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 ぺちぺち。
 頬に冷たい手の感触が当たる。
「……ほら、起きなさいよ」
 ぺちぺち。
 ようやく寝られたんだから起こさないで欲しいと思う。なんだか寝苦しい夜だったのだから。まったく、もう少し気を遣ってくれればいいのに。
「う、うぅん……」
 ぺちぺち。
「ほら。今度襲われても助けないわよ」
 …………。
 命は仕方なく目を開けた。
 目の前には、しゃがんで頬を突き、こちらを見下ろしている少女がいる。
 頭には大きな赤のリボン。表情はといえば、整った顔立ちがやる気のなさそうな表情で台無しだ。
 命は飛び起きた。
「うぁ、あの、その」
「ぐーもーにー。ねぼすけさん、あんたよくこんなところで寝られるわね。特殊な人?」
「え? え、えーっと、あの」
 混乱していてついさっきの出来事が出てこない。その上、命にはこれだけ近くにいる少女と個人的な会話をした経験がほとんど無い。吐息が掛かるほど接近した少女の顔に、狼狽えてしまっていた。情けない話である。
「お礼は?」
「…………?」
「助けてもらったんでしょ? 助けられた場合と状況によって相応のお礼をいうものよ」
 フラッシュバック。記憶が溢れる。
「あ、そうだ……あの、金髪の女の子」
「消えたわよ。最近ああいう手合いが無意味に多いのよね、困ったことに。薬は飲んでこそ効果もわかるってものなの。調合はさぞ難しいことでしょうけど」
「……助けてくれたの?」
「ようやくご名答。なんかいいわね、あんたのテンポ。なかなかいなさそうで」
 馬鹿にされてるかもしれないのだが、反目どころかますます赤面する命。
「ありがとう」
「いえいえ、どういたしまして」
 少女は立ち上がった。追従しようとして、目眩に襲われる。ふらつく足。少女が慌てて命の腕を取り、支える。
「危ないわよ」
「ごめん。なんか、頭がぼーっとする」
「貧血かしら。シャツが血だらけよ?」
 たしかに、血のにおいが立ちのぼってくる。
「う、うん。首のところ、怪我してるから」
 Tシャツの襟を広げてみせる。少女は一瞬眉をひそめて、服の袖口からさっきの御札を何枚か取り出した。しかめっ面のままそのうちの一つを傷にぺたんと貼り付ける。
「ぁいたっ」
「……ま、これで血は止まるはずよ」
 少女の言葉通り、じくじくと続く痛みが急速に退いていった。不思議な効用なのだが、脳に血が足りてないのか、理由を深く考えようと思わない。
「ありがと、えっと、」
 名前を聞こうとして、思いとどまる。名前は自分から言うべきだろ、やっぱり。
「……僕は、菅原命。助けてくれてありがとう。あの、名前は?」
 少女はちょっと戸惑った表情をして、それから服の埃を払った。
「博麗霊夢よ。ねぼすけさん」

        ☆

 夜空の月はいまだ紅いままだった。
 ただ、あの巨大さは影を潜め、命にも見覚えのあるサイズで夜空に浮かんでいる。周囲の星々もちらほらと見えるようになっていた。
 夜風が吹き、ちぎれ雲が西へと流されていく。霧は立ちこめているものの、徐々に薄れゆく気配を漂わせていた。
 霊夢が吊した、古びた提灯の光が揺れて、二人の影を大きく小さくしていた。ここは林の間の一本道。霊夢が先導し、ゆっくりと歩みを進めていく。
 二人の手はしっかりと繋がれている。正しくは、霊夢の手が、命の手首をしっかりと握っているのだ。もちろん命は嫌がったが、霊夢は「迷子になるといけないから」と有無を言わせなかった。
「……だけど、お客さんなんてここのところ久しくなかったから、びっくりね。お茶は好き? もらったばかりの新葉があるから、一緒に飲むってのも悪くはないでしょ」
 命は気恥ずかしくてそれどころではない。
 一方の霊夢は、一向に喋らない命が気に入らない様子だった。
「もぉ。何か喋りなさいよ。つまんないじゃない」
「……………」
「たまに人の面倒みてみようかなと思ったらこれだもん。やっぱり向いてないんだろうね、私にはこういうの」
「……誰か、知り合いがいるんだ?」
「えーもー、黙っててもちょっかい出してくるような奴が何人か。それでも、ずっと黙ってる奴よりはマシかもしれないけど。口は食べるためだけにあるんじゃないのよ? 妖怪じゃあるまいし」
「………………」
 命だって別に黙っていたいわけじゃなかった。ただ、暗闇の中で女の子と二人、世話になりっぱなしの状態で、しかも手を繋いだままで。一体何を話せばいいというのだろう。しかも、ここは一体何処なのかも分からない。
 ふと、祖母の家のことを思い出した。
「どこなんだろ、ここ……村からかなり離れちゃったのか……」
「村って、どこの?」
「よく分からない。おばあちゃ…祖母の家に遊びに来てたら、こんなことになっちゃって」
「ふうん。既に迷子なんだ」
「そう……だね……」
「ま、そうよね」
 霊夢は気にも止めていないようだった。
 それが命の心を更に傷つけた。


 やがて、林は切れた。未舗装ではあるが、森に挟まれた少々大きな道の前に出る。そこをしばらく歩くと、朽ちた鳥居と石段に突き当たった。二人で階段を登り始める。
 階段はのらりくらりと曲がりながら上へ上へと伸びていく。その左右には石灯籠が規則正しく並べてあり、その中で蝋燭の炎が揺らめいている。灯籠の種類は様々で、きちんとした形のものやひびが入り半壊してしまっているもの、または人間の首に見えるような石、切り出したままの石灰岩も一緒に並んでいる。そのどれもが深く苔生し、蝋燭の明かりに鈍く照らされていた。
 いくつもの鳥居をくぐり抜ける。長く急な階段は不揃いの石で積み重ねられているが、霊夢の足取りは慣れていて淀みない。命はそのペースについていくのがやっとだ。貧血気味で、両足が重い。
 やがて石段は終わりを迎える。
 最後に待ちかまえていた鳥居が一番大きく、一番古かった。組まれた太い木は降る歳月に揺られてぼろぼろになり、少し押しただけで倒れそうな気配すらある。大きな注連縄がつり下げられ、何本もの神垂が下がっていた。中央に掲げられた額には、達筆すぎて読めない毛筆の文字で、


 『博麗神社』


「さてと、着いたわよ」
 境内に上がるなり、霊夢は無造作に手を放した。いままで触れていたところが妙に暖かく感じる。彼女の手自体は冷たかったのに。命はそれとなく手首の辺りをさすっていた。
「ここ……?」
「私の家よ。っと、お客なんて久しぶりだから部屋の中めちゃくちゃなのよね。ちょっと片づけるから待ってて」
「え、あ、ちょっと」
 止める間もなく、霊夢は正面左の建物に向かって、てくてくと歩いていく。自分でお客がいるというわりにはのんびりとした足取りだった。
 命は境内を見回す。
 正面には本殿があるが、境内が広いわりにあまり立派とはいえない。対になって輝く灯籠の奥、左右を巨大な楠に挟まれたその建築物は、全体的なバランスが悪く屋根ばかりが大きい。教科書に載っている白川郷の合掌造りを思わせる。
 その右手には霊夢が入っていった建物がある。社務所というのだろうがあまり人を迎えるという趣ではなく、むしろ普通の住居という感じがする。申し訳なさそうに置かれたお神籤の箱がかえって場違いだった。
 命が立つ場所のすぐそばに手水舎があり、水の流れ落ちる微かな音が絶えず響いている。脳裏と首元にうずくものを感じた命は、小さな柄杓を手に取り、両手を清めてから少しばかり口に含んだ。
「……おいしい」
 なんだか急に楽になる。
 同時に、疲れがどっと押し寄せてきた。無理もない、殺されそうになって、必死で逃げて、追いかけて……。
 追いかける? 
 自分は一体……何を追いかけていたのだろう?
 頭に手を当てる。疲労と共に、偏頭痛がちりちりと疼く。イメージばかりが先行して思い出せない。
 振り仰ぐと、天蓋には依然として紅の月が掛かり、雲間から不気味な光を投げている。
「今、何時なんだろう……」
 ポケットをまさぐって、出てきたのは百円玉と五十円玉だけ。携帯電話を持ってきていないことに今更ながら気づいた。電波が届かないのでは無用の長物だと、自棄を気取って鞄の中に放り込んだままだった。慣れないことはしない方が良い。
 しかしこうして考えると、自分が何も手がかりのない場所に一人で投げ出されているという事実が押し寄せてくる。時間感覚さえ失ってしまった。たとえ気恥ずかしくても、手を引いてくれる人がいれば心配だけはしなくてすんだのに。母屋の方に向かった少女は戻ってこない。月は見たくない。心細い。
「あー……そうだ、ちょっと聞こう、トイレの位置ぐらいは聞いとかないと」
 泣きたくなるぐらい情けない言い訳を口の中で紡ぎつつ、命は行動を開始した。社務所に早足で駆け寄り、木製の引き戸に手を掛けるが、向こう側につっかえ棒がしてあるらしく開かない。待っていろと言われた手前、乱暴に開けるのもみっともない話だし。
 いつもみみっちいプライドが大胆な行動を妨げるのが、命という少年である。
 と、母屋から渡り廊下で連なる離れがある。窺うと、おぼろげな灯りが揺れている。少女はあそこにいるのだろうか?
 何気なくを装いつつ───しかし実際には小走りで───そちらに向かう。
 そこは襖の扉が直接外に面していて、小さな土間になっていた。やたら可愛らしいデザインの、黒く小さな女物の靴が隅にちょこんと揃えてある。かなり場違いだった。
 ゆっくりと襖を開け、中を窺う。
「あのー、博麗さん……?」
 そこは狭い書庫だった。
 高い本棚にはぎっしりと様々な本が詰め込まれ、入りきらないものがそこらに平積みにされている光景は、まるで賽の河原の石積みのようだ。天井からはランタンがいくつも釣り下がり、柔らかな光を投げかけている。
 本棚の一番奥で、黒い人影がこちらに背を向けて座り込んでいるのが見えた。
 一瞬、先程自分を襲った少女を連想して体を硬くする。が、
「そんな心配は無用だぜ」
 当の人影が喋った。口調はなぜか乱暴だが、間違いなく少女のものだった。
「安心しろ、私は人を生で喰らうなんてマナー違反はしない」
「……………?」
「私だったらむしろ……跡形もなく吹き飛ばすけどな。そっちの方が見苦しくないし、綺麗で楽しいぞ。実際やるなら隅田川なんだろうけど」
 彼女がこちらに向かって、肩越しに何かを放った。
 それは小さく輝く五角形の星のように見えた。
 一瞬だけ。

 パン!

「うわっ!」
 もんどり打ってひっくり返り、土間で思いっきり腰を打った。
 弾けた星から更に無数の流れ星が七色に点滅しながら、間抜けな命の上に降り注ぐ。痛みと相まって、まるで目の前に火花が飛び散ちるマンガ表現のようだ。
 黒い少女が襖を開けてこちらを見下ろし、くっくっくっと笑っている。霊夢ではない。悪戯に成功して満面の笑みを浮かべた彼女は、三角帽子を被り、黒いエプロンドレスを身に纏っていた。胸には大きな本を抱きかかえている。
「事情はどうあれ、女の子しか居ない家を覗き込むなんていい趣味じゃないな。見るなら堂々としてた方が都合が良い場合もある」
「あんたが言うことじゃないでしょ、魔理沙。まーた人の留守中に勝手に上がり込んで」
 背後にはいつの間にか霊夢が立っていて、腰に手を当て目を釣り上げていた。
「読み終えてない草紙があったんでな。昨晩からどーにも気になって仕方なくて。まぁ土産もあるし、許してくれ……なぁ、少年」
 少女はにんまりと微笑む。
 霊夢は二人を見比べて肩を竦めてみせる。
 そして。少女二人に見下ろされて、命はまた泣きたくなっていた。もちろん、腰もめちゃくちゃ痛い。