ぼんやりと光を放っていた掌の中の水晶球が、徐々にその輝きを失っていく。耳の奥で響く高周波のような音も消え去り、暗闇の中にはほとんど聞こえなくなった雨脚が残響のように残っているだけ。
水晶球に浮かぶ星が未来を示すことはほとんど無い。今も示しはしなかった。幻想郷ではいつもそうだ。ここは魔法使いにとっては生きにくい場所なのかもしれない。なぜなら、存在する誰しもが異端だから。境界を意識させられないから。
それでも、古風な魔法使いはこの地が嫌いではなかった。このいい加減さが自分には似合っていると思っていた。
「終わり、か」
水晶球をしまい、古い蝙蝠傘の柄を握った霧雨魔理沙が息を吐き出す。雨に濡れた帽子の先から時折、水滴がしたたり落ちる。
目の前には崩壊した館の残骸が何処までも広がっていた。鎮火して結構な時間を経てもなお、ところどころで火種がくすぶり、いまだに白煙をゆっくりと立ち上らせている。来訪時と同じ玄関先にたたずみながら、あの威容は見る影もない。たった数時間の間に栄枯衰退の調べをまざまざと聞かせられると、すこし感慨めいたものさえ浮かんでこようというものだ。
傘を傾けて見上げると、雲の間に星空が見え始めていた。館の上空にはまだ浮遊霊達の残りが白い尾を引きながら旋回している。よっぽど心残りなのだろうか。
……ここに来て興味深かったのは、あの吸血鬼に従っていた者全てが、別に無理矢理忠誠を誓っていた訳じゃなかったということ。もちろん種としての彼女の強制力に絡め取られてしまったという経緯はあるとしても、である。あの美姫は喜んで従うに値する存在だったのだろう。だから亡霊達はみな自分の意志で姫を守ろうと戦った。彼女達にしてみれば、こっちのほうが無粋で傍若無人な、招かれざる旋風でしかなかったのかもしれないが。ただ、幻想郷に彼女達の主人が適応できなかった……それほど、レミリア・スカーレットという存在が絶対的だったということなのだろうと思う。
そう。
一つの世界に、絶対的な存在は二人もいらない。
ある連想が緩やかに結ばれる…紅から、白と赤へ。
握った拳をゆっくりと解きながら、呟く。
「そういえば……あの本、結局読めなかったな」
博麗の由来の記されていたはずの本は、図書館の主との戦いの中で見失ってしまった。探そうという気力も既に無かった。知らなくてもよかったのかな、とさえ思う。
「別にこだわるところじゃないんだがな」
それは、単に気分の問題だった。
そっちの方がなんとなく、これからも楽しいのだろう。もしそれが目指すべき知識であるなら、きっと学問を究める道の途にまた立ち塞がることだろう。そこまで機会を残しておくのも悪くない。それに、他にも学ぶべき知識は無限に広がっている。通り過ぎたことに延々と後悔を連ねる暇などありはしない。
自分の在り方について何かを悩む時間ほど勿体ないものはない。無限の歩みと邂逅が自分を構成していくのだから。
「……雨、上がったか」
傘を折り畳み始める。と、廃墟の片隅からこちらに向かって歩いてくる人影を見つけた。
「あー、こんなところにいたぁ。探したんだから」
うっすらと浮かぶその姿は、大陸風の衣装を纏ったいつぞやの門番だった。両手で陶磁の電話機を抱えているが、そのコードは切れていた。
「あ、えーっと、誰だっけ?」
「紅美鈴よ、美鈴! 門番の」
「最近物覚えが悪くてな。確かそんな奴がいたようないなかったような」
「いたのよ! それよりも、あんたに電話」
「電話?」
差し出された電話の受話器を取って、不審そうに答える魔理沙。
「あー、もしもし?」
『もってかないでー』
それは、先程魔法決戦を繰り広げたパチュリー・ノーレッジの情けない声だった。
「なんだよ。私がなにしたっていうんだ」
『ウチの本くすねていったでしょ』
確かに、魔理沙の目の前にははち切れそうになった唐草模様の風呂敷包みが転がっていた。魔理沙は意地悪そうに白い歯を見せる。
「……よく分かったな。あれだけあるんだから数冊ぐらい良いだろ」
『ばかー。数冊じゃない、数十冊……それに、本は私の家族なの恋人なの全てなのお……図書館から本が減るなんて耐えられないわよ』
「読んだら返すからいいだろ……ま、私は速読苦手だから返却は無期限ってことでよろしくお願いしますわ」
『そんなぁ』
「レミリアもいなくなったみたいし、ウチの真下に図書館繋げてくれたらいつでも返せるぜ。私もそっちの方が便利だから、考えといてくれ。喘息によく効くお茶でも準備して待ってるからな」
受話器の向こうで哀願の泣き声やらわめき声やらが続いていたが、魔理沙は肩を竦めて受話器を戻した。
「さてと……あんたはどうするんだ? 紅白の巫女が職場をぶっ壊しちまったみたいだが」
「あんたも荷担してるでしょ。罪の意識が皆無ね」
「それでこそ私だぜ」
電話を地面においた美鈴は少しあきれながらも、両肩を軽く揉んでから持参した愛用の矛を担いだ。矛の先には小さな布の包みが括り付けてある。
「これも機会だと思って外を出歩いてみることにするわ。門番やってる以外の記憶ないものね。見聞を広めるのも悪くないでしょ」
「門番にしては前向きだな」
「今回は上手く働けなかったから、もっと実力をつけてなくちゃ。巫女料理への道は遠く険しいわ」
「まだ狙ってたのか」
「そして、いつかまた最強の門番としてこの世界に君臨するのよ!」
「志が高いか低いかよくわからんな」
「いいじゃない別に。人のことなんだからほっておきなさいよ」
……でも、あれほど強力な力を持つ存在が、このくらいの騒ぎで大人しくなるなんてのも考えにくい。目の前の少女がまた門番として立ち塞がる日も案外……そんなに遠くないのかもしれない。
「……じゃ、あたしいくわ。バイバイ」
「巫女料理の予行とかいって、無闇に人間襲うなよ。そのうち懲らしめにいくぞ」
「ほどほどにしとくー」
「やっぱり襲うつもりか」
運命から解き放たれた元門番の少女は、手を振りながら朝日が昇る方角へと歩み去っていく。まだ日は昇らないが、ぼんやりと明るくなって来ているようだ。明けの明星が雲間に輝いている。
「……さてと、私も帰るか」
魔法使いは箒にまたがろうとして……もう一度紅魔館の廃墟を振り返り、館の中で別れた二人の友人のことを想った。
二人は結構良い組み合わせだと、素直に評すことができる。それこそ、少しばかり嫉妬してしまいそうになるぐらいに……。
だからこそ、
だからこそ、何とも言えない気持ちになる。
と。
思考の脈絡を越えて、いつか読んだ詞の一節が浮き上がった。
『……さればわれ恋しつつ、
また恋をしらず、
まよひつつなお
迷いを知らぬ。』
一体誰が、誰の為に詠んだ歌なのだろう。言の葉に刻まれた詠嘆の機微を悟るには、少女はまだまだ勉強不足だった。
「よしっ、」
───霧雨魔理沙は大きく深呼吸して、夜
と朝の境界線を見上げた。
さぁ、帰ろう。
久しぶりの朝日を満喫する為に。
家に帰れば、仕掛けてきたシチューが良い具合に煮詰まって美味しくなっているはずだ。神社に持っていってやろう。きっと文句をいいながらも喜んで食べるはずだから。
その笑顔を思い巡らしながら、魔法使いは飛び立つ。
箒の先端に括り付けた重そうな風呂敷包みのせいで、ふらふらと揺れながら。
東の空はゆっくりと明度を増している。
☆
朝を待ちながら、ぼんやりと濁る思考はずっと考え続けていた。
……なぜ、自分は幻想郷に招かれたのだろう。
レミリアが敷衍した強力な紅の魔法に対して博麗の結界が尋常ではない脅威を察知し、現在の代の巫女に増援を必要としたのだろうか? あるいは、博麗の巫女が敗れた時の為の予備だったのだろうか? 破壊に行使した
力も、外界にまで広がっていた霧───もは
や関係がないなどとはいえないだろう───
からも、レミリアの存在が危険すぎたということは理解できる。ただ、そういう無味乾燥な理由で納得してしまいたくなかった。それが単なる我が儘でしかないとしても。
血を流しすぎたせいか、頭が全然回らない。
……横から聞こえていた寝息が、テンポを変えた。小さく震えて……瞼が引きつるように動き始める。
暖かさを感じながら、小さく声を掛けた。
「………霊夢」
「………………」
「霊夢」
「………………命?」
「おはよう、ねぼすけさん」
左手でごしごしと目をこすりながら、霊夢は横を向いた。
命と霊夢は、並んで座り込んでいた。
ここは、博麗神社。
その本殿の屋根の下、張り出した廊下。二人は壁に背を預けて座っていた。
「………おはよ、命」
「おはよう」
「帰ってきたのね、私達」
「そうだよ」
「命が連れて帰ってくれたの?」
「うん」
「そっか、ありがと」
「ううん」
「もう、足手まといなんていえないわね」
「そんなことないよ。霊夢に守ってもらったから、帰ってこれたんだ。菅原命の、ままで」
「私にお世辞いっても何も出ないわよ。うち貧乏だしね」
真っ黒の顔のままで命は笑った。本当は全身傷だらけで、笑う度にあちこちが痛んだが、それでも自然に笑ってしまう。
霊夢はきょとんとしていたが、命があんまり無邪気に笑うものだから、頬をぷくっと膨らませてそっぽを向いてしまった。
「ごめんよ霊夢」
「じゃ、笑うのやめなさいよ」
「うん、でも、ちょっと笑いたい気分なんだよ、どうしてだろ」
「もう」
「……そういや、怪我は大丈夫?」
「みりゃわかるでしょ、ぴんぴんしてるでしょ。ちょっと頭がふらふらするけどなんともないわ。それより、一般人のくせに人の心配してるんじゃないわよ。そっちの方が真っ黒焦げでズタボロのくせに」
「僕は大丈夫だよ。ほら、生きてるでしょ」
「じゃ、私も大丈夫よ」
「そっか。そりゃ良かった」
「今回はなんだかいろいろ苦労したけどね」
「ごめん」
「あんたが謝ることじゃないでしょ」
「そうだね」
そこで、言葉は途切れた。
肩を寄せ合いながら、東から迫ってくる夜と朝の境界線を眺めていた。それは、まるで幻想郷を象徴するかのように、見事なグラデーションで……何処から何処までが夜なのか朝なのか、決め難いぐらい美しく、空を渡っていく。
「朝が、来る」
「ええ。久しぶりだわ」
やがて、遙か彼方の稜線の向こうが純白に
縁取られた。そこから光が溢れ───
長らく不在だった空の守護者がゆっくりと登り始める。
太陽という名の、夢の封印者。
二人は目を細める。
光が溢れて、闇と紅が一時的に覆い隠していた全ての存在に、色と意味を与えていく。
世界が生まれ変わる瞬間。
「うわ……」
命が感嘆する。
今まで闇に包まれていた、博麗神社の境内が本来の姿を顕していた。
階段から本殿へと続く石畳の道の左右には、命の身長ほどもある向日葵が連なっていて、登ってきた太陽に向かって黄色い貌を上げようとしている。手水舎の向こうには池が広がっていて、開いたばかりの蓮の花が点在していた。爪紅やら紅蓮やら白蓮やら、白と赤を天の配剤で揃え浮かべた曼陀羅が広がっている。その上を働き者の蜂がゆっくりと舞い飛んでいる。その他の木々にも、色とりどりの花々にもみな、雨露と夜露が掛かっていて、太陽の光を浴びて一様に輝いていた。この時間の恩恵、ひとときの宝石。遠くからヒグラシの声が聞こえ始めた。時間が経てばそこにクマゼミや、アブラゼミや、ミンミンゼミなども加わっていくことだろう。
陽が帰ってきた。
夏が帰ってきたのだ。
霊夢の暖かさを感じながら、命は思う。
誰だってこの光景を見れば、ここが桃源郷だと信じるに違いない。
幻想郷は輝いていた。
日の光の中で祝福されていた。
───レミリア・スカーレットは、博麗の
結界を、博麗の巫女という贄を得て守られ続ける、古き人と妖怪の為の揺籃だといった。たしかにそういう側面はあるんだろう。
でも、それだけじゃないと思う。
多分、過去の人間が本当に封じ込めたかったのは妖怪なんかじゃなく、甘い夜への恐れや不安や憧れや夢だ。それは決して人間の心から切り離せないけれど、棚上げしないと自分達は発展しないと気づいたのだろう。
博麗は、そんな人間に「変わらなくていいよ」と囁きながら、稚児を寝かしつける優しい声。流れる歴史の中、移り変わる価値観の中でも、そのままであればいいと頷いてくれる笑顔だ。だから、昔のままの妖怪や呑気な人間は幻想郷のなかでゆったりと暮らす。もちろん、それなりの能力がないと生きてはいけないだろうが、それは結界の中でも外でも同じことだ。
博麗は、何も否定せず、すべてを優しく受け止める。結界の中の人間も妖怪も、結界の外の人間の幻想も。全ては一睡の夢として、胡蝶の夢として。
そのために博麗霊夢はいる。幻想郷という、現実の狭間に残された夢を守り、夢を祀り、夢を抱いて眠る守護者として。どんな哀しい夢も悪夢も全て。汚れた水を川が、海が、永い永い時間を掛けて綺麗に濾過していくように………。
あの優しくも哀しい吸血鬼の想い、彼女に全てを捧げたメイドの願い、そこに至る道筋がどんなものであったのか、自分にどうまつわるものであったかも……恐らく霊夢にはすべて「視えて」いるはずだ。博麗のなり損ないの自分にだって垣間見えたのだから。
それでも。
それでも、彼女は微笑んでいる。
あまたの夢の一つとして。
この世界なら、その夢が消え去ることのないまま残っても良いことをしっているから?
この優しい世界がその夢を、いつか叶えるとしっているから? 信じているから?
それは、命にはわからない。
もう博麗ではないから。
それでも、ただ一つだけ……一つだけ、自分で決めなければいけないことがあるのは、わかっていた。
「………帰らなきゃ」
夢見心地で、命は呟く。
「迷子なんじゃなかったの?」
「今なら、帰れる気がするんだ」
「そうなんだ」
「うん」
今帰らないと多分、下界への道は二度と開かないだろう。博麗大結界はもう、余分な博麗を必要としていない。勿論、『特殊な一般人』として残る分には、拒絶されはしないだろうが。
それに、自分が消えれば向こうではいろいろと問題が発生するに違いない。幻想郷に迷い込んでからはずっと夜だったから、時間感覚が消失しているが、一体どれだけ家を空けてしまったのか不安だった。「あれだけ」愛してくれる人が現在の自分にいるかどうかは疑問だったが、それでも……十六夜咲夜を生んでしまった悲劇を繰り返すのは嫌だった。
「そっか、帰るのか」
「うん」
「そっか」
「……………うん」
「わかった。迷子はやっぱりよくないわよね」
無言で頷き返す。
もうそれしか、出来なかった。
霊夢は、右手を……燃え盛る館の上空で命が助け出して以来、ずっと握りっぱなしだった右手を一度、さりげなく、しかし強くぎゅぅっと握ってから、ぱっと離した。ぼろぼろになった命の掌には、暖かい感触が残っている。
霊夢は立ち上がり……ふらふらと二、三歩よろめいて、まっすぐ立った。
「本当に大丈夫? 霊夢」
「しつこいわねぇ。そっちこそ歩けるの? へたり込んでも送っていかないわよ」
「大丈夫だよ」
本当は全然大丈夫なんかじゃなかったが、命は我慢して立ち上がった。
「ほらね」
「やせ我慢」
「そんなことないよ」
「どーかしら」
本殿の階段を降り、振り向く。
大きな楠に囲まれた、小さな小さな社。
ここが世界の中心なのだ。
幻想郷の中心。
そして、外の世界の人間が視るかもしれない、夢の中心。
ここにはいつも、霊夢がいる。
微笑んでいる。
それでいいと思った。
「………そういや、預かった小太刀なくしちゃった。ごめん」
「いいのよ。あんなもの、物置にいくらでも転がってるんだから」
「そうは思えないけどな……あ、この服も魔理沙に借りっぱなしだ」
「あの子も気にしないでしょ。ま、出世払いするっていってたって伝えておいてあげるから」
「高そうだなぁ」
欄干に立てかけてあった箒を持って霊夢がいう。
「どうせだからお参りしていってよ。ウチ、収入なくて困ってるのよ。三年に一度ぐらい、ぼけたじーさんが結界越えて入ってくることがあるくらいで」
「その人どうなったの?」
「普通に戻っていったわよ。ま、結界っていってもそのくらいのものなのよね、結局は」
「いい加減だね」
ズボンのポケットをまさぐると、裸の百円玉と五十円玉が出てきた。すっかり忘れていたが、着替えた時に入れ替えたに違いない。無造作に賽銭箱に放り投げ、柏手を二回打って深くゆっくりと礼をする。
「………何をお願いしたの?」
「秘密」
「ケチ」
空はもう、何処をみても青空だった。
まだ朝の空気は澄んでいる。これから日がもっと昇り、暑くなってくると空は白く濁ってくる。盛夏の空だ。顔に当たる日差しが強くなってきているのを、地に落ちる影が黒くなっていくのを感じた。
「それじゃいくね、霊夢」
「もう迷子になっちゃだめよ」
「わかってるって」
まるで明日も遊ぶ相手のように軽く挨拶。
霊夢も腕を組みながら軽く手を振る。
そのまま石畳を歩き始める。
全身が痛み、汗やら血やらが吹き出ていたが気にしなかった。すっくと背を伸ばし、真っ直ぐに歩いた。
途中の手水舎で手を洗い、血の味しかしなかった口をすすいだ。何度も何度も顔に水をぶつけ、腕でごしごしと拭った。
長い石段の手前、今にも倒れそうな鳥居の下で、命はもう一度振り返った。
霊夢はさっきと同じ場所で同じように立っていた。早く行きなさいよと言わんばかりに、苦笑しつつ手を振っている。霊夢の隣に立つ一本の向日葵が、まるで霊夢と背比べをする為に背伸びをしているようで、なんだか可笑しかった。
その光景を、
緑や青や黄色や、様々な色に彩られた博麗神社を……その中で微笑む永遠の巫女を網膜に焼き付けながら。
命は、神社に向かって祈った願いを口の中でもう一度呟いていた。
幻想郷がいつまでも美しくありますように。
霊夢がいつまでも、笑っていますように。
────────────────────
神社から下ってどう歩いたかなんて覚えているわけなどなかった。体力は限界に近づいていたし、道らしい道もなかった。なのに、やけにあっさりと舗装された道に飛び出てしまって拍子抜けしたのは確かだ。
次の記憶は、大勢の人に囲まれて安っぽい担架に乗せられているシーン。これまで一度も声を荒げたことのない父親が衆目はばからず怒鳴るし、普段は口から生まれたようなやかましい母親が自分に寄りすがって言葉もなくわんわん泣いているし、その反応に苦慮するばかりだったような気がする。怪我が酷すぎたのか、その辺から痛みを感じなくなっていた。もう処置が済んだ後だったのかもしれない。
どうやら数日に渡って警察や村の人による大規模な山狩りが行われていたらしく、なんと担任の先生まで夏休み返上で村に来ていたらしい。恐らく残るであろう身体中の傷のことといい、新学期を考えると今から憂鬱になる。
しばらくはそのまま、祖母の家で静養した。
暑い気温の中、畳の上で転がっていると、帰ってきたんだなという実感がようやく湧いてきた。それは、迷子から帰ってきたというのよりは、この夏初めて里帰りを果たしたようなデジャヴに包まれるような感触だった。
夜、誰もいない間に、父親が怒鳴ったことをこっそり謝りにきた。なんだか赤面気味な父親の姿を見て、やっぱり帰ってきてよかったと、そんな妙なことを考えた。
ずっと看病してくれた祖母に、それとなく聞いてみたことがあった。ずっと昔この近所で、火事で焼け落ちた館がなかったかと。祖母は少しだけ目を見開いて……予想通り、何も答えてくれなかった。ただ、沈黙が回答であることをしるぐらいには、彼は成長していた。
そして、村落の外れに住んでいたはずの日傘の美女について覚えている村人は、もう誰もいなかった。
数日もすると、回復は軌道に乗った。躯は相変わらずの調子で、至るところに包帯を巻き、ミイラ男そのものだったが、なんとか普通に歩けるぐらいにはなった。もちろん、軽快に空を駆けたあの能力は幻想と共に去り、満身創痍の躯は鉛のように重たい。ただ、首筋についていたあの印象的なナイフの傷だけは、不思議と失われていた。
大騒動で潰されてしまった父親の夏期休暇は終わった。有休まで使ったと聞いて気の毒になったが、父親は笑っていた。命は素直に謝った。
帰りも、最寄りの駅までは近所のおじさんが車に乗せていってくれるらしい。祖母の家の前で多大な迷惑を掛けてしまったことを謝りつつ、命は次の言葉を繋いだ。
「あの、ちょっとお願いがあるんですが」
森の間の林道を疾走する4WD車。
その荷台で膝を抱えながら、命は遠ざかっていく山脈を見つめていた。
自分でも変な願いだと思ったが、そうせずにはいられなかった。両親も配慮してくれたのか、とやかくいうことはなかった。頼まれたおじさんが一番当惑したことだろう。
その日も空は快晴だった。あれだけ深い霧が立ちこめていたことなどまるで嘘のように、夏らしい暑い一日。荷台の鉄板も焼けていて、尻が熱かった。
山脈の稜線は青みがかって霞んでいく。
あの向こうに自分がいたというのが、なんだか信じられなかった。だけど、数日前まで待ち望んでいたクーラーとアイスとプレステの夏に戻っていくのもまた、なんだか違和感ばかりしか感じなかった。自分が何者なのか、よく分からない気がした。
……視界を、黒い何かがよぎった。
首を上げて視線で追う。何のことはない、ありふれた黒揚羽だった。
それが、
それがなぜか、
命の記憶のドアの鍵を開ける。
幻想郷を離れてからずっと靄が掛かっていた記憶が、布で拭き取ったかのように鮮明に蘇ってくる。
赤と白の幻想となって脳裏を舞う。
どこまでも黒い闇夜が、
そこに君臨した巨大な紅月が、
悪戯めいて笑う小さな魔法使いが、
差し出されたお茶の色が、
吹雪いていた湖上のテントが、
横たわった瀟洒で不気味な洋館が、
自分をつけねらったナイフの切っ先が、
絶対の自信とともに立ち塞がった最強の従者が、
誰の時間も止められなかった懐中時計が、
時の狭間で彷徨い続けた紅き運命の少女が。
そのどれもが、まるで目の前にいるかのような鮮やかさで蘇っては消えていく。
…………そして。
決して消えない。
自分の隣で微笑んでいたその笑顔が。
今も残るてのひらの感触が。
たとえそれが、紅き夜に瞬いた一献の甘き夢でしかなかったとしても、狂い咲きの蓮の花に惑わされていただけだったとしても。
少年にとってはかけがえのない時間だった。
出会い。
別れ。
生きていく過程での必然。
自ら望んで為したことであっても、胸が締め付けられてどうにもならない。どうしてこんなに苦しいのだろう。彼女は今も笑っているのだろうか? 笑っていて欲しい。でも、その姿を思い浮かべるとまた、張り裂けそうになる。
だって。
だってもう、あの紅白の幻想蝶は、自分の空を飛ぶことはない。
博麗に触れた自分だからわかる。
でも、それは悔しい。
納得できない。
でも、でも…………。
思考がぐちゃぐちゃになる。
目の前がなんだか霞んでくる。こんなにも空は青く澄んでいるのに。夏の空はこんなにも高いのに。
腕で何度拭っても、瞳からは熱いものがこぼれ落ちて止まらない。
少女の幻影は消えない。
やがて、少年はなすがままに任せることにした。今なら誰にも聞こえない。車は走っているし、風は隠してくれる。両親にも聞こえることはないだろう。だから、今だけは。
これで最後にしよう。
こんなにみっともなく泣くのは最後にしよう。
そう自分に言い聞かせながら、命は大声を上げて泣きじゃくった。
黒揚羽の姿はもう何処にもない。
青空の向こうに、蝶は飛ばない。
現実と幻想の境界を越えて、風が吹き抜けていく。
何処までも続く青空の下を、少年期を載せた車は走り抜けていく。
夏はまだ終わらない。
そして───
菅原命が霧雨魔理沙の占いについて思い至るのは、もう少しだけ先のことになる。
※ 本編で使った詩は、呉茂一・訳
ギリシア・ローマ抒情詩選・花冠」(岩波文庫)から引用しました。
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