<位階戦史録>ノーサンバランド -The Shining Express-

序章

神の住まう地にて


 鼓動。荒々しい息吹。
 黒ずんだ心臓が、灼熱とともに脈を打つ。化石燃料と水を、大量に消費しながら。
それは、疾駆するためだけに存在する生き物。計算し尽くされて産み出されたその巨体には、過剰な意味など込められていない。総てはただ、目的を遂行するために。もっと早く、もっと強く、もっと遠くへ。与えられた道に沿って生命を燃やす、仮初めの存在。
 鼓動は繰り返す。立ち昇る黒煙は、荒々しい息吹。

 暗闇。地平線にまで続く、薄暮の荒野。巨大な陽は遥か山脈の蔭に落ちて久しいが、その残滓が空を鈍い紅にとどめている。空の黒と赤は、互いに反発する訳ではないが、手を結ぶ訳でもない。ただ、重苦しい圧迫感がその場を支配している。風はない。
 この季節、日一日と気温は上昇し、森や山の加護を受けられない荒野は、更に過酷な責め苦を負う。夕暮れとはいえ、こもった熱はまだ解放されない。地面に這い蹲った雑草はそれでも懸命に天空へと手を伸ばし、その苦労が報われる日を、ただひたすらに待つ。土は痩せこけ、もはや砂と変わらない。生物も、表だった行動をしない。誰からも見放された場所。呪われるために存在している世界。
 その中央を、二本の線が引き裂いている。地平線から、地平線まで、何処までも直線を刻む赤茶けたレール。無数の枕木が、大地を穿った太く頑丈なボルトでしっかりと固定され、整然と並んでいる。
 その、向こうで。
 一瞬、闇を切り裂く光。続いて、空と大地を振動させる、鋭くとがった汽笛。
 レールに振動が伝わってくる。最初は点だったレモンイエローの光が、加速をつけてこちらに近づいてくる。それに附き従うのは、轟音。機械の躍動そのものを翻訳した、生命の息吹。
 そして漆黒の巨体が、姿を見せる。
 7600型旅客用大型機関車。激しくクランクを往復して左右八つの車輪を回転させ、風と熱のマントを纏って疾駆する、巨大な機械の怪物。排煙筒から絶え間なく煙を吐き出して、荒野を鋼鉄の響きと躍動感で満たしていく。後続に六両の客車を従え、この枯れた世界総ての主のように、強烈な偉容を誇示しながら、見る間に地平線へと走り去っていく、その姿。一瞬のことだ。あまりに一瞬のことのために、世界はその者を捉えることができない。人が風を捕まえられないのと同じように、世界は彼を捉えられない。
 そして再び、夕闇は辺りを沈黙に閉ざす。ただ、機関車が吐き出した灰色の吐息だけが、赤と黒の混沌にとけ込めず、空にわだかまっていた。
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 規則正しい幾つかの轟音とリズムがその場を包み込んでいる、薄暗い客車。仄かに灯るカンテラの列が、頑丈な鎖で天井から吊り下げられていて、レールの湾曲と、レールと継ぎ目を越える際の震動に揺さぶられて、あたかも不気味な円舞を舞うかのように、皆一様に揺れている。その都度、黒い鉄鎖は啜り泣くように微かな悲鳴を上げる。
 だが、それだけではない。この場所は。
 軋んだ戸口をこじ開けて、小男の車掌が巡回にやってきた。少しばかり背を丸め、床を擦るようにして歩く。乱れた制服も緩んだネクタイも、彼の勤務態度を如実に表していた。気怠げに周囲を見回し、黙したまま通過する。彼にも、ここが奇妙な雰囲気に包まれていることは解っていた。乗客について、である。それだけに、何もせずにいる。誰が好き好んで厄介事を引き受けたりするものか。やるべきことをやって、賃金を貰えさえすればそれでいい。
 一度、力無い溜息を吐くと、そのまま反対側の戸口に手を掛ける。ところが、彼のやり方を非難するかのように戸口は歪んで動こうとしない。車掌は体重を使って扉をなんとか閉め直し、ついでに罵声と蹴りを一発ずつ入れてから去った。

 ……それから既に半時が過ぎようとしている。窓の外は夜の闇に包まれて久しい。重たい雲が空を低く留め、夜空を隠蔽している。最後に停車した駅は無人だった。寂寞が総てを包み込む、古錆びた空間。
車掌が職務を放棄してしまったその車両には、依然として二人、奇妙な乗客がいた。
 機関車よりの出口から、三番目の座席に座した、小柄な少女。どこかの迷い子だろうか。貴族の令嬢のように、紫のビロードのコートを纏い、小さくなって座っている。俯いたその顔をつばの広い帽子が隠して、その表情までは解らないが、他の荷物も見あたらず身一つで夜行列車に乗っている姿から察すれば、あまり喜ばしい状況にあるのではないことだけは確かなようだった。
 そして、もう一人。最後尾より一つ前に座る、大柄な影。その姿を色褪せたマントで隠し、フードに瞳とその真意を隠しているようだ。どう見ても、前世紀の荒野を往く旅人にしか見えない。車両が揺れる度、腰の辺りで鋼が打ち合う音が微かに響く。その上にゆっくりと、ごつごつした手を置いて、沈黙を強いる。
奇妙な雰囲気。
 奇妙な旅。
 だがやがて、その場の意志が収束を始めた。
 ……旅人がゆらりと立ち上がる。
 それに気付いたのか、少女も足を振り、その反動で座席から飛び降りる。木製の床が、軋んで嘆く。
 整然と並ぶ座席の間で、二人は静かに対峙した。澱んだ空気が、何かをはらんで徐々に渦を巻く。ところが。
「もう、やめにしましょう」
 少女が両手を広げた。呆れたように肩を竦める。上品さを匂わせる口調だが、何処か型崩れしている。まだ顔は見えない。が、そのよく通る声からすると、どうやらその服装ほどに幼い訳ではないらしい。旅人は緊張を解かないままだが、様子の変化に戸惑っているのか、僅かに姿勢を崩した。
「あなたたちが私を狙うのは、それは確固たる理由があってのことでしょう。それは一向に構いません。だけど、私の方がそれに何度も何度も付き合わなければならない理由は、当然ないわよね? だから私、これで最後にしようって決めちゃった。それでも今回はちゃんとおめかしまでして相手してあげるんだから。あなたたちの暗愚で貧弱なご主人様も、少しは感銘して頂けるのではないかしら」
 フードの下のつり上がった両眼が怒りに燃え上がった瞬間、旅人は腰に吊るした短剣を、抜く手も見せず少女に向かって放った。その距離八キュビト(約四メートル)。正に必殺の間合いだ。一瞬の後、ターンと乾いた音を立てて、短剣は木造の車両の壁に突き立った。だが、そこに縫いつけたのは、少女が被っていた帽子だけだ。
敏捷さにかけては、標的となる者の方が上か。自分の命を、十分な余裕を持って護ったその少女が、ゆっくり立ち上がる。腰まである流れるようなホワイトシルバーの髪が、隙間風に吹かれて静かにたなびく。大きく見開いた薄朱の瞳は、恐怖や怒りではなく、圧倒的な自信と勇気に輝いていた。
 足を大きく開いてしっかりと立ち、暗殺者に向かって口調を変え大見得を切って、真っ直ぐに指をさす。
「どうせ一人じゃないんでしょ? 全員まとめてかかっておいで! 天国への近道を、神様に内緒で教えてあげるから!」
何処から現れたのか、襲撃者の影は六つになっている。統一されたマントでその姿を隠しながら、動く。音もなく滑り、道化師のように座席の上を渡って、少女の後ろへ回り込む者。マントの隙間から短剣をちらつかせる者。激しい殺気を叩きつけながら、ジリジリと包囲の間を狭めてくる。
 六対一。圧倒的不利。
 それでも、少女の笑みは変えられない。
 襲撃者の一人が、一瞬眼球を動かした。
 六人が、一斉にマントを跳ね上げる。
 その瞬間誰よりも早かったのは、またしても少女だった。懐から抜き出した短銃を構え、躊躇なく撃つ。
 六発の弾丸は、六つの洋燈総てを打ち砕いた。夜の帳が勢いづき、車内をその勢力下に置く。いきなりの暗闇に、襲撃者の足がまたしても一瞬止まってしまう。
刹那、少女が動いた。
 汽笛を響かせ、トンネルに突入する列車。
 先程までとは比べ者にならない圧倒的な闇、圧迫し続ける轟音の中で、微かに音が響く。
 肉体を蹴りあげる音。
 液体が何かに叩きつけられる音。
刃物が肉を切り裂く、鈍い音。
 小さな、呻き声。断末魔の呪詛。
 命のやりとりの、凄惨な音色。
 ……三分ほどしたろうか。列車はトンネルを抜けた。もう既に、静寂が支配権を取り戻している。気付かぬ間に空は晴れていたらしい。真白な月明かりが、硝子窓から多くの斜線になって、車内に流れ込む。所々で
遮ぎられているのは、窓に黒い───いや、
鮮赤の液体が粘りつき、滴っているからだ。
 砕けたランタンの列は、光を失った後でも軋んだワルツを踊り続けている。その下で。
 五つの影は、もう動かない。六つ目は、座席の間に追いやられ、座り込んだまま逃げ場を失っている。そして、唯一立っている七つ目の影は、月光にホワイトシルバーの髪を煌々と綺羅びかせながら、襲撃者に向けて短銃を向けていた。激戦を戦ったはずなのに、返り血を全く浴びていない。その姿は、陶然とするほどに美しく、また気高いものだった。
 爛々とする瞳のまま、少女はいう。
「放たれぬ弾丸さえ世界を変えることもあるんだよ。そう考えれば、人を殺害することでしか喜びとパンを買うことのできないあなた方でさえ、世界に干渉して死ねるのは贅沢というものだよね」  
「………………」
「贖罪は私がやっておきます。あなたは、お仲間と一緒にゆっくり休んでいて」
 暗殺者は目を剥くと、未だ隠し持っていた短剣を振りかざし跳ね起きた。が、それは少女に想像の枠を超えるものではなかった。余裕を持ってかわすと、短銃の引き金に掛けた人差し指に力を込める。何分の一秒かだけ、
深い悔恨と悲哀を瞳に浮かべ───それから荒々しく言い放った。
「あたしの二番目の父親の遺言だ、よく聞きな! 『やられる時は諦めろ、だけどやるときは徹底的にやれ』ってな!」
 そして、弾丸はまた、放たれた。

 擦るような音をさせて、また車掌がやってきた。ふと見ると、一つ向こうの車両に座っていたはずの少女が、他の客に混じって戸口付近の座席にいるではないか。先程は帽子に隠れて解らなかったが、白銀の髪と薄朱の瞳が目を引く、美しい娘だ。こちらの視線に気付いたらしい、あどけない笑いを向けてくる。
「お仕事御苦労様です、車掌さん」
「なにかございましたか」
「いや、こう言っては失礼かもしれないけど、向こうの車両、何か不気味で・・・やっぱり、鉄道の旅は道連れが多い方が、良いものですよね」  
「そう……ですか」
 何かが、あったのだ。この扉の向こうで。
無意識的に、懐から大きな懐中時計を取り出して、蓋を開けている。予定では、あと半刻もすれば次の駅に到着するはずだ。
「それでは、職務がありますので」
「頑張って下さいませね」
 少女が軽く手を振っている。営業スマイルで返しながら、背筋を悪寒が滑り落ちていく。そそくさと立ち去りながら、とりあえず次の駅までは車掌室に引き篭もることにした。そして、職務怠慢について為されるであろう糾弾に対して、最も罪が少なくて済むような言い訳を必死で考え始めていた。
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 醒めた月光の下を汽車は往く。当然ながら、彼は客車に乗せた人間達の思惑など関知するものではない。彼の存在理由はただ走ること、それのみなのだから。
 黒い躯は月影によって鈍く輝き、影が追従して大地を滑っていく。その後に、六両、いや一両を除く五両の客車から漏れた明かりが続く。遠方から見ると、それは輝く線だ。漆黒の世界にうねる、一匹の蛇。その頭上を白く覆う、翼のような雲。

 大陸の北部のほとんどを占める巨大国家、アフグラント帝国。神の最も近くにあり、今なお「神」があり、そしてまた神に絶望した土地。その片隅を、今日も列車は駆け抜ける。
 ……まだ、夜は始まったばかりだ。

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