「門番、雪嶺に挑みて春の遠きをしる」



 冬の幻想郷。
 いつもはそれなりに傍若無人な生活をしている人間達も妖怪達も、汚れのない雪に遠慮するが如く比較的静穏に暮らすこの時期。
 氷結した湖の畔に立つ吸血鬼の館・紅魔館の廊下では、年がら年中それなりに多忙を極めるメイド長が、腕を組んで何事か思案していた。
「どうしたんですか咲夜さん、そんな珍しい顔をして」
「あら、珍しい。門番は門を守るのが仕事よね。腕を抱えて寒そうに廊下を彷徨くのは侵入者のすることよ。もしかして殊勝にも私に退治されたいのかしら?」
 突きつけられたナイフが鈍く浮かべる光彩に、両手を挙げて全力否定するの紅美鈴。おなじみ紅魔館の悩める門番である。
「とんでもない。といいますか、こんな豪雪じゃ侵入者なんて来ませんよ。見てくださいよ窓の外」
「あら、窓なんて無いじゃないの」
「ないんじゃなくて、機能してないだけだと思いますけど」
 二人が顔を向けたその向こうの窓は外界に繋がっていなかった。あまりの豪雪で、一階部分が雪に埋もれてしまっているのだ。
「積雪の勢いは弱まってますけど……門から玄関に続く道を造っておかないと、この分じゃそのうち閉じこめられてしまいますよ」
「別にいいんだけどね、備蓄は足りてるし」
「わたしがよくないんです。孤立無援になっちゃうじゃないですか……今朝だってちゃんと雪下ろしもやったのに、この扱い」
 美鈴はがっくりと肩を落とす。必死の思いで雪掻きを終えて、暖を取ろうと紅魔館に入ったところを見咎められては心までも冷たくなる。たとえ妖怪であろうとも、蛍雪の功を気取っていては暮らしていけない。人妖関わらず、寒いものは寒いのだから。
「……で、何事にも用意周到な咲夜さんが悩む事って一体なんですか?」
「今夜の夕食のことなんだけど」
「またそれは重要な問題ですね」
「あなたの越冬手段よりはよほど重要ね。お嬢様だって機嫌が悪くなるし」
「とほほ」
「ところで美鈴、貴女は春堀りってしっているかしら?」
「春堀り、ですか?」
「正月もとっくに終わって今は二月。大寒も過ぎて、もう春の足音が聞こえてもいい頃よね」
「のどかな話ですね」
「でも、私はちっとものどかじゃない。今晩の料理を考えないといけないから」
「なんでそんなに話があちこち飛ぶんですか、咲夜さんらしくもない」
「少しは統合しつつ考えなさいよ」
 咲夜は呆れながら説明した。
 つまり、こういうことだ。
 昨年の晩秋は、幻想郷全体で秋の味覚……特に大根がとんでもなく豊作だった。博麗神社をはじめとする幻想郷の辺境、つまり農耕作業に関わりのない胡散ぐさげな少女たちの生活環境にすら、無数の大根が出回るぐらいの豊作だ。はじめはやれおでんだ、餅に大根おろしだとはしゃいでいた巫女や魔法使いたちも、しばらくすると消費しきれない大根のあまりの量にげんなりとしてしまい、見るのも嫌になったという。
 勿論、紅魔館もその傍迷惑な恩恵にたっぷりあずかり、しまいにはお嬢様から大根禁止令が出た。多少とはいえ吸血鬼の食卓に大根が登った事自体が既におかしいのだが、それはさておく。
 んで。
 余った大根に原罪はなく、その上質な美味を投棄するには忍びない。それで十六夜咲夜が考えたのが、冠雪し始めていた高い山脈の何処かに埋めるというアイデアだった。
「雪の下で保存した野菜は甘みが大幅に増すのよ。だから、地方によっては秋に収穫せず、春先に雪を掻き分けて収穫することもあるそう。まさに日本古来からの生活の知恵ね」
「へぇ……初耳です」
「雪の下で保存すれば腐りもしないし甘みも出るし、なにより見つかるとお嬢様に怒られてしまうからね。少々手間だったけど埋めに行ったという訳。ついでにそこらにあった野菜も埋めておいたわ」
「なるほど。あの頃の大根が既に美味しかったのに、もっと味わい深くなってたりするんですか。最近は食べてないし、それはちょっといいかも」
「あら、美鈴もそう思ってくれるの?」
「肉とは違うけれど、野菜には野菜の味がありますからね。私はその辺には偏狭でないように務めてますし」
「それはそれは良かったわ、悩み事が解決しちゃった」
「は?」
 ――数分後、防寒着着用の上で籠を背負った美鈴は、紅魔館の外に立っていた。
「あれ?」
「私が取りに行けば早いんだけど、お嬢様があれこれと呼びつけるから出られなかったのよね。あ、その地図に書いてある場所を掘ったら出てくるから。夕食の準備をする頃には帰ってきてね、」
 ぴしゃり、
 鼻先で玄関が閉じられる。
「あれれ? あれー?」
 ようやく室内でとった暖は一瞬にして吹き飛び、首筋に入り込む北風を見上げると、再び吹雪の気配が忍び寄り始めていた。

       ☆

「ふぅ……ふぅ……」 
 轟々と唸る吹雪の中、かんじきを履いた美鈴がうつむく様にしながら一歩一歩しっかりと歩を進める。紅魔館から離れること少々、幻想郷の最辺境へと向かう山道の中腹だ。道は雪によってほぼ覆い隠され、振り向けば自分の足跡が見る間に消えていく。
 幻想郷の妖怪は飛行するのが当たり前になっているにも拘わらず、どうして彼女が歩いているかといえば、疾風と化した雪風のおかげで容易に空を飛ぶ事もままならないからであって。妖怪とはいえあまり特殊な力を持たない美鈴は、こういう事態に超自然的能力で回避する事も出来ず、持ち前の体力を頼りにゆっくりと前進する事しかできないのだった。
 まなこは半開き。大きく開けると雪が目に飛び込んできそうだ。
 指先は寒いを通り越して、痛い。
 体が芯から冷えていく。
 せめて暖まる為にと僅かに持参した紹興酒もあるにはあったが、少量飲んでも意味はないだろうし、大量に飲めば酔っぱらって寝ころんで、妖怪の凍り漬けの出来上がりである。弾幕ごっこよりも確実に死を招く現状といえよう。
 地図によれば、そろそろ目的地に辿り着けるはずだったのだが、周辺のは白一色でしかも曇天、吹き付ける吹雪によって視界は最悪だ。方位磁針すら見えなくなったらどうしようと不安を感じなくもないが、断念して戻るともっと怖いお仕置きが待っている。
 哀れ、即席登山家に選択の余地はなかった。
 折りたたんだ地図をなんとか確認して、
「…………………ん?」
 睫毛を白く凍り付かせた間抜けな顔が、ふと後を振り向く。
 白銀の世界に、なんらかの気配を感じた、ような気がしたのだ。
「気のせいだろうか。もしかして幻覚? いかんな、これは本格的にマズイ」
 考えてみれば、こんな天候でこんな場所にいる生物がいるはずもない。
 自分をのぞいて。
「はぁぁぁぁ……」
 それを考えると、また鬱になる。考えただけでエネルギーを消費してしまい、気力が抜けていく。努力して考えるのをやめ、足を動かす事だけに集中しようとした。
 目的地は近いはず――それだけを信じて。


 だが実は、妖怪としてそれなりに鋭い彼女の観は正しかった。
 美鈴の姿が吹雪の向こうに消えた後、下方で丸々とした雪が唐突にむくりと起きあがった。その黒い塊は、美鈴の辿った道無き道をえっちらおっちら追い始めるのだった。


 そして、更に。
 追跡者を更にひっそりともせずに追い掛ける小さな人影が、
 ――あ。
 吹雪に吹き飛ばされて落ちていく。
 笑いながら。

       ☆

 幻想郷の最果て。
 そこは万年雪が降り積もった、もっとも高い標高を誇る場所。
 あるいは、もっとも冥界に近い場所。
 ……冬の檻に隠された某所の岩盤の裂け目に、美鈴は這々の体で飛び込んだ。
 震える手でマッチを擦り、必死の思いで洋燈を点灯する。霜焼け寸前の手にとっては、その小さな灯りですら天使の温もりに匹敵した。
 ここが、地図が示す目的地。
 ようやく吹雪に晒されない場所にありつけた安堵感で美鈴は溜息をつく。
 全身に吹き付けた雪を払い落とし、洋燈を翳して洞窟の奥を覗き込むが、いったいどこまで続いているのやら見当も付かない。吹き込む風がおどろおどろしい低音のうねりを常に響かせていて、地獄への直通道路といわれても納得出来るほどの不気味さである。ほっとしたのも束の間、頼りない灯り一つでは心細いことこの上なかった。
「帰りたい」
 寒さが意志を減退させる。が、ここまで来て引き返す事も出来ない。吹雪のせいで今が昼間なのかすらもよく分からないのだけれど、野菜を見つけて首尾良く夕食前に戻らないと、例によって千のナイフが降ってくることだろう。
 さっさと仕事を終わらせて山を下りよう。来る時逆風だったから、帰る時は吹雪に乗って空を飛べば館まで帰れるだろう。
 ……実際はそう安直にはいかないのだろうが、一刻も早く暖かい紅茶飲む事と厚い布団が自分を迎えてくれる事しか、彼女のモチベーションを支えるものは無かった。
 大口を開けた闇へと出発しようとして、
「ちょととと、まままま待てよよよ」
「だ、誰っ?」
 突然声を掛けられて美鈴は肩を振るわせ、おっかなびっくり後ろを向いた。
 そこに立っていたのは、
 雪だるま。
 いや、
 しこたま雪を被った顔の上には、見慣れた三角帽子を載っかっていた。先程までの美鈴同様、顔面が凍り付いて引きつっている。
「わたたたしはみんななのあいどどどる、霧雨まりさささだぜぜぜ」
「……あんた、世間じゃまだまだ冬籠もりの時期だからって、皮下脂肪溜めすぎじゃないのか?」
「しししししつれいななななな」」
 かじかんで舌が回っていない。
 普通の魔法使いを自認する霧雨魔理沙は、身動きが取れずにいた。洞穴の壁と壁の間にすっぽり挟まって動けなくなっていた。それもその筈、首から下の体が従来より三倍ほどにも膨張していたからだ。主に横に。
「あ、あー、あー、……やっと喋れる様になってきたぜ。それから私の名誉の為に言っておくが、これは太ったんじゃない。着ぶくれだ」
 ボールに手が生えた如き格好の魔理沙は、ミトンの手袋で苦心しながら、タマネギの皮を剥く様にして一枚一枚コートを脱いでいった。無視すればいいのに美鈴もその様子を呆れつつ眺めている。
「お前を追跡している間、あぶなくバランスを崩して転がり落ちそうになっちまった。麓に着く頃には巨大な雪玉になって里を平地にしちまうところだったぜ」
「それなら面白かったのに」
「だが、そうはいかない。今日はお前の探すお宝を頂きに参上したんだからな」
 魔理沙はびしっと指をさすが、
「……早く全部脱いでしまいなよ。途中で格好付けても決まらないだろうに」
「うるさい」
「てゆーか、よくそんだけ着られたなそれ」
「私は寒いのが嫌いだぜ」
「理由になってない」
 魔理沙はまだ脱いでいた。
 周囲に外套が十着以上も脱ぎ捨てられて、改めてマフラーを巻き直し、秘蔵の八卦炉で暖を取りながら、魔理沙はもう一度美鈴を睨み付ける。
「というわけで、ここまで努力させたんだから私も手ぶらで帰るわけにはいかない。あの陰険なメイド長がお前に渡した地図と、それに書かれた宝を頂くぜ」
「宝?」
「お前が出かけた後に紅魔館に行ったら、あいつがお前になにやら大切なものを取りに行かせたっていってたんだが、嘘じゃないだろう? でなきゃわざわざ雪中行軍する筈もない」
「……………………」
「なんだよその顔」
 答える代わりに、美鈴は深く深く溜息をつく。
 また咲夜さんがあることないこと吹き込んだのだろう。まさかこんな苦労惨憺してまで取りに来たものが、雪の下の大根や人参だとは思わないもの。自分でも普通なら思わない。
 メイド長は魔理沙を体よく追い払ったのかもしれないけれど、こっちの面倒事は二乗三乗に膨れあがってしまう。美鈴は額に手を当て、せめて落胆する魔法使いの顔を見てやろうと、悲しい真実を告げることにした。
「あー、人間。お前にとって気の毒な事だが、その宝ってのは」
 ドン!
「ん? なんだ今の効果音」
 考えるまもなく、
 目の前に状況を理解しない魔理沙の顔がびよっと広がった。
「うわっと」
「なにするんだ!」
 受け身をとる暇もない。
 いきなり魔理沙にフライングボディプレスを喰らった美鈴はそのまま倒れ込む。洋燈を取り落とした。硝子の割れる不快な音が連鎖する。
 と、闇に隠れていた洞窟の奥は下り坂になっており、二人はもつれる様にしながら斜面を滑り落ちていった。
「冷たい冷たい冷たい!」
「痛い痛い、顔を、顔を押さえつけるな冷たい痛い冷たい痛いってば!」
「うわああああああああ」
 ドカン!
 程なく二人は、ぐちゃぐちゃに絡まり合いながら平らな場所に落下した。
「……何も見えんな」
「お前がやっておいて何を言うか! 先制攻撃にも程があるだろう! あと滑り落ちる時に顔を押しつけるな。わざとだろ」
「ちょ、ちょっと待て誤解があるぜ。まずは灯りだ」
「こら動くな、離れられんだろうが」
「だからお前がじっとしておけって。明かりを灯してやる」
 闇の中でもぞもぞと動く魔理沙がなんとか離れ、なにやら呪文めいた独り言をぶつぶつ呟く。しばらくすると洋燈よりも柔らかく、しかもずっと強い輝きが周囲を照らした。
 魔理沙が持っているのは指揮棒に似た樫の杖で、その先端から発光している。
「あー? 由緒ある中つ国の魔法使いになった気分だぜ」
「こりゃいいな。助かったよ……てか、そうじゃない! 問答無用で攻撃してくるなっていってるんだ。冷たいし、あちこち打って痛いぞ」
「だから、それは濡れ衣だって。今さっき、私の背中を押した奴がいるんだよ」
「はぁ? お前、こんな吹雪の洞窟で誰が背中を押すって? 適当な事を言って誤魔化そうとするなよ、往生際が悪いな」
「本当だって。仕掛けるならもっと派手に正々堂々と吹き飛ばすぜ」
「でも、あんた土壇場になると結構適当だからなぁ」
「適当になるところまでのプロセスが大事なんだろうが……ああもう、どこのどいつだ。五百年ほど凍り漬けにしてやりたい」
 魔理沙は歯ぎしりしつつ肩を怒らせている。昔、巫女に聞いた話だと、この魔法少女は堂々と嘘を付くのがうまくないらしい。自分の判断力を過信するわけでもないが、確かに嘘を付いている様には思えなかった。かといって、さらなる追跡者がいるのも信じられないが。
 まぁともあれ。
 せめて魔理沙に、自分の本当の目的を告げてせいぜい派手に落胆して貰おう。
 美鈴がそう考えた時だ。
 魔理沙が天井を仰ぎ、ついで呆然と呟いた。
「な、なんだこれ」
 つられるように美鈴が観て、また絶句する。
「………………」


 荘厳。峻険。華麗。
 いくつもの陳腐な形容詞が頭の中を通り過ぎていく。
 そこは、まさしく――
 氷の宮殿だった。


 魔理沙の魔法光が照らすのは、巨大な氷のドーム。巨大すぎて天井まで見上げる事が出来ない。まるでくりぬかれた山の内部を一番下から見上げているかのような世界だ。
 しかも、よく見ると所々で光が複雑に乱反射している。ドームの様にがらんどうに見えていて、実は何階層もの敷居が張られているのだ。それは巨大な館の様でもあった。館であれば二階の様子を一階から窺うことは叶わないが、全てが氷で出来ているだけにずっとずっと高い場所まで見通せる仕組みだった。
 美鈴はその荘厳な世界に衝撃を受けながらも、疑問を口にする。
「でも、氷ってもっと白く濁るものなんじゃないの?」」
「この氷はとんでもなく透明度が高いんだ。不純物が混じってないんだろう。もちろん、現実的に考えてこんな綺麗な形に仕上がるはずもないんだけど……」
「あ」
 そこで美鈴は、咲夜に渡されていた二枚目の地図に思い至った。
 広げてみると、それは確かに氷の宮殿の地図だった。階層ごとに区切られた巨大な山が記されていて、その丁度てっぺんにお宝よろしく王冠のマークが施されている。そこを目指してくねくね折れ曲がりながら登っていく一本の矢印が朱色で明示されていた。
 魔理沙と美鈴は、改めて上方を見渡した。
「ということはこれ、登って行かなきゃダメなんだ」
「私の想像だが、咲夜は例の力でこの場所の空間を組み替えたんじゃないのか? でなきゃ、こんな世界が自然と現出するはずもない」
「だろうねぇ」
 どこまでも凝り性な人だからな。
 美鈴は合点せざるを得ない。
 そこで、改めて考える。
 さっきまではは、自分が野菜取りのお使いに来た事をこの馬鹿野郎にさっさと告げてしまおうと思っていたが、果たしてそれは賢いやり方だろうか? 洋燈を失ってしまった今、遠くまで届く魔理沙の魔法光は山を攻略する為には必須だろう。それに、魔理沙が本当の目的を知ってしまうと、興味を失ってさっさと帰ってしまう可能性もある。なんてったって大根だからな……。
 しばし無言で考えた美鈴は、一つ頷くと魔理沙に向き直った。
「まぁいい。ここまでのあれこれは水に流してやるから、ここからは共同戦線といかないか?」
「なんだよ藪から棒に」
 魔理沙が露骨に訝しむ。まぁ当然だろう。
「ここを攻略するのはお互い単独じゃ大変でしょうが? 咲夜さんの趣味なら、紅魔館みたいにあちこち空間が歪んでいる可能性もあるし……それに、あんたはその光、こっちには地図でお互い必要なものを持っている。共有して利益を得る方が良いと思うんだけど」
「ここで対決して二つとも独占するって言う選択肢もあるんだがな」
「でも、もしこの宮殿が全部氷だとすると、大暴れなんかしたら氷の下敷きになって、お宝共々二人ともお陀仏よ? それでもいいのならやってもいいけど」
「怪しいなぁ。なんか隠してるんじゃないのか?」
「正直、わたしはさっさと仕事を終わらせて館に帰りたいだけなのよね。手伝ってくれるなら、咲夜さんに内緒でお宝の一部をわけてあげても良いわ。悪くない取引だと思うけど」
 魔理沙はしばし考える様子だったが、悔しげに帽子を被って視線を隠すと、
「……妖怪の言いなりになるのは癪だが、ここは賛成しておくぜ。ただし、適当に方針が変わることだってあると忘れるなよ」
「お互いにね」
 意外な事に、美鈴はそれなりに満足そうな表情で頷いた。
 いつもは門を素通りされて面目丸つぶれな相手に対し、かくもイニシアチブを取って相対せるのは気分が良かったのだ。あとは詰めを誤らなければいいだけだろう。
 こうして、即席登山家二人は背中にに刃を隠しつつ、一時パーティを組んで山頂を目指す事になったのである。


 ――一方、岩場に隠れてその様子をのぞいていた小さな影が一つ。
「なによなによ、ケンカしたと思ったらさっさと仲直りしちゃったみたいじゃないの! つまんないわねぇ……まぁでも、見てなさいよ。ここはあたいの世界なんだから、二人まとめて凍り漬けにしてあげるんだから! って、あいたっ!」
 影は、握り拳をぐっと固めた拍子に何故か足を滑らせて、派手に転倒した。

       ☆

 二人は地図に従い、苦労しながら氷の世界を登っていく。階段なんて気の利いたものはない。氷で出来た天井に人が通れるほどの穴を開け、そこにジャンプで飛び上がるというのが縦への移動手段だった。
 地図が示した上昇地点は、確かに他の天井よりも氷が薄く、壊しやすかった。咲夜が以前に着た頃、あるいは夏期には、もしかすると氷結していなかったのかもしれない。
 ただ、貫通魔法や妖弾で壊すとその上の階の氷にまでダメージを与えて、宮殿全体に影響を及ぼす危険があった為、美鈴が登山用に持ってきたハンマーで一つ一つ確実に叩き壊す方針にしていた。
「あー、面倒だぜ。マスタースパークで一気に天井まで縦穴を開けてやろうか? 半径十メートルぐらい穴を開ければ、崩落の危険もないと思うんだけど」
「あんたは宝まで燃やし尽くすつもりか」
「咲夜のことだからどーせ頑丈な宝箱にでも入ってるんだろ? テレポーター付きの奴」
 美鈴は氷の天井を叩く手を休め、宝箱一杯に大根がみっちり詰まっているのを想像して、激しくげんなりした。
「おいおい、手が止まってるぞ。さっさと進んで早くお宝までいこうぜ」
「……気付いてるか? さっきからわたしばかりが氷を叩いてるんだけどな」
「仕方ないだろ、杖を持ったまま作業するのは難しいんだから。私が持ってないとこれ光らないんだぞ」
 どうも背後を魔理沙に見せたままというのは不安なのだが、文句ばかりもいっていられない。美鈴は気を取り直して氷を叩き落としていった。
 ガッ、ガッガッ。
「……ふう。ほら、開いたぞ、登ってこい」
 美鈴がよじ登った後で、魔理沙がふわりとジャンプして次の階に到着する。
 と、
 着地したその場所から、魔理沙がつつーっと滑り出した。
「あーなんだこの床ー」
「どこ行くんだよ」
「私じゃねーよこの床が勝手にー」
 といいつつ魔理沙の姿が右手に遠ざかり、灯りが遠ざかって周囲が暗くなっていく。
「……ぁぁぁぁぁあああああああ、よう」
 と思えば、何故か左手から魔理沙が現れて美鈴の目の前でピタと止まった。
「なんだこの床は」
「しかも空間を無理矢理繋いでるみたいだね」
「お前もやってみろよ、ちょっと面白い」
「あのなぁ」
「いいからいいから」
 軽くポンと押されて、美鈴もその特殊な床に乗ってしまった。確かに勝手に体が流されていってしまう。氷の摩擦係数が異常に低くなっているのかと思ったが、それ以上に人工的な意志を感じた。幻想郷の外に詳しい隙間の妖怪が見れば、エスカレーターなんて単語を連想したことだろう。
「まったく、咲夜さんは何を考えてこんなもんをつくったのかねぇ」
 腕を組んだまま突っ立ってると、一周して再び魔理沙のいる場所へ戻ってきた。
「な? 面白いだろ」
「意味が分からないよ……」
「私、もう一回乗ってみるぜ」
 まるで子供である。つつーと滑っていった魔理沙にあきれつつも、お嬢様に教えたら良い遊び場にするんじゃないかとか、ぼんやりと考える。こんな極寒の場所に来たがらないだろうことは置いておくとしても。でもお嬢様が好みそうな闇ではあると思うのだが。
 魔理沙が見えなくなった薄明かりの中、それでも美鈴は次に穴を開けるポイントを見つけていた。
 と、その横に異常に大きな氷柱がぶら下がっている。
「あぶないなー。落ちたらどうするんだ」
 バキ、
 唐突に中程から綺麗に折れたそれは、重力に従って垂直に落ちてきて、
「やっほーおおおおおお――」
 丁度一回転して戻ってきた魔理沙の眼前にさくっと突き立った。動く床の勢いに任せて突っ込んできた魔理沙は軽く避けることもできず、慌てて体を捻る。
「――おおおおっ……? とっとっとっ! な、なにするんだ!」
「なにも? 勝手に落ちてきただけだけど」
「こんなもんが勝手に落ちてくるか?」
「ここで嘘いってどうするっていうんだよ」
 氷柱は長さ一メートル、円錐の底辺の直径は二十センチほどもあり、串刺しになると大変洒落にならない。
 どこまでも無邪気な魔理沙にはいい気味だと思う反面、確かにあんな太いものが簡単に折れるというのも不気味な話だった。
 よく見れば、巨大に成長した氷柱があちらこちらからつり下がっている。登り口の予定場所付近にも凶悪な配置がしてあるではないか。氷柱を慎重に排除してからでないと、迂闊に氷を叩くわけにも行かない。
「な? 分かったろう。安易に暴れまくっていると死を見るぞ。なんたって山は魔物だからな」
「しょーもない受け売りするなよな。分かってるって」
 魔理沙は相変わらずだったが、美鈴はなにやら嫌な予感がわだかまってくるのだった。


 遠くで窺う影がぱちんと指を鳴らす。
「おしいー。でもでも、あたいが張り巡らした罠はこんなものじゃないわよー。次の階に先回りしておこうっと。えい」
 さくっ。
「あー、いたた! いたた! つららがつららがー」
 刺さったらしい。

       ☆

 地図によると中腹ぐらいまでは来ている筈だったが、距離が縮まった感じは一向にない。ただ、上も下も透きとおった硝子そのものなので、しっかり立っているのに宙に浮いているようで不思議な気分だった。
 途中、雲の形をした移動壇があったり、連続して落ちてくる氷柱を避けたり、互い違いの方向に配置された移動する氷床があったりとかでさんざん苦労した。が、基本的に美鈴に付いてくるだけの魔理沙はトラップの数々を楽しんでいるばかりで、頭を悩ませている美鈴ばかりが苦労しているような気がしてくるのだった。
(結局私が利用されてるだけなんじゃないのか?)
 疑念がよぎるが、言っても詮無きことである。美鈴は妖怪なのにそれなりに生真面目で損な性格なのであった。
 今また新しい階層に到着し、その直上が次のターゲットだった。続けざまに穴を開けて、飛び乗ろうと思ったところで若干の疲労を感じ、一旦地面に足をつけて、紹興酒の小さな瓶を取り出して口にした。
「あー、いいもの持ってるな。私にも分けて欲しいぜ」
「あんたはずっと暖かい魔法の懐炉もってるんだろう? 有名だからな、それ」
「般若湯で暖まるってのは、暖房器具とはまた意味が違うんだよ。霊夢もよく言うが、お酒は神様からの頂き物だからな」
 お嬢様が聞いたらワインを揺らしながら鼻で笑いそうな言葉だったが、確かに一人だけが飲む酒ほど不味いものもない。気が進まなかったが、美鈴は魔理沙に酒瓶を手渡した。
「一口だけだからな」
「恩に着るよ……ああ、やっぱり美味いぜ」
「そりゃとっときだからね」
「メイド長に取り上げられたりしないのか?」
「取り上げられなかった分だからとっときっていうんだよ」
「……なるほど……」
 体が温まるほどでもなかったが、気分転換にはなった。改めて頭上を見上げて、美鈴は首を傾げた。
「……あれ?」
「どうしたよ」
「さっき開けた穴が塞がってる」
 魔理沙が見上げると、開けた穴はすでに氷結してふさがってしまっていた。元の通り一続きではなく、破れた布のつぎあての様に、丸い後がくっきりと残っていて、修繕された場所は真っ白い氷だった。ただ、厚さは壊す前よりも分厚くなっている。
 周囲を窺いながら、美鈴は魔理沙の耳に唇を寄せた。
「どうも、誰かがいるような気がしないか? 氷柱がそれなりにピンポイントに落ちてくる件といい、なにやら悪意を感じるよ」
「だから、多分……私を突き落とした奴だろうぜ。気のせいかもしれんが、風の声に混じってクスクス笑い声が聞こえる気がする」
「わたしも信じる気になってきた」
「どうする? 迎え撃つか」
「ドンパチはできないんだろう? それよりも、このまま罠をやり過ごしてさっさとお宝のところまで行った方がいいぜ。道を塞がれるというのが一番困るからな」
「それもそうか」
 美鈴と魔理沙は一様に頷いた。

       ☆

 登って行くに従って、綺麗に整頓されていた通路は徐々に未完成になり、足場もほとんど無くなってきた。三階分くらいが吹き抜けの空間とか、ほとんど足場のない階とかが目立ち始める。こうなると律儀にジャンプと着地を繰り返すよりも常時低空飛行している方が楽だ。人間ならば不可能な芸当だが、妖怪と魔法使いならばお茶の子さいさいであった。
「そろそろ最上階ね」
「おー、いよいよお宝か」
「ま、まぁね」
 美鈴は内心冷や汗を感じている。野菜の件、どのタイミングで話を切り出すべきだろう。先延ばしにしてきたが、そろそろ限界だった。ただ、真実に逆ギレして大根を黒こげにされるのは勘弁して欲しかった。自分はいくつの野菜を無事に持って帰れるのだろう。
 時間的にも空間的にも、追跡者がそろそろしびれを切らせてくれるとありがたいのだが……。
「もー我慢出来ないわ! こら、そこの人間と妖怪!」
 いったそばからこれだ。
 可愛らしい声が氷の宮殿に響き渡る。
 見れば、顔を見ただけで誰からも可哀想な顔をされる顔馴染みの妖精が、背中の羽根を羽ばたかせながら浮かんでいた。
「あ、バカだ」
「バカだな」
「バカじゃない! あたいはみんなのアイドル、氷の妖精チルノちゃんよ!」
 美鈴が隣の魔理沙をジト目で眺める。
「なんだか最近聞いたような名乗りだね」
「……気のせいだろうぜ」
 魔法使いは気まずそうに帽子を被り直した。
「こんな寒空に雪山を登っていくお馬鹿さんが二人もいるから、せっかくオモチャにしてやろうと思ったのに。あれこれ罠を掛けて待ってても全然引っかからないんだからつまんないの」
「そりゃ、バカが考える様な罠じゃなぁ」
「相変わらず攻撃が単調というか」
 二人はうんうんと頷きあっている。
「うるさいうるさーい。こうなったら例によって弾幕ごっこよ!」
「ちょ、ちょっと待て。ここでそんな事をやったら、山全体が崩れるだろ」
 美鈴の静止で待つ様なら、みんなが指差してバカだの何だのと言うわけもない。
「問答無用、覚悟!」
 チルノは早速懐からスペルカードを引っこ抜くと天に向かって構えた。
「氷符、『アイシクルフォール』!」
 唱えた瞬間、凍えた冷気が更に一段階凍結し、先程からばらばらと二人の邪魔をした長大な氷柱が大挙して押し寄せてきた。二人に直撃しない氷柱が、周囲の壁や床に突き立って大穴を開けていく。
 が、魔理沙は美鈴の方を引いて一歩前に出る。持っていた樫の杖を足元に突き立てた。
「おい門番、最後の穴を開けて登ってしまえ。こいつは私がさっさと片付ける」
「え、でもいいのか?」
「ものの数分もかからんよ。あいつ、間違えてイージーモードのスペルカード出しやがったぜ。当たりようがない」
「え、そうなの?」
 チルノが驚いて、使用中のスペルカードをまじまじと見つめている。
 その瞬間、魔理沙はチルノの首根っこを掴んで下方へ降下していった。
「あああああ、騙したなああああああ」
「お前は鳥頭だから、嘘つきは泥棒の始まりってぇ言葉も知らないだろうぜ!」
 視界から近接戦闘する氷精と魔法使いの姿が遠ざかる。
 美鈴は一瞬逡巡したが、杖が放つ光がゆっくり弱まっているのを見てきびすを返し、ハンマーを投げ捨てて最後の上昇地点に跳び蹴りをお見舞いした。
「ハァっ!」
 氷の破片を盛大にまき散らしながら、美鈴は遂に最上階へと到達した。
「あ……空……夜?」
 頭上には既に氷の床はない。
 自分を中心にして雲が、天が渦巻いていた。
 暗黒の夜空には、冴え冴えとした星明かりが瞬いている。まるで台風の目の底に立っているかのようだった。周囲を黒々としつつも切り立った崖が取り囲んでいる。
 そこでようやく美鈴は思い至った。
 つまりここは、死火山の火口の底だったのだ。
「こんな場所が幻想郷にあったなんて……」
 すると、今登ってきた氷の宮殿は、かつて溶岩やマグマが溜まっていた場所につくられていたことになる。それこそ、弾幕ごっこなんてやったら、大規模な噴火を招く事態に鳴ったに違いない。まるで爆弾の上を探検しているようなものだった。
 いや――
 もしかして、導火線の火は今まさに灯されようとしているのではないか?
 ここにいない魔法使いによって。 
 不安が胸をよぎる。
 一刻も早くここを立ち去るべきだ。
 そう考えた美鈴は、地図に示された地点を猛然と掘り始めた。氷の床でない、石灰岩の地層の上の雪を掘りまくる。
 程なく、荒縄によって縛られた大根がいくつも現れた。表面は氷結しているものの、瑞々しくてそのままでも食べられそうにすら見える。それを、片っ端から背中に担いでいた籠に放り込んでいく。大根の横にも人参やら馬鈴薯やら、秋に散々お世話になった野菜があとからあとから姿を見せた。美鈴はいちいち選別するのを早々に諦め、もくもくと籠に詰め込んでいった。
 地下から、遠雷の様な音が響いてきた。
 一瞬、手を止める。
 続いて、軽い地響き。地震。
 おそらくは、哀れな妖精が完膚無きまでに負けた事を示す証左だろう。
 だが、問題はそこではない。
 ありったけの荷物を両手にも抱えた美鈴は、持てない野菜を諦めると、空をめがけて飛び立とうとした。
 が、
「そこまでだぜ」
 振り向く。
 霧雨魔理沙が立っていた。既に。
 さすが逃げ足で幻想郷随一を誇る少女である。
「うるさいな……まぁいい。さ、お宝を山分けする時間だ。クエストは終了したんだからな」
 魔理沙が露悪的に微笑む。
 ――なんだろう、この緊張感は。
 美鈴も構える。だが、野菜を満載した格好では様にならないことおびただしい。
「ああ……宝なら、ここそこに転がっているよ。わたしはもう持てないから。少ないが、残りをもっていくといい」
「冗談じゃないんだろうな」
「もちろん、冗談じゃないさ。わたしは最初から咲夜さんの命令で、野菜を取りに来たんだからな」
「そんなことは最初から分かっているさ。私の目的だって最初からその野菜だ」
「なっ」
 美鈴は驚愕する。
 魔理沙は壮絶ににやりと笑う。
「前に紅魔館に忍び込んだ時に、偶然咲夜のメモ書きを見つけたんだ。備忘録のつもりだったんだろうが、検討中のレシピの中に、どこかで野菜が寝かされているって書いてあったんでな。いつか手に入れるチャンスがないかと窺っていたのさ。私は寒いのが苦手だから、雪山にいったお前の事を正直に告げても追跡する根性はないと判断したんだろうが、そうは問屋が卸さないぜ」
「ということは、つまり」
「そう。イタズラを仕掛けようとチルノが追ってきていたのは意外だったが、あそこで突き落とされたってのは嘘だぜ。あんたの洋燈を壊しておけば、私の魔法の光を頼りにしようとあんたが考えるのは読めたからな。こっちには地図が必要だった。出来れば優秀な道案内人もな。根が正直な奴は搦め手に弱い。損な性分だぜ。まったく気の毒だ」
 美鈴は巫女を呪った。
 どこが嘘が下手くそなんだ。
 それとも自分が騙され上手なのか。
 まったく、下品に歯軋りしたい気分だ。
「さっきいっただろう? 嘘つきは泥棒の始まりだってな……残りの方じゃなくて、籠ともってる奴の野菜を全て頂く。神社で霊夢と鍋をつつく約束をしてるんだ。越冬した野菜はさぞ旨いだろうな。残り物に御飯を入れて雑炊ってのも堪らない。季節はずれの極上野菜は、ビタミン豊富だから里でもさぞ高価に売れる事だろうぜ」
「この性悪人間がっ!」
「やるか? 弾幕ごっこなら受けて立つぜ。ただ、その野菜を守りながら肉弾戦するのは難しいだろうなぁ。それに」
 ゴゴゴゴゴゴゴゴゴ、
「お前には時間も残されていない」
 地響きが大きくなる。
「な、なんだ? 何をしたっ」
「さっき地の底に妖精を叩き付けてきたんだが、当たり所が悪かったのか階下の氷の宮殿が崩壊を初めてな。さっき私も気付いたがここのとおり足元は死火山だから、とどめに放った魔法弾の一発二発がどっかの溶岩溜まりを貫通したのかも知れない……」
「ま、まさかわざと」
「さて、どうかな」
 完全に悪役を楽しんでいる魔理沙。
 こんなのを相手にしてはいられない。
(すいません、咲夜さん……わたしの夕食は抜きで良いですから!)
 美鈴は心の中で咲夜に一言謝罪すると、右手に持った大根の束を魔理沙に放った。
 魔理沙が一瞬怯む。
 美鈴は上へと跳躍した。
「待てっ!」
 火口向けて真っ直ぐは飛ばず、美鈴はコロセウムの様な火口の岸壁を一度、二度蹴る。
「逃がさないぜ!」
 背後から魔理沙の放つ魔法光線が迫る、
 美鈴はそれを体を捻ってかわす、
 すると籠から野菜がぽろぽろと落ちていく。
「あーっ、野菜が、野菜がっ」
 野菜と一緒に、思わず涙がこぼれる。
 紅魔館へ届ける為の野菜が、努力が、再び闇の奥へと落ちていく。
 魔理沙は美鈴を追跡飛行しながら、降ってくる野菜をつかみ取ると鞄の中に仕舞っている。なんとも手癖の悪い少女である。
「ほらほら、どうした。そんなんじゃ全部落としてしまうぜ」
「もーいい加減にしてくれっ。二人で分ければ良いだけだろうに!」
「人のものを貰うから泥棒っていうんだぜ」
「つーか泥棒って自称していいのか? 魔法少女が? それでいいのか?」
「第三者がいなけりゃ泥棒行為やったって分からないからいいんだよ」
「そんなアホな! ……それにこれじゃ泥棒じゃなくて強盗だろう!」
「冬季は臨時営業にしておいてくれ」
 それでもようやく、火口の外輪に辿り着いた美鈴。少なくなった野菜の籠を必死に抱きしめながら、脱出しようとして、


 ばちいいいいいいいん!


 眼前に文字通り星が舞った。
「いたあああああっ!」
 なんと信じられないことに、外輪のてっぺんにはあの見えない、透明度の高い氷が層を成していたのだ。そうとは知らない美鈴は頭を強打し、思わず籠を離してしまう。
「ああああ、野菜があああああ」
「おっと、私の為に危険確認までしてくれるとは助かるぜ」
 魔理沙は魔法弾を乱れうちして、美鈴の脱出を阻んだ最後の氷壁をバラバラに砕いた。野菜がぱんぱんに詰まった自前の鞄と、美鈴が手放した野菜籠をしっかりと握り、ふらふらと横を力無く落下していく美鈴の横を飛び去っていく。
「今日はいろいろありがとうなー、やっぱり氷山登りは2Pプレイに限るぜ」
 捨てぜりふを残して氷の山を脱出した、
 その瞬間――


「ああ、悪いけど霊夢には鍋パーティ中止って伝えてきたから。霊夢怒っていたわよ、随分。もうあんたが来ても晩ご飯ご馳走しないってね」
「は? それはどういう、あれ?」


 時間停止は一瞬だった。
 一瞬にして全部の野菜が無くなったと認識する暇もなく、
「げふ」
 魔理沙はみぞおちの辺りをしたたかに蹴られ、何をするまもなく大きく口を開けた火口の闇へと落下していった。
 何者かに首根っこを掴まれた美鈴が力無く顔を上げると、心底あきれ顔をした十六夜咲夜が浮かんでいる。左手には回収した大根の束が、背中には先程の野菜籠と魔理沙の鞄をを既に背負っている。
「まったく、悪党に相応しい最期ね」
「咲夜さん」
「あんたもお使い一つ出来ないの? あんまりにも遅いから様子を見に来たのよ」
「それがー、えーと、つまりー」
 ゴゴゴゴゴゴゴゴゴ、
 今や山全体が鳴動、振動していた。
 そして――
 程なく、崩壊していく外輪山の中央から、熱湯となった間欠泉が吹き出したのだった。
 それは星空を濡らすぐらいの高さまで届き、幻想郷の数ある不思議の一つとなって後世に語り継がれた、かどうかは定かではない。
「……火山の噴火じゃなくて、よかったですね」
「よくないわよ、せっかく夏の避暑地にしようと思って秘密でこつこつ作ってたのに」
「あ、やっぱそうだったんですか」

       ☆

 後日の事。
 霧雨魔理沙はどうやら無事に帰宅したものの、その冬は雪が完全に溶けるまで外出する事はなかったという。一説には凍傷と火傷で包帯ぐるぐる巻きになっていたからだとも囁かれたが、確かめた者はいない。
 氷の妖精は地中深く沈められたはずであったが、昨今なにごともなく霧の湖でスケートをして派手に転ぶところを目撃されている。まぁ妖精なんてこんなもんであろう。
 紅魔館においてお嬢様の食卓に、回収された秋野菜が再登場したかどうかは定かではないが、博麗神社で春直前に盛大な鍋パーティが開かれたのは事実だ。その雰囲気は実に和やかだったと文々。新聞も伝えている。
 ただ、お使いをしくじった紅美鈴がその恩恵に与れる筈もなく――
「美鈴、門番頑張っているわね。今日もおやつを用意したわよ」
 例によって吹雪の合間。
 せっかく雪掻きした玄関前がまたも一メートルほどの雪に埋まってしまって肩を落とす美鈴の前に、満面の笑みを浮かべた咲夜が現れる。
「え、ま、またですか……」
「何を言っているの? 夏の間に作り溜めておいた極上の逸品よ。他の雪山からまた掘り起こしてきてしまったわ。普段はお嬢様と妹様しか食べられないアレな高級品なんだから、よく味わって食べてね」
 美鈴が渡されたのはバケツ一杯に詰まった真っ白なバニラアイスである。シャベルの如き巨大なスプーンがささったそれを、あの日以来毎日食べさせられているのだった。
 もちろん、屋外で。
 門番をしながら。
 一人で、である。
 紅美鈴の笑顔は氷結しきっている。
 涙と一緒に。いまだに。


 彼女の春は、まだまだ遠い。



(初出 「仮想天涯」)

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