<位階戦史録>ノーサンバランド -The Shining Express-

間章

神を殺した男



 エヴァルト・エルマラークが、夏へと向かう旅路の途中で非業の死に斃れたのは、ガリウス歴千八百三年、六月二十三日のことだった。彼と彼の盟友、そして彼の運営する会社が八年に渡る涙と流血と闘争の上に敷設してきた大アフグラント鉄道は、総延長八万デラキュビト(約二千キロメートル)。いうまでもないことだが、これは当時建設されたいかなる国の鉄道も遠く及ばない。国家資本でなく、民間の企業家が手がけた鉄道敷設に於いて、これは空前絶後であろう。乗り遅れた産業革命にようやく追いつき、この北の工業後進国に近代化の大きなきっかけをもたらしたことも含め、人類史上において個人が成した偉大な功績として讃えられるべき大偉業の一つであることに疑問を抱く者はいない。
 だが、この惑星に於いて最も大きな領土を保有するアフグラント帝国は、その超人的な努力を持ってしても、手にすることができないほど、広大で、峻烈で、孤独だった。若き英雄は、永遠の冬から夏の皇都へと走り抜けていく弾丸列車を、死のまぎわまで夢見ながら、その生命の炎を燃焼させた。
 彼に断絶をもたらしたのは、しかし、彼が繁栄を望んで止まなかった帝国の、神聖なる最高権力者だった。時の皇帝イバラバン三世。東南の異民族からの略奪によって、母なる大河ヴォルドの流域に発祥するこの農耕民族の領土を一代で二倍の広さにした、苛烈なる英雄帝。その半生を戦争に没入し、常に剣を傍らに置いて過ごした、死への先導者。もし二世紀ほど前に生まれたなら、彼は本当に世界帝国の建設を目指したかもしれない。そしてそれは、或いは叶ったかもしれない。だが、時代はもはや彼を必要とはしていなかった。世界の人々は、この惑星に限界があることを気付き始めていた。そして、奪取した土地は、多大なる努力を持って保持しなければならないことを、既にに十分わきまえていた。まだ、専制権力が絶対であったこの国の不幸は、領土欲に愚直なまでに素直な英雄帝が国全体を左右していたことであった。
 罪は、二つある。皇帝は、母国が疲弊しているのに戦いをやめなかった。そして、皇帝はまた、異質な西部諸国の近代文明を終始忌み嫌った。機関銃や飛行兵器に代表される、大戦期の革命的兵器は登場していなかったとはいえ、産業革命の進展によって戦闘の文明度が日進月歩で上昇していたこの時代、彼の選択がどんな結果を招くかは、容易に想像できるだろう。彼は大地の主となった代償に、人心という財産をなげうってきたのだ。
 そして、今回の鉄道会社総裁の暗殺は、それを決定的なものとした。
 ……アフグラントの夏は短い。だが、それが酷暑になることを、民は知っている。こと、エルマラークが目指した皇都ウラジミラブルクは、草花が太陽を恐れて顔を背けると言われるほど、熱気を宿す都市である。そしてこの年、早晩その猛暑は頂点に達そうかとしていた。

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 王宮というものは、主が変わるにつれて、その姿を変化させるものだ。
 だから、その主の性格を見て取るのはたやすい。いま現在の王宮は、現在の主そのものとも、いえる。巨大なスケールで、掃除こそ行き届いているものの、絨毯も燭台も、質素で威厳が無く、むしろ街の反対側に立つ聖ニコラ・テスタ寺院のほうが、王の住居にふさわしいと、多くの者は感想を述べるだろう。皇帝は自分の関心以外の場所には、注意を払わない人間なのだと、容易に推察できる。
 その王宮、大廊下を早足で進みゆく足音が、ある。
 それに続いて、複数の足音がやってくる。両者とも進む方角は同じく王宮の最深部、謁見の間である。多数の方から声が飛んだ。
「お待ち下さい、ノーサンバランド公。これ以上進むこと、いくら貴方様とてまかりなりません。どうかご辛抱を」
 前方をいく足音が止まり、嗄れた怒声が一喝した。
「黙れ!」
 振り向いたスーツ姿の老人は、大柄で頑丈な体躯によって取り囲む衛兵を威嚇した。いや、彼自身にそのつもりはないのかもしれないが、豊かな髭を蓄えたその顔の、燃えるような銀の相眸に射すくめられて、その場に動ける強者は誰一人としていなかった。
「儂は貴族の身分を陛下にお返しした身なのだ。お主等には陛下の近衛としての覚悟が足らぬ。自分が陛下の御前を護っていることの意味をわきまえているなら、その手にした棹状斧でこの皺首、はねることもたやすいはず。何故即座にそうせぬ」
 多勢に無勢。そして自称狼藉者を取り囲むのは、皇帝に忠実な兵士の中でも、最も勇敢で、優秀とされる猛者達なのだ。だが今や、精神的な優位はどちらにあるか、一目瞭然だった。物々しい、だが旧式の甲冑に身を包んだ衛兵は、微動だに出来ない。
「………………」
 言葉無き者たちを、老人は一笑に付す。
「未だこの老いぼれに恐れを成して、爵位を付けて呼ぶなど笑止の限り。そのような腰抜けに、儂を止めることなどできぬわ。退かぬか、こわっぱども!」
 もはや、その言葉に抗する者はいなかった。それを後目に、老人は悠然と歩みを進める。
 幾つものアーチを抜け、教会建築様式の混合した白亜の柱林の間を抜けると、先程の男たちと同じ姿をした衛兵が、巨大な青緑の鉄門を護っている。何かの指示があったのか、彼らは無言で老人に門を譲った。老人はそれを当然そうに一瞥し、分厚い金属の扉を易々と押し開けていく。扉の軋みが止まない内に、老人は傲然たる声量で、王宮の主に来訪を告げた。
「カルティリャン・ノーサンバランド、再び逢いまみえさせていただく権利を自ら放棄しながら、このようにまかり越すのは恐縮の極みなれど、陛下に必ず上奏したき御話あれば、我が命を偉大なる陛下の右手に捧げて、これこのとおり参上仕った。まずはこの老いぼれの疑問に答えていただきたく思う次第」
広大な謁見の間に、翁は進んでいく。返答は、一段と高い玉座の、巨大な体躯の男から発せられた、轟雷のような声だった。
「流石は、我が皇家に三代に渡って忠誠を尽くし、家臣でありながら最も玉座に近いと崇められた漢。我が両翼にも、未だ汝を止められるものがおらぬ。だが……」
 英雄帝の両眼が、歩み来る老紳士を弾いてしまうほど、怒りに燃える。
「今度の無礼は、いかなる理由を持って成されるのか、そしてそれは、余を満足させうるものであるのかな」
「不可解なことを申される。陛下の御心、朝露と消えた我が盟友の命を持って、この老いぼれの元に跪かせたと喧伝いたしますぞ。高潔なるエルマラークが、民を扇動し母なるアフグラントに混乱と革命をもたらすなどと、幼稚な知恵に惑わされるとは……亡き先代陛下に、臣は会わせる顔がございません」
「この余が唯一の神から王権を賜っており、地上に余の上はないという絶対の戒律を知りながら、父皇を余の比較対象にするとはよい度胸だ。だが、寛大な余は、無学で哀れな翁に、最後に一つ知恵を伝授しておこう。よいか、民が自分たちの力で働けるというのは、悲劇的な錯覚だ。全世界に、民のための国を創ろうとして起きた思想、戦争、そのどれもが、無惨な死と荒れ果てた大地のみを残してきた。何故なら民は、究極的に神ではなく人間でありたいからだ。自己の生活のみが最優先される、狭隘な世界しか持てない生き物なのだ。自分たちでは、何も決めていきたくないのだ。
 王は神と等しい。王は、土地を護り、人を統治する生物なのだ。彼我は絶望的に離れた場所にある。王権を遡上に載せて語ること自体が、本来は神への冒涜なのだ。
 だが、昨今の科学文明は、その絶対真理を忘れ、人という種全体に普遍的な道理を構築しようとしている。人は誰しも生まれたときから自由なのだなどと、愚劣な詭弁家たちのまやかしの言葉が巷を横行している。それに追従するのが、下賤な労働者の意志なのだ。平等は欲望の拡散と増長を招き、絶え間なく続く競争が世界を破滅へと導くということを、きゃつらは考えもしないのだ。王には王の、労働者には労働者の、農奴には農奴の責務というものが存在する。
 だが、小賢しい悪知恵はその神聖な壁を取り除く。
 だから、余は、鉄槌を下す。世界の基盤を護るために。
 だがしかし、老人とは得てして頭の固いものだ。そうだな、カルティリャンよ」
 皇帝は、顔を歪めて、さも残念そうな笑いを浮かべた。最大の皮肉を込めて。対照的に、老人の表情が次第に醒めていく。それは怒りを通り越し、憐憫と失意の、力無い微笑だった。
「ならば、王権と結託した真正教会も、あの醜悪な権力の宝物庫もまた、正しき世の有り様を示していると仰せになるのか」
「頭の痛い問題ではあるが、しかし造作もないこと。坊主どもの金を余が使うことによって、祖国全体にその富は播かれようというもの。皇帝は、統治者であるが故に、優秀な農夫でもあらねばならないからな。うまく種蒔きを終わらせた者だけが、実りの季節にその収穫を喜ぶことができるのだから」
 自分の論に悦に入っている皇帝を、しかし、老人はもう見ていなかった。今にも笑い出しそうにも見えるし、反対に憤怒の表情を浮かべているようにも見える。
 無力感による脱力を、なんとか押し止める。その胸に去来するのは、若き盟友と共にこの国の未来を必死で憂慮し、会社運営の算段をつけるために国内外を駆け続けた、苦しくも刺激と喜びに満ち満ちた日々だ。
 二人でやれば、不可能はないと本気で信じていた。実際、執拗に繰り返された鉄道建設への妨害も、皇帝直属の軍隊との幾多の小競り合いも、何とかいつもやり過ごしていたのだ。まるで、延焼の進む乾燥した草原を、己の剣一つで切り払い、越えていくように。
 だが、圧倒的な権力で我らに立ちふさがった敬愛すべき敵は、結局のところ、何の進歩もなく、立派な玩具を与えられて己が力を錯覚している子供と同じではないか。
 こんな男に、エルマラークは殺されたのか。
 これが嘆かずにいられようか。
 これが怒らずにいられようか。
 ノーサンバランドは、微かに、ゆっくりと頭を振った。皇帝は嫌みな笑顔を更に歪めて、老人を見下ろしている。
「どうした翁、まだ余の卓越した弁を聞きたいのか? ちょうど余も暫しの休息に退屈しておったところだ。この機会にお互いの理解を深くし、無益な闘争に終止符を打つのも、また一興ではないかな」
 返答は、盛夏の太陽のように灼熱した老人の眼光と、彼が一瞬のうちに抜きはなった短銃の銃撃音だった。
 だれも、動けなかった。
 儀仗兵も、侍従も、駆けつけた衛兵も、誰もが彫像のように凍り付き、微動だに出来ない。だが、銃を向けられた当人は、流石は英雄帝というべきか、自分の意志で動かなかったようだ。戦場にいるかのような野獣の容貌には、その代わりに、歯を総て噛み砕くかのような憤怒が湧き出している。
「貴様……」
 その躯には、傷が付いていない。
 老人の銃は、空砲だったのだ。
 硝煙の匂いと、銃撃の余韻が拡散していく中で、カルティリャン・ノーサンバランドは短銃を構えたまま、高らかに宣言した。
「只今の一撃で、私は神を殺した。この国に古くから巣くってきた、皇帝権力という邪悪な神を殺したのだ。この王朝はまだ続くだろう。そして、農奴から税という名の生き血を搾り取るだろう。教会は一層腐敗し、戦乱によって祖国の土は荒廃し、人々は飢えと疫病によって斃れるだろう。この国は、後退と混乱の支配する土地と化すだろう。
 だが絶望するな。
 だが忘れるな。
 この一撃が終わりではない。やがて私に続く者が、この皇都に向けて、この玉座に向けて銃を放つだろう。その時こそが、神自らが選択された、永遠の終わりなのだ。そう……今、この一瞬から、総てが終わり、総てが始まるのだから」

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 ノーサンバランドの処刑は、エルマラークの死からちょうど一ヶ月後の七月二十三日に、王宮前の凱旋広場にて執行された。英雄帝は、これを専政権力の礎の一環とすることを策謀し、中世の野蛮かつ残忍な魔女狩りを復活させ、皇都の民を恐怖させた。即ち、張り付けにした後、焚刑に処したのである。
 老人は死を甘んじて受け入れ、炎の中でも一言の呻き声を挙げることなく、盟友の待つ天界へと旅立った。だが、皇帝の憤激の業火は一向に衰えないばかりか、更に陰湿な復讐へと駆り立てられていくことになる。かねてから我が身とその家族に生命の危機を感じていたノーサンバランドは、皇都ウラジミラブルクへ赴く際に、家族を国外へ脱出させていた。さらに、会社運営を可能な限り一時中断し、その資本を回収して同じく国外の銀行に保管する手だてを打っておくことにしていた。当時既に、隣国との国境を交差する路線の敷設は始まっており、その資金には他国や国家財政や銀行が少なからず関与している。迂闊なことをすれば、戦争の火種になることは明白であった。ノーサンバランドが掛けた保険の一つである。
 だが、イバラバン三世は、麾下の親衛隊・オプリチーニナを使い、正に「草の根を分けて」老人の係累を探し出し、同様に火炙りにしたのだ。勿論、遠縁も女子供も関係なく、である。海外で厳重に護られている場合は、非合法の暗殺に頼った。当然他国で兵士を動かすのは戦争に繋がる非常識な行為だが、皇帝はそのようなことに関知するような漢ではなかったし、なによりオプリチーニナとは、皇帝が望むことを完全に成就するために存在する皇帝の私兵である。
 大アフグラント鉄道も徹底的に弾圧され、経営者、管理者、労働者の区別無く、関わった者総てが容赦無く狩り立てられた。国境より内にある線路は多くが使用不能になってしまった。ノーサンバランドでさえ予想だにしなかった正気の沙汰とは思えない膨大な人的・時間的浪費の末に、会社組織は完全に解体されてしまったのだ。
 「神」を殺すことの代償は、やはり絶大なものだった。だが、これらの暴虐に加え、新たな侵略企画のための農民搾取の発表が、遂に群衆の怒りを爆発させた。
 八月二十九日、王宮前の広場に数千の群衆が詰めかけ、皇帝の非難を口々に叫んだ。対して皇帝騎士団は丸腰同然の彼らに発砲、多数の死傷者を出した。この惨劇が風のように広がっていくのに呼応して、アフグラント全土で群衆蜂起が続発。世にいう「英雄鉄道の乱」はここに勃発し、迸るエネルギーを暴走させるがまま、争いは内戦の様相を呈し始めた。
 怒り狂った皇帝は、自ら兵を率いて平定の指揮を執った。が、一年を費やしても、平定は依然達成できなかった。それどころか、義勇兵相手の戦場で全く予期せぬ不意打ちに遭い、負った傷がきっかけとなって、流行病を罹ってしまった。病床にあった彼は、亡くなった老英雄ノーサンバランドの呪いの声を夜毎に聞き、これを心底恐れ、病状が悪化して行くに連れ、真正教会の司祭を呼びだしては、悪霊退散の儀式を執り行わせるようになった。側近達にしてみれば、体の衰弱よりも、心に巣くった病魔の方が恐ろしかったであろう。
 一旦上昇した高熱は遂にひくことはなく、希代の英雄帝は、五十五歳という若さで命を落とすことになった。国を治める者として無念極まりない、秋口の孤独な死だった。
 その後、皇帝に即位した弱冠十六歳の息子・リューリク二世は、凡庸であった故に、群衆の声をひどく恐れた。彼は父皇の出した命令を全て撤回し、大アフグラント鉄道の再建を国家として責任を持って行うことを国民に宣告して、ようやく事態を収拾した。結果的に、この決定が現在に至るまでの鉄道偏重主義の発端になり、アフグラントはいびつな工業化への道を辿り始めることになるのだが、それはさておき。
 先帝逝去の報と合わせて、この知らせが告げられた朝。
 皇都ウラジミラブルクでは、追悼の鐘よりも更に高く、人々の歓喜の叫びがいつまでも響きわたった。ノーサンバランドやエルマラークの名前が口々に叫ばれた。これは、皇帝の専横に国民の意思が打ち勝った、高らかな鬨の声だったのだ。

 ……数年後。リューリク二世の特命を受け、大アフグラント鉄道に二つの特別列車が誕生することとなった。
 一つは、国民の意思統合の象徴として、民衆から生まれでた英雄の名を冠された。皇都よりいでて、国境を越えて走る超特急「エルマラーク」。
 そして今一つが、高貴な魂の象徴として、命をアフグラントに捧げた老英雄を永遠に讃えるべく存在する、皇室・貴族専用列車「ノーサンバランド」である。完成したばかりのウラジミラブルク駅では、この二つの特急のお披露目が行われた際、二人の英雄の名を連呼する声が、絶え間なく響き渡っていたという。
 時にガリウス歴千八百十二年、早春のことであった。


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