曙光天魔



 潮風にたなびく、その長く翻る、
 緑の髪――
 顕界を見通す瞳が何かを見つける、
 気流がうねる。
 世界を流れるのは七つの音階。
 そのひとつひとつが曲線となり路となり、いくえにもより合わさって太陽なき世界に星のタペストリーを織り上げる。
 そして、
 風をはらむ漆黒の翼が、今夜もその絢爛たる闇を切り取って、地を睥睨する。

       ☆

 蒼い月光の島嶼をぬって大きなフェリーが進んでいく。白く泡立つ航跡。緩やかに煙をあげるアイロンのように。鏡の海面に緩やかな波を描き、闇にさえ煙る黒煙をたなびかせて。
 キャビンやデッキ、自分の車でめいめい船旅を楽しんでいる多くの人々。
 それらを避けるようにして、甲板の隅で闇に潜む人影があった。
 幼い、少女。
 膝を抱えて座るその小さな躯は、それなりの段ボール箱にでも簡単に隠れてしまいそうだ。押し殺して漏れる声が涙混じりでも、周囲に燈火なく、船の力強いエンジンも轟音で、気づく人はない。
 もちろん気づいてもらっては困るから、ここにこうしている。彼女は密航者だった。夕暮れの港で、人の流れに紛れて乗り込んだのだから。
 それでも……自分で望んだこととはいえ、一人は怖かった。
 震える膝を抱えたまま、顔をあげる。
 夜空には満天の星々が秘められた光の地図を描き出している。街では決してみることの出来ない圧倒的な天球図が、少女の心に畏怖と恐怖を導いている。
 もう何度もそうしてきたように、凍えた躯を抱きしめ、すくみ上がろうとして。
 ふと、違和感を覚えた。
 目の前の手摺りの上。星空の一部が不自然に切り取られている。その闇はまるで、影絵のように人の形をしていて――
 そう思った瞬間、人影が自ら光を帯びてほんのり浮かび上がった。
 円形をした握りに、大地に立っているかのように揺らがずまっすぐ屹立し、星光の天蓋を全身で受け止めている。緑色に流れ落ちる長い髪、奇妙な形の蒼い服、手には沙悟浄のそれのような長い鉾。そして、背中からは大きくて力強い、漆黒の翼が生えていた。
「天使……?」
 その翼の意味をぼんやりと想像しながらも、思った通りの言葉が涙に濡れながら少女の口をついた。
 まるで弥勒菩薩のように整った表情が、蓮花のほころびのように緩くなり、少女を見下ろしてくる。
「あらあら……わりと永く生きてきたけれど、天使に間違えられたのは初めてね」
「……違うの?」
「もし黒い翼を持つ天使を見かけても近づいちゃいけないよ。偽翼なら身の程知らずだし、本当の翼なら天から転げ落ちた間抜けだから」
 少女には言葉の意味がよく分からなかったが、声という透き通った韻律それ自体が耳をくすぐり心を鷲づかみにする。
 女性というには幼いが、子供というには瞳に慧悟の光を宿し過ぎている有翼の存在は、アルカイックスマイルを風にそよがせている。
「ただ、まぁ天使とは縁がないわけでもないけどねぇ」
「……あなたは、誰?」
 緑の髪がほのかな月光を帯びて大きく翻った。
「通りがかりの悪魔、かしらね」


 蒼い悪魔は、自分のことを魅魔と呼べ、といった。
「魅魔、さん?」
「さん付けはくすぐったいけれど、まぁいいよ……で、お嬢さんは何をしてるの?」
「……なにも」
「おやおや。それはいい子供の答え方じゃないね」
 自分でも口を尖らせているのがよく分かった。やっぱ子供っていうのは、大人に期待された答え方をしないといけないらしい。たとえそれが悪魔であろうとそうなのだ、きっと。
「悪い子だから、私」
「自分のことを良い子だという子は最近あまりいないよ。例外はあるけどね……で、どんな悪いことをやったのかしら?」
「家出」
「どのくらいの家出?」
 変な風に返されてちょっと虚を突かれたが、もう一度答える。
「もう帰らないぐらいの家出」
「へぇ」
 軽かったが、魅魔の口調は決して馬鹿にしたような感じではなかった。孤独が潤される瞬間は、蜂蜜のように甘い罠。それでも、自分の言葉が届いたことが少し嬉しくて、一人で抱え込んでいた言葉が勢いづいて口に出た。
 一人で抱え込んでいた決心が。
「死んじゃおう、って思って」
「……そりゃ、物騒な話だね。そういわれてみればそういう雰囲気もあるけれど」
 さすがに悪魔だ。驚いたりしない。怒ったりもしない。少女は魅魔という存在をちょっとだけ信じ始めた。
「お父さんやお母さんは?」
「あの人達は、わたしのこといらないんだって。喧嘩してるの聞いたから」
「だから、死のうと思った?」
 頷く。
「でも、実際死ぬのは怖かった」
 ……ゆっくり、頷く。
 夕闇に紛れて船に乗ったものの、手摺りの下の海面は遠く淀んで、足がすくんだ。夜のとばりが満ちる程、闇が降り星が天に瞬く程、恐怖は増大した。海原から潮風を浴びるのさえ怖くなって、荷物の影に隠れて膝を抱えていた。
 野球のボールよりも小さな心臓が、弱き意志に反して生を望んだ。暗愚な少女の懊悩など意に介さないほどに、闇の力は強力だった。絶望へ追いやる無知を生命それ自体がたしなめたのだろうか。
 再び膝を抱える少女を、手摺りに寄りかかって立つ魅魔は面白そうに見ている。よく見ると、少女は靴を片いっぽう履いていない。そちらの足を寒そうに、靴に刷り当てている。
「望むなら……殺してあげてもいいけど」
 少女がゆっくり顔を上げる。
「なにしろ悪魔だしね、私」
「本当?」
「望むなら、全然痛くないようにできるよ。一瞬で」
「……ころして。お願い、魅魔さん」
「でもね……あんたが出がけに捨てたオモチャや本みたいに、買い直せる思い出とは違うよ。生と死の境界線を越えてしまうってことは」
 悪魔に記憶を読み取られて少し驚いた少女は、思い直すように奥歯を噛みしめた。
「引っ越したばかりから友達もいないし、死ぬってのがどういうことかだって知ってるわ。さっきまで喋ってた人がただの物になっちゃうの。わたしも死んでしまえば……そうなるだけ」
 そして、少女は力無く笑った。
「でも、悪魔さんに殺されたら、地獄に連れて行かれて延々と苦しむのかな。それだったら嫌だな」
 魅魔は少しばかり考えたようだが、
「あんたが何も持ってないのは分かったよ。そのまま死ぬのは可哀想だし、一つ二つプレゼントしてあげよう。悪魔との契約って奴ね」
 手摺りから飛び降りると、少女の頭に優しく手を置いた。


 一瞬の暗転の後、少女は目を開けた。
「…………………………」
「ようこそ。死後の世界へ」
「死んでない……」
「あら、ばれちゃった? ……でももう、あんたは境界を越えちゃったよ」
 確かに、なんだか妙に体が軽い。一糸まとわぬような心細さを覚える。
 それに……背中に違和感を覚える。なんだろう。
「立ってごらん」
 言われるままに立つ。魅魔が懐から鏡……それも教科書か博物館でしか見ることのない古めかしい銅鏡を取り出して、自分の前に差し出す。
 鏡の中の自分は、泣きはらして紅い頬はそのままだったが、髪は薄い翠になっていた。魅魔によく似た蒼い服を着せられ、可愛いリボンがネクタイ代わりに施されている。そして……魅魔よりは小さいものの、黒くてまるで蝙蝠のような、一対の翼。
「……これ」
「見た目はどうあれ、あんたも飛べるよ」
「飛べる……」
「そう、こんな風にさ」
 魅魔に手を引かれた。
 抵抗する間もなかった。
 風が強くなり……やがて何も感じなくなった。星空が近くなる。今まで乗っていたフェリーがあっという間に、鏡面の上の笹の葉のように小さくなる。海は星々を映してもう一つの宇宙になり、小惑星のような島々がどこまでも連なっているのが見える。何も感じなくなったのは、自分が風になっているせいだと気づくのに、さほどの時間もかからなかった。
「さて、今度は自分でやってごらん」
「え」
 魅魔がぱっと手を離した。
 慌てて手を伸ばすが、届かない。
 落ちる――
 再びふくれあがる絶望、
 だけど、それを下から押し支える何かがある。それは体の中にある、黒ずんだ、小さな……心臓の代わりに脈を打つ、金剛石の結晶。圧縮されればされるほどに固くなり硬度を増す、人外の宝石。
(飛べるよ)
(飛べるよ)
 誰かが耳元で囁く。魅魔……いや、風に紛れる闇の眷属だろうか。自分の声のような気もする。人でなくなった自分を迎え入れてくれるのだろうか。
 一人はいやだった。パパにもママにもいらないといわれた。孤独にさいなまれ、死すら選んだ絶望。それを押しとどめたのは、甘い悪魔の誘惑だった。
 それでも、いい。
 一人でいるよりは。
 誰にも見られずに死ぬよりは。
 ……あれ? 
 変だな、もう死んじゃったはずなのに。
 急速に接近する海面を見つめながら、少女は微笑んだ。長いこと忘れていた表情を取り戻した。
(飛ぼう……飛べるのなら)

 ヴサァッ――

 小さかった背中の翼が、いきなり巨大に展開した。風をはらみ、風を抱いて。再び夜の大気へと舞い上がっていく。
 全身にしみ通っていく充足感。
 風になった幸せ。
 人間では決して得られなかった感情。
 限りない快楽。
 上空に影が差す。さらに巨大な翼を広げた魅魔だ。それを追って夜空を飛ぶ。
 少女は夜と海との境界線へと舞いながら、一言呟いた。迷うことなく。
「……さよなら」


 東の空が紫へと転じつつあった。
 明けの明星が輝く空。境界。
 短い悪魔の時間は終わろうとしていた。
 二人は、出会ったフェリーの甲板に再び立っている。
「あの、一緒には行けないんですか……魅魔さん」
「魅魔様。一応、あんたは私の眷属になったんだからね」
「……あ、はい。魅魔様」
「私はまだ一人で旅を続けたいからね。少しばかり残念だけど連れて行くことはできないわ。無責任かもしれないけれど、諦めてね」
「…………………」
「悪魔が人間のいうことをすんなり聞くと思ったら大間違いなのよ」
「そう、だけど」
 またあの孤独に陥るのは嫌だった。自分が人外になったことは分かったけれど、人間的な感情がまだ、自分の大半を動かしている。
 唇を噛む悪魔の雛を見おろして、魅魔は微笑んだ。
「ま、一人でいきなり悪魔をやっていくってのも辛いかもしれないね……だから、まず私の言うとおりにしてごらんなさいな」
「………?」
 魅魔は日の昇る方角へと指をさす。
「ここからまっすぐ、太陽が昇る方向へ飛びなさい。海を越えて、陸地にさしかかってもひたすらにまっすぐに。そうすると、山麓を取り囲むように設けられた古い結界が見えるから」
「結界……?」
「みれば分かるわ。そこにそのまま近づくと、結界に邪魔されたり、境界に棲む性根の悪い妖怪にいたずらされたりするから……結界に沿ってしばらく飛んで、小さくてみすぼらしい神社を探しなさい。そこにいる脳天気な巫女に相談すれば、まぁ何とかなると思うわ。永く訪れていないけれど、そいつの周囲にいる奴らなら大体害はないから。逆にこっちが害を成せるぐらいじゃないと駄目ね」
「そこは」
 少女が顔を上げる。
「そこは、魅魔様の故郷ですか?」
「ちょっと違うけど、わりと縁の深い場所だよ」
「じゃ、そこにいれば……また、魅魔様に会えますか?」
「……どうだろう。可能性がない訳じゃ、ないかもね」
 少女の瞳に何かが宿る。その輝きは、悪魔であるがゆえの欲望の光だ。純粋であるからこそ輝く金剛石の光。
「じゃあ、そこへいって立派な悪魔になります。もう一度、魅魔様と一緒に飛べるように」
 魅魔は答えない。
 少女にも、もうそれは分かった。それでも構わなかった。わたしには翼がある。家を出た時に重くて仕方なかった躯はもうどこにもない。周囲の全てを呪った心はダイヤモンドに変わった。悪魔に願い、死を望んだ時点で天使にはなれないだろう。だけど悪魔の翼でも風になれるのは分かったから、今はそれでいい。どうせ……今の自分にはこの翼以外に、何もない。
 永遠に子供のまま、
 生まれたばかりの悪魔のまま、
 わたしは東方へ飛ぶ。
 会ったことのない巫女に会うために。
 そこでもう一度、目の前の悪魔と逢うために。

       ☆

 翼の羽ばたきが風と共に去る。
 眼下の海中に、魂を失った少女の躯が沈んでいく。血の気を失った首筋には紅い牙の跡。彼女の血は大層甘かった。
 人と悪魔が交わる時、それを堕落という。孤独にあえいでいた少女は、簡単に堕ちてしまった。その脆さが、なぜか寂しい。
 悪魔の翼が生む自由には、滾々と湧き出る欲望を無条件に満たすという現実がつきまとう。少女は旅の途中で追々、人間と悪魔との距離について苛まれることになるだろう。もちろん、それは少女に伝えていない。何故なら魅魔は悪魔だから。
 それでも、
 それでも、辿り着いて欲しい。
 山々に囲まれたあの懐かしい場所へ。
 外界の混沌が増すにつれて、一層華やかになる理想郷。その華やかさを倦んで旅に出たが、結局のところ悪魔の渇きを癒せる場所などありはしない。いや、逆に畏れたのだろうか……悪魔でさえ充足させてしまう程の幻想の大きさに。
 そう。
 幻想郷は膨張を続けるだろう。
 いつか世界が滅びようとも、人々の記憶をかき集めて、幾重にも花を咲かせて。
 そこには幻想の人間と妖怪が暮らす。こまっしゃくれた巫女や、人なつっこい魔法使いや、様々な妖怪たちが生を営む。そしてまた……生まれて間もない小さな悪魔もいるのかもしれない。
 この先、自分が舞い戻ることはあるのだろうか。
 あるかもしれないし、
 ないかもしれない。
 もし戻れば、自分の居場所が存在することは分かっている。だから戻らないのかもしれない。
 それでも――
「よし」
 一人頷く。
 ……さぁ、旅を続けよう。
 森羅万象を超える私でさえ、見ていない物がこの世界には万とあるのだから。
 顕界は那由多より広いのだから。
 決して天には届かない、この漆黒の翼に備わった自由意志が導くままに。


 記憶の中の幻想郷を思い出しながら、魅魔は飛び立つ。その記憶に、ささやかな夜半の出会いが加わるが、もう過去の話だ。妖怪は記憶に拘泥しない。次の夜を目指して飛ぶだけだ。
 夜が明けようとしていた。
 曙の悪魔が、紫から蒼へとグラデーションを広げる大空を飛翔していく。



(初出 「飛行少女」)

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