春空少女 〜 Witch's Books. いまだ白銀の幻想郷。 睦月が遠ざかり、如月を過ぎても、長い長い冬の間に降り積もった雪は決して穢れない本絹のように優しく、山奥の小さな世界を覆い尽くしている。 冬の峻険さは時に人を苦しめるが、一方でそれは四季の恵みでもある。 約束された春の恵みが豊かである事の証なのだから。 その証拠に昨今は吹雪も遠ざかり、時折カラリと蒼く霞む晴天の下で、人間の耳には届かぬ雪の結合がほどける音がさわさわと囁いている。冬毛を蓄えた兎が巣穴から顔を出す回数が少しずつ増え、固く閉じた桜の芽がゆっくり、ゆっくり膨らみ始めている。 とはいえ、天女の羽衣が爽として石を撫でるよりも静かな春の訪れを、正確に感じ取れる人間は少ないだろう。彼らの感性はおおよそ大雑把であり、だからこそ満開の桜の下で大袈裟に春の到来を歓迎することができる。その大らかさこそが、人間が本来持っているはずの美徳である。美酒に依って花に酔い、過ぎ去った冬の辛さを暖かな懐古として受け止められる。人間はそうやって巡る歳月を重ねていくのだろう。 幻想郷で素朴な春を感じられる人々は、おおよそ幸福である。 ただ、以下で綴られるのは、そういった大多数の人間が観る春ではなく、 それよりも少しだけ早くに春の到来を見つけることとなった、一人の魔女のおはなし。 そして、彼女が所有する無数の蔵書のうち、たった二冊の本にまつわる物語である。 ★ 「ふぅ」 今夜も彼女は、ひたすらページを捲っていた。 望むならば一日中だってそうしているだろう。 溜息と共に顔を上げ、本を閉じ、目を擦る。時折咳をする。 まるでそれは合いの手のよう。本を一冊読み終わると右に積み上げ、すぐさま左に積んであった本を取って広げた。そしてまた、自動人形のように規則正しくページを捲り、文字を追い、行を視線でなぞっていく。当然、彼女の机の上には読み終えた本とこれから読む本とが塔のように積み上がっている。 本の塔の基部と化した机の周辺には堆く積まれた本の城があり、それを取り囲む無数の書架は郭と化している。その中央に位置する彼女は、外来者にすれば迷宮そのものであるこの巨大な本の集積のすべて、パースペクティブの狂った超巨大図書館の一部始終を把握している。 彼女は図書館に於いて主であり、 女王であり、 脳であり、 心であった。 彼女の名前はパチュリー・ノーレッジ。 「動かない大図書館」との二つ名もあるらしい、魔女だ。 ――幻想郷に於いて、積極的に知識を求める存在の筆頭が魔法使い達だ。 パチュリーはその中でも特に歴史を積み重ねたベテランの魔法使いである。見た目にはあどけない少女にしかみえなくても、既に百年の年月を真実の探求と共に過ごしている。その瞳には姿形に似ない叡知の深さが浮かんでいる。いつもというわけではないが。 とはいえ、魔法使いのスタイルにも様々ある。 方々に出掛けていって知見と魔力を深める者もいれば、無限の知識を本によって積み重ね、新たに魔法を生み出している者もある。パチュリーはもっぱら後者に属するが、その規模が尋常ではなかった。 彼女が住処とするのは幻想郷にその名を知れた洋館・紅魔館の、地下に広がる巨大図書館。そこはおよそ有限には見えず、まるで一つの生命体のように蠢いてはその領域を拡大していく。デリバリーサービスがあるわけでもないのに蔵書の数は増え続ける。そしてパチュリーは、無限に等しきそれら蔵書の位置をほぼ全て把握している。その事実だけで強大な魔女であることの証左にもなろう。毎日不断の読書をしていなければ、図書館の本を把握出来ないことも頷ける。本を読む行為はあたかも、彼女のもう一つの肢体を確認していく作業ともいえた。 春夏秋冬変わらない、時が止まったかのようなの生活。 どこか倦むような気怠さと共に、慣れ親しんだ時間。 今再びの咳。耳の痛くなるような静寂。小さな吐息が洋燈の灯りを僅かに揺らめかせる。 ページを捲る、その繰り返し、繰り返し。 パチュリーはそうやって生きていくのだろう。 今までも、これからも、ずっと。 ――さて。 このように、一見いつも通りに見えるパチュリーだったが、実は彼女、今夜は少々不機嫌だった。 原因は、天井方面から時折降ってくる土埃だ。今も又、ぱらぱらと彼女の机に埃が落ちる。 パチュリーは眉をひそめ、汚れを手で払って再び文字に目を落とす。 だが、その頻度が徐々に短くなっている気がする。気が散る。 「………………」 どうやら彼女の遥か頭上で、誰かが暴れているらしい。 図書館が属する紅魔館は、何故か侵入者を招きやすい。以前、館の主である吸血鬼が幻想郷全体に影響を及ぼす事件を起こして以来、不定期に招かれざる客がやってくるようになった。吸血鬼といえば強力で邪悪な存在だとみんな知っているのだから、普通なら近寄りにくくなるものだろうに。どうして焚き火に飛び込む虫のようなことが頻発するのか、パチュリーにも理解しがたい。 それに、春が近づいているとはいえ、まだまだ雪深い季節である。しかも夜。 誰がこんなおおっぴらに暴れ回っているのか。 ……と考えて、パチュリーは頭を振った。思い当たる人物はほぼ一人しかいない。想像が当たっているならば、騒動は今後加速度をつけ、紅魔館の被害は大きくなることだろう。 自分のストレスも加速度的に蓄積されていく。 自分は関わらないと念じながらも、迷惑そうに目を細める。 「猫イラズじゃなくて、本格的な罠が必要なようね。ばちーんと捕まえる奴……ばちーん……」 呟きながら、音もなく浮かび上がる。 入り組んだ本棚の谷間をすり抜けて、その影にちょこんと鎮座している小さな本棚の前に立つと、三段目の一番端に並べてあった薄い本を取り出した。 胸に抱きかかえ、元いた席に座り直す。 色褪せ、手垢にまみれ、しかもパチュリーしか知らない本。無論、ねずみ取りの設計図を記載した本でもない。 それは、パチュリーが駆け出しの魔女だった頃に自分で書いた本。 内容は、現在では参照出来ないくらい旧態依然としているし、既に暗記もしている。 なぜ繰り返し読み直すかといえば、いわば無知だった頃の自分を思い出す為の道具として。そして、今のように体系立った知識を備えず、がむしゃらに勉学に明け暮れた時代を懐かしく思うための物として。 彼女にとってそれはポォトレイトであり、精神を安定させる音楽であり、過去を振り返ることの出来る、数少ない人間的な感情の源泉だった。 だから自分以外の誰もこの本のことを知らないし、知ってはいけなかった。知りようもないだろうが。 天井の雑音を振り払うように、パチュリーは椅子に深々と腰掛けてページを捲り始めた。 埃を被らないように、そこらの本で蓋をしたティーカップを口に運ぶと、咳止め代わりの紅茶はすっかり冷たくなっていて不味い。 「咲夜を呼ぼうかしらね……どうせ侵入者と遊んでるんだろうし、暇よね」 神出鬼没のメイド長を呼び寄せようとして、机の端の呼び鈴を見て、 「あぅ……これは、」 パチュリーは異変に気付いた。 頭上で突然、巨大な魔力が膨張を始めたのだ。同時に今までとは比較にならないほどの振動が図書館を襲い、その全域に埃が降り注ぐ。ティーカップを持ったままのパチュリーは嫌な予感に体を震わせた。魔女であるが故に、形成されていく不可視の力場が、手に取るように感じられる。 「まさか」 該当するでろう侵入者と、彼女が行使する力に思い当たり、寒気が走る。 破局を免れるべくどうにかしようと思ったが、思ったのが間違いだった。 轟音。 エネルギーの奔流が紅魔館を一文字に貫通したのを感じ、ついで館全体が立体音響で震えた。 地下にある図書館もまた地震そのままに振動し、あちこちで本棚から本が飛び出る。 思わず立ち上がってしまったパチュリーは浮上も出来ず、机の角をしっかりと握るだけ。左右に積み上げていた本の塔が盛大に崩れ、思わず腕で顔を覆ってしまった。 右手にティーカップを持っていたのも忘れて。 「あ」 ――雪煙のように濛々とあがる埃を風の魔法で追い払い、惨劇となった机の周辺を見る。 無惨に本の無差別惨殺現場と化した世界の中央で、パチュリーの冷めた紅茶をまともに被った本が数冊。 そしてその中に。 例の大切な本も含まれていた。 一瞬硬直したが、動き出したら早い。普段のパチュリーしか知らない者にしてみれば信じられない迅速さでハンカチを取り出し、こぼれた液体を拭っていく。 だが、一度紙にこぼれたお茶がどんなに頑張っても染みになってしまうのは、いかなる文献に当たらなくても、幼い子供でも知っている。おまけに件の本は他の魔道書と違ってマジックアイテム化を施しておらず、正真正銘の単なる本だった。耐水の魔法すら施されていない。普段の彼女なら絶対に避け得る単純なミス。注意散漫になっていたのだろうか。 騒ぎに驚いて、図書館に住まう小悪魔がパチュリーの様子を窺いに来た。彼女はパチュリーの使い魔のような存在だが、その割に使役される場面も少なく、わりと自由に暮らしている。 彼女が到着した頃、既にパチュリーは図書館に存在したはずの、ありとあらゆる水滴を完全に拭い去ったところだった。小悪魔はがっくりと項垂れるパチュリーの顔をそおっと覗き込み、すぐに恐怖で震え上がった。 いついかなる時でもやる気のなさそうに見える魔女の顔には、はっきりとした微笑が浮かんでいたのだ。勿論、愉しげな感情から浮かび上がったものではない。 「レミィ、レミィ、どこにいるのかしら」 この冬、久方ぶりに図書館を後にしたパチュリーは、館の主の住む部屋に直行した。予想通り、屋敷の三分の一は炭化している。だが、通路の角という角でこわごわとこちらを見ている妖精メイドの数は減っていないようだ。攻撃者と被攻撃者の様子が、手に取るように分かるようだ。 客間のドアを開ける。 「レミィ!」 「あらパチェ、珍しいわね。こんな時間に何の用なのかしら?」 「パチュリー様、御用があるなら呼んでくださればいいですのに」 「あー、パチュリーだ。珍しいわね」 「よう。呼ばれてないけどお邪魔してるぜ」 四者四様に声が掛けられる。 安楽椅子に腰掛けた、夜の王の娘にして紅魔館の主、レミリア・スカーレット。 その脇に控えるのは、従者にして紅魔館のメイド長、十六夜咲夜。 レミリアの妹で最狂の悪魔、フランドール・スカーレット。 さらには黒い衣装の魔法少女、霧雨魔理沙である。 レミリアと咲夜が見下ろし、広い客間の左右にフランドールと魔理沙が対峙している。フランドールは真紅に輝く炎の剣を構えているし、魔理沙は七色の魔法球を浮かべてスペルカードを握っている。パチュリーの状況把握は的確だった。 「レミィ、夜中に王様ゲームなんてはしたないじゃない」 「どちらかといえば女王様ゲームというところかしらね」 「どっちでも一緒よ」 「ほら、まだまだ雪が深くて寒くて、みんな外に出られないじゃない? それに最近ではフランも飽き飽きして不健全かつ不道徳かつ不必要な遊びを始めそうだったから、そこの懲りない魔法使いを呼び出して遊び相手になって貰おうって考えたの。ねぇフラン」 「魔理沙と遊ぶの楽しいよ、お姉様」 悪魔少女の浮かべる笑みはどこか病的だ。 「そんなことのためにわざわざ『新しくとっても貴重なアレを入手した』、なーんて嘘まで流すんだから、悪魔は怖いぜ」 魔理沙が肩を竦めると、レミリアは面白そうに肘掛けにもたれ掛かる。 「こんな真冬に律儀に引っかかってくれるあんたが好きだよ」 「もう立春もとうに過ぎたが、心にもないお言葉ありがとうよ。お陰で絶賛、生命の危機中だぜ」 幼い悪魔が壊れ気味にけたけた笑っている。 レミリアやフランドールは普段通りの思考パターンだったし、相も変わらぬ言葉の遣り取りだったが、それが何故か、尚一層パチュリーの心を掻き乱した。冷静になろうと心掛けてはいるつもりなのだが、どうしても声がうわずってしまう。 「咲夜、貴方はメイド長なんだからこういう遊びを止めなくてどうするのよ。館もこんなになってしまうし」 「まぁ、よそ様に被害を出さなければいいかなとも思うんですよ、パチュリー様。屋敷なら私が頑張ればそれなりに直りますし。それに……私が言ったところでどうにもならないのはお分かりでしょう?」 「それにしてもパチェ、今日はやけに絡むのね? 普段は弾幕ごっこなんて興味も示さないくせに」 退屈を持てあました吸血鬼少女の興味は、パチュリー自身に移りつつあるようだった。 「……そこの白黒がマスタースパークなんて使うから、図書館が滅茶苦茶になって、それで、本が」 言葉に詰まる。 自分の大切な本のことは、なんとなく言いたくなかった。知られたくなかった。 レミリアの瞳が危険に輝いた――が、無言で微笑むのみ。 一方、当事者であるところの霧雨魔理沙はぽりぽりと頭をかく。 「ああー? まぁ、すまねぇな。フランドール相手じゃ手加減出来なくてさ。特大のをお見舞いしてやったぜ」 「外れてるけどね」と咲夜が言えば、 「あんなのが本気なの? 魔理沙弱すぎるよ」とフランドールも不満げだ。 「うるさい。大体さ、直撃もさせない相手から文句言われたのは初めてだぜ、まったく」 「じゃ、今度は直撃させてみせなよ」 「よしフラン、そこを動くなよ!」 パチュリーは、震える声でもう一度、我慢しながら魔理沙に告げる。 「霧雨、魔理沙、本が、ダメに、なったん、だけど」 「だからすまんっていってるだろ。それに、あれだけ本があるんだから、何冊か読めなくなったって大丈夫じゃないのか? 修理ならそれなりに手伝ってやるから、今は私の心配をしてくれよ」 魔法使いとしてあるまじき言葉を平然と吐く魔理沙。 なにかが断線した、気がした。 「パチェ?」 「……だから必要なのよ、ばちーんと捕まえる奴が……ばちーんと!」 脳裡に灼熱が渦巻く。 昔、本を開くと破れたページがはらりと落ちた時、感じた感情に似ている。 霧雨魔理沙に、そしてどこまでいっても他人事な人々に対して、錯覚でなく煮えたぎる感情が、確かにある。 抑えが効かない。正常な思考を焦がしていく怒り。 そのイメージに追従して、パチュリーの口から呟くような太古の呪文が、 パチュリーの両手から陽炎が立ち上り始める。 AAU-OPF-TNI-YUR-CIT-RCI-TRC-EME-FTA-TDE-EIG-TFP-GTF-PON-ZSE-EUS-DS…… 「なっ」 その場にいた者たちが、そして扉の向こうで様子を窺っていたメイド達が凍り付く。 レミリアでさえ、久しぶりに耳にする魔女の言霊に唾を飲み込んだ。 幻想郷の決闘には、スペルカードルールという約定がある。各々が一定の力を封印したカードを持ち、人間が妖怪に勝てる可能性を、妖怪が人間に勝っても良い権利を保障する、現在の幻想郷の秩序の象徴である。結果的に便利であり、見栄えもするので、普通に人間と妖怪が戦う場合だけでなく、妖怪同士の戦いに於いてもこのルールが守られている。 だが現在のパチュリーには、約定を守る理性がエベレスト頂上の酸素の如く希薄だった。 かけがえのないただ一冊の本、色褪せた一つの過去の為に、大昔に枯れ果てた激情が吹き上げ、何十年も使っていない魔法を一字一句間違えずに記憶から召喚する。 呪文を唱える毎に、パチュリー・ノーレッジの精神は純化していく。 やがて、 その結実が、両の掌から一瞬の太陽となって、その場のみを真夏の正午とした。 魔理沙が叫ぶ、 「待てパチュリー、話せば分かる」 「あー……それ言った人は歴史的に、必ず死ぬのよね」 諦念を含んだ咲夜の言葉は、紅蓮の魔炎によって掻き消える。 パチュリーが両手を思い切り合わせたからだ。 それこそ、ばちーんと。 刹那、 白日の閃光が真紅の花を咲かせ―― 結果、赤き悪魔の館は、一夜のうちに都合三分の二が炭化してしまった。 パチュリーのスペルカードであるロイヤルフレアの上級魔法が炸裂したのである。館が吹き飛ばなかっただけマシとしなければならない。 しばらくは赤と漆黒の斑の館として呼び習わされてもおかしくはない惨状だったが、雪深い季節なので目撃者が増えそうにないのが救いだった。 「……お嬢様、さすがにこれは予定外ですよ。私の仕事が増えすぎです」 「最近同じ仕事ばかりで飽きてたっていってたじゃないの」 「道具も使わずにこの魔法力……相変わらず凄いな。と、フランドール、まだやるか」 「それよりも、パチュリーが穴開けたから外で遊ぶー、って……いきなりまた雨だ……」 「そりゃ残念だったな」 「ああもう、再構築するの面倒くさいから、いっそのことリフォームでもしようかしらね」 「さささささ咲夜さん、いまの轟音は何事ですかっ!」 「面倒だから出てこなくて良いわよ。あんた関係ないし、出番ないし。いっそ移転して門だけ残すのはどうかしら」 「そんなぁ」 「それにしても、」 煙と煤まみれになったレミリアは、椅子に深々と腰掛けながらつまらなそうに口を尖らせていた。 「……どうしてあんなに怒っていたのか……教えてくれなさそうなのが残念ね。なんだか運命が見えにくいわ」 ★ 綿毛のような雪が時折、風にさらわれていく。 吹く冷気に凶暴さはないものの、発散してしまった怒りを収斂させるほどには凛冽としていた。 「…………………」 あまり夜目の利かないパチュリーは、雪を被った魔法の森の上空で、曇天の夜空をやぶにらみしている。全身が脱力していた。久しぶりにスペルカード無しで強力な魔法を放出してしまったからだろうか。肉体以上に精神の疲労を感じる。 とはいえ、あんな風に飛び出してきた手前、すぐに戻る訳にもいかない。こんなに感情が高ぶるのだと自分自身に驚きはしているが、それを素直に認められない羞恥心も又、自覚せねばならないようだった。 だが……どこへいこう? パチュリーが紅魔館を留守にするのは一年を通じても片手で数えられる程あるかないか。 しかも、どうしても必要に迫られた時以外だけ。 そんな魔女にとって、往く当てなどある訳もない。 知識としては、たとえば……なにかと無駄な理由をつけて本を読みに来るアリス・マーガトロイドの家の場所は知っている。今回の諸悪の根元である霧雨魔理沙の店もそうだ。だが、それが自分に関わり合いのあるものとして認識されない。 友人という概念は知っていても、辞典の中の一行と大差はない。 選択肢として浮かび上がらない。 パチュリーの知識はそういう意味で、フリーズドライされた物がほとんどだった。 これならば灼熱の魔法を行使した後、図書館に強力な結界を張って人払いをした方が良かった。 が、もう手遅れである。 呼気が白く濁る。体を温めようと無意識に口で息をすると、喉が一瞬灼けたように痛くなってしまう。喘息の肺は、自分が必要とするだけの呼吸を拒否して、また小さく咳き込んでしまう。肌身離さず持っていた魔道書すら今はなく、無為な両手がかじかんでいる。普段は全く意識しない死という概念すら、使われない脳裡の書庫の奥深くから、頼みもしないのに浮かび上がってくる。身体能力を増強する魔法は一向に思い出せないのに。 果たしてそんなものはあったろうか? なかったろうか? 地上に降りて風雪を避ける事すら思い至らないパチュリーは、掌を擦り合わせ息を吹きかけ、目を細めて、じっと夜空を眺めている。 ふと、今まであまり思い至らなかった可能性が浮かんだ。 急速に冷える躰は動く事を拒否するが、無意識的に肉体の方が防衛本能を働かせたかのように、 ――行った事のある場所。雪の避けられそうな場所。あまり干渉されなさそうな場所。 パチュリーは、風に舞う枯葉のように頼りなく飛び始めた。 どうしてすぐに選択しなかったのだろう? 有益なことをほとんどなにも考えられない自分がなんだか不思議だった。 「あれ、珍しいわね本の虫。こんな時間にこんな場所でこんな奴が。まるで火事で焼け出されたみたいじゃない」 たいして間違っていないのが、なんだか悔しかった。 雪をまぶしたパチュリーの姿を見て、洋燈を持った博麗霊夢が呆れるような声を出した。褞袍を纏い、いかにも寒そうに膝同士をすり当てている。 「冬季は基本的に営業してないんだけど。悪さするバカな妖怪もほとんどいないし」 「どうでもいい事件の無理矢理な解決を頼みに来たんじゃないわ」 と喋ったつもりだったが、かじかんだパチュリーの唇から発せられる掠れた声は夜風に紛れ、霊夢にはまともに届かなかった。肩をすくめた霊夢は、パチュリーを招き入れる。 客間で火を熾すと不経済だからと、寝室に通された。 ぎくしゃくと動くパチュリーは、火鉢の前に座らせられる。消炭の状態を見る限り、火はそれなりに維持されていた感じだった。 翳した手が普通に動かせるようになる頃、霊夢が鉄瓶から白湯を注いでくれる。 最低限の接待。それでも躰がゆっくりと暖まるに連れて、パチュリーは自分の思考が完全に停止状態だったことを、ようやく客観的に自覚した。 霊夢はパチュリーに上布団を渡すと、客人に遠慮せずにさっさと布団に入り直した。顔だけ出して肘を枕にこちらを見る。 「どうも変な予感がして寝付けなかったんだけど、まさかあんただったとはね。私が寝入ってたら、明日の朝には鳥居の前に魔女入りの雪像が出来てたわね。迷惑な話だわ」 「………………」 「でも、その分じゃわざわざ起きていても理由を聞かせてくれないみたいね」 「………………」 パチュリーは霊夢と滅多に会う事もないし、会っても特段話をするわけでもない。博麗神社を訪れたのも、やれ花見だの何だのと誰かに連れてこられて以来の気がする。勿論、その関わりの薄さを理由に博麗神社を訪れたつもり、だったのだけれど。 世話になっている以上、経緯は説明すべきなんだろうけど……しにくい。そんなに難しい事じゃない。悪いのは魔理沙やレミリア達の方だし。喋りたくないわけじゃない。でも、できないのだ。 なんだろう、この感覚は。 パチュリーが黙ったまま火鉢を見つめているので、霊夢は小さく肩をすくめた。 「……じゃ、私寝るわよ。炭は適当に転がさないと消えるからね。でも寝る時は消しておくのよ、向こうの蝋燭も」 霊夢はそういい捨てて布団を被り、言葉通り、あっけなく寝息を立て始めた。 からっとした突き放し方に少し驚かないでもない。ただ、それを咎めるのもおかしな話だ。 パチュリーはゆるゆると火箸を握ると、火鉢の中の炭をつつく。小さく舞い上がる火の粉が、魔女のがらんどうな瞳に踊る。 翌日。 眠ったのがそうでないのか。時間感覚が希薄だ。 気付くといつもの衣装に着替えた霊夢が、障子を開け放っていた。沙庭に積もった雪が眩しい。 「おはよう。ご飯食べる?」 ぼんやりとしたまま小さく頷くと、霊夢は頷いて、寝室の隅の燭台を取り上げた。自分ではきちんと火の始末をしたつもりだったが、蝋燭はほとんど溶けてしまっていた。 それでも、促されるままそれなりに身支度をする。 客間に通されると、卓袱台に食事が準備してある。御飯に味噌汁に漬け物。紅魔館ではあまりお目に掛からない、純和風の食事。 霊夢も自分の分の前に座り、笑顔で合掌する。 「いただきまーす」 「………………」 「一応食事の前の挨拶はして欲しいんだけどね」 慣れないフレーズに、躊躇いつつもつぶやく。 「……い、いただき、ます」 「うん」 おみおつけを口にする。薄味が喉の奥を通り過ぎていく。お茶とは違う暖かさ。 こうやって朝にきちんと食事をするのも久しぶりな気がする。図書館に引きこもっていれば、咲夜か、あるいは使い走りにしている悪魔が食事を届けてくれるからだ。時間もまちまちになる。大体、こんな時間に起きる事自体、滅多にないのだから。 はっきり言って食欲はなかった。ただ、箸でほんのわずかに食べ物を掴んでは、口の中で義務的に咀嚼する。かなり長い時間そうしている気がするが、供されたものは一向に減らなかった。 霊夢のペースものんびりだったが、それでもパチュリーが半分も食べないうちに食べ終わり、美味しそうにお茶を飲んでいる。 「ねぇあんた、これからどうするの」 「……さぁ」 「その様子だと、すぐにあの黴くさい図書館に帰るっていう訳じゃなさそうね」 「………………」 ついとそっぽを向いた。つもりだったが、パチュリーの視線には、図書館の侵入者を追い返す傲然としたいつもの力はない。彼女自身、これからどうするか決めかねていた。少し恥ずかしいのを我慢すればいいだけだ。紅魔館の連中に対しての怒りも昨日ほどではない、のだが。 すると、霊夢は思いついたようにパチュリーの顔を見た。 「ここにいてもつまんないだろうし、またぞろ妙な連中も来るから……あんたが居心地の良さそうな場所を紹介出来ると思うけど、一緒に行く? 悪いことにはならないと思うのよね。私も向こうにちょっと用事があるから、都合がいいし」 ここにはいずれ魔理沙も来るだろうし、紅魔館からも近い。 なにより自分で思いつく場所はなかった。いかに単独で越冬する技術を知っていても、パチュリーには自分で実行する技術がない。魔法は万能の力ではなく決められたルールであり、ルールとは案外窮屈なものだ。その窮屈さが安定を保証もするのだけれど。 パチュリーは消極的に頷いた。 「いくわ。人の好意を無駄にするのは戦略的に見て不合理なことだと……何処かの本で読んだから」 「いちいちつまんないこというわよね、相変わらず。でもまぁ、その調子ならここよりは退屈せずにいられると思うわよ。なんといっても、本が売れるぐらい沢山あるからね」 最後の決め言葉に思わず浮かべたパチュリーの表情に、霊夢はしてやったりと歯を見せて笑った。 ★ 巫女と魔女は、落ちてくるような青空の下を飛行した。 風さえ冷たくなければ、春の陽気をも連想させる白っぽい空。ただ、雪は依然として幻想郷全体を覆っているようだ。土の見える場所はほとんどない。 頭上で輝く柔らかな太陽と、その光を反射して輝く雪原とに囲まれて、パチュリーは瞼の開閉に苦労していた。なにしろ、長いこと燭台の光だけで生活していたのだから。これまた本でしか読んだことのない、バーベキューロールされる豚の気持ちなど想像してみたりする。 魔法の森の上空を飛び越え、木々が疎らになってくると、人間のつけた道が浮かび上がる。雪で覆われていてもそこが道と分かるのが人工物である所以だろうか。目を凝らすといくつかの足跡が消えずに残っていて、厳しい季節にも行き交う者たちがいることを実感させた。 村境の六地蔵を過ぎたところで、二人は地上に降り立つ。 家々が見えてくるに従って、道の雪は減っている。繰り返し雪掻きされているところは濡れた黒土が見えていた。軒先で積まれた雪が泥混じりになっている。 「さて、ここから先は歩いていくわよ。いきなり飛んでいくとみんな驚いちゃうわ」 「別にいいんじゃない? 驚いてもこちらには関係ないわ」 「ま、本当は私が歩きたいんだけどね」 「なんでそんなに嬉しそうなのよ。なんかいいことあるの?」 「別にないわよ? 用事があるだけだし」 言葉とは裏腹に、霊夢の歩調はスキップするが如く軽やかで、歩き慣れないパチュリーは付いていくのに苦労した。不機嫌がぶり返しそうになる。 冬と春の狭間にある人里は、活気に溢れていた。 寒さの残滓を追い払うかのように、軒先には食料や雑貨品が並ぶ。 並び立つ煙突からは煙が立ち上っている。 雪を踏み踏み駆けていく子供達の息が、ほんの僅かに白く濁っていた。 「あ、霊夢だ」 「れいむぅ」 「霊夢、遊んでよ」 「みんな元気してた? 用事が終わったらなんかしようか」 霊夢は子供のみならず、人に会うたびに挨拶している。博麗神社といえば現状では妖怪があつまる場所として人々に認知されているそうで、本来の客であるところの人間の参拝者はほぼ絶えて久しいのだが……妖怪の退治屋であるところの霊夢自身はそれなりに人気があるようで、笑顔を向けられて嫌な顔をする人間はほとんどいなかった。 一方のパチュリーはといえば、かなり居心地が悪い。 普段なら複数人数に取り囲まれることなど皆無だから、人混み自体が苦手なのは当たり前。 その上、自分は明らかに人間ではない。 人間の里には時折、妖怪や魔法使いが買い物の為に訪れることもあるにはあるが、人間にとっては好ましくない来訪者であるのに変わりはない。魔道書を持っていないとはいえ、病的に白い肌や特徴的な格好をしているパチュリーの姿は注目の的だ。博麗の巫女が連れているせいか、彼らの視線に籠められた感情は複雑である。 ただ、今のパチュリーはどうにも無力で、無気力で。 きついまなざしを突き返すでもなく、彼らの目を避けてただ俯くばかりだった。 霊夢がそれを気遣ったのか、子供達を笑顔で追い払ってから指さして見せた。 「ほら、あそこよ」 里の外縁に位置する大きな日本屋敷。周囲の家々からすれば別格の大きさと歴史を感じるその門に、霊夢はすたすたと入っていく。 黒ずんでいない支柱や、端正な庭に敷き詰められた小さな丸石や、薄く雪の乗った茅葺きの屋根や、漂ってくる芳ばしい畳の匂いや。常時旧くもある新しさがパチュリーの目にとまる。 玄関を潜ると、邸の小間使いだろうか、霊夢より年少と伺える少女が指を突いてお辞儀した。 「これは博麗の巫女様、いらっしゃいませ」 「ご当主いる? ちょっと相談があるんだけど」 「はい、いらっしゃいます。お伺いして参りますので、しばらくお待ちを」 少女が奥に下がると、パチュリーは霊夢に尋ねた。 「ここ、なに?」 「知らないの? 稗田のお家よ。『幻想郷縁起』をまとめてるところ」 「ああ」 その本の話は承知していた。幻想郷の妖怪や様相を人間の視点で纏めているというもので、パチュリーも以前から読んではみたかったものの、能動的に情報を求めるには至っていない。 そもそも、人間の歴史書は往々にして正確さよりも書かれた時代の状況や政治の都合が優先されるし、解釈はおろか、後年になって中身を改悪されることもままある。だから、魔法の研究者であるパチュリーにとって、人間の歴史書に対する優先順位は低いのだった。 「まぁでも、そういう心配はあんまりしなくてもいいんじゃないかしら? なんたって千年もの間、たった一人で書いてるしね」 「……人里の真ん中に妖怪がいるの?」 「違う違う。彼女、何回も転生してるんだって。よくわかんないけど」 土着の高度な魔術師なのだろうか、とパチュリーは考えた。 ほどなく現れた稗田家の現当主は、だが、パチュリーの想像を覆すような背格好だった。 霊夢とパチュリーを見比べて、やや意外そうに笑顔を浮かべている。 「お久しぶりですね、博麗の巫女……と、そちらは紅魔館の魔女様ですか? はじめまして」 ――稗田阿求。 彼女はそう名乗った。 当主とはいっても、霊夢とさほど年齢の差があるとも思えない。あどけなさを残しつつ、その一方で大人びた表情、特に知的興味に溢れた瞳をパチュリーに向けている。 パチュリーはぎこちなく黙礼を返した。 「さぁ、立ち話も何ですから、奥へどうぞ」 「ああ、私はいいのよ。別件の用事で里に来たんだから。阿求にお願いしたいのは、この無愛想な娘のことなの」 指名された魔女が、恥ずかしさからか、ほんのり頬を赤らめる。 「なんか紅魔館で揉め事があったみたいで、しばらく帰りたくないらしいのよね。最初は神社を頼ってきたんだけど、うちって結構いろんなのが来るじゃない? 縁起の悪いのとかも」 「追い返せば良いだけなのではありませんか?」 「そうしたいのは山々なんだけどね」 「できないんでしょうね」 「できないのよねぇ。で、不躾なお願いだとは思うんだけど、しばらくパチュリーを滞在させて貰えないかしら? ここならそれなりに段取りを踏まないと訪問も出来ないしさ」 「……特に誰を避けたいか、なんとなく分かった気がします」 阿求は腕を組んでうんうんと頷いた。 「でしょう? ここは霧雨のお家も近いし、魔理沙も一人では来にくいだろうから」 「分かりました。巫女のお願いであれば断る理由もありませんし。お引き受けします。魔法使いの人となりを知るのもきっと楽しいことでしょうね」 阿求はあっさり快諾した。 話の成り行きとすれば不審がられても仕方ない筈なのだが、妙に思っているのはどうやらパチュリー当人だけのようだ。 「助かるわー。よかったわね、あんた」 初めて訪れた場所で、自分の意志とはまったく関係なく話が進んで、納得も何もしようがないのだけれど。抗議の声を挙げようとしても言葉にならず。 パチュリーは頭を垂れるばかりだ。 感情を見せようとしない魔女に、霊夢は頬をぽりぽりと掻いて対応に困ったが、 「……ま、いいか。とりあえず私はいくから。後のことはお願いするわ」 「今度はゆっくりご訪問くださいね」 「気が向いたらね」 それだけ言い残すと、霊夢は振り向いてさっさと退出した。 「……本当に忙しない人ですね。のんびりが身上とも思えないわ」 「………………」 「里に出てみればすっかり春が来てたから、浮かれていたのかもしれないけれど。頭の中が春っぽいし、あの人」 「春?」 パチュリーが怪訝な顔をしている。 今、通ってきた道の一体どこに、春を感じさせるものがあったのだろうか。 「ああ……確か、貴女は属性魔法の使い手でしたね。精霊や妖精の力を借りて魔法に変換するから、その行程で感じられる力の流れが四季に影響される。すなわち、季節の子細を目で見るのではなく、力で感じとる。そうであるならば、現状では冬の力がまだまだ世界を覆い隠していると感じてるのは普通の感覚、なのかもしれないですね。私自身は感じられないので理論上でしか分かりませんが」 魔法使いでもないらしいのに魔法使いのように喋る少女だ。 言われるままは癪だったので、口を尖らせてしまう。 「……それなりに当たっているけれど、そんな簡単なものじゃないわよ」 「では、簡単じゃないところを聴かせて欲しいですね。私は貴女と同じように、常に知識を求める者ですから。それに」 パチュリーを招き入れながら、阿求はにっこりと笑った。 「リリーホワイトが訪れてからが春、というわけでもないのですよ? 特に、この里で暮らしている者にとっては」 奥の間に歩を進める二人を、廊下で丸くなっていた黒猫が顔を上げ、見つめていた。 しばらくして。 パチュリー・ノーレッジは、博麗霊夢の思いつきが見当違いではなかったと悟った。 稗田阿求は自分とは違う意味で物事の道理を求める少女だった。人間の里では完全に異邦人な自分を、ごく普通に扱ってくれることは勿論のこと、自分の投げかけた問いにも順序よく、過不足なく答えてくれる。自分が遠慮している部分までも慮ってくれるのは、おおよそ成熟した人間の思考といえた。 「望むだけいてくださって結構ですからね。越冬用に蓄えた食料も余り気味ですし。それに、どこぞの魔法使いと違って、本を勝手に持って行くこともないでしょうしね」 彼女が編纂を続ける「幻想郷縁起」も、自由に閲覧を許された。 歴代の「御阿礼の子」――幾度も転生する稗田家の主によって各年代に書かれた「幻想郷縁起」は、長い歳月を経ても失われることなく、部屋の壁を埋めるほどになっている。附随する数多の資料や書物も合わせれば、パチュリーの図書館とは比べようがないとしても、霊夢の表現は決して大袈裟ではない。 「このような感じですので、古い妖怪の方々は『幻想郷縁起』をよくご存じで。私の代になってからも、妖怪の賢者様が記述を確認にいらっしゃいました」 「それはもしかして、あいつのこと?」 確認すると、阿求ははっきりと頷いた。 絶えず日傘を肩に掛け、比類なく強力で、だれよりも胡散臭い「狭間」の妖怪。まるで幻想郷の王のように振る舞っているが、自分に迷惑を掛けないのならそれでも構うまい。人間にとって存在自体が迷惑といえば、妖怪だれしもについて当てはまるだろうけど。ともあれ、幻想郷に於いてあの妖怪の影が見え隠れしないところは少ない。 「……そうそう。情報は少ないのですが、貴女のことも纏めてあるのですよ? 事後報告になるのですが、せっかくなので監修して頂けませんか? まだまだ完成にはほど遠いですしね」 「私のこと?」 阿求が手がけている幻想郷縁起を手にとって捲る。 パチュリー・ノーレッジの項。 それなりに似た肖像画と一緒に、自分に関する要点が箇条書きにしてある。装束や表情などはどのように知ったのだろう。天狗の新聞屋から写真でも買ったのだろうか。 「どうです?」 「『魔法使い』として一緒くたに纏められているのは、なんだか良い気分がしないわね」 「基本的に、人間の為の分類ですので。その辺りはご勘弁下さいな」 「誰が知ってもどうしようもない事例しか書いてないし」 「完璧な対策なんてどこにもありませんし、結局は自分で見る以上の情報収集はありませんから。実際の所、こうして直接話をすることによって、既に若干の修正の必要を感じているところです」 「そう?」 「こうやって延々と書き加えていくから、きちっとした完成が見えなくて困るんですけどね」 「完成なんて、あるわけないじゃない」 パチュリー・ノーレッジが知識を求めるのはごく自然のことで、それは精神というもう一つの躰を絶えず訓練するのと同義である。魔女であっても忘却の波には逆らえず、必要な時に思い出せない時だってままある。だから本を読み続けるのだ。知識を求めることそれ自体にキリがあるなんて発想は、現在のパチュリーには微塵も存在しない。 「貴女がたや妖怪のように、知識を自分の為だけに蓄積するのであれば、それもまた真実といえるのでしょう。ですが、『幻想郷縁起』は本来、妖怪に対処する方法を人間が伝承する為の鍵となるものでした。今生のように平和ボケした幻想郷では、その有用性は定かではありませんけどね」 仕事用の卓についた阿求は、溜息混じりに中途の原稿を眺めている。 「『幻想郷縁起』の有り様について見直すべき時が来ているのかもしれませんが……それでも、私はこの仕事の為にここにいるわけですし、自分の代であるべききちんとした形にしておきたいと思うのです。可能な限りはね」 そう呟く阿求の言葉には、僅かながら切迫したものがある。 魔女であるパチュリーに、その理由は解せない。 ただ、知識を求めることには人によって各々の理由があるのだと知った、 ――いや、久方ぶりに想起したのかも、しれない。ぼんやりとそう思う。 紅茶で汚れたあの本を思い出す。 あの頃自分は、どうして知識を求めようとしていたのだろう? 知識欲を、今のように自明の理として捉えていたのだろうか? そもそも理由など必要だったのだろうか? あの本の内容を完璧に諳んじてはいても、その向こうで筆を走らせる過去の自分の心については、靄掛かったようにしか思い出せないのだった。 阿求の執務部屋から程ない六畳の四阿に、パチュリーは通された。 「食事は箱膳を運ばせましょう。お望みなら一緒に摂りますか?」 しばらくは一人になりたかったので、阿求の申し出を断った。 博麗神社でに出されたものよりはよほど豪華な……であっても、どこか味気ない……食事だった。給仕や布団の支度は、稗田家の使用人がかいがいしく行ってくれて、パチュリーは非常に居心地が悪かった。 それから、遠慮無く借りてきた数十冊の本を積み上げて読み始める。本に囲まれるという程でないにしても、ここでようやく一息ついた気分になれた。 夜の帳がゆっくりと落ち、天には軒猿がその威を示し始める。 部屋の左右に点された雪洞の光は心地よく、魔女の読書を妨げない。 だが、いつもなら夜通しでも楽に読みふけるパチュリーの瞼は非常に重くなりつつあった。 一日以上自宅を離れ、慣れない部屋に逗留していること。 彼女の常識では考えられないぐらい沢山、初見の人と話したこと。 そもそも日中動き回って体力が限界だったこと。 出されたものを粗末にも出来ず、お腹一杯になるまで食べたこと。 あれやこれやと重なって、疲労はピークに達していた。 ただ、パチュリー自身はそれらをしっかり自覚していなかった。だから、こんなに瞼が重いのが不思議で仕方なかった。彼女にとってはまだまだ宵の口である。 「う……く……ぅ」 なんどもなんども手の甲で目を擦り、 襲い来る睡魔に抵抗しながらも、 結局パチュリーは開いたままの本へ崩れ落ちるようにして、意識を失った。 夢の影さえちらつかない、深い深い眠りの底へ。 ★ 人間の里でも中心を成すような名家だけあって、稗田家の生活は規則正しい。 起床の時間も、食事の時間も厳格に守られ、朝のうちには使用人が総出で隅々まで清掃を行う。 客人待遇されているとはいえ、パチュリーの滞在する離れも例外ではない。 名残惜しい布団はそれこそ魔法のようにさっさと折りたたまれていった。部屋を追い出されたパチュリーは仕方なく、眠い目を擦りながら中庭に面した廊下にちょこんと腰掛け、眩しい朝日の下で本を捲っていた。もともとアクティブな方ではなかったが、それこそ借りてきた猫のように大人しくなってしまっている、 どうやらここは自分には向かない家らしい。彼女は今更ながら痛感していた。 と、母屋の方から阿求が渡り廊下をこちらに歩み来るのが見えた。 「おはようございます。夕べはよく眠れましたか?」 「眠れすぎて眠たいわ。目の下に隈が浮かんでる気がするの」 「昨日よりよほど元気な顔に見えますよ」 そういって、阿求は屈託なく笑った。 パチュリーはふと思う。 この少女、口調や立ち振る舞いを取り払ったら、あの楽天的な巫女によく似ているのではないだろうか、と。人間やそれ以外を分け隔て無く扱う阿求には、巫女と同じように他者を引きつける何かがある気がするのだが。 「ん。どうかしましたか?」 「相似形というのは数学に依存しないということかしら」 「はぁ。……って、なぁに」 阿求の足元には彼女を追ってきたのか、丸々と肥えた三毛猫がやってきて、彼女の足にしっぽを絡ませている。阿求はしゃがみ込んで、猫の喉を人差し指でくすぐっていた。 パチュリーはそんな阿求から視線を外し、普通に喋るつもりで声を掛ける。 「あ、……その、ありがとう。食事から何から。助かったわ」 「いえいえ。お気になさらず」 「でも、ここの人間はちょっと真面目に働き過ぎね。うちにいる人間なんて、いつ働いているか分からないんだから。侵入者は多いし」 「時を止めてる間に仕事をしてるらしいって聞きましたけど?」 「眉唾ね。誰も見てないんだから……でも、働きすぎるのもどうかと思うわ。まるで働く為に生きてるみたいじゃない」 「ふふふ……でも、人間はそれが普通なんですよ」 「そうだったかしらね」 パチュリーは庭の獅子脅しを見ている。雪の為に水が止まっているのか、今は動いていない。 ああ、もう、思ったことがいえない。 魔道書のない手持ち無沙汰な両手が、ふっくらとしたワンピースの裾をぎゅっと握りしめる。 「それで、あの」 「なんですか?」 「その」 「はい」 「つまり」 自然と頬が赤くなる。自分が情けない。一昨日感情を暴走させてカタストロフを起こしたのを悔いていながら、今も又、冷静に対処できない。頼りない心が嫌になる。 それでも、思い切って、 「その、……こういう時に、何もしないのも、その、悪いから……もしよかったら、なにか手伝った方が、いいのかしら、って」 「ええ? パチュリーさんがですか?」 意を決し、早口に言葉を吐き出したパチュリーを見上げて、若き当主は目を丸くした。 パチュリーは黙って、ぷいと彼方を見上げている。 何かを必死に我慢しているかのように。 阿求は何がおかしいのか、ちょっと吹き出してから、 「いやいや、そんな、お客様なんですから。お気遣いされなくてもいいんですよ」 「私の方が、気を遣っちゃうの。知らない場所に泊めてもらって、自由にさせて貰って、しかも何から何までやってもらうなんて」 「お屋敷の方では、そういう生活をされてるんじゃないんですか」 「そうだけど……そうだけど、ちょっと。やっぱり。なにか」 「私としては、魔法や紅魔館や妖怪たちのお話をして貰えるだけで十分なんですけどねぇ」 「………………」 阿求の言うとおりだった。 何をこんなに戸惑っているのだろうか。まったく、狂っているとしか言い様がない。 満月の夜でもないのに。 とてもではないが、レミィや咲夜には見せられない。 心の片隅で、冷静なままのいつものパチュリーが盛大に呆れている。 なのに実情はこの有様。いまも顔から火が出る思いだった。 阿求は大欠伸をする猫を抱き上げ、小首を傾げる。 「でも正直なところ、家事とかが得意そうには見せませんし……彼女たちと一緒の仕事は向かないと思うんですよね。幸いにして狙われるような物騒な時代ではありませんので、魔法で用心棒というのも不必要ですし……ううむ」 しばし考えた阿求は、パチュリーの視線の先を追うようにして、 「あ……じゃぁ、一つお願いしましょうか」 「あるの?」 「掃除洗濯よりはずっと、貴女に向いた仕事です。ささ、こちらへ」 阿求はパチュリーを招くと、昨日と同じ執務部屋に向かった。 縁側で猫を放つと、書院造りの部屋の隅に置いてあった一冊の小冊子を拾い上げ、パチュリーに渡す。彼女はパラパラと捲ってはみたが、今だ文字が一文字も記載されない、無地の本だった。 「……?」 「それを文字で埋めて貰えませんか。本を書くのは苦手ではないでしょう?」 「魔法について書けばいいの?」 「いいえ。少し出歩いて貰って、幻想郷に訪れつつある春について書いて欲しいのです」 「春について?」 疑問の表情を浮かべたパチュリーと、静かに笑っている阿求。 「現段階の『幻想郷縁起』では、妖怪や有名人の紹介に重点を置いて、幻想郷全体については要点を概説したものに留まっていますが、これからはそちら方面にも筆を走らせてみようかと思いまして。それで、もしよかったらパチュリーさんにもお手伝い頂けないかと、思いついたんですよ。折角のご縁ですし、パチュリーさんから申し出ていただいたことでもありますし」 「でも、そういうことなら自分で見に行けばいいんじゃないの?」 「巫女や貴女のように自由に空を飛べたりできるなら、勿論そうするんですけどね。私はちょっと記憶力がいいだけの人間ですから――それに」 阿求の声が、ほんの少しだけ弱まった気がした。気のせいだろうか? 「こう見えてあまり躰が強くないんですよ、私。遠出は避けた方が良いんです」 「私だって喘息持ちなんだけど」 「それ本当だったんですね。自分で書いておいてなんですが、正直言って半信半疑だったんです」 「むう」 「でもまぁ、それならいっそ太陽の下で体を動かして、体力をつける方向で考えましょうよ」 「自分にも当てはまることは言わない方が良いわよ」 すねてみせても、実際パチュリーに断る理由はなかった。 「……私の主観になるけど、いいのよね」 「それこそが望みです。稗田の歴史は主観的に守られてきましたが、これからは多人数での客観的な視点が必要かもしれませんよね」 「変わってるわね」 「そうですか? 他人の著作物を読みたい欲望は、貴女も重々ご存じだと思いますが」 「……じゃあ、これが全部埋まったら返すわ。それまでは見せなくていい?」 「構いませんよ。ご存分にお願いします」 ――阿求の手に渡るまでは、これは自分の本か。 そう考えて、パチュリーはここしばらく欠けていた充実感が漲ってくるのを実感する。 いつも携帯する魔道書よりも小さくて薄くて頼りないが、それでも本を腕で抱えると、頼りなさが多少薄れた気がした。 阿求が苦笑して釘を差した。 「あ、でも、魔道書にはしないでくださいね。貴女以外に読めなくなっちゃいますから」 「いってらっしゃいませ」 家人でもないのに丁寧に見送られて、面はゆい気持で稗田の門を潜った。 「……春」 阿求にああはいったものの、まだまだ雪深い幻想郷だ。 どこにいけば春が見つかるというのだろうか。 いや……何百年という幻想郷の歴史を知る稗田阿求が、単純な春の様相など周知の事実であるにちがいない。結局、彼女が読みたいのは一体何なのだろう。 「あ」 稗田家の塀沿いの道で、鞠をついて遊んでいた小さな女の子と、視線が合ってしまう。 「お、おはようございます」 女の子がぺこりとお辞儀をした。稗田家から出てきたので、大人に言われているように目上の者として接しようとしたのかもしれない。だが、初対面の人間に対する接し方に慣れないパチュリーは、返事をすることが出来なかった。 女の子は一瞬怪訝な顔をし、自分がなにか判断を誤ったと勘違いしたのか、泣き出しそうな表情で鞠を抱えると路地裏の方へ駆け込んでいった。 呼び止めようとするが、もう遅い。 「………………あぅ」 出鼻をくじかれる思いだった。 で。 とにかくこの日は、最初の躓きが響いた。 里の人間を観察しようという意志も少しはあったのだが、この一件で早速やる気を無くし、早々と自由飛行を始め、里の周縁をひらひらと飛び回った。が、そんな大雑把な方法で細かい何かが見つかる筈もなく、確たる収穫もないままにパチュリーは項垂れて稗田家に戻る羽目になった。 夜。阿求が所持していたものの使う事にないまま仕舞われていた大鷹の羽根ペンを借用し、阿求が読む前提を考慮して平易な日本語で書くと決めて。しばらくの間は筆を滑らせるでもなく、ただぼんやりと鴨居の上の障子欄間を見つめていた。長々と。 結局この日書いたのは、門の先で知らない少女に朝の挨拶をされたことと、どこもかしこも雪に覆われていて変哲がなかったという二行だけ。 これでは単に日記ではないか―― 再び自己嫌悪に囚われそうになったパチュリーは作業を早々に諦め、日が変わるまで読書に逃避していた。 ★ 「そうそう、渡すのを忘れていましたが、便利なので持って行ってください」 出掛ける前に阿求から手渡されたのは、幻想郷外から流れ着いたというペンだった。芯を覆う先端と末端が黒いところを除けば透明で、中に染料が充填されているのが一目で分かる。場所を問わずに書ける上、速乾性で文字もはっきり見えるらしい。 「充填する方法が分からないので、鉛筆と同じように使い終わったらそれっきりなのですが」 「使っていいの? 貴重なもの……ではなさそうだけど」 「どうみたって利便性第一で作られたものですよね、これ。私は出先で文字を書いたりしませんしからいいですよ。それに、香霖堂なんかにお邪魔すれば、似たのが沢山あるっていう話ですから、大丈夫ですよ」 ポケットの中を汚してはまずいのでしっかりとキャップをつけた上で仕舞い込み、昨日の女の子に出くわさないように門の左右を窺ってから――そして再び自己嫌悪に襲われながら――パチュリーは里を後にした。 今日はちょっと足を伸ばして、冬であってもこんもりと緑が茂る場所へと赴く。 幻想郷の住人からは、迷いの竹林と呼ばれている付近。 かつては人間が迷い込めば帰れない異境として有名だったが、以前に巫女が解決した事件によって竹藪の奥深くにある日本屋敷の存在が明らかになり、その神秘性は若干ながら薄れている。そこに隠れ住んでいた住人達もまた、平凡な人妖としての活動を始めているようだ。その中には有能な薬屋もいて、里に薬を売りに来ることもあるらしいのだが、パチュリーはいまだに会ったことがないし、特段会いたいとも思わなかった。 竹林は生育の早さでどんなに枯れようがその姿を変えない。春だからといって目立つような出来事が起こるわけでもなかった。一昨年は幻想郷全体が開花の異変に包まれた影響で、竹の花も見事に咲き誇ったらしいが、今はその姿を想像すらできない。 パチュリーが興味を持ったのは、竹林から落葉樹の混合林に切り替わる間の植生だった。 往々にしてそういう場所には、季節を先取りする植物の集落が出来上がる。 彼女は周辺を丹念に歩きまわり、濡れた泥の露出した地面を観察していく。 時折、竹藪の方から雪の落ちる音がする。 笹の上の雪が溶けて落下している。呼応するように、野鳥の声が響く。 耳を澄ませば地下水脈の囁きすら聞こえるかもしれない。 ただパチュリーはそれらに気付くことなく、念入りに地面を睨む。 研究に生きる者にとって、実作業中の集中力は最大の武器なのだから。 「……あ、これ」 しゃがみ込んだパチュリーが見つけたもの。 枯葉の下から芽生えたばかりの赤い野草。葉っぱを広げる前、まだ葉緑素が行き届いていない真っ赤な芽を手で広げてみる。成長途上の葉の形が、どこかヤマトリカブトを想像させるこれは、白く可憐な花を二つ咲かせる、 「……なんだったろう……」 喉まで出かかっているのに名前が浮かんでこない。 無意識に右手をまっすぐ伸ばして、掌を二、三度握ってみる。 違和感。 いつもならば、自分の必要な知識の載った本が向こうからやってきてくれるはずだった。 ただし、ここが自分の図書館であるならば。 「………………」 本が来ないことへか、あるいは自分の迂闊さへか、パチュリーは頬を真っ赤にして膨れてしまう。 結局、どうしても名前が出てこなかったので、精緻にスケッチした上で所見を書き込み、阿求の屋敷で調べることにした。 文章を纏めていると一時の感情は遠ざかり、思念が収束していく。 かじかむ指先の寒ささえ感じなくなっていくのだった。 件の植物はニリンソウだった。 二輪の花の姿まで思い出していて、名前が出てこなかったのには呆れたが。 ともあれ、パチュリーは自室の扉がきっちりと閉まっているのを確認して、さらに障子に穴が開いていないかを丁寧に調べてから、こみ上げる嬉しさを秘やかな笑みで表現した。調べ物の為に貸して貰った百科事典の出来にも満足で、作業を進める毎に喜びは数倍に膨れあがっていく。 次の日も調子は良く、里山の方を中心に動き回っていくつかの春の欠片を発見した。 パチュリー自身は気付かなかったが、徹夜明けで太陽が黄色く見えたりするような症状は当然治まっていた。規則正しい生活は、彼女の躰にも少しずつ影響を及ぼしていく。 それが、パチュリーの意欲をも後押しする。 文章で白いページを埋めるのは楽しかったし、単なるノートが時間を追って本になっていくのは嬉しかった。ぎっしり書き込まれた部分を無意味に繰り返し捲っては、にんまりとしてしまう。 夜になっても、食事を食べながら本を読み、御飯粒を頬につけたまま筆を走らせた。 ところが、 ――深夜。 少し寒くなったと思い、布団に入って本を読み始めたのだが。 発作的に咳が止まらなくなってしまった。 胸と背中が痛くなって、横になるのも辛くなってきた。 ハンカチで口を押さえるが効果はなく、のたうち回るように何度も姿勢を変える。 最近は喘息の調子も良かったのだが……環境が変わったことによるストレスによるものか、野外を動き回ったせいなのか。パチュリー自身も意外なほどに苦しい。 ゼイゼイと息を吐きつつ、暗い天井を見上げる。 こういう時、一人で勝手の違う場所にいるのは心許ない。 心細さに囚われる。 紅魔館の連中は別に親族でもなく、運命がそれなりに絡み合った結果、一緒の場所にいるだけの筈だ。実際、今と同じように喘息で苦しんでも、自分の面倒は自分で見なければならない。咲夜がいちいち薬を届けてくれる訳でもない。生まれた時から喘息を抱えるパチュリーにとって、病症もまた自身の一部分ではある。 それでも、やはり一人は辛い。 紅魔館にいる時に喘息が比較的楽になっていたのは、心理的要因もあったのだろうか。 パチュリーは知識が感情に勝ると思っているから、それを認めない。 でも今は、理屈でない孤独感を感じている。 精神というのはままならないな、と思いつつ、繰り返す咳に身構える。 夜は長い。 「パチュリーさん? 開けますよ」 障子の向こうがぼんやりと明るくなり、人の影を映し出す。 答えようとしてまた咳が出る。喉から血が出ていないだろうか。灼けるようだ。 障子戸を開けたのは夜着を纏った阿求だった。燭台を提げて心配そうに入ってくる。 「なんだか酷い咳をしていらっしゃるらしいので」 「……いつものことだから、平気よ」 「平気そうには見えませんよ。その声も」 パチュリーがやっとの思いで半身を起こすと、阿求は気遣いながらその背中をゆっくりさすった。 小さな手の優しい温かさに、パチュリーは思わず身震いしてしまう。 鼻の奥がつーんとする。 なんだろう、この感覚は。 「咳に効くお茶があるんですよ。ささ」 阿求の後に控えていた小間使いの女性が、丸盆を静かに置いた。阿求は急須を握ると、自分とパチュリーの湯呑みにお茶を注いでいく。 芳醇な、甘い香りが広がっていく。 パチュリーは渡されたそれを音もなく口に含む。灼けるようだった喉に熱いお茶が通ると、むせてまた少し咳き込んだ。 「ゆっくりでいいんですよ……美味しいでしょう?」 小さく頷く。 「甜茶といいます。病気を治すものではありませんが、咳止めにもなりますから」 頷く。知っているというつもりだったが、相手に伝わったろうか。 もう一度、ゆっくり飲んでいく。 躰が内側から温かくなっていく。顔も、手も。 「落ち着くまでご一緒しますよ」 別にいい、というつもりで首を横に振った、 つもりだった。 ……出来なかった。どうしてだろう。 ただ、それ以上何をしても何を答えても、なんだか大変恥ずかしいことになりそうで。 寝乱れた髪に表情を隠した魔女も、 それを見守る歴史家も、 ただ黙々とお茶を飲み続けた、 そんな夜半。 ★ 翌朝から丸一日、大事を取って稗田家にいた。 疲労回復にと貴重な薬湯まで提供してくれた阿求に恩返しをするでもないが、その日は作業をする阿求の隣に座って、膝の上に猫を載せたまま話し相手になった。 衣服を洗濯にまわされてしまったので、着慣れない和服に身を包んで。 二人は語った。 紅魔館のこと。 魔法のこと。 人間たちや妖怪たちのこと。 パチュリーは饒舌ではなく、最低限度の内容をとつとつと喋るに過ぎなかったが、阿求は目を輝かせて話を聞き、メモを取っていった。 乞われて、食事も一緒に摂った。 「今年初めてのふうきみそです。山歩きをする猟師さんが採ってきてくださったんですよ」 ひたすら苦いその料理が、阿求に伝わった最初の、具体的な春だと知った。 彼女にはやはり幻想郷の春を見通す力があるらしい。 自分は彼女の期待に答える本を書けるのだろうか。 苦みを飲み込みながら、パチュリーは様々に思考を巡らせていた。 更に翌日。 体調の戻ったパチュリーは、思い切って遠出してみた。 いまだに深く冠雪したままの、幻想郷の最果て。 それ自体が博麗大結界ともなっていそうな、峻険にそびえ立つ山脈へ。 柔らかな青空の下、冬を通して降り積もった雪は世界を隙間無く埋め尽くし、白銀郷に未来永劫変化などない、という幻想を見せる。 だが、パチュリーは迷うことなく、ある一点を目指し降下していった。 山肌の中腹に突き立った、鬼の棍棒のような巨石。徐々に登っていく太陽に照らされてゆっくりと熱を集め、風除けになって積雪を防ぐ役割をも果たす、天然の大屋根。その元からは氷結を逃れた小さなせせらぎが生まれ、やがて幻想郷を抜けた下流で大河に注ぐ、旅の始まりを示している。 遠目では皆一様に見える山の風景が、まるで見事なグラデーションを描いたかのようにパチュリーには見える。冬から春への衣替えを恥じ入る少女のように、誰にも気付かれることなく、ゆっくりと、確かに移り変わっていく。 露出した地面には、小さくも力強い花が数輪、太陽を向いて開いている。 福寿草。 正月を祝う花だが、人為が入らない個体は本来、風雪に耐えて三月にようやく花を咲かせる。効率よく生育する為なのか、光や温度に敏感であり、数分間影を落とすとすぐに花がしぼんでくる。生命力に溢れ、本格的に咲き始めると群落は無数の黄色で埋め尽くされる。 パチュリーは影を落とさないようにしゃがみ込み、スケッチを取り始めた。学術的な写生というよりは、周囲の状況も合わせて佇まいを切り取る、優れた風景画の趣がある。 大量印刷技術のない時代、百科事典はすべてが手作業で製作されるワンアンドオンリーのもので、一揃いの完本あれば、貴金属以上に価値のある物とされた。パチュリーはかの時代を鮮やかに知る魔女だから、当時の技法を継承しているとしても不思議ではない。幻想郷には大量製本の術はなく、写真などの特殊技術は河童や天狗などの一部の妖怪が独占している。彼女が発揮する能力がいかに優れているかは想像に難くない。 ただ問題は、その大半を自分の為にしか使わないことであり。 今の時間、パチュリーはほぼ唯一に等しい例外としてその業を行っている。 ……耳の奥で、ちりちりと音がする。 パチュリーが何事かに気付いた。 呼吸を止める。 絶えぬ緩やかな風の音を、可聴域から振り落とす。 何の音? 絡まった物が解ける音。 繋いだ手を次々に離しておく音。 精霊が活発に動き回っているのを感じる。 氷から解放された水の精霊が、水に濡れた土の精霊が。 でも、風景に変化はない。 変化は―― いや、ある。 山肌の輝きが違う。太陽光線を弾く屈折率が変化している。 パチュリーは頂を振り仰いだ。 音よりも光が早く届く。 目に飛び込むのは、頭上高くの雪の峰が崩落する瞬間。 まだ音は届かない。遥かに遠く、頂上の足元から崩壊が始まっている。 表層雪崩、 轟音が届く瞬間、パチュリーは浮き上がった。足元の福寿草が気になり、 胸元のポケットに仕舞い込んでいたスペルカードを引き抜く。 二枚、 それを重ね併せる、 「土&金符『エメラルドメガリス』!」 虚空に出現した巨大な巨石構造物が降り注ぐ。 其の色は南洋諸島の海岸近く。 透きとおった緑柱石が幾つも出現して、長城のように並び立って雪の波を堰き止めようとする。何千トンという圧倒的な雪の軍勢は魔法を押し返すが、パチュリーの強大な魔力が加速度的に加わり、緑の石壁は迫り上がっていく。 自然の力と魔法の力。 雪崩の轟音と精霊の咆吼。 真正面からぶつかった純粋な力同士の鬩ぎ合いは、だが、五分ほどであっけなくおわった。 パチュリーの魔法が斜面に対し効果的な角度で行使され、勢いを減衰させられたおかげで、雪崩は連鎖的に巨大になるでもなく、部分的なもので収まったのだった。 大きな息をついて、何もなかったように咲き誇る福寿草を見遣る。気紛れで咄嗟に守ってしまったことに礼を言うわけでもなく。 その素っ気なさがなんだか心地よい。 それからパチュリーは、堰き止めてしまった雪をどう処理しようか、ゆっくりと考え始めた。 次の日は暖かく、濁った春雨になった。 今年最初の雨だ。 至る所で雪が溶け出すだろう。あの福寿草のことも気になったが、外出できないとあっては仕方がない。本の纏めもペースが上がってきて良い調子だったので、文字通り水を差された気分だった。 パチュリーは雨音を音楽に、日がな一日、本を読んでいる。 仮の宿たる四阿は、阿求の書庫から借りてきた本でミニチュアの図書館を形成しつつあり、読書の格好も図書館でのそれに似通ってきた。勝手知ったる人の家、とはこのことだろうか。阿求は何も文句を言わなかった。 その一方で、パチュリーは小間使い達に倣って掃除なども始めていた。 箒で畳の上の埃を縁側に追い出すだけの簡単なものだが。それでも、紅魔館に潜む「魔女パチュリー・ノーレッジ」を多少なりと知っている者からすれば、考えられないことだろう。小間使いたちは客人の行為に多少狼狽したが、若き当主はもう止めることもなく、面白そうにパチュリーを眺めているのだった。 ……読書を続けてしばらくの時間。 雨音に混じって、獅子脅しの澄んだ音が響く。 雪が溶けたお陰で動き始めたのだ。 パチュリーはページを捲る手を止めて、しばしその音に耳を傾けていた。 次の日は更に暖かくなり、雨も止んだ。 降り注いだ春の雫の影響を見ようと、パチュリーは広大な盆地に向かう。 杉林の中でも特に大きな巨木のてっぺんに立って、幻草原と称される開けた原野を見遥かすと、案の定、雪が斑に溶けていた。春になればここは、沢山の種類の野花が百花繚乱として溢れる場所だ。今はまだその面影もないが、伊弉冉尊と伊弉諾尊が天沼矛を突き立てる前の、混沌の海に似ているといえば、過剰に過ぎるだろうか。 観察して思いついたことを箇条書きにしていると、突然、見覚えのある鴉天狗の新聞記者に声を掛けられた。 彼女の新聞は幻想郷の辺境に住まう人間や妖怪達の偏った情報源として、最近は馴染みになっている。冬の間は投函の頻度も減っていたのだが、どうやら彼女も春の到来を待たずして活動を再開したらしい。 天狗は詳細に書き込まれたノートを覗き込み、以前取材した時は、髪が傷むから外出は嫌いだなんていっていたのに、どんな風の吹き回しですか――などと、興味津々で質問してくる。妙にひねくれた回答をするのも面倒くさかったので、稗田家の客人として仕事を請け負っているとぶっきらぼうに答えた。どうせまたなんやかんやと過剰に書かれるのだろうが、パチュリーはあまり気にならなかった。 天狗はちょっと考えるような仕草をして、なにやら面白そうな気配がしませんね、と呟いた。 それはそれで失礼な話である。 少し思案をしたパチュリーは、紅魔館の半壊について教えるかわりに、妖怪の山で春の気配を見つけていないか、多少詳しく質問することにした。 普段取材ばかりしている天狗は、自分が取材されるのに慣れていないのか、次々に繰り出されるパチュリーの質問に少々面食らっている様子だった。 もはや、春が近づいているのは明白だった。 彼女が何処を見ても、そこかしこに春を感じ取れる。 妖精の活動やや精霊の流れも又、それを明確に物語っていた。 全てを記すのに、一冊の本ではとても足りない。 でも、全部書きたい。出来るだけ再現しておきたい。 パチュリーは文字を限りなく詰めて、ぎっしりと書き込んでいく。 それでもなお、時を追う毎、題材の取捨選択を迫られるようになっていった。 ★ その日。 朝起きて阿求に挨拶しようと部屋を出た頃。 「おはようございます、パチュリーさん」 稗田の当主は次々とやってくる小間使いにあれこれと指示を出していた。 「……何かあったの?」 「ええ。昨夜、里で暮らしていた或るご老人が亡くなられたんです。お葬式の手配などはあらかじめ取り決められているのですが、稗田家としても名代を出さなければなりませんので」 「そう……」 パチュリーも、人間にとって冠婚葬祭が重要な儀式であることは知っている。魔法だって決められた順序を正しく守ってこそ構築も行使も可能なのだから。ただ、それぞれの人の生死を重く認識するには、彼女は魔女として完成されすぎており。例によって知識としてしか捉えられないので、阿求をはじめとする稗田家の人々に差した影を理解することが出来ない。 いつものように出掛けたパチュリーは、葬式のことがやや気になって、路地を歩き始めた。 人が亡くなったせいなのか、町にいつもの活気はない。 喪服を着た人々が、ゆっくりと同じ方向へ歩いていく。自分の格好が目立つ事は分かっていたが、パチュリーは気にせずに流れに乗っていた。 長屋の壁には鯨幕が張られ、失われた命へ人々を導く道を示している。 「亡くなられた爺様は米寿を越えていたらしいな」 「大往生よね。よかったじゃないの」 「それでも、息子に先立たれてるらしいから、全部が全部幸せとはいえないさ」 「妖怪に喰われる死に方だけはいやだよな……」 草原の草が触れ合うような、人々の囁きが耳に届く。 右を見ても、左を見ても、まるで影絵のような人々が蠢いている。 様々な年齢の顔、顔、顔、浮かぶ表情、表情。 それは悲しみ、 それは畏怖、 それは羨望、 それは安堵感。 人の死に関して人は何を思うのか。悲しみだけではないのか。 いつもの町に、いつもと違う人々がいる。 パチュリーは少しだけ驚く。 やがて、人々の流れが止まる。 向こうから葬列がやってくる。 親族と友人たち、僧侶、町の顔役に続き、若い衆が棺桶を担いで里の外を目指す。 葬列には、一際美しい少女が沈痛な表情で加わっていた。 確かあれは、人間に知識を授けている白沢の半獣人ではなかったか……? 故人は彼女にも関わり合いのある人物だったのだろうか。 悪霊を祓う鉦の音が響き、読経の声が木霊する。 棺桶が目の前を通ると、それぞれが手を合わせ、題目を唱える。 吐息さえ憚られる光景。 家の影で、パチュリーはその全てを眺めている。 死者を悼むでもなく、 人間を蔑むでもなく、 ただ異邦人として、 外部からその様子を見ている。 ――と。 近くで手を合わせていた参列者と視線が合う。 「あ、パチュリー様」 その少女はぺたぺたと走ってきて、パチュリーの前でぺこりとお辞儀をした。 稗田家で働く小間使いの少女だ。霊夢と訪れた時に応対してくれたのが彼女だった。その後も何度か顔を合わせている。 「亡くなられた方には個人的にお世話になったことがあったので、仕事を抜けさせて頂いたのです」 真っ黒い着物を纏った少女が、悲しげにそう説明した。 「阿求もそんな顔をしていたわ。仲の良い人だったのかしらね」 「御主人様は分け隔て無いお方ですから。それに……多分、それだけじゃないんだと思います」 「どういうこと?」 少女は少し押し黙り、やや時間をおいて、 「阿求様はお役目の為、転生を繰り返して今を生きていらっしゃいます。でも、幾度と無く命を使ってこられたせいか、躰が弱くて……多分、今生でもそう長くは生きられないとおっしゃっていました」 「――そうなの?」 パチュリーは思い出す。 阿求が時折見せる翳った瞳は、自分の命の時間を数える刻だったのか。 パチュリーと違って、自分の為の知識を蓄える時間など、阿求にありはしないのだ。 「いかに過去の記憶を持ってお生まれになろうとも、過去の御阿礼の子と同一の方でいらっしゃるとしても……阿求様は阿求様。人としてこの時間を生きることにはなにも関係ないのです」 「………………」 短い時間だけ、幻想郷の推移を確認して、記録して、また次の転生の為に夭折する。 妖精が物の形のありようとして生命の似姿を取るように、 阿求の命は氷と水と水蒸気の間を行き交う。 人間が長い長い年月を掛けて転生するのとは違う。 この葬式で弔われる人間のように、かけがえのない唯一の死として弔われることもない。 「……阿求様が、おかわいそうです」 少女は涙をこぼす。 果たしてそれは誰の為の涙なのか。 並び立つ人々のそれはどうか。 同じ涙をパチュリーは流すことはあり得るのか。 ……春が訪れようとする空は、やたら蒼くて白い。 その空に、歩み去る葬列の足音が吸い込まれていく。 溶け残った雪と泥を踏みながら。 死者は、里外れの斎場で荼毘に付された。 天界の飽和状態が続き、今は閻魔大王の沙汰によって成仏が禁じられている。死者の魂は冥界に長く留まることになるだろうが、彼はそのことを知っているだろうか。 火葬場から立ち上る白い煙は、風もない空に真っ直ぐにあがる。 道標のように。 パチュリーはそれを遠くからずっと眺めていた。 煙が消えるまで、そして、阿求の顔を普通に見られると自信がつくまで、 ずっと――、ずっと。 ★ 数日後。 「パチュリーさん、お客さんですよ」 端から見れば呼吸すらしない如くに根を詰め、机に向かっていたパチュリーだったが、阿求の声にゆっくりと顔を上げた。 「客……?」 「有能で有名な自称メイド長さんがいらっしゃってますけど」 「………………」 少しだけ眉間にしわが入るのを感じる。久々の感覚。 机の隅で冷めたお茶を少しだけ飲んで、気乗りしないながらも玄関に向かう。 襟元をきちっと止めた洋装。いつも純白のエプロン、ヘッドドレス。 短めのスカートからすらりと伸びた足が目立つ。 家の中をあれこれと覗き込んでいた十六夜咲夜は、パチュリーを見つけるなり溜息をついた。 「本当にここにいたんですね、パチュリー様」 「誰に聞いたの?」 「最終的には天狗の新聞記者ですけど。巫女ものらりくらりとして答えないし、霧雨魔理沙も言葉を濁してたから、結局の所みんな知っていたんでしょう。狭い幻想郷で、長期間滞在出来るところなんてあまりありませんし」 「………………」 幾分非難を含む口調に、パチュリーの気持がやや逆撫でられる。 自分が悪い訳じゃないのに。 でも、今、ほんの少しだけ後ろめたいのは事実だった。 「ともかく、難易度の高い隠れん坊はこれっきりにしてくださいな」 「探そうともしてなかったくせに」 「否定はしませんよ。私だって紅魔館の修理で忙しかったんですから。ほとんど終わりましたけど」 「あのまま黒ずくめにして黒魔館とでも改名すれば良かったのに。赤なんて目立つ色をしているからネズミが入り込むのよ」 「お嬢様が望まれるんだったらペンキ塗りでもなんでもしますけどね」 「モダンアートでもお似合いよ、アンディ・ウォホールとか」 「ますます過激な弾幕に狙撃されそうになるじゃないですか」 咲夜に文句を言っていると、憤激した夜のことが想起されて胸がむかむかとする。 その感覚もまた懐かしい。 嫌なはずなのに、嫌じゃない。 「でも」 咲夜は腕を組んで瞳を閉じる。 「正直な話、パチュリー様がこんなに長い時間、住処を出られるとは思ってませんでしたよ。私も、お嬢様たちも」 「………………」 あの夜の怒りはいつの間にか遠ざかった。 今は二十四時間のうちほとんどの時間を、澄み切った感情と共に暮らしている。 だから、拗ねて帰らないわけでは、ない。 「まだ、帰ってこられないんですか」 「ここで世話になってるのと引き替えに、頼まれ事をしてるから」 本当は、違う。 もっとこの春を見ていたかった。 澄み切った意志で……そう、まるで新しい本に向かう時の様に、自分は透明になって。 そんな時間がまだ続いてもいいだろうと思う。 私がレミィのように我が儘をいってもいいではないか。 開き直る。心の中だけで。 「長く掛かるんですか?」 「もうちょっと、かかるわね」 「……なんだかパチュリー様じゃないみたいですね。別の人が入れ替わっているみたい」 「弾幕で証明してもいいわよ? 最近は喘息の調子も良いから」 「やめておきますわ。買い物の途中ですし、里には里の作法がありますからね」 「人間は言う事が違うわね」 「あくまで、人間ですから」 咲夜はそういうと、提げていた買い物袋から一通の封書を取り出した。 パチュリーはそれを受け取り、中に入っていた手紙を広げる。 紙の中央に大胆に巨大に、 「ごめん」 と書かれていた。その下に、レミリア・カーレット、フランドール・スカーレット、霧雨魔理沙の署名がなされている。 胸に春風が吹き抜ける。 最後に残ったわだかまりの綿埃を吹き飛ばすような。 なんだかいい気味だと思った。 口許がにやける。 「……字が限りなく下手ね、みんな」 「お嬢様が飽きる前に帰ってきてくださいね。紅魔館が全壊したら、流石の私でも新しい就職先をみつけたくもなりますので」 「真・紅魔館でも作って、主になればいいんじゃない?」 「それも考えましたけど、私には無理そうです。アレも足りませんし」 「そうね、アレね」 「そろそろ話は終わりですか?」 背後から阿求がやってきた。咲夜の視線がちょっとだけ鋭くなる。 「立ち聞きとはご趣味が悪いですね。名家の当主ともあろうお方が」 「そう思われても結構ですよ。稗田は新しい知識に対して常に渇望を感じますから」 「阿求は仕方ないわね、本当に」 パチュリーがぶっきらぼうに阿求を擁護した。 ポーカーフェイスを崩さない咲夜の顔に、一瞬だけ驚きが浮かぶ。何しろ、あのパチュリーが人を慮る発言をするのだ。 パチュリーにとって、それはまたどこか痛快で。 思わず浮かぶ微笑みのまま、咲夜に告げた。 「レミィに伝えて。もう少しで帰るって。あと、もう怒ってはいないから、って」 「……分かりました。御当主、申し訳ありませんが、今しばらくパチュリー様をよろしくお願いします」 「お引き受けします。でも今は、この方がいる家こそ当たり前の気がしてきてるんですよね」 「駄目ですよ、パチュリー様の運命はうちのお嬢様のものなんですから」 極上の笑みを浮かべて、瀟洒で完璧な従者は稗田家を辞した。 阿求が感想を漏らす。 「なんかとっても普通の人ですね」 「悪魔の手先だけどね」 「そういえば――」 阿求が後ろ手を組んで、パチュリーの顔を覗き込む。 「先程の書状、私にも見せて貰えませんか? 後世の人間に情報を残す義務のある者として、多大な興味を惹かれるのですが」 パチュリーは手紙をさっさと懐にしまい、背を向けて四阿へ向かい始める。 「あー、見せてくださいよ、パチュリーさん」 振り返ったパチュリーの顔には、少女のように純朴な、魔女の如くしたたかな、春色の笑みが浮かんでいた。 「内緒」 ★ ★ 最近はすっかり稗田家の第二書庫と化していた、小さな四阿。 今眼前にあるここは、パチュリーが初めて通された時と同じように殺風景で、しかし整った佇まいを見せている。借りてきた本は全部返却したし、掃除も隅々まで終わって、生活臭は一掃された。パチュリー自身も片づけを主体的に行った。 いつか誰かが客人として通される時まで、ここには障子越しの光が優しく、ただ無為に降り積もるのだろう。 卓の上に目を落とすと、部屋でただ一冊の本が置かれている。 幾日にも渡って、パチュリーが書き込み続けた本。 持ち歩いて広げて折り曲げて、何度も繰り返し捲ったお陰であちこちがしわになった本。 今からパチュリーのものではなくなる本。 全てのページは文字や絵で埋め尽くされ、もはや一言だって書き加える隙間はない。 彼女の本は完成を見た。 すなわちそれは、パチュリーが阿求の家を出る日がやってきたのと同義である。 本に向かい、もう一度捲ろうとして……やめる。 手が僅かに震える。 今から、自分の描いてきた時間を彼女に見せ、彼女に譲り渡すのだ。 完成度が高いとは決して言えない、夢中になって書きつづった思考の混沌そのものを。 違うのかも知れない、 違うのかも知れないけれど、 人が避けられぬ運命の前に、または死を迎える瞬間に感じる諦念に、 これは似ているのかもしれない。 魔女が自分の本を他人に譲り渡すのは、本来有り得ない話だ。 だがこれは契約である。魔法使いは大前提として、契約を遵守する。 だからこれは過去私のものであり、未来に私が自分で取り返すべき知識。 知識の探求に限りはない。私はそうやって生きてきたし、これからも生きていくのだから。 でも、限られた時間というのは自分の中にもある。 認めないわけにはいかない。 もう半時も、パチュリーは本の表紙を眺めていた。 いつまでもそうしていられるような気がした。錯覚だとしっていても、そうしていたかった。 障子の向こうで、獅子脅しがかん高く響く。 パチュリーは、ようやく立ち上がる。 「お待ちしていましたよ」 稗田阿求は、いつものように卓に向かって書き物をしていた。 硯に筆を置き、静かに笑う。 訪問者の到来を歓迎していないのか、阿求に寄り添っていた三毛猫が庭の方へゆっくりと去る。 パチュリーは静かに腰を下ろした。 「これ」 どう渡そうか悩んだけれど、結局気の利いた言葉も出てこないまま、あっさりと本を差し出す。 阿求が本を握る。 パチュリーがそれよりも更に強く握り……それから、ゆっくりと指の力を抜いた。 阿求は、パチュリーの様子を眺めながら、愛おしそうに本の表紙を撫でる。 「ありがとうございました」 「こちらが滞在させて貰っていたのだから、それはおかしいわね」 「そうでもないと思いますけど」 阿求は急須からお茶を注いでパチュリーに渡すと、卓に向き直って最初のページを捲った。 「……今から、読むの?」 「駄目ですか」 「い、いいけど」 よくない。心の中で叫ぶ。 どんな顔をしていればいいのか。 阿求は黙って、パチュリーの書いた本を読み進めていく。 パチュリーは阿求を見つめ、視線を外し、お茶を飲み、目をうつろに彷徨わせる。 湯呑みの中のお茶がとっくになくなっても気付かず、パチュリーは湯呑みを繰り返し傾ける。 喘息の発作でもないのに、喉の奥が酷く熱い。 ページを捲るたび、心音が跳ねる。 阿求が今どこを読んでいるのか、手に取るように分かる。だって、何度も読み直して書き綴った、自分の本だから。 そこに描かれているのは、自分が見聞きして集めた自分だけの春。春告精が訪れる前の、まだ覚醒しない、生まれたばかりの春。毎日少しずつ膨らんでいく蕾に、天地水明の狭間に、人々の喜怒哀楽に浮かんでいた、様々な春の訪れ。 きちんとした整理も出来なかった、ただ、見つけた物を書き綴るのに夢中だった。 それでも、あの春は、阿求に届くだろうか。 ――届いて欲しいと、願う。 立ち上がって逃げ出したくなる。 無限とも思える長い時間を、パチュリーは姿勢も変えずに待った。 阿求の瞳と一緒に、脳裡にある自分の本の内容をずっと追い掛けるようにして。 ……やがて。 少しだけ日光の角度が変わり、畳敷きの奥にまで光が届くようになる頃。 阿求は最後のページを捲り終わり、静かに本を閉じた。 「………………ふぅ」 「あ、……あぅ」 パチュリーは阿求に、懇願するような表情を向ける。 阿求は受け止めるように、頷く。 「ご苦労様でした」 「………………」 「では、これを」 幻想郷で和綴じの本が一番似合う少女は、読み終わったばかりの本をパチュリーへ差し戻した。 「……?」 「貴女の春が詰まったこの本は、貴女にお返しします」 「どういうこと」 パチュリーの表情が困惑を極める。 だが、阿求は誤解をほどくように語る。 「私は、この本を書いて欲しいといったのであって、書いた本を下さいといったわけではないのです。パチュリーさんがここで今まで見た事物、聞いた言葉、全てが詰まったこの本は、ここで眠らせるべきではないと思うから」 「でも、それじゃ、私は」 「パチュリーさんの言葉は深く私の中に染み入りました。私は一度見た物を二度と忘れません。だから、やろうと思えば今から、貴女の本を完全に思い出して複写することも可能なのです。そんな無粋な真似はしませんけどね……でも」 「………………」 「それは、私自身が春を知ったことに、なるでしょうか?」 阿求は優しく問いかける。 「パチュリーさんにとって、普段暮らしている図書館を抜けて、ここを訪れ、ここで過ごし、幻想郷を綴ったことが春であったように……私にとっては、貴女がここにいて、私と一緒の時間を過ごして、その本を書いてくれた、そのこと全てが春の訪れだったのです。パチュリーさんの本の内容だけでなく、貴女の存在を含めて記録してこそ、私の記録が綴られるのだと――貴女も、そうは思いませんか?」 「………………」 「だから――この本は私の側ではなく、貴女の近くにずっとあって欲しい。これが私の、この、今年の春の最初の形です」 差し出された本を、魔女はようやく受け取る。 小さな胸でしっかりと抱きしめる。 歴史家は満足そうに頷き、居候だった少女の手に手を重ねた。 「貴女がここを訪れてくださった事を、巫女と――貴女自身に感謝しています」 真っ直ぐな瞳で、稗田阿求が自分を見つめている。 ああ―― 小さな魔女は唐突に悟った。 自分が見つけるべき、ページの最初の一行に描いておくべきだった春は、こんなところにあったのだ、と。 人の顔を真正面から見るのは苦手だ。 いつものように顔を逸らしたかった。 でも、いまは、なんだかそうするのが怖くて。 嬉しくて。 パチュリー・ノーレッジは心に浮かんだ檸檬色の月のような、不思議な感情を言葉にも顔にもすることが出来ず、ただほんのり頬を赤らめて。 やがて、困った様にうつむく。 なんの言葉も発せないまま。 阿求がいった。 「またいつでもお茶を飲みに来てください。私はずっとここにいます。それに……貴女でしたら幾らでも本、貸しますからね」 「……うん」 「あ、今度は貴女の本も貸してくださいね。いろいろ読んでみたいので」 「………………うん」 大勢の召使いに見送られて、玄関を抜ける。 あの少女も端に控えて微笑んでいた。また会う機会もあるだろう。 パチュリーも小さく手を振り返す。 稗田家の門を抜けると、路地にはいつぞやと同じように、鞠つきをしている少女がいた。 地面から跳ね返ってきた鞠を手で受け止めて、少女は一瞬立ち竦む。 それでも、彼女はぎこちない笑みを浮かべてお辞儀をした。 「こんにちわ」 パチュリーはうっすらと微笑み、挨拶を返した。 「……こんにちわ」 少女の顔が瞬時に咲き誇る。 もう一度ぺこりと頭を下げて、彼女は走り去っていく。 パチュリーは見送る。 少女の影が長屋の角を曲がるまで。 空を飛んで帰れば紅魔館までは一飛びなのだが、なんだかすぐ帰る気になれなくて。 人々が行き交う里の目抜き通りを辿り、そのまま村境の六地蔵を抜けて、しばらく進んだ先の小高い丘辺りで足を止める。 雪はもうほとんど残っていない。 木の陰に、畑の窪地に、土にまみれて白い物が見えるぐらいだ。 変わって、小さな花が咲き始めている。 南からくる風はもう寒さを含まず、萌えたばかりの草むらを揺らして、斜面を駆け上っては長い髪を揺らしている。 世界を見下ろせば、里の広がりとその向こうの森、遥か遠くには紅魔館へと連なる湖もうっすらとみえる。もう雪は残っていない。自分に吹き付ける風が、萌えたばかりの草むらの斜面を駆け上っては長い髪を揺らしている。 頭上には澄み切った青空。 今日は雲すら浮いていない。春風が押し流してしまったのだろうか。 パチュリーは近くの大きな石に腰を下ろした。 右手には自分が阿求に渡し、阿求が自分にくれた本がある。 稗田家を出る時に丁寧に和綴じしてくれた、萌葱色の表紙の本。 もう一度、自分の記したそれを捲っていく。文字を追い始める。 風がページを捲ろうとするのを押さえつけながら。髪が顔に掛かるのを避けながら。 一文字ずつが、ひとつひとつの光景と共に鮮やかに甦ってくる。 阿求の声と一緒に想起される。 それは――春を追った日々。 ああ、だめだ。 頭を振る。 あれもこれも表現が足りない。言葉では伝えられない。もどかしい。 自分が実際に見た物はどれも、もっとずっと輝いていた気がする。 ひどい文章だ。稚拙だ。 私は、あんなに世話になった人に、こんなものを読ませたのか。 でも、なぜか、滾々と湧いてくるこの感情は後悔ではなく充足で。 堪らなくなって青空を仰ぐ。 一層強い風が吹く。 髪が大きく広がる。帽子を飛ばさないように、手で押さえる。 本のページがぱらぱらぱらと捲られていく。 あんなに愚かしいと思った、感情の堰が再び切れる。 溢れる。 ついに涙がこぼれる。 その涙が、ぱたぱたと、自分が綴った春の本を静かに濡らしていく。 何の事件もない春。 人間も妖怪も不気味なぐらい大人しかった。 平穏でつまらない時間。 それは当然だ、あと少しで春告精が幻想郷に春を告げ、あの賑やかしい桜があちこちで。満開になり、人間も妖怪もようやく訪れた冬の終わりに歓喜して、美酒に花に酔いしれるのだから。 春は今から始まるのだから。 でも、でも、 七曜の魔女にとっての春はここに結実した。 この本と、この青空に。 なんて春だったのろう。 それはかけがえのない春。 百年を生きる魔女にとって、初めての春。 その年、幻想郷に訪れた最初の春のその中央に、 パチュリー・ノーレッジがいた。 ……陽が落ちる前に、彼女は紅魔館の前に立った。 派手な迎えがあるわけでもない。相も変わらぬ陽気な門番に声を掛けられたが、メイド長は出てこなかった。又何処かで何かの仕事をしているのだろう。 二階を見上げると、数少ない窓のひとつから、レミリアとフランが見下ろしていた。真っ昼間なのによく起きていたなと思ったら、さっさと引っ込んでしまう。とりあえず今は触れないでおこうと決める。先に春を見つけたなんて土産話をしたら、春をひとりじめする悪巧みでも始めるに違いないのだから。 図書館に戻ると、小悪魔が暖かい紅茶を運んできた。頼みもしないのに準備してくるくるなんて殊勝な話だが、いつまで続くのか疑問が残る。ただ、順番が多少間違っているとはいえ、魔理沙の魔法で滅茶苦茶になった本棚は片付けられていた。 咲夜がやったのか、あるいは……。 どちらにしろ、普段なら有り得ないことだ。 長すぎる冬に調子が狂っていたのは、自分だけではなかったらしい。 では、彼女たちも又、それぞれに春を見つけたようとしているのだろうか? これから見つけるのだろうか? 家出の発端になったあの本は、机の上にそのままになっていた。 ページを捲ってみるが、紅茶の染みはしっかり残っている。乾いているのにお茶の匂いまで立ち上っている気がしたが、怒りは再燃しなかった。 それどころか、パチュリーはこの上なく上機嫌だった。 微笑みさえ浮かべているパチュリーの顔に、悪魔の少女がしきりに首を傾げていた。 安楽椅子に深々と腰掛ける。 目を閉じれば、頭上に真っ青な空が浮かび上がる。 無限の知識に接続する、私だけの春空。 紅茶をひとくち口に含み、 何度も飲んだ日本茶の味を思い出しながら、 そこに響いていた笑い声を思い出しながら。 過去の自分が積み上げた、無数の本に囲まれながら、 パチュリー・ノーレッジは静かに、ようやく、呟く。 ――ただいま、と。 ★ その後。 違う種類の雫で汚れた二冊の本は、魔女お気に入りの小さな本棚に隣同士に並べられ、決して埃を被ることがなかったという。 (初出 コミックマーケット72 かのね屋様主催 「花鳥諷詠」参加原稿) <戻る> |