<位階戦史録>ノーサンバランド -The Shining Express-

第二章

神の掌の上の旅



    1

 八月十五日、午後四刻。
 ユーヒィとアレクは精悍なグラツ産馬に跨り、ターンスタリムから東北へ向かうこと四千デラキュビト(約百キロメートル)、ザクーン山脈の麓を疾走していた。屹立する岩肌、鎮座する巨石をすり抜けて谷間の道を辿る。日陰は燃え盛る太陽の熱を遮蔽し、心地よい風が外套を大きく翻す。道は決して平坦ではないが、二人の騎手はそれなりに熟練した腕を揮い、時折手綱を返しながら、速度をほぼ一定に保っていた。
 先頭を導くように駆ける学者の姿を目で追いながら、ユーヒィの記憶は昨日の光景へ、聖カテガンテ大聖堂へと漂っていた。

『ユーヒィ・マクリントン牧士様へ、感謝と敬愛を込めて
このような無礼な挨拶になったことをお許し下さい。私自身は、もっと留まりたかったのですが、先方は私の都合など考慮に入れて下さらないのです。僅かでしたが、至福に満ち溢れた時間を下さった貴方と、父なる神に心から感謝致します。
 私のことは心配なさらないで下さい。命だけは、誰にも譲渡しませんから。それに、貴方との再会という新たな未来を迎えることが、私の望みの一つなのですから。私は、それがそれほど遠いものでないと、確信しております。
 それでは、失礼致します。
 神がいつも我らと共にありますように。

     マリア・ミラー』

 ……幾度となく読み返した短い文面から目を上げると、整然と長椅子が並ぶ大聖堂のの脇、柱廊への入口で壁に体を預けているアレクの姿が目に入った。どうやら、ユーヒィが気付くのを待っていたらしい。手を挙げて合図してくる。
 長椅子の周囲には、何十もの燭台が並び、絶えることないともしびを帯びて幻想的に揺らめいている。短くなった蝋燭を、修道女が静かに交換していく。各々の光が融合して、中央に掲げられた巨大な至高神と守護天使達の聖像に、荘厳たる陰影をもたらしていた。
 午後の礼拝が終わって手空きの時間だが、出立の前にやっておきたいこと、やらなくてはいけないことが沢山あった。修道院の奉仕も可能な限り参加せねば。そう思いつつ、気持ちが空虚なままだ。帰途につく信徒達への挨拶が一段落すると、ユーヒィは自然と手紙を眺めていたのだった。
 一昨日の己の挙動の、あまりの蒙昧さと、少女に対する配慮の足りなさは、正に痛恨だった。何故、もう少し彼女を知ろうとしなかったのだろう。寝過ごして礼拝に遅れるという前代未聞の失態も併せて、ユーヒィは失意のどん底にあった。
 学者への笑顔は、力無い。
「ユーヒィ……僕は後悔だけはしないつもりだが、君のその顔を見せられてると、その誓約を破棄したくなるよ」
「すみません。聖職者が神の御前にありながら、こんな姿であっていいはずないのですが」
「………………」
 言葉が途切れる。あの快活な娘は自分の意志で姿を消したのだ、間違いなく。アレクが自分の預かり知らぬ事柄を知ってていたとしても、どうして責められようか。
 教会全体を反響させて、鐘楼の大時計が時を告げる。荘重かつ清澄な、音のうねりが、ゆっくり、三つ。広がっていく。
「ユーヒィ、僕は」
 アレクが口を開きかけて、止めた。残響巡る大聖堂の出口へ向かう三人の僧侶が、二人のいる場所のそばを通り過ぎていく。ユーヒィが起立し、深々と辞儀をすると、支えられて先頭をいく年老いた人物が歩みを中断し、ユーヒィの方に向き直る。
「お勤め御苦労様です、ミレア修道長」
「マクリントン司祭ですか。そちらの方は?」
「アレクサンドロ・ブレイク準博士です。私の友人で、明日『ノーサンバランド』で共に皇都へ向かいます。その準備を打ち合わせるため、御足労頂きました」
 学者が感情を交えない顔で黙礼する。
「貴殿が蔵書庫で研究されている方ですな」
「御迷惑をお掛けしております」
 関心なさそうに一つ頷くと、ミレアは踵を返した。
「……私はこれから、聖サン三位一体教会に参ります。ニーコン副主教が御到着なされたとの知らせがもたらされました。本来なら府主教御自身がこの場所でお迎えするのが道理だと思われますが、現在の状況は依然として芳しくありませぬ。貴方がどう思われているのかまでは、干渉致しませぬが、な」
 ユーヒィは顔を上げない。ミレアは、改革派の強力な指導者であると同時に、保守派との繋がりも強力で、当のニーコンとも旧知の仲である。一部で武力的な衝突にも拡大しかねない対立の中で、決定的分裂に到らないのは、この老人の力に依るところが大きいのだ。だが、そのことが保守に対する融和的な態度をとる者たちの台頭を許し、改革派の基盤を揺るがせつつあるのもまた確かなのである。
 それらの内実を知っての行動だろうか、学者はすっと身を引き、会話の間合いを外す。
「……明日の出立ということは、特別急行に先行されるのですな」
「私は群衆に名を連呼されつつ列車に乗り込むような身分ではありません。又、みだりに豪奢に身を委るのは、貪欲さを増長させ、神の御心に背く行いと、存じております」
 ミレアは皺と同化するかのような細い瞳を更に細めて、一瞬若い牧士を見やり、それから歩みを再開した。三人の従司祭が影のように従う。
「情熱滴る貴方の信仰には敬意を表します。ですが、もう少し自分の立場を考慮に入れるべきかと、僅かばかり忠告致しましょう。貴方の父上を考慮に入れられるなら、ここからかの超特急に座乗することも、決して度の過ぎた行為ではないはず。過度の謙遜は、かえって神の御名を汚す行為になりかねません。『人は一人たるなかれ、弱き者、それは人の心という器を隠す者である……』」
 聖典の「カピラ人への手紙」の一節を唱えながら、老修道長は大聖堂を去っていく。 巨大な空間の、圧迫するような空気には、まだ先程の聖鐘の歌が残っているのだろうか。薄暗い空間の中、わだかまる極小の耳鳴りと、ポケットの中にしまわれた白銀の髪の少女の書き置きが、ユーヒィには気になって仕方なかった。

 ……先行するアレクが速度を緩めた。意識が認識すべき時間が急速に現在へとシフトする。ユーヒィも手綱を緩め、二人はだく足で並んだ。
「ユーヒィ、何かおかしくないか」
 学者の指摘に、前方を睨む。二人を挟む両側には、切り立った岩壁。その向こう側から風が吹いてくる。この先、緩やかな勾配を登り切った先に、天然の円形劇場ともいえる盆地があり、国軍の駐屯地が設置されている。そこから目的地までは、あと一息なのだが。
「……匂いが、しますね」
「それも、硝煙と焦げた匂いだ」
 顔を見合わせる間もなく、八つのひずめが大地を蹴る。
 やがて小さな盆地に進入した。が、そこは既に闘争の終了した敗残の地だった。建物は完全な木炭に成り果て、谷間の哭くような風に煽られながらくすぶっていた。まだ、襲撃されてから間がないようだ。小なりとはいえ検問の機能を果たしていた場所である。それが、人気すらない。
「とりあえず生存者を」
「解った」
 手近な柱に手綱を結び興奮する馬をなだめてから、五、六軒を分担して見てまわる。延焼は火種と一緒に散布された油が原因だったらしく、あちこちで燃え残りの異臭が鼻を刺す。乾燥した空気も手伝って、即座に炎は総てを飲み込んだらしい。焼け跡から炭化した兵士を発見する度、ユーヒィは厳しい表情で鎮魂の印を切った。
 狭い場所だが、十分ぐらいの努力は無駄に終わった。
「見事なまでに全滅か……白昼堂々、この有様とは」
「これは単純な盗賊の仕業ではないですね」
「間違いないな。焼けた遺体に刺し傷が残っている。この入り組んだ地形で、獲物を殺し物品を奪い、しかもその痕跡をほとんど残していない。兵士にほとんど反撃も許していない。だが気になるのは、ここはザクーン山脈を迂回するルートの中でも、さして重要ではない支道の一つだということだな。何故ここまで徹底してやらねばならない」
 怒る牧士の右手が、シンボルを強く握りしめる。
「示威行為、でしょうか」
「『スコーラ』、というのを聞いたことがあるか」
「好戦的な反帝政野戦組織ですね」
「……何故ここを襲ったか。この惨状を最も早く発見する可能性のある者は誰か」
「『ノーサンバランド』に関わりあり、今後接触する予定の者」
「つまり、僕たちだよ。この報告が、『スコーラ』を喧伝する巨大な効果を生むことになる。既に民衆に支持を集めている奴らにとって、これは効果的だ。曰く、我らはリゴスキー大公と共にあり、我らノーサンバランドと共にあり、我ら皇帝に決して屈することなし、とね」
 学者の外套が、谷間の風に激しくはためいている。この兵士たちは二人のとばっちりを受けた結果だともいえるのだ。低く頭を垂れて牧士は跪き、深い祈りを詠唱する。
 突如、乾いた音を立てて、土煙が舞った。銃撃だ。
 咄嗟に飛び退き、岩肌に張り付く二人。
「二匹目の獲物を、待っていた奴がいるらしい。狡猾なけものたちだ」
「……いかな魂を導くためといえ、自分まで生命を擲つことを、神はお許しになりません。馬が撃たれます、早くいきましょう!」
「全くだ」
 アレクはそう答えると、懐から手を抜き、空へかざした。間髪入れず炸裂する迫撃音。一呼吸おいて、遥か頭上、断崖の上から絶叫が響いてきた。白い煙と共に、学者の短銃からくる死の芳香が、ユーヒィの顔をしかめさせる。
「……マリアの言ではありませんが、学者にしては腕が立ち過ぎではありませんか?」
「僕は人に才能を見せびらかす趣味はないけど、この姿を見た人総てが、狙撃兵か暗殺者への転職を進めてくれたよ」
「そうならないことを切に祈りますよ」
「全く、その通りだ」
 学者が首を竦めた。

 ……二人が馬の首を巡らせてその場を立ち去った頃。
 兵士の断末魔が消えた辺りの丘陵で。
 白い影が揺らめいて、消えた。

 道はやがてなだらかな下降を辿り、旅人を大草原へと導く。その後はこれといった障害に出くわすこともなく、二人は街道沿いに馬を進めた。楔形の隊列を組んで飛ぶ雁の群が同方向に向かって飛翔し、楔形の影を落としていく。山脈の稜線が切れると、視界の両側には見渡す限りの緑の平原が展開していた。陽射しが傾くにつれ、蹂躙する白南風と輪唱しながら靡く草原の波は、その色調を緑から紅へと徐々に変化させていった。
 道は、遂に一対のレールに平行して走るようになった。まもなく、二人は目的地に到着する。
 そこに、名はない。ただ、ぽつんと立つ給水塔が長く影を落としているだけだ。機関車は疾走のエネルギーを得るために莫大な化石燃料を必要とする。それが燃焼するために必需なのが水である。機関車のタンクは限度があるから、どうしても補給点がなくてはならない。だがこの周囲には河がない。大変な努力の末に深き井戸が掘られ、辛うじて発見された水脈の上に給水塔が建てられた。ここは駅でも、町でもない。だが、その理由のために、ここには列車が停車する。
 停まる列車目当てに、草原の何処からか人々がやってくる。停車中に食料や土産物を販売しようとする者、ここから鉄道で旅立とうとする者。「そこ」に「それ」があること自体が、彼らにとっては新たな意味を帯びてくる。
 給水塔の下に小柄な驢馬が繋がれ、一人の無骨な男が座り込んで煙草を吹かしている。貫頭衣を纏い、身じろぎする度に様々な装身具が触れ合って音を出す。だく足をしながら嘶く馬を見やり、男は皺嗄れた声を出した。
「……馬を引き取ろう」
「頼む」
 学者が硬貨の入った革袋を受け取る。牧士は他に誰もいない平原をゆっくり見回した。
「ここにはもう少し人が集まると聞いていたのですが」
「……通る列車による。我ら草原の部族は生活に最も必要な事柄を重く見る。必要でないことをするのは、父なる神も喜ばれない」
「『ノーサンバランド』相手に、商売は出来ないか……」
 学者が腰を下ろすと入れ替わるように、男は立ち上がり、受け取ったばかりの手綱を荒縄で一本にまとめ、驢馬に跨った。
「それに、余分な富は総て、教会に捧げなければならない。最初から持たない方が、ぬか喜びをしないで済む分ましだ」
 ユーヒィに一瞥をくれて、彼は橙色の海原を地平線に向かって進んでいく。
「………………」
「気にするな、ユーヒィ。お前が直接の責任を負うわけじゃない」
 アレクはそういうと、携帯していた背負い袋から薪と燐寸を取り出した。

 夜半の草原。不気味なほど風がない。空気は生温く、月光冴え渡り、白く化粧した世界の中で、揺らめく炎を二人の男が囲んでいる。 ユーヒィは、シンボルを掴んで瞳を閉じ、口の中で祈りを囁いている。アレクは焚き火からランタンに明かりを採り、古めかしい装幀の本に目を落としている。
 無音の世界。
 ただ、アレクがページをめくる度に、乾いた響きが拡散して、消える。
 風が吹かない。だから、満ちた月よりの波は弱まることなく、アレクの外套をいよいよ白くし、ユーヒィの外套に銀の光沢を浮かび上がらせる。静寂の世界で、次第に膨張していく月の魔力が、無限の草原を照らし続けていた。

    2

 時は、間断無く、巡る。
 ……太陽が昇って、既に久しい。
 二人がここに到着してから、およそ十八時間が流れていた。二人とも、徹夜で瞑想と読書に没頭し、ほとんど身動きしていない。焚き火はとうの昔に燃え尽きてしまっている。中天に差し掛かろうかという頃合、遮るものとて無い草原の直中で、空気も大地も熱を蓄え、地平線の彼方には陽炎が立ち登り始める。それでも、若者達はそれぞれの仕事を継続し続ける。その精神力は無尽蔵かと思われた。
 遠くで、高い音が、空気を裂いた。
 初めて二人が、顔を上げる。
「……来ましたか」
「そのようだ」
 学者がゆらりと立つ。丸眼鏡に白い太陽を映して、複線続く軌道の果てを見遥かした。
 もう一度。甲高い―――鋭く尖った汽笛。
 牧士が外套の埃を払い、くすんだぼさぼさの金髪を僧帽に押し込み、形を整える。
 はじめは点。黒い点だったのが、徐々に大きくなる。その息吹が、大気全体を震わせる。煙突から吹き上げる黒煙が、抜けるような青空に立ち登り、東の空へ流れていく。躍動する人工物は、レールにその武者震いを伝達し、大地に真なる目覚めを促すかのようだ。
 二人の旅人の外套が、再び大きく翻り始める。風が、戻ってきた。

 鼓動。荒々しい息吹。
 疾駆するためだけに存在する、漆黒の生物。
 7600型旅客用大型機関車・一番機。その先頭には、ターンスタリム駅の設置してある銅像と同様、指差す老英雄の姿が刻印された、逆三角のプレートが掲げられている。
 六つの動輪をつなぐクランクは、王宮の柱のように太く頑丈だ。至る所から吹き上げる水蒸気が、若者達の体を大きく揺らす。
 長大な列車全体がブレーキをかけ、レールとの摩擦で盛大な悲鳴を上げる。はぜる火花の飛沫。機関車の後を炭水車が続き、ついで豪奢な客車が通過していく。窓枠に精緻な彫り物を凝らし、金箔と瑪瑙で装飾が施してある。最上の桧で構成された車体も整然と並ぶ窓も、太陽を映して燦然と輝く。
 王者の貫録。圧倒的な存在感。
 地上で煌々と輝く流星。
 帰還した英雄。
 すなわち―――超特急、ノーサンバランド。

 ……ようやく列車が停車の兆しを見せると、二人は列車の最後尾に向かって歩いていった。
 七両ある客車の最後の部分は展望室になっており、頑丈な柵でテラスが構成されていた。そこで二人は、大アフグラント鉄道の制服をつけた、背の高い紳士の歓待を受けた。
「皇立アカデミアの、アレクサンドロ・ブレイク準博士と、聖カテガンテ大聖堂からお越しになった、ユーヒィ・マクリントン司祭、でいらっしゃいますか」
 二人は、ほぼ同時に頷く。
「確認は終了しております。どうぞご乗車下さい」
 備え付けのタラップからテラスに上がると、壮年の男は満面の笑顔を讃え、帽子を取って挨拶をした。
「大アフグラント鉄道、第一等特別急行『ノーサンバランド』へ、ようこそおいで下さいました。私は、この列車の車掌職をお預かりしております、コルスキー・ノージックです。皇都ウラジミラブルクまで、どうぞよろしくお願いいたします」
「こちらこそ、礼儀知らずですが、よろしくお願いします」
 まず返礼したアレクが、ついで黙礼したユーヒィが、車掌と握手を交わす。
「いや、わざわざターンスタリムからこちらまでお越しいただき、大変申し訳ありませんでした。貴方がたも御一緒に乗車頂くのが筋というもの。融通の利かない会社の役員に代わり、心からお詫び申し上げます」
「いえ、それはよいのです。それよりも、火急の用件があるのですが」
「まずは、乗客の皆様に御挨拶を。皆様お待ちでございますので」
 そういうと、ノージックは扉を開いた。
 展望車の中は、深紅の絨毯が敷き詰められた空間になっており、端に小卓が幾つか設置している他は、何もない空間だ。天井からはシャンデリアが吊してあり、小規模なダンスホールを模してあるらしい。そこに、幾人かの乗客が並び立っていた。その一人、格幅の良い中年の男が手を広げる。
「ようやくお越しになりましたな」
 その声を受けるように、中央で硝子の盃を傾けていた長身の人物が、こちらに気付いて振り返った。立派な顎髭を蓄えた、背の伸びた老人だ。峻厳な面持ちを崩すことなく、二人を見据えている。
 アレクが膝をつき、正式な儀礼を取った。ユーヒィもそれに倣う。
「アフグラント帝国皇立アカデミア会員、アレクサンドロ・ブレイク準博士でございます」
「真正教会東南地域教管区所属、正司祭ユーヒィ・マクリントン、お目にかかることをお許し下さい」
 中央の男性が、一歩前に立ちワイン入りの盃を挙げる。
「顔を上げたまえ、御二方。私は服従や忠誠を求めるため、諸君を招いた訳ではない。友人として、又先見の明ある論客としての振る舞いを、期待しているのだから」
「は」
 博士が静かに立ち上がり、牧士は小さく印を切ってもう一度黙礼した。
「超特急『ノーサンバランド』へ、私の企図した旅路へ、よくぞ参られた。我々は諸君を歓迎する。私が、カルム・リゴスキーだ。皇都ウラジミラブルクへの同行、宜しくお願いする」
 大公が、周囲の人々に視線を向ける。
「私の友人たちを紹介しよう。向かってこちらから、大アフグラント鉄道副総裁、スカラス・ランドルフ」
 先程の男が、人の良い笑顔を見せる。
「そちらが、ピアモニカ・ツチャーラドルフ男爵夫人。それからアテリコ・カンジンスキー子爵。ラークライク・スモレンスク男爵」
 紹介された貴族達が、優雅に会釈をしていく。
「あともう御一方、来られていない方がいるが」
「遅れまして申し訳有りませぬ」
 奥の戸口が開いて、漆黒の一団が現れた。
 ユーヒィと同じ、司祭の法衣を纏った四人の男。ユーヒィのそれと違い、外套の襟までも黒で統一してあることが、高位の司祭であることを明示している。
 その中央で、黄金と金剛石に彩られた錫杖をつき、豪奢な装飾のシンボルで飾りたてた小柄な老僧が、満面の笑みを浮かべて大公に礼を取った。
「いや、身分ある方をお迎えするには、それなりの準備が必要というもの。少々手間取りましたが、これなら非礼を詫びる心配もありますまい。皆様に、至高神の無限の愛が絶え間なきよう」
 高音で、早口。アレクは連鎖的に、硝子窓に短剣を滑らせた時の不快な音を想起し、鳥肌を立てた。
「いやいや、私の紹介は無用ですぞ、大公閣下。多少とも面識はありますので。そうであろう、マクリントン牧士」
 ユーヒィは進み出、薮睨みの老人に跪く。
「ニーコン・マル副主教猊下、長大な期間をおいての再度の御目道、深き慈愛を持ってお許しになられますよう」 
「立派になったものだ、司祭を名乗るとはな。これほどの賢息を持ちながら、この場に参上しないターンスタリム府主教の気が知れぬて」
 一瞬、息を呑む。硬直する空気。外套の下で、ユーヒィの拳が固められる。沈黙。ついで、アレクの丸眼鏡に危険な光が宿る。
「お初にお目にかかります、副主教猊下」
「……皇立アカデミアの者か」
「は、ならば科学的見地から、猊下に一つ御助言を奏上したく存じます」
「ブレイク準博士」
 ユーヒィの小声の制止を、アレクは無視した。
「真正教会の今後を憂えて申し上げる、重要かつ緊急の用件なのです」
「ほう、何かな」
「拝見したところ、その錫杖は大変な重量のはず。猊下はご老体故、その様に所持なされていては、いつ骨格に大きな負担をかけ、骨折されても不思議ではありません。着衣も同様です。無駄な重量物を脱ぎ捨て、一刻も早く軽装になり、御自愛されることを心より忠告させて頂きます。いかなる世俗の宝玉よりも、猊下が纏われた御心の法衣こそが、真正教会の清廉さを示すと思われますが故に」
「………………」
 副主教の青筋が浮き上がるのと、聖司祭たちが色めき立ったのはほぼ同時だった。
「猊下に対する侮辱は、神への冒涜なるぞ!」
「私は自らの言葉を持たぬ方と、交わす言葉を持たない」
「そこまでだ」
 低い明朗な声が、その場を制した。
「副主教殿、挨拶も済みましたし、一旦お部屋に戻られてはどうですかな」
「しかし、大公閣下」
「車掌」
「はっ」
 部屋の隅に控えていたノージックが駆け寄る。
「列車の具合はどうかね」
「給水は間もなく終了し、後二分少々で発車致します」
「宜しい。では御一同、引き上げるとしよう。準博士殿、司祭、荷物の整理が済み、落ちついたら私の部屋に来てくれたまえ」
 言い残し、大公はさっさと扉の向こうへ消え、貴族たちもそれに続く。副主教は憎悪を収束した視線をユーヒィとアレクに突き刺すと、装身具を鳴らしながら歩み去り、黒衣の男達がそれに続いた。
 未だ立ち上がれない若者と、立ったまま身じろぎしない若者。
「……発車します。お部屋へ案内致しましょう、こちらへ」
 同情の表情を制帽に隠し、懐中時計に目を遣りながら、ノージックは二人を促した。
 窓の外で、再び汽笛が鳴る。

 この超特急は、昨日午後六時にターンスタリム駅を出発した。発車時には何千という群衆が詰めかけ、駅長が乗客を呼び挙げる度に歓呼が沸き起こったという。
 そも、特急といっても、この列車は通常運行されていない。皇室や高級貴族からの直接の依頼によって、大アフグラント鉄道が特別な運行スケジュールを作成するためだ。よって会社にとっても民衆にとっても、ノーサンバランドの姿を見るのはもはやお祭りと同様である。超特急が走った例は、千八百十二年を皮切りに、現在まで四度を数えるのみ。その都度、人々は鉄道に蘇った老英雄を讃えるべく、熱狂を繰り返すのである。
 因みに、第一級特急にはもう一つ、『エルマラーク』という列車が存在する。これは大陸を縦断する国際列車であり、通常の時刻表にも組み込まれている。こちらも同様の高級さを誇り、切符は非常に高価ではあるが、一般の乗客も利用できる。
 ……窓の外の草原が、大河のように流れていく。普通の客車と違い、それほど震動を感じない。特別な車両が、感覚に奇妙な違和感をもたらしている。
 進行方向、つまり機関車の方向から数えて、客車には番号が打たれ、最後尾の展望車が七号車である。簡潔に、しかし控えめな誇りと共にこれまでの経緯を話す車掌に先導され、二人は五号車にやってきた。この客車は六号車と同じく個室が二つ設けてあり、その先頭寄りの部屋に案内された。
 扉の前で、車掌は軽く会釈をする。
「食事は四号車の食堂へお越し下さい。午後七時からになっておりますが、それ以外にも御所望であれば軽食をご用意させて頂きます。化粧室は各車の先頭にございます。また、リゴスキー大公のお部屋は三号車、二号車はサロンになっております。一号車は乗務員室及び警備兵の待機所となっております」
「車掌さん、先程の件ですが」
「『スコーラ』、の事ではありませんか」
 疑問を呈したアレクが神妙に頷く。
「大丈夫、問題ありません。軍は既に動いていますし、直接この列車を狙うことも不可能です。騎馬は追いつけず、他の列車では併走することも叶いませんから」
「では、大公閣下は彼らの襲撃を察知されながら、出発を中止されなかったのですか」
 ユーヒィの言葉が、無意識的に非難めいた口調を込める。
「具体的な話は、直接閣下にお聞きになるのが宜しいでしょう。私は、職務のためこれで失礼致します。御用件などは、召使を向かわせますので、そちらにどうぞお申し付け下さい」
 車掌はきびきびとした歩みで先頭車両の方へ消えた。
 部屋に入り、扉を閉める。中央に提げられた燭台の下には、丸卓と椅子が二つ設置してあり、丸卓には豊饒な色彩の花々が飾られていた。二つのベッドには柔らかな羽毛の布団が敷かれている。アレクがカーテンを開けると、大きな硝子窓の外で、緑の平原が急速に流れていく。
 外套を脱ぎ、荷物を整理し始めたユーヒィに、アレクの詰問が飛ぶ。
「僕は、あれほど腹立たしい気分になったことはない。彼奴は腐敗なんてものじゃない。人間の屑という表現さえ奴には贅沢というものだろう。礼儀の中にも、譲るべきでない矜持というものがあるだろうに」
「どんなに怒りを秘めていても、こちらから相手を傷つけることは、神の御意志に反するのです」
「神の前の平等を声高に叫んでいたのは、君たち改革派じゃないのか」
 ユーヒィが振り返る。悔過の思いを必死で堪えながら。
「私は」
 コンコン。
 扉がノックされる。握りしめた拳を解いて、一呼吸置き、ユーヒィは扉の前に立った。
「はい」
「お部屋の御世話を承った者です。お飲物などをお持ちしました」
 女性の声だ。透き通った、高音域の声。
 ユーヒィの記憶が何かを訴える。アレクの方を見ると、彼の表情が徐々に、疑念から驚愕に変容していくところだった。
 ゆっくり、扉を開ける。
 そこには小柄な女性が立っていた。車掌によく似た制服・・・ズボンの替わりにスカートだが……を着け、両手にティーセットを抱えて。身なりも化粧も全く違うが、相貌、中でも薄朱の瞳と、ホワイトシルバーの光輝たる長髪だけは、見間違えようがなかった。 声が出ない。
 少女は学者の方に片目をつぶって見せた。
「いったでしょアレク、後悔はなしだって」
 間抜けなほど半開きの牧士の口をじぃっと見るが、やがて少女はつかつかと部屋に入り、荷物を丸卓の上に載せると、スカートの端を優雅に摘んで辞儀をした。
「改めて私からもいわせてね。超特急『ノーサンバランド』へようこそ! で、これからもよろしくね、お二人さん」
 マリア・ミラーは、この上ない微笑みを浮かべた。

    3

「そもそも、何でマリアがこの列車に乗ってるんだ。乗員といえど、ある程度身分が保障されてないと選考段階において不採用になるはずだが」
「それは大丈夫。あたし、貴族の娘だもん」
「何だって」
 ようやく硬直のとれた二人を相手に、マリアはお茶を楽しんでいた。清純な水と柑橘類の芳香が、部屋を漂い潤していく。
「それも、一応当主なのよ。ものすごい東にある、小さな土地だけどね」
「じゃどうして、あんな格好でいたんですか。罪人なら、領地が現存してるのも不思議だし」
「ユーヒィって、聖職者の割にときどき失礼な事言うのね」
「それは大丈夫だ。ここにいる三人とも、それぞれの世界じゃ異端だよ」
「そりゃそうね。で、一応釈明しとくけど、あたしは罪人じゃないわ。先方がどう思ってるのかは別にしてね。身分もしっかりしてるし、有能な代官もいるから領地の方には手を出されない。今回の乗務員検定だって、きちんと手続きに則ったものよ。今だからいうけど、あたしが『ノーサンバランド』に乗るのは、三ヶ月も前から決定してたんだから」
「では、天涯孤独っていうのは」
「それも本当よ。両親とは死に別れてるし、今の家にも養子に入ったんだし」
「……何故、いわなかった」
「あ、もしかして怒ってる? 駄目だよ、怒りっぽいとすぐ死んじゃうよぉ」
「くっ、この」
「まあまあ。我々では、とうてい貴女にはかないっこありませんよ」
「さすがユーヒィ、話が解るぅ」
「………………」
「でもね、あたしも吃驚したんだよ。二人がこれに乗るって聞いた時、危うく喋っちゃうところだったんだから。全く、臨機応変ってあたしのためにある言葉よね」
「では、私たちを騙した罰として、もう少し説明していただけますか。貴方を狙っている、無粋な方々の素性を」
「それは駄目」
「マリア。これからあと二日、俺達は間違いなく共に未来を目指すことになる。もう、煙に巻くのはやめにしてくれないか」
「そうやって又、あたしを保護しようとするんでしょ。あの時の約束を反故にするの?」
「違う! 僕は、僕らは君と、同じ高さにいたいだけだ。距離を縮めたのは君だろう。君には、その責任を取る義務があるんだ」
「……アレク、本気になるなんて。卑怯だよ……」
 アレクとマリアの間に発生している微妙な親密さに気付きながらも、ユーヒィはマリアに微笑みかける。
「僕からもお願いします。友として、側にいさせて下さい。出来る限り、力添えがしたいから」
「………………」
「マリア!」
「……解った」
「!」
「この列車が、ウラジミラブルクに無事到着したら、二人に秘密を打ち明けてあげる。但し、それが原因で、命を狙われるようになっても、あたし知らないからね。そんなことで、あたしを悲しませないでね」
「……僕らの腕に、そこまで信用が置けないとは、心外だな。なあ、ユーヒィ」
「本当に。『その者剣と善良を持て、人の世に狭く正しき道を示し給えり』とあります。力量は行使される時を自ずから選択するものです。アレクは貴方の楯に、僕は貴方の刃になることでしょう」
「………………」
「孤独は自分と対面する良い機会です。でも、人はやっぱり沢山でいた方が自然だし、何より楽しいでしょう?」
「……ほんっと、異端でバカな人達、なんだから。牧士とか学者とか嘘でしょ? ……もう、ばかばかしくて、涙が出ちゃうわよ、ほんとに……」
「マリア、ありがとう」
「ふんっだ、アレクのばーか」
何時しか、三人の声は笑い声になり、ゆっくりと高まっていった。

 三号車の廊下を歩きながら、アレクがユーヒィに向かって苦虫を潰した。
「それにしてもマリアの奴、仕事放ったらかして僕らの部屋に居座るつもりじゃないだろうな」
「やりかねませんね」
「公私混同だけはするなと、釘を刺しておかねばならん」
 苦言を呈する学者の顔に、明確な変化が見え隠れしていることを察知しているユーヒィは、こみ上げるおかしさを噛み潰す。
 二人は、一際豪華な造作の引き戸の前に立つ。神妙な顔つきに戻ったアレクが頷き、ユーヒィは三度ノックした。
「入りたまえ」
 主の意に深々と礼をし、部屋の中に立つ。基本的な部屋の構成はユーヒィ達の自室とそれほど大差ないが、紫を基調とした調度品や油彩画などの行き届いた配置は、正に宮廷が走行しているとの流言も誇張ではなかった。執務机に向かっていた大公が顔を上げ、眼鏡を取る。
「ブレイク準博士と、マクリントン司祭。待っていたよ。まあ、掛けたまえ」
「失礼いたします」
 勧められた椅子に腰掛けると、その正面の長椅子に腰掛け、大公は二人をしっかりと見据えた。
「この列車はどうかね」
「噂に違わぬ超特急、感嘆していると同時に、かの老英雄の名を借りるという愚挙の行く末を、黙して諦観したい、というのが正直な心境です」
「ふむ、流石はアカデミアの若き天才、辛辣さに容赦がないな」
「砂糖のような世辞で翼賛するために、アカデミアの人間をお招きになったのではないことは、重々承知しております」
「では問おう。直言してくれて構わない。君の考えを述べてくれ。それから、閣下はいい。名前で呼んでくれ」
「では遠慮なしに。カルム様は、ここで死なれるおつもりでしょう。無責任極まりないことですな」
 大公は微動だにしない。ユーヒィは唖然として冷徹な学者の顔を見、それから老貴族を驚きの瞳で見つめた。
「……カルム様は、進歩派のリーダーとして貴族の方々の信頼厚く、真正教会も貴方の将来を見ている。次代の玉座も手中にされるのも時間の問題……外部の評価は往々にして確定しています。しかし、内実は違う。貴族達は風に揺れる小麦の穂だ。もし本当に進歩派に力があるなら、この列車には溢れるほどの開明的な貴族達が乗っているに違いない。ですが、実際はこの有り様」
 アレクは軽く手を広げる。
「これは憶断ですが、カルム様は既に、皇帝陛下と決定的に袂を分かたれたのではないでしょうか。公的な政治の場において貴方の権勢の基盤は脆弱なものでしかない。だが、国内の不満が高まる中、貴方がこのように煽動的な行動に出れば、綻びは瞬く間に燃え広がり、半世紀前の繰り返しが起きるのは必定。再びこのアフグラントを、暴動と殺戮の嵐が吹き荒れることでしょう」
 英雄鉄道の乱。有史以来、アフグラントにおいて起きた最大の群衆蜂起。
「それは是か、否か」
「我が国の将来を考慮の対象にするならば、否定でしょう」
「……ならば、君には良策があるのかね、ブレイク準博士」
「カルム様がもし、御自身の立場をわきまえていただけるのであれば、陛下をしい逆し奉り、神の玉座を簒奪するのが最も妥当な選択かと」
「アレク! なんという不遜なことを」
 話の雲行きが怪しくなり、懸念しながら傍聴にまわっていたユーヒィが、敬称もつけずに水を差した。学者は丸眼鏡の奥で、冷徹な仮面を外さない。
「では司祭、貴方には代案がおありなのですか? 民衆を救い腐敗を絶つための、迅速かつ有意義な方法が」
「……お教え下さい、カルム様。ブレイク準博士の説明は、真実なのですか」
「全てではない。だが、敢えて私が訂正しようと思う箇所も、又存在しない」
 陽が翳った。部屋の中が一段と暗くなる。
「もはや時は満ちたのだ。皇室、教会、貴族、皆農民の搾取方法ばかり考えておる。我らは改革を訴え続けたが、小麦の穂は揺れるばかりで、一向に成長を望まない。穂が重くなれば、茎が耐えきれずに折れてしまうことだけは、知っているのだろうな。昨今の真正教会の動静も、気付けにはなるが治療剤ではない。よってこの様だ」
「治療しようとしないのは、権力を行使する者として怠慢ではありませんか?」
「準博士の意見は正鵠を撃つな。だが、私がノーサンバランド公と同様、身を捨てているとの見解は、身に余るというもの。それほど純粋でもなければ、命を惜しまないでもない。私はきちんと意見上奏をして、自分の領地へ戻るつもりだよ。多少の危険や身分降格は覚悟しているがね。君らに危惧させてしまった『スコーラ』に関しても、十分ではないが警戒は早期に出してあったのだ……それよりも、まだ司祭の意見を聞いていないな。どうだろう」
 四つの眼が、沈黙するくすんだ金髪の聖職者に向かう。
「……私は……私はお二人に意見する言説を持ちません。世の流れに一応の視野を置いてはいますが、私は副主教猊下が仰った通り、辺境の一牧士に過ぎません。自分の手の届く範囲の人々が、少しでも幸せであるように、偉大なる神のお導きを伝えるのを、我が生命の意味と捉えております……戦乱は人々に直接にして最大の禍をもたらすでしょう。王権は神より与えられ、その決定は神聖にして絶対不可侵といえど、戦争は邪なる人の心がもたらす原罪と言うべきもの。ですがその視点は、あくまで人々に寄り添うものです。戦争に反対できても、戦争に意味を求めることはできません」
 アレクの明言、大公の意志を聞き、取り繕っただけの言葉には自信もなく、信念が篭もらない。自分の言葉が、まるで砂のようだ。ユーヒィは、定期的な震動に合わせて膝の上で揺れる拳を見つめていた。
「……よく似ている。若き日のマクリントン府主教は、そう語っていつも辺境へ旅立っていった」
「父をご存じなのですか」
「もう何十年も顔を合わせていないが、今も友でいるつもりだ……だが」
 大公はふと机の引き出しに目をやった。そこは堅く施錠されていた。老人はしばらく目を閉じ、それから席を立って流れゆく風景の大窓に身を寄せる。
「それではマクリントン司祭、君は何故この列車に乗っているのかね」
「……それは」

「傲慢かもしれないが、私にはそれほど愚鈍でないという自覚がある。もし教会内の対立の場としてここを用いるのなら、通過駅でターンスタリム行きの列車に乗り換え、心配ないと府主教に知らせるがよかろう。必要なら車掌に列車を止めさせよう。しかしだ。旅とは目的を持って始まることが多いが、旅自体が新たな意味を持ち、目的を生み、人生を変化させていく。まだ先は長い。何故府主教が君を送り込んだのか、何故君でなければならなかったのか。神の声を聞きながら、熟考するがよいと思うが?」
 そういって、リゴスキー大公は会見を打ち切った。学者に連れられるように、ユーヒィは黙礼し、部屋を辞した。
 廊下の絨毯は、深紅に金の刺繍。踏む足に、力が入っていない。
「僕やマリアが、君に邂逅したのと同じように、世界中にはその時にしか発生しない、その瞬間の意味が絶えず満ちては引く。それを捕まえられるかどうかは、その時の君次第、というわけさ。ユーヒィ、神がお示しにならないことは、自分で考えるしかない」
 絨毯は足音を吸収する。掌に食い込む爪の感覚が痛覚に変わる頃、アレクの姿は消えていた。

    4

 この列車においては、居住空間に対して人員の割合が、普通の列車と比較するまでもないほど少なく、快適に過ごせることはいうまでもない。だが、目的が娯楽や御幸ではなく、豪華さは不必要との大公の指示から、その中での行動は必然的に限られる。本来の仕様であれば、三十人編成の楽士隊や吟遊詩人、小規模の芸人一座も乗せるというが、現在は列車の振動音と、機関車の鼓動ばかりが響く、至って簡素な旅だ。
 ユーヒィは部屋に戻り、縮れに乱れた精神を統一するため、聖典を読みふけっていた。時折目を上げると、窓の外に流れゆく風景が、何時しか草原から台地へ、荒削りの岩肌に変わっていた。ユーヒィはふと、幼少期の誕生祭の光景を思い出す。闇の中、教会前の広場で、行商人が回していた幻灯。蝋燭の炎によって生を得た主天使が、神の座を目指して何度も何度も世界を回っている。今にして思えば傲慢な遊びだ。何しろ、子供達……ユーヒィの視点は、座して天使を見つめる神の視点と同じなのだから。
 その錯覚を、列車の窓はもたらす。
 暫くして、ユーヒィは部屋を出た。他の貴族達に挨拶を、とも思ったが、本当はあの窓が怖かったのかもしれない。
 貴族達の部屋の前で、ふと後部の車両を見る。接合部の後ろ、あの展望車の方に、人影が見える。ユーヒィは近付いていった。
 展望車の壁には、大小様々な剣、棹上斧、楯が掛けられている。どれも儀礼用だが、その殺傷力は戦場で用いられているものと代わりない。この国ではまだ、中世より今日まで、これらの基本的な装備が実戦で用いられているのだ。
 人影は、展望車の扉の向こう、テラスの部分で手摺を掴んで遥かを望んでいるようだ。ブラウンの髪が激しくはためいている。
 そのの人影の正体に気付く。
 風に抱かれる青年。
 と、こちらに気付いたようだ。
「なんだ、声を掛けろよ、ユーヒィ」
「すいません」
 視点をゆっくりと彷徨わせるアレクの横に立つ。風が強い。耳の脇をすり抜ける風音とともに、少しゆとりのある法衣の袖が、腕に密着する。
 列車の最後尾。特急の、二人の踏み越えたレールが、あっという間に彼方に消えていく。その向こうには、はるかに輝く緑色の草の海が広がり、地平線上の蒼と明確な境界線を成す。蒼いスクリーンに、散らされた羽根雲が舞っていた。
 暫くの沈黙を、学者が破った。
「……いつからか、風に吹かれるのが好きになった。その理由は、よく解らないんだけど」
「嗜好に理由は存在しないのでは?」
「学者だからね、曖昧はなるべく排除したいさ。でも、今はこのままでいいと、思ってもいるんだ」
 そう呟いて顔を天空に向けるアレク。
 少し気まずかった間隔を埋めてくれたアレクに感謝しつつ、ユーヒィは手摺に体を預ける。
「ターンスタリム中央駅でも、カテガンテでも、貴方の姿を見て思いましたよ。風が似合う人だな、って」
「そりゃ光栄だな。エピクルの詩集に詠まれた、『疾風を愛した騎士』の伝説とはいかなくても、三文悲恋劇の一場面には登場できそうだ」
 学者の表情は、冷たさこそ感じられないが、感情を感じさせにくい。だがユーヒィの言葉には、少しばかり満更でもなさそうだった。
「こらぁ! あたしを置いて何処いったかと思えば、こんな所で油売ってぇ!」 
 いつもの元気な声に、自然と青年達の顔つきが、「やれやれ」という文句を浮かび上がらせる。
「油売ってるのは君だろうに。今に免職されるぞ」
 学者の指摘に猛然と反発するマリア。
「あたしはちゃんと仕事してますぅ! なんたって、貴方達二人のお附きが仕事なんだから、そっちこそ営業妨害よ」
 このくらい根拠のない自信が持てたらな、とユーヒィが僅かな羨望を思い浮かべたとき、マリアが展望車の手摺に掴まった。強い風に煽られる白銀の髪とスカートに苦慮していると、後ろからアレクがマリアの肩を抱く。みっともない姿の心配はなくなったが、少女は身動きが取れない。大きな体の中で、マリアの頬に赤みが差した。
「ちょっと、大丈夫だから」
「淑女をお助けするのは紳士の役割だからな。僕等の目の前で転落死、なんてことは避けたいし」
「だからって、こんなこと……」
 懇願の少女に、ユーヒィが笑みをこぼす。その瞳が、アレクの視線と交差する。
「さて、午後の祈りの時間かな」
「駄目よ、だーめっ! 絶対駄目。ここにいて、ユーヒィ。これはお願いじゃなく、命令よ!」
 絶妙の呼吸で、青年達が笑い声を漏らす。そんな二人の間で、マリアはやり場の失った怒りを空に投げつけた。
「もーっ、二人とも意地悪なんだから! 知らないっ!」

 その後、ユーヒィは他の乗客と話をする機会を得た。
 アテリコ・カンジンスキー子爵は、大人びた外見と優雅な口調からは想像できないが、若干十四歳の少年である。咳込む時が多々あったが、ユーヒィやアレクほどに、本人は気にしていなかった。そしてこともなげにいったのだ。
「医者に、あと数年の命といわれておりますので」
 線の細い顎が、苦笑を交えて語ったのは、命短き故の悟りの境地からだろうか。現皇帝ニコラス二世と同じく、当主でありながら相続者がいないため、既に財産のほとんどは縁故の貴族への相続が決まっているらしい。勿論、リゴスキー大公とは膝を交えて語った上での、今回の参加である。
「僕の時代の後ろに、どんな形であれこの大地で人々が生活していくと考えれば、問題には真剣に取り込むのが当然の義務だと思うのです。まあ、僕のような若輩者に何もなせるものかと、みなさんは疑問に思われるでしょうが」
 部屋を出た二人は、先程とは違う意味で、沈痛な面持ちになっていた。
 また、それから数時間後、部屋に一人でいるユーヒィに来客があった。ラークライク・スモレンスク男爵である。軽妙な物言いと煙草がよく似合う二十代後半の優男で、白煙を漂わせながらユーヒィの話を聞き、大袈裟に同情して見せた。
「境遇とは、各々に課せられた悲壮たる鎖のようなもの。マクリントン府主教様のお心も又、迫害により責め苦を追う、殉教者の心境でしょうなあ」
 気に障る寸前という感触の、言葉。ユーヒィは適当なところで自分の話を打ち切り、男爵自身に水を向けた。
「スモレンスク男爵様は、何故この旅に参加されたのですか」
「政治的権謀術策、という奴ですよ」
「と、いわれますと?」
 彼はスモレンスク家の次男であり、将来的にも家督を継ぐ確率は低い。長男の方が才能も人望も優れているのは、彼自身も認めているので、そのことに未練はない。さて、彼の父親はリゴスキー大公と旧交の間柄だったが、今回の皇都行きに関しては諸手をあげて賛同しなかった。あまりにリスクが大きいのだ。
「で、私に白羽の矢が立った、という訳です。私には家督相続権がありませんので、スモレンスク家の総意としてこの旅に参加した、ということにはなりません。父も、領土や権利を失うことなく大公閣下への義理もきちんと果たせますし。私自身も、閣下には大恩がありますので、これで万事めでたしめでたし、という成り行きなのです」
 自分の人生を語るのが愉快なのか、吟遊詩人のように抑揚をつけて、事細かに喋っていく。男爵によれば、何者にも束縛されず生きていく自由人を標榜しようとしているが、実際はおのが運命に左右される卑小な自分に呆れている、とのことだった。又、旅の同行者に女性が少ないのをしきりに嘆いていた。
「愛のない人生など、忌まわしき生ける屍と大差ありませんからねぇ」
 ラークライクは煙草を五本ふかし、気の済むまで四方山話をすると、さっさと自室に戻っていった。
 暫くして、アレクが部屋に戻ってきた。窓が全開になっていたが、部屋には煙草の匂いが少しわだかまっており、アレクは顔をしかめた。
「サロンで吸えばよいものを。無礼な客人だったのか?」
「気が良いという特徴が、必ずしも人に好印象を与える訳ではない、との好例ですよ」  ユーヒィが肩を竦めた。

 晩餐は、午後七時ちょうどから、四号車の食堂で催された。窓の外に未だある夕焼けの残映を、純白のテーブルクロスに固定された燭台が押しのけるように、明々と灯っている。その間を、マリアと同じ制服に身を包んだ幾人もの若い給仕の少女達が、忙しく、だが優雅に働いている。
 メニューは簡素化されていたが、それでもユーヒィなどが普段では絶対口にすることのない精緻を極めた料理が、次々と運ばれてきた。アレクは硝子の盃に注がれた葡萄酒の豊潤な香りを、目を閉じて楽しんでいるようだ。
 二人と相席になったのは、ピアモニカ・ツチャーラドルフ男爵夫人だった。三十路を超えたと見える成熟した女性で、胸元の大きく開いたドレスが、その魅力を惜しみなく振りまいている。目元に青いシャドウを引いた深緑の瞳が、好奇の目で青年二人を捉えていた。
「お二人とも、心にお決めの方はいらっしゃるのかしら?」
 優雅を気取っていたアレクのこめかみが、ぴくっと痙攣する。努めて冷静を保ちながら、ユーヒィが笑顔を向けた。
「私は神に仕える身ですし、まだ牧士の職に就いておりますので、女性と個人的な関係を持つことは許されておりません」
「そう、残念なことですわ。男女ともに、愛を交わすに若さほど重要なものはありませんのに。歳を追う毎、それを実感してなりませんの。そちらの学者様は?」
「私も同様です。この身は人間の姿なれど、我が身は木石と大差ないとお思い下さい」
「そうかしら。わたくしの見立てでは、胸中に慕っている方がいらっしゃるように見えますよ?」
「……その根拠は何処におありですかな」
「実証的な根拠はありませんわ。長年の女の勘、では学者様は納得されないのでしょうね」
「ご想像にお任せいたします」
 聞けば、夫人は未亡人だと言う。
「はじめは、大公様に心惹かれていたのだけれど、表面上の恋愛の駆け引きよりも、大公様の信念、生き方に心底惚れてしまいましたの。それから、ずっとお供させていただいておりますわ」
「心の機微に満ちた想い、理論の世界で生きようとする身には、理解し難くも羨望の対象たるお話かと」
「失礼いたします。果物をお持ちいたしました」
 給仕が大皿を持ってきた……と思ったら、少々顔を膨らませたマリアだった。青年たちの笑顔が一瞬ひきつる。少女はすっと睨みを利かせ、小さく舌を出してから、次のテーブルに移動していった。
 苦笑いをしながら、その方向を見るユーヒィ。向かい合って話すスモレンスク男爵とカンジンスキー子爵がついている卓だ。スモレンスク男爵が、こちらをちらちら気にしている。男爵夫人が目当てのようだが、マリアが声を掛けると、今度は彼女へ何か語り掛けている。
 ふと、その向こうへ視線が飛ぶ。大きめの円卓を、リゴスキー大公とランドルフ副総裁、そしてニーコン副主教とその配下の聖司祭たちが囲んでいる。副主教は、相変わらずのきいきい声で盛んに大公に語り掛けているが、大公は平然と盃を傾けている。嫌悪感に苛まれつつ見ていると、聖司祭たちの視線と交錯してしまった。ユーヒィは手前の料理に目を落とした。
 男爵夫人が手拭きを求めて給仕を呼んでいる際に、アレクは小声でユーヒィに尋ねた。
「どうした」
「いえ、なんでもありません」
「気にするだけ無駄だ」
「………………」
 胃の下の辺りが、急激に重たくなっていくのが実感できる。持っていたフォークを静かに置き、口を拭った。男爵夫人が小首を傾げる。
「もう食べられませんの?」
「充分に頂きましたので」
「若さの基本は、常に食欲を保つことですのに……」

 煙草だけは耐えられそうになかったので、二人は食堂を出ると、サロンに顔を出すのを諦め、早々に部屋に戻った。失礼な振る舞いかもしれないが、行動を規定されているわけではないので、後ろめたさを感じる理由もない。
 その後、お茶の用意を持ってきたマリアを交えて、三人は車内の情報交換を始めた。
「カルム様の衛兵と、乗員を除けば、ようやく一通りの顔ぶれが解ったわけだ」
「アレク、そういえば私はまだ、ランドルフ副総裁と話をしていませんが」
「昼間に話をしておいたよ。なかなかの好人物だと思うが」
 スカラス・ランドルフ副総裁は、巨大企業の重役と言うよりは、地方商店の主と言った風貌の人物である。だが、労働者上がりでありながら、叩き上げの才能は計り知れないものがある、とはアレクの弁だ。
「何とかしてこの特急の本数を増やしたいらしい。車掌といい、やはり職務に就いている人々は、労働意欲以上のものを捧げているような気がする」
「大アフグラント鉄道の成立過程の中に身を置けば、誰だってそんな気持ちになりますよ」
「そんなものなのかな」
 マリアがベッドに転がり、肘を突いて顎を支えている。
「君だって社員の一人だろうに。それにマリアにも、絶対譲れない誇りがあるだろう」
「……ある」
「ここの職員は、それが人一倍強いのさ」
「成る程。あ、そういえば、副総裁さんと前に話したとき、アフグラントで走ってる列車のほぼ全ての運行予定を暗記してるっていってたよ」
「……誇張でなければ、ものすごい能力ですね」
「彼は誇張なんていわないさ。自分と会社の誇りにかけてね」
 列車の震動と共に、蝋燭の炎は規則正しく揺らめく。時折吹き抜ける隙間風が、部屋を薄暗く濁らせては、去っていくのだった。



 曇った空に光はない。暗鬱たる大気の中を、緩やかな下り坂を、列車は走っていく。
 聖典の文字をひたすらに追う。集中していると、周囲の雑音が遠のき、あたかも中空に純粋な思惟だけが浮いているような感覚を味わう。が、進行方向より連続してかかる圧迫感が徐々に浸透し、精神統一を妨げる。乗り物酔いを体験したことはないが、ユーヒィは一度立ち上がり、自分の感覚を再確認した。気が乱れるのは、昼間から懸念ばかりが膨らむ副主教一行のことも理由にあるのだろうが。
 横を見ると、本から目を上げたアレクがこちらを向いている。
「気分でも悪いのか?」
「ちょっと、気分転換をしようと思って」
 そして、ベッドの方を見ると、気分転換のお茶を頼むべき少女が、すっかり眠りこけている。
「他の給仕の方々は、各部屋の前で待機していらっしゃるんですよね。……こんな情況で、本当に免職になったら、どうするつもりでしょう」
「いうな。僕が注意しなかったとでも思うのか」
 機関車が甲高い汽笛を鳴らし、直後、轟音と共に列車はトンネルの中に進入した。微妙に気圧が変化し、耳の奥の不快感を避けて唾を飲み込む。
「今どの辺りを走ってるんでしょうか?」
「多分、ドレル峡谷へ差し掛かる辺りじゃないだろうか。坂道が多くなったことだし」
 アレクは皇都からターンスタリムに派遣される際に、この路線を通ってやってきたのだ。
「この峻厳な辺りにどうやってレールを敷設したんでしょうね」
「初代総裁エルマラークという男が、天賦の才能を持っていたのは確実に言えるな。会社経営にしても、技術の面でも。事故は絶えなかったらしいのに、人心もよく掴んでいたのだろう」
 ユーヒィは窓に近付いた。トンネル工事には常に落盤の危険性がつきまとう。視認はできないが、命がけで見事な工事をやってのけた工夫達を偲び、黙ってシンボルを握りしめる。
 突如、暗闇が切れた。と、同時にダークイエローの人工光が、牧士の目にたたきつけられた。
「!」
 暗路を抜けたというのに、轟音が続いている。しかし、音の質が違う。そのベクトルも、ユーヒィが目を押さえて立ち尽くす窓の方向からのものだけだ。
 アレクが愕然として立ち上がる。
「併走されてるぞ!」
 その返礼は、野太く長い汽笛と、連続する硝子の破壊音だった。他の車両から連続して怒声と悲鳴が上がる。理性が判断する前に、反射的に体が床に這う。
「マリアは?」
「大丈夫、ここにいるわ」
 ユーヒィの問いに答えた少女は、戸口の扉を蹴り破った。鋭い紅瞳と、構える短銃。
「寝ぼけてないようなら、じっとしてろ! 何処に行っても危険だが、とりあえずは僕らが護る」
「寝ぼけてるのはそっちでしょう! この列車で狙うべき方といえば、お一人しかいないわ!」
 そう吐き捨てるなり、マリアは廊下に飛び出し、先頭車両の方向へ駆けていく。銃声は間断なく続いているが、どうやらこちらからの反撃も加わっているらしい。アレクは懐の短銃を抜き、低い姿勢で戸口へ向かった。小細剣を抜いたユーヒィが、様子を見ながら駆け寄る。
「追うぞ」
「カルム様の所ですね。ですが、皇帝陛下が本当に攻撃をなさるとは」
「この列車を狙ってるのは、皇都の連中だけじゃないさ。中には利用しようとする奴等だっている……ユーヒィ、あれを見ろ」
 廊下に出、戸口から部屋の中、窓の外を窺うと、併走する機関車の運転席から、激しくはためく大旗が差し出されている。一緒に吊られたカンテラが、時折その全容を浮かび上がらせる。
 真っ赤な下地に、漆黒の小麦と、髑髏。
 再び銃撃が襲いかかる。
 廊下に避難したユーヒィは、着弾音に身を縮めながら呟いた。
「『スコーラ』」

 下り坂だったことが災いした。減速しながら運行していた「ノーサンバランド」に、「スコーラ」の漆黒の列車が加速をつけて追いすがり、長大に連結された貨車が特急の先頭に達したとき、一回目の斉射があった。異変を察知した特急の運転士は、速度を限界まで上げる。ここしばらくはカーブがないことを知っているからだ。攻撃側を一時的にかわす超特急。
 二つの列車が、銃声の残響を次々に交錯させながら、猛然と併走する。と、二つのレールの距離が開いた。すると、盗賊列車から次々と鉤付の頑丈な鎖が投げ込まれる。何十本も絡み付いたと思いきや、耳をつんざくブレーキの悲鳴。

 盗賊列車は機関車、被牽引車の区別なく、一気に減速をかけた。盛大に飛び散る火花。次々にちぎれ飛ぶ鎖。だが、特急もその重量に完全にあらがいきれず、一時的にスピードが落ちる。
 それに乗じて、鎖を渡り始める者が現れた。場所は、線路が大蛇のようにうねり始めるドレル渓谷寸前。疾風の吹き荒れる中、激闘の第二幕が、ここから上がった。

 大きな衝撃が走り、心なしか速度が落ちたと感じられ、それから割れた窓々を突き破って盗賊達が侵入してきた。装備は継ぎ接ぎだらけだが、練度と士気は正規兵よりよほど高い。二人は、食堂で彼らと遭遇した。腰を低くして突撃してくる敵をかわし、首の根本に手刀を叩き込みながら、叫ぶ。
「アレク、先に行って下さい! ここは何とかします」
「任せた」
 駆け出す学者に、侵入者達の注意が向く。 ユーヒィは、渾身の力を込めて椅子を二つ持ち上げ、アレクが去る方向へ投げた。丸卓に当たり、大きな音を立ててへし折れる。侵入者達の殺気がユーヒィめがけて殺到し、ついで銃口が火を吹く。床に弾痕が穿たれ、きな臭い匂いが立ちこめる度、ユーヒィはテーブルの間を二転三転した。
 咄嗟の判断。テーブルクロスをひっつかみ、襲撃者達の前面に躍り出ると、それを大きく広げる。相手は銃器で払い除けるが、そこに牧士の姿はない。一瞬の躊躇のあと、首の付け根に刃物を押し当てられ、腹に重い衝撃を受けて昏倒する。
 しかし、数が違う。短時間に立ち回るべき場所は徐々に狭くなっていく。倒れた机に姿を静めるが、そこに銃弾が叩き込まれる。もう抜かれる、と体をちぢこませ、次の行動を逡巡したとき、違う方向からの銃弾が騒音に加わり、ユーヒィへの攻撃が止んだ。
「大丈夫、ユーヒィ?」
 マリアだ。絶命した敵をすり抜けて来る彼女の後ろに、短銃を構えたアレクもいる。
「ええ。カルム様は?」
「どうやらサロンにいらっしゃるらしいのだが、この先にバリケードを築かれて前進できない。戦闘が終わってないところを見ると、まだ無事だと思うのだが」
「警備兵もいましたし、副主教猊下についていた聖司祭達は、聖堂騎士団のエリートだから、大丈夫だとは思うのですが」
「でも、このままじゃいられない。私の仕事仲間も、多く殺されちゃった・・・絶対、許さない」
 肩を震わすマリアの肩に、牧士が手を置く。
「復讐心は虚無の元凶です、マリア」
「本気で怒ろうとしないから、ユーヒィはそんなこといえるのよ!」
 マリアは優しげな気遣いを振り払い、キッとユーヒィを睨んだ。
「あたしは、たとえ神様の前でだって、自分が無力であることを認めない!」
 その姿は、闇の中にあってなお一層、壮烈なまでに美しい。一瞬、圧倒される。
「提案があるんだが」
「なによ」
「障害物があるなら、迂回してしまえばいい。少々野蛮だが、奴等が使ったのと同じ手段で乗り込もう」   
 学者が窓の外を指さした。繋がれたままの幾条もの鎖が、ミシミシと悲鳴を上げている。ユーヒィとマリアが、アレクの提案に合点したのはほぼ同時だった。だが、先刻の言葉が心に影を落として、ユーヒィの挙動は重たい。立ち去ろうとするマリアは背を向け、力を込めて言葉を絞り出す。
「……そんなユーヒィ、ちょっと嫌いだけど、やっぱり好きだから。一緒に行こう、三人で」
 学者が、ユーヒィを見て頷く。固められる拳。今は、迷いは要らない。様々な思いが凝縮し、それぞれが駆け出した。

 戸口が蹴り破られる。戸惑った襲撃者たちの反応は既に遅い。大公の部屋は、三瞬ほどで若い男女の手に落ちた。 アレクが用心深く窓に近付く。レールの距離が近付くに連れ、鎖がたわむ。どうやら、ほぼ同じスピードで併走しているのは、切り立った崖の周辺を走行しているかららしい。カーブを全速で走ることは、谷底に転落する危険性を招くのだ。
 吹き抜ける暴風が髪をめちゃくちゃにしている。アレクは割れた硝子を叩き出し、鎖に手をかけた。瞬間、窓枠に着弾する。慌てて姿を隠すと、反対にマリアが盗賊列車の方に反撃を見舞う。弾を込めながら、マリアは促した。
「援護するわ、先に行って」
「婦人優先でもいいんだが」
「冗談はいーの、早く!」
 覚悟を決めた学者が飛び出し、枝渡りの要領で二号車へ向かう。続けて飛び出そうとしたユーヒィを、マリアが呼び止めた。
「ちょっと、耳貸して」
 いわれるまま近づけた頬に、少女は優しく唇を当てる。
「さっきはごめんね。それと、これはアレクには内緒。───死んじゃ駄目だよ」
 浮き上がる赤面を静め、若い牧士は自信を込めて頷くと、小さく印を切った。飛び出すと、そのあとで援護の銃声が反響する。
 先行する学者が、荒ぶる風の中、二号車の昇降口付近に張り付いて中の様子を窺おうとしている。疾駆する二両の機関車が猛然と煙を吐きだし、その影響で目を大きく開けられない中、手際よく移動し客車の連結部に辿り着く。学者が手招きする。風圧と駆動音と銃声で声は届かない。小細剣を構え、昇降口を開こうとした瞬間、それが内側から開いた。
 足場はない。
 眼前には盗賊。殺気と銃口。
 体の振りをつけて、手近な鎖に飛び移る。だが、依然として格好の標的だ。
 アレクが、銃を構えた敵に飛び込んだ。
 銃声。
 外した。もつれ合って落ちる二人。
 ユーヒィが、必死に手を伸ばす。
 落下するアレクの右腕の袖を掴む。
 鎖を持って支える手に、灼けた金属が食い込む。
 昇降口から現れる、第二、第三の射手。
 視界の端に、鉄橋が見える。河だ。
「アレク! ユーヒィ!」
 後ろから追いすがる高音域の声。飛び交う情況、様々な絶体絶命。
 学者が、手を離せと叫んでいる、ような気がする。
 敵が、引き金を引く瞬間が感じられる。
 弾く撃鉄。
 その時。
 追い抜きあう二つの列車の距離が開いた。 二人分の体重を支えていた鎖が、あっけなくちぎれる。
 何も把握できない。ただ解るのは、落下する自分と、握りしめた友の手。
 落ちる───。
 心の何処かで、目映いばかりの光輝を……神の元に召される自分の姿を、微かに認識していた。

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