。確かにそれらしい雰囲気は纏っているようだ。
 魔法使いが水晶球を覗き込んだ。
「どう?」
「………………」
「? どうしたんだよ、魔理沙?」
 魔理沙は複雑な表情をしていた。なにやら口調がよどんでいる。
「本当に、いっていいか?」
「そこまでいわれたら逆に気になるだろ。さっさと教えてくれよ」
「後悔するなよ」
「うん」
「……実はよく見えないんだ、原因は不明だが」
「う……結局言い訳?」
「ただ………な」
「ただ?」
「多分、恐らく、だが」
 そして、帽子を深々と被り直す。
「命の初恋は、大失恋に終わるんだってさ」