龍の首の玉

        3

 綴れ織りのトタン屋根のような闇の森を睥睨しつつ膨れ上がっていく巨大な、淡い光。
 朧に霞みながら、風で揺らめきながら。
 それは立てた扇子を左右へゆっくり開いていく様にも見えた。
 夜風に吹かれるたびに、泡沫の如き光を振り撒いている。
「こういうのを人の夢というのかしら。抒情とさせる幻影よね」
「確かに、未知の現象に己の抱くぼんやりとした想像を重ねてわざわざ不吉に捉えるなどと、愚かな真似をするのは人間だけだろうな」
 皮肉を篭めた口調の八雲藍の姿は、先程までよりも何処か希薄になっているように見える。ありていにいって幽霊と変わらぬ存在感だ。霊夢は軽く目を擦って、上空に陣取った八雲紫を振り仰いだ。
 小柄な橙を肩に乗せ、虚空にたゆたう紫は、微笑を湛え眈々としている。
「急かして連れ出しておいて、自分は高みの見物を決めこむ気なのね。お賽銭も入れないくせに」
 睨み付けるも紫は答えない。
 藍もまた同様だ。
 妖怪との腐れ縁も多々あるだけに、まともに腹を立てるだけ損だということは霊夢もよくわかっている。
 憤懣やる方ない様子で広がっていく光に向き直り、懐に手を差し入れて――そこでやっと気づいた。
「……あー。大事なもの神社に忘れてきちゃったじゃない!」
「虫除けかしら?」と紫。
「違う!」
「なんであれ、虫除けの方が役に立ちそうだけれど」
 前方の輝きが加速度的に増した。誘蛾灯の揺らめきがスポットライトの鋭利にとってかわる。
 光の樹から伸びた巨大な枝が八本指の手のひらと化し、眩しさに目を細める霊夢を握りつぶそうと、四方八方から包囲を開始した。
 霊夢は握ったままの護符に念を篭めて、接近する魔にかざす。
「散!」
 互いを飲み込む二匹の蛇のような印が夜空に描かれたかと思うと、突き出した霊夢の手を中心に渦を巻く疾風が発生して、光塊を切り刻んだ。
 巨人の手は一瞬でばらばらになり、
「蛍?」
 大気の塊に押し流されていく明滅は、無数の蛍の集合体だった。
 そして、闇の中を飛び交うのは蛍だけでは勿論ない。
 羽虫、巨大な蛾、蝗――羽を持つありとあらゆる蟲が大気を覆い尽くさんとしている。
 四方八方に飛びまわっているのに、その動きは統率が取れていて不自然だ。
「夜を舞い空を蠢く者たち、わたしの言葉に耳を傾けるといいわ――」
 メゾソプラノ。声と共に光輝の中心からわき上がる、少女の形。
 それは人間ではない。
 緑の髪の少女を模した、妖怪という夜の彷徨者。
 彼女を中心にして、一端散り散りになった蟲が明快な意思を以って再び集う。
 地上からは森をも超える巨大な百足が龍のように立ち上がり、天空からは月を隠す群雲のような雲霞の大集団が迫ってくる。
 その蠕動が、その羽音が、海嘯のようにドロドロと地を轟かせる。地が揺れる。
「これ全部、虫なの」
「あまり見ていて気持ちのいいものではないな」
 霊夢は虫を毛嫌いする性格ではないものの、やはり同じ物が沢山いると覚える生理的嫌悪からは逃れられず、少しばかり顔をしかめている。藍も表情は変えないものの、肯定するように頷いた。背後から紫の声が聞こえる。笑っているようだ。
「ね、いるでしょう? 虫除け」
「ああほんとうね。森全体で無差別に焚いて全部燻り出したい気分だわ」
「人間って本当に極端な思考しかしないのね」
「何の事件も起きないのもむかつくけれど、蟲の大群なんてはなからお断りだもの」
「そうねぇ」
 蟲の大群に包囲されても、人間と妖怪の会話が一向に終わらないのを見て、景気よく登場した筈の襲撃者は両手を振り上げて不愉快そうに罵った。
「ちょ、ちょっとちょっと! 目の前にこーんな大妖怪が出現しているのに、無視するなんて酷いんじゃない? しょぼくれた人間と妖怪の分際で」
「……洒落なの?」
「洒落かしら」
 霊夢と紫は顔を見合わせて首を傾げた。
「洒落じゃない! もういいや、蟲にたべられちゃえ」
 中性的な相貌の妖怪少女は、蛍の柱が差し伸べた枝の上に立ち、霊夢と藍に指を突き付けた。
 周囲を飛行する蟲が列をなし、直角に方向転換しながら二人へと殺到する。摩擦熱で燃え上がったかのように蒼い炎を上げたのは、妖怪が好んで遣う霊化攻撃――妖弾と化したからだ。儚い蟲の命を蝋代わりに、悪意そのものが爆ぜて人間の命を付け狙うのだ。
「下手な鉄砲数打ちゃ当たるって言葉、考えた人尊敬するわ!」
 巫女は先程とは違う色の護符を四方に向かって投擲する。それらは一定距離をおいて神代文字の描かれた蒼い障壁となり、直方体を描いて霊夢を覆い隠した。妖弾がいくら近づいても、霊夢に近寄ることが出来ない。壁に阻まれてむなしく燃え上がるばかりだが、何しろその数が尋常ではない。霊夢の周辺はさながら蒼炎の篝火といった様相を呈している。
 一方、八雲藍に襲いかかった蟲は、まるでホログラムを引っ掻くかのような有様で、一向に実体を捉えられなかった。思考能力のない蟲だけに、いつまで経っても攻撃の無為さに気づこうとしない。
 それはまた、攻撃を指示する少女の器量をも示していた。
 愚かな敵を哀れむように、藍は一直線に蟲使いの少女へと近づいていく。
「あ、あれ? なんで……」
 己の攻撃がさっぱり効果を成さないことを、少女が慌てる間も有らばこそ。
 雲霞の大集団も、龍のような百足の集合体も、少女が逃げ込もうとした蛍の光の柱もすべて透過して、藍は少女の眼前に屹立した。これでは逃げようがない。藍の腕が無造作に少女の首根っこを掴む。
「うわぁ、……お、お前、なんかおかしいよ」
「失礼な奴だな。私は完璧だぞ。紫様の式神なのだからな」 
「式神? あいつが本体なのか」
「ああ、云っておくがその浅慮は早々に撤回した方がお前のためだ」
 果たして、妖弧の言葉が哀れな少女の耳に届いたかどうか。滲んだ月影のさなかに浮かぶ妖怪を攻撃すべく蟲に指示を出したその指が、何者かに掴まれた。
「ひっ」
 なんと、空に不自然な裂け目が発生していた。無理矢理手を突っ込み、引き剥がしたかのような、虚空の裂き瑕。そこから伸びた赤黒い、鮮血で斑に染められたような人の手が、少女の腕をがっちり握って離さない。
「な、なんだよ、これ」
「飛ばなきゃ火に飛びこむこともないのよ。でも蟲じゃねぇ――」
 紫が目をすっと細めた。
 同時に藍は少女をその、いずこへ通じるか定かでない裂け目に放りこむ。裂け目から無数の腕が、狼の牙さながらに涌き出て少女の全身を掴み、夜の闇より深い混沌へと引きずり込んでいった。
 そして、一秒。
 亜空間は瞬時に補正され、絶叫は包み隠されて消音されてしまった。指揮者のいなくなった虫の大群は、あっという間に散開を始めつつある。
 蟲を操った少女の存在など始めからなかったかのように、夜は静寂を取り戻していった。
「あれ? もう終わった?」
 結界を解いた霊夢が、紫の横に並んだ。
 紫は一層たおやかに笑い、その背後には八雲藍がほぼ同じ場所に控えている。実体を取り戻した彼女の裾を、猫又の橙がじっと握っていた。
「……なにもする暇がなかったわね」
「何にもする気なかったくせに」
「持ち合わせが少ないのよ。誰かさんが無意味に急かしたからね」
 蟲の羽音はもう聞こえなくなっていたが、大樹のように連なっていた蛍の大群は、輝いているせいもあってかいつまでも蟠っている。霊夢は溜息をついた。
「まぁそれにしても、ちょっと蛍が多すぎよね、最近。外の世界は一体どうなっているのかしら。少しだけ心配だわ」
「霊夢が人の心配をするなんてね。少しはやる気になったのかしら?」
「余計な御世話よ」
 紫の密やかな微笑みに、霊夢はついとそっぽを向いた。
「急いでるんでしょ? さっさと行って帰るわよ」
「まぁまぁ、夜は始まったばかりだし」
「いちいち云うことが矛盾してるわね、あんた」
「……それに、またお客さんみたいだけれど?」
 紫が下方に視線を送る。
 散っていった蛍が点在する地上の星空から、茫洋とした別の光が近づいているのが見えた。
 洋燈ほどには明るくなく、ただ、夜を徘徊するに相応しい程度の明度。
 紫だけでなく、霊夢にも見覚えのあるモノだった。霊夢は早速呆れている。
「蟲の次は幽霊なの? まったく、不吉極まりない夜ね」
「あら、博麗の巫女じゃない。それに……八雲様」
「ひさしぶりね、妖夢」
 いきなり不吉呼ばわりされたのは、白い髪の少女だった。深緑の洋装に身を包み、腰には少女に似つかわしくない双振りの日本刀を提げている。だが、彼女の存在を決定付けるのは、その背後で揺らめく巨大な鬼火であろう。それは霊魂そのものであった。
 名を魂魄妖夢という。人間と幽麗のハーフである。
 主たる生活の場を冥界に置く彼女もまた、夜を往く境界上の存在であった。 
「ご無沙汰しております、八雲様」
 妖夢は紫と藍に向かって礼儀正しく頭を下げ、それから霊夢を胡散ぐさげに睨みつけた。
「遠くから不可思議な光の樹が見えたから飛んできてみれば……こんなところで一体何をしているんだ、博麗霊夢」
「あれ……? それおかしくない? 私が妖怪に言う台詞よね」
「こんな不吉な夜に巫女が徘徊しているなんて良いこと有るわけないじゃない」
「まるで妖怪みたいな言い様ね、辻斬り容疑者のくせに」
「今夜はまだ刀を抜いていない」
「大体、私だってこんな夜に出掛けるなんて真っ平ごめんだわ。こいつが無理矢理連れ出したりしなけりゃ、今ごろ晩酌しながらお月見してたのに」
「え? じゃぁ、八雲様が巫女を?」
「私だって時には変わった行動を取るものよ」
 紫は澄まして答えるが、その場にいる者は全員訂正の必要を感じた。彼女の式神だって例外ではなかったが、賢明なことにそれを口にはしなかった。
「ま、それはそれとして」
 霊夢が一つ咳払いをする。
「あんたは何をしているのよ」
「幽々子様が、月の様子が変だとおっしゃるから調べようと……」
「ああ、あの傍迷惑なお嬢様ね」
 ちなみに彼女の主人こそ、弥生から卯月に掛けて春を強奪した主犯の幽霊だ。紫にとっては旧知の友人でもある。
「今夜は幽々子はいないのね」
「はい、八雲様。『私が出て行くと不毛だから』とおっしゃって、御屋敷でお休みになられています」
「そう……」
 紫は細い指を顎に当て、なにやら考え込むような仕草をしている。
 霊夢はその様子をちらりと窺うものの、やおら妖夢に向き直って腕組みした。 
「あー、とりあえずそういうことで、今回の件は私が片付けるから、さっさと家に帰りなさい」
「そうはいかないわ。私だって事の仔細を幽々子様にお知らせするのが仕事なんだから」
「あんたたちがでしゃばると、私の仕事が雪だるま式に増えていくの! もう既に三匹も妖怪連れてるのよ!」
「とんだ被害妄想ね。ねぇ藍」
「そうです。……それよりもその単位を訂正しろ。『匹』はないだろうに」
「そうだそうだー」
 藍と橙が睨み付けるが、霊夢は何処吹く風だ。
「八雲様、私もお供していいですよね」
「幽々子はそれほど真実を欲していないようだから、無理に付いて来ることはないと思うんだけれどね」
「そんなぁ」
「どうする、霊夢? 私はどちらでもいいんだけれど……ただ、このまま帰らせると幽々子が妖夢に陰険な罰を与えかねないかしらね」
「どんな罰でもこいつなら嬉々としてこなしそうだけどね、なんとなく」
「私は被虐趣味者じゃない!」
 妖夢の言葉にはかなり感情が篭っていた。なにしろ彼女の主人の理不尽さは限度を知らないのだ。勿論、霊夢も紫もそれをよく承知している。
 と。
 霊夢はポンと手を打った。
「そうだ。私のお願い聞いてくれたら、ついてきてもいいわよ」
「お願い?」
「そんなに難しいことじゃないから、心配しなくても大丈夫」
 にんまりと笑う博麗の巫女を見て、魂魄妖夢は不吉な予感を感じずにはいられなかった。

 
 さて、月明かりに照らされて浮かぶ人間と妖怪の影の下で、音もなく蠢く存在があった。
 一つ、二つ。小さな影が立ちあがる。
 それは長く大きな耳を立て、夜空を赤い目でじっと眺め――
 白い毛に包まれた小さき者達は、やがて木々の間の叢へ飛び込み、夜陰に同化していった。

      ☆

 カタン、カタン。
 機を織る音。緯糸を結わえられた杼が経糸の間を滑っていく音。
 洋燈の暖かくもぼんやりとした光に浮かび上がる、布を織り上げていく人の影が揺れる。
「母さん。今夜は風が強いね」
「そうね」
 まだ幼い少女は繕い物の手を止めて、時折揺れる戸口を不安げに見つめる。
 母親は手を止めずに、機を織りつづけてている。
 カタン、カタン。
「父さん達、大丈夫かな」
「集会に行っているだけでしょう? 今日は夜警の順番でもないんだし」
「でも、妖怪は村に出ることも有るって、霧雨の家の人が話していたって聞いたよ」
「それを言ったら何処にいたって暮らせはしないわ。夜を恐れるのが人間だもの。でも、みんなで力を合わせて夜を過ごすのも人間なのよ。確かに、怖い夜だってあるけどね」
 同じような会話。
 もう何度も繰り返してきた会話。
 それでも、人間は同じように繰り返す。
 親から子へ、子から孫へ、同じように。
 妖怪と違い、容易に倒れ死んでいく者達だからこそ、記憶を反復し、連鎖させていく。
 その過程において様々に変容してしまうとしても。
「……明野。手が止まっているわよ。もう少しで今日の分が終わるんだから、頑張りなさい」
「はぁい。母さんみたいに早くなるといいのに」
「練習しなきゃね。でも、私があなたぐらいの頃はもっと下手だったわよ」
「ウソだよね」
「そう思う?」
 少女は運針を再開しながら、もう一度だけ戸口を見遣った。
「今日は何で、こんなに夜が長い気がするんだろ……」
 カタン、カタン。
「大丈夫よ。私達には慧音様がついていて下さるのだもの。だから、大丈夫」
 機が織り成していくのは、素朴な、しかし色鮮やかな緑の織物だ。
  

 今宵はどの家の窓の灯りも強めに焚かれている気がする。
 きっと、彼らは彼らなりに、無意識にこの夜の不吉さに気づいているのだろう。
 無人の目抜き通りを歩きながら、彼女はそう感じていた。
 夜風に吹かれて、彼女の特異な髪が揺れる。白に浅葱色の混じった、銀糸のようにも見える髪。腰まで届くそれは彼女自身が、人間と近しくない血を受け継ぐ存在であることの証左である。
 彼女は純粋な人ではない。
 人妖が交じり合って生きるこの里には、両者の性質を兼ね合わせている存在が稀にある。
 たとえば、魂魄妖夢もその一つの例だし、
 今ここにいる彼女もまたそうである。
 だがしかし――彼女が人里の道を歩くことを認めぬ人間はいない。
 道沿いに等間隔で焚かれた篝火の薪が焼け崩れ、ときおり火の粉を巻き上げている。
 不定期に吹く風が、それを紅く躍らせる。夜空に届けとばかりに。
 炎の回りに集まる数人の男達がいた。松明や提灯を持っている。夜警の見まわりから帰ってきたところだろうか。
 小さな影が歩み寄ってくるのに気づいた彼らは少し驚いた表情を浮かべ、大きく頭を下げた。
 彼女は小さく頷いて答える。
「変わった事は無いか」
「はい、それは……」
「なら今宵はもう大丈夫だろう。お前たちは早く家に戻ると良い。あとは私が引き受けよう」 
「ですが、まだ」
「今夜の風は何処かおかしい。いたずらに対処しようとして、連絡を分断されて被害を出すのは忍びない。集会でも、小人数での夜警は却って危険だという話しになっているようだ。先日の夜雀の被害が皆の心に重く圧し掛かっている」
 その声は静かだが、篭められた意思は屈強な青年達を説得するには十分だったようだ。
 何しろ、彼女と直接話をすること自体が稀なのだから。
 彼女はあらゆる意味で特別な存在だった。
 ほどんど顔を上げることが出来ないまま、男達は家路へと駆け去った。
 唯一残った彼女は、鋭い双眸を闇の天蓋に叩きつける。
 薄く引き延ばされた煎餅のような雲が風によって流されていくその奥に、妖しく白く輝く満月が鎮座している。
 長い髪を翻して、彼女は月と対峙する。
 無言で。
 決然として。