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 命はしゃべり始めた。臆することなく、なるべく(僅かばかりの)威厳を保って理路整然と話すつもりだったが、舌が上手く回らない。その度にお茶を飲み、霊夢が冷めたおかわりを注いだ。
 霧の中、家族で祖母の家へ帰郷したこと。
 森で不思議な美人にあったこと。
 家族から幻想郷の伝説を聞いたこと。
 夜中に、森の中の人らしき人物に襲われたこと。
 夜空に浮かぶ巨大な紅月。
 恥ずかしい部分は省略したが、ほとんどはそのまま喋ったつもりだった。
 ただやはり、何かが記憶から抜け落ちていた。それは喉の奥に引っ掛かっているのだが形にならず、頭痛だけがぶり返してくるばかり。
 喋りたいという思いだけが赤く白く点滅して、脳裏をゆっくりと舞っている。
「………………」
 語り終えると、命はもう一度お茶のおかわりを頼んだ。
「あ、厠は廊下の突き当たりだから」
「……ありがとう。大丈夫だから」
 そんなことに気を遣われると恥ずかしくてやっていられない。
「なるほど。どうやらこの長すぎる夜と、あんたの壮大な迷子は地続きらしいな」
「壮大な迷惑よね。そうそう、あんた、なんかされてたわね」
 霊夢が自分の肩口を押さえてみせる。
「そうだった」
 霊夢の符が貼り付けられて以来、かなり楽になったので忘れていたが、痕はそのままになっている。
「魔理沙、あんたの方が専門分野じゃない?」
「どれどれ」
 命がTシャツの首元を開いてみせると、魔理沙はゆっくりと札を剥がした。痛みはそれほどでもない。
「……まずいなこりゃ。相手が面白過ぎるぜ」
 彼女はポケットをごそごそと漁ると、手鏡を出して命に渡した。
「見てみろ」
 いわれたとおりにする。
 想像通り、首筋に傷が穿たれている。問題はそれが、綺麗な六芒星を描かれているということだ。線の深さは浅いが幅は1ミリ弱ほどもあり、くっきり浮かび上がっている。今もうっすらと血を湛えていた。
 傷が啓示するメッセェジは思った以上に強力で、命は一気に青ざめ、喉の奥で吐き気が遡上してくるのを感じる。
「厠は廊下の突き当たりだからね」
「うん、ありがと……」
 勿論霊夢は命のためを思っていったのではないだろうが、声を掛けてもらうだけで心底ありがたかった。少なくとも怯えずに済むし。
「顔が真っ白だぜ」
「ま、一般人だったらこんなもんじゃない? どこがどう一般かっていわれたら答えられないけど……で、どうなの?」
「ベナンダンディの夜来たるって感じだな。放っておいたら確実にメインディッシュ直行だぜ。それもフレンチ、いや……」
 魔理沙は顎に手を当てしばし思惟に沈降する。
 かくして命はまたも死の宣告を受けたわけだが、見た目は年端もいかない少女からいわれる死よりも、傷から受ける衝撃の方が大きくて、逆にあっけない。
「やばそうだな……僕」
「まぁな。傷自体の応急処置はしてやってもいいが、こいつは強力な呪いだからな……呪詛の根源を絶ちきらないことには消えないだろうな」
「夜を引き延ばして霧を出しっぱなしにしてるのもこいつの仕業ってことね」
「そうだと話の展開的には都合が良いんだが」
「何の話よ?」
「セオリィは大事だぜ」
「それはともかく……」
 霊夢は命に向き直る。
「というわけよ。よしんば、もう一度結界を越えられるようなことが起こるとしても、その前にその傷の呪を何とかしないと、帰ることは出来ないわよ。ここは異邦人には優しくないの」
「そもそも、結界を越えさせたのはそいつの力だと考えた方が自然だ」
「………………そうか……」
 脱力しそうになる。
 とんだ旅行になってしまった。
 正直、どうでもいいとばかり考えていた両親でさえ、いざ会えないとなるとこうも心細く感じるのか。
 自分の意外な順応力に助けられてはいるが、ここでこうやってお茶を飲んでいること自体が不自然なのは間違いない。
 現実が壊れたのは、夜になってからだろうか? それとも、おんぼろ列車でトンネルを抜けて、霧だらけの山間部に入ったところからだろうか? むしろあそこが結界だったといわれる方が説得力がある。
 自宅の散らかった自室が懐かしい。クーラーが入ったままで、TVとプレステの電源が入りっぱなしで。携帯電話のアンテナは三本きちっと立っていて。
 あの暑い街が懐かしい。
 やたら遠い。
 命は、お茶に映る自分の姿を見て途方に暮れていた。
「……また黙っちゃった。根暗ね」
「少しは容赦してやれよ、一般人なんだから」
「少し特殊だけどね。ところで、これからどうしようか、魔理沙」
「相談なんて珍しいな。いつも通り適当でいいんじゃないのか?」
「今回の件はなぜだか無性に面倒くさい」
「まぁ面倒くさいことは大好きだがな。博麗大結界に干渉できるような存在はちとやばすぎる気もする」
「私だって遠慮したいわよ、仕事じゃなけりゃ。だけど……どうしよう。この人一人残していけないわ、特殊な一般人だし」
「私ら二人が出掛けたら、この神社に食材調達部隊が大挙して押しかけるだろうな」
「お留守番はくじ引きで決める?」
「くじ引きは不公平だ、巫女に勝てるはずがない」
 少女達は喧々囂々と話し合っているが、命にとってはどこまでも他人事な会話で、終いにはテーブルに突っ伏してしまった。
 まだ眠い。
 疲れ切っている。寝てしまいたかった。
 少女達の声が眠りの邪魔をする。
 眠りの邪魔をするのは、いつも人の声と、時計の運針の音だ。
 自宅でもそうだった。ベッドに入れば、両親の声と時計の針が耳の奥までやってきて合奏を繰り返す。深夜になっても延々と続くこともある。夫婦喧嘩は犬も食わないってのに。デリカシーのない人間は嫌いだ。だからいつも枕をかぶって耳に押し当てなければならなくなる。
 今もそうだ。
 少女達の声と、時計の音が───
 ……………。
 時計の音?
「……………………」
 顔を上げる。
 気のせいかと思ったが、違う。
 感覚が過敏なほどに研ぎ澄まされる。
 幻聴ではない。耳朶を打つのは、微かな歯車の協奏曲。
「……ここって、時計無いっていってなかったっけ?」
「私も無駄は好きだけど、繰り返していわされるのは嫌いよ。今は珍しく会議中だし」
「……どうした? 命」
 魔理沙が興味を示す。
「時計の音が聞こえる。小さいけど、確かに」
 チッチッチッチッチッチッ、
 駆動音。
 小さすぎる。
 壁掛け時計でも、安っぽい目覚まし時計でもなく、この音は……
「懐中どけ……」
 自分の言葉を飲み込む。


 瞬間、強烈な悪寒が背筋を駆け上り、
 部屋中のあらゆる空間に、無数のナイフが浮かんで、静止している。
 驚く暇もない。
 すうっと霊夢の瞳が細くなる。
「動くだけ無駄よ」

 ドカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカッ!

 連続する破壊音と破砕音。
 床に、障子に、柱に、照明に。
 解き放たれたナイフがありとあらゆる場所に突き立つ。
 地面を穿つドリルのように連続し増幅される。
 耳をつんざく。
 恐怖すら認識に追いつかない。
 掛け軸の糸は切られ、仏蘭西人形の首は飛び、ポットは砕け煎餅は分解され、障子の格子すべてから切っ先が飛び出してくる。
 障子紙が舞う、
 火の粉が舞う、
 人形の中の真綿が舞う、
 人形の首が笑いながら舞う、
 煎餅が粉末になって舞う、
 哀れな髪が数本舞う、
 削れた柱がチップになって舞う、
 雲霞のように縦横無尽、めちゃくちゃに飛び交うナイフ。
 光を乱反射し、
 ……唐突に光は失われる。
 ついに蝋燭の炎さえ切り飛ばしてしまったのだ。


 そして……盛大な旋律を奏でる悪魔の交響曲は、ミュートボタンを押したかのように消え去った。暗くなった燭台が、軋みながら揺れている。
 暗闇の中、霊夢が口にしていたティーカップをテーブルに置く。と、ティーカップは音もなく真っ二つになった。中は空だった。
 魔理沙は帽子を被っていない。ナイフの一つによって、柱に縫いつけられてしまっている。
 命の心臓は張り裂けんばかりに早鐘を打っていたが、躯は凍り付いていた。逆にそれを感謝しなければならなかった。動けば全身に突き刺さっていただろうから。部屋中にはナイフが無作為に突き立っている。生活科の時間、縫い物の実習で使った針山を思い出して、あまりにも場違いで笑えた。笑えない笑みだった。
 魔理沙がスカートのポケットから予備の帽子を出して被り直し、テーブルに突き立ったナイフを検分しながら、皮肉っぽくいった。
「なぁ霊夢、お前んちって本当に結界働いてるのか?」
 霊夢は無言で立ち上がり、ぼろぼろになった障子を開け放った。正面上方に、例によって紅い月が掛かっている。
 その中に黒く小さな人影が浮かんでいた。
 すかさず、袖の中から二十センチほどの針を抜き、空中へ一直線に放つ。
 判別までは出来ないが、霊夢の姿を確認はしているようだ。一撃は届いたのだろうか? その影は一瞬だけ光を煌めかせて、彼方へと飛び去っていく。
「外した? 珍しいな」
「……………」
 障子の格子部分を握りしめ、憤懣やるかたない霊夢は大きく、深呼吸。
「……そろそろ障子を張り替えようと思ってたのよね……なかなか決心つかなかったけど良い機会だわ。ひたすら面倒だけど」

        ☆

 かくして、関係者全員が諸悪の根元を目指して討伐行に赴くこととなった。
 部屋をめちゃくちゃにされた霊夢が怒って、「面倒くさいから全員で行こう」といって、それで決定である。
 真面目不真面目はさておいて、霊夢の思考回路の構造は、酷く曖昧でいい加減らしい。命は素直にそう感じていた。
「……なるほどねぇ」
 振り返ると、奥の間の方を向いたまま、魔理沙がつぶやいていた。
 蝋燭代わりに点けられたカンテラが、部屋の影を不均衡にしている。
「なにが、なるほど?」
 魔理沙は命をジロリとみて、手にしたままのナイフに視線を落とす。
「いや、ちょっとな……これは、下手人のナイフか?」
「似てるけど……よく分からない。あの時は夢か現実かわかんなかったし」
「ここじゃそれは気にしない方が良いな。キリがないし」
「あんまりあやふやだと気持ち悪いんだけど」
「まぁ慣れだな」
 どっちにしろ、ナイフを凝視しているとまたあの悪夢が蘇ってきそうで、命はそっと目を背けた。それでも、これが無数に乱舞していた瞬間に恐怖の叫び声を上げなかったのは、自分では上出来だと思っていた。しかし、これから夜が明けるまでに何回危機が訪れるのだろう。そもそも本当に夜が明けるのか、怪しくなってきた。
(……一日に何回も死にそうな目に遭えば、人間って馴れてしまうのかもしれないなぁ)
 少女達の思考経路が伝染ってしまったような緊張感のない仮定が浮かび、命は慌てて頭を振った。
 やがて、どすんどすんと乱暴な足音が近づいてきて、ナイフと大穴だらけの襖が乱暴に開いた。
「霊夢、準備は出来たか?」
「私はいつでも良いんだけど、素人連れて行くんだからそれなりの準備はしないとね」
 そういうと、霊夢は手に持った物を命に放り投げる。慌てて受け取ると、かしゃんと乾いた音。同時に埃が盛大に舞った。
「けほっ、ごほっごほっ……なんだこれ、埃だらけじゃないか」
「そんなんでも家宝だからね、大事に扱ってよ」
「家宝なら大切にしておくべきだろ」
「仕方ないじゃない、台所んとこの窓のつっかえ棒にしてたんだから」
「それは家宝とはいわない……」
 とはいえ、それは確かに家宝といわれるだけの造作を整えていた。立派な造りの小太刀である。
「博麗神社の小太刀なんて霊験がありすぎて私にゃさわれないぜ」
「魔理沙、それ馬鹿にしてる?」
「霊夢が本気で怒るなんて久しぶりだからな、遊びたくもなる」
「そりゃそうでしょ、自給自足なのよウチ。柱磨いて畳換えて部屋整えて家具準備して…どのくらい手間掛かると思ってるのよ」
 霊夢は腰に手を当てて頬を膨らませる。
 その様子がなんだかおかしくて、青ざめた顔の命は、思わず笑ってしまっていた。
「なによ」
「いや、ごめん、ちょっと……」
「もう。あんまり馬鹿にしてると置いてくわよ」
「ごめん、本当にごめん」
 境内におりながら、ムスッとしたままの霊夢は魔理沙に手を差し出す。
「魔理沙、双眼鏡」
「ああ……出掛ける前に家に寄ってくれ。私もいろいろと準備したいからな」
「構わないわよ」
「霧雨さん、なんで双眼鏡なんか持ち歩いてるんだ?」
「魔理沙って呼べよ、めんどくさいし……私は物持ちが良いのが信条だぜ」
 魔理沙から受け取った双眼鏡で、霊夢は境内から遠く遙かを覗き込む。
 博麗神社から歩みを進めること数時間、魔法の森を越えた辺りから広がる湖がある。その向こうの小島に、蜃気楼のように忽然と姿を現した一軒の洋館が建っている。
 そして、月は例によって明るく大きく紅く。
 光を惑わす霧は、深く重い。

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 チリーン。
 チリーン。

 深い廊下の狭間に、呼び鈴の音が木霊している。先ほどから何度も何度も響いている。
 それに呼応するように、静かな足音が駆け抜けて、いくつもの扉の間を通り過ぎていく。
 紅いカーペットの上には、人骨が転がっていることも埃が散っていることもない。
 しかし……この館には一体いくつの階段と扉が備わっているのだろう。しかも、天井にも配置された扉や、壁に行き着く階段が山ほどある。
 そう。この館は設計図を元に作られた建築物ではない。主がそう望んだから、そういう姿になっているとしかいいようのない歪みが、建物全体の構造を日々蠢かせているのだった。

 チリーン。

 呼び鈴が呼ぶたびに、足音の勢いは増す。ただ大きな音は立てず、静かに、静かに。わずかに響く音さえも、深い絨毯が全て吸い取ってしまうかのように。
 やがて、足音がその扉の前に辿り着く。
 コンコン。
「失礼します」
 扉が開き、その中に招き入れられる。
 部屋の中央に高くなった段があり、その上で揺り椅子が軋んでいる。主人は座したまま動かない。天窓には大きな紅月が掛かり、灯りを必要としないぐらいの光を投げかけている。それでもその場所には、沢山の燭台があって、揺れる光を保っている。
 主人の横に到着した従者は、黙って控えた。
 その姿は瀟洒な美人だったが、どこかあどけない表情も残している。年齢の掴みきれない女性だった。
 主人が口を開く。
「……わたしからの招待状は、向こうに受け取ってもらえたのかしら」
 幼い少女の声。か細く儚く。ゆっくりとしたテンポで。
 小さな手の中のワイングラスに、紅い液体が波打ち揺れている。
 メイドは答える。
「間違いなく、届けましたわ」
「そう。それは良かった」
 と、主人は目を細め、従者の顔をゆっくりと見上げた。顔の部品がみんな線になって、
「……久しぶりに見たけど、貴女の血の色はとても綺麗。他の誰よりも、凄く綺麗」
 従者は少しだけ身を退き、頬に手を当てた。
 紅き一線が繊細に浮かび上がっている。
 気づいていなかったとは……。
 羞恥に頬を染める従者に、少女は慈悲深く笑いかける。そして静かに月を見上げる。
 全天を覆うように広がっていく月。
 椅子がゆったりとかしぐ。
「長い夜になりそうね………ねぇ、咲夜」
 メイドは答えず、深々と礼をする。
 主人はそれ以上口を開かず、肘掛けに載せた指の先で、何かのリズムを取っている。
 決して聞こえない、その歌。


 紅の館の一室での出来事である。