3


 やけに寝苦しい夜だった。
 熱帯夜という程でもないのだが、唐突に夏の夜が帰ってきたような、暑さと湿度を保った夜。
 命は蚊帳に囲まれた狭い四方の中で、夏布団にくるまって何度も寝返りを打っていた。田舎の家だけあって部屋は無駄に多いので、両親とは別の部屋にしてもらっている。あの二人といっしょに寝るなんていう選択肢は数年前から完全に捨ててある。
 電気を消して瞳を閉じて長い時間が経つが、眠りはなかなか訪れない。微睡むことはあるのだが(実際はあるいは寝ていたのかもしれない)、本当に眠っているかどうかはしい。いや、眠っていたら自分が眠っていると主観で確認できる訳はないのだが……いずれにせよ、普段のように簡単に眠りに落ちることは叶わないようだ。
 慣れない電車の長旅だったし、不思議な出会いもあった。風呂桶の中で居眠りをするぐらいには疲れている。
 だが、眠れない。
 静かすぎて耳鳴りがするせいだろうか。
 微かに匂う蚊取り線香の香りが鼻孔の周辺にまとわりつく。何もかもが、眠りの底へ落ちていくのを妨げるようで……心臓が無意味に早鐘を打つ。夜の虫達は今夜に限ってほとんど鳴いていない。
 着替えたTシャツはもう寝汗でべとべとだった。それでも、無理に眠ろうとあがいた。
 外が、妙に明るい気がした。気のせいだろうか?
 ここに来てからというもの、気のせいにしてしまえればそれで終わるような出来事が多すぎる。紅白の蝶も、日傘の女性も、深い霧も……目覚めてしまえば何もかもなくなって、またあの暑い日差しの中に包まれるのだ。きっとそうに違いない。
 そのために、一度は深い眠りに落ちなければならない。
 そして目覚めるのだ。
 潜水して、息が続くか続かないか限界を感じるその瞬間、水面にはじき出されるように。
 夏に戻るのだ。
 閉じた瞼の向こうに、光の存在が暗示されているような感覚。きっと気のせいだ。寝惚けているのだ、自分は。
 命は無視して、布団をかぶり直した。


 なにかがくるくると回っていた。
 傘?
 ……霧の中に舞う白い傘。
 霧の中に消えるように遠ざかっていく。
 ただ、瞼の裏に残像のように焼き付いて、完全に消え去ることはない。


 外が、妙に明るい気がした。
 いつまで睡眠の邪魔をしてくれるのだろう。いい加減に忍耐の限界が来そうだった。案の定、酷い眠気で仕方がない。気が狂いそうだった。Tシャツを着替えたい。目を開けたくない。それでも、このままでは……。
 それでも抵抗を続けよう。
 起きたくない。
 このまま眠らせてくれよ。
 ……………………。
 無理だ。
 仕方なく、布団を跳ね上げようとして、
 ―――凍り付いた。
 身体を動かせない。指先に感覚がない。
 声が、出ない。
 咄嗟に浮かぶ、金縛りという単語。
 喉の奥に何か不快なものが突っかかる。
 目を開ける。
 目は開いた。
 窓の外が、紅い。
 紅い?
 自分の上に、窓からの紅い光を背負った影がいる。
 こちらを見てにこりと笑う。
 この人………誰だっけ。
 本当に美人で、
 本当に大人らしい瀟洒な笑み。
 何だろう、この瞳は。
 網膜に焼き付く、白い傘がくるくると。
 そんな女の人が、夜の顔を浮かべて、命をまたいで座っている。
 緊張する。寝汗をかいた背中に滑り落ちる複雑な感情と唐突な欲望。猛烈にばくばくと、沸騰しそうな血液がシステムを循環する。だけど、手も足も、首の角度すらも変えられない。
 女性は完璧に魅惑的な笑顔で、己のブラウスの中に手を差し入れる。知らない、こんなの知らない。身体の奥で何かがはじけそうだ。
 まるでスロウモーションを見ているかのように、蠱惑を帯びる仕草で胸の間から長い物体を引き抜いていく。
 それは、そこにあるのが現実離れしているかのように冷たい光を湛えた、大振りのナイフだった。
 刃渡り二十センチはあろうかという鋭い両刃。こんなものがあの薄い服の一体何処に隠されていたというのだろう。
 唾を飲み込もうと悪戦苦闘する。
 恐怖よりも、命を強く包んでいるのは興奮。自分が何をされようとしているか想像できるのに、それでも我慢できない何かが確かに存在している。紅い紅い光の中で、自分は朱く染まる。その瞬間に自分は果てて消えるのだ。その瞬間が待ち遠しい。渇望する。
 欲望が加速する。
 はやく、
 はやく、
 はやく、
 はやく、
 女性は笑みを崩さない。
 さぁ下さい、
 僕にそれをください、
 僕を満たしてください、
 僕を狂わせないでください、
 お願いだから、
 お願いだから、
 お願い、
 女性は瞳を細める。
 ナイフが閃き、紅い光を弾き、
 ……命は絶叫した。



 つもりだった。
 飛び起きた。
 一人だった。夜は相変わらず夜のままで、闇に包まれていた。
「はぁ、はぁ、はぁ…………っはぁ、」
 全力疾走した後のように激しく呼吸していた。
 全身汗まみれ。Tシャツが張り付いている。
 それだけじゃない。下半身が生暖かく濡れていた。不快だ、不快すぎる。一瞬たりとも耐えられない。
 それに、渇く。
 喉が渇いて仕方ない。
 着替えを持って蚊帳を抜け出し、暗い廊下を壁づたいに歩いて勝手口を目指した。風呂は離れにあるから、灯りなしでは行きづらい。勝手口のすぐ隣にある井戸のクランクを、猛烈な勢いで上下させた。三回ほどで冷たい水が流れ始める。バケツに貯めて一気にかぶる。
 もう一度、二度、三度。水がバケツに溜まるまでの時間が待ちきれなくて、最後にはパイプの下に頭を突っ込む。視界が覚束ないまま、口を大きく開けてがぶ飲みする。口に入らない飛沫がしたたり落ちる。渇きは癒えない。
 三度深呼吸して全裸になり、新しいTシャツとパンツに濡れたままの体を突っ込む。びしょ濡れだが構うことはない。
 いまだ身体は熱っぽく、動悸はどんどん激しくなる。汚れた下着はポリバケツの中にぶち込んだ。
 たまらずもう一度水をかぶろうとして、ふと首筋に違和感を覚えた。手で押さえると、ぬるっと滑る。水の感触でも、汗の感触でもない。躯の、中から、湧き上がってくるかのような。
 激しく嫌な予想が脳裏に散る。
 鉄の匂いが立ちこめる。
 猛烈な吐き気が迫り上がった。
 その時、外がやけに明るいことに気づいた。
 勝手口の窓が、ぼんやりと紅く輝く。
 その光が、暗闇の中の自分を映し出す。
 眼前の右手を映え上がらせる。
 紅く染まったその手を。
 光ではなく……その朱で染まった紅い手を。
「う、うあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっっっっ!」
 今度こそ本当に叫んだ。
 引き絞るような金切り声。
 それを裂いて、音が聞こえた。
 叫んだはずの自分の声ではなく、奥の部屋……自分の部屋から聞こえてくる微かな音。
 それは、時計の運針の音だ。
 小さな小さな秒針と分針の輪舞曲。
 その時計の所有者の手には今、何が捧げ持たれているのか。
 なぜ、自分は血を流しているのか。
 もう沢山だ。
 もう耐えられない。
 こんなところに、一秒だっていられない。
 自分は窮鼠のように追いつめられている。
 だけど、あの部屋にももう逃げ込めない。
 ナイフが近づいてくる。今度こそ少年の首をそぎ落とすために、確実に、少しずつ。暗闇に文字盤が浮かび上がるのが脳裏に見える。分針と秒針はナイフだ。鋭く尖ったナイフ。その剣尖には鮮血を滴らせている。
 せり上がる嘔吐の衝動を抑えながら、ぬめる手で勝手口の扉を開けた。
 霧が入ってくる。でも、まるで解放されたドライアイスのように、足下にばかり溜まって広がっていく。
 そんなことはどうでもいい。
 とにかくここから逃げ出さないといけない。ここでないところに逃げ出さないといけないのだ。
 扉を開いて、駆け抜けて、


 圧倒された。
 月の光に。


 夜空は晴れ渡っていた。
 しかし星はなく、ただ紅の月が、巨大な満月が全天を覆っていた。
 月が天なのか、天が月なのか。
 闇と月が空を共有していた。
 紅い月の光は猛威をふるい、まるで真夏の白日のように肌を刺す。手のひらの鮮血など取るに足りない要素だった。
 全てを支配していた。
 この夜の支配者は、紅く燃える月だった。
 圧倒的な力に、命は尻餅をつきそうになる。歯茎からと震えている。足だって進みそうにない。
 チリーン。
 遠くからベルの音が聞こえた。
 何処で鳴っているのか分からないが、それは確かにベルの音だった。呼んでいる? 呼び鈴? 分からない。
 そこに行かなくてはいけないような気がした。強い力を感じた。月光と同じように。
 チリーン。
 チリーン。
 ベルは呼ぶ。主が待っている。幾億の夜の歴史が紡ぐ、今宵の厳格なる掟の始まりを望んでいるのだ。
 もう、全てが分からなかった。理解力は霧散した。立ち竦んでいた。命にとっては全て夢であり、全て現実だった。もし夢だとしても、彼のちっぽけな理性をたやすく潰してしまうくらいに巨大な幻想。いなくなりたかった。消えてしまいたかった。認識できる物がなくなるまで、原子のレベルにまで分解して、消滅してしまいたかった。そうすればきっと楽になる。
 月にも、血にも、時計にも、ナイフにも、どれにも届かない場所へ行きたかった。
 泣き叫びたかった。それすら叶わない、圧倒的な支配。命は懇願していた。誰に向かって、というわけではなく……ただ子供のように懇願していた。
 頼むよ。
 頼む。
 僕を戻して。
 あのトンネルの向こう側に戻してよ。
 あの暑い夏に戻して……


 ……その時。
 視界の端で、何かが舞った。


 ドライアイスの海の中で、蹲りかけた命の目の前を、あの蝶が……紅白に輝く蝶が舞い飛んでいた。
 それは現実を超越した光景だった。
 この世界全体を覆う紅の暴力の最中にあって、己の輝きを失わないその姿。小さく光の尾を纏って、暗闇の向こうに羽ばたいていく。
 …………。
 ……。
(あ…………) 
 急速に、自我を取り戻した。
 あの蝶は、小さな標本箱の中で展翅されてはいない。
 「彼女」は自由だった。
 穴が開くぐらい凝視した。
 自然と後を追いかけ始める。
 三秒後に、希望へと転化した。
 紅き月下、境界のない場所で、唯一掴むに足りる希望だった。
 根拠はあるのか?
 根拠はない。
 だけど、自分が自分でいられる最後の望みだった。
 あの蝶を追いかければ、この支配から脱出することが出来るかも……しれない。
「待って……待ってくれ!」
 駆け出す。
 もう、今回は見失なわない。
 背後からはナイフを持った手が迫る。
 時計……懐中時計の音が追走してくる。
 紅月の光が足首を掴み、そのたびにこけつまろびつを繰り返す。
 それでも、命は駈けた。
 必死で走り続けた。
 あの蝶を、絶対に見失わないために。
 そこが道なのか、斜面なのか、森なのかも判断できない混沌の中を駆け抜けていく。紅と黒の陰影は、まるで影絵のように揺れ、大きくなり、ささやく。草の葉でいくつも切り傷を作った。霧は深く見通しは悪い。首の付け根はまだ血をにじませている。汗が噴き出る。また着替えたくなった。吐き気がする。帰りたい。
 でももう出来ない。
 前方を蝶が、ひらひらと飛ぶ。
 優雅に、気ままに。ゆっくりとしたスピードなのに、決して追いつくことが出来ない。苛立った。でも……心の何処かで、あの蝶には追いつけないのではないかという、そんな予感がしていた。
 それでもいい。
 それでもいいんだ。
 この狂気から逃げ出せるのなら……。


「こんばんわ」
 そしてそれは、唐突に訪れた。
 命は立ち止まる。拍動は続く。
「………………」
「こんな夜中に、そんなに急いで何処へいくの?」
 霧に包まれるように、一人の少女が立っている。金髪に黒いワンピース。あどけない表情と仕草が可愛らしい、のだろう。ただ、巨大な紅の月に照らされて微笑んでいる姿は、明らかに人間以外の存在の雰囲気を醸成しているように察せられた。
 生ぬるく吹き抜ける風が、頭に乗っかった小さなリボンと髪をゆっくり揺らしている。
 紅白の蝶は、少女の向こうへと舞い飛んでいった。
 命は硬直してしまったかのように立ち尽くす。
「ねぇ、ゆっくりのんびりしましょうよ。せっかく、こんなに紅くてきれいな月が出てるのに」
 少女はそういってにっこりと笑い、月を振り仰いだ。小さく可愛い口の端から、異様に尖った犬歯が覗いていた。もはや牙といった方が正しいような代物だ。
「本当に、きれいで紅い……まるでホオズキみたい。まるでどくどくと脈を打つピンク色の心臓みたい……とっても、美味しそう……」
「……………」
 瞳を潤ませてつばを飲み込む少女。
 その瞳は、まっすぐに命を射抜く。
 獲物を前にした恍惚の笑み。
「だれが最初に見つけたかしれないけど、誰もいないから私のものよね。うふふ、今日のご飯はとっても美味しそう」
 もはや命は驚かない。
 この不自然な少女も、夜のもたらした眷属の一つなのだ。それは理解できた。そのくらいには、精神の平静を取り戻している。命自身、自分が襲われようとしているということよりも、なぜここまで落ち着いていられるのか、そちらの方により驚きを感じていた。
「多分、あなたの血はすっごく美味しいだろうから……感謝して食べるわね」
「たぶん、おいしくない、よ」
 震えを押し隠すように、いう。
 答えはない。にっこりと笑いながら、一歩一歩近づいてくる。
 われながら下手な憎まれ口だと思った。
 朝からずっとずっと、自分の行く先を惑わし続けた紅白の蝶。
 あれはやっぱり死神だったか……。
 だけど、なんだか奇妙な満足感がある。震えは止まらないが、ある部分で恐怖が麻痺してしまったことに感謝さえしていた。


 ゆっくりと瞳を閉じ、そして、
 紅月が翳った。


「道端で食事なんてあんまり行儀が良くないわね。もうちょっと場所を考えたらどう?」
 瞳を開けた。
 いつの間にか空には雲の列が浮いている。
 まだらになった地上の紅と闇。
 霧が揺れる。空気が粟立つ。
 そして……命に襲いかからんとする少女の背後に、忽然と三人目の影が浮かび上がっていた。
「だれ?」
「そりゃこっちの台詞よ」
 頭には赤く大きなリボン。人形のようにフリルの多い服を着ているが、その色は白と赤に統一してある。手には神職が使う玉串を持っていて、それを金髪の少女の肩にぽんぽんと当てている。
 その瞳は月の光に染まることなく、黒く深い。
 ほんのりと光纏うような少女だった。
 その眩しさに、命は立ち尽くす。
 赤と白の少女は口を尖らせた。
「一応仕事だし、でもさぼれないし、だけど面倒だし……毎回、昼間に出発してたわけだけど。やっぱみんな昼間は苦手みたいね。眠い目をこすりながら夜に出てみれば案の定……残念ながらぴたり的中ってところかしら。お仕事しなきゃいけないみたい」
「探し人は私?」
「別に? 人じゃないけど。自意識過剰じゃないの、あんた」
「知ってる? 蝙蝠は音波の反応がないと飛べないのよ」
「梟は飛べるけど。でも、私は梟じゃないし、夜は暗いんで何処いっていいかわからないし……でも今日は特別だったみたいね。夜の境内裏って、結構ロマンティックなのかしら。こんなところで逢い引きやってるし」
「それはまぁ、そうかも」
 二人はくすくすと笑っている。まるで仲の良い姉妹のように。
「そうなのよね。でも夜はたまにお化けも出るし、そうなってくるとたまんないんだけど……って、結局あんた誰? わたしはデェトじゃなくて食事中なの。お腹ぺこぺこなの」
「人に名前を尋ねる時は先に自分の名前を言うものよ? 大体夜にしか活動しない奴に、名前をきちんといえるようなまともな奴がいるとは思えないんだけど」
「あら? 夜しか活動しない人も見たことある気がするわ」
「そーいうのは取って食べたりしてもいいのよ」
「そぉなのかぁ。また一つ利口になったわ。ありがとう」
「いえいえ。で、邪魔なんですけど」
「目の前のが取って食べれる人類かしら?」
 黒服の少女がのほほんと両手を水平に広げる。
 紅白の服の少女が、玉串で自分の肩をぽんと叩く。
「良薬は口に苦し、って言葉も教えてあげようか?」
 黒き少女は微笑んだまま答えない。
 そのまま、静かに音もなく……虚空へと舞い上がる。まるで十字架のような姿が、高く高く、月に届くような距離まで飛んでいき……そこから円形の光を投げかけ始める。
 それは漆黒たる第二の月。
「これ、持ってて」
 紅白が駆け寄ってきて、命の手に何かを握らせる。
 長方形の色あせた紙。ミミズがのたくったような文字が書きつづってある。当然読めない。
「………御札?」
「いいから。放しても動いても駄目よ」
 黒き月を追って、まるでスキップするような足取りで駆け出す。そして、小さな水たまりを飛び越えるように軽く―――
 空中に足を踏み出す。
 飛んでいく。
「あ……」
 命は声も出ない。
 舞い上がった少女は、空に展開する黒い月を目指して飛翔していく。
 と、一瞬ちぎれ飛んだ雲が過ぎ去り……
 黒い月の前を、ひらひらとあの、紅白の蝶が舞っていた。
 あんなところを、自分が追い求めた蝶が飛んでいく。
 気ままに、自由に、虚空を泳いでいる。
 そんな姿が気に入らないのか、黒い月が漆黒の波動をなびかせた、二度、三度。
 それは激しく羽ばたいて、蝶の羽をそぎ落とそうと襲いかかる。ただ、蝶はゆらりゆらりと自然にかわして泰然としている。子供の虫網を優雅に逃れているかのように。
 放たれた黒き猛禽類は、生贄を求めて方向転換し、地上の獲物を見つけた。
 巨大な翼を広げ、急降下で命に襲いかかる―――
「う、うわっ……!」
 思わず両手で顔を遮るようにしていた。
 と、手に持った御札が神々しく煌めき、柔らかな光を放つ。必殺の勢いで地に落ちた夜の鳥達は甲高く弾かれて、地に大きく爪痕を穿った。
「こ、これ……すご……」
 御札の霊験に驚きつつ、命は空を見上げる。
 黒き月に向かって舞い飛んでいく蝶。
 その闇からは、何度となく波動がほとばしり、邪悪な円が蝶を叩き落とそうと躍起になっていた。幾度となく放たれる殺意と波動。だが、空気のように軽く飛ぶ蝶にはいかほども干渉出来ない。
 そして、蝶と黒き月の中央が交差した時、
 ―――純白の閃光がほとばしった。
「う、うわぁぁぁぁぁああっ!」
 身構える間もなく、衝撃波が地上に到達する。
 今回は、御札はその効能を発揮してくれなかった。あっけなく命は吹き飛ばされ、地面にごろごろと転がった。
 そして……夜は一時的に、光をもって埋め尽くされた。