龍の首の玉
2
「あの月が贋物? 本当に?」
「そう。本当の満月じゃないわ。硝子だって巧く加工すれば、炭の結晶のように輝くものよ」
「そんな非常識なこと出来る奴がいるのかしら」
「いなきゃ出来ないでしょう。ま、幻想郷全体に紅い霧を出したり、春を根こそぎ集めたりするよりは難易度高そうだけれど」
「どっちも迷惑極まりない話だけどね。あんたみたいに」
「あら、私自身が迷惑を起こしているわけじゃないのよ」
「よくいうわ」
群青に染まった天の帳の下、月光を浴びながら、人間と妖怪は夜空の散歩といった呈である。
昼間は夏の残り香がしていたが、夜になるともう秋の気配しか感じられない。
眼下には、蛍のように不思議な光が蠢く幻想郷の大地。
悪名高き魔法の森の上空だった。
蟋蟀や松虫の鳴声が、風に乗って響いてくる。
でも、あの茫洋とした光は実際のところ、虫ではない。
霊と付き合う職業ともいえる巫女の霊夢には、容易に見分けがつく。
あれはお盆を過ぎても冥界に帰らなかった幽霊なのだ。前世の記憶も薄れ、単なる興味から顕界を見物して回っている浮遊霊である。直接人に害を及ぼすわけではないが、霊が普通に存在する状態が正常とはとてもいえない。全く……目の前の妖怪がきちんと依頼を聞いてくれなかったせいで、顕界と冥界との境界が修復されていないからだろう。ただ、冥界への門を無理やり潜りぬけた霊夢にも責任の一端はあるのだが。
霊夢は苦々しく紫を睨み付けるが、紫は受け流しているのか気づいていないのか、澄まして夜風を楽しんでいる。
「月はあんなのだけれど、今日はいい夜ね。この分だと春はとても良い感じになりそう。そういえば、来年は六十年ぶりに数字が合さる年だしね」
「何のことかしら? それより聞いたわよ、あんたは毎年冬眠するんだってね。冬の寒さを遣り過ごして春の恩恵を受けようなんて、虫が良すぎると思わない?」
「虫が良すぎるわよ。だから良いんじゃないの。蜘蛛の巣に寄ってくる虫みたいで」
「ああもう、いちいち何云ってるんだか分からないわ。意味不明なのは霖之助さんの話と書庫にある漢文の書物だけで十分よ」
妖怪と喋るのは苦痛ではないものの、少し疲れると霊夢は感じる。
妖怪の精神構造が人間とは根本的に違うというのは勿論あるのだろうが、それよりもそもそも、霊夢自身が集団行動向きではない性格なのである。博麗神社を訪れる訪問者が賑やかであるためあまり顧みられないのだが、霊夢は一人の時間を積極的に楽しむ傾向にある。喉が乾けば井戸の奥の冷たい水を、風が吹けば揺れる髪の繰り返しを楽しんでいる。おそらく、人が来なければ来ないで、延々と一人で生活していることだろう。孤独を辛く感じない性質なのだ。それは、寂れた神社の巫女を勤められる資質の一つなのかもしれない。
そんな自分がどうしてこのように人妖問わず少女達を惹きつけるのか、霊夢自身にとっても謎だった。
カリスマというなら、願いを携えてくる普通の人間がひっきりなしに訪れて、神社の賽銭箱には山積みの御賽銭が貯まっているべきだろうが、残念ながらそういうことはない。
もしかして、博麗神社それ自体が妖しい存在を呼びこんでいるのだろうか。
それなら少し問題な気がする。
「あはははははははは」
「こら橙、なんて笑い声だ。はしたないからやめなさい」
「でも藍様、紫様と三人で夜にお出かけなんて初めてかもしれないですよ? なんだか楽しいー」
「紫様がいらっしゃるからこそ、行儀はよくすべきなんだ」
「でも、でも……あ、こんどはあっちー」
「………………あれは放っておいていいの? 紫」
「ええ。まったくもって良い夜ね」
「あっそう」
夜空を縦横無尽に猫が飛翔する。
その背後を九本の尻尾を持つ狐が追いかけている。
化け猫の橙は、中秋の夜の散歩に酔い痴れているようだ。
さっきからずっとこうなのだ。なるべく視界に入れないように努力をしていたものの、霊夢はこめかみにぴりぴりと走る頭痛を押さえきれない。
「ちょっと尋ねたいのだけれど」
「いいわよ。許してあげる」
「なんで今夜は御供を二人も連れているのかしら。それも隠密行動にはとても向かないような」
「藍は私の式神ですもの。それに、橙だけを家に残しておくのも可哀想でしょう? 折角の夜だというのに」
「あんたねぇ。あの二人のお陰で、すでに結構遠回りさせられているのよ。あんたが散々急かしたからこうやって何の準備もせずに出て来たって云うのに」
「急がば回れというじゃない」
くるくるくる。
橙が転がるように回転しながら、夜空を飛びまわっていく。
「だったら私も回ろうか?」
「霊夢がそうしたいのなら止めないわよ。回転巫女なんて霊験あらたかじゃない」
「冗談すら通じないのね」
「面白くない冗談なんて存在してはいけないの。それに、遠回りしないと目的地なんて分からないでしょう? あの贋物の月に直接行けるのなら苦労はしないわ」
「贋物だって本物だって、月になんていけるわけないわよ。月は死んだ人達がいくところなんだから」
「冥界まで行った巫女のいうことじゃないわね」
ただ、紫の話がまんざら間違いではないと霊夢も認めざるを得ない。
今は幻想郷を見て回るより他ないだろう。
いつものように早々に、向こうから手掛かりが出てきてくれると良いのだけれど……。
霊夢は腕組みしながら、月を睨み付けるのだった。
さて、森の中に人や獣が踏み分けた道があるように、空にも風吹く道がある。一行が風の支流の一つに流されるようにふわふわ飛行していると、前方に大きな湖と、霊夢にとっては見慣れた建物が浮かび上がる。それは闇夜にあっても赤く輝き、存在そのものが顕示欲の権化とさえ云えた。
橙が目を丸くして、自分の主に尋ねた。
「藍様、あの御屋敷は?」
「ああ、あそこにはたちの悪い悪魔が住んでいるという噂の館だよ。悪魔の犬には逢ったことがあるが、それはそれは胡散臭い奴だった。不用意に近づかない方がいい」
「そうなんだ。紅くて大きくて窓が少なくて、まるで棺桶みたい」
橙の言葉には、紫のみならず霊夢も苦笑せざるを得ない。
「ま、確かに外れてはいないわね」
☆
人間と妖怪の奇妙な組合せが上空を通過した紅い屋敷。
――名を、紅魔館という。
東の最果てに浮かぶ神州の、さらに東の山奥にある幻想郷において、突出して西洋の影響下にある建築物である。一人の吸血鬼を主と仰ぎ、沢山のメイド達が日夜働いている。
その地下奥深くには、無限とも思える蔵書を備える広大な図書館が広がっている。
この不吉な夜において、そこには三人の魔女が集い、それぞれに暇を持て余していた。
「むず痒い夜ね」
赤いカチューシャのアリス・マーガトロイドは、不機嫌そうにティーカップを口に運んだ。
机の上で足を投げ出した小さな少女人形が、アリスの動作を模倣して作り物のティーカップを口に運ぶ。
「ならさっさと帰れば良いじゃない」
フラスコを親指と人差し指で摘んだパチュリー・ノーレッジは、至極迷惑そうな顔をして、アリスに流し目を送る。フラスコの中では、光をプリズムに分解したような色の液体が、磁力線の形をなぞってゆっくり対流している。精霊魔法を得意とするこの知識の魔女が実験まがいのことをしているということは、それだけやる気がなく、しかも精神が散逸していることを示している。非常に稀だ。
「帰る? こんな夜に家に帰ったところで、まともな人形の一つも出来はしないわ」
「だから私のところに来て嫌がらせをしているのかしら。まったく、この屋敷の猫いらずは千年たっても上手く作動しないのね、きっと」
「あんただって、慣れないことをしてるじゃない。この夜が気に入らないんでしょう?」
「何をやっても駄目な時間が存在するのを実証するのはそれなりに意味があるものよ」
「じゃぁ私には、完成しない、人形に見えない、愛されない人形を作れとでも? 狂気の沙汰ね」
「作れるのならね。多分、あんたじゃ無理だけど」
「その題目は、龍の首の玉をとってこいと願うのに似ているわ。知ってる? 龍の首の玉がある位置は、逆鱗という龍の泣き所と同一なのよ。龍を激怒させて人間が生きて帰れるわけ無いじゃない。そんなものをとってこいというのはつまり、死ねというに等しいわ。人間じゃあるまいし、自殺なんて趣味は無いもの」
「それ、日本の昔話ね」
無数の本棚の奥深くから、何冊かの本がパチュリーめがけて飛来し、その眼前で儀杖兵の如く静止した。
そのどれもが竹取物語と、それにまつわる本だ。中には漢文や万葉仮名で書かれた古書もある。
パチュリーは顔を動かさず、目だけでそれらを追う。読み終わった頁は触れずとも勝手に捲られていく。
「アリスがなんでそんな極端な話を持ち出すのか分からないけれど」
「私にとって人形の話は逆鱗ということよ。誰しもこれだけはいわれたくないという話があるでしょうに」
「自分の愛を賭して龍を求め船出した皇子様だって、なんの嫌がらせか知らないけれど龍の首の玉を求めたお姫様だって、自分の意思をしがない人形遣いの愚痴と自分を同一視してほしくはないでしょうに」
パチュリーが本に興味を失うと、彼らは忠実に、元いた本棚へと帰っていく。
図書館の主である魔女の意思を読み取って、図書館自体も本すらも形を変える。それがこの魔法図書館である。
「そんな性悪なお姫様、こっちだってお断りよ……お茶のお代わりが欲しいんだけど」
当然、パチュリーは無視している。フラスコを振ってしばらく様子を見ていたが、ふと首を傾げる。
「……おかしい。反応までの時間がなんだかずれるわ」
「似合わないことやってるからでしょう。そんな地味なのは黒くて白いのがお似合いなのよ」
「侵入者にあれこれ言われる筋合いはないけれどね」
と、無数にある扉の一つが開いた。この館、外に向かって開く窓は極端に少ないのに、中を区切る扉は異常に多いのである。
現れたのはティーセット一式を準備したメイドである。
魔女たちには馴染みの顔である。
「お茶のお代わりの気配がしたので来ましたわ」
パチュリーが不機嫌そうな顔で、メイドを睨み付ける。
「頼んでない。私が欲しいのは、保証期間が千年ある猫いらず」
「今準備中ですから、お茶でも飲んでしばらくお待ちくださいな」
「何杯お代わりすればいいのかしらね……」
皮肉られても涼しい顔のメイドの名前は、十六夜咲夜という。紅魔館に住む唯一の人間にして、紅魔館のメイドを取りまとめる存在でもある。満月の夜によりそうようなその名は、紅魔館に来てから与えられたものだが、彼女はどうやら気に入っているようだ。
アリスは堂々とティーカップを差し出しながら、メイド長の顔色をうかがっている。
「あんた、私達の相手をしていていいの? こんな満月の夜だというのに、それこそお嬢様の逆鱗に触れるわよ」
「もう寝てしまわれたわ。今日はなんだか不機嫌極まりないのよ」
最近では幼い子供だって宵の口に寝てしまうのはないだろう。まして、この館の主人をしていわんやである。吸血鬼は夜に活動を開始するのが常だからだ。
やはり――
異常な夜が空気を重く圧縮している。
パチュリーが、フラスコの輝きを目で追いながら、液体の向こうに歪んで見える咲夜の顔を見た。
「咲夜……貴方じゃないわよね、この時間の歪みは」
「やはり、パチュリー様もお気づきでしたか。私の力はこんな緩やかに、しかも永続して作用するものではありませんから。こんなことできたら私は夜の女王ですわよ」
「夜のメイド女王ね。なんだかいかがわしいわ」
「あんただって夜の人形マニアの癖に」
「人形遣いです!」
アリスがむきになるのは、何を喋っても自分のヒエラルキーが向上しないことを苛立っているからではない。吸血鬼がそうであるように、魔女がそうであるように……妖怪や夜の眷属にとって、この不吉な夜が悪影響を及ぼしているのだ。翻って、強大な力を有するものの、人間である十六夜咲夜にはさほど影響を与えていない。夜の不吉さに過敏になってはいないようだ。
「なら、夜を歪めている元凶を退治しに行かないとな」
新たな声がその場に流れる。
それは足。
椅子を傾け、両足を机の上に載せただらしない格好で、少女達の繰言を聞いていた、
三人目の魔法使い。
黒ずくめの衣装で、顔に被せていたとんがり帽子を被りなおす。
「これは、満を持して私の出番だな。迷惑な妖怪退治としゃれ込むか」
「『迷惑な』妖怪退治の間違いでしょ」とはアリス。
「正しくは『迷惑な妖怪退治』だぜ」
白黒の魔法使い……霧雨魔理沙は、歯を見せて笑った。
彼女がやる気を出すのと、何処かで誰かが被害者になるのは同義である。
魔理沙以外の少女達はいっせいに肩を竦めた。
「パチュリー、見せてくれよ。この夜の元凶を」
ひたすら迷惑そうに表情を歪めるパチュリーだったが、少しでも早く侵入者達を追い出そうというのか、このたびは素直に頼みを聞いた。
試験管を立てて両手を胸の前で重ね合わせ、天井に向かって恋を願うかのように大きく腕を広げる。
すると、虚空に巨大な窓が浮かび上がった。
鎧戸が外に向かって解き放たれると、その中央には真っ白な、だけどいつもより何かが欠けているような、そんな月が浮かんでいる。
それを、
アリス・マーガトロイドは侮蔑の表情を浮かべて、
十六夜咲夜はどこか放心したように、
パチュリー・ノーレッジは彫刻のように微動だにせずに、
そして、霧雨魔理沙が不敵な笑みを浮かべて。
折角のお茶が冷めてしまうその時間まで、誰もが黙して見上げている。
贋物の月光を浴びている。
☆
眼前を、橙が飛び廻っている。
元気な子だ。
本当は、こんな不吉な夜ではなく、真の月が鮮やかな夜に出かけたかったが、橙自身はさほどにも気にしていないらしい。その姿を見ているだけで充足される気がする。
八雲藍はそう思っていた。
悪魔の館を超えて、右方に湖を見遣り続けながら、人間と妖怪の奇妙な一団は飛行を続けていた。
ただ、藍自身にとっては、今回の夜行には疑問が多い。
……何故紫様は、巫女などと行動を共にするのか。
八雲紫という妖怪は、ほぼ万能に近い存在である。八雲藍は妖孤というそれ自身として霊格の高い妖怪であるにもかかわらず、紫は藍を完全に使役し、さらに藍の力を最大限に引き出すことの出来る式を完成させている。藍は紫に抗うことはできないが、それは強制力だけではなく、精神的にも紫が別格だと認識しているからだ。
そんな絶対の存在である紫が、どうして巫女を評価するのか。
巫女については、藍は詳しく知っている訳ではない。人間の中に極少数顕れる特別な存在であるというぐらいにしか考えていない。それ以上は必要ないからだ。
だからこそ、紫と対等に言葉を交わす博麗霊夢を苦々しく思うのだろう。
紫ならばこの不吉な夜も一人で解決できる筈なのに。
藍はそう思っている。
解らないといえば、紫が自分の式である橙も連れ出すと決めたこともそうだ。
普段は、藍や橙の行動に言葉を挟むことのない紫が、なぜこんな事件に限って橙の同行を考えたのか。自分の計算能力を超越する紫の思考は、藍にとって畏怖であり、畏敬の対象でもある。自分は最終的に紫の道具にしか過ぎない。
だから、こういう風に、
焦燥状態気味で浮かれる橙について笑うことは、恐怖の裏返しでもある。
――あの贋物の月よりも、傘で影になった紫様の笑みが恐ろしい。
「藍様ぁ」
甘ったるい声で、橙が呼びかけている。
「あ、ああ、橙どうした」
「どうしたじゃないですよ。何回も呼んでいるのに」
「すまない、少し惚けていたようだ」
「もぅ。ね、みてみて、あれ」
橙が指差す地上を見ると、森の狭間、木々の間に白く輝く道が見えた。
まるで人間の血管のような、樹形図のような輝き。星々のように瞬いている。
「ああ、あれは本当に蛍のようだ」
「あんなに一杯の蛍、見たことない……」
「年々増加しているみたいだな。綺麗だとは思うが」
「でも、多すぎると、ちょっと怖いね」
確かに、少し多すぎる。
鏡面で夜空全てを映したとしても、これほどまでには輝かないだろう。
しかも、
光は、ゆっくり――
いや。
加速度的に増えていくではないか。
「藍様、あれっ!」
地上を流れていた光の河が、途中で折れ曲がり、巨大な光の樹となって立ち上がった。
集う光が輪郭を滲ませながら、さらに天空へと聳え立っていく。
上空から声が降ってくる。
「橙、こっちに来なさいな」紫の声だ。
「藍様」
「紫様のところへ戻りなさい。そこが一番安全だ」
「は、はい!」
八雲藍は雑念を払い、両手を袖に隠した。脳裏でなにかが切り替わる。八雲紫の式が行使され始めたのだろう。
いつのまにか、隣には紅白の巫女が浮かび、褐色の護符を構えている。
「お前の出番は無いぞ、人間」
「心底そう願いたいものね」
夜空を制す眼前の光の大樹は、その異様を急速に膨張させながら、人間と妖怪を包み込もうとしていた。
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