有為の奥山けふこえて



 窓の向こうに翼の影が落ちた。
 鴉ではない。三本足の鴉なら見てみたいけれど、無理な注文だろうか。
 でもあれは、もっと力強い、猛禽類の翼。
 町にまで下りてくるようになったのか、町の境が森に取りこまれようとしているのか。
 それとも、本当は――
 もっと優雅な、蝶のはためきなのだろうか。
 紅と白に霞む、幻の二色蝶の。
 ああもう、ここからでは多分、何も見えない。
 窓際の私の席からでは。



  駆けてゆく
  畦道を
  翼ない背は重いけれど
  虹の橋
  雲の階を
  めざし

  首のない地蔵尊
  天狗の抜けた林の穴
  かき消える
  あの世界
  めざし――




「……この詩歌は、『諸行無常・是正滅法・生滅滅己・寂滅為楽』という涅槃経の教えを元に構成された言葉と伝えられています。世界の終焉におののいた平安末期の来世嗜好、浄土信仰の影響も多分に窺えますが、これは今日までの歴史が物語るように、繰り返す世情不安の信仰への希求がなせるものでしょう。ただいま精神的な発展の途上にあるわれわれ日本人にとっては、このような霊的世界の発展こそが文明の発展に比例するという事実を振り返る事例とも捉えることが出来ます。まぁこの講義は国語でありますので、社会的意義ではなく言語的成果として受け止めることに致しましょう。そういった意味で見ると、この歌は同じ文字を二度使うことなく前後に関連させ、なおかつ今様形式を守った、発想と技巧の極致ということができます。なお、この手の遊びには他にも同様の歌が残っておりまして……」
 暇だ。
 年老いた先生の声が水中のように濁って聞こえる。
 悪い先生ではないのだが、いかんせん言っていることは化石のような言葉ばかり。過去をそのまま現在に翻訳する作業などに何の意味があるのだろう。過去は過去のまま「視る」べきなのだ。
 たとえ時代のせいで、その意味が正確に解らなくなっていたとしても。すり減った石版は、ただそこにあるだけで時間を正しく伝える筈。
 黒板から焦点をぼやかし、脳裡に幻想の星空を浮かべる。
 毎晩毎晩、天球儀を片手に見上げる夜空など、一瞬で容易に、正確に思い出せる。
 その運行をもシュミレート出来る。
 もちろん、日が照っている間も可能だ。お日様によって仮初めの昼が形成されている間も、星空は動いているのだから。星が動くなら時間は「見える」。
「……午後三時十五分ジャスト」
 小声で呟く。少し耳の遠い先生にも、私と同じように授業に飽きたクラスメイトにも届かないぐらい、小さな声。
 鉛筆を回したり、分厚い教科書にぱらぱら漫画を書いたり。授業中の暇潰しはバリエーションが豊かにならなくて困る。
 今はただ、時間の推移を感じて放課後を待つ。
 脳裡に浮かぶ星空を眺めながら。
 教科書に記載された事柄は等価な知識だが、それを選ぶのは「視る」ことを捨てて世の中を見る大人たちだ。彼らは彼らなりに世界を形成しようと努力しているってわかるし、このまま星の運行を追いかけているだけならば、私だって彼らに追いつき、後から来る世代に追いつかれるのは間違いない。
 私たちの世代だって、ほどけた紐を自分なりに撚り合わせようとする時間は既に過ぎ去ろうとしている。時間の運行は本当に速い。そして魅力的だ。そこに自分が流されていると感じること自体が、快楽に繋がることだってある。それほど人は小さく、また脆い。
 ただ。
 それを甘んじて受けたくない、例外は何処にだっている。
 大人になってもそうなのだから、子供は必死でそれから逃れようとする。
 いや――別に逃げ出す訳じゃない。
 探すのだ。外界へと続く抜け道を。
 そう、私たちのように。
 脳裡の天蓋を回転させ、北の空を浮かべる。中央に光る北極星。いつか窓辺でみた星屑はとても美しく、また高貴だった。だけど、あと一万年もすれば彼は、北の空の主人の座を明け渡す運命に囚われている。天の龍に飲み込まれる。冷たい方程式。薄れていく空気。眠り逝くライカ犬。無人の宇宙船。受取手のない人工衛星のメッセージ。まるで線のような超楕円軌道。メテオストライク。脈絡のないイメージが浮かんでは消え、宇宙の彼方に飛んでいく。
「……くん。宇佐見くん」
「あ」
 肘を突いていた私は、先生を含めクラスのみんなの視線を例外なく集めてしまっていることにようやく気づいた。
「すいません、聞いていませんでした」
「立ってなさい」
「はい」
 そこで、チャイムが鳴った。
 最後の食事を口にするライカ犬のベル。
 不吉なビジョンが浮かんでは沈んでいく。



  指が弾く光と、言霊と

  風の囁き
  漣の声




 最近、街から電柱が無くなった。
 景観保全とかいうことで、みっともない電線は厄介者扱いされ、水道管やガス管と一緒に地中に埋められた。旧い町並みを守るっていっても、古い建物は外観だけで中は近代的なコンクリートと鉄筋の塊だろうに。もちろん、今はやりの耐震設備もきちんと備わっている。東京の二の轍は踏みたくないからね。それはそれで正しいことだと思う。
 だけど、計画を進めた大人たちは、電線が区切っていたものには気を払わなかったようだ。電線は電話で人の言霊を運び、最近はネットで人々の文字をタイムラグなしに運んでいる。それらは全て力に変わる。空間を寸断し、あちら側とこちら側を形成している。
 それなのに、儀式も禊ぎもしないままぶちぶちとコードを切断し、新たな結界を形成している。理由のない結界の大増殖だ。街は微塵切りのようになっている……それなのに、誰も気づかない。
 最近、野良犬を見なくなった。
 たまに歩いていると思うと、足が朧だったりする。犬はそれに気づかずに、今日もせっせと縄張りの監視を続ける。そんな犬の正体に大人は気づかずに、頭を撫でたり餌を与えたりする。犬の魂はそれをいいことに、無意味な結界を保ち続ける。多分あの人たちは、自分の足が虚ろになってしまっていても、気づかないんじゃないだろうか。
 世の中は日に日に混沌としていく。
 夢に理由を与えて現実に引き寄せたり、現実を忘れるために夢に溺れたりする。
 子供の数が減り、大人の数も減った。
 大崩壊以前は今よりももっとひどい時代だったという。
 それからみんな、賢明に頑張ってきたのもよく知っている。それはまだ歴史じゃない。私たちが生きてきた時間そのものだから。
 それでも、なおかつ。
 夢をそのまま受け止める強さも、
 厳しい現実を生き抜く力も少しずつ磨り減っているような。
 頼りないビジョンを家々の影に隠している、
 ――ここはそんな街。



   消え果てた
   結界の
   源泉に立つ彼の少女は
   紅く笑み
   白く霞み
   揺れて……祈る

   この夢の終局の
   桜に満ちた大気の底
   深き闇
   かき分けて
   空へ――




 お気に入りの黒い帽子を被って下駄箱に降りると、土足場の柱に身を預けていた少女が手を挙げた。金髪が美しく、いつも柔和な笑顔……まぁ眠そうだという表現でも良いが……を浮かべた私の親友だ。
「メリー、また授業中に眠ってたでしょ」
「そういう蓮子だって、星を視ていたわね」
「教科書は全部覚えちゃったし、その記憶を引っ張りだすのが面倒くさいわ。国語だって結局、テストで求められる回答は一つしかないんだから、聞くだけ無駄じゃない」
「この由緒正しき教育施設の中では、暗記と勉強は等価なのよ。それが作法っていうものじゃない」
「分かってるって」
 私が靴を履き替えると、メリーは体を起こした。珍しく運動靴を履いている。
「……で、どんな夢を見たのかしら。いつもは校門で待ってるメリーが、ここにいるってことは、また夢とうつつの境界を覗き込んだんでしょ?」
「うん。これ」
 メリーが差し出した手がゆっくりと開かれると、光の結晶がふわわっと舞い上がった。
「………………」
「………………」
 風に流されるまま、散り散りになって消えていく光。羽毛のように軽いが、乱反射しているようにも、羽ばたいているようにも見えた。
 光は小さくなりながら、校庭の方へ、その向こうへと飛散していく。
「……なに、あれ」
「蓮子は何に見えた?」
 ふと想起するイメージ。授業中に視た翼の影。
「……蝶、かな」
「私は女の子に見えたけれど」
「今のが? 女の子?」
「うん。なんかね、こっちにふわっと振り向いたような、そんな感じに」
「ふぅん」
 メリーはその能力もそれなりに特殊だが、感性だって結構特殊だったりする。
 たとえば……私とメリーが同じ雲を見あげて、同じ物を想像した試しがない。
「くじら」といえば「ラケット」といい、
「もみじ」といえば「貝殻」という。
 もちろん、世界は常に変容しているから、私とメリーが同じ物を視てればいいという話でもないのだけれど……。それでも、いつも一緒にいるのは、同じ物を視てみたいと思わせるものが彼女にあるからだろう、と思う。ごくたまに考えが合致した時なんか、頬が緩んでしまう。
 もしあの能力が無くても、私は彼女の手を引いたかもしれない。
 そういう娘なのだ、マエベリー・ハーンという少女は。
「……久しぶりに、メリーの考えが時間みたいに解るわ」
「へぇ。どういうこと?」
「今日は校門じゃなくて、裏口から抜けようって言うつもりでしょう?」
「大正解。きっと向こうにあるわよ、新しい結界」
 私たちが視る結界は、大人たちが乱暴に切り裂いた世の中の切れ目じゃない。
 現世と幽世、二つの世界に定めとして分かたれた、古い歴史が描いた本当の結界。
 夢を違える科学世紀のさなかから、そこを覗き込む。
 そこにあるものが不吉でも、
 目をそらさず、ありのまま「視る」ために。
 そして、もう少しだけ……そちらへ手を伸ばすために。
「蓮子、今何時?」
「午後四時、ジャスト!」
 放課後を告げるベルが遠ざかる。
 今はもう、寂しくは聞こえない。


  色は匂へど 散りぬるを


  我が世誰そ 常ならむ


  有為の奥山 今日越えて


  浅き夢見じ 酔ひもせず


 私たちは秘密のサークル――秘封倶楽部。
 何かを悟ってしまうなんて勿体ないこと、到底出来そうにないから。
 翼はないけれど、この足で地を駆けて。
 今日もあの山を越えて、浅き夢を視に行こう。
 さぁ、
 日が暮れゆく放課後、あの恐ろしくも懐かしい丑三つ時まで。
 永い永いクラブ活動の始まりだ。



   消え果てた
   結界の
   源泉に立つ、彼の少女は
   紅く笑み 白く霞み 揺れて 祈る

   この夢の
   終局の
   桜に満ちた大気の底
   深き闇
   かき分けて
   空へ――




      (参照 http://www2.odn.ne.jp/~nihongodeasobo/konitan/iroha.htm)



(初出 「飛行少女」)

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