魔砲のケーキ 突然やってくる幸せもあるが、避けられない不幸もある。その重さは人それぞれであろうけれど。 今回はそんな、まるで天秤のようなお話。 「あぁ、もう酒が切れちまったぜ。読書してると酒の減り方が増えて困る」 文句を言いながら愛用のコップを置いたのは霧雨魔理沙。彼女の言葉通り、多少顔が紅潮している。 だが正確には、この言葉は正確ではない。 魔理沙は読書の時は没頭し、酒は酒として楽しむのが本来の彼女のスタイルだった。どれも中途半端になるようないい加減さを彼女は望まない。つまり、彼女は現状、酒に酔って本に酔っているポーズを楽しんでいるのだった。 何が彼女をそうさせるのかは、彼女自身も分かっていない。 虫の知らせ、予感、霊感、魔力、思いこみ……なんと呼んでもいい不思議な感覚が、ここ数日というもの彼女を捉えて離さない。それを逃すことのないために、魔理沙は昼間から酒を呷っては本と戯れていた。 そして。 予感は遂に、彼女の小屋をノックする。 ――コンコン。 「残念ながら、誰もいなくはないぜ」 多少覚束ない足取りでドアを開けると、何故か自慢げな顔の霊夢が立っている。 「霊夢じゃないか、こんな魔法の森の奥までようこそだぜ。林檎の森の子猫にパァティにでも誘われたのか?」 「うわ酒臭い! なによ魔理沙、もう酒宴を始めてるの? しかも一人で」 「もうそろそろ夕暮れ時だぜ。それなりにたけなわってところだ……で、何だよ一体」 「何だよじゃないわよ。出来たから持ってきたのよ」 霊夢が風呂敷包みを差し出す。 「出来たって、何だ? 食いもののような雰囲気だが……私に無償で食い物を持ってくるなんて殊勝にも程があるぞ。どっかでおっかない結界が切れてるんじゃないのか」 「はぁ?」 霊夢の眉が危険な鋭角を描く。 「あんたがあれだけ食べたいっていったから、必死に練習したんじゃないの! まぁ今まで作ったこと無かったし、良い勉強にはなったけれど、とりあえずありがとうの一つぐらいはちゃんと言うべきじゃないかしら?」 「………………んん?」 魔理沙は額に指を当て、本気で首を傾げた。 「酩酊はしていても記憶の入れ違いなんて無いはずだが、霊夢にいつ食いもの提供を頼んだっけ? こないだの宴会で大根の芯が煮えてないと適当に文句を言ったのは覚えてるんだが」 「レミリアの日光浴並に面白くない冗談ね。」 「悪魔メイドのナイフ並に切れ味鋭いピンク色の脳細胞になんてこというんだ」 魔理沙には完全に覚えがないのだが、霊夢の堪忍袋はあっさり容量オーバーになった。どうやら目の前の黒ずくめに完璧な敵意を抱いたらしい。 「そう……あんたの得意技に善人をだます演技が増えたとは知らなかったわ。さっきも変な笑い浮かべてると思ったらそういうことだったのね。魔法よりも人間を唆す蛇の声で大成を目指すといいんじゃないかしら? その代わり、神社には黒ネズミよけの多重結界貼らせてもらうから! もうお酒も一滴だってわけてあげない!」 そういって手に持った包みを投げつけようとして……何故か思い直し、床に置くと魔理沙を睨み付け、その鼻っ柱にドアを叩き付んばかりにして、神社の方角へと飛び去った。 「なんだありゃ。あれが予感の結実なのか?」 勝手に怒って勝手に帰った。結構長い間霊夢を見てきたつもりだが、あんな妙な霊夢は初めてではなかろうか。多重結果とやらは面倒くさいが、熱っぽく飽きっぽい霊夢のこと、怒りがそう長続きするとは思えない。ともあれ、原因が分からなければ対処しようがない。 「これか」 テーブルの上の魔道書を適当に整理して、唐草模様の包みを乗せ、ほどく。 中から出てきたのは木箱。それを開けると―― 「うぉおお、こりゃすごいぜ」 中に収まっていたのは、見事な真円を描くケーキだった。生クリームがデコレートされ、部屋の中に甘い香りが見る間に立ちこめる。 「確かに放り投げるには勿体ない品だな。ということは、これ霊夢が作ったのか……?」 努力というものに無縁にも拘わらず、大抵のことはこなしてしまう不思議少女・博麗霊夢だったが、レパートリーに西洋菓子すらあるとは、にわかには信じがたい。魔理沙自身、そんなスキルを備えてはいないので悔しさすら募る。しかも、彼女の言からすると、それを望んだのは魔理沙自身であるという。乱雑に記憶をまさぐってもその光景が浮かぶことはないし。 「ううむ……真相は闇の中だが、とりあえず食べないのは勿体ないな。霊夢が今後もケーキを作るなんて想像出来ないし……」 あの怒りようでは二度と無いかもしれない。 熟考と浅慮が互い違いに黒服を纏う小さな少女の中で、とりあえず目の前のかわいらしいケーキを平らげることが最優先事項になった。酒の勢いとは恐ろしい。 戸棚からナイフとフォークを取り出し、さて切り分けんと手を伸ばした、 が、その瞬間。 背後の扉が勢いよく開け放たれた――! 「な、なんだっ」 振り向いた魔理沙は言葉を失った。 反応する間もあらばこそ。 入り込んだ黒い影が、空中に覆い被さるようにして広がってくる。 視界を奪うのが目的なのか、 俊敏な速度で舞うそれは、真っ黒な影、 窓ガラスの向こうが圧倒的な乳白色に包まれ、影が濃さを増す。 翻ったマント、 必死の形相を浮かべ、その奥にぎらぎらと光る瞳、 両手を広げ魔理沙につかみかかってくる……! 「なっ……」 身構える暇もなく、 まるでその瞬間、世界がコマ送りになってしまったような世界の中、 魔理沙と影が交差して―― そして、霧雨魔理沙邸は浄化の閃光に包まれた。 言い換えれば――完全消失。 ☆ 紅魔館の地下に広がる巨大な図書館。 謎の攻撃者によって跡形もなく姿を消した我が家からからくも脱出した後、魔理沙は魔法少女パチュリー・ノーレッジの領域に潜伏していた。酔いは完全に吹き飛んでいる。 「ちくしょう……あと一分、いやあと三十秒あればちゃんと食えてたのに……悔しいぜ。とんでもなく悔しいぜ」 「……………………」 何の因果かしらないが、霊夢が持参したケーキは既に自分のものだったはずだ。今想像に浮かぶケーキは、実物より遙かに魅力的で美味しそうに鎮座している。 それも今はもうない。 あの光の中で消え去ったか、あるいは襲撃者によって持ち出されたか。 考えれば考える程、激怒と悔恨が泡を立てて渦巻く。 下手人を捕まえて、それ相応の代価を払ってもらわないと気が済まない。 どうすべきか……? もちろん、自分の最大の技――渾身の魔砲で吹き飛ばしてやるに決まっている。だが、相手は自分の家を一撃で無に帰す程度の力を備えた相手だ。こちらも通常のスペルカードでは不足だろう。マスタースパークの強化が必要なのは明白だった。 いや。 魔理沙の中でそれは既に、高貴なる義務、世界の摂理にさえなろうとしていた。 「というわけでパチュリー、呪符を強化する魔道書を貸してくれ」 「返してくれるの?」 「もちろん。事が終われば妖怪の丸焼きと共に、三つ指をそろえて返してやるぜ」 図書館の主は、視線を落としていた本から顔を上げると、眠そうな三白眼で魔理沙を見あげた。 「……………………」 「頼む! もう不法侵入したり借りた本を返さなかったりはあまりしないから」 「今、貸してなくて良かったわ。うちの本を消し炭にされたら、かなわないもの」 「私がそんなことをするはずないだろう。仮にも魔道の徒だ、本にはそれなりに愛を感じるぜ」 「……………………」 パチュリーは一度溜息をつくと、本を畳んで脇に抱えてふわりと浮かび上がった。 そして、さほど遠くない本棚から一冊の本を取り出すと、魔理沙に差し出す。 「薄い本だから、ここで読んで覚えていきなさい。それから、はた迷惑だから練習は遠くでやること」 「分かってるぜ。特訓は秘密に限るからな」 「それなりに賢明ね」 魔理沙は目を皿のようにして古代文字の魔法手順を脳に焼き付けていく。 薄い本とはいえ、曲がりなりにも魔道書である。きちんと理解し使いこなせるにはかなりの習熟を必要とした。パチュリーが燭台の蝋燭を幾度となく交換するぐらいの時間はゆうに掛かる。それでも魔理沙の集中力が途切れることはなかった。 そして。 「よし覚えた! 完璧だ。今からさっそく試し撃ちをしてくるぜ!」 黒衣の魔法使いはそう吐き捨てて本を乱暴に放り出すと、黒い疾風そのものと化して飛び去った。騒々しい乱入者が立てた図書館の埃が再び床に舞い落ちるまでに、結構な時間が掛かりそうである。パチュリーはそれを迷惑そうに手で払いのけつつ、眠い目を擦りつつ静かに嘆息してから……少し離れた本棚の影に向かってちょちょいと手招きをした。 はっきりいって辺り構わず吹き飛ばしたい気分だった。破壊衝動に突き動かされる悪魔の感情を疑似体験出来るのは珍しい経験だが、今はそんなことをいってる場合ではない。 ともあれまずは練習だった。多少は冷静さを欠いていても、魔理沙は訓練の手順を怠らない。努力というプロセス自体が彼女の快楽装置なのだ。 自分でもこんなスピードが出せるのかと少々驚きながら、幻想郷の更なる辺境へと高速飛行する。相手はあれほどの力を持つ妖怪だ。こっちが対抗手段を会得したことを早々に知られては不利になる。先に見つけて先制し、圧倒し、一撃で確実に仕留める。これが鉄則だった。 見れば森は切れ、赤銅色の岩肌が露出した山嶺が眼下に広がっている。空は黒々とした雲に覆われていて、今にも泣き出しそうだ。大気も冷たい。寒さは魔理沙が苦手とするところだったが、燃えたぎる心は魔理沙の肌に冷気すら寄せ付けない。一刻も早く新しい魔法を試したかった。 魔法の箒を滞空させると懐からスペルカードを取り出し、本で見たとおりに新しい魔法式を書き入れる。 「ほらみろ、私の記憶力は完璧じゃないか!」 最後にごにょごにょ魔力を呪符に焼き付けると、とりあえず迷惑にならないように、遙か遠くに暗くわだかまる雲の一点めがけて札を構えた。 肺をふくらませ、大きく深呼吸をして、睨み付ける。 脳裡にあの影が……まだ見ぬ敵の姿が浮かび上がる。 幻想郷であろうが冥界であろうが、食い物の恨みが恐ろしいのは古今東西変わらないのだ。魔理沙はそう念じながら、高らかに叫んだ。 「いくぜ……恋符『マスタースパーク』!」 ズゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ! 魔理沙秘蔵のマジックアイテム「八卦炉」を介して、スペルカードから放たれた巨大な閃光が空を穿ち天に突き刺さり、周囲は一瞬にして影に彫り抜かれる。 そびえ立った雲は一瞬にして蒸発し、光の道が誕生していた。 「うお……おおお……おおおおおおおお!」 そのあまりの威力に、自分の姿すら閃光にかき消え、遠くに流される錯覚すら覚える。 あまりに簡単に改良魔法が完成し、狂喜する魔理沙。 その高笑いすらも、轟音と光芒の中に消えていった。 ☆ 「あ、あれ……ここは」 ふと気がつくと、周囲の景色が一変している。 見慣れた山の配置、眼下の森……神社。 「もしかしなくても、あれは博麗神社だぜ」 なんと――強大な魔法を行使した影響で押し流され、気づかぬうちに博麗神社の真上まで吹き飛ばされてしまっていたらしい。雲は残らず掻き消えてしまい、自分は青空に浮かんでいる。一瞬我が目を疑った魔理沙だったが、事態を飲み込むと腕を組み、箒の上に胡座を組んで唸った。 「制御不能の部分があるとは……お手軽に過ぎると思ったんだが、こういうことか」 この呪文は強力だが諸刃の刃だ。周囲の環境にこれほど影響を与えるとなれば、他にも悪い副作用があっても不思議ではないだろう。復讐に駆り立てられる余り、パチュリーに変な魔法を掴まされたのはなんだか癪だった。 だが、この術式が自分で行使出来る魔法としては過去最強レベルの威力であることもまた正しいのだ。使用が制限すべきなのは当然としても、こみ上げる彼女の破壊衝動を満たすには十分だった苦虫をかみつぶすような表情をしていても、自然と口の端が緩んできてしまう。 「ふふ、ふふふふふ、うふふふふふ」 「なによ魔理沙、にやけた笑い浮かべて気持ち悪いわね」 「うわ……れ、霊夢」 聞き慣れた声にふっと振り向くと、怪訝な表情をした霊夢が、掃除の途中なのだろうか、竹箒を握ったまま宙に浮かんでいる。さっきの怒りは既に収まったのだろうか。しかし……背中に冷や汗が滑り落ちた。せっかくケーキを持ってきてくれたのに追い返したばかりか、肝心のケーキを遺失したとしれれば、多重結界どころか夢想封印で夢の狭間に落とされても文句は言えない。 「いやいや霊夢、別に何でもないんだぜ」 「どっかの幽霊みたいな口調やめてよ、気持ち悪い。私は半分幽霊でも庭師でもないのよ」 「あ、いや、なんでも、ないんだが……その、ケーキは、そのな、えーと」 「ケーキ? それなら今ちょうど」 「ああ、またいうよ感想。とにかく、ありがとうな」 「はぁ?」 とりあえず今、霊夢におしおきを喰らう訳にはいかない。まずは私からケーキを奪った奴に鉄槌を落とさなければ。懺悔はその後でも出来る。 「じゃ、じゃぁな霊夢」 魔理沙は自分の家の方角へそそくさと飛び去る。 取り残された霊夢は、挙動不審な魔理沙にしきりに首を傾げるばかりだったが、 「……へんなの。まぁいいか。結構面白くなってきたし、続きやろうっと」 日が傾こうとしていた。 我が家は消失してしまった。今夜は宿無しだろう。先のことは先で考えるとして。今夜の宿を考えなければならなかった。ただ……先程の会話の通り、もし本当に霊夢が機嫌を直しているなら神社に泊めてもらえるかもしれない。もちろんケーキのことは改めて説明し、きちんと謝った上である程度の対価を払わなければならないだろうが。 それにつけても、自分から家とケーキを奪った存在への怒りは募るばかりだ。 「絶対に許さん」 まるで獲物を求めてうろつく野獣のような瞳を浮かべて、魔理沙はふらふらと飛んでいく。強力な魔法を放ったせいか、やたら腹が減って仕方ない。ケーキの恨みが空腹を加速させているのだろう。 と。 自分の家の方角へ飛んでいく黒い人影が見えた。 箒で飛んでいるでも、羽根を羽ばたかせているでもない。 ただ、それが飛ぶ方向にはまるで、ヴェールを覆い被せていくように闇が広がっていくのだ。水を蹴立てて進む船にも似たその姿。 少女が手を十字架のように広げて飛んでいく。 「ケーキ♪ ケーキ♪ ケーキの匂い♪」 ……見つけた。 こいつだ! 黒い影! 黒い服に金髪! 「ルーーーーーーーーミアーーーーーーーーーーーーーーッ!!!」 「あ、いつぞやの魔法使い」 闇の妖怪・ルーミアが振り向いたその眼前に、急接近した魔理沙が改造スペルカードを叩き付けた。 「うわわわわわ、暴力反対っ」 「問答無用、食い物の恨み思い知れ!! くらえぇ、魔砲『ファイナルスパー…』」 魔法を解放した瞬間、魔理沙の視線の先にあったのは、 驚いて目を丸くするルーミアと、 その頭の向こう、 森に隠れてひっそりと立つ、 見慣れた三角屋根の小屋。 壊れていない自分の、 霧雨魔理沙の館。 「………………え? え、ええええええええええ?」 発動した魔法が、 顎をかくんと落とし、呆然とする魔理沙と、 訳が分からないまま驚いたルーミアと、自分の小屋とを容赦なく飲み込む。 ――そして、再び光が溢れ、森を根こそぎ薙いだ。 日の暮れかかった幻想郷に再度、光輝の道が形成された。 ☆ パチクリ。 何度もまばたきをする。 気がつくと、自分は青空の下をゆっくりと浮遊していた。眼下には大きな湖と窓の少ない巨大な洋館……紅魔館が鎮座している。また魔法の影響で吹き飛ばされたらしい。 「あれ? ……ここは? ルーミアは? また昼間? どうなってるんだ?」 「こんなところで何してる」 不審物をつつくように鉾を向ける中国……もとい、紅美鈴がいる。 魔理沙は近づいて来た美鈴と一瞬にらみ合い、そのすべすべの頬をいきなりギュッとつねった。 「いたたたた、痛い痛い痛いっ!」 「夢じゃない……」 「ちょっと! そういうのは自分でやりなさいよ!」 「今何時だ」 「へ?」 必死の形相を浮かべた魔理沙が、つかみかからんばかりに美鈴に詰め寄った 「だから、今は何時だっ」 パチュリーの図書館に、黒くて騒々しい侵入者が現れた。 毎度のこととはいえ、管理者はうんざりとした表情を隠さない。 「また来たの? 本なら貸さないわよ、あんた延滞しすぎよ。実力回収も疲れるのよね」 「おいパチュリー、さっき私に教えたあの魔法、なんだか変じゃないか?」 「……私が人に秘伝の魔法を教えるわけないじゃないの。盗み見るなら別だけれど」 「はぁ? お前もそんな感じなのか。全員で私をからかってるんじゃないだろうな?」 「誰のことをいってるかしらないけれど、あんたを嵌めるのにそんな手間は掛けないし、もしやるなら完璧に計画するに決まってるじゃない。残念ながら今は何もないわ」 しかし、今の魔理沙は言葉遊びをしている精神状態ではなかった。疑念は最高潮にたっしていたからだ。 「馬鹿言うなよ、お前が本棚のこの辺りからこれを抜き出して、『薄い本だから、ここで読んで覚えていきなさい』って……あれ?」 陳列してあった魔道書を取り出して……魔理沙は首をひねった。手には真っ白な埃がついている。もう何十年と触られてた気配のないその本はたっぷりと埃を被っていた。とてもさっき読んでいたようには見えない。慌てて埃を払いながら、ぱらぱらとページをめくる。書いてある内容も全く一緒だった。見間違いようもない。 ふわりと舞い降りたパチュリーが、埃を吸わないように口を押さえながら本を覗き込む。 「……それ、不便すぎて使えない魔導書じゃない」 「なんだって」 パチュリーがいうには、この魔道書は手続きが簡単で強力には違いないのだが、魔法の効果を大幅に増大するかわりに、術者の時間と空間とを不確定の場所に移動させるというはなはだ迷惑なものらしい。 説明を聞いていた魔理沙の顔が、みるみる青ざめていく。 「ちょっと待て。と、いうことは……!」 目を剥いて慌てて自分の家に舞い戻った。 もちろん、小屋は無事だ。 そっと窓を覗き込む。 お気に入りの酒を傾けて本を読む魔理沙がいる。 酒瓶のラベルと本のタイトルでおおよそ見当が付く。 魔法の習熟に一日を費やしたとするなら、おそらくあれは――二日前の自分だった。 魔法図書館に戻ってきた魔理沙は悄然としていた。 肩を落として座り込む彼女を、本を開いているパチュリーが幾分面白そうに眺めている。 敵なんて最初から存在しなかった。 つまり、魔理沙は自分の魔法で自分の小屋をケーキごと吹き飛ばしてしまったのだ。 「なんてこった、だぜ……」 起点を、霧雨邸消失の日に置くと、魔理沙の取った「経路」はこうなる。 魔法習得に一晩を費やしたのち、一度目の練習マスタースパークで起点から一日後より、起点の日の夕方近くに時間移動した。博麗神社上空で出会った霊夢は、おそらくケーキを準備していた段階だったのだろう。そして、哀れなルーミアに叩き付けたファイナルスパークは、自分の住処を根こそぎ消し飛ばした上で、自分を主観的現在……つまり起点から二日前に移動させたのだ。 数日前から感じていた予感、あの妙な魔力の高まりは、同じ時間に同じ魔力を持ったもう一人の自分をなんとなく感じていたに過ぎなかったというわけだ。 確かに、こんな魔法をうまく運用できるわけがない。不出来ながら完成してしまった魔法を、それでも一応書き残しておこうと考えた先人の貧乏指向を恨むわけにもいかなかった。 ただ一ついえること―― もはや具体的な怒りの対象はいないのだ。 自分の悪運が重なっただけなのだから。 「……はぁぁ。努力って、実らないこともあるんだなぁ」 「あんたのを努力というのかは定かではないけどね」 「うるさい」 ただ、このままでは収まらない。 未来に於いて自分が自分の家を消し飛ばすのは仕方ないとしても、あの霊夢のケーキだけはなんとしても食べなければ。霊夢の性格を鑑みるに、おそらく金輪際口に出来ないであろう秘宝ともいえる。何も知らなかった未来の魔理沙は、ケーキの件で霊夢を完全に怒らせてしまうのだから。 だが、現在の魔理沙はここから起こる出来事の流れをおおよそ把握している。 あの傍迷惑な攻撃魔法を使わなければ、時間の流れがよじれることはもうないのだから。 こうなれば、なんとしてもあのケーキを食べなければ。 極度の空腹と相まって、彼女の目標は一気に収束した。 「パチュリー、ケーキ作りの本を貸してくれ。それから台所も。それから、ここにいることは誰にも内緒にしてくれよ」 「……そういうのは私じゃなくて、咲夜に頼むべきだと思うけれど」 それから魔理沙は、丸一日掛けてケーキ作りを習得した。 記憶の中の霊夢のケーキは、とてつもなく旨そうにみえた。食べてはいないけれど、その想像を上回るレベルで技術を覚える必要があった。それでなくても霊夢に負けるわけにはいかないのだ。何に於いても。 それから、魔理沙は博麗神社へと向かう。 いつものように、縁側に座ってお茶を飲んでいた霊夢。まだ何も知らないから、のんびりと煎餅をかじっている。 「あら魔理沙、今日はどうしたの? なんか慌てているみたいだけど、どっかで財宝荒らしでもして追われているの?」 「霊夢、ケーキとか作ってみたくないか?」 「全然。面倒くさそうだし、第一わたし和食派だもの。ほら」 ばりばりばりばり。 煎餅を噛み砕き、とりつく島もない霊夢。 予期していたとおり、ケーキなんて作れる知識すら皆無の様子だった。結局、霊夢にケーキについて吹き込むのは現在の魔理沙自身だったのだ。 それでも。 魔理沙はあのケーキを食べなければならない。 ならないのだ。断固として。 それが現在の彼女を突き動かす至上命題だった。 魔理沙は霊夢の前にずずいっと立ち、霊夢の手を取ってぎゅっと握った。 「な、なによ魔理沙」 「単刀直入にいうぜ……霊夢にケーキを作って欲しいんだ。私のためにケーキを作ってくれないか。材料とかは全部用意するし、作り方だって伝授するから」 「何よ、自分で出来るならしなさいよ。面倒くさい」 そっぽを向く霊夢を引き寄せ、真正面から霊夢の瞳を覗き込む。 紅潮している魔理沙。 霊夢も何故か、頬を染めて顔を逸らす。 「な、なんでよ……変な魔理沙」 「頼む、この通りだ。霊夢が作ったのでなきゃ駄目なんだ。私に霊夢の作ったケーキを食べさせてくれ。霊夢のケーキが食べたいんだ」 「…………………」 抱きしめんばかりに迫られるのは、博麗の巫女もおおよそ初めてではなかろうか。魔理沙の必死さに呆れつつ、困惑しきった笑みを張り付かせている霊夢。顔がひくひく震えている。 見る人が見れば勘違いするような光景が、誰もいない神社の境内で展開していた。 魔理沙の壮絶なプッシュが実り、乗り気でなかった霊夢はケーキ作りを引き受けた。 そして、霊夢にケーキの指導をする魔理沙。 なんで自分の食べるケーキの作り方を教えなければならないのか。 馬鹿馬鹿しくて涙が出そうだったが、魔理沙にも意地があった。 「でも……やってみると結構面白いわね、これ」 「だろう? やっぱ経験が大切なんだよ」 そういいつつも、魔理沙はちっとも楽しくない。普段なら新しい知識を覚える際に無上の喜びを感じるものだが、確定した未来へ淡々と、まるで穴を掘っては埋めるような自分の行動は、単に不毛の一言だった。その上何度も何度も練習と味見を繰り返したせいで、そろそろケーキを見るのも嫌になりつつあった。 しばらく練習して霊夢が一人でケーキを作れるようになり、霧雨邸に届けさせる時間を丹念に確認してから、魔理沙は再び図書館に隠れた。この時間には少なくとも一人、もしかしたら二人の霧雨魔理沙が存在するのだ。うかつに出歩いて誰かに見つかる訳にはいかなかった。 腹が空いたので館を取り仕切る時計メイドに食事を分けてもらうように頼んだのだが、無碍に断れれてしまった。気が立っていたせいで口調が荒々しくなったのが悪かったのか、それともキッチンを汚したのが逆鱗に触れたのか。仕方がないので、自分で作った練習ケーキで持たせるしかなかった。いい加減あまったるい口の中に辟易していたが、意地だった。 あのケーキを、 霊夢の作ったケーキを口にするまでは。 ☆ 「ううむ……真相は闇の中だが、とりあえず食べないのは勿体ないな。霊夢が今後もケーキを作るなんて想像出来ないし……」 あの怒りようでは二度と無いかもしれない。 熟考と浅慮が互い違いに黒服を纏う小さな少女の中で、とりあえず目の前のかわいらしいケーキを平らげることが最優先事項になった。酒の勢いとは恐ろしい。 戸棚からナイフとフォークを取り出し、さて切り分けんと手を伸ばした、 が、その瞬間、 背後の扉が勢いよく開け放たれた――! 「な、なんだっ」 ファイナルスパークが背後で起動するタイミングを計っていた。 完全に今しかないチャンス……! 自分の部屋に飛び込んだ魔理沙は、テーブルに覆い被さるように飛びかかった。羽織っていたマントを拡げて、目標となる人物の視界を多少なりと奪う。 目の前にはナイフとフォークを持って驚愕しているもう一人の魔理沙。 そう――「あの瞬間」がそうだったように、凍り付いて動けないでいる。 自分は光る窓を背にして真っ黒な影に見えているだろう。 窓ガラスの向こうが圧倒的な乳白色に包まれ、影が濃さを増す。ルーミアを仕留める為に魔理沙が放った、改悪マスタースパークの光だ。 時間はない。 「自分」の向こうに、あのケーキが、 夢にまで見た霊夢のケーキがあった。 必死だった。この二日、そればかりを想像していた。 それが目の前に、確かに存在している―― 両手を伸ばし、掴みかかる……! 「なっ……」 身構える暇もなく、 まるでその瞬間、世界がコマ送りになってしまったような世界の中、 魔理沙と魔理沙が交差して―― 「やった! やったぞ! 遂にこのケーキを、霊夢が私のために焼いたこのケーキを手にいれたぜ!」 辺り一面が無惨な焼け野原になっていた。 まだ何も知らない魔理沙は家から這々の体で脱出し、事件の全てを知る魔理沙は狂喜しながら立っていた。 霊夢の作ったケーキと共に。 「いやったぁああああ! これは私の、私の物だぜ!」 小躍りした瞬間、 「ぅあ」 近くの木の根に足をひっかけた魔理沙はこけた。 まるでスローモーションのように舞うケーキ。 ゆっくりと形を変えていく生クリーム。 慌てて伸ばした両手をすり抜け、 べしょ。 無惨な音を立てて、クリームが爆ぜた。 柔らかい生地の中に、黒い帽子の下の顔が埋もれていた。 ハンコのようにケーキを押しつけられた顔が呻いた。 「……あ、あまい」 ☆ 「……………………」 パチュリーは一度溜息をつくと、本を畳んで脇に抱えてふわりと浮かび上がった。 そして、さほど遠くない本棚から一冊の本を取り出すと、魔理沙に差し出す。 「薄い本だから、ここで読んで覚えていきなさい。それから、はた迷惑だから練習は遠くでやること」 「分かってるぜ。特訓は秘密に限るからな」 「それなりに賢明ね」 魔理沙は目を皿のようにして古代文字の魔法手順を脳に焼き付けていく。 薄い本とはいえ、曲がりなりにも魔道書である。きちんと理解し使いこなせるにはかなりの習熟を必要とした。パチュリーが燭台の蝋燭を幾度となく交換するぐらいの時間はゆうに掛かる。それでも魔理沙の集中力が途切れることはなかった。 そして。 「よし覚えた! 完璧だ。今からさっそく試し撃ちをしてくるぜ!」 黒衣の魔法使いはそう吐き捨てて本を乱暴に放り出すと、黒い疾風そのものと化して飛び去った。騒々しい乱入者が立てた図書館の埃が再び床に舞い落ちるまでに、結構な時間が掛かりそうである。パチュリーはそれを迷惑そうに手で払いのけつつ、眠い目を擦りつつ静かに嘆息してから……少し離れた本棚の影に向かってちょちょいと手招きをした。 本棚の陰から出ていたのは、しょんぼりとめげる霧雨魔理沙だった。 「はぁぁ……」 無理もない。 今出て行ったばかりの霧雨魔理沙がこれから経験する「あの」苦闘を知っているのだから。 事件はこうして終わった。 残ったのは、消し炭になった自分の家、カンカンに怒っているであろう霊夢、そして結局食べられなかったケーキと無駄についた脂肪とムカムカする胃。覚えてしまった変な魔法のこともある。焼き付けた手順が通常のそれと酷似しており、暴発させやすいことが判明したのだ。魔法を使うたびに時空間を吹っ飛ばされるのは御免被りたいが、意図して忘れることもまた難しいのは言わずもがなだった。 もう散々だった。 魔理沙の肩にポンと手を置くパチュリー。 「わたしもう寝るから。ケーキの本、ちゃんと棚に戻しておいてね」 毛布を渡すと、魔理沙はひっくり返ってそれにくるまった。 しばらくするとその中から小さな啜り泣きが聞こえてきた。 パチュリーが肩をすくめて、一言。 「まぁ……そんなに甘い話なんて、ないわよねぇ」 (初出 「飛行少女」) |
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