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肩を落とした門番が、門の前で力無く手を振っている。
律儀に手を振り返そうとして……命は、巫女と魔法使いから白眼視されつつあることに気づいた。案外、人のことはいえないのかもしれない。
三人は黙したまま、緋色の煉瓦で舗装された道を進む。
左右から包み込むように広がる館。上空から見ればコの字の形をしているのだが、霧で輪郭が歪んでいるためか、或いはスケールが大きすぎて視界に捕らえきれないせいか、悪魔が両手と大口を広げて、来る者を捕食するかのような連想をさせる。和洋折衷の古風なその様式も、異様な雰囲気を加味していた。
月光で染め上げられているから判別しにくいが、館それ自体も紅に塗装されているらしい。館の主が強烈な個性を持つこの色を愛して止まないことを肌で感じ取る。また、館には窓がほとんどなく、のっぺりとした壁が延々と続いている。それもまた、紅の館の印象を強調していた。
「紅魔館……か」
美鈴が呼んだその名前を、口の中で呟いてみる。
それは確かに、この屋敷にもっとも相応しい名前のように感じられた。
「なんだ命、怖いのか?」
前を行く魔理沙が振り返る。立ち止まりはしないが、霊夢もこちらを見ているようだ。
「怖くなんか、ないさ」
「強がりは三文の得にはならないぜ」
「本当に怖かったら、こんなところにこれないよ。僕、臆病だし」
命は自然にそういった。従来の強がりではない。ただ、自分がここにいることの違和感が薄まってきてるような気がするのだ。
「でも……僕は、ここに来なきゃいけなかったんだろうな、って思えて」
「どうして?」
「どうしてだろう。やっぱり、悪魔に引っ張られてるだけなのかも、しれないけど」
霊夢の問いにも答えるでもない。
ただ、命には歩くだけだった。
そして、その思いは歩みを進めるごとに強くなる。掴んだ小太刀が、一緒にいてくれる二人の存在が、自分を強く支えていると感じながら。もしここで一人ならと考えると、狂気が開放されそうになる。
「らしくなってきたな、特殊な一般人」
「その言い回し、あんまり好きじゃないんだけど」
「贅沢な奴だぜ」
「全くね」
☆
……三つの足音の輪唱は、暫くして止んだ。
三人は立ち止まっている。
裾野の広がった階段の上には、紅魔館の玄関が聳えている。またも巨大な門。ここから先は、完全に『あちら側』といえるだろう。
そもそも門や扉とは、きわめて恣意的な意志を感じさせるものだ。そこが客人を迎え入れるかどうか……それは館を建ててその世界を区切った存在自体を象徴している。これだけ無駄に巨大な扉ばかりを打ち立てる意志について想像するだけで、命は寒気を感じるのだった。
霧が濃くなってきた。霧自体も紅を帯びてきているようだ。
今は人界遥か、ここは魔界の入口。
「さて。忘れないうちに準備しておかないと……命、傷を見せてみろ」
魔理沙に言われるまま、シャツのボタンを外す。傷は相変わらずだが、出血は滲む程度に収まっていた。魔理沙はそこに、リュックから取りだした塗り薬を薄く塗布する。
「敵の領域に入ってどれだけ効果があるかは疑問だが、ないよりはマシだろ。一応消毒効果もある」
「ありがとう」
「わたしはこれね」
霊夢からルーミアの時と同じ霊札を五枚ほど渡される。
「どうせ扱い方なんてしらないんだから、あくまでもお守りでしかないわ。非常事態が発生しても当てにはしないこと」
「うん、分かった。でも、霊夢は?」
「心配しなくても、腐るほど持ってるわよ。それに、札よりこっちの方が使い易いから」
霊夢は裾から、太極文様の彫り込まれた珠を二つ出して見せた。
「何これ?」
「陰陽玉だよ。博麗神社最大の宝物で、幻想郷七不思議の一つってところだ。博麗の力を持つ者が使えばあらゆる奇跡を起こすといわれてる」
魔理沙が神妙な声で説明する。
「へぇ。こんなのが……」
「ま、起こす奇跡の八割方はへぼっちいけどな。香り出したり水滴垂らしたり。使ってるのがこいつの限り仕方ないぜ」
「魔理沙、あんたもいうようになったわね」
「間違っちゃいないだろ」
「それになによ、幻想郷七不思議って。そんなの聞いたこともないわよ」
「そりゃお前が神社以外のことに興味抱かないからだぜ。人の魂を吸って咲く妖怪桜とか、主亡く闇を彷徨う巨大な図書館とか、空を貫く亡霊弓とかな」
「どこにでもありそうな安っぽいネタね」
「否定はしない」
霊夢は陰陽玉をしまうと、紅魔館に向き直った。
「さて、いつまでも先方を待たせることもないわね……準備は良い?」
魔理沙がリュックを背負いなおして、箒を肩に担ぐ。
「面白い展開を期待してるよ」
命は襟を整え、つばを飲み込んだ。
「いいよ、霊夢」
「いくわよ」
三人がエントランスの階段を登り切ると、屋敷の中に三つの長い影が伸びていった。月光で切り取られた部分以外は、闇。
霊夢を先頭に、命、魔理沙の順番で紅魔館に入っていく。
三人が屋敷の屋根の下に入ったと同時に、背後で扉が閉まり始めた。
「霊夢」
命が小声で喚起を促すが、霊夢はたじろがない。そして、扉はゆっくりと閉ざされる。
「………………」
沈黙の中、完全な闇に支配された空間。
魔理沙がぼやく。
「ここは灯りまでセルフサービスさせるのか」
(……いや、違う)
命は、左右に何者かの気配を感じ始めた。霊夢や魔理沙の存在とは違う。明確に違っている。
それ自体がぼんやりと幽光を放つ、個性のない少女達。燐の如くおぼろに。一瞬ごとにその存在は、剥き出しの魂になり、メイドの姿をした少女の姿になる。それが、一定間隔で整然と並んでいるのだ。
「………っ」
「いまさら幽霊ぐらいで驚くことはないぜ、命」
「これだけの数をまとめて見るのは久しぶりだけれどね」
霊夢と魔理沙は平然と対応している。
二人の言葉を待っていたかのように、青白い光が灯った。それによって二階に吹き抜ける巨大な玄関の威容が露わにされた。
存在が曖昧な少女達。その中の一人が階上へ続く階段の踊り場に立ち、手に燭台を捧げ持っている。醒めた蒼の光は、ガスバーナーの炎に似ていたが、何かを触媒にして燃える顕界のものではない。死と静謐と共に揺れる炎。それに照らされる少女の瞳に黒目はなく、口元だけが天使のように微笑んでいる。少女はたおやかに会釈すると、手で二階への道を指し示した。
「案内してくれるって」
「御主人様は台本通り、玉座の間でお出迎えか」
動き出した二人の気配を追って、命も動き出す。左右の亡霊少女達の列が、囁き合って微笑むように蠢くたびに、肌が粟立つのを感じていた。やはりここは、人間の居るべき世界ではないのだと痛感させられる。
階段を登り、長い長い廊下を歩く。敷き詰められた絨毯は、歩きにくいほどに高く、燃えるような緋色。足音は全て吸収されてしまうかのようだ。
壁には絵の嵌められていない額縁。
両脇には蝋の溶けた三つ又の燭台。
窓もないのに結わえ付けられた一対のカーテン。
そういう悪意が浮かんでは遠ざかっていく。
先頭のメイド嬢は歩いているように見えるが、ときおり足が見えなくなったり、燭台だけが流れていく時もあった。蝋燭の上の蒼だけが途切れずに輝く。その光の中でも世界は紅く見えるのだった。
命は白く褪せた自分の腕を見る。
この下に温かい血が循環しているとは、到底思えない。
「……紅い背景と蒼い光で紫に見えないのはおかしいよな。この館の持ち主はよっぽど自己顕示欲が強いらしいな」
「本当にそうね。窓がないってのに、何色で塗っても意味無いわよね」
先頭を行く幽鬼の少女が、口を押さえて笑っている。二人の会話が楽しいのだろうか。
「あー、あんたも理解してくれるの? 見所のある死霊ね。神社に来たら手厚く弔ってあげるわよ」
少女は首を横に振る。
「あ、そ。ここの待遇がいいのよね、きっと」
今度は首を縦に振った。
霊夢と魔理沙は肩を竦めた。
(呆れたいのはこっちだよ……)
命は緊張しながらも混乱せずにいられない。普通に亡霊と話をする二人の頭の中をはどうなっているのだろう。それに引き換え……馴れてきたとはいえ、まだまだ自分は常識の内の人間なのだと痛感できて、どこかで安堵するのだった。
「幸と不幸の境界線は、たとえ博麗の巫女でも引っ張れないもんな。なぁ霊夢」
「そうだけどね。死んでまで他人に仕えたりするのは遠慮したいな、私としては」
「死ぬ前だってそんな気はさらさらないだろ」
「まぁね」
「つーか神社の仕事は宮仕えとはいわないのか?」
「言葉の綾ってやつよ」
魔理沙は、命の表情から緊張半分その他半分を読みとったらしく、くっくっくっと意地悪く笑う。
「命、こいつの価値基準が正しいとはおもわんだろうが……要するに、たとえ世界が紅かろうが蒼かろうが、見つけた黄色い扉の向こうに真実があるって思うのは大間違いだってことだ。感じ方の枠に当てはめられない事態は、世の中にはたくさんある。結界の中にも、外にもな」
「それは……多分、分かるよ」
「分かってないんだろうな、きっと」
霊夢はいつものように飄々と歩いていく。おそらくは、太陽の下と同じように。
彼女達の生き方は、命のそれとは大きく異なっている。それはこの世界に来て重々理解した、と思う。だけどその根本が何処にあるかまでは、命の想像力では到底届きそうにない。だから、齟齬を感じる。人と人外の境界を明確にせず、気楽に亡霊や妖怪と触れ合い、イノチの形を一つに限定しない。それが文明が奪い去った原初の生き方なのだろうか? 文明下の人間達が封じ込めたという、人間や妖怪のあり方なのだろうか……?
不意に、先頭を行く少女が立ち止まった。
「あ、着いたの?」
「結構歩かされたんだが」
霊夢の問いに答えないまま、少女は深々と会釈として……そのまま消え去る。
もちろん、青白い炎と一緒に。
網膜が光を感じた最後のパルスを少年の脳に運んだ瞬間、人間の器官では伝えないその激痛を感じたのは、魔法陣を模して穿たれた痕だった。
どくん!
どくん!
どくん!
まるで第二の心臓のように首筋が跳ねる。疼く。また、喉が渇き始める。
奥歯を噛み締める。呼吸を整える。また訪れる危機に、このくらいで取り乱してはいけないという心が噛みつく。自分の中の何かが変容しつつある自覚。
そして、それが一際跳ね上がったその時、
ぼっ
遠くで赤い炎が灯った。
三つ又の燭台を持つのは、幽霊ではない。
炎もまた、彼岸の産物ではない。
蝋の香りを漂わせながら、その少女は立っている。燭台を手にたたずむメイド。幽霊ではなく、人間の姿をしている。また妖怪なのだろうか? 見分けなどつくはずがない。
霊夢や命よりは年上に見えるが、女性と少女の狭間で揺れるような年頃と窺えた。まっすぐ立っているのに斜に構えたような雰囲気。何処か高貴で、何処か蓮っ葉な、そんな不思議なメイドの姿。
彼女は形だけの礼を取った。
「初めまして、お客様。ずいぶん時間が掛かったわね。お嬢様は首を長くしてお待ちよ」
「いきなり間違いだらけじゃない。まず、初めてじゃないでしょ、うちの神社ぼろぼろにしてくれたし。それにあんたのところのメイド幽霊に案内されてここまで来たのよ、非はそちらにあるんじゃないの?」
「最初のことは、乱暴なお客様に釘を刺すのが私の仕事だから。招待状の形式は申しつけられなかったもの。二番目のことは、あとでいろいろ言って聞かせるから問題ないわ」
「穏便にことを済ませるのが苦手なタイプね」
「経験則よ。それに、今の私は責任ある地位にいるの」
巫女とメイドの間の空気が、静かに流れを渦巻かせる。
「おーおー、二人ともやる気満々だな」
「あっちがその気の場合だけは、受けてあげてもいいって考えるかもね」
「やっぱ面白いぜ、お前」
メイドがふふんと笑う。
「私は十六夜咲夜、この紅魔館のメイド長の職を預かる者」
「しかしメイドが世の中にまだこれほど棲息していたとはな。天然記念物から格下げされても仕方ないところだ」
「古風な魔法使いだって、絶滅してレッドブックからも消滅したかと思ってたわ」
「ま、人外未踏の地に行けば一匹や二匹は残ってるだろうぜ」
「じゃ、百人や二百人のメイドが残っててもおかしくないわね」
「違いない」
メイド長は三人を見て、少し困ったような表情を見せる。
「でも……困ったわね。お客様の数が予定より多いわ」
「ここのお嬢様ってのは、千客万来って訳じゃなさそうね」
「部屋数だけは無駄に多いから、叩き込むのは構わないんだけど。どうせ使用後は私が掃除するんだし。なんだったらいっそのことメイドで就職する?」
「無給で永遠にこき使われるのは勘弁だな。結婚退職可、育児休暇ありで恋愛係なら考えなくもないが」
「魔理沙、無茶苦茶よ。権利は義務を果たしてから告げるものなのよ」
「……変な食い物でも食ったか霊夢」
「うるさいわね」
霊夢と咲夜は一度たりとも視線を外さない。その雰囲気を悟った魔理沙は、軽口を叩くのを止めた。
「立ち話もなんですし、いきましょうか。お嬢様が珍しくお待ちですわ」
「そう。じゃ、案内して貰おうかしら」
咲夜が招くように歩き出す。
いつも通りの霊夢と魔理沙の後ろで、命はゆっくりも進み始める。余裕は皆無。そんな命に、咲夜が少しだけ微笑みかけた、ような気がした。
その微笑に、既視感を覚える。
あれは一体何処だったろう。
僕は何を見てたのだろう。
あの時は、一体……。
「弱みを見せないで。『あちら側』につけ込まれるわよ」
「………」
小声で呟く霊夢にも、命は答えられない。
ただただ、固く握った拳の中の汗が、無力にも凍えていくのを感じていた。
数々の扉や階段が無作為に現れては消えていく。
メイド長を名乗った少女はひたすら直進する。蝋燭の炎が照らす部分だけは廊下で、それ以外は上下左右も消失した暗黒の中を進んでいる気がしてくる。その炎の光すら、霧に包まれて朧としていた。
足音は絨毯に飲まれ、空気の揺れる音さえしない。命は耳の奥に痛みを感じ始めていた。
霊夢も魔理沙も無言だった。
妖気が立ち込めるとはこういう雰囲気なのだろうか。緊張で足下が覚束ない。かろうじて震えていないのは救いだった。二人の前でそんな姿を晒すのはさすがに格好悪い。
……それよりも、と思う。
先頭を行く咲夜について、命は云いようのない不快感を覚えていた。何処かで見たことがある。いや、自分はあの人に襲われて、逃げ出したのではないか?
逃げ出した?
そう、僕は逃げ出したのだ。何処から?
逃げ出すには出発点がいる。
しかし、それが思い出せない。記憶から抜け落ちている。抜け落ちたピースがどんどん増えているような気がする。
博麗神社で二人に話したことの中にそれは含まれていた。帰らなくてはいけないから、と。
……何処へ、帰る?
総毛立つ。
自分は本当に変容しつつあるのか?
立ち止まって考えたくなった。だが、それは許されない。咲夜が持つ、メイドが持つ炎が揺れる限り。襲撃者が希望の光とは皮肉な話しだ。だが事実は動かしようがない。
思考が混沌の中へと引きずり込まれていく。
長い長い長い廊下の途中で。
自分が歩いていることさえ感じられなくて。
不安。
自失。
躊躇。
混迷。
単調な言葉ばかりが頭蓋骨の中で肥大する。
おかしくなってしまいそうだ。
元からおかしいのかもしれない、だっておかしいとおかしくないの違いなんてどこで明快な線を引けばいいというのだ、もう境界線などありはしない、埋もれていく、埋もれていく、埋没してしまう。ただ興味の為だけに底なし沼に足を踏み入れる無知で無垢な子供のようにゆっくりと、ゆっくりとゆっくりとゆっくりとゆっくりとゆっくりとゆっくりと、
「着いたわ」
咲夜の一言が命を仮初めの現実に連れ戻す。導きのキャンドルライトが揺れている。
知らないうちに、大きな硝子の扉の前に立っていた。
「大丈夫か命。顔が真っ青だぜ」
「………」
二人に覗き込まれて、命は笑みを返す。
「うん………まだ、大丈夫」
嘘だった。
だが、嘘でもつかなければ自分を保っていられなかった。小太刀の鞘を握る汗は、したたり落ちるぐらいになっていた。
咲夜が、覆われたカーテンを解き放ち、扉を開く。
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