エピローグ



 ……あいつが指定してきた待ち合わせ場所は、キャンパスから少し離れた人気のない海岸通りだった。普段、沢山の人間に囲まれている奴からすると、ちょっと想像しにくい。もちろん、こちらとして不満がある訳でもないが。酒宴の席でなし崩しというのもいつも通りで味気ない気がするし。
 古びたコンクリの学舎に視線を送りながら歩いていくと、所々に黄色い砂の混じったアスファルトが続く。防砂林でも止められない、長い長い浸食の歴史そのままに。やがて、道はおもむろに褪せたコンクリートの防波堤に遮られる。海岸沿いに続く人工の壁に登ると、あいつが眼下の砂浜で沖へと視線を投げているのが見えた。秋の潮風は多少冷たく、その孤影はどこか寂しげに見えた。その意外さがすっと胸に染み込む。
 軽く手を挙げて合図を送ると、妙にいそいそと階段を駆け上がってくる。
「早かったな」
「お前が一人で寂しそうにしているからな」
「実は結構多いんだぞ、俺が一人で惚けてること。詩人なんでな」
「うそつけ」
 それには答えず、奴はポケットからぬるくなったコーヒー缶を取り出してこっちに投げた。プルトップを開けると、かろうじて湯気が見える。安っぽい甘さに何故か安心させられる。
 冷たい風が心地よかった。
「なぁ」
「なんだよ」
「あれ、面白かったか? もう読んだんだろ」
「……まぁな」
 先日、こいつに渡された一枚のフロッピー。その中に入っていたのは、一編の物語だった。決して独創的でもなく、技巧に優れているわけでもない、ありふれた恋と冒険の物語。こういう奇妙な形で目に触れる機会がなければ、縁もなかったであろう小さな作品だった。
「お前も読んでみるといいよ。暇つぶしにはなるだろうから」
「その分じゃ、読書家様のご期待には添えなかったようだな」
「面白くなかったとはいってないだろ。少し気になることもあるし」
「気になること?」
「……………………」
 これを手渡される時、奴はなんと言ったか。書き手は「伝承や伝説を渉猟して物語を書いている」と言わなかったか? だが、このような伝承は普通の日本神話には絶対に見あたらない。単にフィクションではなく何処かの地方の伝説をアレンジしたものならば、それは一体どこのものなのか? 
 いやむしろ……もしフィクションであったとしたら、「幻想郷」という楽園に何故、かくも重きを置いて設定されなければならなかったのか。少年少女の恋物語よりも、幻想郷に残された少女達のための物語のように感じされてしまう。
 思えてしまうのだ。
 作者が描きたかったのは、少年少女の苦闘に充ちた恋の物語ではなく、その器……少女達が織りなす幻想郷という世界そのものではなかったのか。どのような物語でも美しく飾り得る、紅の酒杯ではなかったのか、と。
 だから多分、幻想郷の物語はこれでは終わらないのだろう。いくつもの物語がこの酒杯に注がれては消えていく。その繰り返しが、やがて酒杯を際だたせ、注がれた酒をも一層旨くしてゆくのだろうが。
 もちろん、真正面から描かれた恋の物語は、俺の胸を抉ってくれるほどには心に残ったが、多分まだ、作者の思うとおりの表現にはなっていないのだろう。そのもどかしさが伝わってきて、好感が持てたのもまた事実だった。
 なにより、古い神話だけに限定せず、すべての幻想を昇華する里という舞台装置は魅力的だと思った。作者の能力すら超えて、放っておいても豊かになる楽園。実際にあってもくれてもいいとすら思える。
 ……沈黙してしまった俺を見て、奴はぷっと吹き出した。
「なんだよ。失礼な奴だな」
「いや、すまんな。その真面目腐った顔が気に入って、俺はお前に声を掛けたんだなって、しみじみと思い出してさ」
「別に。これが普通の表情だから仕方ないだろ……それよりも、この間の約束。お前の彼女について聞かせろよ」
「解ってるって。だからここに呼んだんだろ」
 その言葉に呼応するかのように、軽くクラクションが鳴った。振り向くと、外国産のハッチバックが静かに走ってきて、眼下の道路にゆっくりと止まる。運転席から出てきたのは、長い髪の綺麗な、少女といっても通じる女性だった。
 奴は壁から飛び降り、彼女の脇に立って俺に紹介する。
「ほら、こいつがいつもいってる、本ばっかり読んでる変わった奴」
「……どうも」
 俺が礼をすると、彼女はぺこりと頭を下げ、それから非礼な紹介の仕方に文句を小さく付けた。言葉数が少ないのは恥ずかしがっている訳じゃなくて、彼女本来のしゃべり方らしかった。
 なるほど、こいつが付き合う女性にはぴったりな気がした。どこがとはいえないが、なにかぴったり枠にはまっている気がする。あまりにも空気のように決まりすぎていて、羨ましいという感情すら湧かない。沢山の友人に囲まれている普段よりも、ずっと自然な感じがした。
 酒宴の席で自分や彼女についてあまり語りたがらないのも、彼女が本当に好きだからなのだろう。なんだか悔しいが、奴の意志は認めざるを得ない。
 軽く喋ってから、俺はふと、車の荷台にくくりつけてある長い袋に気づいた。
「なんだよこれ。剣道、にしちゃ長いけど」
「ああ、それ和弓だよ。彼女が弓道をずっとやってるからさ。結構な名手なんだぜ」
 彼女が恥ずかしがって、奴の裾を引いている。
 ……弓か。
 妙な符号だった。
 少しだけ、天を仰ぐ。
 青い空、海、少年と少女、空を駆ける一筋の矢――。
 偶然といえば単なる偶然だし、
 真面目に論じるのも馬鹿馬鹿しい。
 書き手が二人の仲を知っていて、設定に使っただけという可能性もあろう。
 だけど、
 そんな結論ではなんだか勿体ない気がした。
 ――ああ、そうか。
 これが、幻想なのかもしれない。
 いつかどこかで昇華する幻想。
 幻想郷からこぼれ落ちた、夢。
 一度考え始めると、イメージが回転を始める。大学内外で、友人との付き合いや様々な活動を通じて八面六臂の活躍をするこいつに、何故か森の中を疾走する若い狩人の姿がだぶってくるから不思議だ。
 そう考えると笑いが止まらなくなった。
 最初は口を押さえていたのだが、しまいにはみっともないことに腹を抱えて笑ってしまう。俺の豹変に怪訝な顔をしていた二人だが、奴は肩をすくめて彼女にこういった。
「な、変な奴だろ」
 彼女も微笑みながら肯定してくれた。
 別に悪い感情を抱かれている訳でないし……まぁ、光栄な話だ。


 とりあえず、フロッピーの中身をきちんと読むように念を押して、二人と別れた。
 二人の乗った車が、テールランプを光らせて曲がり角に消えていく。俺はそれを見送ってから、もう一度防波堤に登った。
 ――幻想郷。
 響きの良い言葉だ。
 信じるに足る場所。
 いつか、俺の失った恋が流れ着き、幻想に昇華することもあるのだろうか。紅と白に彩られた酒杯を潤すことがあるのだろうか。それを任せるには頼りない巫女が守護しているようだったけれど。
 それでも、いつか。
 誰かの目を楽しませる一輪の花になる日が来るのかもしれない。それはそれで、美しくも眩しい幻想だった。
 ……今度は奴に、あの物語の作者に会わせて貰えるように頼んでみよう。酒の味がいつもと違うものになるだけでも、儲け物だ。そして、多分それ以外の収穫もあるに違いない。理由もなくそう、確信できてしまう。
 今から無性に楽しみだった。


 轟音が背後から近づいてくる。
 天を仰げば、蒼空を真っ二つに割って、大型の旅客機が飛んでいく。真っ白い航跡が飛行機雲となって、真っ直ぐに一条、遙か沖へと伸びていく。
 蒼い空と、青い海で構成された水平線を射抜くかのようなそれは、
 かつて誰かによって放たれ、
 幻想となって甦る、
 愚直なまでに真っ直ぐな、
 恋の矢のように。