竹取銀河



 微睡み。
 眠っているのか起きているのか、その境界が曖昧な瞬間。
 誰かが呼んでいるような気がした。
 そちらの方向に顔を向ける。


 澄明な音が連鎖する。
 白金珠が大理石の上をてんてんてんと跳ねていく。
 硬い鉱物で構成されているというのに、床に円を描いて響いていく波紋が、ひとつ、ふたつ、みっつ。ベクタースキャンのようにしっかりと描かれては夢幻のように去る。
 一つ目の音が左方後方から、二つ目が頭上から、三つ目が己の身体を透過して。
 紋様は可視の立体音響となり、躯自体が音叉となって響き合う。
 天を見上げれば空を覆うのは巨大な大樹の影。
 葉と葉の間から降り注ぐ木漏れ日は、白く染まった銀河の雫だ。
 転がっていく珠を追って歩く。
 自分の長い衣の裾が床を撫でている。


 珠がゆっくり止まった。
 ようやく追いついて、
 拾い上げようとして――
 小さな自分に掛かる大きな影を感じた。
 気のせいだろうか。
 微笑のような表情を浮かべている気がした――

       ☆

 覚醒。
 見上げれば、見慣れた薄暗い天井がある。
 もう数え切れない回数見上げてきた眺め。幾分固い枕の上。
 だだっ広い寝室の中央の、自分の布団の上。
 布団の下から何畳もの畳が規則正しく部屋の隅へと広がっている。
 その秩序が、何故かいつもより霞んで見える。
 目元から頬に感じる微かな違和感。
 これはなんだろう。
 体をゆっくりと起こし、覚束ない指先でそこを撫でる。
 ……濡れている。
  そこに一筋の河がある。
 竹林がうっすら通す秋の日差しが、僅かに輝かせる須臾の河。
「泣いてたのかしら……」
 身支度の為いつものように永琳を呼ぶ。襖を開けるなり彼女は目を丸くした。
「どうしました輝夜さま。体のお加減でも悪くなさったんですか?」
「いまさら心配する事じゃないでしょ、それは」
 苦笑しながら、目尻の涙を拭う。
「よく分からないんだけど、寝ている間に泣いていたみたい。そんな悲しい夢を見た訳じゃないのにね」
「なんだ、そうですか。またあの不死人間に毒でも盛られたのかと思いましたよ」
「何百年相手をしてると思っているの? そういう遣り方では私を倒せないと、さすがの妹紅も学習しているでしょうよ」
「いえ、ありのすさびに姫様が自分で呷ったのかなと」
「あー、永琳?」
「適当に苦しんでそのうち気分爽快になる毒ならいつでも作りますから、変な気まぐれを起こさないでくださいね」
「それは単なる薬じゃないのかしら?」


「それはあれだな……いわゆる胡椒の夢を見たんだ。ひらひら舞う蝶が胡椒を撒きながらあちこち飛び回って、とても目が開けられなくなって目が覚めたんだなきっと」
「それをいうなら胡蝶の夢でしょう? それに粉を撒きながら飛ぶのは毒蛾。誘蛾灯に引っ張られるように行動するのは魔理沙」
「失敬な」
「失礼なのはあなた達二人ともよ」
 お茶を傾けている霊夢と魔理沙を眺めながら、蓬莱山輝夜は頬杖をついて呆れた。
 竹藪の中の永遠亭の、一室。庭を向いて開かれた障子の向こうには無限にも見える竹藪が連なり、時折白い兎たちが無邪気に飛び回っている。時は夜。あちらこちらの石灯籠に蝋燭が灯され、丸い円を描いた炎がゆらゆらと揺れていた。
「なんで今夜も来てるの」
「理由なんて無い。来たかったからな」
「私は連れてこられたの。魔理沙は気に入るとどこにでも勝手に出入りするから気を付けた方がいいわよ」
「もう手遅れだがな」
 輝夜の横には彼女のペットである鈴仙・U・イナバが敵意を隠さない視線で二人を警戒している。
「輝夜さま、こんな奴ら追い返しちゃいましょうよ。五月蠅いばかりで兎たちも気を立てていますから」
「そうねぇ。でもイナバ、元気なのは結構なことじゃないかしら? 貴女も兎たちに混じってきたらどう?」
「輝夜さまぁ」
 何事についてもやる気のない言葉を発する輝夜。今朝から万事こんな感じだ。永夜返しの一件以来というもの負の感情は影を潜め、このところ結構元気に出歩いたりもしていたのだが……今朝の涙を思い出すと、まるで再び千年の檻に閉じこもったような憂鬱な気分に包まれていたかのような――
(いや、少し違う)
 輝夜は考える。今の自分の感情は、これまでに経験したことがないたぐいの……或いは、とうの昔に忘却した記憶の中にしかないものではないのか。だからこんなに胸にぽっかりと、そこだけ何もないような錯覚に陥っているのではないのか。高い高い標高を誇る山頂にも、遠い昔、海の白い波が押し寄せていた時代があったのと同じように。
 万能頭脳を誇る八意永琳もまた、心は輝夜と同じ永遠人だから、姫の問いに対する明快な回答は導き出せなかった。
 そこで、今夜もたまたまやってきた巫女と魔法使いに、今朝の夢について聞いてみたのだが。
「まぁ、起きてみたら忘れてしまった夢ってのはよくあるな。内容を覚えていないのに気づくと悔しいから、敢えて忘れるころにしてるけど」
「起きてたら泣いてたってのは私はないわね。大体ほとんど泣かないし。欠伸した時ぐらいかな」
「なんて情緒に欠ける巫女だ」
「魔理沙はしょっちゅうだけどね。弾幕で負けた時の悔し涙」
「……もう泣かなくていいように、ここで徹底的にやっつけてもいいんだぜ、霊夢」
「もー。輝夜さまの前で騒々しくしないでよ!」
 雰囲気が剣呑に成りつつある頃に襖が開き、永琳がお盆で茶を運んできた。
「はい、皆さん毒抜きのドクダミ茶ですよ」
「前振りがいるのかしらね、それは」
「一応ね」
 立ち上る湯気を楽しみながら、皆一様に茶碗を傾ける。少し寒い夜気が心地よい。
 風の音がお茶請け代わりだった。悔しいが、うちのお茶より美味しいかもしれない……霊夢はそう思った。そう思ったところで、はたと膝を打った。
「ああそうだ、姫様」
「……何?」
「前にどこかで聞いたことがあるわ。不意の涙って、他人の分の涙なんじゃないかって」
「他人の分?」
「悲しくても泣けない時、泣いてはいけない時にじっと我慢すると、世界の何処かで代わりに泣いてくれる人がいる。だから、その時は我慢できるんだって」
「…………………」
「だからもし、自分が意図せず不意に涙がこぼれ落ちたら、それはきっと他の誰かの涙なのよ。姫様が泣けなかった時に泣いてくれた分の、誰かの涙」
「霊夢にしちゃ哲学的なこというな。正直驚いた」
「どう考えても私の言葉じゃないでしょう? 誰に聞いたのかな……霖乃助さんじゃないし、どっかの本で読んだのかもしれないけれど。ま、幻想郷に流れ着くのは物や人だけじゃなくて言葉もそうだろうから、何処かの誰かの独り言なのかもしれないわね」
「…………誰かの分の、涙……」
 輝夜は永琳の顔を見、
 永琳は輝夜をそっと見遣った。
 千年の長きにわたって続いた、竹藪の中の孤独。
 笹の隙間から差し込む月光を恐る恐る見上げた日々。
 感情は極限にまですり減り、永遠人同士で死を遣り取りし、狂気ばかりを積み上げていった永劫の時間。
 それらの日々、確かに涙とは無縁だった。
 もう自分は砕けぬ石の如く変わらないのだと、そう思っていた。竹林がその生育の早さを以て、同じ姿を永遠に留めるのと同じように。
 だけど今、自分はこうして解放され、普通に天を仰ぐことが出来る。
 一瞬と永遠が交差したあの夜は忘れられないけれど、もう過去の記憶に埋没しつつある。
 それから後の記憶が次から次へと……取るにたりないこと、すぐに通りすぎてしまう時間の欠片。無数の断片が自分の世界を取り囲み始めている。
 押しかけてくる巫女や魔法使いも、永遠亭で共に暮らす者たちもそうだ。
 それがもう当たり前になった。仮初めであってもゆるやかに、時間を取り戻した。
 いつか必ず失う不確定な、でも少しばかり充足に満ちたこの時間を。
 だから、泣いた。
 何かを失ってしまった誰かの代わりに。
 これから先も、私は不意に涙をこぼすことがあるのだろうか。
 その時、自分の時間はまだ生きている……ほかの地上人や、月の民と同じように。
 思惟を持つ存在として。
 永遠という狂気を押さえ込んで。溶け合って。
「それなりに面白いことを宣う巫女さんね」
「霊夢は面白いことしか言わないぜ。いつもどこか変だからな。頭も春っぽいし」
「あんたにいわれたくはないわよ。滑稽が黒服着て箒に座って空飛んでいるくせに」
「私のことは『具現化する可憐』と呼んでくれよな」
「ほら滑稽」
 輝夜が袖で口許を押さえて笑う。そのまま、ゆっくりと立ち上がった。
「すくなくとも、巫女さんの方の言葉に嘘はなさそうね」
「滑稽というところは同意しますよ」とは永琳。
 すぐに噴火しようとする魔理沙を霊夢が羽交い締めにする。暴れるなとイナバが怒鳴る。何事かと兎たちが集まってくる。それを永琳が見守っている。
 今朝、胸にぽっかりとあいた穴は、いつの間にか埋まっていた。本当は埋まっている気がするだけで、錯覚なのかもしれない。
 ――でも、それでも構わない。
 そんな気がした。
 かつて咎を負っていた姫はたおやかに笑い、縁側に出て夜空を仰いだ。
 今日は新月。月が出ていない代わりに、星々が大河をうねらせている。
 月だけを仰ぐために夜を見上げた時間は終わった。それが仮初めであろうとしても、私はこの時間を愛したい。そう心から思う。
「……博麗神社の春は、少しだけ見てみたい気もするわね」
「どうせここの人たちも押しかけてくるんでしょ? 年中無休だから来ればいいんじゃない? お賽銭にも期待しないから安心して」
「お心遣い感謝するわ」
 そして――
 手には蓬莱の玉の枝。秘められし月の宝、未来への意思。
「少し、翔ぶわ」


 まるで夜空を抱くように手を広げると、月の子は夜空へ舞い上がる。
 賛美するかのように風がながれ、無数の笹の葉がこすれあって歌声を上げる。
 さざなみのように打ち寄せる。
 至宝を振る度、闇の天蓋に星々の線が描かれては消えていく。
 闇に星々の河が描かれ、次第に夜が星明かりで光輝に満ち満ちてゆく。
 そして……今朝そうしたように、濡れていた瞳の端をそっと押さえ、その指先を煌めく天の河へと解き放つ。
 いつかどこかで誰かが流した私の涙も、
 きっとこの無数の星空のなかにある。
 だから、今日ここで私が流した誰かの涙よ、
 新しき星となって輝く夜となれ。
 誰も否定せずに、誰にも負けずに輝け。
 月を畏れずに輝け。
 念じながら、神の領域へと手を差し伸べる。
 指先から離れた光は、無数の星々のなかに飛び去り、入り交じってなお一層輝く。
 そしてそれは、輝夜の夢の中でも再び輝くことだろう。
 そこは、
 枝に無数の珠を成して立つ蓬莱の大樹、
 白く渦巻きながら全てを飲み込み、全てを生み出す――大銀河。



(初出 第二回東方最萌トーナメント)

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