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「わわわ、っっとととととっ」
「なんだか騒がしいな」
「おちぃおちおちおち」
「ギャグも落ちてないし」
「だだ、だって」
「人間覚悟を決めれば空だって飛べるぜ、ってこれは誰の台詞だったっけ? いかんな、覚えた端から忘れてたんじゃ勉強する意味がない」
「……高いぃぃ」
 菅原命、十三歳。
 向かい風に歯茎震わせ、目尻に涙を浮かべて。
 飛行機に乗るよりも先に、箒に乗って闇を舞う夏であった。


 夜空は曇天に変わっていた。ただ、雲が濾過する月光はほんのりと赤みを帯びたまま。代わりに霧が薄く広がっている。
 眼下には、空の暗色より更に黒く眠る森が連綿と連なっていた。枝々の間を吹き抜ける風が上空へ舞い上がるたびに、不安定な箒は煽られて、先端部分に吊されたカンテラは揺れ、命は魔理沙の肩におっかなびっくりしがみつくのだった。
「ううう、こわ……よくこんなの出来るな」
「魔法使いってのは伝統的に空を飛ぶもんだからな」
「それじゃ、巫女は?」
「私の管轄外だぜ」
 下方前方、低空を飛ぶもう一つの灯り。右手に同様のカンテラを吊り下げた霊夢がふわふわ飛んでいる。
 恐怖をしのぐために、霊夢を視線で追っている。彼女は今、どんな顔をしながら空を翔けているのだろう。
 と、また態勢が不安定になってきた。鉄棒の柄によじ登って腰掛けたことぐらいはあるが、これはまるで水に浮かぶビート板に立とうとするかのような頼りなさだ。慌てて魔理沙の肩を掴む。片方の手には霊夢から預かった小太刀を握り締めているので自由がきかない。
「お、おっとととととっ……危ないだろ」
「あああ、ごめん」
「そろそろ馴れろよ。こっちも二人乗りなんて初めてなんだから、集中してくれないと困るんだが」
「……んなこといったって、箒がこんなに乗りにくいなんて想像しなかったし」
「想像力の欠落は外の人間の一般的傾向なんだろうな。それをいったら、籠だって一輪車だって玉乗りだって変わらないだろ。やるかやられるか、やっちまうかの違いだな……あ、そうそう」
 魔理沙が、風に煽られた帽子を深々と被り直した。
「忠告するのを忘れてたが、下手なところを触ったりしたら、曲霊の始源の憤怒で炭焼きにしてやるから楽しみにしておいてくれ」
「わ、分かってるって」
 慌てて、頼りない箒の柄を掴み直す。どうやら、自分で思っていた以上に、魔理沙の肩を強く握り締めていたらしい。情けないとは思うが、こんな状況をどう乗り切れば良いかなんてハウツーは、教科書にも百科事典にも載ってはいないだろう。
 ある意味、今夜最大のピンチかもしれない。
 深呼吸をして、震えが止まるように祈りながら……前方を行く灯りに視線を集中した。

       ☆

 霧雨魔理沙の家は、霞に包まれた森の最深部にあった。
 背の高い樫の森に隠された、とんがり屋根の小さな家。ヘンゼルとグレーテルが迷い込んだのはきっとこういう建物なのだろうと、命は思う。あるいは、ひねくれ者の魔理沙が「魔法使いの住処はこうであるべきだ」なんて考えたのかもしれない。彼女なら実際ありそうな話だ。
 魔法使いは、霊夢と命を玄関前で待たせて、家の中に消えていった。そんなに掛からないという話だったが、時計がないので必要以上
に時間が掛かってるような気がする。窓から洩れる灯りは頼りなく、自分と霊夢が持っているカンテラの方が、しっかりと自己主張しているようだった。
 玄関先には、草に埋もれた郵便受けがあり、達筆な草書体で「霧雨」と記してある。こんなところに郵便や新聞が届くのか、はなはだ
疑問なのだが。
「暇ね」
「……うん」
 確かに霊夢は暇をもてあましているようで、さっきからその辺の石を盛んに蹴り飛ばしている。ときおり目をこすっているようでもある。
「…………あ、眠い?」
「まぁね。日の光を見ないと、どれだけ寝てても睡眠不足になっちゃうわ」
「そうだよ、な」
 そういいつつも、命自身は眠くはない。どうやら博麗神社で座っていた時に眠気のピークが来ていたようだ。疲労が躯のあちこちを重くしているにもかかわらず、神経が張り詰めっぱなしである。謎の襲撃と、魔法の力で飛行したという希有な体験が原因なのかもしれない。
「ねぇ、博麗さん」
「なに?」
「空を飛ぶって、どんな感じ?」
「あんたさっき飛んでたでしょ」
「いや、あれは、乗せてもらってたし……自分で飛んでたんじゃないから」
「別に。歩くのや走るのとそう変わらないわよ」
「でも、修行とかやって、飛べるようになったんじゃないの?」
「ぜーんぜん。ある日突然飛べるようになったから。どの日だったかも忘れちゃったわ。もしかして最初からだったのかも」
「本当に、突然に?」
「突然に」
「そ、そう……」
 つっけんどんな口調なので馬鹿にされているような気がしたが、霊夢は常にこんな調子なので、別に嘘を付いているというわけではないのだろう。ただ、今の霊夢に話を振るのは余り得策とは言えなさそうだった。
 やる気なさそうにしゃがみ込んだ霊夢を見て、完全に喋るタイミングを失った命は、仕方なく背を向けた。
(調子狂うよなぁ)
 魔理沙が相手ならそれなりに対応できるのに。無理して仲良くしなくてもいいのかもしれないが……もうちょっとぎくしゃくしないで話したかった。博麗神社が襲撃されたのが自分のせいかもしれないというのも気が重かった。自分が原因で女の子の機嫌が悪いのは、男としてやっぱり傷つくものである。
(なんとかしたいけど………)
 不安と溜息ばかりがこぼれる。この世界に適応したとは、まだまだ言えなさそうであった。
 することもないので、霧雨邸の玄関に隣接する窓を覗き込む。閉じられた窓際には、実験室でしかお目に掛からない三角や丸底のフラスコがズラリと並んでいて、朱や碧の液体が時折ぷくぷくと泡を浮かべている。部屋の四方は満載の本棚に囲まれているようだ。部屋の中央には囲炉裏に格子状の台が組まれていて、大きな瓶が火にくべられていた。そこで魔理沙が棒を持ち、瓶の中の何かをせっせとかき混ぜている。全くもって、絵本の中に出てくる魔女そのものだった。
「ヤバい薬とか作ってるのかな……」
 その、あまりにもステレオタイプなイメージが、今までの幻想郷の雰囲気よりも、なぜか下界の下世話さを思い出させて、命は苦笑を浮かべずにはいられなかった。


「お待たせ」
「遅いわよ、魔理沙」
「悪いな。魔法使いってのは協調性の無さがセェルスポイントだ」
「赤字覚悟でサァビスしなさいよ」
 荷物がぱんぱんに詰まっているなめし革のリュックを背負って、魔法使いは現れた。
「なんでこんなに荷物があるのよ」
「女の子は荷物が多くなるもんだ。中身を聞くのはマナァに反する」
「いや、僕聞いてないし」
 その考え方も紋切り型だよなと思った矢先、魔理沙がそのリュックを命に投げてよこした。
「え?」
「あんた荷物持ち。小太刀も邪魔だろうから一緒に差しておくといいぜ。どうせまた私の後ろに乗らないといけないんだろ?」
「う、うん」
 断れるわけがないが、持ってみると結構重かった。明らかに、服や食料の類ではなく、ごつごつとした物を無作為にぶち込んでいるのが分かる。
「あ、それからこれ」
 魔理沙が続けて、布の固まりを命に差し出した。
「これは、なに?」
「着替え。傷のせいでシャツ汚れてるだろ。血の匂いをさせたままで動き回ると、また妖怪共を呼び込んで面倒くさいことになる」
「なるほど、ありがとう」
「魔理沙、よく男物の服なんか持ってるわね」
「こういう時こそ蒐集癖ってのは役に立つもんだ」
「こういう時しか、の間違いでしょ。九割九分九厘無駄なくせに」
「聞かなかったことにしてやる」
「あ、じゃ、着替えてくる」
 命が適当な暗がりを探そうとすると、少女達は不思議そうな顔をした。
「どこいくのよあんた」
「え、だって、ここじゃ着替えられないし」
「私達しかいないぜ?」
「だから、君達がいるから着替えられないんだけど」
「なんで?」
「なぁ」
「………………」
 幻想郷も女の子のこともよく分からないけど、これだけは確実だと命は悟った。
 絶対にからかわれている。


 魔理沙に頼み込んで、玄関を貸してもらった。彼女達はいつも真剣に呑気だから困惑せざるを得ない。まったく、どうしていちいち楽しもうとするんだろうか。やっぱり、下界の人間とは生活のテンポが違うのだろう。
 一通り整ったのを確認して、命は軋むドアノブを回した。
 どうやらまともな服のようで、命は安心していた。上は多少変形したようなワイシャツ、下は黒いスラックスのようだ。革靴まであっ
た。スニーカーを諦めるのは勿体ない気がしたが、この格好には壮絶に似合わないので、渋々統一している。襟や袖口がフリルのようにひらひらしているが、この際贅沢はいえない。
「サイズは大丈夫みたいだな」
「うん、靴もぴったりで良かったよ」
「十二時を過ぎても保証してやる。大盤振る舞いだな」
「……で、魔理沙、これいるの?」
「当然」
 命が困惑顔で手に持ったのは、ズボンとお揃いのネクタイだった。当然ながら自分では結べない。スーツを着たのは三年前、叔母さんの結婚式に出たのが最後で、しかもその時は襟の後ろでホックを留める簡易式のネクタイだった。学校でも古式ゆかしい詰襟を着ている命にとって、今だネクタイ=大人の象徴である。
「でも、結び方分からないし」
「好奇心が欠落してるな、命は」
「機会がなかっただけだよ」
 言い訳しつつ、父親が締めている光景を思い出しながら四苦八苦するが、当然上手くいかない。何度目か結び直そうとすると、首に掛かったネクタイに、細い手がするりと伸びてきた。
「え、あ」
「仕方がないわよね。ネクタイ結んでる間に朝が来たらどうしてくれるのよ」
「それならそれでもいいな」
「私はつまんないわ」
 その手は、馴れた手つきでするすると結わえ、きちんと形を整えていく。自分の髪から小さなピンを抜くと、揃ったネクタイをワイシャツに止めた。
「……ありがとう、博麗さん」
「私だけ苗字で『さん付け』はいろいろ気持ち悪いわね」
「ごめん、霊夢……」
 「さん」と付けそうになって、飲み込む。
「知らないうちに妙な必殺技を開発してるな、霊夢」
「あら、常識の範囲だわ。自縛霊を祓う方が簡単なくらいよ」
「そっちは専門じゃないから難易度は比べられないがな」
 魔理沙がにやりと笑うが、霊夢は答えなかった。

        ☆

 暗夜行が再開された。
 今度は森の中を低く飛ぶ。魔理沙が先導し、それに霊夢がついてくる形だ。
 霧は濃くなっているようだが、魔理沙はそれほど気にせずに飛翔を続ける。
「この辺は飛び馴れてるから、空を行くよりも早いぜ。雲も垂れてきたし、風も出てきたからな……どうやら先方は、招待状はくれても歓迎はしてくれなさそうだ」
「ぶつかりそう」
「そうやって顔を突き出してるとぶつかる」
 いわれるまでもない。もう何度も枝葉をかすめている。命にはリュックを背負って躯を丸めることしかできないのだし。
「あー魔理沙、聞いてもいいかな?」
「答えられることなら何でも」
「さっき部屋で作ってた薬って、この鞄に入ってる? 準備ってそれでおくれたんじゃないのかなって思って」
「薬? 何の話だ」
「窓から見えた。魔理沙が大きな瓶をかき混ぜてるの」
「何いってるんだ。あれはシチューを作ってたんだ」
「シチュー?」
「冷えるからな、帰ったらすぐ食べられるように仕込んでおかないと。長く煮詰めた方が、兎肉のエキスが染み出して美味しいんだ」
 思わず口を半開きにしてしまう。
「で、でも、あそこ実験室なんだろ? フラスコとか並んでたし」
「そうだが実験に使うとは限らないぜ。あのフラスコは月の光を濾過して水を貯めるんだ。蒼く輝く水でな、それで茶を入れると抜群に美味い。もっとも、今の月じゃ濁りきって話にならないけどな」
「へ、へぇ、そうなんだ……」
 やはり魔法使いなんて枠を外れた存在なんだな、と再認識する命だった。魔理沙に気づかれないように、また小さく溜息をつく。
 時折後ろに視線を投げると、追ってくるカンテラの明かりが幻惑のように揺れている。たまに跳ねるように見えるのは、兎のように地面を蹴っているからだ、とは魔理沙の弁。
「そうする理由は?」
「気持ちいいんだろうよ」
「………なるほど」
 なんとなく分かるような気がした。
「やたら寒いな」
 魔理沙がつぶやく。命は前方に集中する。確かに進行方向から、風を切る冷たさとは異質な冷気が流れてくるようだ。
「かなりまずい」
「どうしたの?」
「私は寒いのが苦手だ」
「僕だって得意じゃないけど」
「とんでもなく苦手だ」
 森の向こう側が明るくなってきていた。
 白く輝いている。
「季節が夏だってことを忘れさせてくれそうだ」
 魔理沙は体を震わせた。


 彼女の想像は的中した。
 森が切れ、湖の湖畔に立ち尽くして、三人は言葉もない。
 対岸が見えないほど巨大なその湖面は、見事なまでに結氷していた。夜とも思えない光輝を放ち、訪問者を固く拒絶している。