その湖の中央には、小さな島がある。
そしてそこにはいつの頃からか、瀟洒な館が建っている。
ゴシック建築の名残をとどめ、十九世紀末の様式を模しながらも、何処か東洋風にアレンジされたその姿は、和洋折衷の見本ともいえる融合を果たしている。現代に生きる人間が目にすれば、素直な驚きと去りし時代への懐古を夢見ることになるだろう。
だが。
外見的にそうありながら、この場所はしかし……そういう人間的な感傷や感慨とは全く相容れない存在である。
人が住むところを模してありながら、人を完全に拒絶するような、えもいわれぬ雰囲気。白く立ちこめた霧を常に纏い、真実を永遠に覆い隠す。
端的に奇妙な事実が一つ。これだけ豪壮な建築物にもかかわらず、この建築物に足りないものがある。
それは光を採り入れるべき、窓の絶対数だ。
各部屋に備わってしかるべき窓の数が異様に少ない。住居としてゆがめられた目的と、緩やかにたなびくような悪意。
巨大な玄関も固く閉じられ、館の住人は光を欠片も望んでいないかのように、沈黙を守っている。
そして―――
この館をこの館たらしめ、過剰なまでに飾り立てるもう一つの要素は。
この館の、その色は。
チリーン。
チリーン。
「 おやすみなさい わたしのむすめ
あけないよるに ゆめを みて 」
「 あかい あかい
あかい つきが
あかく たかく
あかく そまる 」
長く長く長く、カーペットが整然と伸びる。埃一つ纏わず柔らかく深く。
暗く佇むそんな廊下にまどろむのは、子守歌。
澄んだ声だ。慈愛に満ちた女性の声。
外からはほとんど見えなかったはずの窓が無数に並ぶ。そこから三角定規のように鋭角的に洩れ落ちるのは、染め上げられた月の光。炎をともすべき燭台には、もう長い間にわたって蝋燭が立てられていない。その代わりを、月光は色を以て勤めているかのようだ。
チリーン……チリーン。
無人の廊下に鳴り響く音。
その呼び鈴は誰を呼んでいるのだろう。
主は求めている。
自分の足下に跪き、今夜の乾きをいやしてくれるその存在を求めている。
「 やさしいあかを
おいしいあかを
たくさんのんで
たくさんゆめみて 」
「 おやすみなさい わたしのむすめ
おやすみなさい かわいいむすめ
にどとまいごにならないように
わたしのもとからきえないように 」
廊下を進む。
仕切られたドアがいくつもいくつも、勝手に開いては閉じていく。
無音で開く扉から、白い霧がこぼれ落ちていく。ドライアイスの中を進む新郎新婦を模して。もちろん、そこに祝福はない。
沈黙に守られた行進。
………いや、違う。音は存在している。
耳を澄ませば、かすかに聞こえる駆動音。
分針と秒針の輪舞曲。
何処から聞こえるのか?
遠くなり、緩やかになり、漣になっていく。
それに導かれるように、緋色のカーペットを敷き詰めた廊下を進む。
月の光が強くなる。
月の光が影を落とす。
その月の、その色は。
「 あかく あかく 」
チリーン。
「 あかく ねむれ 」
チリーン。
「 あかく あかく
……おねむりなさい…… 」
呼び鈴の音が止んだ。目的の部屋に辿り着いたからだ。大きな扉の前に影が落ちる。
その扉が軋み、ゆっくりと開く。
大きな部屋だ。ただ窓は一つ。
その窓は上方にあり―――
暗い部屋の中央に、ロッキングチェア。
端には硝子の戸棚が並び、
その中に納められた人形達が笑う。
口元から流れ落ちる血を恥じるように、
ゆっくりと口を押さえて。
揺り椅子は揺れる、
誰かが赤子を抱いている、
誰かが歌っている、その子守歌。
「 にどとまいごにならないように 」
チリィン……、
「 ……あかく あかく 」
その誰かが、もう数え切れないくらいそうしてきたように、今夜もまた月を見上げる。
赤子をいとおしむように抱きながら。
天窓に掛かった、巨大な満月。
その色は。
「 ……おねむりなさい…… 」
深い深い廊下の突き当たりで首を吊った人形が、不意に小首をかしげ、こちらを見て満面の笑みを浮かべた。
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