<位階戦史録>ノーサンバランド -The Shining Express-

第三章

神の貌


 


      1

 重い頭を、乾いた音が貫く。それは夜の帳を波立たせて、消えた。
 河原から程近い森。薮の中で、薪にする小枝をゆっくりと集めていたユーヒィの手が止まる。見れば、頬をぶった加害者と、ぶたれた被害者の双方は、互いの罪を許さないかのように、じっと睨み合っている。
「何故、こんな馬鹿げたことをした。命を賭した行為が全て、友情をたてに賞賛されるとでも思ったのか」
「なぜ、ですって? ……学者っていうのは、ホント、応用が利かないのね。杓子定規な発想しかできないんじゃ、真理の何も解りっこないわ」
 マリアの紅い瞳には、明確な非難の色が浮かんでいる。暴力にではなく、理不尽な怒りに対する怒り。時折吹く、冷気を帯びた夜風が、生乾きの白銀の髪を撫でていた。
 ──件の鎖がちぎれ飛び、投げ出された青年二人は、まっ逆さまに転落していった。聳え立つ教会よりも高く、深い闇の顎。が、そこは本当に運良く、深い河だった。勿論、当人たちは実際に着水するまでそんなことを認識する余裕などなかったが。最初に気付いたのは、後ろにいたマリアだった。そして彼女は、二人の行方を確認するやいなや、全く躊躇わずにその身を投げたのである。
 あの乱闘のさなか、全身を強く打ちながらも、傷一つなかったというのは、まさに僥倖だった。そう、誰も責められないのだ、この結果に関しては。が、マリアのとった行動に関して、アレクは本気で怒っていた。丸眼鏡の奥で、奥歯を噛みしめる音がする。
「……馬鹿は死ぬまで解らないか」
「死んだわよ! 何回だって! それでも死にきれないから、こうやってここにいるんじゃない!」
 もう一度振り上げた手を、ユーヒィが止める。
「やめてください!」
 二人の燃えるような視線に目を背け、ユーヒィの声が勢いを失う。
「やめてください。それより、先に進むための行動をしましょう」 
「発生した問題に対処しなければ、又同じ間違いを反復するだけだとは思わないのか」
「………………」
 自分の言葉には力無いという痛感が身を縛り、抗弁を断念させる。それ以上の言葉は掠れて消えた。二人の無事を確認して以後、急速に全身が気怠くなっていった。脳の裏側で木霊する、過去の時間。

『神様の前でだって、あたしは自分が無力であることを認めない!』
『───我等にはもはや、神の恩寵は値しないと思うのですが』

 時を越えてなお力持つ言葉は、依然として存在するのに。
 ……無言。
 ゆっくりと動き出す。散らばった枝を拾いなおし、新たなものを探しながら。残された二人は、ユーヒィの異変に気付いて、視線のやり場を探し、立ち尽くす。
 周囲には鬱蒼と茂る樹々。谷間を埋める落葉樹の世界だ。昼間の太陽が適度に乾燥させた枝々は、焚き火にくべてもよく燃える。程なく集まった可燃物の前で、ユーヒィは倒木から削りだした樹皮と、真っ直ぐな枝を頼りに火を起こし始めた。両手で枝をはさみ、尖らせた先端を樹皮の端で回転させ、摩擦で熱を呼ぶ。難しい作業だが、経験はある。途中からアレクの助けを借りて、二十分ぐらいで煙が立ち始めた。枯れ葉をくべ、炎として安定させる。
 揺れる紅が森を照らし始めると、青年達は上着を脱ぎ、手近な木に掛けた。少女も制服を脱ぎ、肌着だけの姿で炎の前に座る。少し寒かったのか、青白かった肌が熱気の舌に舐められて、急速に生気を取り戻していく。
 まだ、無言でいた。
 三人が出会って以来初めての、気まずい沈黙。ユーヒィは瞳に焦点を失い、焚き火を見つめている。アレクは無事だった眼鏡を掌で弄びながら、ユーヒィの姿に目を細めている。マリアは地面に指を滑らせて、夜の黒と炎の揺らめく橙を感じながら、言葉を押しとどめている。
 焚き火の中で、パチンと枝のはぜる音がする。呼応するように、火の粉が舞う。
 やがて──ユーヒィが、首から掛けたシンボルを握りしめた。思考能力を奮い立たせるが、澄んだ反応は返ってこない。枝々の触れ合うような、微かな囁き。
「神よ、これから私達は、どうするべきなのでしょう……超特急から振り落とされ、しかもあの列車では異変が起こっている。でも、それを追う手段がない。現在の私には、有用な手段が思い浮かびません」
 人に聞かせる意志はないようだ。だが、周囲の人間にとって、中空へ消える詞ほど哀しいものはない。
「ユーヒィは、こんな時どうするの」
「マリア。私は」
「神様は、教えてくれないの」
「……前進しない者に、神が御手を差し伸べることはないのでしょう。私は、私はどうして……何故だろう、こんな……」
 ユーヒィが膝を抱えて丸くなる。顔を伏せてしまう。何もかも、空虚に感じられる。記憶が混乱している。体の四肢が震えて止まらない。今までに一度も体験しなかった……或いは、自分自身に隠し通してきた、孤独。
「ユーヒィ、今の君に必要なのは祈りじゃない。何の思念も関与しない、休息そのものだよ。心配は要らない。僕らがいる」
 焚き火越しに揺らめくアレクの顔。その上に、アレクの鋭い表情、学者としての風貌、笑った顔、怒り顔が、次々に重なる。制御できない記憶が、溢れてくるようだ。ユーヒィはもう一度、顔を覆った。
 その耳に、高音域の旋律が流れ込んでくる。ゆっくり、広がっては消えていく、包み込むような、哀切たる響き。やがて途切れた調べを追う、少女の優しい声。
「……そのまま聞いてていいよ。あたしの、二番目の父親がいつも口ずさんでた歌。子守歌の代わりにしてくれると、いいな」


 やがて、君は去っていく
 心を置き土産に
 ゆっくりと時間を追い越して

 一つ鋼を打つ度に
 命を削って生きていける
 一つ祈りを捧げたら
 命を憂う必要がなくなっていく

 働くことは願うこと
 しかして祈ることは願うこと
 僕は
 魂の自由を願い
 そのうえ肉体の死を願う

 そんなことが悲しいと
 やがて、君は去っていく
 そんな君が悲しいと
 やがて、僕は歩き出す
 永遠の悲しみへ


 悲しい歌。だからだろうか、心に無理なく浸透していく。遮ろうとする壁が存在しないのだ。そう気付いた頃に、ユーヒィは力を使い果たし、昏々たる眠りに引きずり込まれていった。

────────────────────

 自分の手は、とても小さい。そうはっきりと認識したのは、ある厳冬の日のことだった。
 その日、彼は大聖堂の前に立っていた。雪深く、銀色の太陽光が乱反射する朝。晴れてはいても、頬を切る風が鋭利な刃のようだ。それでも礼拝の日になると、徳の高い府主教……彼の父親に神の加護を授けてもらおうと、市民たちが行列を作る。早朝から雪かきをし、そんな人達に羊肉のスープを与え、暖を取ってもらうのが、彼の役目だ。彼の背はまだ父親の半分に満たず、足取りのおぼつかないこともある。それでも彼は、与えられた責務を一生懸命こなそうと走り回っていた。それが、神の最もお喜びになる……自分のもっとも満足できる行為だったから。大聖堂の扉の中から聞こえてくる、ミサの間響き続ける修道女聖歌隊の厳かな賛美歌も、正確に刻を告げる大鐘楼の音韻も、神に仕える者にとっては、日常の光景だ。まだ教義に対しての深い内省を経験していない彼にとっては、取り巻く環境全てを自分を肯定する材料として感じていた。
 行列の中に、幼い少女がいる。自分よりも更に幼い。寒空の中、薄着の上に汚れた外套を纏い、唇を蒼くさせてじっと立っている。表情がない。苦痛も感じられない。ただ、並ぶために並んでいるかのようだ。連れはいないらしい。時折進む列に、なんとか歩調を合わせている。彼は勤めを続けながらも、少女から目を離せずにいた。特別扱いはいけないと、父からも、他の司祭からも教育されていたが、孤独な少女の様子は彼の心をひどく波立たせた。
 突如、異変が起こった。行列に向かって、二頭立ての馬車が突進してきたのだ。乗っていたのは、貴族か資本家だったのだろうが、周囲は大混乱し、人々は飛び、逃げ、転んだ。馬車が雪上に一対の轍を残していった後には、幾人もの怪我人が残された。すぐさま、牧士たちが駆け出し、手当を始める。父が他の聖職者たちに指示を与える中、彼は少女の姿を探した。少女は先程のままの冷たい顔で、復元されつつある列の中にいた。彼は周囲の人に声を掛けながら、彼女に近付いていき、怪我の有無を尋ねた。精いっぱいの笑顔を浮かべて、手を差し伸べる。
 応答は、なかった。
 少女は冷たい表情のまま、じっと黙し、ただ前方を見て並んでいる。自分に一瞥をくれることもない。風が切るように吹きすさび始めたが、彼は動くことができなかった。先輩の修道士に叱責されるまで、彼はじっとそこにいた。疑問だった。何故、少女は答えてくれなかったのか。自分の言葉に、人々はいつも笑顔で答えてくれた。少女だという理由で、興味を持った自分がいけなかったのか。
 夜。一日の勤めが終わり、暗い自室に戻った後も、彼は椅子にその身を沈めていた。外で激しく舞い上がる吹雪が不具合の格子を激しく揺らす。隙間風の冷気を掴もうとするかのように、右手を何度も何度も握りしめる。そこで、ふと思う。自分の手の、なんと小さいことか。他人と比べてではなく、それは無知無力な自分を象徴しているようだ。この上に何を乗せたとしても、きっとこぼれ落ちてしまうだろう。
 些少なスープを一杯啜って、何処かへ去った少女は、この吹雪の中で何処に身を置いているのだろう。元々自分は、父親の本当の息子ではなかった。最古の記憶は、父親に連れられて歩く夜の街、ただそれのみ。孤児であることに衝撃を受けないよう、父親は事実を明言した上で、最上の厳格さと優しさを持って彼を育ててきた。だが、教会内に幾ばくかのしこりがあるのは知っていた。何故、府主教はただ一人の孤児を選択し、英知を授けるのか。彼は僅かに疑問を抱かないではなかった。だが、今日のことでそれは顕在化した。同じような境遇にありながら、自分は今、多少なりと暖をとれる場所にいる。少女は壁の内側で寒さをしのいでいるのだろうか。人は皆平等なはずなのに、確固たる矛盾がここにある。そう思いたくはないが、思わなければならない。力の入らない右手を左手で覆って、机に伏している。見えない壁。普段気にもしない記憶の障壁。小さな手。力無き自分。様々な迷いが純粋な信仰心と魂に幾度となく鐘を打つ間も、白い闇の雪は無音で舞う。

────────────────────

 多分、あの夢を見ていたのだろう。頭の奥の方に霞がかかっている。少し寒い。久方ぶりに同じ夢を見るのは、いい気分のするものではない。それが自分の大きな部分を占めていることだけを、嫌でも強く認識させられる。
 ユーヒィは起き上がった。焚き火はまだ燃え、森はまだ闇に包まれている。体の節々が痛いが、動かないことはない。ただ、右手を強く握りしめることだけはしない。
「起きたか」
 アレクが番をしていてくれたようだ。彼の膝に頭を乗せて、マリアが静かに寝息をたてている。安らかなその光景を見ている内に、心の霞が晴れていき、同時に眠りにつく前の自分を取り戻す。何故あれほど混乱し、力を無くしていたのだろう。もの悲しい回想を押し止め、乾いた衣服を纏い、身なりを整える。
「代わりましょう。アレクも疲れているでしょう、休まないと」
「ユーヒィ。マリアが歌った歌、覚えてるか?」
「……歌詞まではしっかり把握していませんが、悲しげで美しい歌だったと」
 アレクの指が光沢を帯びた白銀の髪を梳いている。流れ落ちる滝のように煌めくと、少女が小さく身震いする。
「彼女は、二人目の父親に教わったと言った。鉱山で働く労働者だったらしい。武術は、基本的にその男に倣ったものだ。家代わりの娼館で働きながら、な。一人目の顔は、知らないといった。物心つく前に殺されたんだそうだ。そして、二年前に三人目を──ミラーという家名の老貴族を看取った。……もう、話はできるな」
「……はい」
「ユーヒィが少々錯乱してたおかげで、仲直りさせてもらったよ」
「私としては、恥じ入るしかありませんが」
「怪我の功名という奴だ。で、今の話を聞かせてもらった」
「マリアのこと、それ以上は」
「聞かせてくれなかったさ。『ノーサンバランド』での約束を反古にしたくないんだといってな。それに、こいつが過去にこだわりたくない理由が解った気がして、正直聞き難くなった」
 相変わらず、平板な声。溜息にも感情がこもらない。
「………………」
「だが、約束は守ってくれないとな。マリア自身の未来のためにも」
「旅が終わる時に、ですか」
「そう、旅はまだ終わっていない。彼女にとっても、僕らにとっても」
「ですが」
 炎に枝を投げ入れる度に、ユーヒィの心に重く影が差す。「ノーサンバランド」は既に往き、リゴスキー大公らの安否はおろか、列車の状況さえ把握することは不可能だ。ここが何処なのか見当もつかないし、だいいち線路に辿り着いても、歩いて一日以内の範囲に駅はない。
「二号車を覗き込んだとき、カルム様や副主教猊下、貴族の方々は無事だったよ。その点については問題ないさ。『スコーラ』の連中が、一行を皆殺しにするなんて非合理的な行為に出るとは思えないし、もしそこまで事態が進展すれば、それこそ軍隊に直接攻撃させる口実を与えることになる。形はどうあれ、支持を集めている反皇帝勢力を理由無しに弾圧すれば、民衆の不満が高まるのは目に見えているからな。だから、『スコーラ』が欲しいのは、行使すべき能力のある人質なのさ。皇帝及び、皇帝の周囲にいる貴族に対してのね」
「それは推測でしかありません」
「そうさ。だけど確固たる未来予測は、強力で可能性が高いといえる。僕らが関与して実行できる、という意味でね」
 平坦な声に、唯一の感情がこもる。それは、自信。
「僕の予想だと、僕等が再び『ノーサンバランド』と未来を交差させるのは、そんなに遠いことじゃない」
 少女の寝顔に目を落としていたアレクの赤茶の瞳が、丸眼鏡に炎を揺らめかせながらユーヒィの顔をしっかりと捉えた。
「『エルマラークの実験線』だ、ユーヒィ。多分、そこに何かがある」

      2

 英雄エヴァルト・エルマラークがアフグラントに鉄道敷設を開始したのは、ガリウス歴千七百九十五年、ターンスタリムに於いてとされている。ところが、程なく英雄帝イバラバン三世の弾圧が始まったため、技術研究や機関車の走行試験などを、人目に付かない場所で秘密裏に行う必要に迫られていた。国外の単なる複製ではなく、純国産技術の早急な確立が大目標だったため、エルマラークは最適地を探して東奔西走した。そして見つかったのが、ドレル峡谷の奥、カタリオリ山脈に囲まれた名もない乾燥帯の盆地だった。そこには幾条もの線路、駅の雛形、機関車の方向を変えるターンテーブル、そして深井戸・炭素可燃物集積場等が設置され、様々な研究が行われては、大アフグラント鉄道の基礎を築いていったのである。機密保持のため、そこには選ばれた人々だけが専門者として赴任し、一つの町ができあがっていたという。後世の人々は、そこを「エルマラークの実験線」と呼んだのである。


「でも、その場所は現在に至っても発見されていないはずでは」
「発見しようとする意志と、発見するために最も適切な過程を実行しなければ、そこに成功はない。それは、何においても同じことだろ」
「ま、そうね。だけど、英雄の記念の場所だし、探そうって思った人がいても不思議じゃないと思うんだけどな」
「この辺りが、古来に人喰い巨人がいたっていう伝説があっても、金を出してまで探索しようとするか? 実際、『大脚』や『首長』なんかの目撃例もあるしな」
「げ……」
 絶句したマリアを見て、アレクは面白そうに顔を歪めた。恐怖より、苦笑が漏れるユーヒィ。
 三人は獣道を踏み分けながら、切れ目なく続く森の奥を辿っていた。左側から常に、河のせせらぎが響いてくる。漏れ来る朝の陽射しは弱いが、その光の方向さえ判別できれば、進路を間違うことはない。湿度の高さから徐々に上昇する蒸し暑さが発汗を促し、衣服を肌に張り付かせる。
 交代で炎の番をして、夜が明けるまで休息をとった三人は、アレクの提案を承諾して行動を開始した。発端は、「ノーサンバランド」の襲撃された情況への指摘だった。
「……複線だったのに、トンネルに入る前までいなかった盗賊列車が、忽然と現れ、併走を始めた。どう思う?」
「トンネルの中で待機していた、と」
「違う。停車していた列車が、疾駆する特急にいきなり追いつくなんて不可能だ。どんな加速能力のあるやつでもな。それよりはまだ、トンネルの中に路線変更機が、つまり支線があると考えた方が現実的だ。奴等は超特急に歩調を合わせるため、そこで勢いをつけたんだ」
「それって疑問。普通、そんなとこにポイントなんて作らないよね」
「普通ならそうだろう。だが、この付近には『エルマラークの実験線』があるんじゃないのか?」
「……隠れた部分に支線があれば、実験線の場所を知られることもないし、他の路線に出ていくこともまた容易なわけでね」
「エルマラークはターンスタリムと皇都ウラジミラブルクを鉄道で結ぶことを悲願としていた。実験線は間違いなく、二都市間のほぼ中央、つまりこの近くに存在している。『スコーラ』の本拠地もまた、そこにあるはずだ。とりあえず明日は、森に隠されたレールを探そう」
 昨夜の言葉を思い出しながら、ユーヒィは腕で汗を拭うアレクを見ていた。と、説明を聞いていた間に、一つ浮かび上がる感情があったと思い出す。
 それは、羨望。
 その平板な声質には、確固たる自信がいつも溢れている。これも尋常でないほどの学問探求への情熱とその蓄積がなせる業なのだろうか。努力を怠ることは決してなく、自らの追い求める信仰と理想のために情熱を傾けてきたユーヒィだったが、この若い学者と出会って以来、築き上げたはずの自信が、砂上の楼閣のように揺らいでいる。信仰心が試されているのかも知れない。そう思い、不寝番をしている際にも神への祈りに雑音混じりの自分の心を懸命に映していた。
 信仰心といえば、もう一つ、気になることがある。アレクの学者としての研究対象、存在するものとしての天使への考察。
 その奇異な内容、また自分と対立する考え方に、敢えて好奇心を押し止めてきた。が、アレクの人となりを少しなりと知った今ならば、平静を保って学者の話に耳を傾けられそうな気もした。


 陽が、だいぶ高くなってきた。熱が篭もり、気力を奪い始める。探索の先頭は、いつしかマリアになっている。率先して動く姿は頑健といってもいいくらいだ。が、昨夜以来何も食していなければ、空元気も鍍金が剥がれるというものである。
 肩で息をするマリアを見とがめたユーヒィは、アレクに声を掛ける。
「解った、一旦川岸に出よう」
 三人は森を抜け、緩やかにうねる小川のほとりに出た。水の落ちる連続音が響いている。そんなに遠くではない。アレクの指示により暫く歩くと、森が開け、高い岩壁と、小規模の滝壷に出くわした。ここでもアレクが博覧強記を披露し、食べられる果実や草の根、小さな貝などを集めた。到底腹を満たすまでには到らないが、一応の気力を取り戻す。
 しばらく休憩をしていると、何を思ったのかマリアが服を脱ぎ始めた。青年たちが目を逸らす間もなく、一糸纏わぬ姿になると、長い白銀の髪を引きながら綺麗な弧を描いて滝壷に飛び込む。どうやら泳ぎにも長けているらしい。
「おいおい、淑女ってのは恥じらいを知ってるものだよな」
「淑女ってのは身だしなみにも気を配るものなの。汗ベトベトのままいたくないから。見物料は要らないわ、どうぞご自由に」
 澄んだ水をかき分けて、めざましい速度で遠ざかっていく少女の姿に、アレクが苦笑して肩を竦める。かたや、ユーヒィはといえば赤面して後ろを向いてしまっていた。
「どうした、ユーヒィ」
「……聖職者ですから、一応」
 学者はこちらにも苦笑するしかないという呈である。
 少し歩いてから、二人は大きな石の上に腰を下ろした。
「正直言うと、僕は同世代以下の年齢の異性と親交するのは初めてなんだが、女性というのはああも奔放なものなのかな」
「マリアの場合は、少女の感覚を失わずに成長しているのでしょう。悲惨な境遇の割に、希有なことです。ただ、アレクのいうとおり、もう少し身を慎むべきではないのでしょうか」
「ま、そんなに堅い意味でいったわけじゃないんだがね。マリアも、折角蓄積した力を使うこともなかろうに」
 瞳を閉じて耳を澄ますアレク。滝の流れ落ちる音に混ざって、水を掻く少女を捉えようとしているのだろうか。
 今ならば大丈夫だろう。ユーヒィは思い切って、くすんだ金髪に手をやりながら、自分の気になっていることを尋ねた。
「僕の研究の内容? でも」
「信仰とは別に、アレクがどういう世界を見ようとしているのか、それを純粋に知りたいと思ったんです。それによって対立を起こそうとは思いません。友として、貴方のことを教えて下さい」
 一寸、驚きに茶色の瞳を見開くが、丸眼鏡のずれを直すと、学者は小川の漣を見つめた。
「僕の家は、ウラジミラブルクより遥か北方にある。小貴族で、財源の農民も少なく、そこで取れる作物も貧弱なものだ。毎年悪化する塩害にも悩まされ、領民はおろか、僕ら自身が喰うに困るような生活をしていたんだ。それが、十二年前の南進戦争の際、出征していた父と二人の兄が戦死してね。訓練を受けていた僕は、家名保護の理由から徴兵を免れた。もっとも、家族とは疎遠だったから、そう衝撃はなかったけど。母は健在だけど、僕にはあの人の姿を見守る勇気がない」
 アレクは、真剣な瞳のユーヒィを凝視する。
「友として、最後まで聞いてくれるな」
「はい」 
「すまんな……自分の家は嫌いだけど、蔵書庫だけは本当に世話になったと思っている。そのまま公共図書館にしてもいいくらいの、立派なものだよ。小貴族としては、身分不相応っていえるんじゃないかな。幼い頃から僕はそこで、数限りない本を読み漁った。最初は哲学、法理論に政治学、自然科学に神学。世の中の輪郭を形作っていった。ただ、古い本ばっかりだったんでね、アカデミアに入った時は、先生方から『旧約』などというあだ名をつけられてしまったけど」
 アレクが手近な小石を川に投げ込む。透明な群青の中で、敏捷な影が岩影に逃げ込む。微風が吹き始めた。或いは、既に吹いていたのかも知れないが。
「その過程で、思ったことがある。人にはある種の限界があるのではないかってね」
「ある種の限界とは?」
「人間存在に限界を認めること自体は目新しい事じゃない。たとえば、今流行の新興経済学では、増え続ける人々がやがて地表を覆い尽くし、食料不足などにより衰退するという理論の風潮が支配的だ。技術進歩と経済活動による人口の爆発的増加は、既に確認されているからな。だけど、僕の視点はそういう断片的な場所にはない。どの分野においても、人間の活動には一定の周期がある。そう、永遠回転をする車輪のように。哲学は反証のいたちごっこだし、自然科学の画期的な進歩は、裏を返せば人間の判断方法を周囲の事物に押し広げているだけだ。法学や政治学はいうに及ばず、神学については君の方が詳しいはずだ、ユーヒィ。神を人間の自己理解の方法としてしか認識できないというのは、近代の合理主義が生んだ、最大の本末転倒だよ」
 頷く。確かに教会内にも、信仰に注意を払うあまり、信仰の対象としての神よりも独我論(自分が存在し、認識しなければその世界は存在しないと考える哲学の論法)を重視する神学士たちが台頭している。そしてその風土は、改革派に根元があることもまた、確かなのだ。
「確かに、歴史のそういう繰り返しの中から、我々は前進と後退を繰り返してここまでやってきた訳だし、各々の結果には前段階よりの進歩が伴う。だがそれは、我々が我々であることに意味的変化を付与するものではない。人は、自らが理解できない他者……それは環境であり、隣人であり、神でもある……に対して、人間だけに通じる整合性を理論として付与し、変質させて吸収しているに過ぎないんだ。それに気付いた時、それまで構築した理論体系が一片の価値も見いだせない気分になった。そんな頃、ふとしたきっかけでミトラ真正教会の歴史を学ぶ機会があり、そこから今の研究にたどり着いたんだ」
 アレクが、ゆっくり顔を上げる。
「信仰において他宗教との対比は禁忌だということは心得ているつもりだが、ユーヒィ、敢えて僕は君に問おう。君の一神教を世界宗教として考えた際、そこから分離し奇形化したアフグラントのミトラ真正教会は、こと天使の信仰に特化していると思ったことはないか」
「それは……漠然とそう感じたことはあります。教義には、偉大な唯一神と十二の大天使、九つの天使の台座と二十二の天使界、そして人間の物質界が存在しているとあります。これは、目に見える物質界、存在すべき天使達の可知世界、そして万能なる至高の座があまねく世界に存在していることを示すものとなるのです」
「それが君たちのいう、揺るぐことのない世界の摂理、位階秩序だ。だが、本来の一神教には、その様に巨大な可知世界の構築は成されていなかった。何故なら、信仰対象の増加は異端を招くからだ。何度も開かれた公会議の決定が幾世紀にも渡って遵守されてきたのは、宗教としての求心力を失わないためだったのだろう。だが、アフグラントにおいては、真正教会は宗教であると同時に支配機関であり装置だ。皇帝が神であるのと同じように。開祖たちは、この宗教が土着の人々にもっとも浸透しやすい方法を選んだんだ。この周辺で広く信じられていた、様々な翼人に対する信仰を」
 顔をしかめる。起源についての史料は、教会内に残っていないのだ。疑問な点もあるが、好奇心が先に立つ。ユーヒィは、学者を促した。
「それについて、奇妙な文献が発見されたんだ。それが」
「アレク! ユーヒィ!」
 マリアの切迫した声が飛び込んできた。
「どうした!」
 慌てて駆け出すと、滝壷から顔だけ出したマリアが、大きく手を振り、滝の方を指差している。滝は轟々と音を立てて流れ落ち続けているが、別段代わったところはない。
「どうしたんだ」
「いいから、滝の後ろに回ってみて!」
 マリアの声はあくまで真剣だ。
 二人はいわれた通り、滝壷を迂回して岸壁に沿って滝に近付く。激しく立ち登る水飛沫が、常に掛けている虹を横目に見ながら、二人は瀑布を見上げた。マリアはもう岸に上がり、衣服を着け始めている。
 岸沿いに、滝の後ろに回れる空間があった。そこまできて、ようやく二人は、彼女の意図したことが理解できた。アレクの顔が綻び、ユーヒィは表情を引き締める。
「さて、目的地まではあと少しだな」
「……はい」
 そこには、明らかに人工と解る洞窟が大きく口を広げていた。そして滝壷から伸び、奥に向かって進む一対のレールが鎮座していた。

      3

 三人はまず、洞穴の周辺を調査した。松明もないのでは奥に進むこともできない。すると、入口の脇に工具や鶴嘴などの機材の集積場所があり、未使用の作業用洋燈と火口箱が設置してあった。何十年の歳月を経た照明器具に明かりが灯った時、三人の口から思わず溜息が漏れた。
 予備の洋燈をもう一つと、作業用の短刀を持ち、学者、少女、牧士の隊列で探索が始まった。時折響く風の音、頭上を通過する蝙蝠の大群などに悩まされながら、レールに導かれて暗夜行路は続く。
「……それにしても、よく見つけたな」
「ありがちと言えばありがちだけどね。滝壷に潜った時、不自然な金属を見つけたの。持ち上げようとしてもびくともしないから、もしやと思って方向を確かめたら、あの滝があったって訳」
「何も考えずに遊んでたんだと思ったけどな」
「なにおー! ふんだ、見物料払え、このヘボ学者!」
 ユーヒィが困惑と苦笑いを浮かべる。
「それにしても出来過ぎてますよね。トンネルの出口が滝だなんて」
「当然、出来過ぎてるとも。この滝も人工だ。洞窟を見るまでは確信が持てなかったがな」
「やっぱりね」
 マリアが指摘したのは、森の中に川の流れた跡のような窪地が連続して点在していたことだった。いわれてみれば、ユーヒィにも心当たりがある。アレクの説明によると、初期のトンネル工事は、信じられないほど行き当たりばったりなものだったそうで、穴を開けた跡に必要ならレールを引き、不要なら放置する、といった無駄・無計画が横行していた。当然、事故も頻発したのだが。ここはその一端であり、場所が開けていて発見され易いため、上流の川を治水して流れの方向を変え、滝を作って隠したのではないか、というのがアレクの推察だった。
「爆破した方が早いと思うんだけど」
「そうできない理由があるのだろう。他のトンネルに影響を与えるかもしれんしな」
「ということは、付近に他の路線がある?」
「そう願いたいな、ユーヒィ」
 トンネルには支線があったが、レールは分岐することなく暗闇の奥へと伸びている。時折落ちる湧き水が頬に落ちて、心持ち緊張した神経を波立たせた。自分達の足音が反響して、繰り返し耳朶を打つ。風は依然として、奥より流れきていた。
 ユーヒィは冷たい岩肌に手を当てながら、先程のアレクの言葉を反芻していた。
 アレクの指摘は真正教会に止まらず、大きな勢力を持つ宗教にはありがちなことだ。特に、一神教の排他的な教義は、世界中に拡大した布教地に対して、元来存在する土着の信仰を異端として徹底的に弾圧し、なおかつそれを内部に取り込み、民衆の心を繋ぎ止めてきたのだ。飴と鞭の例えを持ち出すまでもなく、権力支配に必要なものは、恐怖と、それを麻痺させていく精神的な空白地の存在である。例えそれが最初は完全な異物であっても、それとなく嫌なことに慣らされてしまう状況が完成したとき、権力を志向する者にとって永い支配と搾取が約束されるのだ。
 自分の信じる道が、権力者の道具であることをにわかに完全肯定するのは難しく、また悲しいことだ。だが、全体的にそうであっても、部分において、苦しみを緩和し精神的に支えるのは、父なる神と真正教会の役割であることに変化はない。
 だが、それは現象ではあっても、問題の解決たりえないのだ。それは現状の認識でしかない。アレクの人間社会の俯瞰図と大差ないのではないか、とも思ってしまう。民衆の成長を願っていても、教会内の改革の志してはいても、全ては位階秩序の中のあるべき場所でただもがき、自己肯定しようとしているだけではないのだろうか。
 暗がりの中、自分の掌を見る。自信のない時、自分の手は一際小さく見える。握りしめて、開く。漏れる溜息。
 ──先をいくアレクが立ち止まった。
 小声で、二人に囁く。
「いる」
 洋燈の火を吹き消す。途端、世界に緞帳がおり、無と見紛う漆黒が張り巡らされる。アレクとユーヒィが壁に身を寄せ、マリアが二人の間で短刀を構えた。闇に目が慣れない。互いの感触だけが頼りだ。
「どうするの」
「目が慣れたら、あちらの洋燈の明かりが見える。それから、一気にいく」
 了解する。
 張りつめる静寂に、漂う少女の芳香が不釣り合いだと、感じる自分に少々驚く。まだ余裕があるのだろうか。
 ……頭の中で六十ほど秒を刻んだ。
 ぼんやりと見えてくる。レールの奥から、うっすらと明かりが漏れている。
 アレクが動いた。続いて、マリアが背を屈める。二人の足音が、やがて駆け出す躍動へ。
 ユーヒィは背後を気にしながら、それに続いた。距離が加速度をつけて縮まっていく。
 が。
「止まれ!」
 アレクの警告と同時に、至近距離で幾つもの光を叩きつけられる。視界が一瞬白濁して、その意味をなさない。目に残った焼き付きが消え始めるに連れて、三人はおのが現状を認識せざるを得なくなった。ランタンの明かりと銃口と剣先、そして敵意をむき出しにした視線が、十重二十重と周囲を囲んでいる。
「さっきの明かりは、ランタンに布を巻いた囮だったよ」
「光と足音はともかく、気配まで消したのは見事でしたね」
 そんな感想に、盗賊たちのリーダー格が進み出、二人を睨み付けた。
「御高説痛み入るね。ま、特等室を用意させるから、楽しんでくれや」


 長大なトンネルを抜けると、曇天が空を占拠していた。まだ夕方にさしかかろうかという頃合のはずなのに、辺りは既に薄暗い。三人が腕を荒縄で縛られ、連行される途中に立ったのは、小高い丘の上だった。心細い東風がマリアのホワイトシルバーの長髪と戯れ、通り過ぎていく。
 見おろせば、両側を切り立った崖で囲まれた盆地が奥の方まで続き、そこに敷き詰められた石畳のように整然と、幾条ものレールが敷設してある。火の入った小型機関車が行き来している。家畜用の貨車や幌のない無蓋車などを操車中らしい。点在する整備工場の跡に民家の廃虚、痩せた畑の成れの果て。その周辺に遊牧民族のテントや仮小屋が建てられ、一つの町を形成している。
 マリアが精一杯の笑みを浮かべてみせる。
「さっすがブレイク準博士、伝説となって久しい『エルマラークの実験線』も、反体制武装組織としては最大勢力の『スコーラ』の本拠地も、見事な推測がピタリ的中! ご感想を一言」
「前歴で新聞記者でもやってたのか」
「今もてはやされてるもんね、こういうの。世界初の女性新聞記者って、ちょっと格好いいかも」
「……こういう時は嫌味な笑顔だな」
「全く」
「ひどい、ユーヒィまで!」
 雑談を見かねた盗賊の一人が、マリアの顔を張る。
「黙ってろ、ガキ」
「……許さん」
「やめて下さい!」
「アレクやめて!」
 二人が制止する間もあらばこそ、学者の丸眼鏡が閃き、同時に間髪入れず蹴りが男の鳩尾に食い込む。だが、その報復は複数によって何十倍にものぼった。ユーヒィも、マリアも巻き添えをくう。蒼い痣を浮かべながら呻き声一つ上げず、アレクは目を細める。
「改革がこんな奴らによって成される可能性が万に一つでもあるなら、人間であることを放棄した方がましだ」
「いってくれるじゃねえか、学者さんよぉ」
 蹴りの衝撃から立ち直った男が、アレクの体を起こし、丸太のような腕で腹に拳を埋め込む。さすがに効いたらしく、アレクの体躯が「く」の字に折れる。
「俺達は文句を受け付けねえからよ。忠告しとくが、もう少し虜囚らしく振る舞った方が、長生きできると思うぜ。牧士に学者に青くせえ生意気なガキ、頭でっかちばかりだが。生きていく知恵ってものも身に付けにゃあ」
 そう言ってまた、荒縄で三人を引っ張っていく。学者がブラウンの髪の奥に視線を隠して、すまなさそうに呟いた。
「軽率だった」
「いいの。ありがとう、あたしは平気。これくらい慣れてるから」
「………………」
 ユーヒィは、微かに振り向いたアレクの丸眼鏡の歪曲を気にしながら、こんな荒事に慣れながら生きてきたマリアの過去を思って、暗澹たる気分でいた。


 建物に入ってから、マリアだけは引き離される。目で確認だけは取ったが、今回は大人しく指示に従う。
 地下牢には、先客達がいた。
「あれ、これは御二方、遅いお着きで。何処で道草されてたんです?」
 両手を大きく広げ、軽薄な笑顔で出迎えたのは、昨日超特急で知り合った青年貴族だった。それに、奥には驚きの表情を浮かべるアフグラント鉄道副総裁も、病弱な少年貴族もいる。リゴスキー大公の護衛らしき兵士や、制服を着た乗務員も幾人か捕らわれているようだ。
「皆さん……御無事だったんですね。よかった」
 ユーヒィが短く神への感謝を捧げる。
「とすると、ツチャーラドルフ男爵夫人達も虜に?」
「そうなのです、ブレイク準博士。可憐なご婦人を護るのは正しき騎士の役目なのですが」
「カルム様は? リゴスキー大公閣下はいらっしゃらないのですか?」
 一同を、痛恨の沈黙が覆った。
 ユーヒィはアレクを悲痛な面持ちで振り向くが、アレクは感情を隠す仮面を張り付かせたまま、歪んだ丸眼鏡の縁を直していた。背後で、賊の少年が鍵を閉める。見張りが明かりを持って戸口の向こうへ消える。暗がりの中で溜息が充満していくのが感じられた。
 スカラス・ランドルフ副総裁が、前に進み出ていった。
「我が鉄道の誇る超特急が、このような事態を招いてしまい、本当に残念です。お詫びの言葉もございません」
「責任を論じるのは事態が収束を見てからでも遅くありませんよ。これは既に会社だけでの問題ではありませんから。どのような情況だったのか、お聞かせ願えませんか」
 アレクの要請に、副総裁は汚れたハンカチで汗を拭いながら事の次第を説明した。
 ――ユーヒィ達三人が列車から振り落とされてから間もなく、「ノーサンバランド」は、機関車の運転席を占拠された。これが「スコーラ」の構成員によって報じられ、列車が彼らの手によって減速を開始するにあたり、貴族側はリゴスキー大公の指示で抵抗を中止、速やかな武装解除が行われた。超特急は徐行を開始し、支線から「実験線」北東地域に進入し、そこで停止させられた。その際「スコーラ」側の指示により、リゴスキー大公とニーコン副主教の身柄を「ノーサンバランド」内にて拘束、運転士二人を除く乗客乗員は彼らのアジトに連行されることになった。副主教の聖騎士団は、高僧の元を去ることを強く拒否し、数多くの暴力を加えられたうえで列車に留まることができたようだ。車掌コルスキー・ノージックもまた、制圧者達の命令を不服とし、職務を継続するため大公たちの身辺にいるらしい。いずれも大公の厳重な命令によって目立った反抗はしなかったものの、それぞれが心に悔しさを抱いているのは、彼らの顔を見れば一目瞭然である。
「奴等は、大公閣下たちだけを連れて皇都を目指すつもりなのです。我等などは最初から眼中にないようだ。『ノーサンバランド』とリゴスキー大公の威を借りられれば、目的は達せられるのでしょうからな」
 苦渋に満ちたランドルフの声が耳に突き刺さる。それは大公らの安否を気遣うものだけではない。軍隊の駐屯地を全滅させる能力と残忍さを持ち合わせた相手だ。虜囚の運命も容易に知れる、というものだろう。
 その場をまた、沈黙が支配する。
 ……それからしばらく、して。
「少し、いいですか」
 透明な少年の声が囁いた。ずっと黙っていた少年貴族、アテリコ・カンジンスキーが皆の注目を引く。少年は見張りを気にしながら、地面を指さした。そこには、湿った地面に小石で記した、大雑把な地図が記してある。
「今いる牢がここ、女性方が捕らわれているのが階段を上がって右の、奥側の部屋だと思います。その辺りを行き来していた男が幾つもの鍵を吊り提げていましたから。この建物の向かいにすぐ見える、階段を上がった所に武器庫があります。銃はそこで調達できるでしょう」
 時折咳込みながらも、線の細い病弱な少年には似つかない、自信を持った言葉。取り囲む人々の顔が驚愕に埋め尽くされる。ユーヒィは正直、意外さに瞠目していた。アレクでさえ驚きを隠さない。
「子爵はこれをどのようにして?」
「皆さんと一緒にいましたから、知り得ることはこのくらいです。ただ盗賊達の様子を窺い見たり、盗み聞きしたりしただけですから……ほら皆さん、そんなに驚かないで」
「いや、貴方のような方こそ、皇立アカデミアは礼を尽くしてお迎えするべきでしょう」
 暗黒と無気力は人から意志を奪い、思考は人に自分の存在を回復させ、活力を取り戻させる。きっかけは、思いもしないところにある。だがそれはなんでもいいのだ。それさえあれば、不安が底をつき、少しづつ笑顔を浮かべる余裕が生じ始める。牢の土壁に沁みる水のように、見えないが確実に存在するはずの、反撃への足掛かりを、それぞれが探し始めた。

      4

 数時間が経ったろうか。無言の牢獄に、数人の男が訪問した。一人だけ、明らかに目立つ壮年の巨漢がいる。前に進み出、蝋燭に照らされたその風貌は、豊かに蓄えた髭から、極地熊を髣髴とさせた。
「俺が『スコーラ』の首領イワンだ。単刀直入にいおう。『スコーラ』には捕虜を養うような余分な食料は残ってない。よって、貴殿達には死んで頂こう」
 一同に戦慄が走る。予想していたこととはいえ、まだ早すぎるし、大半の者が手を縛られたままだ。ユーヒィも、あせりが顔に出ないよう、心中を必死で静める。
 彼らの生死を司る男が、一人一人の表情を眺めている。そんな中で、学者がゆらりと立ち上がり、鋼鉄の檻の前に立った。
「ほう、学者がいるとはな。それも若くして皇立アカデミアのエリートか」
「僕にしてみれば、革命のなんたるかも知らない野党集団の頭領が、アカデミアの制服を知っていることの方が驚歎に価する」
 イワンは面白そうに歯をむき出しにした。
「虚実と情報の波間で溺れているだけの若造が何を抜かすか」
「体験と苦労だけが人間の証明であるなどと、前時代的な方法論を持ち出すつもりじゃないだろうな。そういうのは、実際に溺れるほど勉学に励んだ上で、きちんと理論立てて解説してくれると助かるのだが。それに、お前たち『スコーラ』は、皇帝に反旗を翻しているという希少性から存在を認められているだけで、結果的に皇帝に依存しているだけだ」
「アレク」
 ユーヒィが立ち上がり、アレクを庇う。憤慨した男が、発砲する心配を察知したのだ。だが、男の対応は正反対だった。地下を揺るがす大音量で哄笑したのだ。
「こいつは面白い。貴様らの死なない目も気に入ったが、特にお前、大抵の人間を論破できるぐらいの知識は積み上げているようだな。男を立てる方法に、そんなのがあっても面白いと、俺は思っている。だがな、俺の言葉もまた、誰にも譲れない知識と信念と経験の上に構築されている」
 イワンは胸を張った。そこに妄執や虚勢は一切ない。
「心して聞け! 俺達は五十年前、英雄達とともに皇帝と戦い、血を流しながら祖国に無数のレールを引いた。皇帝や貴族や教会から、農奴として搾取されるだけの人生を永遠に脱却するために、そのことに生命と誇りをかけていたんだ。だが、そんなものは何の役にも立たなかった。俺達の先代は迫害され、地の果てに追いやられた。英雄どもの名誉は回復されたが、俺たちの存在は抹消されたんだ! それでも俺達は生きねばならなかった。生きて、生き抜いて、いつか俺たちを殺した神を殺すために! そして、俺たちを忘れた民衆に、失ったかけがえのないもの、圧制を覆す、自由な意志を思い起こさせるために!」
 鉄柵越しにに、首領は学者の襟を掴んで引き寄せた。
「最終的に、理論はうまくいかなかった結果を納得させるためにしか使わないだろう? 俺達の行動論理は、俺達の血が知っていれば、それでいい」
 突如、大きな砲声が響いた。強い震動で土埃が落ちてくる。イワンはアレクを突き飛ばして怒鳴った。
「どうした! なにがあった!」
「崖の上から砲撃です! 皇都から派遣された正規軍が、実験線全体を包囲しています!」
「ここが気付かれるとはな……」
 走り込んだ連絡係が告げた報告に、首領は顔をしかめた。と、さらに青ざめた顔をした青年が、地下に駆け下りてきた。
「『ノーサンバランド』が消えています!」
 この発言には、牢獄の内外問わずその場にいる全員が目を剥いた。
「見張りに二十人以上つけておいたはずだろう! それも正規軍の仕業か」
「それが、見当もつかないんです。皆刃物でやられちまって……もう出発して二、三時間は経っていると」
 イワンは大きな舌打ちをし、牢獄に一瞥をくれると、大きな体躯を揺らしながら駆け去っていく。立て続けの銃撃、爆破音。衝撃で、土壁が落ち始める。
 ユーヒィとアレクが、偽装していた拘束を振りほどき、鍵にとりついた。手近な石で鍵を乱打するが、予想以上に頑丈でびくともしない。
「お二方、物事はもう少し優雅にいきましょう。ちょっと見せてください」
 背後に立ったスモレンスク男爵が二人を押しのけ、鍵を見定めた。と、ポケットから細い鉄線を取り出し、鍵穴につっこむ。瞬きをする間に、それは本来の役目を放棄した。
 優男は微笑して髪を掻き上げる。
「一つぐらい見せ場を頂かないと、割に合わないですからねえ。短命たる人生、楽しんでこそ華というものです」
 ユーヒィは、その特技をいかにして身につけたのか、敢えて尋ねないことにした。礼はいって、アレクと顔を見合わす。頷く学者。次々駆け出す仲間達を見ながら、先頭を切って階段を駆け昇る。
「一気にいけ!」
 答えるまでもない。目を丸くする見張りを一撃で叩き伏せ、その鍵を奪う。女性たちが捕らわれている部屋は、カンジンスキー子爵が指摘した通りだった。扉を解き放つなり、マリアが抱きついてくる。
「ユーヒィ!」
「アレクの所へいって下さい。とても心配していましたよ」
 頷き、駆けていく少女から、今度は部屋から出てくる女性達の目を向ける。ツチャーラドルフ男爵夫人に、数人の給仕たち。
「これは司祭様、ご無事で何より」
「奥様も」
「いろいろと貴重な体験をさせて頂きましたわ。なんとしても生きて帰り、他のご婦人方に語って差し上げなければ」
 これからお茶でも楽しむようにおっとりと語る夫人に苦笑しながらも、手を引き、他の給仕達もつれて歩く。
 この建物は占拠できたようだ。合流すると、武器庫に行っていた連中から銃を渡される。ユーヒィは銃を断り、軽めの剣を握った。マリアと目が合う。彼女は片目を閉じて、短銃の握り心地を確かめていた。集団をまとめるように、アレクが強い声を出す。
「集団で動くのは危険なので、二、三人のグループで行動し、『スコーラ』所有の機関車を目指します。それしか、『ノーサンバランド』を追う方法はありません。が、そこまで随分と距離があると思います。正規軍の砲撃も続いています。もし、身動き取れなくなったら、『スコーラ』に加担して逃げるなり、正規軍に投降して事情を説明するなり、臨機応変に対応して下さい。折角拾った命です、無駄になさることのなきよう」
 ランドルフ副総裁の指示で、女性を護るように集団が分けられる。ユーヒィは少し気になって、カンジンスキー男爵の容態を尋ねた。彼は重い持病を患っているのだ。
「ご心配なく。まだ大丈夫です。僕も怖いですけど、死を急ぐようなことはしません。父なる神に誓って」
 牧士が短く祈りを捧げる。
「ありがとうございます。それよりも司祭、カルム様にお詫びをいっておいて下さいませんか。お役にたてず申し訳ありません、と」
「それは、御自身でなさればよいではありませんか」
「感覚です。きっと、『ノーサンバランド』に辿り着くのは貴方たちだと」
「………………」
「どうか、御無事で」
「ありがとうございます」
 二人が固く握手する後ろで、スモレンスク男爵が胸を張った。
「子爵はこの私が、責任を持ってお守りいたしますよ。国を担う若者を護るのも、騎士の努めでありましょう」
「お願いします」
 ユーヒィは窓の外を見た。再び、夜だ。


「……神は、いかなる時間と場所でも人に勇気と英知をお与えになります。自らの能力を信じ、神の御加護を祈りましょう。皆さんの前に、明日の太陽と幸福がありますよう―─ラムーパル」
「ラムーパル」
 銃弾が飛び交う中、似つかわしくない祈りの唱和があった。それに応えたのか、或いは至高の存在の慈悲なのか、殺戮の音色がふっと静まる。闇の中へ一斉に駆け出す。ちりぢりに、四方八方へ、物陰を目指して。叩き込まれる銃弾。呻き声、倒れる音が背後に起こるが、振り返ることはできない。まず、自分が生き残らなければならない。なんとしても。
 その中で、疾風のような集団がある。もっとも戦闘に相応しくない、学者と牧士と少女。銃撃の的にならないようにジグザグに走りながら、一向にスピードが落ちない。彼らの跡を弾着が走り、砂埃が上がる。わざと燃え落ちる建物を経由し、自分の存在を明示してみせてから、闇の中へ消える。
 ……先頭を疾走しながら、ユーヒィはまだ迷っていた。先の自分の祈りに、果たして力はあったのか。皆を死に先導しただけではないのか。自分は何故、率先して超特急へ向かおうとしているのか。もっと護るべき人達がいるのではないだろうか。父にいわれたからか。リゴスキー大公を、アレクやマリアを守りたいからか。
 やがて現れたレールの一つを追っていく。連なる枕木に導かれ、それを幾つも飛び越えながら、様々な迷いが思惟の狭間を彷徨している。
 ユーヒィの想い全ては、相対化された真実だ。だが、この旅で邂逅した人々や世界が、ユーヒィに今までにない感情を植え付けていた。理性と信仰に裏付けられた確信の下で、沸き上がる不定形の欲求。それが何なのかよく解らない。
 それを否定したいのかも知れない。が、それを見極めてみたい。それが何なのか知りたい。
 ──そのために、私は走っているのかもしれない。
 納得は出来ない。だが、そう考えている自分は、間違いなくここにいる。 
 研ぎ澄まされ、闇を突き進む感覚の中で、両の拳を固める。強く。
 顔を上げる。
 見えた、機関車だ。被牽引車を連結していない。発車寸前のようで、煙をもうもうと噴きだしている。察知した盗賊たちが銃を乱射し始めた。三人は段取りをしていたかのように散開して機関車に突っ込む。レールを跨いで、ユーヒィは右へ、アレクとマリアは左へ。全力疾走に駿足の天使ニカニエルの加護を願いながら、大きく開脚して跳ぶ。
 銃を突きつけられながら機関車の運転席にとりついたのと、反対側から友人達が顔を出したのはほぼ同時だった。
「動くな!」
「お互いにな」
 双方の武器は、相手の眉間に目標を定めている。「スコーラ」側は、苦り切った顔をした巨漢の首領と、運転席の老人、それに数人の男。静かに運転席に登った男女三人も、油断無く構えている。
「一番最初に首領が逃げ出すなんて、『スコーラ』も知れてるわね」
「逆撫でしても無駄だぜ、嬢ちゃん。俺たちはなんとしてでも『ノーサンバランド』を追わなくてはならない。それに、俺は組織の頂点にいるが、同時に余所者でもある。一人の構成員が抜けたくらいで崩壊するんでは、組織として長続きしないからな。無茶はやっても、油断はしないさ」
 と、食い下がろうとするマリアを抑え、ユーヒィは前に進み出た。懐に持っていた剣を眼前に投げ、首領イワンの顔を真っ直ぐ見つめる。
「ユーヒィ」
「アレク、いわせて下さい」
「牧士様が何の用だ。時間がない、説法なら後にしてくれ」
「あなた達にはあなた達の世界がある。あの超特急に何を求め、命を賭けているのか、私はきちんと理解できないでしょう。でもそれは、私と、ここにいる友人たちとの間にもいえることなのです。それぞれがそれぞれに、異なった視点で決着を──旅の行く末を見ようとしています。だから」
 アレクをもひるませるユーヒィの熱意を、首領は跳ね返すのではなく、黙って受けとめている。
「……だから、お願いします、私たちを乗せていって下さい。どうか、お願いします」
 そういって牧士は膝を突き、深々と頭を垂れた。
 沈黙の場に、弾着の音が接近してくる。正規軍が急速に接近してきているようだ。
 だが、それをも揺るがすような高笑いが、その場に木霊した。それは、嘲りを含まない、心から愉快そうな響きを含んでいた。
「出発だ! なんとしてもこのオンボロで超特急に追いつき、大アフグラント鉄道の腰抜け連中の、高い鼻をへし折ってやれ!」
 太い腕が運転席のレバーを思いきり引っ張る。野太い汽笛が耳をつんざき、周囲を制した。機関車が黒煙を吹きだし、ゆっくりと前進を開始する。ぽつぽつと水滴が降り始め、吹き込む風が強くなった。嵐の予感がした。
 盗賊達に囲まれながら、まだ蹲っているユーヒィの肩に、マリアが優しく手をおく。胸を降ろし、はにかみながら立ち上がった彼の正面で、アレクは力強く頷いた。
「ありがとう。そして赴こう、超特急『ノーサンバランド』へ。全ては、そこにある」

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