恋綺弓


「咲夜」
　しばらく黙して空を眺めていた十六夜咲夜は、主人の声に振り返った。小さな羽をぱたぱたと羽ばたかせながら、レミリア・スカーレットが日傘を差して浮かんでいる。
「あらお嬢様、ご無事で何よりですわ」
「そんな心にもないこと言ってないで、傘を持ってちょうだい。肩凝っちゃった」
「あらあら、それは気づきませんで、申し訳ありません」
　背後に立って傘を差すと、吸血鬼は日陰の下で大きく背伸びをした。
「完徹はさすがに疲れるわね」
「いやいや、いつもじゃないですか。吸血鬼は夜行性なんだから」
「その前からずっと動きっぱなしじゃない。ま、フランドールのストレス解消も出来たし、これで幻想郷も百年は安泰でしょうよ」
「で、お嬢様」
「なぁに、咲夜」
「あの二人の運命とやらは、お気に召しましたか？」
　幼い紅魔は一瞬だけ、自分一人では決して飛べない青空を見上げ……口を尖らせて咲夜を見上げた。
「咲夜はもしかして、本気で考えていないことを口にするのがマイブームなのかしらね」
「いいえ、あんまり物わかりの良いお嬢様だと、今年が思い遣られるなぁと、まぁそういうことですよ」
「言ってくれるわね。食べちゃうわよ」
「そういうことは完食できるようになってからいってくださいね」
　ぷいっとそっぽを向いたレミリアが、ぽつんと呟く。
「いいもん。紅魔館の新年会会場は博麗神社にするから」
「そんな！　時間がないのにあれこれ気合いを入れて準備をした私の立場はどうなるんですか」
「時間がないなんて聞いて呆れるわ。とにかく、パチェと美鈴には境内で集合ってもういってあるから」
「新年早々、我が儘は駄目ですよ」
「それより、新年の晴れ着って赤い服を着て煙突から入るんだっけ？」
「……だからそれ違いますって」


　雪原に舞い降りてきた魂魄妖夢。そこには、八雲藍と橙が待ちかまえていた。
「すごいすごい！　とっても凄い剣術だったよ！」
「え、あの……」
「妖夢殿、お見事です」
　妖夢は力無く首を振った。
「そんなことはないですよ」
「少なくとも、一つの迷いは超えられた様に見えましたが？」
「でも多分、次も又迷いますから。光明は一瞬だけ」
　八雲藍が目を細めて笑う。
「それでいいでしょうに。その一瞬を求めて、皆それぞれが無限の時間を旅するのですから」
「………………」
　確かに、そうなのかもしれない。
　あの一瞬、全てが一つになった感じがした。双刀のきらめきが合一した錯覚すら体験した。幻で終わらないうちに、次の一瞬を探さなければならないだろう。そこに悟りはないとしても。
　それを与えてくれたのは、いつも勇気を持って対峙してくれたあの二人だと、そう思った。快く感謝すべきだろう。
　感無量で真っ青な空を眺めていると、

　ぺちり！

「あいた」
「これ妖夢！　何を一人で感慨に浸っているの」
　畳んだ扇子で頭を小突かれた妖夢は、突然の主人の出現に心底慌てふためく。
「ゆ、幽々子様！　どうしてこんなところに」
「壁に耳あり障子に目あり、羽アリが出たらきちんと駆除しなきゃ駄目なのよ」
「はぁ……」
「あんな絶好のチャンスに獲物を逃すなんて、庭師から庭の住人に格下げしようかしら」
「そんなぁ。せめて屋根の下にお部屋を下さいよぅ」
「西行寺様、ご無沙汰しております」
　藍が頭を下げ、その向こうで橙が小さくなっている。
「ええ。紫は相変わらず元気そうね」
「まぁ元気というか……寒気を嫌って早々に寝入っておりますが」
「そうかしら？　結構大活躍だと思うけれど」
「どういうことです？」
「さてさて」
　感慨はどこへやら、今後の待遇についてあれこれ悩んでいるいつもの妖夢を尻目に、西行寺幽々子は嫌味なほど青い空を眺め、口許を隠して小さく呟いた。


　竜女は仏に　なりにけり
　などか我らも　ならざらん
　五障の雲こそ　厚くとも
　如来月輪　隠されじ


「なんです、それ……歌詠みですか」
「流行歌って結局古くなるってことよ」
　それに――我が手をすり抜けてしまった獲物の口惜しさを肴に、酒を飲むのも悪くはない。得るものより失われるもののほうが多いのが現世の常なのだから。現世に迷い出る咎多き魂なれば、それに付き従うしかあるまい。
　彼女は未練を断った。
　どうせ、次なる欲望が、私を成仏させてはくれないだろうから、同じ事だ。
「ささ、宴会に行くわよ。八雲の方々も一緒にね」
「徹夜明けで宴会ですか」
「これだから妖夢は気が回らない。今年は弾幕でいびられないように、年初からあのおとぼけ巫女をいびっておくのよ。食料を食い漁って越冬を妨害するの」
「ああ、それは結構良い考えですね」
「じゃ決まりね。お酒、おさけ〜」
「橙はお酒は駄目だよ」
「えええ、なんでですか藍さまぁ」


「やれやれだぜ」
　霧雨魔理沙は雪の上に尻餅をつき、ついで躯を投げ出した。半ば雪に埋もれてしまっている。普段の寒がりな魔理沙なら自殺行為だが、今は何故か気持ちよかった。それに、普段出来ないことならやっておくのも悪くはない。
「おー、視界の全部が空だ」
　呟いてみる。
　胸の奥をなにかが通り抜けていく。
　いろいろあったような、なかったような。
　楽しかったような、苦しかったような、そんな時間はもう過ぎ去ってしまった。
　これから先、こんな経験をすることがあるのだろうか。
　何かを得て、何かを失うような。
　いつもは集めることばかりで、明確に失ってしまった体験が記憶に残っていない。多分それは、蒐集家として失うという選択肢それ自体が無かったからなのだろう。
　そう考えれば、今回の一件は希有な経験ではないか。
　魔理沙はそう思うことにした。
　そうでなければ、いろいろと癪だった。
　……そういえば、アリスはどこにいったのだろう。いつの間にか姿を消してしまった。またどこかでうじうじしているのか、再び悪巧みを考えているのか。いずれにしても、根暗な性格で損をするタイプなのは間違いない。
「そこまで悪い奴じゃないところが、さらにたちが悪いんだけどな」
　呟いてみる。
　答えはない。
　雪にまみれた手を、真っ直ぐに空へと伸ばす。
　蒼く高い空には、到底届かない。
　そのまま、腕で視界を隠した。
　霊夢はちゃんと、雑煮の準備をしただろうか？　少し気にはなっていたが、まぁ後で確認しに行けばいいだろう。
　今はもう少しだけ、この気分に浸っていたいと思った。
　届かなくなった二人の友達に、思いを馳せていたいと、そう思っていた。


　アリス・マーガトロイドは、雪の積もった崖の縁で、足を抱えて座っていた。
　結局、何もかも失ってしまった。
　沢山の人形を戦闘に浪費してしまったし、かけがえのないグリモワールも失った。人形師としても魔法使いとしても、代替のない犠牲のオンパレードだった。氷雨追沫を糾弾するなど滑稽な限りだ。
　自分こそ、誰かに捨てられて一人壊れる人形ではないか。
　後戻り出来ない場所に到達するのが嫌で、こうなるのが嫌で、いつも他の人妖たちと距離を取っていたのに。自分でも思いがけない感情に突き動かされて、大立ち回りを演じてしまった。
　後悔しても、もう遅い。
　――だけど。
　見えない何処かに充足している自分も又、ここにいる。
　それが不安で、許せなかった。
　沢山の物を支払って、得体の知れないちっぽけな感情で満足するなんて、人形にあるまじき行為ではないの？　
　愚かな人間と変わらないじゃない。
　でも。
　それが自分の選んだ道なら、それで構わないのかもしれない。現状の思惟が投げやりなのか、そうも思えてしまう。
　……もし。
　仮に本当にそうなのだとしたら。
　自分が人間をゆめみる愚かな人形で、
　人間みたいな感情に揺れ動いてしまっているとしたら、
　それに、決着を付けに行かなくてはならないだろう。
　自分を突き動かした者たちの結末を知らなければならない。それが自分の納得するものでなくても、それによって更なる負の感情を抱え込まなくてはならなくなっても。
　それは必然であり、義務であり、欲求だった。
　だから、
　いこう。
　博麗神社へ。
　グリモワールはなくても、せめて服を着替えて、身を清めて、髪もといて。霊夢に気取られないように、堂々と胸を張っていこう。
　少女は立ち上がり、ゆっくりと一歩ずつ歩いてゆく。雪の上に足跡を残しながら。
　どこまでも蒼い空を見上げながら。
　幻想郷の大地を踏みながら。

　　　　　　☆

　八雲紫。
　幻想郷の境界近くに住まう、大妖怪である。
　彼女の力は主に、「あらゆる境界を操る程度の能力」である。境界と名を冠すれば、物理的な境界から概念的な境界まで、ありとあらゆる境界に関与可能という、壮絶無比な力だ。故に、能力は時として暴走し、彼女自身の意志を超えて発動することがある。それを紫自身も知ってはいるのだが、別に気にすることもない。だから非常に胡散臭く、また非常に厄介なのだ。
　彼女は普段ほとんど起き出すことがなく、床についてまどろむ時間ばかりを過ごしている。それは、彼女自身が境界に縛られている為、幾分境界が緩くなる夢を好んで見たがることに起因するのだが、この夢の中でさえ、境界を操る力は普通に発現してしまうのだった。
　さて、このところ紫は長い長い夢を眺めていた。
　それは、幻想郷が生んだ少年と、異界からやってきた少女が出会い、艱難辛苦を乗り越えて結ばれる、とても小さく、また大きな物語の夢だった。
　しかしこれもまた頭が痛いのだが、彼女は夢のあらすじまでも悪戯に書き換えてしまった。幻想郷とはあまり関係のない闇の世界と、幻想郷の境界とに穴を開けて通じ、魂が完成する前の御諸空夢に、幻想郷の空を見せることによって、幻想郷へと連れ出した。これを夢の起点と成した。
　つまり、御諸空夢が最初に見た青空こそ、八雲紫の夢の中での悪戯が始まりだったのだ。
　紫は夢を見ているつもりでも、彼女の力は現実に発動していた。その結果、二つの世界を巻き込んだ大事件へと発展してしまった。非常に迷惑な限りではあるが、眠りこけている紫が知る由もない。
　幻想郷に住まう紫が幻想郷の結界に度々、面白半分に穴を開けるのは、幻想郷の幻想が他の何をも吸収して豊かになると知っているからだった。非常に胡散臭いものの、彼女は彼女なりに幻想郷を愛しているのだ。
　……折しも先程、紫の見ていた永い夢は一段落を見せた。幻想郷を超えるという結末は紫にしても予想出来るものではなかったが、それでも良いスパイスぐらいには思ったのだろう。大団円を見物した彼女は寝床でむにゃむにゃと微笑み、寝返りを打った。
　そして、知らぬ間にもう一度だけ、結界に悪戯をしておいた。故意なのか偶然なのか、もはや彼女にも定かではない。ただ、別に悪いことにはならないだろう、というのはよく分かっていた。
　そして……来るべき春になり、満開の櫻に包まれて目覚めるその日を楽しみにしながら、紫はもう一度布団を被った。

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　全てを失った堕天使が、一人闇の中にいた。
　自分が作り上げた全ては灰燼に帰した。
　もう天からの光も感じられない。
　遠ざかる。
　堕ちていく。
　このまま自分は、闇に飲まれてしまうのだろうか。
　自分が間違っていたなら、それも仕方ないだろう。ならば、その結末を甘んじて受けなければならない筈だった。だが、この空虚な感情は一体何なのか。
　初めて感じる「気持ち」だった。
　そこへ、光が差す。
　自分が知らない光だった。
　闇の中に差すそれは、神聖でもなく、自分の道を指し示してもくれない。
　なのに、それが気になって仕方がない。
　暖かい。
　だから、
　ゆっくりと、
　ずっと閉じられたままだった瞳を、
　恐る恐る開けていく。
　眩しい。
　それは、光。
　闇にぽっかりと浮かんだ次元の隙間。
　それはかつて、未完成の御諸空夢が見たのと同じもの。
　何もかも抱きしめ、
　何も否定せず、
　幻想として昇華する、
　真っ青な、


　ただ真っ青な――幻想郷の空だ。




　こうして幻想郷は、新たな年を迎えた。