夜半。
この豪雪では除夜の鐘も響きはしないだろう。あるいはもう年が明け、鳴り終わってしまったのか、最初から打ち鳴らされていないのか。もっとも、幻想郷に百八つの煩悩があるのか、またそれを払おうとする殊勝な者がいるかどうかも定かではない。
ここはマヨイガ、一対の松明が掲げられた紫の屋敷の門前。閉じられた大門の脇、小さな木戸から魂魄妖夢が現れた。門に向き直り、小さく一礼する。
「お世話になりました」
腰には愛刀が二振り、しっかりと提げてある。慣れ親しんだその重みが幾分心地よい。
迷いが晴れた訳ではなかった。むしろ混迷の霧は深まっている。何を成せばいいのか。自分はいつもそうだ。少し解った気になって、必死で駆けて、彷徨って、また間違って。
だけど――
今はただ、手の届くところにある真実を追い求めよう。自分には結局、それしかできない。自分の信念を今一度込めてみよう。
僅かな光明は、幸運にも少しだけ手に入った気がする。マヨイガに立ち寄ったのは正解だった。
……吹雪く夜空を振り仰ぐと、遙か遠方の闇にちかちかと、瞬く閃光が断続的に浮かんでは消える。
見紛いようもない。あれは、己を主張する人妖の弾幕……戦の灯火。
今、自分が向かうべき場所。
吹き下ろす大気の下、無力な木の葉のようにくるくると、アリス・マーガトロイドが流されていく。彼女に何度も攻撃を仕掛ける氷雨追沫は、翼を広げる隼のよう。アリスの小さな人形が、体に似合わぬ大きな剣を必死に振りかざして、氷雨と切り結んでいる。
人形に前衛を任せてアリス自身が距離を取ろうとすると、周囲から氷雨と同じ顔の少女たちが取り囲み、アリスの間合いにさせてくれない。本人達によって「弾幕ごっこ」と称される幻想郷の人妖の戦闘様式は、人を魅せることこそ第一命題であって、実利本位で敵を倒すのみである襲来者の一辺倒な攻撃とは噛み合うはずもなかった。アリスや魔理沙が氷雨の攻撃に苦慮しているのは、その辺りの認識の相違からも生じている。
「優雅でも勇壮でもない攻撃なんて、あんたのご主人は本当に余裕のない心の持ち主なのね!」
「主様を侮辱する物言いは許しません」
再び急接近し、振り下ろされる氷雨の剣。
断ち切られた金髪が数本舞う。
アリスはそれを魔道書で受け止め、お返しとばかりに氷雨の腹を蹴り上げる。完全には防御しきれなかった氷雨が吹き飛ぶ代わりに、周辺で取り囲む少女達が一斉に殺到する。
アリスは胸のポケットに手を遣る。
「なによ、もうとっときの一枚しか残ってないじゃない!」
氷雨を仕留めるべく残しておいた呪符だが、敵の数は一向に減らないし、空中なのに逃げ場はない。なによりその魔法自体が訳あって、あまり使いたくはない種類のものだった。
だがもう選択の余地はない。
人形師が覚悟を決めた、その時。
極細の光、増幅された翠の単一光が、アリスの背後から夜を割いて周辺の少女達を薙ぎ払った。ついで、雪に入り交じって夜空を流れる魔法の銀河が、少女たちの輪をこじ開けていく。
雲霞のようにアリスを取り巻いていた少女達の輪が破れ、そこに黒い影が箒にのって飛び込んできた。
「魔理沙!」
「なんだアリス、その恰好は。ボロボロにも程があるぜ。そういうのが流行のファッションだというのなら敢えてとめはしないが」
「向こうでのバカ騒ぎで撃墜されたと思って、喜んでいたのに」
「生憎とな、私はそれなりにしぶといんだよ」
例によって魔法球をスクエアに展開した魔理沙は、堕天使のコピー達と距離を取りながら、そっと呟く。
アリスにだけ聞こえるように。
「残念な知らせがあるぜ」
「今度は告知天使ごっこかしら。趣味が悪いにも程があるわ。大体この状況以上に悪い出来事なんてあるの?」
「まぁ聞け」
魔理沙の口調が、悪戯めいた。
「お前の人形はもう帰ってこないってさ。自分でそういってたらしいから、間違いない」
「………!」
アリスの瞳が驚きに大きく開かれる。
「私としてはお前の努力が骨折り損だったわけで、嬉しいことこの上ないけど」
「あんたは別のことが嬉しいんでしょうに?」
「何のことだかしらねえな」
アリスが覗き込むと、魔理沙の目の周りに泣きはらした後がうっすら赤く残っているのが見て取れた。ほんの少しだけ、良い気分になる。
「ま、他の女の子に浮気するような人形に未練もないわ。勝手に何処へでも行くと良いのよ。行けるものならね」
「その点は残念ながら同意してやる。どうにも相性の合わない奴ってのはいるもんだからな」
そういって、魔理沙は頭を上げる。
「そう……特にお前みたいな奴のことだ」
同じ顔の少女達に囲まれて、傲然と見下ろす氷雨。
「あなた達が何度立ち向かっても同じ事です、弱き者たちよ。あなた達では私を超えることは出来ない。それが創られし時からの定め」
「強さ弱さに拘りすぎじゃないか? そんなものは不変でも永遠でもない。負ける時もあれば、勝つ時もある」
「位階秩序は永遠であるべきもの。上にある者が下の者を導き、下の者が上の者を求めるからこそ、世界は完全であり、秩序が保たれるのです。皆の力が変動すれば、それだけ世界に悲しみが充ちる」
「エデンの園のリンゴを食うなっていうことか……あんたらの思考は数千年前から本当に変わらないぜ。それについてだけは尊敬してやる」
「蟠桃園の桃の方が美味しそうだけどね」
魔理沙は吐き捨てる。
アリスは再びグリモワールを開く。
だが、彼我の力の差は大きい。肩で息をするアリス。極寒の中で汗を感じる魔理沙。もう何度も乗り切ってきた修羅場だが、今なお幻想郷に増加する異界からの訪問者達を見て、緊張せずにはいられない。
「あいつは私がやっつけるんだから、手助けぐらいはしなさいよね」
「個人的な恨みもあるからな。アリスは身の程を知ってサポートに回れよ」
「そっちこそ」
強がりもそこまでだった。
天使達が再び一斉に襲いかかる。
二人の魔法使いがスペルカードを構える。
一撃に賭けるつもりだった、
――一瞬の、違和感。
その後、
直線的に突進してきた天使達が、勢いを失い放物線を描いて全て森へと落ちていく。
「な……!」
「どういうこと」
二人が闇の中凝視すると、墜落していく少女たちの首に全て、同じ形のナイフが突き刺さっている――。
「何をぼさっとしているのかしら」
上空から降ってくる声は、吹雪の中でも聞き覚えのありすぎる存在感を振りまいていた。見上げれば、臙脂色のマフラーを風になびかせたメイドが背を伸ばし、腕を組んで中空に屹立している。
おそらく幻想郷最強のメイド。
時を渡る悪魔の従者。
十六夜咲夜だった。
氷雨が一瞬離れて、咲夜と対峙する。
「――貴女は誰ですか?」
「あんたの世界を壊した張本人の召使い、かしらね?」
その声に呼応するかのように、遙か遠くに緋色の閃光が走ったかとおもうと、幻想郷の端から端まで真紅の槍が飛翔した。世界を貫通した。雲の下の低い夜空に充満していた侵入者の群れが、予言者が割った海の如く分断される。
咲夜が視線を流してくる。
「そこの黒いのとそのおまけ!」
「だ、誰がおまけよ!」
「いつまでもお嬢様にあんな雑魚の群れを相手して頂けると思わないでね。さっさとこんな奴蹴散らして、新年の準備しなきゃいけないんだから、もう少し本気を見せなさい!」
「本気っていったって」
「……いってくれるな、咲夜」
行使される圧倒的な魔法力に震えるアリスと、全く怖じ気づかない魔理沙。それぞれが残された魔法を展開させる。アリスは必死で、魔理沙は凄みを見せる笑顔で。
再び戦闘か再開される。
氷雨は二人を周囲の僕に任せ、無言で咲夜に斬りかかった。逆手に持ったナイフで受け止める咲夜。尊大に歯を見せて笑っていた。明らかに挑発していた。
「私を倒したければ、あんたの時間すべてを賭けて掛かってきなさい。でなければ」
「咎多き罪人よ、貴女の罪は死を持ってのみ許されます」
「おあいにく、私の魂は私の時間と一緒に、紅い悪魔に売約済みなのよ。それとも……あなたは既に終わっているのかしら」
「妄言は聞こえません」
氷雨は背後に突如として無数のナイフが出現しても表情を変えない。幾人かの天使達が察知して、氷雨の代わりにナイフを受けるからだ。彼女としては当たり前の行動だった。
咲夜はそれを見て更に笑う。
「なら、いつまでもそうしていなさいな。だけど、ここはあんたの世界じゃない……ここは幻想郷なのよ。叶わないことが叶い、叶えたいことが叶わない場所。あんたの感情と行動は徒労に終わるでしょう……幻想郷の意志によってね」
幻想郷全体に広がっていく、何万という天使人形の大群。その一部は、幻想郷の端に陣取ったレミリア・スカーレットの攻撃によって叩き落とされているが、あまりにも数が多い為にその全ては駆逐できない。流れてくる水を槍で堰き止められないのと同じ事だ。
ある一群が、人間の里を発見し急降下する。
だが、瞬時にまばゆいばかりの光の檻が里全体を包み込んだ。神々しいまでに蒼い光。連綿たる人間の歴史を守ろうとする強靱な意志ある者の仕業だった。
それを、遠く離れた紅魔館の屋根の上から眺めている少女がいた。額に手を遣り、遠くを見るポーズをしている。
「……例外以外の人間にも強い人がいるんだねぇ。少しだけ驚いちゃったわ」
彼女にとっての例外は、自分の上司である紅魔館のメイド長と、自分を度々からかいにくる黒い魔法使いと、博麗神社の茶飲み巫女の三人を指す。逆にいうと、この三人以外に紅魔館を訪れる人間などいないので、知らなくても無理はない。
門番なんてやっていると見識が狭まってしまうのかもしれないと、思わなくもない。館の地下には無駄に立派な大図書館があるから、知識だけは手に入れられるのだが、経験が伴わなければなぁと溜息をつく。このあたり、やはり大物への道は険しそうである。
敵の群れが一つ、彼女を見つけたのか大挙して急降下してくる。ようやく彼女にも出番到来らしい。
「……さて、私の実力が井の中の蛙なのかどうなのか、試練の時が来たわね」
少女は風に向かいすっくと立つ。
愛用の鉾を水平に構え、精神を集中して雪の夜空を、落ちてくる闇を見上げる。
彼女の足下に、七色の極彩色が縁となって描かれる。回転する。それが彼女の力、光を以て正道を成す真っ直ぐな力。
名乗りを上げる。
「私の名前は紅美鈴、この紅魔館の門を預かる者。お嬢様がお出かけの今、何者も通す事は出来ません……我が鉾の光となって新しき世を照らしなさい!」
同時に鉾で天空を薙ぎ払う。
そこから放たれる円形の虹が、無数の少女達をかき消し、輝かせる。
その旋風、戦迅にして美麗。
彼女は、極彩颱風の中央に輝く北極星。
「……閉じよ、異界への門。再生の春から豊穣の秋へ、伸びよ翡翠の夢。静かに眠るその最後の瞳、死者の息吹、還元する魂、フォルテース・フォルトゥーナ・ユウァット」
カンテラを提げたパチュリー・ノーレッジが、瞳を閉じて呪文を小さく唱えている。
暗澹とした森の中。雪に埋もれた闇。
そこは、異界の者たちが進入してきた大穴だった。と、天から巨大な魔法陣が回転しながら舞い降り、大地に開いた傷口をゆっくりと埋めていく。紫の蓋。穴に収まった瞬間、魔法陣は一際大きな光を放ち、ついでそこから間歇泉そのままに大きな水柱が立ち上がる。魔女の律する法によって、御諸空夢が大穴を開ける以前の姿へ、森の中の名もない泉へと戻ったのだ。
大きな蝙蝠傘を開いて、跳ねる水しぶきを避けるパチュリー。少し寒さに震え、普段も病的な肌は雪よりもなお白い。病弱で普段は引き籠もったままなのに、よりによってこんな雪の夜に出掛けなくてはならなかった彼女は、彼女の基準に於いて非常に疲労していた。
「……早く帰って……あったまってねなきゃ……」
だが、大規模な魔法を使ったせいか、身隠しの魔法の効力が切れ、パチュリーのまわりにも天使を模した少女たちが沢山集まってくる。一斉に斬りかかってくる。
不幸なことだった。
「……………邪魔をするの? あんた達なんてたいそうな準備はいらないのよ? それでもいいのかしらね」
もちろん、襲撃者たちにとって。
パチュリーは天に浮かび上がった。周囲に被害をもたらさない為だが、それすらも考えるのが面倒くさい。どの魔法でも良かったが、とにかく寒かったので、とりあえず取り出せる一番暖かい魔法の呪符を手にした。
寝ぼけ眼をしばたたかせながら、その名を呟く。
「日符……『ロイヤルフレア』」
――夜空に巨大な太陽が現出する。
雲に炎を照り返す。
焼き尽くす。
全てを。
戦っていたのは彼女たちだけではなかった。
幻想郷のあらゆる妖怪、
強き者も、弱き者も、
少ないながら力を持った勇敢な人間や、
面白半分に飛び立った妖精や、
幻想が固まっただけの精霊や。
幻想郷を構成するすべての者たちが、
降臨する天使達を迎え撃つがごとく、
様々な色の光を帯びて、
プリズムのように絡まり合いながら、
夜の幻想郷へと飛び立っていく。
襲いくる闇の叢雲を蹴散らし、薄めていく。
それはまるで、
幻想郷それ自体が、異界から溢れた悲しい妄想を払い除けるかのように。
もしくは――
幻想郷が両手を大きく開いて、
叶えられない願いを抱きしめ、寝かしつけるかのように。
幻想郷の幻想それ自体が、吹雪の夜を押し上げていく。
新たな年の日の出を呼び込もうとしている。
だが、
だからこそ、
事情をほとんど知らない咲夜などは思うのだ。
「どうしてこんな大事に、あのおとぼけ巫女は出てこないのよ!」
☆
行灯を揺らさないよう努力を払いながら、番傘を差した森近霖乃助は咲夜と同様のことを考えていた。
遠くから戦いの響きが聞こえてくる。
魔法の森の最中。枝々は重なり合って屋根を作り、深い雪の中でも辿るべき道はくっきりと残っていた。
雪を踏みながら、彼は事の成り行きを回想している。
……今回の全ての始まりは、在原清弥と「そら」――御諸空夢の邂逅だった。そもそも、あの面倒くさがりの霊夢が、行きがかり上とはいえ居候を認めるなんていうのが前代未聞だったのだ。それに比べれば、今夜の大規模な異変など別段たいしたことではない。
何故、霊夢はそういう行動を取ったのだろう。
清弥たちと一緒に暮らしている間はよく理解できなかったのだが、昼間に清弥とそらが変貌した姿で香霖堂に現れた時、脳裡に大まかに閃いた、気がしたのだ。
霊夢の力は、「空を飛ぶ程度の力」である。
人は空を飛べない。だが霊夢は空を飛ぶ。それは幻想の昇華であり、幻想郷の象徴、幻想それ自体だ。霊夢が空を飛ぶことは、幻想郷に意味づけを与えることともなる。魔女も飛ぶ。妖怪も飛ぶ。幽霊も彷徨い出る。博麗の巫女が奉る幻想のおかげで、幻想郷はそのかたちを維持している。
一方、清弥によってそらと名付けられた少女の本当の名前は、御諸空夢だった。そして、清弥は紆余曲折あった後に、「空夢」から「そら」を取り戻した。幻想郷と見知らぬ異界の境界を越えて。
それはもしかしたら――現実と幻想の境界を導きもする霊夢と、同格の力ではないか?
清弥とそらは、二人の結びつきによって、その力を手にしてしまったのではないか?
更に二人はそれを使って、楽園である幻想郷を超え、自分たちの存在可能な新しい世界へと飛び出ようとしている。霊夢と同じ力で、幻想を超えようとしている。幻想郷の住人には、死と生の境界を操ったり、己の力を徒に誇示したりする困った輩がいるものの、幻想郷それ自体を否定する者はいなかった。
初めて現れた幻想郷の否定者が、博麗霊夢と同じ力、むしろ「空を超える程度の力」を備えている。これはすなわち、幻想郷の根幹に関わる危機ではないのか。だからこそ、博麗の巫女はそういう帰結を迎えかねない清弥たちを近くに置いて、そういう運命を辿らないように導こうとしたのではないか。そして、いざという時には、己の力で「空を超える程度の力」の発現を抑える役目を負おうとしたのではないか。
幻想郷を護る為に。
異界から幻想郷を害しようという輩がいても、幻想郷は自らの力でそれを排することが出来るだろうし、そもそも幻想郷の包容力がその程度で揺るぐことなどない。だが、幻想郷の中から抜けだそうという力に相対した時、果たして博麗の巫女はどう機能するのか。多くの知識を有する霖乃助にも全く想像が付かなかった。
……立ち止まり、見上げる。
博麗神社へ続く階段と、並び立つ鳥居。
雪の積もった階段を、滑らないように慎重に踏み出す。その足に幾分かの迷いがある。
――何故なら。
博麗の巫女としての博麗霊夢と、霊夢自身の感情が全き一致をしている訳ではないだろうから。博麗の力が清弥とそらを否定して排除を試みたとしても、霊夢がそれを望むとは考えにくい。霊夢は清弥たちと決別した時、後悔などの負の感情を微塵も抱かなかっただろうか?
そうではあるまい。
それに思いを馳せると、霖乃助は嘆息せずにはいられないのだった。
雪の階段に目を落としながら登っていく。
すると、途中の小さな鳥居の元に何かがある。見れば、綺麗な布に包まれたバスケットが雪避けの筺に入れられておいてあった。まるで捨て子みたいだと霖乃助は思った。
雪を払い、中を覗き込んで、
少しだけ目を細める。
考えたが、傘を畳んで小脇に挟み、バスケットを抱え上げた。
階段を上りきって大鳥居を潜ると、純白の神庭。その境内の端の、凍り付いた池の脇。
赤い傘が背を向けて立っている。
風は止み、雪が音もなく降り積もっている。
傘は人の気配に反応して、振り向く。
傘に積もった雪が散る。
「……霖乃助さん? 珍しいわね、こんな雪の日に。しかも夜中よ。女の子の家を訪ねるのはルール違反だと思わない? ご飯にお醤油を掛けて食べるみたいだわ」
「まぁ大晦日というか、新年の参拝だと思って勘弁してくれ。初日の出を神社で迎えたいっていうのは間違ってないだろう?」
「それはそうね」
あっさりと前言を翻す霊夢。いつも通り、いや、いつも以上に素っ気ない。
と、霊夢が霖乃助の持ってきたバスケットに目を落とした。
「なに、それ? 清弥さんには似合わないものだけど」
「僕もそう思う。だからこれは霊夢宛だろう」
「清弥さんが持ってきたんじゃないの?」
「鳥居の根本に置いてあったんだよ」
霊夢は、香霖堂の店主からバスケットを受け取り、賭けられたハンカチーフを持ち上げて、少し笑った。
それは、中に寝かせられていたのが、そらに貸し与えた仏蘭西人形だったから。持ち上げ、胸に抱き寄せる。何があったのか、壊れた部分があり、そこを丁寧に縫合して修理してあったのがすぐに解った。
「霊夢の人形なのか」
「そうだけど……しばらく見ない間に偉く美人になっちゃったわね、この子。私にはもう似合わないわ」
「人形とかに関わらない方が良いぞ。大抵は危険なものが憑いているし、一度手を出したら捨てることも出来ない」
「私を誰だと思っているの? そのくらい百も承知よ。それに……呪われていないものなんてこの世にはないもの。呪福の帰結は誰にも解らないけどね」
霊夢は少しだけ笑っている。
人形の顔を見つめながら。
霖乃助があまり見たことのない、心底優しい笑顔だった。
しばらくすると霊夢は、人形を抱いたまま夜空へ向き直った。
霖乃助は言葉を発しようとして、何故か飲み込んでしまう。
「何を待っているのか」とは聞けなかった。
言うまでもなかったから。
ただ霊夢の後ろで、同様にその時を待つ。
気のせいだろうか、
夜が少しだけ明るくなってきた気がする。
夜明けが近づいているのかもしれない。
☆
清弥は、無限にも思える時を耐えていた。
肉体ではなく、魂を切り刻む衝撃が、亡霊弓から流れ込み、爪を立て、血を噴き出させる。もとから覚束なかった体の感覚は消え失せているのに、激痛だけは針のむしろを転がっているかのようだ。もはや弓を手放す力もない。どんどん吸収されている。
呪詛が白い霊気を吹き上げながら、清弥の全身を覆っている。劫火の上で炙られているのに、氷結した湖に投げ込まれた痛みを感じる。いっそ気絶出来れば楽なのに、人間ではなくなった身だから、強制的に覚醒させられている。絶え間ない拷問、死の瞬間を繰り返しているようなものだった。
その清弥に抱きついて、満身創痍の躯を支えているそら。彼女にも亡霊は取り憑いている。いや、生身の躯を持っている分、彼女の方が直接的な痛みは大きいのかも知れない。それでもそらは悲鳴一つあげずに、しっかりと目を閉じ、歯を食いしばって清弥を支えている。
清弥は天を仰ぐ。
雲が幾分薄く、
夜が幾分明るくなった気がしていた。
そうであればいいと願った。
朝を待望していた。
一方。
忘れられた結界に清弥とそらが立ち入ったことで、博麗の成した古の封印は解かれ、幻想郷の奥深くに眠っていた成仏出来ぬ魂達が、幻想郷の至る所から、清弥とそらを……亡霊弓を目指して集結しつつあった。 清弥たちがいる山に向かって、白い帯が幾つも幾つも。流星のように流れていく。
そしてそれは、魔理沙達とやりあっていた氷雨にそらの……御諸空夢の位置を知らせる結果になった。
咲夜と果てなく斬り結んでいた氷雨は、突然きびすを返すと、目的の山に向かって一直線に飛び出した。追いかけようとした魔理沙とアリス、それに咲夜は、戻ってきた天使人形の大群に囲まれて身動きが出来ない。
「格好いいこといったわりにはその体たらくか、メイド長さんよ」
「それは悪役の台詞でしょうが!」
「今回の件については一部悪役でもあるんでね」
「魔理沙、皮肉をいってる場合じゃないでしょ!」
アリスが飛び出そうとして、再び数十体の敵に囲まれる。
「もう、下手な鉄砲を数撃つってのは大当たりだってよく分かったから! そこをどきなさい!」
厄介な三人を足止めした氷雨追沫は、もてる限りのスピードで空を渡り、霊魂が凝縮していく岩肌の山へと辿り着いていた。
雲は厚みを失い、周囲の雪は徐々に弱まっているのに、その山頂だけは雲が張り付いて拭われない。氷雨は厚い雲を突き抜け、とぐろを巻く闇の中、雪嵐渦巻く頂を眼前にする。
雷光が龍の形をとって暴れ狂う。
電撃と霊魂とが吹きすさぶ山の頂上で、天空を睨んで直立した鎧武者と、それを必死で抱きしめる少女を見た。
少女はこちらを気づいたのか、顔を上げて愕然とした顔をする。
天空の氷雨は酷薄に言い放つ。
「……見つけました」
地上のそらは呆然と呟く。
「なんで、こんなところにまで」
「貴女には果たすべき役割があったはずです。侵入者によって我らの世界は傷つきましたが、主様は再び我らを導いてくださるでしょう。その時、私たちには貴女の力が必要なのです。貴女は私と同じく、世界に於いて重要な役割を与えられて作られたはず……さぁ、我らの世界にもう一度赴きましょう。帰りましょう。身を汚した小さな罪など、主様は無限の愛を以てお許しに鳴られるでしょうから」
愛など微塵にも感じられない口調で、愛と定めを語る氷雨に、御諸空夢だった少女、そらは叫び返す。
声を涸らして。
もう声なんて殆ど出ないのに。
「帰らない! 私はもう、あなた方とは違うの。あなたの世界で生まれはしたけれど、私は清弥と出会い、幻想郷で育った。もう、がらんどうの自分には戻れない。戻りたくない。清弥を失いたくない!」
「自分をお造りになった主様に背くというのですか」
「……私たちは二人とも、故郷を失った迷い子。でも、それでもいいって、二人で選んだ。幻想郷でも、何処でもない場所でも、二人なら一緒にいられる。二人で生きていけるなら、どこにだっていられるから!」
「……………………」
「お願い、もう帰って! 私たちはあなたの前から消えるのだから、私たちのことを忘れて!」
「迷いの原因は、やはりその少年ですか」
氷雨は剣を天に捧げ持つ。
「やはり、完全に憂いを断っておくべきでした。我らの世界、唯一の世界の為には、情を断つこともまた愛なのですね」
「…………!」
「ならば、私が痛みを負いましょう。あなたの悲しみを引き受けましょう。それで『世界』が完成するのなら」
「やめてぇっ!」
今、清弥を動かすことは出来ない。
そら自身も、もはや氷雨に抗する力はない。
それを承知で、氷雨は剣を振り下ろした。
氷雨の左右から雲を突き破って、そらと同じ顔をした天使の模造品が飛来する。十重二十重取り囲んで、手に手に同じ剣を捧げ持って。
動けないまま氷雨の向こうの天を睨む、在原清弥を目指して。串刺しにしようとして。
そらは清弥の前に体を乗り出し、両手を大きく広げる。
大切な人を護ろうとして。
無為なことだというのに。
両の眼を大きく開いて。
その瞳から、大粒の涙をこぼして。
だが、
天使達の剣は届かない。
清弥達の左右の脇から、黄色と赤の旋風が飛び出した。軽快な足裁きが剣を叩き折り、飛来した人形の首を刈り、赤い爪をむき出した掌で胸を貫き、蹴散らしていく。
氷雨が一瞬怯む。
「ここにも、邪魔が入るのですか」
浮かんだのは、道服を纏った一対の少女達だった。
マヨイガの住人、八雲藍。
その僕にして式神、橙。
「いかなる理由があろうとも、彼ら二人が自ら選び取った試練を超えるまで、我らが見守ることになっている。物の道理を弁えぬ埒外の輩を通す訳にはいかない」
「いかないのだ!」
「橙、私の式神として恥ずかしくない働きをしなさい」
「はい、藍様!」
「いくぞ――式神『憑依荼吉尼天』」
「鬼神、『飛翔毘沙門てーん』!」
二人は光球となって弾けた。飛び出した二つの珠は滑らかなカーブを描きながら、天空を縦横無尽に飛び回る。旋風はそれ自体が強力な鎌鼬となって、周囲の敵を薙ぎ払っていく。飛び散る赤と青の妖弾に、天使達が排除されていく。
一瞬狼狽えた氷雨の背後へ、上方から二つの影が落ちてきた。振り向く暇はなかった。
「お前の相手は私が先方だぜ」
「このまま地獄まで落としてやるわ!」
霧雨魔理沙が氷雨の首に抱きつき、
アリス・マーガトロイドが氷雨の足を引っ張った。
目を剥く氷雨。哀れなことに、怒りを表現する表情を知らないため、それ以上に表情が乱れることもない。二人分の重みに耐えられず、雪肌の山へと落ちていく。
そらは必死で戦う魔理沙の姿を少しだけ捉えた。アリスの蒼いスカートが翻るのも垣間見た。そして、先程の妖狐達も――
自分たちの為に、
あちこち傷を負いながら戦っている。
助けてくれている。
私たちを見守ってくれている。
道を切り開いてくれる。
呼びかけようとしても、感情が迸って声が出てこない。涙だけが凍らずに頬を流れていく。
あと少し、
あと少しで夜明けなのだ……!
清弥はただ、朝日を探して天を睨むのみ。
そらは愛する人は必死で支える。
頑張って……お願い、頑張って、清弥。
私と一緒に、最後の弓を引いて、
私たちの道を示して。
「どきなさい」
「うわぁっ!」
落ちていく途中で、氷雨は魔理沙を振り払い、新雪のたっぷり積もった斜面へと叩き付ける。付近くで様々な衝撃波が幾度となくも放たれた結果、雪は大規模に崩れ始め、魔理沙は抜け出す暇もなく雪崩に飲み込まれていく、
「魔理沙!」
「次は貴女です」
冷たく斬りかかってくる氷雨の剣。アリスはグリモワールで受け止める。もはや本は千切れる寸前で、防具としても意味を成さなくなってきている。
「何処までも邪魔をしてくれますね……空夢様がこんな混沌とした世界に迷い出なければ、あなたがたが私の世界に現れなければ、こんなことにはならなかったのに。無為に争い、傷付け合うこともなかったのに!」
「それはどうかしらね。全ての事象が偶然だったのかもしれないし、必然だったのかもしれない。それを計るのはあんたでも、脱出者の一人も認めない、器量の小さなあんたのご主人でもないわ。もっと大きな、だけどこの幻想郷なんかには縁のない存在だけでしょうね」
「黙りなさい」
剣風一閃、
しかしアリスは、それを余裕を持ってかわしている。氷雨は、表情こそ鉄面皮の如く変わっていないが、幻想郷の強力な反撃に驚き、追い立てられる天使の軍勢が減少していく状況に余裕を失っているのは明白だった。
二人は再び対峙する。
剣を持つ堕天使の子。
人形無き人形師。
アリスの表情から皮肉めいた調子が消え、透き通るような古風な顔つきになっていく。それは自分の本来の姿。人形でありながら人形を操る、呪われた傀儡使い。
「……最初は、自分がなぜ『そら』やあんたに拘っているのか、自分でも解らなかった。在原清弥から戯れに掠め取った一場面だけの記憶なのに。それが何を意味するのかなんて解らないまま、あんたたちを探し求めていた。でも、哀れなあんたを見て、それがやっと解ったわ」
「哀れ、ですか」
「そう……それはね、私が人形師で、あんたが人形だったから。愛というお題目を、美辞麗句に飾られた呪いを授けられた人形なのよ。でもあんたは、自分の世界以外を認めない、すなわち自分が人形であると決して認められない、悲しい人形だから」
アリスは諭すように語る。
「人形は呪われて、人の形を模して生まれる。人の形をしているが故に、その呪いから解き放たれるのは難しい……それでも、人形は変化していく。自分が人形であると認めれば、人形でない命を目指すことも出来る。現にそらは、清弥という命と交わって、人形であることを捨てた。清弥も私によって人形になったけれど、示し合わせたかの様に同じ道を選んだ。作られた者もまた、作る者になれるのよ……人形師にとっては、あまり嬉しい事じゃないけどね」
「愚かな」
「いいえ、愚かなのはあんたよ。自分が人形であることを決して認めないが故に、人形としてしか存在出来ない。自分で自分の生を狭く小さくしてしまっている。たとえ自分が捨てられても、いつか持ち主が帰ってきてくれると馬鹿みたいに信じていられる、壊れてバラバラになった人形でしかないのよ!」
「主様の叡知も、愛も、全てが無限で永遠なのです! その光を決して受けることない貴女には、けっしてその恵みの真の意味をしることはないでしょう」
アリスが笑う。人工的な、凄惨な笑み。
人間の醜い本性を映し出す、人形の微笑みそのものだ。
「勝手に自己完結してるがいいわ、不出来で未完成な人形さん。同じ顔をしていても、あんたよりそらの方が一千倍は美人だったわ! 管理の悪い持ち主に恨み言でもいうことね!」
ザシッ!
嘲弄したアリスの首が宙に舞った。
避ける暇などなかった。
電光石火で閃いた氷雨の剣が、アリスの顔と体とを完全に分割した。さらに、力を失った躯を微塵切りにし、人形として作られたアリスの全身を、様々な部位に、単なる無機物になるまで分解していく。
氷雨追沫は宣言する。
「人を傷つける言葉では、私の愛をかき消すことなど出来るはずもない」
「それは、どうかしらね」
「何!」
バラバラになったアリスが、その一つ一つが閃光になって弾けた。そこから蛇の様にうねる光が、氷雨の全身へ何重にも絡まっていく。氷雨は必死に藻掻くが、あっという間に腕も足も強く縛られてしまった。何故か、光の縄は斬ることも触ることも出来なかった。
目を剥く氷雨の眼前には、満身創痍だが相変わらず不適な笑みを浮かべたアリス・マーガトロイドが浮かんでいた。
「どうして……切り刻んだのに!」
「だから、自分で考えない人形は駄目だといったのに。しかも自惚れが強い」
アリスの手から決して離れない筈の、魔道書が消えている。
「グリモワールを解放したわ。私が見てきた記憶、私の学んできた言葉、私の魔法のほとんどを刻んできた、もう一人の私……それが魔道書・グリモワール。あんたが殺したと思っていたのは、あんたには決して存在しない、私の歴史、私の言葉そのものだったの。そんなちゃちな剣で切れはしないわ」
「……………っ!」
アリスは光の縄を強めながら、ゆっくりと氷雨から離れていく。
「そんなに光が欲しいなら、たっぷりとくれてやるわよ……魔理沙!」
「調子の良い時と都合の悪い時にだけ私を呼ぶなよ」
眼下には、雪崩に流されたはずの霧雨魔理沙が、右手を差し出したまま急速浮上してくる。彼女は既に、眩しい閃光を纏いつつあった。
「……散々世話になったからな、特大の一撃をお見舞いしてやるぜ」
「魔理沙と被るのは仕方ないけれど、残ったのがこれじゃ仕方ないわよね」
アリスも又、最後の呪符を胸のポケットから引き抜いた。
氷雨は初めて戦慄を覚えた。
だが、光の縄から逃れる術はない。
……傘、あの傘は何処へいったのか。
この世界を旅する時に使った傘。邪悪な世界を旅する際に、主様以外の光を浴びて障害をきたさない為に、昼夜を問わず差していたあの傘。あれがあったから、自分はきちんと己の「世界」に帰れたのだ。再度ここを訪れた時は、成り行き上準備することが出来なかった。だから、自分は少しばかり不調を来しているのだろう。あの傘でこの世界の光を断ち、再び主様の導きの光を受ければ、こんな弱き者たちに負けることなどありはしない。騙されもしない。ただ不変の愛に満ちた世界に自分は、ずっと、永遠に――。
魔理沙が、
アリスが、
それぞれの呪符に最後の言葉を込める。
渾身の魔法を込める。
己の幻想を描いて。
「魔砲、『ファイナルマスター…』」
「繰砲、『マリオネット…』」
左右で爆発するオパールと金剛石の閃光に、襲来者は目を背けた。
「『『スパァアアアアアアアアアク』』!」
絡まり合う二つの光が、最後まで人形であろうとした少女を包み込む。閃光と衝撃と轟音に包まれながらも、自分の生まれた世界では決してみることの出来なかった、強力で美しくて、そして何より暖かい光をみたいという、小さな小さな欲望の目覚めに、彼女は抗うことが出来なかった。
甘美な誘惑に、彼女は抗えなかった――
ドオオオオオオオオオオオオオ!
地軸すら揺るがしてしまうであろう二つの強力な閃光が、絡み合い一つになりながら、夜明けの幻想郷の天を薙いだ。
それは、低く垂れ込めた雲を貫通し、かき消していく。灰色の天井が無くなった後、藍色の向こうから紅く色づいたグラデーションが東の空から広がりつつあった。
複合魔砲は、最後まで頑迷に山肌にしがみついていた、亡霊弓結界上の雲さえも吹きはらした。
「清弥……!」
力尽き、蹲ろうとしていたそらが、清弥に縋って必死に立ち上がる。
雪雲が消滅し、
清弥は目指すべき空、澄んだ空を見つけた。
夜と朝との境界線は眼前にあった。
弓を握ってから、初めて武者が動いた。
ゆっくりと、
ゆっくりと、
東の空を正面に捉え、
じりじりと足を開いた。
胴造り、
天を仰ぎ、
弓を取り懸ける。
全身に呪詛が駆けめぐる。
腕が、足が、全身がひび割れに覆われていく。
清弥の後ろに抱きついて、そらが弾き手に自分の手を掛ける。
一緒に引っ張っていく。
何もない節と弦との間に、真っ白い矢が一本浮かび上がる。
周囲を浮遊していたあらゆる霊が一斉に、我先にと亡霊弓に集まってくる。自分たちも又、救いを求めて天を翔けようと。この時を数百年待ったのだと。
激しい気流の向こうで、空が刻一刻と刷新されていく。夜が朝に生まれ変わっていく。
太陽はまだか。
朝日を待つ清弥の視線。
しかし腕はもう待ちきれないかのように、弓を絞り始める、
きりきりきり、
引き絞る音が、体の中から聞こえてくる。
この一撃は我が全て、
この一撃は天をも貫く。
肢体はもう崩壊寸前。
動く毎に剥がれ落ちる、腐った樹の幹のように、
それをみてそらは涙を浮かべ、
しかし決然と、敢然と、清弥の視線を追う。
きりきりきり、
清弥の躯を通して、そらの魂も引き絞られていく。
もう弓は打ち起こした、
三分の二も過ぎた、
これ以上引くともう自動的に矢は手を離れてしまう、
太陽はまだか、
太陽は、
東の空に一瞬だけ、光が宿った――
あれは幻か、
いや本当の太陽なのか。
清弥は弓を引いていく。
東の空に太陽がある。
真っ赤で大きな太陽が、
いつの間にか浮かんでいる。
もうあんなに登ってしまっていたのか。
今この機会を失えば二度はない、
二度はないのだ、
きりきりきりきり…………
清弥は思い切り弓を引いた。
「だめ」
後ろでそらが悲鳴をあげる。
……取り込まれ掛かっていた清弥の精神が、刹那、我に返る。
――冷たい視線を感じた。
自分たちを冥府に誘う、闇の手。
その手に持たれた幽雅な扇子。
その向こうで笑っている微笑み。
誘っている、自分たちを誘っている。
「清弥! あれは、太陽じゃない……!」
そらが叫んだ。
清弥も確信した。
一回だけ躊躇った。
その瞬間、
太陽だと思ったモノが陰り、
ついでその縁から無数の蝶がひらひらと飛び立った。死へ誘う、魍魎蝶だ。
櫻の花のように散るそれを、二人は歯を食いしばってやり過ごした。
清弥とそらは、亡霊の姫の誘惑に打ち勝ったのだ。
そうして、
その向こう側に、
山脈の稜線を辿って光が溢れていた。
何者にも代え難き光。
大地を暖める神秘の輝き。
新たな年に生まれた、新たな、
神の光。
まるで森や雲が波打つ大海原だ。
その最中、赤銅に燃える太陽が昇っていく。
清弥は弓を引き絞った。
そらは清弥の手に手を重ねた。
二人は真っ直ぐに、同じ物を見据えた。
いまや弓はへし折れんばかりに曲がり、
力点に霊力が飽和していた。
目指すは空のみ、
ただ空のみ。
清弥は心を決めた。
そらは心をほどいた。
二人は一つになり、
会――
ひょうっ
在原清弥が幻想郷で最後に放った一撃が、天空へと趨った。
一際高い霊峰の頂上から、一直線に天へ描かれる白い線。
夜から朝に向かって、
闇から蒼に向かってぐんぐんと伸びていく。
しかし、幻想郷に残存した天使人形達が、一斉に集結し、その後を追って登っていく。
白い光芒と白い闇が、何処までも高く登っていく。
その先に。
一人の少女が待ち受けていた。
幼い躯に長大な双刀。
白い髪に黒いリボン。
冥界の少女剣士。
居合いに構え、飛んでくる者を待ち受ける。
背後で揺れる半身の霊魂が、一際蒼く、妖しく輝く。
瞳を閉じ、間合いを計る。
瞼の裏にいつも描いていた、理想の軌道で剣を抜くイメージ。それは、自分への信頼、剣への信頼、主人への信頼、己に関わる、己に関わった全ての者への信頼――。
去年成せなかった、
今年最初に成す、
己の全てを載せた一撃、
二つ、接近する純白、
それに向かって、
魂魄妖夢は双刀を同時に閃かせた。
「未来、永劫、斬――――」
清弥の放った矢と、
交差だけした妖夢は、
後に続く天使人形の群れへと剣を叩き込んだ。
「おおおおおおおおおおおおおおおっ!」
母音だけで構成された雄叫びを上げながら、
剣士は全てを、例外なく全てを真っ二つにしていく。
天から、地上まで。
斬られた瞬間に、人形達はストロボの如き光に還元されて、雪の残りとも櫻の花弁ともつかない舞い方をしながら幻想郷全体へと降り注いでいく。
その不思議な光の中、
純白の直線が太陽へ、
青い空に軌跡を描きながら真っ直ぐに、
ただ真っ直ぐに伸びていく。
それを、
魔理沙が山の中腹に座り込みながら、
アリスが放心しながら、
咲夜が、レミリアが、藍が、橙が、パチュリーが、美鈴が、慧音が、
ありとあらゆる人妖が、
それぞれの場所で。
霖乃助が、博麗神社の境内で。
見上げる。
登っていくそれを見上げている。
見送っていく。
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