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 ……トンネルを抜けると、夏は一時的に遠ざかった。
「わぁ、なにこれ。真っ白……」
「すごい。別世界みたいだな」
 沈黙していた少年は少しばかりの驚きともに、窓の外を見遣った。
 一面を覆う霧。緩やかなそのヴェールの中央を、二両編成のディーゼルカーが駆け抜けていく。
 汽笛を二度。待ち人のいない小さな踏切が、ドップラー効果とともに瞬く間に遠ざかっていく。
 おんぼろ列車にふさわしいというべきか。最近では珍しいことに、車内空調設備が整っていない。さっきまでは天井の扇風機が無為に熱風をかき混ぜているだけだった車内だったが、季節に似つかわしくない冷気が吹き込んできた。
「お天気、悪くなりそうね」
「この分だと、山の天気は変わりやすいって奴をしっかり体験できそうだ」
「あなた、窓を閉めてくれる?」
「わかった」
 その車両の旅人はわずかに三人。四人掛けの席をそれぞれ二人と一人で使うという贅沢さだ。二人組の方の一人が、通路を挟んで向こうの席に座っている少年にいう。
「ほら、命(みこと)も窓を閉めなさい。寒いじゃないの」
「いーよ、どうせすぐ暑くなるんだし、今まで暑かったんだから丁度良いだろ」
「閉めなさい」
「ちぇっ」
 分かってる。母親は意見を聞くポーズを取っても、決して聞き入れることはない。もう十三年もつき合っているのだから、それぐらいは自分にも理解できる。だからこっちもポーズだけだ。文句を言われる筋合いはない。
 菅原命は、いつものように溜め息をつきながら、錆び付いた重たい窓をゆっくりと降ろした。
 大体、今回の里帰りだって目の前の母親がごねたから付いてきただけのことで。元々、夏休みは塾と宿題のハードスケジュールの中に埋まっているはずなのに。
 夏休みの宿題は前半に終わらせてしまうというのが命のモットーだった。この誓いは小学生から今まで欠かさず守っている。八月二十日を過ぎてからあたふたと宿題を始める友達をバカにするのが残暑の楽しみなのだ。どうせこんなに暑い夏なんて、外へ出たって疲労するばかり。宿題を忘れるほど全力で遊ぶ奴らの気が知れなかった。
 それを、ウチの親ときたら、
「宿題くらい一週間もあれば出来るもんでしょ? 妙に意地はるんだから……いつまで経っても子供よね、命は」
 どっちが子供なんだよ、と思う。
 窓を閉めて、もう一度溜め息。
 貴重な一週間が、携帯の電波も届かないようなド田舎で浪費されてしまう。俺にクーラーとアイスとプレステの夏を返してくれ。
 小刻みに揺れる列車のきしみ。
 ふと窓の外を見ると、通り過ぎる向日葵畑に舞う一頭の蝶が見えた。
 少し大きく、白くて赤い蝶。
 ……一瞬で遠ざかり、見えなくなる。
「命、みっともないからもうちょっときちんと座りなさいね」
「誰も見ちゃいねーよ」
「そういう問題じゃないでしょ。ねぇあなた」
「母さん別にいいじゃないか」
「もおぉ、あなたがそんなことだから」
「お客は俺達しかいないんだしさぁ」
「もう。この父あってこの息子ね」
 よく言うよ、全く。
 今日幾度目かわからない溜め息をつきながら、両親の方に向き直る。努めて気にしないことにする。つき合うだけ無駄だ。
 他のことを考えようとして、脳裏には。
 なぜか、さっき垣間見た蝶がおぼろげに舞っていた。
(……あの蝶、初めて見たな)


        ☆


 降り立った無人駅には、祖母の近隣に住んでいる顔見知りのおじさんが、レジャーユースのピックアップトラックで待っていてくれた。どでかい車体のわりに窮屈なインテリアで息が詰まる。いっそのこと吹きさらしの荷台にでも放り込んで欲しい気分だったが、そういうわけにもいかない。
 周囲には依然として濃密な霧が立ちこめている。時を追うごとに濃くなるような気配すらある。
 走り出した車内では、いつものように母親がよく笑い、父親はぼんやり黙っていた。
「……それにしても山下さん、いつも本当にすみませんね。母が無理ばっかり押しつけてるみたいで」
「あー、東原のばーさまは年中元気だから、なーんでも自分でやっちまうでな。俺達は別に大したことやってないよ」
「元気なのはいつものことなんで良いんですけど、元気すぎるというか、年甲斐もなくやんちゃ過ぎるというか……それでも、これだけ山奥でしょう? 年齢を考えると、何かあった時に困りますし」
「そうだけど……あの人に何かあるってのがなかなか考えられなくてよぉ」
 父親が小さく頷く。
「それはそうなんですが。聡子とも話すんですが、やはり出来ればいっしょに住めればなぁと思っているんです」
「でもね旦那さん、あの方は多分一生あの土地を動きそうにないんじゃないですかねぇ」
「ですよね。頑固なところが本当によく似た親子ですよね」
「あなたっ!」
「ああ、ゴメンよ聡子」
(なに、漫才やってるんだよ)
 命は窓の外を見ながら、我関せずという立場を一貫して守っていた。
 大体、家族の名前からしてギャグなのだ。
 菅原誠。
 菅原聡子。
 そして菅原命。
 語呂がいいにもほどがある。自分の声が低いこともあって、電話口でなんど父に間違えられたことか。このノリだけ夫婦なら、単に語呂がいいって理由だけで子供の名前を決めてしまいそうな雰囲気すら漂っているが、自分の名前の由来を確認するのはさすがに怖かった。
「しかし、命くんは大きくなったねぇ。今いくつだったっけ?」
「十三です」
「そうか、もう中学校上がったんだよね。早いねぇ」
「身長ももっと増えてくれれば格好いいんですけどね。神様って不公平だと思いません?」
「母さんやめてよ」
「心配しなくても、これからどんどん伸びるからよぉ。格好良くなれるってきっと。旦那さんも格好良いんだし」
「まぁお上手ね」
「そうかなぁ」
「あなた、誉められてるんだからもう少し喜びなさいよ」
「…………」
 大人って、なんでこう人のことで盛り上がれるんだろう。人が気にしてることを目の前で遠慮無くいうし。こんなんだから、友達のみんなが大人を馬鹿だって思っても仕方ない。
 窓を閉めているせいか、憂鬱な気分は加速度的に強まっていく。
 外は霧の中。まだ日は高いはずだが、同じような森が何処までも連なる中で、まるで真夜中にメリーゴーラウンドに乗っているような感じがする。
 この状況では、目的地に着くまでは目を開けていても瞑っていても同じだ。そう悟った命は、腕を組んで瞳を閉じた。これ以上大人の世間話のネタにされるのは御免被りたかったのだ。まだ三十分近く掛かるだろうし。
 舗装のはげた道を走る車の揺れを感じるまぶたの裏の暗闇に、命はなぜかまた再び、あの赤白の蝶を思い描いていた。その執拗さに、少し気持ちが粟立っていた。


「おーおー、よく来たねぇ命」
「こんにちわ」
「ただいま、母さん」
「お前は帰ってこなくて良いんだよ」
「もぅ、挨拶ぐらいきちんと返してくれてもいいでしょ? 折角遠くまできたのに、第一声が憎まれ口なんて」
「都会者の娘なんてしらん」
「頑固なんだからぁ。ふん」
「あ、ご無沙汰してます、お義母さん」
「誠さん、このじゃじゃ馬は相変わらずかね」
「母さん!」
「こんにちは、おばあさん」
「命、元気しとったか?」
「はい。おばあさんはどうですか」
「わしゃこの通りだよ。まぁ娘よりは長生きするつもりだからな」
「絶対負けないもん!」
「自信がないからそういうことをいうんだよ。まったく、お前はぜんっぜん変わらん……あぁ、最近はひどい霧が続いてるからな。半袖じゃ寒かったろ? 温かいお茶もあるし、風呂も沸かしてやるからな、ゆっくりしていきなよ」
「はい、ありがとうございます」
「何この態度の差」
「聡子、まぁまぁ……じゃ、お義母さん」
「ああ、相変わらず不便かもしれんがとにかく上がりな。山下の、いつもすまんの。あがっていくかい?」
「せっかくの団らんを邪魔するのも悪いし、出直してくるわ」
「水くさい奴だのう」


 一年ぶりの祖母宅は、檜の匂いが微かに漂っていた。
 年降って黒ずんだ梁が剥き出しの天井に、淡々と揺れる壁掛けの振り子時計。皆、何もかも全然変わらない。そういえば、一年という時間を越えたにもかかわらず、祖母には何一つ変わったところがなかった。都会の老人達に比べて遙かに健康的で、背筋もしっかりしている祖母にとっては、老いすらも進行せず、完成されたものなのかもしれない。ここはもしかしたら、本当に時が止まっているのかも知れない、などと……。
 周囲に霧が出ているせいか、そんな錯覚すら抱かせるような神妙な雰囲気だ。
 命はしばらく畳に転がって、縁側の向こうの村を見下ろしていた。全部で二十戸ほどの集落が山間に広がっている。霧以外に違和感を感じて、ふと思い立った。蝉の声が全然しないのだ。この冷気では仕方あるまいが。
 しかし、これではまるで、
「……違う世界みたいだな」
 今年は全国的に冷夏だったが、それでも都会は曲がりなりにも夏だった。日差しは強く肌が痛い。
 だが、ここは違う。夏は、伸ばした指の先にはない。
 ボーン。
 壁掛け時計が一度鳴った。午後二時半。
 体を起こして思い立つ。
 三和土の方に顔を出すと、祖母が早くも夕食の準備を始めている。
「どうした命、もう腹減ったか」
「ううん……ちょっと、車に酔ったのかも。今は何も欲しくないから」
「弱いな。その辺は誠さんに似たのかね? 薬をやろうか」
「あ、大丈夫、です……父さん達は?」
「近くまで出るんだと。こんな代わり映えしない村でで見るもんもないだろうにね。格好だけつけるんだからあの子は。大体この村出てくってあれほど駄々こねたのはあの子じゃないかねぇ」
「はぁ」
「母親に似たら大変なことになるよ。親に縛られず好きなことをやって、きちんと勉強して、頑張りなよ」
「……はい」
 なんだかんだいいつつも、この母子は似た者同士なんだと思う。まだ見たことはないけど、多分この二人なら本気で喧嘩もする気がする。でもそれはきっといいことなのだろう。
「あの、二階に上がってもいいですか」
「暗いから気をつけな……すこし畳が悪くなってるからな。晩飯までには体調直しておくんだよ」
「はい」
 一応了解を取って、二階に登る急な階段をゆっくり上がる。吊された裸電球のスイッチをひねると、埃が降り積もった部屋が淡い橙色に染まった。
 最初にこの部屋に上がった時、暗くて怖くて、背も足りなかったから電灯もつけられなくて大泣きをした。二回目に上がった時から、ここは命専用の秘密基地になった。そして今……思い出は遠く、ここはただの狭く汚い部屋だ。
 隅の本棚には汚れた数冊絵本が並んでいる。外に持ち運んで所構わず座り込んだから泥が付きっぱなしなのだ。手にとって土を落とすと、かすかに草むらの匂いがした。
 その横には、ずっと昔からある昆虫標本の箱が置いてある。命が生まれてまもなく亡くなった祖父の持ち物だったという。写真でしか顔を知らない祖父に感慨を覚えるよりも、間近にみるピンで刺された昆虫のディティールの不気味さに、鳥肌を立てた記憶だけが蘇る。そのうちに自分だけの標本が欲しくなって、祖母に買ってもらった虫籠と虫取り網を持ち周囲を駆けずり回ったのだが、もうそれはずっとずっと昔の話だ。
 数年前なんて、夢よりも遠いよ。
 命はそう感じていた。
 標本を手に取る。並ぶオニヤンマ、赤蜻蛉、蜻蛉、クマゼミ、カナブン、そして蝶。何処にでもいるような小さな命の残骸が、展翅されて並んでいる。揚羽の色がくすんでいるのは、裸電球の色のせいだろうか? あの頃はもっと生々しく見えたものだったが
 ……………………。
 ―――振り向く。
 窓の外に蝶は飛ばない。
 自分は一体、何を求めているのだろう。