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 どう時間を潰しても、夕食までにはまだまだ遠い。霧のせいで日の推移さえ定かではない。
 持ってきた携帯ゲーム機に刺さっていたのが、昨日クリアしたばかりのロールプレイングゲームだったのも最悪だった。命には一度クリアしたゲームを再び始める習慣がない。速攻で売って金に換えて次を買う。合理的で理想的な遊び方だと自負している。友人にいったら「ばかじゃねーの」と一蹴されたので、二度と口にはしない。
 仕方がないので、周辺を散歩することにした。両親はまだ帰ってきていないので祖母に一言声を掛けたら、
「……やっぱり親子なんだねぇ」
といわれて理由もなく傷ついた。
 霧が深いとはいっても、道を歩けないほどではない。坂を下り、電信柱を頼りに大体の目星をつけて田舎道を歩く。どんな山奥にもジュースの自販機ぐらいはあるだろうとたかをくくっていたが、それは都会人の偏った常識だったらしい。街では五十メートルも離れずに並び立つ見慣れた長方形は、この村の何処を探しても存在しなかった。ただ、その徒労を蛙の大合唱があざ笑うだけだ。
「……これだけ歩けばさすがに汗ぐらいはかけそうだな。うん、調子も良くなってきたし、ご飯の前には運動が一番だよな」
 強がりを言ってはみても、誰にも聞こえず誰にも届かず。ただ霧が全てを覆い隠してしまうかのようだ。
 ―――それにしても。
 この村には本当に人が住んでいるのだろうか? 立ち並ぶ家屋を通り過ぎても、人気すら感じられない。祖母の家が実は狐の家で、自分達は化かされているのではないのだろうか? 泥まみれの絵本の中にそういう話があったような気がする。ああいう昔話だと、真相を知った主人公が化かされたことに気づく頃には、事態はとんでもない変化を経た後で取り返しが付かないことが多いのだが。
 ぽちゃん。
 歩みを進めると、蛙が田んぼに飛び込む音が連鎖する。石を蹴ると、遠くで鳥が甲高く鳴く。耳の奥で風がささやく。かさかさと、木々がふれ合う。
 人界にいないような気がしてくる。
 空は低く、大気は霧に満ちて。
 ……寒気を感じて、歩みを止めた。それなりの距離は歩いたはずだ。時間も経っていることだろう。
「帰ろうか、な……」
 心のどこかで言い訳をする自分を情けなく思いながら、引き返そうとした。
 その時。


 視界の片隅を、白と赤の何かが飛翔した。


「え……」
 ゆっくりと、ゆっくりと舞う蝶がいる。
 田んぼの畦をなぞって、こちらの方に飛んでくる蝶。間違いない、電車の中で見たあの蝶だ。まるで夢のように、白と赤を掻き混ぜ揺らめかせて舞う。モンシロチョウのように小さいが、色が変化しているせいで大きな動作に見えているようだ。
 新種という言葉が、ちらりと頭の中をよぎる。あの蝶は記憶の何処にもない。もちろん自分の勉強不足からくる知識の欠落かもしれない、だけど……どっちにしても、しっかり見ないことには。
 まだ青い稲の穂先に留まったままの蝶。
 しっかり見ようと、足音を立てないようにして近づく。と、蝶はそれを見越したかのように飛び立つ。ふわり。
「……捕まえたりしないよ。見せてくれるだけでいいから……」
 そうつぶやきながら、蝶を追いかける。
 蝶は水田を越え、林の方に飛んでいく。木の間隔が疎らで、たとえ斜面でも追跡するのは容易だった。
 いつの間にか夢中で追いかけていた。
 だって、それはまるで命の気を惹くみたいな素振りで、浮かんでは止まり、舞っては流れていくのだから。もう少し、もう少しというところでいつも距離が開いてしまう。
「くっそ、バカにしてるのか……」
 誘引。雄の蝶が本能に呼ばれるまま雌を追うかのように。
 更に登ろうとして、出っ張った木の根を掴み、土を掴み、
 ―――あっけなく木の根が折れた。
「うわ、わ、わわわわあああああっ」
 獣道らしき場所まで転がり落ちた。酷い頭痛。
「あてててて……」
 頭や身体のあちこちをさすり、怪我のないことを確かめて、周囲を見回すと。すっかり藪に入ってしまっていた。鬱蒼と茂る森の中は日照不足のせいか、かなり苔がむしている。負傷しなかったのはこれのせいかもしれない。
「……もしかして、ヤバイか?」
 一応道は確認できるが、何処をどう辿ればいいか、さっぱり分からない。方向感覚に関してはあまり得意な分野ではなかったし。
 もちろん、あの蝶も飛び去ってしまっている。本気で化かされたのかもしれない。
 冷や汗が背中を滑り降りる。
(女子じゃないし、泣かないぞ)
 冷静ならばかなり恥ずかしい上に子供じみた決意をして、命は大きく深呼吸した。
 その時。
「……だれかいるの?」
 心臓が竦んだ。脈動のスピードが通常の数倍に跳ね上がった。叫ばなかったのは御の字だったが、正確に言えば叫ぶことすら出来なかった。情けない話である。
「あ、あぁぁ」
 声の主が、ゆっくりとこちらに向かってくる。薄暗い中でもようやくお互いの姿を確認できるくらいの距離になると、命は心から安堵した。相手はすでに笑みを浮かべている。
「こんにちわ」
「あ、あの……こ、こんにちわ」
 奇妙なシチュエーションだったが、ほとんど機械的に挨拶を返す。
 すごい美人、という言葉ばかりが頭の中をぐるぐると回る。命の記憶にも、これだけきれいな大人の女性は見たことがない。年齢は高校生か大学生ぐらいと見て取れるが、整った顔立ち以上に、黒いサマードレスと日傘を軽く着流している姿が、とても大人っぽい。自分がみっともなく驚いていたことを隠すために必死だったが、今度はなんだか別の意味で心臓が跳ね上がってしまいそうだ。
「こっちにいくともっと深い森に分け入ってしまうけど。大丈夫?」
「そ、そうなんですか」
「どうしたの?」
「……散歩してたんですけど、その……いつの間にか入り込んで、しまって」
 まさか、蝶を追いかけるのに夢中になって道に迷ったとは恥ずかしくていえない。今となってはあの時の精神状態は異常だったとしか思えないし。だから、命は顔を引きつらせて笑うしかなかった。
 女性の瞳が、すうっと細くなる。
「あなた、ここに住んでいるんじゃないわよね?」
「向こうに、おばあ……祖母の家があって。夏休みだから、家族で里帰り、なんです」
「ええと、誰かしら……東原さん?」
「あ、そうです」
「元気なお婆さんよね」
「ご存じなんですか?」
「お世話になったこともあるわ。とても楽しい方」
 そういうと女性は、口に手を当てて微笑む。
「あの……あなたは」
「この先の家に暮らししてるの。変わってるでしょ」
「いえ、そんなことは……」
 確かに変わってるな、とは思った。老人しかいないような村に、若くて色っぽい女性が住んでいるというのは。しかも、この先は自分から「もっと深い森に分け入ってしまう」といっていたのに。なにか理由があるのだろうか?
 その疑問を口にしようとして……やめた。大人には安易に聞いてはいけない質問もあるはずだと思い直す。自分の判断に少しだけ満足した。
「……山の時間は簡単に移ろってしまうわ。こぼれ落ちるように日が暮れてしまう。それでなくても薄暗いし。さあ、こちらよ」
 そういうと女性は、緩やかに歩き始めた。命もそれに倣って附いていく。
「最近は少し、肌寒いわね」
「……あの、街の方はもっと夏っぽいんですけど」
「そうなの?」
「はい。こっちに来たら霧が深いんで、びっくりしました」
「あまり出歩かないので、その辺よく分からないのよね。でも……酷暑になると大変だけど、夏には夏らしい日差しを見たいわよね。日傘も腐っちゃうわ」
「僕は、一日……ぐらいだったらこういう天気も、いいと思いますけど」
 女性は横を見てクスクスと笑う。
「……な、何ですか?」
「敬語、使い慣れていないわよ?」
 不自然だったんだろうか。面白がっている笑みを向けられて、頬が上気するのが分かる。
「女の子と話するの苦手?」
「そ、そんなこと……」
「あるわよね?」
「…………………」
「いいのよ。貴方みたいな子がそうやっているのはいいことなの。お母様もきっと喜ばれてるでしょうね」
「……そんなこと、ないですよ」
 彼女は微笑みながら、ゆっくりと首を横に振る。
 うちの母親に限ってそういう視点があるはずもない。コミュニケーションの欠如をあげつらうぐらいが関の山だ。命はそう断じるが、彼女の言葉はなぜか重たく感じられると思った。なぜだろう。
 女性は何も語らない。


 いつの間にか林を抜けている。見覚えのある舗装路に出た。ここからなら一人でも間違いなく帰れるはずだ。
「ありがとうございました」
「いいのよ。迷子になって困るのは本人だけじゃないしね」
 女性の瞳が、どこか寂しげに揺れる。胸のポケットから何かを取り出すと、命に示した。
「今五時半ね。怒られないかしら?」
「子供じゃないですよ」
「子供はみんなそういうわ。見なさい」
 古く大きな懐中時計だった。よく磨かれているのが分かる。分針と秒針が静かにワルツを踊っているのが見えた。
 ただ、文字盤を覆う硝子にはひびが入っている。
「きれいな時計ですね」
 自然と口に出た。
 女性がちょっとだけ驚いた顔をする。
「……名前、聞いてなかったわね」
「あ、菅原命です」
「命くん、ね。時計を誉めてくれてありがとう。これ、両親の形見なの……また、会いましょう」
「あの、あなたは?」
 寒気が背筋を滑り落ちる。まるで背中から白い手に抱かれるように。
 その笑みが、霧を呼ぶように。
 女性は日傘を開き、くるくると回しながら歩み去っていく。命の問いには答えぬまま。辺りの霧をまとうように、静かに、静かに。
 その足取りは、上品で優雅で……どこか古風な感じがした。


 ―――そして、闇の帳が迎え入れられる。

        ☆

 菅原家の食卓に登る料理はよく言えばダイナミック、悪く言えば非常に大雑把である。学校で折々の行事がある際には弁当の品評会が自然発生するわけだが、その際、命はいつも溜息をつく羽目になる。
 母親は、料理に関しては完全に祖母の流儀を追従しているらしい。野菜という野菜をぶちまけた、ボリュウムだけはたっぷりの味噌汁をすすりながら、命はその事実を深く再認識していた。
 夜。
 霧は夕方になってわずかに晴れ始めた。気温にさほどの変化はないが、かろうじて締め切らなくてもいいくらいの涼しさ。寒くはない。縁側には蚊取り線香が焚かれ、あてがわれた寝室には丁寧に蚊帳が吊られている。
 卓袱台の上方で蛍光灯が鈍く輝く。周囲には蠅取り紙が何本か吊してあった。
「……でね、わたしいってやったのよ。もう一回まけてくれたら、このお店のこと百人に宣伝して上げるって。ほら、ウチの会社って結構顔が利くし、理容室なんて今は半分は信用商売な訳じゃない? こういうの結構効くのよね。これで今まで何回、地道に得してきたことか」
「お前は本当に……ま、あたしの腹から出てきた時に口から生まれてきただけのことはあるわねぇ」
「なによそれ嘘ばっかり。私にとっても、向こうにとってもいいことじゃないの」
「いつか滑らせるんだから」
「素直に感心しなさいよ」
「まぁまぁ聡子。お義母さんも悪くいってるんじゃないんだから」
「でもぉ」
 まるで子供だ。
 食事の時間は昔から苦手で仕方ない。母親が延々と繰り広げるマシンガントォクの相手を否応なしにさせられて疲弊してしまう。
 祖母は当然ながらそういった母への対応には慣れているらしく、要所要所で適当に無視している。自分もこのくらいの対応が出来れば楽なのにと思うのだが。
 命は、昼間の出会いを祖母に尋ねてみることにした。
「そういえば、さっき向こうの森の方で、すごくきれいな女の人に会ったんだけど……」
「……お前、何処まで行ってたんだい」
「そんなに遠くじゃなかったけど、山道に入りそうになったところで、迷うから帰りなさいっていわれて」
「そんな人いたっけ。誰?」
 山間の鄙びた村では住人全員がほぼ間違いなく知人である。都会に出て行った母のような人間でさえ今でもそうなのだ。
 その母が首をかしげている。
「都会から戻ってきた人だよ。ほら、松元さんとこの貸家があるだろ。親類の伝手であそこを安く貸してもらってるとか何とかいってたよ」
「あんな不便なところに住んでるの? 旦那さんは?」
「独り身だそうだ」
「うっそぉ」
「なんだい、そんな辺鄙なところなのかい」と父。
「ここも大概だけど、そんなもんじゃないわよあそこ。最後に見たのは結婚する前だったけど、ほとんど崩れてたもん」
「今はきちんと直してある。お前は本当に失礼な子だねぇ」
「だって信じられないもん」
 祖母は命に問いかける。
「なんか言われたか?」
「ううん、後は別に……おばあちゃんのことも知ってるっていってたよ」
「そうか」
 老婆は箸の先にご飯を少し載せたまま、ゆっくりと咀嚼している。
「しっかしあんたもバカねぇ。こんなところでひょいひょいと出歩いてたら遭難しちゃうわよ」
「……する前に戻ったからいいだろ」
「甘い甘い。ここにはもともと神隠しの伝説だってあるんだから。ねぇ母さん」
「滅多なことを言うもんじゃない」
 異様に鋭い祖母の声に、命は思わず瞠目してしまった。
「そ、そんな強い言い方しなくてもいいじゃない? そりゃ私も、ここに住んでた時は心底怖かったけどね……第一迷信でしょ。今回悪かったのは命なんだし。」
「関係ねーだろ母さん」
 それまで黙っていた父が、味噌汁を一口含んで箸を置く。
「聞いたことない話だね。お義母さん、昔に何かあったんですか? この村で。古い伝承とか……」
 老婆は答えない。代わりに母がいう。
「あのね。古代からの言い伝えなんだけど。山脈の上の、もっとずっとずっと向こう側に、不思議な桃源郷があるんだって。人が絶対入ることが出来ない場所。神様や仙人達が暮らして、何百年も何千年も同じように過ごすって」
「へぇ。この地方じゃそういう話があるのか。伝説の分布的には飛び地だね」
「さっき見た稲荷さんとかにも、確か古い絵巻物が奉納してあったはずよ。子供の時、祭の日にだけお堂が開かれてて、神主さんがそういう話をしてくれたのよね、たしか」
「ふうん」
 命の父は本好きで、最近では趣味が高じて本格的な歴史書や褪せた表紙の小冊子を何百冊と買い漁っているようだ。当然ながら我が家にはもう本棚を入れるスペースなど何処にもない。それでも父は本を処分できないどころか雪達磨的に蔵書を増やしており、その度に妻から「無駄金を使うな」と怒られている。
「それで、ある時になると神様が降りてきて、若い子供なんかをさらっていくんだって。人の肝を食らって、長生きするために」
「整えられた神道の神って感じじゃないね。山神とか……天狗とか。古い信仰って感じがするけど」
「それだけじゃねぇよ」
 祖母は夜の帳を見つめていた。
「神様に呼ばれる子だっているんだよ。お役目を果たすために、連れて行かれる奴だっているんだ……神様のやることに逆らっちゃいけねぇ。自分の番が回ってこないようにお祈りして、お鎮めするだけのことさ」
 老婆が言葉を吐いてしまうと、その場は不思議な沈黙に包まれた。
 神隠し。
 立ちこめる霧。
 神のいる桃源郷。
 関連性のある要素が静寂と共に噛み合って、闇を一層深くしていくかのようだ。
「ふむ……ちょっと、煙草吸ってくる」
 父が立ち上がり、母は卓袱台に肘を突く。
 命は、引き続き箸を動かそうとして、茶碗にも汁碗にも何も残っていないことにようやく気づいた。