つきなし図書館〜MoonLight Girl 「……やばい、霊夢がくる。こんな面白いことを知られる前に逃げないとやばいぜ」 「そうね。珍しく同感だわ」 仮初めの満月の夜。 博麗神社の境内の隅で、暗躍する二つの影があった。 いうまでもなく、宵闇は悪事に似合う。 そして――宵闇は、秘密めいた少女達にもまた似合うのだった。 「変ね。このへんからおかしな気配がしたんだけど」 闇夜に全く似合わない、紅白のおめでたい少女が歩いてきて、申し訳のようにあちらこちらに視線を投げる……が、しばらくすると元来た道をさっさと帰っていった。やる気のない時、彼女はまったく役に立たない。普通の人間以上に駄目な巫女だった。 「帰ったか」 「ええ」 「やっぱこの服が役に立ったな。黒ずくめの実利が証明された訳だぜ。お前の服なんて目立っていけない」 「相手が何も出来ない間に粉砕すればいいだけのことよ」 「私っぽい科白を取るんじゃない……それじゃ、行くぜ」 「今度こそ悪さしてる奴を懲らしめてやるわ」 「悪は私達のほうかもな。それよりもアリス、人にばっかり頼らず働けよ」 「私は背後から操るのが好きなのよ」 魔法使いは箒に腰掛け、人形使いが魔導書を抱いて、 あやかしとうつつの重なり合う巨大な月へと再び飛翔しようとして、 「ちょいまち」 べしゃ。 「……いーたーっ!」 「空中でつんのめるなんて、器用なこと出来るなアリス」 「ボケには突っ込みが必須なのよ! 痛いわねぇ」 「役割分担の再構成が必要だなこれは。無駄が多すぎる」 「あんたの科白じゃないわね。で、何よいきなり」 「いいこと思いついた。アリス、悪いがちょっと寄り道してもらうぜ」 魔理沙の微笑みが悪だくみに歪んでいる。こういう時ろくなことにならないのはアリスもよく知っているが、この表情が出た時点で手遅れだと云うこともまた常識だった。 「断らなくてもどうせ拒否権はないんでしょ。今回はわたしが頼んだんだし」 「えらく理解力がいいな。月の魔力かな」 そういうと魔理沙は、夜空の月から表情を隠すかのように、帽子を被り直した。 _____________________ 「……やっと帰ったわね」 少女は肩を竦めて、小脇に抱えた本を抱き直した。複数の足音が完全に聞こえなくなってから、ゆっくりとベッドに腰を下ろす。 ベッドの横に置かれたサイドテーブルにはティーカップが三つ。一つは全部飲み干してあり、一つは半分ぐらい残っていて、一つはほとんど口がつけられていない。もちろん最後が自分のだ。何処にも出て行かないのだから、慌てて飲む必要はない。 ベッドに転がると、右の虚空に窓がふわりと浮かび上がる。壁に備わっていない、アーチ型の窓。錆び切って開けられないような埃まみれの鎧戸が嵌っている。 ゆっくりと手を上げる。指先に揺れる魔法で命令すれば、こんな窓など一瞬で開く。ここは私のための場所なのだから。本も、窓も、紅茶もそう。ここは月のように満ち欠けはしない。ここに足りないものはない。無尽蔵に満ち足りる場所。尽きることのない場所。 ――主人を見守るように、無数の本がパチュリーのまわりを取り囲んでいる。 地平線から、地平線まで。 ☆ 湖の畔にひっそりと……いや、最近は別にひっそりともせず建っている紅い洋館がある。いわずとしれた紅魔館。幼くも強大な吸血鬼、レミリア・スカーレットの居城である。 その紅魔館の一角を占拠する巨大な図書館の主が、また一つ溜息をついた。 パチュリー・ノーレッジ。 生まれながらの喘息に悩まされながらも、知識と共に生き、強大な魔力を行使する魔女である。 彼女の領域であるこの場所は、本を仕舞うための場所と云うより、本で構成される独立した世界そのものだった。あまりに本が多すぎて、最近は図書館が洋館を侵食している観もあるが、館の実質的な管理者である『完璧で瀟洒なメイド』曰く、 「使いもしない部屋の数と読みもしない本の数を比べても仕方ないじゃない」 とのこと。実際のところ、何も変わっていないのかもしれない。 誰にも感じられない変化は変化とはいわない。 ただ、その感じ方は光を分解するプリズムのように異なっている。特に人間と妖怪の感覚は大いに異なっていることが多い。 今回の事件だって、人間には感じられなかったが、妖怪には大問題だった。 ――満月が、満月ではなかったのだ。 夜空に浮かぶ偽の月。ほんの少しだけ欠けた満月。 幻想郷の幻想分を蓄えるはずの月が、いつの間にか誰かによって盗まれていた。 生活圏が狭く感性の鈍い人間達と違い、本当の月のない夜空にいらだちを隠せない妖怪達は、力を持つ人間をそそのかして夜空の探索へと導いた。もとより夜空を好んで飛び回るような者は、人と妖の隔たりなく、無用なトラブルを好む傾向にある。この事件もその誰かによって、いつかどこかで解決してしまうのだろう。確かに歴史は夜に作られるのだ。他の誰にも気づかれぬまま、ひっそりと。 もちろん、夜を過ごすパチュリーもその異変には気づいていた。月光は魔力の増減にも関与する。彼女自身も自分に内在する力の、多少の不安定さに苛立ちを感じていた。 ただ、彼女が自分からここより動くことはない。能動的に魔法を使うこともあまりない。つまり、外界で何が起ころうが、パチュリーが知ったことではなかった。自身の安寧が崩されることを、彼女は一番嫌っていた。 それから僅かの時間が流れ、やはりというべきか、ほどなく満月は元に戻った。 しかしながら、夜の不安定さも魔力の減退も変わらない。どうやら事件の根本的な解決には至っていないらしい。あやかしの月を見上げながらパチュリーはまた溜息をついた。 それからしばらくして、静寂の図書館に訪問者が現れた。 パチュリーがもっとも嫌う、騒音と騒乱と騒動が黒い服を歩いてやってきた。 霧雨魔理沙と、そのおまけ、アリス・マーガトロイドである。 「おまけじゃないわよ! 失礼ね」 「誰と話してるんだよ」 「知らないけど」 「まぁいいけど……というわけで、茶を飲みに来たぜ」 「相変わらず無闇にでかい場所ね、ここ。大きければいいってものじゃないわよ?」 訪問者は記憶を上回る騒々しさで、日陰の少女をたちまちうんざりとさせた。 「……大きさは目的じゃなくて結果だもの。最初の部屋が四畳半だったっていっても信じないでしょうけどね」 「お前の最初の部屋ってのが畳敷きだったってのは信じられないぜ」 「日本式の寸法で表現しただけよ」 「とにかくお茶だ」 普段ならば何もいわずともお茶を持ってくるメイドが何故か今夜はいない。その館の主もいない。いつもは充溢した魔力が霧散しているのでよく分かる。 しかたなく、パチュリーは使い魔に給仕をさせる。 「いつもよりおいしくないぜ」 「お茶の葉も上品じゃないわ」 赤い小悪魔の少女は腹を立てて、さっさと何処かに消えてしまう。これではパチュリー自身の用事もやってもらえるかどうか。いい迷惑だった。 「で、今夜はわざわざ不味いお茶に文句を言いに来たのかしら?」 ……どうやらパチュリー自身も同罪らしいが。 「月がおかしいんだよ」 「知ってるわ。もうずっとずっと前から」 「そうなのか」 といいつつ、魔理沙は全く慌てない。パチュリーがそう答えることを、運命の輪が閉じる以前から知っていたような顔をする。自分の知らない知識をひけらかされることは、普段表に出ることのないパチュリーの自尊心をいたく傷つけた。それを気取らせることはないにしても。 「それだけ? じゃ、さよならね」 「ちょっと待て、ここからが本題だ」 「じゃぁ今まではプロローグかしら。妙にもったいぶっているけれど」 「いつもは美味しいお茶が大変に不味い。これだけで物語が始まるには十分すぎるオープニングだぜ」 「いきなり絶体絶命で始まるよりはいいかもしれないわね」 「飛行機の上で殴り合いをするんだな」 「アマゾン川流域でね」 「魔理沙、急ぐんじゃないの? お茶が冷めるまで喋ってるつもり?」 アリスが頬杖をついて呆れている。本来魔理沙とアリスは天敵なのだが、目的のためにやむなく合従連衡したわけだ。瓦解寸前だったが。 「その心配はいらないぜ。もう全部飲んだ」 「おかわりならないわよ。給仕がどっかいっちゃったもの」 「寒いとトイレが近くなるから遠慮しておくぜ。もう秋だからな」 「あら、そういえばそうかしらね」 パチュリーは引き籠もりなので、こういった季節の移ろいにとことん鈍い。彼女と図書館の知識は完璧なので日付を間違ったりはしないが、それに実感が全く伴わないのだった。 そんな様子を魔理沙はニコニコしながら見ている。 「でだ。私とアリスはその月を取り返しに行ってくる」 「いってらっしゃい」 「いってきます」 「話は終わり?」とアリス。 「ここまでが前説だぜ」 「拍手の練習はしなかったわ」 「もういい加減にしてよ」とアリス。突っ込みにも飽きたらしい。 「つまりだ」 魔理沙が体を乗り出した。 「パチュリー、お前さ……なくなる前の月、覚えてるか?」 「……………………?」 無駄に引っ張った上に出てきたのは、とんでもない愚問だった。 パチュリーはおろか、アリスまで肩を落として呆れている。 「そんなことのために長々と寄り道を……」 「なぁパチュリー」 パチュリーは一つ咳をした。わざとらしいがわざとではない。 でも、気分的には咳払いでもしたい気分だった。 「……霧雨魔理沙。私は魔女で、ここは図書館なのよ。月の力は私の力ともいえるわ。その私に月の記憶を尋ねるなんて」 「そうか?」 「あんたは莫迦だけど、間抜けだとはおもってなかったわ」 「だったら、今、ここで説明できるか?」 「説明?」 「何が本当の月で、どれがそうでないか、説明できるか?」 「それは、」 ――一瞬、言葉に詰まる。 そんな当たり前のことを尋ねる人など今までいなかった。 記憶の中の月は今も皓々と輝いてはいるものの、それを本物だと証明する方法はない。 大体、月の真偽などと考えた魔法使いなどいるわけがない。月は前提であり、月は絶対なのだ。太陽と同等、いやそれ以上に不可欠な存在なのだから。 「……どうした。口が尖ってるぜ」 「うるさいわね。じゃ、魔理沙は証明できるの?」 「できない」 終わらない問答に飽き飽きしていたアリスが暇つぶしに仕方なく、美味しくない紅茶に口を付けていたのだが、魔理沙の断言で一瞬吹いた。都会派魔法使いにあるまじき失態である。 「なんだよアリスきったないなぁ」 「なんであんたはそうめちゃくちゃ云ったうえに出鱈目に自信満々なのよ」 「嘘をついても仕方ないからな。できないもんはできない」 しかしながら。 パチュリーにとっては、これは結構な屈辱であり、また挑戦だった。 何しろ、回答できない問題ほど世の中にあってはならないことはなかった。それが悪魔の証明だろうが関係ない。だってここは私の図書館なのだ。完璧な知識の書庫なのだから。 「月を見てくるわ。きっと、あの月を調べれば証明する方法はあるはず」 「おっとまった、そりゃ反則だ」 「何故?」 「お前は自分の記憶の中の月を思い出して、あれが偽の月だと断言した。この図書館から一歩も出ないにも拘わらず、だ。それはお前の中に『本当の月』とやらがあるからだろう? だったら、今更外に出て月を確認するなんて卑怯じゃないか。私やアリスよりも知識と力のある魔法使いなんだからな」 「ひとまとめにしないでよ!」とアリス。 「それに、夜外に出るとまた喘息が酷くなるぜ?」 「う」 夜中は血中の酸素濃度が低下して、喘息患者はおおよそ苦しむのだが、パチュリーもその類に漏れなかった。ただし夜行性なので、結局咳ばかりしている。 「リサイクルのきかない健康優良児よね、魔理沙って」 「いつでも魔力のエネルギー問題だぜ、私はな……っと、そろそろいくか」 「やっとなの? 待ちくたびれたわよ」 「ち、ちょっと!」 思わず立ち上がったパチュリーに、魔理沙は笑いかける。 「どうせ一歩も外に出ないんだろうから、考える時間だけは山ほどあるだろ。私達が月を取り戻すまでに、頑張って証明方法を考えておくんだな」 「答えようのない問題なんておいていかないでよ、気持ち悪い」 「でも何でも知ってるんだろう?」 そんなふうにいわれたら、こう答えるしかないじゃないか。 「……ええ、何でも知っているわ」 魔理沙は歯を見せて笑って、 「だったら大丈夫だぜ」 呆れっぱなしのアリスは同情的な視線をパチュリーに送っていた。 ☆ そうして―― 魔法使いと人形使いは、紫の髪の魔女の前から姿を消した。 魔女は釈然としなかったが、悔しいので約束は守ることにした。取るに足りない約束だったが、契約を重んじずに魔法を行使することは出来ない。幻想郷にあっても、魔女は古風な生き方を守り続けていた。 そうして、数少ない窓は閉じられ、図書館は完全に閉鎖された。 小さな蝋燭以外に、光と呼べるものはなくなった。 案の定といおうか。小悪魔はいくら呼んでも帰ってこなかった。しばらくはへそを曲げっぱなしなのかもしれない。彼女がいなければ見つからない本もある。悲しいことだった。 仕方なく、電話で門番を呼んではみた。暇をもてあましていたのだろうか、彼女はすぐに行きますと即答。 が、それから数刻……一向にやってこない。 あのお人好しの門番のことだ、紅魔館の悪意にからかわれて彷徨い歩いていることだろう。間違って次元の狭間に落ちたり、妹様の部屋に踏み込まないことを、神以外の誰かに一応祈っておく。 やるせなくベッドの上にしばらく転がっていたが、このままでは埒があかない。 仕方なく、パチュリーは自分で図書館をうろうろとし始めた。 図書館のあちこちに点在している机の一つを作戦司令部と定め、そのまわりに月の文献をいろいろと積み上げていく。 魔力であちこちから本を抜き出し、テトリスのブロックのように落下させる。これは外界でもっとも広大であった国に存在したという、伝説の魔術師がつくった魔法術式だ。決められた形のブロックを積み上げては消すことで、その術を行使する魔術師をトランス状態に落とし込み、魔力をパワーアップさせる禁忌の法だという。パチュリーはそれとほぼ同じ術式を復元することに成功していたが、その程度の魔力なら自分でも織り上げることが出来るし、なによりブロックをひたすら消すというプロセスがあまり生産的とは思えなかったので、長らく封印している。 閑話休題。 ともかく、パチュリーはそうして、ありとあらゆる月の資料を探していった。 彼女自身認めるように、また素人でさえ周知のように、古来から魔女と月は切っても切れない関係にある。 なので、蔵書の中に月の資料は無尽蔵にあった。 それをひたすら開いては積み上げていくわけで、黴臭い要塞が出来上がるのにたいした時間は掛からなかった。 その中でも、特に重要と思われる本は机に開いて飾った。やはり精緻なイラストや写真が掲載されているものは目に留まりやすい。月に関する魔導書も同様だ。そこには、パチュリーが知っている月がそのままの姿で載っている。 次に、文章系の資料を漁ってみる。とはいえ、過去の文人の極めて優れた物語や詩、あるいは哲学は、結局の所、月を自分の好きなように解釈してまとめ上げたものだから、本当の月とはいえるものではない。それらは各々の「本当」ではあっても、客観的に見た事実ではないからだ。 次に、月のデータを測定した本や、月の物理法則を客観的に記した本を漁る。これらは確かに月の実像を描き出してはいた。しかしながら、その尺度が時代によってまちまちなのが面倒くさかったし、なにより偽の月が本当の月とまったく同じ質量・サイズではないとは限らないのだ。確固としたサンプルもないのに比較することなど不可能だった。 それでもパチュリーは、ひたすらに本を漁り、ページを捲った。 なんども目を擦り、干したブルーベリーを口に放り込み、自分で入れたさらに不味い――有名なレシピ通りにやったのにうまくいかなくて、彼女は酷く腹を立てた――紅茶を啜りながら。時折咳をしながら。 魔理沙の意地の悪い笑顔を思い浮かべるたびに、それを掻き消しながら。 帰ってくるまでに、あいつをやりこめる方法を見つけなければならない。 それでも、何処かに求める知識はあるはずだった。 ここは知識の尽きない図書館なのだから。 無数の本と出会い、再会し、別れた。 自分でも知識を統合し、絵や文章を書いてもみた。 トイレに入っている時も本にかじりついた。 浮遊する中空の泡風呂に浸かり、ボディブラシで肌を擦りながら、月面儀のクレーターをなぞっていた。 歯を磨きながら、洗面所の鏡に月の写真を貼り付けた。 魔法を使えばいいのに、無理して沢山の本を抱きかかえて、その辺に転がった本に蹴躓いて転がって本の下敷きになって打撲傷を作って、うまく巻けない包帯と格闘しながら、それでもページを捲った。 ……実はこれらのことは特筆すべきことでもなく、パチュリーにとってはごくごく当たり前の日常だった。結局の所、彼女は二十四時間、常に本と寝食を共にしていたのだから。今はただ、小悪魔がいなかったり、呼んでも十六夜咲夜が来なかったりするだけのことで。 パチュリー自身は当然のようにそう思っていた。 そうでなければならなかった。 普段通りということは、すなわちここで全てが満ち足りているということだ。 ここにない知識はないということだ。 そうでなければならなかった。 確かに、それは間違いではなかった。 日常でなければならないと願っている、 ――パチュリー自身がいることをのぞいて。 時を告げるのは太陽と月であって、時計ではない。 太陽と月は身体の内部で感じられるけれど、時計は視覚でしか確認できないからだ。そして視覚は常々惑わされる。人を惑わす魔女がそう思うのだから間違いはない。 太陽も月も失って闇に籠もる少女は、だから今、時間を失っていた。 あの騒々しい二人が腰掛けていた時間が、ほんのちょっと前にも、ずっとずっと、何千年前にも感じられていた。三人の茶会の席は誰も片づける人がいないのでそのままだ。燭台の光を受けて、自分のカップに残ったお茶が赤茶色の光を揺らめかせている。 パチュリーはベッドにいた。 背中に枕を入れ、半身は背もたれに委ねて。 目の前には月だらけの机。本で出来た月の砦があった。 愛用のベッドを魔法で呼び寄せたのだ。 机に飾られた本には、そのそれぞれにまぁるい月が浮かんでいた。 真っ白で傷一つ無い指が、ゆっくりと照準を合わせる。 「月、」 指さす、 「月、」 右から順番に指さす、 「月」 一つずつ指さす、 「あれも月、」 羊を数えるように指さす、 「あれも、月、」 呪文を唱えるように指さしていく、 「月」 それでも月は無くならない、むしろ増えていく、 「つき――――」 無数の本がめくれて、指を差してくれと懇願する、 月はここにあるのだと、 これが、これこそが真実の月なのだと。 でも、 パチュリーの人差し指が力無く折れ曲がっていく、 飽いてしまったかのように。無駄であると認めるかのように。 そのどれもが真実でありながら、 そのどれもが本当の月と知りながら。 そのどれもに――違和感を感じてしまう。 パチュリーは、その指をゆっくりと、ゆっくりと差し上げて、小さく魔法の言葉を紡いだ。 『高貴なる白帝よ、月域より天蓋へ』 途端に、図書館全部が優しい光に包まれた。 月が現出した。 パチュリーが作り上げた、魔法の月。 広大な図書館全部を優しく、まんべんなく包み込む光。 ずっと蝋燭の光に馴れていた瞳がびっくりして、瞳孔が猫の目のようにきゅぅと小さくなる。そうしてからパチュリーが、その月をまじまじと眺める。 どの資料にも載っている、 どの詩歌にも朗々と詠まれた、 どの人間も妖怪も焦がれるような、完璧な月。 それでも―― 違うのだ。 これは、本当の月ではない。 何処かに違和感を感じる。 自分の知識は完璧であるはずなのに。 これでは、魔理沙を納得させられない。 新月のような暗黒が、胸の奥にぽっかり浮いている。ちっぽけな徒雲。 術者の期待に応えられなかった魔法は、幻想になれぬままにすぅっと消えていく。 何故? どうして? 何故? ――ああ、そうか。 自分はきっと煮詰まっているのだ。掻き混ぜすぎたシチューのように。 いうではないか、一日ねかせたシチューのほうが遥かに美味しいと。 多分、 多分きっと、時間をおけば答えは出てくる。 どうせこの夜は長いのだ。 もし私が時間を失ってしまっていて、外がいつの間にか昼になっていたとしても、 またあの夜に目覚めればいいだけのことだ。 どうせ魔理沙とアリスにも「本当の月」なんて取り戻せるはずはない。魔理沙だっていっていたじゃない。この問いに答えはないと。自分は答えられないのだと。 だったら……この勝負は自分の勝ちだ。 ここには、この図書館には完璧な知識がある。必ず答えがある。いつか絶対に辿り着く。 それを魔理沙に、ついでにアリスにも教えてあげられる。 そのために今は――少し眠ろう。 答えは図書館に、自分の中にある。 だから少し、少しだけ眠ろう。 ……そうして、パチュリーは瞳を閉じた。眠気が毛布を優しく掛けてくる気がした。 ベッドには本をおいていない。真っ白なシーツにくるまれた布団は柔らかい。 使い慣れたベッドが、いつもより少しだけ……広く感じた。 夢の中で、パチュリーは月に腰掛けていた。その月はあまり大きくなく、ピエロが使う玉乗り用の球そっくりのサイズだった。それはまるで座り馴れた椅子だった。ひんやりとする感触もざらざらとする手触りも、これこそ本当の月だという確信をパチュリーに与えていた。ほら、延々と考えあぐねることなんてなかった。自分だけがこれを見つけられたのだから。自分の乗った月は円運動をしていて、その中心点には青くて大きな地球儀。悔しそうな魔理沙があぐらを掻き腕を組んで、こちらをじっと睨んでいた。背後にはアリスが肩を竦めて「やっぱりね」という表情を浮かべている。そうしながら自分達は、宇宙をくるくるくるくると回っていた。無茶な努力をさせられた気がしたけれど、今はすごく良い気分だった。青黒い宇宙の中、太陽を中心にしていくつもの惑星が軌道を描く中、星々が地上とは違う星座を描く中。パチュリーはその全てを感じ取っていた。そういえばレミィは何処にいるのだろう。なんだかこの光景を見せてあげたかった。でも、太陽を遮るもののない世界に吸血鬼は来られないかもしれない。だったら、咲夜でも、門番でも、妹様でも、いや、自分が使役する小悪魔でもいい。多分、この真実を教えてあげたら、悪かった機嫌も一瞬で吹き飛んでしまうだろう。だって、こんなに気持ちいいのだから。 でも、回転運動というのはあまり続けると目が回ってしまう。氷上の三回転半は高く評価されるのに、無限の回転運動になると意味を失ってただ体に不調を来してしまうのだ。知性とはなんといい加減で贅沢な存在なのだろう。そう考えつつパチュリーは、少しふらつく足下に気をつけながら、月の裏側に掛けられた梯子をゆっくりと降り、愛用のベッドに寝転がった。 ベッドの横にはあのアーチ型の窓がそのままの状態で浮かんでいた。鎧戸なんてもう数百年も前から閉ざされたような感じで、開けるのに一苦労しそうな代物だ。勿論パチュリーがぱちんと指を鳴らすだけで一発解放なのだが、そうしてしまうのが今は何故か勿体ない気がした。 でも、もういいのだ。 本当の月を見つけたのだから。魔理沙やアリスに悔しそうな表情をさせたのだから。 半身を起こし、膝立ちになり、窓に手を掛けた。 少しだけ、ほんの少しだけ力を籠める。 やっぱり窓は固くて、簡単には開かないけれど、 思ったよりもスムーズに、ほんの僅かな軋みと共に窓は、ゆっくりと、ゆっくりと開き―― 月が、あった。 真っ白い光。 「あぁ」 溜息とも、 感嘆とも、 深呼吸ともとれる、吐息。 世界を真っ白に染めて、パチュリーも更に真っ白になるのに、その頬だけが上気してほんのり朱に染まっている。 いつもそこにあったような、でもなかったような、そんな満月が、空に掛かっていた。 これがいつもの月だ。 間違いない。私はこの月を知っている。よく知っている。 永きに渡って、求める者に魔法を授けてきた月。 全ての言葉が目指した月。 全ての絵画が羨んだ月。 全ての信仰を受け止める月。 空想を幻想に昇華する月。 未来を歴史へ押し流す月。 その全てを、パチュリーは知っていた。 起動シーケンスの立ち上がったオペレーションシステムのように、魔女の動脈を知識という酸素が瞬時に満たし、少女の静脈から魔力という二酸化炭素を解き放つ。 パチュリー・ノーレッジからパチュリー・ノーレッジへと固定する月。 幻想郷という甘い檻に繋がれる瞬間。 自分の中の魔法力の高まりを感じながら、 少女は月に向かって両手を差し伸べ、 久々の夜気に肺を膨らませて、 申し訳のように小さな咳をした。 ――よく見ると、月に二つの黒点がかかっている。 それは徐々に大きくなっていた。こちらに向かって飛んでくるようだ。 紫の髪の少女にはその正体が解っている。だって、彼女に解らないことなんてこの世界にはないのだから。 自然と零れる笑み。変な気持ちだった。 何故自分はこんなに照れているんだろう。 何故、こんなによくわからない気持ちよさに揺られているんだろう。 でも、大丈夫。私に解らないことなんてない。いままでも、これからも。 私は何でも知っているのだから。 このあと、あの騒々しい二つの影が、例によってくだらない問題や言葉を投げつけた挙げ句、へんてこな理由をつけては、やれ月見だ酒宴だと、自分の手を引いて夜空に連れ出すことも、当然知っている。知っているのだから。 本当の月の光に照らされながら、少女は輝く。 そう――私は何でも知っているのだから。 (初出 twirl-lock発行「霊偲志異2」) |
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