<位階戦史録>ノーサンバランド -The Shining Express-

第一章

神は我らと共にあり



      1

  神は総てを創りたもうた
  神は我らを創りたもうた
  神は愛を創りたもうた
  信じる心を創りたもうた

  その御手は慈愛のために
  その瞳は真実のために
  その御心は総てのために

  我ら賛美と信仰を持って
  その元へ導かれん
  いざ行かん御父の天宮へ
  我ら一つになってそこに集わん

「今日もまた一日、父なる神のご加護を賜らんことを。ラムーパル」 
「ラムーパル」
 賛美歌の後に語られた若い青年の声について、子供たちの元気に満ち満ちた声が唱和し、老朽した小さな教会を一瞬で飽和させた。途端、声たちのベクトルはあちこちに拡散し、走り回る足音、叫び声や笑い声がそれにとって変わってしまう。神の声を聞くための場所と言い切るには少しばかり遠慮が必要な光景である。
 教会の中央には救世の大天使ナヌマエルの聖絵画が掲げられている。その元で黒い牧士服を纏った青年が、ぼさぼさのくすんだ金髪を掻きながら、早くも苦笑を浮かべている。心中では、いつも通りに繰り返される光景を好ましく思ってはいるのだが、いつまでもこうしてはいられないのだ。くしゃくしゃの僧帽を頭に乗せ直しながら、手を二、三度叩いて子供たちの注意を引く。
「はいはい、みんな、静かにしてください。悪いけど、もう一度席に着いてくださいね」
 あちこちから「えーっ」とあがる不満の声。概して幼い子供たちだ。それをたしなめる年長の少年。体は大きいが決して威圧的というわけではなく、きちんと納得させて席に戻らせていく。牧士もその間、黙って待っている。それもまた一つの教育、子供たち自身の勉強であることを知っているからだ。二十人ほどの子供たちが着席して元の状態に戻るまでに数分が経過した。牧士は軽く頷いてから、話し始めた。
「多分みんな知っていると思うんだけど、今日から僕は、ワタリコフ府主教様の呼び出しでターンスタリムへ行かなければならなくなりました。で、しばらくここを留守にします。その間授業はお休みですが、毎日の礼拝と、掃除だけはきちんとやっておくこと。当番は決めてあるとおりです。さぼった者には、きつーい罰があるから、覚悟しておくように」
「ユーヒィ兄ちゃん」
前席に座る小さな少女が、元気よく手を挙げる。
「さいしょからバツのことを言うなんて、あたしたちのことを信用していないんだぁ」
「そうですよ」
 ユーヒィは、白い歯を大きく見せて笑う。
「僕が君たちのことを信頼して、何度裏切られたことか。そういや、ミサの最中に父なる神の御前で盗み食いをした人もいましたね」
 突然巻き起こる抗議の嵐。子供たちは、意味を理解しない年少者も含めて、面白がって一斉に両足を踏み鳴らす。その奥で、牧士に指摘された当該者らしき少年が、ぽりぽりと頬を掻いている。
「静かーに!」
 ユーヒィは、教壇に両手をつき、乗り出すようにしながら子供たちの顔を見回した。顔が、悪戯めいて微笑んでいる。
「……だけど、確かにリムの言うとおりですね。先に罪を与えるのは、神の御心に背く行いかもしれません。エマン記第三章第三節にも、『互いの罪をあざ笑う者達は、その矛先を自分の心臓に突き立てる。汝自身の槍は、相手の心であるからだ』とあります。敵意とは、自分自身の言葉の隙間から忍び込む、悪魔の囁きなのですから。さて、それでは改めて、あらかじめ喜びを分かち合うことにしましょうか。・・・この中で、僕との約束を破ってまで、僕のおみやげを自分の友達に分け与えたいという、類希なる隣人愛を持つ人はいるのかな?」
 と、一瞬にしてその場が静まり返る。
 青年はもう一度歯を見せて笑って、それから大きく頷いた。
「それでは、解散!」

 教会の古びた戸口から、子供たちが蜘蛛の子を散らすように駆け出していく。朝の空気はまだ冷気を帯びているが、彼らの通った後には初夏の熱気が目覚めて行くかのように感じられてしまう。一目散に家に戻る者、勢い余って転倒する者、駆け寄る家畜の大型犬と戯れる者。年長の少女が、こちらに手を振っている。
「ユーヒィーっ、おみやげ忘れないでねーっ」
 扉の端に寄り掛かって、ユーヒィは笑いながら手を振り返す。彼女らも、家に戻れば、村全体の働き手の一員として、過酷な労働を強いられることになる。ここボゴレロフ村は貴族や地主の管理も穏やかで、辺境の小規模な農村の中にあっては珍しく、人々の暮らしに多少の余裕があった。それでも、年々増加する税や賦役は人々の大きな枷であることに変わりなく、先行きは重苦しいといわざるを得ない。その村を支えるべく成長する子供たちに少しでも明朗活発に生きてもらうことは、自分がここにいる大きな理由だと、ユーヒィはささやかな自負とともに自認していた。
 騒々しい足音が聞こえなくなってから、あきれたような表情を浮かべて、一人の老婆が近付いてきた。
「まったく、騒がしくていけない。牧士様がこの村に来てからこっち、子供たちが生意気になって仕方ないねぇ、本当に」
「いつもご迷惑掛けてしまってすみません、ドリムズさん」
「……そんなこといって、ちっともすまなさそうにしてないんだから。ま、解っててこんな学校ごっこやってるんだろうから、呆れることもできないしねぇ」
 ユーヒィは、悪戯坊主のようにはにかんだ。
「申し訳ありませんが、私が留守中の間、子供たちをよろしくお願いします」
「嫌われ者で死に損ないの婆が出来ることといったら、餓鬼共のケツをひっぱたくことぐらいさね。ま、あたしにいわせれば、この村に本物の大人なんていないよ。身につけた知恵といえば、少しでも税を軽くしてもらうためのへつらい方ぐらいなもんさ。牧士様のことあげつらうなんて、百年は早いってもんだよ」
 ユーヒィは、話の雲行きを案じて、内心困っていた。この話を始めると、ドリムズはいつも時を忘れてしまうのだ。話を聞くのは苦痛ではないが、今日ばかりは漫然としてはいられない。
「大体さ、牧士様が来てから、教会に納める十分の一税も大目に見てくれているっていうのに、若いからとか、しきたりに沿わないとか、いちいち文句ばかりつけて、みっともないったらありゃしない」
「あの、ドリムスさん、私はこれから村長さんに出立の挨拶をして来なければならないので、悪いですけど今日は勘弁してもらえませんか。帰ってきたらいくらでも聞きますからね」
 老婆は渋面を造った。話の腰を折られて、たちまち機嫌を悪くしてしまう。
「全く、年長者の話も聞けないなんて、聖職者の質も落ちたもんだね」
「後で、神に懺悔しておきますよ」
 ユーヒィが、それでも駄々をこねるようにまとわりつく老婆をなだめ、半ば引きはがすようにしてようやく旅の準備を始めるのに、今しばらくの時間が必要だった。それから、村長に挨拶をし、教会の整頓をこなし、神への礼拝を済ませて、日に二便しかない駅馬車に飛び乗ったのは、更に一刻後である。
 ――こうして、ミトラ真正教会の牧士ユーヒィ・マクリントンの旅はいささか慌ただしく始まった。砂時計は遂に立てられた、というべきか。流れ落ちる砂の糸が、自然の理に身を委ね、すべて落下してしまう、その日までは。 時に、ガリウス歴千八百五十一年八月十三日、午前である。

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 宇宙に浮かぶこの蒼い惑星に人々がそれぞれの文明を発展させ始めてから、早数千年の歳月が過ぎている。それを単なる歴史の繰り返しと見るか、確固たる進歩の系譜と見るかはその時代に生きる当事者達の判断に任される訳だが、過去を振り返る際に手にする史料にはいつも不確定性がつきまとい、それを元に紡ぎ出される未来は多分に希望で粉飾されている。よって今成すべきことは、まず現在をきちんと理解することだろう。そうすれば、時間軸を含めた世界の全体像は、自ずとその輪郭を明確にするものである。
 ……この地上に存在するもっとも大きな大陸の、最も大きな土地を占める国、それがアフグラント帝国である。北の極に程近く、その国土の大半が寒冷気候地に属しているため、国土のおよそ三分の一は永久凍土に覆われ、人を拒絶している。だが、それを除いてなお、膨大な資源と国民を保持しており、潜在的な国力は計り知れない。世界と資源に限界があることを、経済学者たちがようやく指摘し始めたこの時代にあって、他国から見れば、羨望に打ち震えんまでの余力を残しているのである。
 だが、この国は外側の人々からはしばしば、「眠れる熊」として揶揄されている。端的にいって、他の列強と比較するまでもなく、ここは巨大な後進国でしかない。では、それは一体何故か。
 前世紀中盤に、西方の島国で始まった産業革命は、見る間に列強各国に飛び火し、本格的な近代の到来をもたらした。これはもはや単なる技術発展を意味しない。世の中の成り立ちを根本から作り替える強大な力、パラダイムシフトなのである。
 それまで、人々の生活基盤の中心は農業にあった。どんなに技術の発達があったとはいえ、我々の世界においてもその大半の要素を土地や気候に頼る農業は、不確定要素のオンパレードといえるだろう。恵みの雨、大干ばつ、蝗の大発生など。天災に対して、無力にもただ通過するのを待つことしかできないのだから。
 だが、工業がオーダーメイドの寄り集まり(職能ギルド)の独占物から、同じ製品をたくさん作り出すことのできる工場制手工業へと移行を開始した時より、人々はより確実な生産調整による利益への手段を手に入れたのである。極端な話、神の影を恐れて熱心な祈りを捧げているよりは、その時間を労働に費やすことで間違いなく利益が還ってくるのだから。
 それまで痩せた土地にしがみついていた地主も小作人も、我先に都市に向かった。持つ者は資本家になり、持たざる者は労働者になった。そういった人々の流れを支配者たちは加速させ、この新たな、確実な利潤を搾り取る方法に飛びついていったのである。
 最初は繊維を紡ぐ軽工業から始まった。それが機械化され大規模になると、その生産をまかなうため、機械工業が急速なスピードで進歩を始めた。製品を運ぶために蒸気船が生まれ、鉄道が生まれた。それを支えたのが、鉄鋼などの重工業の併走的な進歩だった。それらはやがて、兵器の進歩を促進させ、やがてそれが進歩の目的にすり変わっていく……。まるで火のついた紙のように、一旦始まった革命は、もはやその歩みを止めることはなかった。
 さて、振り返ってアフグラントである。ここは産業隆盛の土地から遠く離れ、またそれ故に、文化的にもかけ離れていた。彼の国々で一世紀も前に吹き荒れた市民革命も飛び火することはなかった。絶対的な支配者である皇帝は神として崇められ、未だ揺るぎない封建社会の支配者として君臨している。また、国教として崇められているミトラ真正教会は、西方において同じ起源を持つ聖一神教が体験したような、人間中心主義・合理的な近代精神を源とする宗教改革を経験することもなく、土着の信仰と融合しながら宗教組織として発展し、皇帝権力の施行機関で有り続け、保守と反動を支えていた。皇帝を支える貴族層及び皇帝自身の財源は、絶えず農民・農奴からの搾取にあった。過去の歴史には、改革を志す皇帝もいたが、その基盤である農民層への寄生に改革を加える者は、誰一人としていなかったのである。
 十九世紀初頭になってから国内で起こった動乱に端緒を発し、猛烈な勢いで工業化への変貌を遂げ始めたアフグラントだが、現皇帝ニコラス二世は、国粋主義者の上、衝動的な戦乱や反動化政策を繰り返している。当然農民への圧制は厳しくなる一方だ。愚昧な王の専政権力がいかに無駄なものか、列強諸国にとっては見事なまでの他山の石になってしまっている。ただ、その国力が未知数であるが故に、予期できぬ未来に対して人々は眉をひそめ、「眠れる熊」と冷笑しているのだ。
 だがしかし、それだけではない。支配を強要するばかりの暗愚な支配者に対して、明確かつ決然と意志表示を示す出来事が、この国の民衆の歴史の中には何度もあった。
 その中でも、ガリウス歴千八百三年においてアフグラント全土で吹き荒れたいわゆる「英雄鉄道の乱」を語る時、この地の人々はまるで自分が体験し参加したように、誇らしげに雄弁をふるう。それは、皇帝がこの地を支配する遥か以前から存在していた、時代を超えた人々の燃え尽きぬ情熱がそうさせているのかも、しれない。

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「あの、牧士様」
 断続的に刻まれる震動に身をゆだね、流れゆく赤い平原に視線を投げていたユーヒィは、女性の声に我を取り戻した。旅人ひしめく客車内に注意を戻せば、赤ん坊を抱き幼い少女を連れた若い母親が、落ちつきない様子で目の前に立っている。少女が母の服の裾を握りしめ、その影に隠れてこちらを窺っている。
「はい、何か?」
「よろしければ、この子たちに神の御加護を・・・」
「解りました。喜んで承りましょう・・・我らの父なる神と、幼くも無垢なる知恵の大天使ニケルの御名において、このしもべたちに遥かな未来と、一時の幸福を。ラムーパル」
 己の額に当てた右手を、母の胸の中で安眠する乳飲み子と、不安そうに寄り添う少女にゆっくりとかざす。少女は、ユーヒィの微笑に少し安心したのか、大きな眼でこちらを覗き込んでいた。牧士は、真剣な面持ちで瞳を閉じている母親の肩に、優しく手をおく。
「二人とも、いいお子さんですね。大丈夫、父なる神は何時も、我らと共に有らせられますから」
「ありがとうございます」
 ユーヒィと同年代の寡婦は、何度も辞儀をしながら、懐から掴んだ数枚のオルス銅貨を差し出そうとした。ユーヒィは黙ってそれを押し止める。
「しかし……」
「真正教会は、困り果てている民から徒に富を搾取する組織ではありません。悲しいことながら現実にもしそういった牧士がいるとしても、それは神の御心に反しているのではないかと、私は考えています」
 恐らく母親は、仕事を求めて都市に出るのだろう。農村は、閉鎖的な共同体である。一旦問題が発覚した者、外来からの流れ者に対して、農村の人々は拒否反応を起こすことが多い。冷たくあしらわれながら、村民として困窮にあえぐ者にとって、急速な勢いで発展する都市群は、希望の地に見えるのだろう。この一家は、僅かに持っていた財産を少ない金に換え、明日を目指して列車に乗ったのだ。だがやはり、見知らぬ場所でのしかかる不安に駆られて、金銭を払ってでも牧士に祈ってもらおうと思ったに違いなかった。
 正に平身低頭しながら違う車両へ消えた一家のことを案じながら、ユーヒィは再び視線を窓の外へ投げた。巨大な太陽が、西の空で赤々と燃えている。草原は何時の間にか畑に変わり、ちらほらと人家が立ち並ぶ。
 きちんと閉まらない窓枠からの隙間風が、耳の奥で、悲しげな調べを歌う。それが、低音の汽笛と一緒に悲哀を輪唱するかのようだ。
 ……この手はやはり、小さいのだろうか。
 掌に残った母親の細い肩の感触を気にしながら、窓を大きく開けて躯を乗り出すと、くすんだ金髪が煙の香りと共に激しくはためいた。目を細めて進行方向を見ると、古めいた客車を牽引して煙を噴く中型機関車の先、右に大きく湾曲したレールの先に、長く広がった街が泰然としている。キセフ内海に面した大きな港を見ることはできないにしても、高名な聖カテガンテ大聖堂の尖塔が遠目に見て取れる。そこはまた、ユーヒィの故郷でもあった。
 アフグラント第二の大都市にして随一の工業都市、ターンスタリムである。

      2

 皇帝の宮殿もかくや、というほど壮大なターンスタリム駅の大広間を歩いていく。荘厳なゴシック調の様式は、高名な建築家ヤルツースの作で、二十年間の工事の末、三年前にようやく完成を見た。白亜の壁面には精緻を凝らした天界の軍勢が彫り抜いてある。ここを見物するためにこの都市を訪問しても損にはならないというのが、最近のアフグラント人の自慢の一つらしい。
 その中央には一際優れて光輝を放つ老人の銅像が安置されている。彼の名は、カルティリャン・ノーサンバランド。かの「英雄鉄道の乱」の際に、反動的な皇帝と敵対しつつ、祖国の未来を願って鉄道建設に邁進し、遂に皇帝に処刑された老傑である。常に燃え盛る燭台に四方を囲まれた彼は、今なお鋭い眼光を放って、ある一定の方向を指し示している。壁の向こう、その指の指す遥かな場所には、彼が敬愛し、そして憎悪して止まなかった、皇都ウラジミラブルクが、神の代理人たる皇帝の玉座があるのだ。
 ノーサンバランド家は元来この地方の有力貴族であり、古くは土王であったという。幾人も名君を生み、ターンスタリムを中心とする周辺地域をいち早く発展させてきた。動乱の際に徹底的な弾圧を受け、家系は消失してしまったが、今なおその人望は厚く、特にこの都市では皇帝と並び称してはばからない。現に今も、銅像の前には花束が数多く捧げられ、跪く者、石碑を見物する者など、人垣が絶えることはない。
 ユーヒィも、足を止めることこそなかったが、黒い外套の上で揺れている真正教会のシンボルを握りしめ、短く祈りの言葉を捧げた。騒音の中に、澄んだ靴音が反響していく。
 豪壮なシャンデリアが幾つも掛けられた長い廊下を抜け、寺院の柱廊を模した巨大な玄関口に立った。旅立つ人、旅ゆく人が行き来する中、白い柱に体を預けて一息つく。眼前には、落日の光が支配する橙色の世界。夏直前のやるせない熱気が重たく渦巻いている。周囲を取り巻くのは、汚濁した影絵のような労働者たちの街。人々のしじまは足早な歩みを刻み、空を押し上げる鉄鋼所や工場の煙突は、夕闇迫ってもなお休むことなく黒煙を吹き上げている。
 その中で、紅に映える白亜の宮殿のような中央駅の外観は、ピースの合わないパズルのように、浮き立ってあまりあるように、ユーヒィには感じられた。大アフグラント鉄道会社が威信を懸けた優美な建築物にだったが、彼にとってみれば何度訪れても好意を抱けそうにない。意図しない溜息が吐息に混じる。
「こんなのを建てる金があれば、孤児院を幾らだって建てられただろうに」
 憂鬱になる理由は己の中にもある。駅の建設に掛かった資金の何割かは、真正教会の寄付によるものなのだ。当然、会社からはその見返りとして、何らかの巨大な利権を寄進されている。まるで互いを飲み込む二匹の蛇だ。
 頭を軽く振って、増幅する怒りを止める。
 聖職者の地位にある者が、簡単に怒りを膨らませてはいけないのだ。怒りと、それに基づく審判とは、神の御心に恭順し、正義によって為されるべきものなのだ。
 だが。
 フラッシュバックする、子連れの寡婦の姿。外套の中の拳を固め、辛うじて小さく呟く。
 ……我らの神に、未だ正義があるのならば。

 ヒュオオオォォォッッ……。

 季節に似合わぬ冷たい風が吹いた。僧帽を押さえ、顔を上げたユーヒィの視界に、ある光景が飛び込んでくる。
 駅前の中央広場。潅木で構成された街路の中心に、時計塔が立っている。その下に、凭れている青年がいた。
 いや。
 違う。彼はその時、風の中にいた。白い外套を、黄金色に波立たせながら。太陽を映した丸眼鏡から、その表情を窺うことはできないが、確かに彼は顔を上げていた。彼は空を見、風に抱かれていた。風はまだ吹いているのに、一瞬、世界は無音になった。
 一瞬見入ったユーヒィの脳裡に、記憶のピースが一片浮かぶ。
「……あれは確か、皇立アカデミアの」
「ユーヒィ・マクリントン司祭
 声のした方を見ると、三人の僧が、胸に手を当て跪いている。中央の年老いた男が、顔を上げて恭しく顔を上げた。
 ユーヒィは神と高僧へ敬意を捧げた後、顔を綻ばせて手を差し出す。
「ミレア修道長ではありませんか。お元気そうで何より」
 ユーヒィの行為を意に介す風もなく、高司祭はゆっくり立ち上がる。
「司祭こそ、御息災のようですな。長旅でお疲れのことと思いますが、ワタリコフ府主教様の御言葉により、貴方をお迎えに上がりました。火急の御用件とのこと、急ぎ参られますよう。あちらに馬車が用意してありますので」
 三人の僧達に囲まれながら、ユーヒィは階段を下り始めた。沈降する気分と共に、やり場のなくした右手を外套の下で固める。幾度となく心に留まる、小さな自分の手。
 ふと、先程の光景が気になって、僅かに頭を巡らせたが、時計塔の下に白い外套の青年の姿はなく、ただ破れた紙切れが風と共に緩やかに舞っていた。
 ユーヒィの頬を、外套の白い襟が叩いている。

 聖カテガンテ大聖堂は、巨大で高名な巡礼地として世間には認知されているが、ミトラ真正教会そのものにとっても特別な意味を有する場所である。 
 アフグラントから遠く西南の地で誕生したこの一神教がこの地に侵入したのは、遡ること千年余りの昔だった。その頃はまだ大陸の中原から北方にかけて小さな国々や都市国家群が乱立しており、戦争が日常のように繰り返されていた。
 その中で、カウヒ公国という国が勢力を伸ばし、安定と新たな戦乱を呼んでいた。ところがこれを率いたラジミラ大公という漢が、成した戦功よりも、果てしない色欲で後世に残ってしまう人物だったのだ。彼の成した庶子は、優に百人を越えるというから驚異である。彼は西方の強国を侵略し勝利を得た際に、その国の皇帝の后を熱愛してしまったのだが、その思いを遂げるためには敵国のしきたりに倣うことが必要だからといって改宗した挙句、国中に同様の信仰を強要したのだ。これが、真正教会のが始まりとされている。呆れるような話だが、つまり、この国にとってこの宗教は、その導入から権力の毒婦であった訳である。
 その際、東方教会の管轄の下、ミトラ真正教会の総主教が最初に任命されたのが、ここターンスタリムのカテガンテ教会だったのだ。ここはその後、聖地としてあるべき姿を求められ、聖カテガンテ大聖堂建設という、百年掛かりの大工事が施行された。
 時代が変遷し、皇帝権力の中枢がウラジミラブルクに移動した際に、真正教会の総本山も皇都にある聖ニコラ・テスタ寺院に移ったのだが、カテガンテの存在は衰えることなかった。ノーサンバランド家の庇護の下、南の大寺院としてむしろ更なる発展を遂げ、教会のもう一つの軸であり続けていた。
 その意味付けが、ここ一世紀の間に大きく変容してきている。権力の一施行機関として反動と腐敗の源泉と化している総本山に対し、ここターンスタリムは、現状に甘んじることなく信仰の見直しに挑む改革派の本拠地的な色調を帯びていた。その精神的風土に、ノーサンバランド一族の思いがあるのかどうかは定かではないが。
 そして、現在の改革派の実質的リーダーが、東南地域教管区の総責任者である、ワタリコフ・マクリントン府主教であった。

 ……ユーヒィが、大聖堂の脇、修道院へと続く長大な廊下を足早に進む。頭上に並ぶアーチ型の小窓からは、茜色の斜光が落ちてくる、幾つも幾つも。通り過ぎる牧士や修道女達は、誰しも無言で、深々と礼をして過ぎ去っていく。謙虚な礼を取ってはいても、誰もユーヒィに笑顔を見せることはない。
 だからユーヒィは、ここが好きではない。
 しばらく進み、一際大きな扉の前に立つ。呼吸と身なりを整え、静かにノックをする。
「ユーヒィ・マクリントン、参りました」
 音を立てないように、丁寧に扉を開ける。
 その部屋は、天井が高く、がらんどうとしていた。大きな窓には、真っ赤に染まった中庭の景色。執務机の背後には、聖母子のステンドグラスが掲げられている。部屋の主と目される小柄な人物は、礼拝しているのだろうか、瞳を閉じ両手を組み、深々と椅子に腰掛けたまま微動だにしない。巨大な支配権を持つ者としての風格など一切纏わないで、無力と貧弱に苛まれる老人がそこに佇んでいた。
 やがて、当の人物……ワタリコフ府主教が、ゆっくりと口を開いた。
「突然呼び出したことに対しては、謝罪する。もうお前に頼らないなどと騒ぎ立てた挙げ句が、この様だ。許して欲しい」
 二年ぶりの再会は、やはりあまり喜ばしいものとはならないようだ。ユーヒィの表情に、自然と悲しみが浮かんでしまう。
「また、お痩せになられましたね、父上」
 執務机の前に立っても、ワタリコフの体は、少しも大きく見えない。年月を経た相貌に深く刻まれた無数の皺が鮮明に見て取れてしまう。変わった。あまりに変わりすぎた。双眼に眠る優しい諦念を除けば、彼が信仰と敵対者とに燃やした生命の炎は、彼の精気と意志とを残らず奪い取ってしまったかのようだ。
「このような姿を、お前にだけは見せたくなかったのだが……いや、此処へ呼ぶべきではなかったと、再びお前を見るまでに、幾度後悔したことか」
「この再会は、神がお望みにならぬと……」

「或いは、そうかもしれぬ・・・今まさに、真正教会の腐敗は極まっている。淫行に溺れ、富を愛し、権力に追従する中央の愚者達。私は、あらゆる時間と空間で、彼らを憎み続けてきた。だがその抗争の先にあったものは、更なる堕落と憎悪の日々だった。改革を目指して結集した父なる神のしもべたちの間にも、何時しか権力と階層が生まれていた。何も違いはしなかった。私の半生は、あの愚者たちの映りし鏡だ」
「しかしなおも、父上はその道をゆかれる」
「こういう言は不遜だろうが、神ではなく、不完全だからこそ、やらなければならないことがある」
「ならばなぜ迷っておられるのです」
「此処は茨の絨毯だからな、行き着くところは悪魔の世界でしかないとわかっておれば」
「……ミレア修道長が直々にお見えになったということは、差し迫った何かが、というのでしょう?」
 窓の外で、烏が不吉な羽音をさせて飛び去っていく。その影が、ユーヒィの頬をかすめて。
 ワタリコフが、枯れきった苦笑を漏らす。
「相変わらず、回りくどい話が好きではないな。遂に教会内の言語に染まることなかった」
「私は、そうした人間に育てて頂きました……父なる神と、貴方の手によって」
「そうであったかな」
 老府主教は、しばらく窓の外に視線を投げていた。何かを待つかのように。それから向き直り、しっかりとユーヒィの目を見据えると、一語ずつ押し出すように、その依頼を告げた。
「『ノーサンバランド』に、乗ってもらう」

 二年ぶりの、光景。
 もう陽が暮れて、夕闇の残滓が眠りにつく街並みを混沌に染めている。ここは聖カテガンテ大聖堂の、最上階。巨大な聖鐘の横を抜けると、人が立てる場所でここより高いものは、ターンスタリムにはもはや存在しない。天界へ……或いは冥府へ誘う突風の魔力に耐えながら、ユーヒィは街を見下ろしていた。 労働者と工業の街は、まだまだ休息に甘んじない。大小様々の煙突群から、絶え間なく吐き出される煙は、皆一様に風にたなびいて西の空にわだかまっている。そのふもとでは、今日の飢えをしのぐためだけの賃金を求めて、女性や子供たちまでが重労働に耐えているのだ。
 ユーヒィはこの街で育った。だが、眼下の世界は、彼に直接関係していない。教会の内と外との違いは、そのまま天界と地獄に相当していた。
 私には、いつも見ていることしかできない。
 その罪悪感が、ユーヒィをしてここに向かわせる要因になっていた。

 コオオオオォオ・・・。

 突風が、風まく外套を楽器に変える。その音はしかし、協奏曲だった。ユーヒィは今になって、ここに先客がいたことに気付く。そして、目を大きく見開く。
 一瞬のデジャヴ。
 風に包まれた男が立っている。
 長身だ。鈍い紅光を受けるその白いマントは、大空のスクリーンとなって、更に赤く、更に黒い。大きく翻したまま、蘇芳色を失っていく街へ、その向こうへ視線を遠く投げている。ただ、丸眼鏡に覆われた表情は、陰に隠れて読みとれない。
「……遥かな昔、大きな力を手に入れ始めた人々は、自らの力を誇示せんが為に巨大な塔を造り始めた」
 唐突にその青年が語り始める。低い、朗々とした声が、風の宴を制するように。
「何時しか人々は、自分たちの力を見誤り、その塔が天空に座せる神まで届くと考え始めた。神はこれに大きな怒りをお覚えになり、稲妻の槌をもってそれに一撃を加え、彼らの言葉を無数に分かった。故にかの地は『混乱』と呼ばれることになった・・・」
 そして、ユーヒィの方に向き直る。
 鋭い、赤茶の瞳。
「我等の世界全てを指すものだと、私は確信しております。我等にはもはや、神の恩寵は値しないと思うのですが」
「その教えは、我ら真正教会では外典にあたる、『新世記』からのものです。確かに真理の一つを指摘してはいますが、神の愛はなお我らと共にあり、罪は許されると、同じ書は語っております」
「それから数千年を経て、なお罪に甘んじている人間にも、でありましょうか」
「神が神で有らせられる理由は、その完全性と無限の愛と立脚しています。我等が父なる神を求めるのは、それを魂の底で認知しているからなのです。よって、私はそこまで悲観的に生きることはできません。それが即ち、神への冒涜になるという危惧を抱くが故に」
「ならば、真正教会が神として祭り上げている現王朝もまた、求めれば答えると貴方は申されるのですか。ご存じですか。眼下に広がる工場群の労働者の半分以上が、皇帝の圧制に苦しむ周辺の異民族なのです。それでも彼らは職とパンを求めて横暴な帝国に流入せざるを得なかった。この国の、この街の繁栄は、そういったものに支えられていることもまた、神の愛だというのですか」
「……混乱は果てしなく広がり、体制は神の威を借りて君臨しています。何時しか教会は世俗の権力そのものにまで堕落し、信仰は腐敗しました。されど、私にはやはり、我々一人一人がこのように生き苦しむこと自体が、偉大な神の愛だと思えてならないのです。もし我らが本当に見捨てられた存在ならば、きっと存在すら叶わぬはずです」
 迷いはあるが、信じてもいる。
 だがこれは、本当の気持ちだと、確信できるのだろうか。
 ………………。
 と、先方は苦笑を漏らしたようだ。瞳を細めた笑顔を浮かべ、近寄って手を差し伸べた。
「いや失敬、司祭様にこのような子供じみた言葉を投げつけるなどと、不作法、非礼をお許し下さい」
「いえ、それに私は司祭とはいっても儀礼的身分上だけのこと、実際は辺境の一牧士に過ぎません。脆弱な言葉が真実を示さないこともあります。ご容赦下さいませ。……失礼ですが、皇立アカデミアの方とお見受けしましたが」
 手を握り返す。見た目より細い。
「私も見習い、準博士です。アレクサンドロ・ブレイクと申します。お見知りおきを、ユーヒィ・マクリントン牧士」
「私のことをご存じなので?」
「ターンスタリムにありながら、貴方の名を知らぬ者がいるでしょうか。献身的な奉仕や感動的な御説法など、御噂を幾度となく拝聴し、こうしてお目にかかる日を楽しみにしていたのです」
 ブレイクの言葉は内容と裏腹に、無感動で平板だった。だが、嫌味には感じられない。
「噂は一人歩きするものです。この通り私は高尚な人間ではありませんので、それなりにお付き合い下さいませ。私のことは、ユーヒィで結構ですので」
「では、僕もアレクと呼んで下さい。アカデミアには同世代の者がいないので、堅苦しくて仕方ありません。その様に呼んで頂けるのなら、それに越した幸せはないでしょう」
 何となく気の抜けた顔をしているアレクに、ユーヒィは安堵を覚えた。先程までの鋭い舌鋒とはうって変わって、何と表現していいのか、茫洋としていて視線が定まらない、不思議な男だ。
 だが、聖職者たちと違い、いらない気を使わなくてもいいことだけは確かなようだ。少し神経過敏になっていたのかもしれない。一度頭を振ってユーヒィは笑いかけた。
「宜しければ、少しばかりお時間を頂けますか。先程の貴方の言葉にどのような意図があるのか、興味を抱きましたので」
「光栄です。貴方の直截な言葉を戴くためにここへやってきたようなものだから。それに……僕はこの光景が、あまり好きではありません。風に吹かれていると、ここがターンスタリムの一部ではない、そんな気がして、きます」
「………………」
 自分に向けられたかのように、言葉が心に突き刺さる。分かっているのだ、この高き尊き場所はターンスタリムではないと。そしてやはり自分は、かの神話のように邪悪な混乱の塔を打ち建てているだけではなかろうか、と。

    3

 整然と敷き詰められた石畳に、二組の足音が木霊していく。二人の散策は、何時しか大通りを逸れて、下町の裏道を辿っていた。夜の帳に深く覆われ、所々にある瓦斯灯の小さな明かりが、夜羽虫の燐の如く仄かな光を放つ。
「……それではやはり、あの駅前広場の方は貴方だったのですね」
 アレクが微かに頷く。
「アカデミアからの使者を待っていたんだ。組織というものはどこも硬直的でね、表面では自由を明快に標榜しているが如きアカデミアも多分に漏れず、情報伝達は上から下へ、ただこれのみという訳さ」 
 口調が変わっている。両者の間に少しばかりの年齢の開きがあったことと、それぞれの性格によるものだ。学者は牧士に口調を和らげるよう頼んだが、生真面目な若者はそれを固辞し、敬語を使っている。ちなみに、ユーヒィは二十歳、アレクは二十七歳である。
「あと、見ての通り僕はこんな性格だから、思考の迷宮を彷徨していると、我が家が炎に包まれたって気付かなくなるからね。恥ずかしい所を見せてしまったな」
「それは実話ですか」
「冗談だよ」
 相変わらず、茫洋とした部分を呈しているものの、内実は気さくな好青年だ。しかし、この歳で既に準博士なのである。アレクは簡単に流しているが、皇立アカデミアというのは帝国の最高学府であり、また文化の最先端なのだ。
 アフグラントが列強に後れをとって久しいといわれている中で、アカデミアの研究成果、特に生物学と文学の成果は、次第に世界の学会を席巻しつつあるという。この学院は、皇室に正式に許可された、国内に多数存在する大学の最も優秀な学者・生徒だけに門戸を開いているのだから、その中で既に研究者として一人立ちしているとすれば、世にいう天才の栄誉さえも控えめといえるのではないだろうか。ユーヒィが最初にあった際に彼がアカデミア所属だと分かったのも、純白の外套がアカデミアの象徴として広く世間に流布していたからなのだ。ユーヒィの裡では既に、先程の鐘楼でのアレクの双眸こそが彼の本性なのだろうとの認識が揺るぎない。
「そういえば、まだご専攻をお聞きしていませんでしたが」
「やはりそれをいわねばならないか。あまり胸を張って公言できるものではないので、敢えて黙ってたんだが……。他の先生方が実際、娯楽に過ぎるだろうと、気を悪くされているしね」
「と言いますと?」
「形而上被造物に対する生物学」
 ユーヒィは足を止めた。正直、よく分からない。
「………………」
「つまり、存在するものとして仮定した場合の、天使の研究だよ」
 視線を揺らめかせながら苦笑いを浮かべるアレクの顔を、瓦斯灯の明かりが深く彫り込んでいる。
「僕がこのターンスタリムで一人勉強をしていたのは、聖カテガンテ大聖堂が真正教会の本拠地である聖ニコラ・テスタ寺院よりも、天使関連の資料を圧倒的に多く所蔵しているからなんだ。もはや一人で調査するなんてそれこそ気違い沙汰としか思えないんだけど、こんな奇妙な研究に付き合ってくれる人なんていないからね」
「その、研究の内容というのは……」
「天使はどういう存在か。どう考え、どう語り、どう動くのか。霊的な肉体とは何か。人間との対比研究、等々」
「そう、ですか」
 ユーヒィが複雑な顔をする。夜風が煽るくすんだ金髪のすぐ側を、「新たな革命を!」と記された、ボロボロの張り紙が舞い飛んでいった。言葉がすぐに風化する街。
「――君には多分拒絶反応を受けるのではないか、と思っていたんだ。改革派の中心人物の一人にとってみれば、中世教会の蒙昧な暇つぶしを復活させるだけだって、思われても仕方ないからね」
 悪いとは思いながら、ユーヒィはその言葉を否定する意志を持ち合わせていなかった。
 世界宗教ともなると、教義の相違や分派は日常茶飯事で、権力者の意向から典礼の方法が変わったりするのも希ではない。そして、その傾向が最も激しかったのが、数世紀をさかのぼった中世の神哲学だった。
 存在すべきであるとする世界、事象、真理を、現在ある事柄から推論するのではなく、純粋な思惟、または直感によって探求しようとする学問を形而上学と呼ぶ。主に神や霊魂について用いられたこの学問は本来、超存在に相対することによって人間という存在の本質を考えるための手段として、二千年以上昔、聖一神教が勃興した時代に既に存在していた。しかしやがてそれは、複雑に枝分かれした教会の神学と一体化し、増殖・拡大を続ける教義の正当化のために用いられることになっていく。
 神学者達は、神のみならず、神の軍勢……天使達の様子に対しても、その想像力の翼を広げ始めた。そしてそれは、権力者達の意志を介して、一般大衆の信仰の形を律していくことになる。天使の姿、大きさ、重さ、性格から嗜好まで、飽くなき想像がなされ、膨張していった。
「……そういった妄想への固執から、本来の信仰を取り戻すべく、西方の列強では宗教改革がなされ、宗教戦争が頻発した。もともと、同じ神を信仰しているはずの人々が、同じ神の御名を唱えながらさんざん殺しあったんだ」
「過ちは繰り返されています……でも、それが全て無駄だとは思わないし、絶望もしません。本来の信仰を取り戻そうとする探求は、例え世が混沌と腐敗に冒されていても、道標たることに変わりないのですから」
 ユーヒィは、睨み付けてしまいそうな感情の高ぶりを抑えながら、落ちついた口調を保つ。対して学者の口調は変わらない。
「……申し訳ない、僕のお喋りは人の神経を逆撫ですることばかりに長けているようだ。自分のことを擁護するつもりも、君を糾弾するつもりも毛頭ないのに、な」
「いえ、こちらこそ、気分を害する物言い、お許し下さい」
「相互に交わされる言葉を、全て理解し合えたなら、それは正に人間の所業ではないのだから、気にしなくていいよ。謝罪すべきは僕だし。ただ」
 アレクが、歩みを止めた。人気無い路地裏に、彼を中心として微かにわだかまる、風の旋。
「僕は、自分のやっていることに確固たる理由を持っている。その意味で、これはユーヒィ、君にとっての信仰と変わりはない」
 ユーヒィは唐突に思い当たった、彼の周囲を吹き続ける風の正体を。それは、彼我の間に横たわる、とても狭く、だが無限の深淵たる溝に吹きすさぶ冷風だったのだ。
 だがしかし……ここで簡単に背を向けたのであれば、私は教会での振る舞いと同じ間違いを繰り返すだけなのだ。組織外の評判にさえも、改革派の中心人物と目されている自分が、何故辺境に一牧士として在らねばならなかったのか。自らの信仰に対する態度によって周囲の手本たるべし、という方法は、その実、単なる逃避ではなかったのか。結ぶべき交わりを閉じることの、何と簡便且つ怠惰なことか。
 ここで為されるべきは対立ではなく、溝越しに手を差し伸べることではないのか。拒絶を、すぐに恐れてはいけないはずなのだ。
「……信仰は、その人にあらかじめ備わっでいるのではなく、各自が神の愛と共に育ててゆくのものなのです。もし二人が、同じ道を歩めないとしても、ただ何も持たぬ人として、神の御下で平等な笑顔をかわすことはできます。だから、この話はとりあえずここまでにしましょう。対立するための邂逅など、父なる神も望まれるはずがありません」
 学者が驚嘆の表情を閃かせた。無意識の動作だろうか、多少ずり落ちた丸眼鏡を押さえる。
「全能であらざること自体を、神に感謝しなければならないな。僕も、その意見に全面的に賛成だ。妙な議論ばかりふっかけて、本当に済まない」
 二人にようやく、笑みが戻る。今はこれでいい。ユーヒィは安堵した。
「さて、お詫びも兼ねて、とりあえず牧士様と杯を交わしたいところだが」
 アレクが歩みを再開した、その時。
「誰か、誰か!」
 女性の金切り声が暗闇と静寂を引き裂き、二人の青年に再び緊張を走らせる。声は若い、恐らく少女だろう。間髪入れず駆け出す。声の主は、どうやら更に暗い場所で、苦境に立たされているらしい。
「右を頼む」
 アレクは十字路を指し示して、手近な狭路へ消えた。無言で頷きつつ加速するユーヒィ。瓦斯灯の下を右折しながら、外套を跳ね上げ、飛ばす。腰に提げてあった小細剣の鞘を左手が握り、いつでも抜剣できるような体勢で、同様に暗中へ飛び込む。
 下町の住宅の隙間は、工場排水と塵と排泄物の汚濁が、化合しながら澱んでいる。まとわりつくような空気を払いながら、走る。突然出現する、木樽や廃材をするりとかわす。と、前方に闇が盛り上がっている。壁だ、だがそんなに高いわけでもない。その向こうから、荒々しい吐息と揉み合う音が聞こえてくる。ユーヒィは、一瞬で判断すると、更に加速した。
 あと三歩――三、二、一!
 心中でリズムを取って、大きく跳躍し、壁にとりつく。苦もなく壁の上に立ち上がり、動作を止めず飛び降りる。 降り立った場所は、どうやら小さな廃工場の敷地内らしい。割れた窓硝子の奥に、半自動化力織機の影が浮かんでいる。この下町・旧工場地域は、港湾地帯に製鉄工場が設置される以前に、ターンスタリムの主な工業生産を担っていた場所なのだ。木綿などの軽工業から、重工業へと産業の代替が進行するにつれ、連鎖的に廃業及び荒廃が広がりつつあるため、こうした真新しい廃虚が町の中に点在しているのである。
 ……すっと立ち、周囲に気配を配る。
 先程は確かに人声を聞いたのだが、その片鱗も感じられない。元々、助けを求める女性の声はこちらの方から聞こえてきた。距離的にも、まず間違いはないだろう。
 何かが、おかしい。
 争う双方が、いわゆる素人ではない。でなければ、何かしらの痕跡を残しているはずだ。ここにあるのは、埃一つぶ動いていないかのような全き静寂、ただそれのみ。では、先程の少女の悲鳴は何だったのか。
 僅かに逡巡する。
 瞬間、背筋に焼け付くような殺気。躯が考える前に反応したした刹那、その空間を撃音と共に弾丸が通過した。一回転すると受け身を取った牧士の耳朶を、僅かだが狙撃主の足音が打つ。
 逃がさない。
 俊足が土を強く蹴る。向こうの足音は途切れない。今度はこっちの番だ。足音が聞こえる内は、追いかけられる。止まったら攻撃してくる……勝機は、その時にある。
 駆けた、駆けた、狩猟者として。意識が収束して、聞こえるのは敵の足音だけだ。暗闇に響く音が、ユーヒィを再びスラムの迷路へと誘う。感覚が研ぎ澄まされて極細の針になっていくように、肉体を導く。やがてそれは、風。一陣の風、吹き抜けるように。
 まるで決められたかのように、障害物を避け、右折する。
 と、突然。
 本能を認識力が押さえつけた。そしてその上に覆い被さる、愕然という名の感情。
「行き止まり?」
 戸惑う背中に、また殺気。近い。
「くっ!」
 至近距離で相手の喉元にあてがった小細剣。だが、自分の眼前にも、薄明かりに鈍く光る短剣が差し出されていた。
 動けない。
「動かないで!」
 ところが……威嚇の声を発したのは、眼前の人物からではなく、少し離れた場所から発せられた。少女だ。ユーヒィの記憶が確かならば、助けを求めた声と同じ、高音域の。 短銃を構え、近寄ってきたその人物は、その場の様子を見、それから困惑した口調になる。
「あれ、人違い……?」
 ユーヒィが、ゆっくりと頭を上げる。そこには、剣を向けられたまま多分現在のユーヒィと全く同じ顔をしているだろう、戸惑ったアレクの姿があった。

   4

 ターンスタリム繁華街の少し外れにある「鉄の河」という名の酒場は、この地方都市以外から集まってくる労働者たちを主な客とした、多文化味溢れる歓楽の店だ。が、今夜はその中でも更に風変わりな客が一卓を占めていた。
「では、九死に一生を得た奇妙な出会いに、乾杯!」
「父なる神に、感謝を」
「かんぱーいっ」
 音頭を取るのは、学者風の男。使い古されたジョッキを打ち鳴らす若い牧士。そしてその大きさをものともせず、一気に葡萄酒を空けてしまう、めっぽう綺麗な少女。身なりこそ見窄らしいが、その笑顔、何より光沢を帯びたホワイトシルバーの長髪が、男たちの瞳を釘付けにする。
 酒気を纏った三人が一様に笑みを浮かべる。
「やっぱり、この瞬間って一番幸せ。そう思うでしょ、牧士様」 
「葡萄酒の守護天使ウルエルは、繁栄と幸福の象徴でもありますからね。でも、年少者に酒を勧めるのは、神の御心とは思えませんが……」
「子供っていうなー。牧士様よりも、えらーい学者様よりも、人生経験は積んでるつもりだぞ」
 青年二人が苦笑を浮かべる。
「ではお嬢さん、ここらできちんと自己紹介をしようか。僕はアレクサンドロ・ブレイク、皇立アカデミアの準博士だ。アレクでいい」
「ユーヒィ・マクリントン、牧士です」
 娘は薄朱の瞳をきらきらさせて、立ち上がった。
「マリア・ミラー、この通り天涯孤独の風来坊でーっす!」
 そして、食卓に並べられた薫製肉にフォークを突き立てながら、二人に向かって小さな躯を乗り出す。
「アレクに、ユーヒィか。こんな格好いい二人連れと、しかもおごりでお酒が飲めるなんて、今日はついてるなぁ」
「お金のことはいいとしても、そうそうお酒ばかり飲んではいられませんよ、マリア。あの悲鳴を追って、私たちは貴女と出会ったのですから」 
 ユーヒィの疑問に、アレクが相槌を打つ。
「僕たちも確かに何者かに狙われた。そして、追いついたと思った瞬間、同士打ち未遂に陥った挙げ句、君に捕まった。僕達が相手にしてたのは本物の戦闘者たちだ……君も含めてね、マリア」
 マリアは口をモゴモゴさせながら、ぐるぐると回すジョッキに視線を落としていたが、肉を飲み込むと顔を上げた。
「ねえ、二人とも穏便な職業の割に腕が立つのね。秘密、教えてよ」
 青年たちは、一瞬目配せをした。そしてユーヒィが、明るい口調を少女に向ける。
「マリア、真正教会では、何故『牧士』という位階が定められているか知っていますか」
 少女が素直に首を振る。
「過去の歴史において宣教地を拡大していく際、聖職者は攻撃的な異民族から神のしもべを護らなければなりませんでした。現在では、その行為自体は侵略だったという批判がありますが、聖職者は争いを調停する力を備えていなければならないという考え方は定着しており、私たちは日々、剣の修行にも時間を割いているというわけです」
「なるほど」
「僕は貴族の三男坊だから一通りのことはやったぐらいだよ。兄たちのおかげで兵役は免れたけど」
 少女は頬杖をついて二人を比べるように見ている。
「……二人とも、素性を隠そうとしてるなぁ」
「「………………」」
「だったらこっちも、喋ってあーげないっ」
 にこにこ顔で、蒸かし芋を頬一杯に頬張る。
「何も隠してなどいませんよ、マリア。何なら、疑念が晴れるまで質問に応じましょうか」
「ふ、ふまんなーひ」
「淑女なら、食い物を飲み込んでから喋るべきだろうに」
 アレクのジト目を平然と受け流し、喉のつかえを追加の酒で押し流してから、ピッと二人の方を指す。
「つまんないぃ。確かにあたしは背は低いわ言動は幼稚だわ、自分でも子供っぽいって思ってるわよ。でもね、こう見えても十六、いつお嫁にいってもおかしくない十六歳なの」
「……全く、そうは見えん」
「それを、なーんか保護者然とした顔でさ、失礼もいいとこよ」
 少し酔ってきたのか、マリアの目が艶っぽく輝いている。と、着衣のポケットから一オルス銅貨を取り出して、掌に乗せた。
「であるからして、皇帝に権限を委譲されたるこの判事が、神のご意志の元、ここに採決をくだーす」
「こりゃ、横暴な農奴貴族の登場だ」
「とりあえず、祈りましょうか……」
「あたしはね、人の過去にはあまり興味を持たないの。それよりも、出会った人のこれからが知りたい。だって、何かの縁で、また楽しい時間を過ごせるかもしれないでしょ?だから、これからこの私の全財産を投げて、手の中に還った時、表がでればユーヒィが、裏ならアレクが、明日以降の予定を話すのよ。勿論、嘘をついた場合は」
「火炙り、だろ」
「御明察ぅ。さて、それじゃいってみよう!」
 もはや呆れ顔の青年たちの前で、銅貨はランタンの光を弾いて飛んだ。少女の小さな掌に落着した後、見れば開祖ラジミラ公の肖像が鈍く光沢を帯びている。
「ユーヒィ、どうぞ」
 アレクが気の毒そうな表情を見せる。マリアは真剣そうに両眼を凝らす。
「だから、隠すことなんてありませんよ。明日はターンスタリムに留まり教会の奉仕に従事します。そして、明後日からカルム・リゴスキー大公の随伴として、皇都ウラジミラブルクに向かうことになっているのです」
「大公のお供って事は……『ノーサンバランド』か!」
 学者が、盃を持ったまま硬直する。
「……とすると、ユーヒィの憂鬱は、真正教会の派閥争いに参加しなければならないことからきてるんだな」
「ねえ、どういうこと?」
「つまりだ」
 リゴスキー大公爵は貴族の中でも、農奴解放の徹底化及び列強の技術導入・発展を推進するグループのリーダー格に相当している。しかも、皇帝の官僚としても大きな発言権を持つ。一部では、かの英雄になぞらえて、「小ノーサンバランド」と呼ぶ者もいる。
 さて、現皇帝ニコラス二世は、汎アフグラント主義(アフグラントの歴史的土壌を信仰し、自国を越えて敷衍しようとする考え方)を唱え、周辺国への干渉を繰り返す上、農奴支配強化の策定や昨今の税の引き上げなど、国内の富を後退的に消費すること、枚挙にいとまがない。これにうわべだけ追従する貴族が多い中、大公を中心とする一部の開明的な貴族が腐敗していく国内の情勢を憂い、公式な意見上奏としてかの「鉄道英雄の乱」の勃発地であるターンスタリムから皇都ウラジミラブルクへ、しかも大アフグラント鉄道の誇る超特急「ノーサンバランド」に乗って向かうことを企画したのである。
 ここに込められた意味が、皇帝という絶対権力に対する公然たる謀反だと取られてもおかしくないことは一目瞭然だ。 だが、話はそう簡単には終わらない。皇帝は若年ながら慢性の肺病を患っており、その具合が芳しくないのだ。彼にはまだ后がいないため、万が一血統が途絶えた場合、有力貴族から次代の皇帝が誕生することになる。この際、皇帝に決定権はなく、全貴族と真正教会の決定が総てとされる。
 そして、この度の皇都上奏に、真正教会本部は皇都副主教ニーコンを送り込んできた。
「副主教は真正教会の中において総主教の次席という、まあこの辺の田舎牧士からすれば天上人みたいなものだ。さて、皇都の教会からすれば、ここは対立思想の隆盛する敵地といえる。彼らが形振り構わず大物を送りこんできたってことは」
「そのお坊さんたちは、次の皇帝にリゴスキー大公を擁立して、利権の先物買いをしようとしてるのね」
 四つの瞳が向けられた先で、牧士が沈黙しているのは、教会の分裂について肯定せざるを得ないからのようだった。
「……大公閣下は理知的な方で、蒙昧な考えに惑わされることはないと思っています。ですが、世俗の欲望にまみれた教会が、これ以上アフグラントを混乱におとしめることは、あってなりません。派閥争いは不毛な結果と涜神だけを生むと知りつつ、マクリントン府主教は私を派遣する決定を下されたのです」
 臍を噛むような牧士の表情に目を細める学者。
「さすがに、教会で勉強されてますね、アレク。恥じ入るばかりの話ですが」
「いや、利権漁りは教会の専売特許じゃないさ。アカデミアも同じようなものだし、今回に限っていえば、僕の動向は君と同一さ」 
 ユーヒィが顔を上げる。
「それは……」
「そう。僕もアカデミアの代表として、『ノーサンバランド』に乗るんだよ。ま、厭世なお偉方の尻拭いといったところだが。・・・でもまあ、今回に限っては、父なる神の気紛れに大きな感謝を覚えてるところだよ」
「本当に、神に感謝の念を捧げなければ。貴方が御一緒なら、心強いことこの上ありません。改めて、よろしくお願いします」
 ユーヒィに笑顔が戻る。それに盃を上げて答えるアレク。
「君の信仰への態度、魂への飽くなき追究は、僕自身の生き方、研究方針を見直す鍵になりそうだからね。こちらからも、末永く友でいられることをお願いしたいな」
「是非、喜んで」と答えつつ、牧士が酒を干して頭を掻く。
「ますますつまんないぞぉ」
 唐突な成り行き上、傍観者を強要されていた少女が、フォークをくわえて不平を垂れ流している。
「なによなによ、二人ばっかり親交を暖めちゃってさ。それも、あの『ノーサンバランド』に乗れるなんて。どーせあたしみたいな下賤の輩には関係ない話だよーっ」 
「あ、すいません、マリア」
「悪気はないんだ。その、意外な展開に僕らも動転してた。すまない」
 腕組みをしてみせるが、二人が真剣なのを気にとめたのか、笑顔を咲かせる。
「嘘よ、嘘。それにしても、『ノーサンバランド』って、ほんっとに凄い列車なんでしょ? いいなー、羨ましいなぁ」
「ま、疾走する王宮という美辞麗句も不遜じゃないだろう。実際に目にしたことはまだないが、我が国最大の七千六百型機関車に牽引された七両の客車は、朝日を受けて七色に輝くとの流言もある。大アフグラント鉄道が威信を懸けて走らせる超特急だ、名前負けをすることもないだろうな」
「そうやってまた平然と自慢するぅ」
「この口調は生まれつきだ、気にするな」
 口を尖らせるマリアの体を、大きな衝撃が走った。見れば、髭面の労働者が赤ら顔をこちらをに向け、大きな体躯で見下ろすように睨んでいる
「いた! ちょっと、何するのよ」
「ぶつかったのはそっちだろうが! ガキがこんなとこ来んじゃねえ。それとも何か、ガキじゃねえ証拠で楽しませてくれるっていうのか?」
 奥の方から下卑た嗤い声が重なり、男たちが次々に立ち上がる。どうやら店の空気は新たな娯楽を求めて、騒動を盛り上げる方向に流れ始めたようだ。
 いつまでも哄笑している大男の体が、突然宙を舞い、一回転してテーブルの一つに叩きつけられた。一瞬にして店内が静まり返る。
 まるで魔法のように巨体を投げてしまったマリアが、したり顔で両手を払う。
「何よ、あんたたちこそ男の部分以外は子供じゃないの。御生憎、あたしは大人の男性にしか興味ないの」
 驚愕が怒声にとって代わり、大男の仲間たちが指を鳴らし始める。第三者たちは自分たちにとばっちりが来ないような客席に陣取り始めた。マリアはチッと舌打ちをして、目の前で硬直している青年二人に指をさす。
「か弱い少女を助けなさい! それとも、神様はこんな時でも博愛主義を全うしなさいといけないっておっしゃってるのっ」
「……か弱いかどうかは別にして、この場合の正義はお嬢さんの方にあると、僕も思うよ」
 アレクが首を二、三度振って、少女に突き込まれた相手の腕をすばやく取り、鳩尾に一撃を叩き込む。マリアも野鼠のように素早く動きまわっては、何倍もあろうかという男たちを放り投げる。
 食器が飛ぶ。食物が飛ぶ。椅子が、テーブルが飛ぶ。酒が床を濡らす。喧嘩は加速度的に参加者を増やし、主人のがなり声は悲鳴にかき消される。喧噪の高まっていく酒場の直中で、ほろ酔いのユーヒィが困惑しきった顔で立ちすくんでいた。
「父なる神よ、友を護る為、自衛の為に我が拳を上げることをお許し下さい」
無造作に突き出す。すると、酔っぱらいの一人の顔にめり込んだ。小さく「ラムーパル」と唱える。その瞬間、頭に鉄鍋が直撃し、それを被ったまま、ユーヒィは昏倒した。

 「鉄の河」から程無い宿屋の戸口から、アレクとマリアがでてきた。二人とも、出てくるなり抑えていた笑いをこぼす。マリアなどしゃがみ込んで何度も地面を叩きながら大笑いしている。
「あはははははは! あーおかし、ね、ユーヒィったら、自分がたんこぶ作った理由も分からないまま寝ぼけまくって、真剣な顔して『どうしました?』だもん。あれでほんとに高名な牧士様なのかなぁ」
「全くだ。もう少し酒が強くないと、人付き合いも出来ないだろうに……ま、何時間かすれば、正気を取り戻すだろうから」
 遠くから製鉄所のボイラー音が聞こえる。工場群はまだ眠りに就かないが、闇の帳が騒音をかき消し、その輪郭をあたかも蜃気楼のようにぼやけさせる。煙の晴れた闇夜に、星達のつづれ織りが瞬く。星空の天井の下を、二人は歩き始めた。
 しばらくの、無言。
 瓦斯灯の仄かな光が近くなり、その揺らめきに包まれ、遠ざかる度に伸びる影。それもやがて消え、星明かりだけが二人を照らすようになる。
 闇に響く、高音域の吐息。
「……ホントに今日は、楽しかった。こんなに楽しい気分になれたの、いつ以来だろう」
「………………」
「ユーヒィも、アレクにも、出会えて本当に良かった。ありがとう」
「……そうやっていつも、一方的な別れを繰り返してきたのか」
「えっ」
 マリアが立ち止まる。その前に、外套を揺らめかせる学者が立つ。白いコートと白銀の髪が、闇の中で一様に、夜風になびく。

「……僕の前にいるマリア・ミラーという人物が、どこまで本当の君なのか、僕には分からない。でも、君は自らの意志で、仮面を付けている部分がある。それは、ユーヒィも知っている。しかし、僕らはそれを剥ぎ取ろうとしなかった」
「感謝しろっていいたいの?」
「僕らがそんなに安っぽく見えるのか?」
 溜息が混じって、口調が歪む。
「まどろっこしいのは嫌いなの。いいたいことがあるなら」
「君を好きになった」
 一瞬、言葉が胸を撃つ。突き刺さるレンズ越しの真摯な視線。短い告白が小さな心に反響し、意味を把握するにつれ、自然と俯いてしまう。
「僕らを護ろうとして、自分の素性を一切話さなかった。そのことで、かえって君の仮面の裏側が見えてしまった。理知的で、傷つくのを恐がってる、素敵な君が」
「………………」
「……突然こんなこといっても、あの男たちと同じように見られるだけかもしれない。いずれにせよ、君は間違いなく去って行くのだろう。だが、今この瞬間の僕は、それを決して望みはしない」
「……ダメだよ。駄目。あたしは……」
「解ってる。君は、君以外の誰のものでもない。僕も、自分の真実を捨てられない。だから、今だけ……今夜だけ、君の一番そばにいたい」
 頬を染めクスリと微笑う少女。弾ける動悸。
「アレク、女の子と付き合ったことないでしょ」
「御明察だ。正直、何をいってるのか自分でもよく解らない」
 少し跳ねて距離を取り、アレクに背を向けたまま、少女は小首を傾げる。どうやら苦笑しているらしい。
「貴方今、とんでもなく失礼なこといってるのよ? ・・・でも、命って大事にするものだね。牧士様になんか絶対いえないような人生を送ってきても、乙女に対するような言葉を飾って貰えるんだもの。勿論、それが」
 振り向く。街路に咲く、はにかんだ想い。
「貴方で良かったと思ってるの、アレク」
 学者がゆっくりと近付き始める。
「後悔はなしだよ、アレク」
「後悔できるような真面目さを持ち合わせていたなら、僕はこんな所にはいない」
「よし、じゃ決まりね。こんな無粋なもの、今はいーらないっと」
 少女が短銃を取り出し、暗闇の中へ投げた。壁に体を預け、両手を前に組んで体をちぢ込ませる。
 学者の顔が近付く。
 少女はまるで無垢な乙女のように頬を赤らめ、最後に小さな唇に呟きを刻んだ。
「正義と純愛の守護天使ゲオルグの名に誓って、この一瞬の永遠に、限りない祝福を・・・」

 やがて昇った満月が、交錯する二つの影を映しだし、流れ来た雲影が、それを覆い隠していった。

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